ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第345回)

2021-12-13 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(1)概観
 アフガニスタン社会主義革命の翌年、1979年に発生したのが、隣国イランにおけるイスラーム共和革命(以下、イラン革命)である。これは時期にのみ注目すれば、連続革命のように見えるが、革命の実質は正反対と言えるものであり、隣国同士の両革命にイデオロギー的な連続性は認められない。
 すなわち、イランにおける革命は保守的なイスラーム主義のイデオロギーに基づき、当時の君主制を打倒し、イスラーム法に基づく共和体制の樹立を目指した革命であり、宗教者が中心的な役割を果たした点においても、それまでの世界歴史上見られなかった新しいタイプの革命であった。
 近代におけるイスラーム主義に基づく革命的な事象としては、イラン革命に先立つこと約100年前のスーダンにおけるマフディ―革命がある(詳しくは、拙稿参照)。
 これは当時、イギリスの間接支配下にあったエジプトの支配を受けていたスーダンで発生したある種の独立革命であったが、このマフディ体制(スンナ派)は、中国における太平天国の乱にも似て、前近代的な価値観に基づく宗教運動の帰結であったため、時代的には「近代」であったが、イラン革命の先駆けとは言い難い。
 その点、イラン革命は、近代主義と鋭く矛盾するイスラームの復興という保守的な側面とともに、専制的な君主制から共和制への移行という革新的な側面とが複合された「革命」であった。そのため、その発生力学や革命後の展開にも、複雑な変遷がある。
 そうした詳細は後に見るとして、ひとまず歴史的に概観すれば、イランは、20世紀に入って、いずれもロシア革命に触発された立憲革命社会主義革命を経験したが、社会主義革命は北部のギーラーン地方のみの地方的な革命に終始していたことは以前に見た。
 社会主義運動自体は、その後も1920年創立のイラン共産党によって継承され、第二次大戦下の1941年には共産党を核とするより包括的な左派政党として、イラン人民党(トゥーデ党)が結党された。この党は戦中戦後にかけて党勢を拡大したが、49年の皇帝暗殺未遂事件を口実に非合法化された。
 その後、トゥーデ党は50年代に短期間合法化されるが、またすぐに非合法化されて、地下と海外での活動に追い込まれた。こうした経緯から、イランでは、アフガニスタンにおけるように社会主義勢力が大きく台頭する余地はなかった。
 他方、1950年代には、ある程度の民主化改革によって非共産系の民族主義的な左派政党連合・民族戦線が政権勢力として台頭し、石油産業国有化を軸とする社会主義に傾斜した施策を進めるが、イランの石油利権の死守を図る米欧の警戒を招き、アメリカが背後で糸を引くクーデターにより、民族戦線政府は打倒された。
 こうした状況下で、1925年の樹立以来、二代にわたって存続していたパフラヴィ―朝は、久方ぶりに登場したイラン系民族の王朝として、民族主義と近代主義を組み合わせた反共・親西側政策を追求し、特に1963年以降は、皇帝の絶対的な権力を背景に、物心両面での脱イスラーム・近代化政策を推進していった。
 そのような専制君主制と結びついた急進的な近代的社会経済開発路線―ある種の比喩として「白色革命」とも称された―に対する反作用として、イラン伝統のシーア派(十二イマーム派)教義に基づくイスラーム主義が台頭し、70年代後半には革命運動に発展していくことになる。

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近代革命の社会力学(連載第344回)

2021-12-10 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(8)革命挫折の余波
 1978年アフガニスタン社会主義革命は、独立革命としての性格を持った南イエメンの事例を除けば、イスラーム圏における史上初の(現時点でも唯一の)マルクス‐レーニン主義標榜勢力による社会主義革命というで、イスラーム圏全体において大きな出来事であったわりに、革命それ自体の波及効果はほとんど見られなかったと言ってよい。
 もっとも、翌年、隣国イランでも革命が勃発したが、これはイスラーム勢力による共和革命であり、アフガニスタンとは正反対の理念を伴う革命となった。時期的には、前年のアフガニスタンでの革命が何らかの動的な刺激となった可能性はあるものの、イデオロギー的には全く影響関係が見られない。
 むしろ、アフガニスタン社会主義革命は、革命それ自体よりも、その悲劇的な挫折が、アフガニスタンはもとより、間接的な形で世界秩序の変動にまで影響を及ぼした事例であったと言える。
 実際、それは、革命後、支配政党の歴代指導者4人のうち3人までがクーデター、外国軍の侵攻、過激勢力による武力制圧と、それぞれに異なった状況下で殺害されるという異常な経過を辿って反革命勢力の全面勝利に終わった。
 このことは、1960年代の連続革命で誕生したアラブ世界の社会主義政権が独裁化し、行き詰まりを見せる中で、79年のイランにおけるイスラーム革命の成功と相まって、社会主義に取って代わるイデオロギーとしてイスラーム主義が風靡し、イスラーム世界全体での宗教保守化現象を招く契機となった。
 しかし、アフガニスタンではそれだけに終わらず、最終的に、近代化そのものにも否定的なイスラーム過激勢力の支配にまで反動化していくという特異な歴史の巻き戻し現象に行き着くこととなった。
 その意味では、アフガニスタン社会主義革命の挫折は、社会主義革命のみならず、その前段階であった1973年共和革命、さらには旧王制時代の晩期にある程度まで進行していた近代化そのものも遡って取り消し、中世イスラーム首長制の時代まで逆行していくかのような状況を産み出したのであった。
 同時に、ソ連軍に1万人近い戦死者を出したアフガニスタン内戦支援の完全な失敗は、ソ連自身の体制にも大きな政治的・経済的な負債を残した。その点で、ソ連にとってのベトナム戦争とも称されたアフガニスタン戦争は、ベトナム戦争より人的損失は少なかったにもかかわらず、敗戦後のアメリカ以上に、敗戦後のソ連にとっては打撃となった。
 その結果、直接的ではないにせよ、1989年におけるソ連軍のアフガニスタン撤退からわずか二年後の体制崩壊(ソヴィエト連邦解体革命)の間接要因の一つとなったという限りでは、西アジア辺境の地・アフガニスタンにおける社会主義革命の挫折が、間接的な形で、冷戦時代の終結という世界歴史上の大きな変動をもたらしたと言える。
 また、ムジャーヒディーンに参加したアラブ人義勇兵の一部は、内戦終結後、彼らを用済みとみなしたアメリカから見捨てられる中、米欧を標的とした組織的なテロ活動に反転し、現在も進行中の21世紀前半を、かつての冷戦に代わる対テロ戦争の構図に書き換える契機を作り出した。これは、アフガニスタン革命挫折の最悪の副産物である。

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近代革命の社会力学(連載第343回)

2021-12-09 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(7)長期内戦から体制崩壊へ
 ソ連の軍事介入によって成立した新たなカルマル政権を主導した旗派は元来、穏健派であり、ロシア革命当時のメンシェヴィキに似て、そもそも社会主義革命を時期尚早とする立場であったから、軍事介入前の急進的な政策は緩和されることになった。とはいえ、この政権は名実ともにソ連の傀儡であり、政策決定はモスクワの関与の下に行われていた。
 ソ連及びカルマル政権の緊急的課題は、拡大中の地方の反乱を鎮圧して、早期に政権を安定化させ、ソ連軍を引き揚げることであったが、アメリカに拮抗する戦力を擁したソ連をもってしても、山岳ゲリラ戦に長けた武装民兵を相手に長期の苦戦を強いられることになる。
 それに加えて、ソ連軍の侵攻に激しく反発したアメリカが「敵の敵は味方」の論理に従い、本来イデオロギー的に相容れないイスラーム勢力側を支援したため、武装民兵勢力の軍事力が増強されたこと、「聖戦(ジハード)」のプロパガンダ宣伝により、中東からも多数のアラブ人義勇兵らが馳せ参じたことで、地方反乱は本格的な内戦へと進展していった。
 一方、ムジャーヒディーン(ジハード遂行者)と総称された反乱勢力は、アフガニスタンの多民族・多部族社会の現実を反映して、多数の派閥に分裂し、まとまりを欠いていたため、容易に決着がつかず、アフガニスタンは、1979年のソ連軍介入から89年のソ連軍撤退まで、10年に及ぶ長期の内戦に突入した。この間、従前ある程度整備されつつあった近代的社会基盤は破壊され、社会主義計画経済を展開する土台も喪失していく。
 カルマルの指導力に限界を見て取ったソ連は1986年、今度は政治介入してカルマルを引退させ、同じ旗派のモハマド・ナジブッラ―をPDPA書記長に据えた。医師出身のナジブッラーは人民派の独裁期には亡命に追い込まれたが、ソ連軍侵攻後に帰国し、カルマル政権下では秘密警察・国家諜報局(KHAD)長官として政治犯の取締りに当たっていた。
 KHADはソ連のKGBに匹敵する政治保安機関であり、ナジブッラー長官の下で同機関は肥大化し、大量人権侵害が断行されていた。ソ連がこのような恐怖政治を象徴する人物を抜擢したのは、撤退を視野に入れていたソ連側のゴルバチョフ新政権が、軍事介入過程及びその後の政権操作でも重要な役割を果たしていたKGBとも直結する保安畑の人間なら強力な指導性を発揮できると計算したからであった。
 こうした強面の経歴にもかかわらず、ナジブッラ―政権はソ連軍撤退に備え、内戦終結に向けた国民和解を最大課題とした。彼は1987年の憲法改正により、新設された大統領に就任するとともに、PDPAの一党支配制を放棄、90年の憲法再改正により、ソ連解体に先駆けて共産主義も放棄し、イスラームを国教として規定した。
 これは革命勢力による革命の自己放棄とも言える異例の展開であり、ここにアフガニスタン革命はそれを開始したPDPA自身によって幕を引かれたと言える。
 89年のソ連軍撤退に続く91年のソ連崩壊は、PDPA体制そのものの終焉の動因となった。すでに地方の要衝をムジャーヒディーンに押さえられ、首都カブールを中心とする都市国家のような状態にあった政権は92年、内部崩壊する形でナジブッラ―大統領の辞職をもって終焉、代わってムジャーヒディーンの連合政権が全土を制圧した。
 ちなみに、イスラーム連合政権による拘束を恐れたナジブッラ―は辞任後、カブールの国連施設に逃亡して庇護され、事実上の国内亡命の状態にあったが、1996年、連合政権に反対するイスラーム過激勢力・ターリバーンがカブールを落とした際に施設から連行・拘束され、残酷な拷問の末に殺害、市中に晒されるという悲惨な最期を迎えた。

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近代革命の社会力学(連載第342回)

2021-12-07 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(6)権力闘争とソ連の軍事介入
 アフガニスタン「四月革命」は、前年に事実上の分党状態から再統合を果たした人民民主党(PDPA)を中心に実行されたため、本来なら、よりスムーズに革命政権が立ち上がり、始動するはずであったが、そうはならず、熾烈な権力闘争に陥る。
 元来、PDPA内部の対立軸は人民派と旗派の間にあったわけだが、「四月革命」直後の権力闘争は革命の主役であった人民派内部から発生した。というのも、旗派は革命後、完全に粛清されることはなかったものの、その幹部のほとんどは政権中枢から遠ざけられたため、闘争も起こり得なかったからである。
 そのため、権力中枢を掌握した人民派内部での権力闘争が展開されることになるが、中でも、党の共同創設者で党書記長兼初代の革命評議会議長タラキーと、タラキーより一世代下の党幹部で副首相兼外相に就任していたハフィズッラー・アミンの対立である。
 アミンはアメリカ留学経験も持つ教員出身であり、学生を感化させて党員を殖やし、なおかつ軍内にもネットワークを形成するなど、党の組織化に対する貢献が大きく、どちらかと言えばイデオロギーに偏りがちなタラキー対し、実務的な実力者として急速に台頭していた。
 当初は緊密な協力関係にあった両者であったが、飲酒癖や持病を抱えながらタラキーが次第に個人崇拝型の独裁政治に陥っていく中で、アミンとの関係も悪化していった。他方、78年12月に善隣友好条約を締結して革命政権の後ろ盾となっていたソ連は、アミンの手腕を疑問視し、イデオロギー的にソ連に忠実なタラキーを後押ししていた。
 明けて1979年に入ると、地方農村部を拠点に、部族有力者らイスラーム保守勢力の武装反乱が相次ぐようになり、革命政権はソ連軍事顧問団の助言を得て反乱対処に忙殺されるようになるが、成果は上がらない中、同年9月、タラキーが3月に首相に昇格させていたアミンの解任と左遷を告知しようとした会合の後、アミンが党内クーデターを起こし、タラキーを拘束、殺害した(公式発表は病死)。
 これにより、アミンが革命評議会議長兼PDPA書記長として政府と党の頂点に立つこととなった。アミンは当初こそイスラーム保守派を慰撫するため、イスラーム的価値観を尊重する姿勢を見せたが、地方反乱を鎮圧することはできないと見るや、イスラーム保守派の大量処刑を断行するなど、タラキー前政権の統治手法を一層拡張するばかりで、体制を安定化させることはできなかった。
 一方、ソ連は忠臣的なタラキーの殺害に対して憤慨しており、アミン政権との関係が悪化する中、アミンはソ連から離反して隣国イランやパキスタンとの関係構築に動き、アメリカとの関係改善さえ模索しようとし始めた。
 このようなアミンの親西側への外交路線の修正は、それまで直接の軍事介入に消極的だったとされるソ連指導部に最終的な決断を促した。ソ連は79年12月、特殊部隊を動員した軍事作戦(嵐333号作戦)に基づき、アフガニスタンに侵攻し、アミン政権を転覆、アミンを殺害した(公式発表は反逆罪による「処刑」)。
 このように一国の指導者の殺害にまで及ぶ露骨な軍事介入作戦を展開してまで、ソ連がアフガニスタンに深入りしたのは、すでに中央アジア一帯を領土に取り込んでいたソ連としては、中央アジアに接続するアフガニスタンを戦略的要衝として確保し、東のモンゴルのような安定的な衛星国として傀儡化しようという戦略的な意図によるものである。
 歴史的に見ても、ロシアは革命前の帝政時代から、イランを含めた西アジアへの勢力拡大を狙い、当時の大英帝国と覇権を争う「グレートゲーム」を展開していたところであり、ソ連時代におけるアフガニスタンへの並々ならぬ利害関心も、こうした覇権追求の社会主義版と言えるものであった。
 軍事介入後のソ連はタラキーとアミンという指導者の相次ぐ死で凋落した人民派に見切りをつけ、やむを得ず旗派擁立策に切り替えていた。そのため、人民派政権によりチェコスロヴァキア大使に左遷されていた旗派指導者のバブラク・カルマルを呼び戻す形で、新政権のトップに据えた。
 そのため、この軍事介入以降のPDPA政権は旗派政権となる。この経過は、言ってみれば、ロシア革命を主導したボリシェヴィキが没落し、代わって穏健派のメンシェヴィキが政権に就いたようなものであり、革命の性格にも変化が生じる。

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近代革命の社会力学(連載第341回)

2021-12-06 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(5)1978年社会主義革命
 1973年共和革命によって成立したダーウード政権が次第にダーウード大統領の個人独裁に傾斜すると、最も敏感な反作用を示したのは、人民民主党(PDPA)であった。PDPAは以前の回でも見たように、急進的な人民派と穏健な旗派とに事実上分党されていたところ、後者は共和革命にも協力し、政権にも参加しながら、次第に排除されていた。
 そうした中、1978年4月、一人の旗派幹部が暗殺される事件があった。この事件の真相は不明であり、PDPAの内部犯行説から、ソ連、アメリカ、イランの関与説まで諸説林立状態であったが、PDPAではダーウード政権が関与したものと宣伝した。
 この宣伝工作が功を奏し、事件後、PDPA支持者による1万人以上が参加する抗議デモが首都カブールで発生した。これに危機感を強めたダーウード政権はPDPAに対する大弾圧に乗り出し、その主要幹部を拘束・投獄した。
 しかし、この強権発動はかえって逆効果となる。この頃には、軍部内にもPDPAが深く浸透していたため、獄中の党幹部の指令に基づき、軍部のPDPA支持派勢力がクーデター決起し、ダーウード政権の打倒に成功した。
 これは形態としては軍事クーデターであったが、その後、釈放されたPDPA幹部を中心に社会主義体制が樹立されたため、「四月革命」と呼ばれる革命に進展した。それにしても、暗殺事件の4月17日から、革命の27日‐28日までわずか10日余りの電撃的な政変であったことから、すべて事前に計画されていた可能性もなしとしない。
 実際、革命を主導したのは、暗殺された幹部が属した旗派ではなく、人民派であった。もっとも、党組織はソ連の仲介を得て前年度に再統合を果たしていたが、多分にして形式的な再統合であり、革命の時点では人民派が優位にあった。
 そのため、ヌール・ムハンマド・タラキー党書記長を議長とする革命評議会は人民派が中心となり、急進的な政策を追求する。それを象徴するのが、反革命派に対する報復である。ダーウード大統領とその家族も殺害されたほか、旧王族も多数が処刑または投獄された。
 君主制は共和革命によりすでに廃されていたにもかかわらず、改めて旧王族が標的となったのは、革命政権がダーウードも属していたバーラクザイ部族の支配の終焉を宣伝するための象徴的な報復であったが、政権はさらに過激化し、1978年‐79年の間、社会主義に反対する宗教保守派などおよそ2万7千人を処刑したと推計されている。
 経済政策面でも、人民派がかねて最大の焦点としていた農地改革を展開し、部族有力者の所有する土地の無償接収と再分配を断行したが、その性急さのため、農業生産力の低下という逆効果をもたらした。このことは、地方農民にも反政府感情を植え付け、内戦の端緒ともなる。
 一方、社会政策面でのよりポジティブな施策として、女性の権利の向上がある。PDPAは両性平等を政策化し、封建的なイスラーム社会習慣の打破を目指した。その象徴として、革命評議会のメンバーに選出され、後に同副議長を務めるアナヒタ・ラテブザードのような女性幹部の存在があった。ただし、こうした平等政策は首都カブールに偏り、間もなく始まる内戦の拠点となる地方農村には十分に及ばなかった。

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民事弾圧を許した「憲法の番人」

2021-12-06 | 時評

NHKが映らないテレビの所有者であっても、NHKとの受信契約・受信料支払の義務がある━。そんなトンデモ判決を今月2日、「憲法の番人」たる最高裁判所が発した。

放送法はNHKの放送を受信できるテレビの設置者にはNHKとの受信契約締結の義務があると規定しているところ、この事件の原告はNHKの放送信号を減衰するフィルターを組み込んだ特殊なテレビを購入・所有していたが、最高裁はフィルターを外すなどすれば受信できると認定した二審高裁判決を支持したのである。

不覚にも知らずにいたのだが、最高裁は2017年の段階で、NHKとの受信契約を法的義務とみなし、NHKからの契約申し込みを承諾しない相手に対して、NHKは裁判に訴えて承諾を命ずる判決を得て契約を強制的に成立させることができるという強硬な判決を発していた。今般判決は、これをさらに拡大し、技術的にNHKを受信できなくしたテレビの所有者であっても契約義務ありと判断したものである。

これらの司法判断によって、NHKは、当面受信できなくてもテレビを技術的に受信可能な状態に工作させたうえで強制的に受信契約を結ばせることまで可能となったわけである。このようなむたいな理屈が近年NHKが値下げして契約率向上を狙う衛星契約にも拡大されれば、問題はいっそう深刻化する。

これは、受信料の強制徴収という経済問題にとどまらず、NHKと強制的に契約させることにより、どの媒体を通じて情報を取得するかに関する市民の選択権を奪う権利をNHKに与えたことになるという点で、広い意味での言論の自由に関わる問題である。

現行法上、NHKとの契約拒否者に対して刑事罰を科する規定はさすがに存在しないが、民事訴訟を提起して市民を法廷紛争に巻き込むこともある種の懲罰的対応であって、これはNHK拒否者に対する民事弾圧である。このようなことを容認する「憲法の番人」は人権泥棒に加担していると言っても過言でない。

しかし翻って、それほどにNHK受信料制度を護持したければ、「契約」法理に固執せず―契約は自由が原則であって、「強制契約」はブラックジョーク的な概念矛盾である―、受信料を一種の税金として実際に税金とともに付加徴収すればよいのである。

だが、そこまでするなら、7年前の拙稿で提唱した通り、いっそのこと、日本放送協会:NHKを完全なる日本国営放送:NKHに再編すればよかろう。そうすれば、受信料制度は廃止され、文字通り税金で運営される御用放送局となり、政府与党は堂々と放送内容を統制できるようにもなる。

しかし、政府与党があえてそうしようとない理由も想像はつく。全国50を超す放送局、1万人を超す職員を抱える巨大メディアを国営化すれば、高額とされる職員給与も含め、すべて国庫負担となるからである(増税の口実には使える)。

NHK拒否者を民事弾圧してでも、国民から強制徴収した受信料に支えられた公共放送という名の御用メディアを維持するほうが経済的と打算されているのである。


[追記]
2022年6月、NHKとの受信契約を拒否する者からも割増金を徴収するなど、受信料制度を強化した改正(悪)放送法が成立した。こうした懲罰的割増制度の導入により、民事弾圧性はいよいよ強まった言える。

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近代科学の政治経済史(連載第2回)

2021-12-05 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ

近代科学の出発点を成す地動説。地球は宇宙の中心で静止し、太陽その他の惑星が地球の周囲を周回しているのではなく、地球が他の惑星とともに太陽の周囲を自転・公転しているのであるとする地動説は、その原論を作った学者の名を取って「コペルニクス的転回」と呼ばれるほど、それまでの普遍的な常識を覆す新理論であった。しかし、この理論は、後にカトリック教会によって抑圧されることになる。


地動説と教会当局

 近代科学の出発点に据えられる地動説の原点は元来、ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクスが16世紀前半に構想をまとめた理論であるが、彼自身はその集大成となる主著『天球の回転について』の出版を長く渋り、死の直前1543年になって発表された。
 コペルニクスが出版をためらった理由は不明であるが、宗教上の理由よりも、従来、千年以上にわたって自然哲学上の常識化した定説であった天動説をひっくり返すことによって起きる学界からの猛批判を恐れたものと見られる。
 実際のところ、地動説は後に改めて地動説をより科学的な方法で証明したガリレオ・ガリレイ(以下、通例に従いガリレオと表記)が宗教裁判にかけられたことで、教会当局による禁止学説であったと理解される傾向にあるが、実際のところ、教会が天動説を公式見解としたことはなく、コペルニクスの主著も出版当初は教皇庁から禁書とされることはなかった。
 その点、コペルニクス自身もカトリック聖職者であったが、正式の司祭ではなく、終生下級職にとどまっており、その研究もほぼ科学的な分野に限定されていたことで、教会当局の特段の注意を引くことはなかったものと思われる。
 教会当局が地動説の抑圧に踏み出したのは、コペルニクスの没後、半世紀近くを経た教皇庁の膝元イタリアの司祭兼哲学者ジョルダーノ・ブルーノに対する異端審問が契機であった。ブルーノは当時の哲学者の常道として神学からスタートしているが、次第に汎神論的な宇宙観を提唱するようになり、教会当局から異端視されるようになる。
 ブルーノは天文学者ではなく、哲学者であったが、哲学的考察から宇宙論にも及び、その仮説的な性格から当時はまだマイナー学説であったコペルニクスの地動説を支持しつつ、宇宙の無限性を主張した。このようなブルーノ哲学は教会教義への挑戦とみなされ、ブルーノは異端審問にかけられることになる。
 ただし、ブルーノ告発の理由は、地動説そのものよりも、彼の神学理論や哲学体系全体にその重点があった。ブルーノがカトリック公認修道会ドミニコ会の司祭でもあったということも、身内の反逆として教会の逆鱗に触れる要素であったのだろう。
 結局、ブルーノは1592年に逮捕され、異端審問に付せられることになるが、審判が開始されたのは1600年に入ってからであった。異端審問の常として結論先取りの茶番であったから、自説の撤回に応じない限りは有罪であった。ブルーノは断固撤回を拒否したため、型通りに火刑に処させられた。
 この後、1603年に教皇庁はブルーノの全著作を禁書目録に登載したが、ブルーノも参照したはずのコペルニクスの著作は禁書とされなかった。結局のところ、ブルーノ裁判の時点では、教会当局はまだ地動説そのものの抑圧は意図していなかったということである。
 それが、後に地動説そのものを裁くかのようなガリレオ裁判に踏み込む理由は必ずしも明らかではないが、一つ注目されるのは、ブルーノ裁判の裁判官として有罪を宣告したロベルト・ベラルミーノ枢機卿がガリレオ裁判(第一回)も担当していることである。
 ベラルミーノは保守派の神学者としても知られた理論派の高位聖職者であり、特にプロテスタントの攻勢の中、プロテスタントとの論争の最前線に立ちつつ、カトリック改革に尽力したとして、20世紀に列聖されているほどの人物である。
 当初、地動説そのものに関心のなかった教会当局が地動説自体の抑圧に動くに当たっては、当時第一級の教会イデオローグであったベラルミーノのカトリック改革政策という教会政治上の動向が影響していたと考えられるところである。

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近代革命の社会力学(連載第340回)

2021-12-03 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(4)1973年共和革命
 1963年に首相を退陣に追い込まれたダーウードは王族の政治活動を禁ずる憲法の下で閉塞状態にあったが、その間、停滞するアフガニスタンの近代化を前進させるには、何らかの革命的な政変が必要と考え、機を窺っていた。
 しかし、そうした一個人の意志のみによって革命を起こせるわけではない。その点、1973年の共和革命が成るに当たって、直接的な動因となる出来事は特定できないが、1970年代初頭に広範囲を襲った飢餓に対する政府の無策が国民の怒りを買い、首都でも学生らの抗議活動が盛んになったことは一つの予兆であった。
 ダーウードは、そうした情勢を見極め、相当綿密に計画を立てて、軍部内の支持者と人民民主党旗派の双方と接触していたと見られる。特に軍部に関しては、ダーウード自身、かつて王族将校として部隊を指揮した経験もあったため、内部に少なからぬ支持者を擁していた。
 他方、マルクス‐レーニン主義の人民民主党とは本来、疎遠な関係であったが、同党の事実上の分党はダーウードにとっては追い風であり、都市部エリートに支持者を多く抱える穏健な旗派とは協力関係を築くことができた。
 こうして支持基盤を固めたダーウードは、ザーヒル・シャー国王が海外に滞在していたタイミングを狙い、1973年7月17日に軍部を動かして決起し、政権を掌握した。
 このように、事前の綿密な計画に基づく決起は、それだけに終始すれば単なるクーデターであるが、ダーウードは政権掌握後、君主制を廃して、自らを国家元首とする共和制を樹立したため、この政変は共和革命に進展した。
 ただし、正式に大統領共和制に移行したのは、1977年に至って制定された新憲法下においてであり、それまでの移行期は、王族でもあったダーウードによる君主制的な要素を残した暫定共和制とみなすこともできる。
 ダーウード自身の総括によれば、1973年の革命は「国民的・進歩的革命」と曖昧に規定されていた。「純然たる民主主義」も公約されていたが、これは美辞にとどまり、77年憲法で確立された新体制は強大な権力を持つ大統領を中心に、アフガニスタン国民革命党を翼賛政党とする一党支配型の共和制であった。
 最初期の政権には、革命に協力した旗派が参加し、閣僚の約半数を旗派出身者が占めたため、旗派政権の様相を呈したが、これは多分にして論功行賞人事であり、共産主義者の影響力の拡大を望まないダーウードは次第に旗派を排除していった。
 外交上も、首相時代に軍事面で援助を受けたソ連とは距離を置き、非同盟主義に立ち、当時非同盟運動の旗手だったインドや、隣国パフラヴィー朝イランやナセル没後、親米に舵を切っていたエジプトを含む西アジア・中東の親米イスラーム諸国との関係を深めていった。
 経済的には、全銀行の国有化や経済七か年計画など、社会主義的計画経済の要素を取り込んだ政策によってアフガニスタンの近代的な産業基盤の構築を模索したが、農地改革には手を着けず、封建的な社会構造の解体には及ばなかった。
 全体として、イデオロギー的な軸が曖昧で中途半端なダーウード体制は、皮肉にも新憲法制定後、個人独裁の度を増し、宗教保守派から共産主義者まであらゆる反対分子の抑圧に赴くことになり、体制への反発が高まっていく。

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近代革命の社会力学(連載第339回)

2021-12-02 | 〆近代革命の社会力学

四十九 アフガニスタン社会主義革命

(3)人民民主党の結成と分党
 概して、イスラーム圏では無神論を基本とするマルクス‐レーニン主義は広範な支持を得にくく、共産党支配下のソ連邦の構成共和国に組み込まれたコーカサス・中央アジア地域のイスラーム系諸国を除けば、同主義の政党はそもそも禁圧されるか、合法化されても少数派政党にとどまっていた。
 ところが、アフガニスタンでは、1960年代に結党されたマルクス‐レーニン主義政党が発展し、70年代の二つの革命で、大きな役割を果たした。これが、アフガニスタン人民民主党(PDPA)である。
 この党は、王政時代の1965年、ジャーナリスト出身のヌール・ムハンマド・タラキーと政府職員出身のバブラク・カルマルの二人を中心に結党された。この両人は社会主義革命後、それぞれ最初と三番目の政権トップに就くことになる。
 このような政党が立ち上がった背景として、前年の近代的憲法の制定に加え、1953年から10年続いたダーウード政権の近代化政策の結果、封建遺風の残るアフガニスタンでも、近代化の拠点であった首都カブールを中心に、革新的な学生運動や労働運動が隆起してきた社会変動があった。
 また、ダーウード自身はマルクス主義者ではなかったが、首相在任中、主として軍の近代化という実利的な観点からソ連に接近して軍事援助を要請したため、この時期にソ連との関係が深まり、ソ連に留学する将校を輩出したことは、PDPAが軍内にも浸透することに寄与したと考えられる。
 もう一つの隠された背景として、パシュトゥン人の伝統的な二大部族連合のうち、バーラクザイ部族の王家を初め支配層を成していたドゥッラーニー部族連合系に対し、PDPAは二人の共同創設者をはじめ、劣勢にあったガルジー部族連合系出自の者が中心を成したというアフガニスタン固有の部族社会的構造が革新政党の中にすら埋め込まれていた。
 PDPAは当初、選挙参加方針を採り、65年に施行された史上初の自由選挙で、早くも4人の当選者を出した。しかし、この最初の小さな成功は党を結束させることにならなかった。というのも、党は早くも共同創設者タラキーとカルマルがそれぞれ率いる派閥に分裂したからである。
 最初の対立点は、結党時の綱領政策の一つでもあった農地改革をめぐるものであり、タラキーは労働者や地方知識人などに支持された人民派(ハルク派)を率いて急進的な農地分配を唱えたのに対し、一方のカルマルは都市のエリート知識人に支持を基盤を置く旗派(パルチャム派)を率いて、より穏健な経済改革を主張したのである。
 この対立は、あたかもロシアにおけるマルクス主義政党・社会民主労働者党がボリシェヴィキ(後の共産党)とメンシェヴィキとに分裂した状況に類似しており、その点でも、ロシア革命をなぞるような経緯が見られる。
 党内力学的に、タラキーが書記長を務める党中央委員会では人民派が優位であったのも、レーニンのボリシェヴィキが優位化する状況に似ていた。
 結局、旗派のカルマルは中央委員を辞任、その結果、1967年には、党は明確に二派に分裂し、事実上は二つの政党に分党されるに等しい形になった。このことは、1969年の第二回総選挙にも影響し、PDPAは獲得議席を半減させ、二議席にとどまる結果に終わった。
 こうして、事実上分党化されたPDPAは議会政党としてはおよそ躍進とは程遠いマイナー政党となったが、一方で、首相を退任した後、政治活動を禁じられながらも、独自に革命構想を練っていたダーウードが旗派に接近していったことが、新段階を開くことになる。

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