三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 2

2008年06月20日 | 会議
二、日本の高校世界史教科書における朝鮮古代史叙述
■新版『世界史』A(著者、木畑洋一ほか6人)、実教出版。
 本書には、古朝鮮、百済・新羅・渤海にかんする記述はまったくなく、高句麗にかんしても、「〔隋は〕大運河建設や高句麗遠征に人民を大量に動員」と書かれているだけで、高句麗にかんする直接的な記述はない。
■『世界史』A(著者、加藤晴康ほか8人)、東京書籍。
 本書にはじめて現われる朝鮮にかんする叙述は、つぎのようなものである。
     「4世紀になると朝鮮半島では高句麗(コグリョ)に加えて南
    部に百済(ペクチェ)と新羅(シルラ)が成立し、日本列島でも
    大和政権の成立をみた。これらの国々は、南北の中国王朝
    から冊封を受けつつ、それぞれ勢力の拡大をはかった」
    (12頁)。
 このほかの朝鮮古代・中世史にかんする叙述は、つぎのようなものだけである。
     「朝鮮半島では、7世紀後半に唐と結んだ新羅が百済・高
    句麗を滅ぼし、唐の勢力をしりぞけて朝鮮半島の統一をなし
    とげ、また、唐の冊封を受けた。日本は、7世紀から遣隋使、
    遣唐使を派遣して、隋、唐の律令体制などをとりいれようと
    つとめ、新羅や渤海とも交流した」(13頁)。
     「中国の東北部では、モンゴル系の契丹族が渤海を滅ぼし
    て遼をたて、モンゴル高原や中国の北辺をも支配下にくみい
    れた。
     朝鮮半島では高麗(コリョ)が新羅(シルラ)を滅ぼして全土
    を統一し、宋や遼の冊封を受け、金属活字や高麗青磁などの
    すぐれた文化をつくりだした」(14頁)。
     「7世紀ごろから9世紀なかごろまで、中国、朝鮮、日本に
    およぶ東方海域での貿易は新羅(シルラ)商人が独占してい
    た。ややおくれて渤海による活動が始まり、8世紀以降、日本
    海をわたって日本に来航する渤海の使節は、やがて貿易を主
    目的とするようになった。また、渤海の商船は中国にまでお
    よんでいた」(44頁)。
■高等学校『世界史』B改定版(著者、鶴間和幸ほか12人)、清水書院。
 本書の高句麗、百済、新羅、高麗にかんする叙述はつぎのとおりである。
     「楽浪郡と帯方郡は中国王朝の朝鮮半島支配の拠点であ
    り、倭の女王卑弥呼の使者も帯方郡を経由して都洛陽入
    り、魏から冊封うけている、しかし、五胡十六国時代の
    華北の混乱のなか、朝鮮半島の諸民族がしだいに台頭し
    てきた。4世紀初めに、楽浪郡は高句麗(コグリョ)に、
    帯方郡も朝鮮半島南部の韓族などに滅ぼされた。こうし
    て4世紀もの長きにわたった中国王朝の朝鮮半島支配は
    終わった。
     この時期、百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)が建国され、鴨
    緑江(アムノックカン)中流の国内城(中国吉林(チーリン)省集
    安(チーアン))に拠点を置いた北方の高句麗とならんで朝鮮
    半島は三国時代に入った」(36~37頁)、
     「唐と連合した新羅は百済(ペクチェ)・高句麗(コグリョ)
    を滅ぼし、朝鮮半島における三国対立の形勢は終わった」
    (39頁)、
     「朝鮮では、9世紀後半には新羅(シルラ)が分裂状態とな
    り、やがて王建(ワンゴン)が高麗(コリョ)を建国して統一を
    達成した。高麗は、唐・宋にならって、官僚制や科挙を採用
    して中央集権化に努め、11世紀に全盛期を迎えた」(80頁)。
 本書には、「朝鮮三国 6世紀中ごろ」と題された地図が掲載されているが、そこでは、鴨緑江北方地域が高句麗の領域内とされている(37頁)。また、本書に掲載されている「唐代の東アジア」と題された地図では、渤海が唐の領域内に入れられている(38頁)。
■新詳『世界史』B(著者、川北稔ほか8人)、帝国書院。
 本書には、「東アジア周縁地域の国家形成」という項があり、つぎのように書かれている。
     「朝鮮半島では、前4~前3世紀には在地の政治集団が成
    長する一方、半島東北部から遼東(リャオトン)半島にかけ
    て戦国七雄の燕が勢力をのばし、秦漢交替期に燕出身の衛
    満が衛氏朝鮮を建てた。漢の武帝はこれを滅ぼして楽浪な
    ど4郡をおいたが、北方の貊族が高句麗(コグリョ)を建て、
    半島南部では韓族が馬韓・辰韓・弁韓などの諸国を形成し
    たため、漢の勢力はしだいに後退した」(45頁)。
 また、本書の「東アジア諸国家の形成」の項には、つぎのように書かれている。
     「3世紀以降、東方の朝鮮半島・日本列島でも諸勢力の活
    動が活発化し、国家形成が進展するとともに中国大陸との通
    交が積極的に行われた。倭とよばれ小国に分かれていた日
    本列島では、大和王権がしだいに強大化した。5世紀には
    たびたび倭国の王(倭の五王)が南朝に朝貢し、また朝鮮
    半島南部にも介入した。
     朝鮮半島では、4世紀以来高句麗(コグリョ)・百済(ペクチ
    ェ)・新羅(シルラ)の三国が並立していたが、唐と結んだ新
    羅が百済・高句麗を滅ぼし、ついで唐も排除して676年に最
    初の統一国家となった。
     その北方では、7世紀末に大祚栄が高句麗の遺民をひきい
    て渤海を建て、日本海を通じて日本ともさかんに通交した」
    (58頁)。
 本書に掲載されている「唐の領域」と題された地図では、渤海が唐の領域内に入れられている(55頁)。
■新『世界史』B改定版(著者、弓削達ほか10人)、山川出版社。
 本書おける朝鮮古代史にかんする叙述はつぎのとおりである。
     「(前漢の武帝は)東北方面では衛氏朝鮮をほろぼして
    東北部の南部から朝鮮半島にかけて楽浪など4郡をおい
    た」(75頁)。
     「(隋の)煬帝は……高句麗を三たび攻めた。しかし高
    句麗遠征に失敗し、動乱がおこって群雄の一人李淵によっ
    ほろぼされた」(85頁)。
     「紀元前後に中国の東北部に高句麗がおこり、4世紀初
    めに南下して楽浪郡および帯方郡をほろぼして、朝鮮半島
    の北部を支配した。南部は三韓(馬韓・辰韓・弁韓)にわ
    かれていたが、4世紀なかばには半島の西南部では百済が
    馬韓諸国を統一し、東南部では新羅が辰韓諸国を統一した。
    このころ日本と密接な関係をもっていた弁韓(加羅、または
    伽耶ないし任那)は、やがてその北西部の百済に併合され、
    残る地域も6世紀なかばに新羅に征服され、ここに朝鮮半
    島は高句麗・新羅・百済がならぶ三国時代にはいった。
     やがて新羅が強大となり、唐の支援をうけて百済と高句
    麗をほろぼし、ついで唐の勢力もしりぞけて676年、朝鮮半
    島をはじめて統一した」(88頁~89頁)。
     「高句麗の民は中国の東北部に拠って渤海国をたて、ここ
    でも唐の官制・文化を熱心にとりいれた」(89頁)。
     「(日本では)4世紀には大和政権による統一がすすみ、
    加羅に進出して百済と結び、高句麗に対抗した」(89頁)。
     「モンゴル系の契丹族は、東北部ほかモンゴルの諸族を
    連合させ……926年渤海をほろぼしたのち、遼と称した」
    (151頁)。
 本書に掲載されている「秦・前漢時代のアジア」と題された地図では、楽浪地域が前漢(武帝時代)の領域に入れられているが、その北方の高句麗は、前漢の領域には入れられていない(74頁)。また、本書には、8世紀ころの唐代の東アジア交通路地図が掲載されているが、そこでは、渤海は唐の領域内に入れられていない。
 本書には、「日本と密接な関係をもっていた弁韓(加羅、または伽耶ないし任那)」、「4世紀には大和政権による統一がすすみ、加羅に進出して……」という、あいまいな表現で大和政権が加羅地域を支配していたかのようする記述がある。こうして、本書は、なんら歴史学的・考古学的証拠がない「任那日本府」を実在したかのように主張している。
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