三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

追悼碑建立から19年

2013年09月30日 | 木本事件
■地域住民による朝鮮人・中国人虐殺
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1994年に建立した追悼碑の碑文のおわりに、
   「わたしたしたちは、ふたたび故郷にかえることのできなかった無念の心をわずかでも
   なぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑
   を建立しました
と記した。
 それから、これまで、わたしたちは、この碑を根拠地として、「二人の虐殺の歴史的原因と責任」をあきらかにする運動をすすめてきた。
 木本虐殺(熊野虐殺)は、木本町(現、熊野市)地域にすむ日本人が朝鮮人を襲撃し殺害した「事件」である。木本虐殺の2年4か月まえの1923年9月に、関東地域にすむ日本人が朝鮮人と中国人を襲撃し、6000人をこえる人びとを殺害していた。その1年2月まえの1922年7月には、信越電力株式会社の中津川(信濃川の支流)の水力発電所工事現場で、工事を担当していた大倉組(現、大成建設)の現場監督らが、600人あまりの朝鮮人労働者のうち数10人を殺害し、遺体を川に投げ入れていた。
 1923年9月には、戒厳令公布下で、日本軍・警察によって多くの朝鮮人・中国人が殺害されたが、自警団などの地域の日本人によって虐殺された人たちも少なくなかった。
 木本虐殺のときにも、在郷軍人会・消防組・自警団・青年団を中心とする地域住民が竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって朝鮮人を襲撃した。
 1904年の「日ロ戦争」開始後まもなく、日本人は、朝鮮の土地を大規模に買占めはじめた。日本が朝鮮を植民地とした1905年ころから、朝鮮人が低賃金で日本の建設工事で働きはじめた。1906年に開始された抗日義兵闘争(第一次朝鮮独立戦争)のとき日本軍の捕虜とされた朝鮮人のなかに、日本に連行され働かされた人もいたようである(佐藤正人「조선인의 일본「移住」의 역사와 조선독립운동」『近代韓人의 海外移住와 韓民族共同體』高麗学術文化財団、1997年11月、191頁)。
 植民地朝鮮から日本に「移住」してきた朝鮮民衆を日本民衆が襲撃し虐殺した歴史は、日本民衆が日本軍兵士としてアジア太平洋の各地で民衆を襲撃し虐殺した歴史と重なっている。

■「素朴な愛町心の発露」とのたたかい
 木本虐殺を、熊野市・熊野市教育委員会は、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」としている(『熊野市史』中巻、熊野市1983年刊)。
 李基允氏と相度氏を虐殺したことを、「愛町心の発露」としている『熊野市史』の書き換えを、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は創立直後の1989年6月5日から熊野市・熊野市教育委員会に求めている。
 しかし、いまなお、熊野市・熊野市教育委員会は、応じていない。熊野市長も熊野市教育長も、この重大問題にかんして、話し合いを拒否し続けている。
 朝鮮人を虐殺したことを「愛町心の発露」として肯定する思想は、「国のために」として他地域他国を侵略し、略奪、破壊、異民族を殺すことを「愛国心の発露」として肯定する思想と同じである。
 熊野市・熊野市教育委員会が『熊野市史』を書きかえようとしないのは、形成期いらいの他地域他国侵略犯罪の歴史的責任をとってこなかった国民国家日本の社会的・政治的・文化的構造を反映している。
 持久的に民衆運動の輪を広げ、この構造を打ち砕かなければ、国民国家日本の侵略犯罪の歴史を終わらせることはできない。
                                        佐藤正人
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20回目の追悼集会

2013年09月29日 | 木本事件
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日に第1回準備会をもち、毎月の会議で準備をかさね、1989年4月23日に津で、6月4日に大阪で、相度さんの遺児敬洪さんと孫の哲庸さんに来ていただいて結成集会をもった。
 その5年後の、1994年5月1日に、追悼碑が起工され、10月23日に建ちあがり、11月20日に除幕集会が開かれた。
 19年前の除幕集会の夜、海辺で火を燃やし、その火を囲んでみんなで遅くまで語り合った。
 その後、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、毎年11月~12月に、追悼集会を開いてきた。
 今年は、追悼碑建立から19年目だ。
 11月9日に、20回目の追悼集会が開かれる。
  
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会のこれまでの歩みについては、ウェブサイト http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/ 、およびこのブログの2006年10月11日~18日の「木本トンネルの道」1~8、10月19日~28日の「木本虐殺後80年」1~10、12月27日 の「熊野市に対する抗議と要請」、2007年12月12日~15日の「紀州・熊野地域における「素朴な愛町心」とのたたかい」1~4、2008年11月20日の「会が出発してから、20年」などをみてください。
                                          佐藤正人
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裁判官の良心について

2013年09月28日 | 紀州鉱山
■日本の侵略犯罪を肯定する「良心」 
 憲法76条に「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」、憲法19条に「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」と書かれている。
 良心とは、何か。良心は、どのように形成されるのか。裁判官の良心とは、何か。裁判官は、思想と良心をどのように形成するのか。
 個人の思想・良心は、生まれたときから社会的諸関係のなかで形成され、社会認識・歴史認識の過程で検証されていくものだろう。
 「その良心に従い独立してその職権を行う」とその行為を規定されている裁判官は、「その良心」の内実を常に自ら問わなければならないだろう。
 しかし、そのような裁判官は、多くはない。日本の多くの裁判官の「良心」は、国民国家日本の侵略犯罪を肯定する「良心」である。
 1991年から2010年まで、東京・下関・広島の裁判所で、日本軍によるアジア太平洋各地における性暴力にたいする日本国家の歴史的責任を追及し、日本政府の謝罪と賠償を求める裁判(海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟など)がおこなわれたが、1998年4月に山口地裁下関支部第一部(近下秀明裁判長)が「立法不作為による国家賠償責任」(日本国家の賠償立法が遅れている責任)を認めて原告3人への各30万円の支払いを日本国に命じた以外は、すべて、国家無答責・除斥期間・日中二国間条約などを「理由」にして、日本政府・日本軍の歴史的侵略犯罪を追認した。
 裁判官が、国家犯罪による被害者にたいし日本国家が謝罪し賠償するのは普遍的正義と人道に基づくあたりまえのことだ、という良心をもっているなら、国家無答責・除斥期間・日中二国間条約などという「理由」は、容易に法的に打破できるにもかかわらず。

■侵略犯罪の責任を問う訴訟
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が2011年3月に提訴した紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地への三重県と熊野市による課税に抗議する訴訟もまた、朝鮮人強制連行・強制労働という国民国家日本の侵略犯罪の歴史的責任を問う訴訟である。
 日本が朝鮮を植民地としていた時代に、日本政府(三重県・熊野市という地方政府を含む)と日本企業(この場合は石原産業)は、紀州鉱山に朝鮮人とイギリス人を強制連行し強制労働させていた。
 日本敗戦後、A級戦犯容疑者として石原産業社長(石原廣一郎)が逮捕されてからまもなく石原産業は事故などで死んだイギリス人の「墓」を作った。その「墓」の遺骨はまもなくすべて横浜の「英連邦戦死者墓地」に移された。その遺骨がない場所をいま熊野市は「英国人墓地」と名づけ、熊野市指定文化財としている。
 その一方で、熊野市は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地提供を拒否した。
そのため、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、やむをえず、会員のうち5人(朝鮮人1人、日本人4人)を名義上の所有者として、敷地(土地)を購入した。その土地に、三重県と熊野市は、課税してきた。
 そのような無恥の行為を許さないのは、あたりまえのことだ。
 厳密に法を適用することによって、朝鮮人の追悼碑の敷地への課税を許さないという判決を良心にしたがってだすのは、思想と良心の自由をもつ裁判官には容易なことである。
                                        佐藤正人
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熊野市を被告とする訴訟の経過

2013年09月27日 | 紀州鉱山
■対熊野市第1訴訟
2010年5月6日 熊野市、追悼碑の敷地に固定資産税を課税。
    6月2日 紀州鉱山の真実を明らかにする会の減免申請を、熊野市は「公共性なし」とし
       て「減免不承認の決定」
2011年3月18日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、2010年度固定資産税賦課処分取消と
       減免不承認処分取消を求めて津地裁に訴訟提起。
   8月4日 津地裁 第1回口頭弁論。
   9月29日 津地裁 第2回口頭弁論。戸田彰子裁判長、突然弁論終結を宣言。
   12月1日 津地裁、不当判決。
   12月12日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、名古屋高裁に控訴。
2012年4月3日  慶尚北道議会議員団が熊野市を訪れ、熊野市議会議長に追悼碑敷地の課
       税撤回と紀州鉱山で亡くなった韓国人にかんする真実糾明を求める。
   4月10日 名古屋高裁 第1回口頭弁論。名古屋高裁の長門栄吉裁判長が実質審理せず
       弁論を終結しようとしたため、ただちに法廷内で裁判官忌避
   4月17日 名古屋高裁、裁判官忌避の申立を却下
   4月23日 最高裁に裁判官忌避の特別抗告
   5月7日付 河上敢二熊野市長、追悼碑とその敷地の公共性を否定し、2012年度固定資産
       税納税通知書を出す。
   5月24日  紀州鉱山の真実を明らかにする会、熊野市長に、2012年度固定資産税免除を
       文書で要求。
   5月30日付 熊野市長、2012年度固定資産税の「減免不承認通知」(熊税第495号)をだ
        す。
       「減免不承認の理由」は「申請のあった固定資産に、公共性が認められないため」
       というもの。
   6月7日 名古屋高裁、不当判決
   6月20日 最高裁、裁判官忌避の特別抗告を棄却
   6月18日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、名古屋高裁判決を上告
   7月9日付 紀州鉱山の真実を明らかにする会、熊野市長に、固定資産税賦課処分及び減
       免不承認処分の取消しを求める「異議申立書」を送る
   12月18日 最高裁の寺田逸郎裁判長、不当判決
■対熊野市第2訴訟
2013年3月22日 2012年度固定資産税賦課処分取消と減免不承認処分取消を求めて津地
       裁に訴訟提起
   6月3日 熊野市、紀州鉱山の真実を明らかにする会の訴状に「答弁書」を出す
         そこには、
           「石原産業はなにをしたのか(強制連行,強制労働の証言)」は知らない
           「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない
         と書かれていた。
   6月20日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、大韓民国慶尚北道議会議員の金昌淑(キム
       チャンスク)さんと日本近現代史研究者の竹内康人さんを証人に申請する「証拠
       申出書」を津地方裁判所にだす
   7月4日 津地裁 第1回裁判(口頭弁論)
        開廷直後、紀州鉱山の真実を明らかにする会、戸田彰子裁判長を忌避
   8月6日付 津地裁民事部の山下隼人ら3人の裁判官、「戸田彰子裁判長忌避申立却下決
       定」
   8月6日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対し、
      「即時抗告」
   8月19日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、名古屋高裁に、「戸田彰子裁判長忌避申立
       却下決定に対する即時抗告理由書」をだす
   9月4日 紀州鉱山の真実を明らかにする会の「即時抗告」を、名古屋高等裁判所民事第2
      部の林道春裁判長ら3人、「棄却」
   9月26日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、最高裁に、戸田彰子裁判長忌避申立却下
       決定に対する「特別抗告理由書」をだす
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戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する「特別抗告理由書」

2013年09月26日 | 紀州鉱山
 きょう(9月26日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、最高裁に、戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する「特別抗告理由書」をだしました。
 この「特別抗告理由書」をだすまでの経過は、このブログの7月4日の「きょう津地裁で」、7月5日の「開廷直後に裁判官を忌避した理由」、および8月6日の「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する即時抗告」、8月19日の「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する即時抗告理由書」、およびきのう(9月25日)の「名古屋高裁裁判官が津地裁での不正な訴訟指揮を追認」をみてください。
 戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する「特別抗告理由書」の本文の全文は、つぎのとおりです。

■特別抗告理由書■                    2013年9月26日  
    原審 津地方裁判所 2013年(行ク)11号
         (戸田彰子裁判長忌避申立事件)
    基本事件 2013年(行ウ)第13号
          (2012年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件)
■特別抗告の理由
1.「裁判の公正を妨げるべき事情」と公正な裁判の本質
 名古屋高裁民事第2部の林道春裁判長、内堀宏達裁判官、濱優子裁判官の2013年9月4日付、「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する即時抗告棄却決定」(以下、「決定」という)は、
   「裁判官の忌避の原因としての裁判の公正を妨げるべき事情とは、裁判官と事件との関
   係からみて、偏頗不公平な裁判がされるであろうとの懸念を当事者に起こさせるに足り
   る客観的な事情をいうものであるところ、裁判官が同種の事件にかつて関与したことは、
   上記の裁判の公正を妨げるべき事情には当たらず、基本事件に関しても、戸田裁判官が
   前件訴訟において裁判長を務めたことは忌避事由には当たらないというべきである」
と、「裁判の公正を妨げるべき事情」について書かれている。
 憲法32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」というものであり、「何人も、裁判所において公正な裁判を……」とは書かれていないが、もちろん、憲法32条に書かれている「裁判」とは「公正な裁判」でなければならず、「不公正な裁判」であってはならない。
 裁判において良心にしたがわず不公正な訴訟指揮をおこなう裁判官は、憲法32条および憲法76条3項(すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される)に違反している。
 林道春裁判長ら名古屋高裁の3裁判官の「決定」は、事件番号「2011年(行ウ)第3号」訴訟(以下、対熊野市第一訴訟とする)における不公正・非良心的で憲法に違反している戸田彰子裁判長の裁判・訴訟指揮を追認しており、そのことによって原告(特別抗告人)らの公正な裁判を受ける権利を侵害しており、憲法に違反している。
 対熊野市第一訴訟において不公正・非良心的な訴訟指揮をおこなった戸田彰子裁判長が、対熊野市第二訴訟においても同様の不公正・非良心的な訴訟指揮をおこなおうとする危惧を原告(特別抗告人)らがもつのは、戸田彰子裁判長が公然と真摯に対熊野市第一訴訟における訴訟指揮を自己批判し謝罪していない以上、当然のことである。
 この原告(特別抗告人)らの危惧は、公正な裁判の本質、基本的人権、社会正義にかかわるものである。
 公正な裁判とは、基本的人権を守り、全世界的な社会正義の実現に寄与しうる裁判のことである。
 対熊野市訴訟は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地に課税するという熊野市の基本的人権の侵害行為に抗議し、社会正義に反する熊野市の行為に抗議する訴訟である。
 したがって、対熊野市訴訟における公正な裁判とは、熊野市の基本的人権を侵害し社会正義に反する行為の内容と本質を具体的に、その違法性を明らかにしようとするものでなければならない。
 そのような裁判を実践しようとしない裁判官の訴訟指揮を原告(特別抗告人)が認めず、忌避するのは当然のことである。

2.「基本的論点」を審理しない裁判を追認した「決定」
 「決定」は、2013年7月26日付で津地方裁判所民事部の山下隼人裁判長、井口礼華裁判官、荒木雅俊裁判官がなした「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定」と同様、対熊野市第一訴訟において戸田彰子裁判長が訴訟の基本的論点を審理せず、戸田彰子裁判長が不公平な裁判をおこなった事実をなんら審理していない。
 名古屋高等裁判所民事第2部の林道春裁判長ら3裁判官は、「決定」の「理由」のなかで、
   「抗告人らの上記の主張は、結局、前件訴訟における戸田裁判官の裁判長としての訴訟
   指揮又は審理の方法が不当であるとしてこれを非難するものにすぎず、基本事件に関し、
   戸田裁判官について裁判の公正を妨げる事情があるということはできない」
と述べているが、戸田彰子裁判長は、本訴訟の基本的論点である①植民地支配と強制連行、強制労働により、紀州鉱山の真実を明らかにする会が追悼碑建立時までに調査しただけでも35人の朝鮮人を死に至らしめた歴史的事実とその責任の所在、②朝鮮人犠牲者を追悼する土地の公共性・公益性、③熊野市が、紀州鉱山で亡くなった英国人の「墓地」を熊野市の文化財としながら、同じく紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立に関しては敷地提供を拒絶した差別対応を審理しなかったのである。
 戸田彰子裁判長は、基本的論点にかかわる諸事実を具体的に審理しないで超短時間の不公正な裁判をおこなって、追悼碑の土地の公共性を否定し、正義と人道に反する判決をおこなった。
 このような戸田彰子裁判長の訴訟指揮を「公正を妨げる事情があるということはできない」とした「決定」は、憲法32条に違反している。

3.「裁判官と事件の関係」について審理されていない「決定」
 「決定」は、「理由」のなかで、
   「裁判官の忌避の原因としての裁判の公正を妨げるべき事情とは、裁判官と事件との関
   係からみて、偏頗不公平な裁判がされるであろうとの懸念を当事者に起こさせるに足り
   る客観的な事情をいうものであるところ、裁判官が同種の事件にかつて関与したことは、
   上記の裁判の公正を妨げる事情には当たらず、基本事件に関しても、戸田裁判官が前件
   訴訟において裁判長を務めたことは忌避事由には当たらない」
と述べているが、「裁判官と事件の関係」を本訴訟に即していうのなら、裁判官に求められるのは、憲法第76条第3項の遵守であり、裁判官は、職務上、当然に、日本の植民地支配と強制連行・強制労働という歴史的事実について知識を深め、良心に基づいて審理をすることが求められているが、この点について、戸田彰子裁判長は、前回の訴訟において全く無視し審理しようとしなかったのであるから、今回の訴訟においても、「偏頗不公平な裁判がされるであろうとの懸念を当事者に起こさせるに足りる客観的な事情」がある。
 前回の訴訟で基本的論点を審理から外した戸田彰子裁判長に、公正な裁判を望むことを期待することは不可能である。したがって、名古屋高等裁判所民事第2部の林道春裁判長ら3裁判官がこの点についての事実関係を審理することなくなした、2013年9月4日付の「決定」は、公正な裁判を受ける権利を保障した憲法32条に違反している。

4.棄却した理由が示されない「決定」
 「決定」は、「理由」のなかで、
   「その他一件記録ママ録を精査しても、基本事件に関し、戸田裁判官について裁判の公正
   を妨げる事情があるとは認められない」
と述べている。精査したならば、その精査の結果、「事情があると認められない」と結論した理由が示されなければならない。
 具体的になにをどのように精査したのかが示されることなく、また、理由が示されることもなく棄却されたため、原告(特別抗告人)は憲法32条「裁判を受ける権利」を侵害された。


 林道春裁判長ら3裁判官が「決定」をだすまえに精査したとはいえない対熊野市第一訴訟における戸田彰子裁判長の裁判の問題点を以下に記す。

1).戸田彰子裁判長は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行と紀州鉱山での朝鮮人強制労働とそ
   の責任にかかわる事実審理をしなかった
 人を連行し、酷使し、死に至らしめることは明らかな犯罪である。
 強制連行・強制労働は、日本の行政と企業によってなされた犯罪であり、この犯罪を立案・実行あるいはこの犯罪に加担した日本政府、三重県、熊野市、石原産業には、直接的・間接的実行犯としての重大な歴史的責任がある。
 熊野市は、その歴史的責任を果たそうとせず、それどころか紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税するという、社会正義に反する行為をおこなった。この土地は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するために原告(特別抗告人)らを名義上の登記人として購入したものである。
 この土地にたいする土地税の課税に関する訴訟においては、紀州鉱山への朝鮮人強制連行と紀州鉱山での朝鮮人強制労働とその責任にかかわる事実審理をおこなうことが不可欠である。それにもかかわらず、戸田彰子裁判長は、この基本的な根本問題にかかわる事実審理を強権的に回避した。証人調べも現場検証もしようとせず、原告(特別抗告人)に弁明の機会を与えず、被告熊野市に固定資産税の課税算定額を書証として提出させ、訴訟の論点を税額が適正か否かの問題にすりかえ、総計30分にも満たない2回の口頭弁論で、実質審理をしないで弁論を終結させ、判決を下した。
 対熊野市第一訴訟で、戸田彰子裁判長は、法律の適用にあたって、司法が行政から独立して社会正義を実現するために努力するという裁判官の当然の社会的任務を放棄していた。
2).戸田彰子裁判長は、朝鮮人追悼碑の敷地の公共性を客観的・歴史的に審理しなかった
 戸田彰子裁判長は、他の多くの自治体が、強制連行され強制労働させられた朝鮮人・中国人犠牲者の追悼碑の建立に公共性を認め公有地を提供している事実や強制連行の調査活動に公的補助をおこなっている事実や、熊野市(旧紀和町)が「英国人墓地」における「慰霊祭」に市費を支出している事実や、熊野市が「英国人墓地」を熊野市の文化財に指定している事実などを審理することなく、超短時間で判決した。
 戸田彰子裁判長は、公共性にかかわる客観的事実を審理せず、判決を下すための基本的・根本的根拠についての審理を怠った。
3).戸田彰子裁判長は、朝鮮人強制連行・強制労働という歴史的事実を審理の対象から外し
   た
 朝鮮人強制連行は、日本の法律に基づいた国家的事業であり、公共の行為であった。
国家の公共的な行為の犠牲となった者にたいする反省、謝罪、賠償、追悼は、公的になされなければならない。
 しかし、日本政府は歴史的事実を明らかにしようとせず、侵略犯罪にたいする反省もしようとしていない。これは道義に反する。
 日本政府の侵略犯罪にかかわる諸事実について、裁判官は司法の立場から、みずからの良心にしたがって独立した審理をおこなう権利と義務を負う。しかしながら、戸田彰子裁判長は、本訴訟の審理にとって欠かすことのできない歴史的事実の究明の問題をみずからの判断で審理から外した。これは司法の権利と義務の放棄を意味する。
 このような戸田彰子裁判長の態度は、日本政府の不正義な対応に追随しており、歴史的事実を審理しないことによって社会的不正義を追認するものであり、司法権の放棄を意味している。
4).戸田彰子裁判長は、熊野市の民族の相違による不公平な扱いの容認について審理しな
   かった
 熊野市は、「英国人墓地」を文化財に指定し公共性・公益性を認めておきながら、朝鮮人を追悼する碑の敷地については、土地の登記人の名が名義上紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員の個人名であることをもって公共性・公益性を認めず、行政の歴史的責任を果たそうとしていない。熊野市のこのような態度は民族差別である。
 戸田彰子裁判長は、「英国人墓地」は熊野市の所有地であることを理由にして、「英国人墓地」の土地が非課税であると主張するのみで、熊野市の所有地であろうとなかろうと、犠牲者の追悼において民族の相違による不公平な扱いをおこなってはならないということについては審理することなく、熊野市の民族差別を容認した。
5).戸田彰子裁判長は、地方税法による公益性による免税、熊野市税条例による特別な事情
   による減免の妥当性を審理しなかった
 熊野市が敷地提供を拒否したためやむをえず紀州鉱山の真実を明らかにする会は複数の会員名義で敷地を購入した。その敷地に、熊野市は課税した。
 地方税法および熊野市市税条例には、公共性にもとづいて免税とする、あるいは減免する規定が定められている。
 この規定にしたがって、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地にたいし免税することが必要かつ妥当な措置である。
 しかし、戸田彰子裁判長は、核心的な論点である追悼碑の土地の公益性や、土地購入と使用目的における特別な事情について審理しようとしなかった。
 戸田彰子裁判長は、原告(特別抗告人)の言う「特別の事情」を、歴史的・法律的に十分検討するとともに、実際に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建立されている場に行って土地の使用状況を「現場検証」すべきであった。
 しかし、戸田彰子裁判長は、「現場検証」をおこなうどころか、法廷での口頭弁論をも極端な短時間で「終結」させ、「判決」で「原告(特別抗告人)らの訴え」を棄却・却下した。
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名古屋高裁裁判官が津地裁での不正な訴訟指揮を追認

2013年09月25日 | 紀州鉱山
 8月19日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、名古屋高裁に、「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する即時抗告理由書」をだしました。この「即時抗告理由書」をだすまでの経過は、このブログの7月4日の「きょう津地裁で」、7月5日の「開廷直後に裁判官を忌避した理由」、および8月6日の「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する即時抗告」をみてください。「即時抗告理由書」の本文の全文は、8月19日の「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する即時抗告理由書」をみてください。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会の「即時抗告」を、名古屋高等裁判所民事第2部裁判長裁判官林道春、裁判官 内堀宏達、裁判官 濱優子は、9月4日付で「棄却」しました。
 その「決 定」の全文はつぎのとおりです(原文の「元号」は普通暦に訂正)。
                        

主文
   本件各抗告をいずれも棄却する。
   抗告費用は抗告人らの負担とする。
第1 抗告の趣旨及び理由
   本件抗告の趣旨及び理由は,別紙1及び別紙2にそれぞれ記載のとおりである。
第2 当裁判所の判断
   1 当裁判所も、本件忌避の各申立てはいずれも理由がないものと判断する。
    その理由は,以下のとおりである。
   2 抗告人らは、戸田彰子裁判官(以下「戸田裁判官」という。)を忌避する理由として,紀州鉱
   山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するために抗告人ら名義で購入された土地に
   対する課税処分等をめぐり、抗告人らが熊野市を被告として提訴した訴訟(津地方裁判所
   2011年(行ウ)第3号固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件。以下、こ
   の訴訟を「前件訴訟」という。)において,基本事件の受訴裁判所の戸田裁判官は、前件訴
   訟の裁判長として,歴史的な事実関係、上記土地の公共性,熊野市の対応,上記土地に係
   る税金の減免等の基本的問題について実質的な審理をせずに弁論を終結し、判決をした
   ものであるから、熊野市による上記土地に対する2012年度の課税処分に係る基本事件
   に関し、戸田裁判官について裁判の公正を妨げるべき事情があることをいうものである。
    しかし、裁判官の忌避の原因としての裁判の公正を妨げるべき事情とは、裁判官と事
   件との関係からみて、偏頗不公平な裁判がされるであろうとの懸念を当事者に起こさせ
   るに足りる客観的な事情をいうものであるところ、裁判官が同種の事件にかつて関与し
   たことは、上記の裁判の公正を妨げるべき事情には当たらず、基本事件に関しても、戸
   田裁判官が前件訴訟において裁判長を務めたことは忌避事由には当たらないというべき
   である。抗告人らの上記の主張は結局、前件訴訟における戸田裁判官の裁判長としての
   訴訟指揮又は審理の方法が不当であるとしてこれを非難するものにすぎず,基本事件に関
   し、戸田裁判官について裁判の公正を妨げるべき事情があるということはできない。
    その他一件記録録(ママ)を精査しても、基本事件に関し、戸田裁判官について裁判の
   公正を妨げるべき事情があるとは認められない。
第3 結論
    よって,原決定は相当であり、本件各抗告はいずれも理由がないからこれらを棄却するこ
   ととして,主文のとおり決定する。
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「《日军侵琼见证者》」

2013年09月19日 | 海南島

http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=839033
「黄一鸣的博客」 发布者:黄一鸣 发布时间:2013-09-19 19:41:36 最后更新时间:2013-09-19 19:41:36

■《日军侵琼见证者》
  1939年2月海南岛沦陷后,日军侵占海南岛长达6年。日本为了变海南岛为永久的殖民地和扩大侵略南太平洋诸国的基地,于是对海南实施了血腥的殖民统治,烧杀掳掠,其罪行累累,罄竹难书。目前,很多历史见证者已经陆续去世了,我镜头中的这些耄耋老人都是幸存的见证者。
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 66

2013年09月18日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 8
■臨高県調楼鎮調楼村で
 一一月四日に調楼村を訪ね、王凌光さん(申年。一九二〇年生)に話を聞かせてもらった。王凌光さんはこう話した。
   “日本軍が来たとき、調楼中心学校(小学校)の校長をしていた。
    当時の学校は、みんな私立だった。寄付でなりたっていた。金持ちの子どもしか行かな
   い。
    校長として、教師として教えたのは、音楽、数学、漢語(臨高語)だった。教師は七人くら
   い。生徒は一五〇人。調楼にあったのは小学校だけで、中学校は海口に行かなければな
   らなかった。
    日本軍は、新盈の海岸に上陸し、歩いて調楼まで来た。二〇人~三〇人くらいだった。
   強姦とか、兄と妹を交わらせるとか、途中で悪事をしながら……。妹はわたしの学校の生
   徒だった。直接見て知っていることだ。そうしなければ殺される。
    日本軍が入ってきた当初は、学校は授業をしていたが、そのうち生徒が来なくなった。日
   本軍がひどいことをしたり、生活できなくて住民がほかにいったりして。住民のなかには
   八所に行った人もいた。わたしは行かなかった。行ったのは若者や生徒だった。
    石碌に行った人もいた。若者がおおぜい石碌に行って、一八人が亡くなった。何が原因
   だったかわからない。
    村では二〇人くらいが食べるものがなく、飢え死にした。
    生徒がいなくなって学校で教えられなくなったあと、家で竹で農具や竹かごをつくってい
   た。
    日本兵とは話したことがない。三回くらい、見たことがある。恐いから、顔を見たらすぐに
   逃げるか、窓を閉めた。家にカギをかけて、閉じこもっていた。みんな村をあまり歩いて
   いない。村を歩いているのは漢奸とか幹部だけ。
    八所や石碌には、漢奸が‘行け’と各家をまわって命令した。生活がたいへんだから、自
   分から行った人もいる。八所や石碌には歩いて行った。朝も晩も歩いて一晩。
    ミツイ(三井)というと、石碌や三亜のことを指した。
    日本軍が戦争に負けたと聞いたときは、うれしかった”。
                                           佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 65

2013年09月17日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 7
■楽東黎族自治県尖峰鎮尖峰嶺で
 一一月二日に、尖峰嶺に登った。
 尖峰嶺は、抗日組織の根拠地があった山岳地域の主峰で、高さ一四一三メートルである。
 王子製紙は、アイヌモシリ(「北海道」・「カラフト」)、朝鮮、中国東北部、海南島に侵入し、大量の樹木を略奪伐採し、原始林を破壊しつづけた。王子製紙は、樹木伐採・輸送などのために軽便鉄道をつくり、安価な電気を確保するためにダム建設をおこなった。「北海道」北部の雨龍ダム建設のとき、強制連行されてきた朝鮮人をふくむおおくの労働者が、酷使され、いのちを奪われた。雨龍ダム建設をおこなった雨龍電力株式会社は王子製紙の子会社であった。
 尖峰嶺地域の樹木を奪い輸送するために、王子製紙が、嶺頭駅(石碌鉱山―三亜間鉄道の駅)から尖峰嶺山麓の土崙までの軽便鉄道の建設を始めたのは、雨龍ダム発電開始半年後の一九四四年二月であった(一九四五年三月完成)。軽便機関車は「北海道」のトマコマイから運んできた。日本占領期には嶺頭駅の南側に日本海軍横須賀鎮守府第四特別陸戦隊守備隊の兵舎があった。抗日武装部隊の根拠地が築かれていた尖峰嶺地域を通る軽便鉄道は、軍事的役割をももっていた。王子製紙の軽便鉄道建設は、日本海軍との共同軍事行動であった(『王子製紙南方事業史』王子製紙刊、一九六四年、参照)。
 一一月二日午前九時二〇分に尖峰嶺登山口(尖峰嶺国家森林公園大門)に着いた。案内所の裏の空き地には、木材を運んだ軽便鉄道の線路が通っていたという。
案内所にいた覃勇基さん(尖峰鎭生まれ)に、鉄道の終点に案内してもらった。途中に日本軍が作ったという橋のコンクリートの橋げたの一部が残っていた。
 一一時半に尖峰嶺登山を開始し、一二時半過ぎに頂上に着いた。

■楽東黎族自治県尖峰鎮牛泥頭村と丁司村(旧登司村)で
 尖峰嶺山麓の牛泥頭村のはずれを流れている川に大きな鉄橋の一部が残っていた。
 そのそばの家で李玉新さん(一九三五年生)はつぎのように話した。
   “橋の基礎はコンクリート製だ。丸い穴があいていて、そこに木の柱をいれて、コンクリート
   で固めた。鉄道は、嶺頭から尖峰までだった。
    子どものとき工事を見て知っている。道路に沿って鉄道が敷かれたが、道路が少し曲
   がっているところは、まっすぐにして、鉄道を通した。橋を作ったのは台湾人。軍服を着てい
   た。
    橋の工事中に日本軍は撤退した。トラックが木材を積んで、川をそのまま渡っていった。
   水が多かったり、川底がでこぼこのところは、石を沈めてその上をトラックが通った。
   日本軍が来たとき、村の大人は、みんな山の方に逃げて、残っていたのは、年寄りと子ど
   もだけだった。
    わたしは、父母といっしょに山に逃げた。火を焚いてご飯を作ることができない。煙を出す
   と、日本軍が殺しに来るので。火を使えなかったので、山のくだものとかを食べた。
    二、三年たって、農業をしなければいけないので、父母といっしょに戻ってきた。
    日本兵はときどき、村民を検査した。手のひらを見た。厚みがあったら、農民。人差し指
   にタコがあれば、銃をさわるタコだといって共産党員だと思われ、殺された。
    山首村で、二八人が殺された。銃殺する場所へ連れて行かれるのを見た。日本兵は二
   列に並ばせ、銃を撃った。死体の下になって助かった人がひとりいた。その場面は見な
   かったが、機関銃の音を聞いた。
    丁司村は木材の集積場だった。ここを共産党が襲撃したことがあった。日本人が殺され、
   運転手が捕まった。両手をあげて降参したと聞いた。日本人か台湾人かわからない。共
   産党の組織には、銃を持っている人はあまりいなかった。襲撃して、すぐに逃げた。
    朝鮮人はみたことがない。
 
 丁司村(旧登司村)で、李玉忠さん(一九三五年生。丁司村生まれ)は、次のように話した。
   “父、李茂興は西北団の団長だった。日本軍と戦った。
    日本軍が来たとき、わたしは、一二、一三歳くらいだった。村にいた。六人きょうだいの四
   番目だ。
    父は、共産党員で、地下でしごとをしていた。米などの食料を調達したり、けがをした人を
   治療できるようにしたりしていた。各村にいって、若い人を党にいれるしごとをしていた。
    日本軍が黒眉村を襲撃している最中に、父は各村をまわって若者を集め、黒眉村に支
   援に行かせた。じぶんは、武器はあまりなかった。
    黒眉村の戦いは、三昼夜つづいた。遠くから文昌の部隊も応援に来たし、別の部隊も応
   援に来た。
    父は家で、何人かを集めてご飯を食べさせたりもしていた。
    父が共産党の地下しごとをしていることを、日本軍が知って、一番目と二番目の兄が捕
   まった。二人は、田でしごとをして牛車を引いて帰ってくる途中、漢奸が父の息子だと教え
   て捕まったが、助け出した。嶺頭に李という兄弟がいて、その人にお金を渡して、父の子ど
   もではない、じぶんの子どもだといわせて、助け出した。その後すぐ、日本軍が降参した。
    嶺頭の李という兄弟の父は、わたしの父と仲のいい友だちで、その人が、日本軍に物資
   を納入するしごとをしていた自分の息子のひとりに、助けさせた。
    父は尖峰嶺の根拠地にいたこともある。長老郷が根拠地だった。日本軍が来てから、根
   拠地は移動した。父は、短銃グループを指揮していた。
    高い橋は、共産党が作った。日本軍がつくった同じ場所に。日本軍が作ったのは、低
   かった。半分はトラックが通る道で、半分にはレールを敷いた。道のほうはトラックが通っ
   たが、レールを敷いたところは列車は試運転はしたが、一回も走っていない。この橋ができ
   る前に、日本軍は別に道路を作った。いまある低い橋はその道路の橋。日本軍がつくっ
   た。じっさいに労働したのは台湾人だった。台湾人には、軍人もいたし、軍人ではない人も
   いた。半分は軍服。半分は軍装ではなかった。われわれは台湾人だ、と話していた。
    軍服を着ていない人が話しかけてきたこともあったし、ご飯を食べさせてくれたこともあっ
   た。軍服を着ている人も台湾人
    軍服を着た人は約三〇人。銃を持って監視する人もいる。働いている人は、軍人ではな
   かった。工事の場所がかわると。住む場所も移った。
    青い服を着た人は見たことがない。日本人はぜんぶ軍服を着ていた。
    日本人は共産党がどこにいるかわかると、襲撃した。
    黒眉村に日本軍が移動するのを見た。トラックに乗って行った。鉄カブトの人もいたし、布
   帽子をかぶった人もいた。帽子のまわりに布を垂らしていた。武器は、機関銃や大砲、短
   い大砲。日本軍の武器はよかった。共産党の武器はよくなかった。
    日本の敗戦後、日本軍の武器はなかった。日本軍は、武器をどこかに隠したのではない
   か。民間人に大きな穴を掘らせて武器を埋め、穴を掘らせた人を殺した、と聞いたことがあ
   る。
    尖峰嶺から撤退する日本軍の行列が朝から夕方まで続いた。道路が村を通っているの
   で、見ていた。佛羅か黄流に行ったと思う。
    トラックが兵隊を乗せていって、戻ってきてまた兵隊を運んだ。全部で何人、何台だった
   かは、わからない”。
                                            佐藤正人
               
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 64

2013年09月16日 | 海南島史研究
(二〇) 二〇一一年一〇月~一一月 6 
■東方市感城鎮感城村と港門村で
 一一月三日朝、東方市感城鎮感城村の麦家祠(麦家祠惨案の現場、麦家祠惨案旧址)を訪ねた。
 麦家祠は、感城鎮の中心部から市場を通りぬけて二〇〇メートルほど進み、雑貨店のある角を右に曲がって一〇〇メートルほどのところにあった。麦家祠は、麦という姓の一族の廟だ。
 麦家祠の近くにいた男の人が、
   “むかしは両隣には家があっただけでほかには家はなかった。あなたたちが、どこから来
   たのかわからなが、何十年もたったのに、犠牲者について関心を持って来るひとは、ひじょ
   うにめずらしい”、
と言った。その人が、当時のことをよく知っている人がいると言って林さん(九〇歳くらい)を麦家祠までつれてきてくした。林さんは、解放後、生産大隊婦人大隊主任をしていたことがあるとのことだった。
 林さんは、こう話した。
   “この村で生まれ、ずっとここに住んでいる。「事件」のときには家にいた。当時、二〇歳あ
   まりだった。
    麦家祠の後ろの方に家があった。国民党の兵隊が、近くの家の屋根の上にのぼって麦
   家祠をみはっていた。
    日本兵はいなかった。国民党の兵隊だけだった。
    国民党はいい武器を持っていたのに、共産党は警戒していなかった。包囲されてからの
   指揮はまちがっていた。撤退する政策を取らなかった。逃げようと主張する人もいたのに、
   指揮した人が、この案を退けた。警戒して早めに脱出していたら、もっと生き残っていただ
   ろう。
    以前も麦家祠のことを調べに来たことがあったが、遺族のことなど,何も調べていかな
   かった。
    殺された人のなかに知り合いがいる〔名前を聞いたら、林さんは、思い出せなくて、涙を
   出し胸をたたいて悔しがった〕。
    生き残った庄恩鳳は、何年か前に亡くなった。この村(感北村)の女性だ。庄恩鳳の兄弟
   は何人か、このとき死んだ。
    兄嫁の夫は共産党に参加した。この辺は、共産党に入る人が多かった。
    感恩で道路や鉄橋を作るとき、台湾人、朝鮮人がおおぜい死んだ。
    道路工事がきつくて、共産党に入りたいという台湾人がいたが、山の生活はたいへんだ
   からといって入らなかった。
    日本軍は恐ろしい軍隊だった。見つかったら殺されるというので、みんな山のほうへ逃げ
   た”。

 九〇歳ほどの林さんは、当時のことを嘆き悲しみつつ長い間話してくれた。感恩で死んだというおおぜいの台湾人、朝鮮人について、なんども聞き返したが、それ以上のこたえはかえってこなかった。
 麦家祠は、「事件」のあとなんども改築されたが、柱は当時のままで、銃弾のあとがいくつも残されていた。
 朝一〇時過ぎに麦家祠を離れ、もときた道をたどって十字路にいくと角の雑貨店の前で何人もの年寄りが休んでいた。蒙秀富さん(一九二五年生)、林泰栄さん(一九三一年生)、麦篤良さん(一九三五年生)、麦篤普さん(一九三四年生)さん、麦文龍さん(一九三一年生)らだった。みなさんから話を聞かせてもらうことができた。周りに大勢の子どもたちが集まり、熱心に話を聞いていた。
 麦篤良さんは、
   “事件のとき、麦家祠から少し離れ田田んぼに牛追いに行っていた。機関銃の音が聞こえ
   た”、
と話し、林泰栄さんは、
   “麦家祠の近くの家にいた。銃の音を聞いた。日本の敗戦直後だった。
    国民党がいたところはハオスイスイ(好瑞村)。共産党は、麦家祠にいた。日本軍は、今の
   感城小学校にいた。
    国民党はさいしょは麦家祠に入ることはできなかった。外から撃ちあう銃撃戦だけだっ
   た。
    その後国民党は日本軍の軍営に行って、手榴弾や機関銃をとってきて、麦家祠の共産
   党を攻撃して全滅させた”
と話した。麦篤良さんは、
    “あの、事件のあと麦家祠に行ってみた。死体がたくさんあった。恐くて家に帰った”
と話した。麦文龍さんは、つぎのように話した。
   “国民党は何日間も共産党がいる麦家祠を包囲した。
    それを知った山にいた共産党の部隊は、支援部隊を送った。支援部隊は海側から麦家
   祠に入ろうとした。
    山にいた共産党の部隊は、黎族が多く、武器もあまりなかった。国民党は待ち伏せして
   いて、その黎族の部隊を攻撃した。
    黎族は泳げない人がおおい。川や海に逃げてほとんど溺れて死んだ。死んだ民族兵(黎
   族の兵士)は一四〇人。麦家祠の死者の数には入っていない。支援部隊が全体で何人
   だったか知らない。
    ここは川が海に流れ込むところに近い。支援部隊は銃はあまり持っていない。火薬銃を
   持っていた。
    わたしはそのとき、家にいた。国民党の麦家祠攻撃と、支援部隊への国民党の待ち伏せ
   攻撃は同じ日に起きた。
    その後、わたしは二か所とも見に行った。麦家祠の両隣の家にも、死体が何層にも重
   なっていた。歩くとき、死体を踏まないように歩くのがたいへんだった。
    村人が牛車で死体を運んで海のそばに穴を掘って埋葬した。
    麦家祠で死体を牛車に積み込むのは見ていないが、死体を積んだ牛車が通るのを見
   た。埋めるのは見ていない。運んだ死体の数はわからない。場所は知っている。何日か
   たって、家族が掘り起こしてじぶんの身内を見つけると、家族の墓地に埋葬した。
    民族兵の死体は海に流された。いくつかの死体は岸に流れついた。民族兵の死体はど
   こに埋めたか知らない。
    共産党の服装は、軍服ではない。一般の人といっしょの服。民族兵も同じ。
    日本の敗戦後、国民党は各家をまわって、男を国民党に入れた。国民党も、みんな同じ
   制服はきていない。
    朝鮮人が鉄道とか道路を作っていると話は聞いたが、じっさいには見ていない。
    日本軍は敗戦後、軍営から列を作って撤退したらしい。夜のうちにトラックで。
    日本兵はみんな恐ろしい。顔を見たら、みんな逃げた。山に。
    感城にいた日本兵は一〇〇人たらずだったと思う。黄色い軍服を着て、足は布で巻いて
   いた。皮靴をはいていた。
    感城の河口で青い服を着た人がしごとをしていた。人数はかなりいた。砂などをかついで
   運んだりしていた。橋の下の方でしごとをしていた。橋で何を作っていたかわからない。そ
   の人たちのしごとはきつかった。
    日本人がどこかからその人たちを捕まえてきて、辛いしごとをさせていた。住んでいるとこ
   ろは、日本軍の軍営といっしょの場所。見張りは厳しかった。出入り口を日本軍が監視して
   いた。日本軍からよくいじめられていたと聞いた”。

 午前一一時半、麦文龍さんに案内されて、麦家祠で殺された人たちが埋葬された場所に着いた。
 そこは、広い墓地の端にあり、ゴミ捨て場のようになっていた。墓地は古くからの感城の墓地だった。
 村から続く道のつきあたりにあたるところだった。この道は当時からあり、「事件」当時、麦家祠から牛車で遺体を運んだ道だった。埋められた場所を背にして村の方を見ると、道の左は池、右は水田だった。
その場で、麦文龍さんは、つぎのように話した。
   “漢民族の遺族が身内を探そうとして掘り出したので、そのとき、見にきたので、この場所
   を覚えている。
    ここは、村から続く道のつきあたりだ。遺体が梅られたのは、ここから左の方へ、あの建
   物(ゴミ焼却場)のあたりまでだ。まだ骨が残っているだろう”。
 そばにきたふたりの青年(麦為杰さんと林世進さん)は、
   “小さいときに大人から麦家祠のことを聞いた。このあたりに遊びに来たとき、足や手の骨
   を見たことがある。最近、この近くで日本兵の鉄カブトが出てきた”
と話した。麦為杰さんは麦文龍さんの息子さんだった。墓地の海側のはずれに行ったとき、林世進さんは、
   “ここには、感城の人ではない人たちが埋められている。
    日本軍のために働いていた人の墓ではないかと思う。
    最近、五人の頭の骨が見つかった。ふつうの人か兵隊かは、はっきりしていない。
    鉄カブトがみつかったのもここだ。
    骨は、わたしが見つけた。掘りださないでそのまま置いておいた。建築用の砂を取りに来
   て掘っていて見つけた。
    以前は平らだったが、建築用の砂を取ったので、でこぼこの状態になった”、
と話した。その場で、麦文龍さんは、
   “青い服の人もここに埋められただろう。骨は下に埋まっていると思う。
    海岸をふくめこの辺一帯を一五億元で不動産会社が買った。ビーチを開発する会社だ。
   まもなく、この墓地全体がなくなるだろう。隣村も引っ越しすることが決まっている”、
と話した。

 墓地から海のほうに向かうと小さな村(港門村)に着いた。港門村は感恩川の河口の村で、海岸に漁港があった。麦文龍さんは、
   “ここの海岸のあたりと感恩川で民族兵が国民党と戦って殺された。民族兵が、逃げて溺
   れ死んだ。岸に死体が流れ着いたということを聞いたことがある。最近、この港から、火薬
   銃が見つかった”
と話した。港門村には、当時のことを知っている人は住んでいなかった。

 日本海軍海南警備府の文書によると、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊感恩守備隊本部には三〇人あまりの将兵が常駐していたようである。感恩守備隊本部は、現在の感城鎭中心学校の敷地内にあった。
 午後一時半ころ、麦家祠から西に三〇〇メートルほどの地点にある感城鎭中心学校に行った。そこで出会った元教師の楊さん(六七歳)は、
   “日本軍の炮楼は見たことがある。かなり高く、四角い形だった。かなり前に無くなった。学
   校の正門を入って左側に、日本軍の宿舎があった。日本軍のいたところには、東西南北の
   四つの門があった”、
と話した。

■東方市感城鎮宝上村で
 二〇〇六年四月一日に、感恩で「現地調査」をしたことがあるが、その五年か七月後の二〇一一年一一月三日午後、感恩鉄橋跡や宝上村を再訪した。宝上村は、「朝鮮報国隊」の宿所があった村だ。
 午後時二半ころから、宝上小学校近くの雑貨店で梁恩嬌さん(一九二九年生。女性)に話を聞かせてもらうことができた。梁恩嬌さんは、つぎのように話した。
   “わたしは、日本軍が入ってきた当時、この村にいた。
    このあたりの田はすべて日本軍に奪われた。日本軍は奪った田の稲の栽培や収穫を村
   人にさせた。わたしも、田んぼのしごとや収穫したコメを集めるしごとなどいろいろさせられ
   た。
    いつも日本兵が監視していた。七〇パーセントは日本軍がとり感城の本部に運ばせた。
   のこりの三〇パーセントが村人にわたされた。収穫のときにも日本兵が監視しているので
   隠すことはできなかった。
    農作業を終えて家に帰るとき、若くてきれいな女性は、ときどき連れていかれた。
    日本兵は凶悪な顔をしていた。村人はたいへんだった。草がはえたら、その責任を追及
   された。
    稲の生育が良ければ、よくがんばったという。生育が悪ければ殴られた。殴られて死んだ
   人もいる。
    わたしの家では遠くはなれたところにも田んぼを持っていたが、耕作できなかった。問題
   が起きたらと思うと恐くて”。
 同じ場所で、張鉄球さん(一九三一年生)と蘇太助さん(一九三二年生)は、交互にこう話した。
   “青い服を着た集団:藍衣隊がこの村にいた。帽子、上着、ズボン、背負うカバン、みんな
   青かった。軍隊のようなベルトをして、靴を履いていた。しごとの行き帰りに列を作って歩か
   され、歌をうたわせられていた。みんな背が高かった。二〇歳すぎくらいの若者たちだっ
   た。
    藍衣隊はこの村の昔の学校に住んでいた。昔の宝上小学校だ。たくさんいた。はっきり
   覚えていないが、一〇〇人以上はいたと思う。藍衣隊は鉄道工事をしていた。土を運んだ
   り、レールを運んだり。土をくるまに積み入れて、鉄道の場所まで運んでいた。
    さいしょ、木の柱の橋。セメントの丸い土台に真ん中を丸くくぼませたところに、木の柱を
   立てた。列車の鉄道の橋だ。洪水で流されて、それで、柱がコンクリートのいま残っている
   橋を作った。柱をコンクリートで作って、上は板で作った。鉄でつなげて、レールの間の枕
   木は木。列車が通ったこともある。機関車だけで、試運転だけした。爆弾で橋がこわされた
   こともあった。
    トラックが通る道路は、いまも使ってる道路だ。
    一九四八年の大洪水で、枕木、鉄板、レール、みんな流された。
    仕事が終わって列を作って戻ってからは、どこにも行かせなかった。白い帽子、白いズボ
   ンをはいた人たちが監視していた。ずっと監視していた。外に出ることはできない。仕事を
   しにいくときも、帰ってくるときも、監視しされていた。監視する人は、銃を持っていないが、
   剣を持っていた。白い服装の人は。五、六人。藍衣隊より年上だった。
    木の橋をつくったのは朝鮮人。通訳がいて、通訳から聞いた。軍人ではなかった」。
 張鉄球さんは、さらにこう話した。
   “橋の工事で柱は、ニシマツクミが作った。藍衣隊は土を運んだ。
    ニシマツクミは八所から来ていた。通訳が教えてくれた。ニシマツクニには少し年かさの
   人がいて、あごひげをはやしていた。
    日本兵は子どもに‘カミ’をくれた。ここでは大便をしたとき、草などでふいたが、日本兵
   が、子どもに‘カミ’をくれることがあった。
    道路工事をするのにレンガが必要で、家を壊してレンガをはずして使った。少しでも不満
   を言ったら殺されるので、怒ることができない。
    日本人はみんな殺してしまうというので、みんな山に逃げた。
    日本軍は、飛行機で、誰も殺さない、というビラを撒いた。山には食べ物はないし、田ん
   ぼのしごともできないから、早く戻りなさい、という内容だった。ぜんぶ漢語で書いてあっ
   た。
    半月とか、一か月。二か月間逃げていた人もいた。漢奸が、「日本軍は村人殺さない。抵
   抗する人だけ殺す。村に戻ってくれ」というので、戻った。
    日本人は、だれもいなくなってしごとをさせることができずに困っていた。さいしょ何人か
   戻って、大丈夫だったので、それで少しづつ戻った。
    昔は、このあたりは原始林だった。
    日本軍が家を焼いたこともあった。日本軍がさいしょ来るとき、飛行機で爆弾を落とした。
   そのあと、日本軍が入ってきて、家を焼いた。
    日本が敗けるという話を聞いたが、日本軍が何をするか恐ろしくてまた山に逃げた。
    最後に日本軍がまた殺したり、ひどいことをするかと思って、みんな逃げた。
    共産党は日本が敗けたとき。武器を回収するために早いうちに感城に来た。少数民族の
   人も連れていた。少数民族の人は山にいるので、火薬を持っている。共産党は武器がな
   いので、それで少数民族をなかまにした。国民党は、日本軍から小さい手榴弾をもらって、
   麦家祠に投げたと聞いたことがある”。

 張鉄球さんと蘇太助さんから話を聞きおわってから、以前行ったことのある「朝鮮報国隊」の宿舎跡に向かった。
 途中、二〇〇六年四月に話を聞かせてもらった呉日文さん(一九三一年生)の家を訪ねた。呉日文さんといっしょに話を聞かせてもらった蘇諠芬さん(一九二三年生)は四年ほど前に病死したとのことだった。
 呉日文さんに「朝鮮報国隊」の宿舎跡に案内してもらってさらに話を聞かせてもらったが、五年七か月前には残っていたその建物は撤去され、広い空き地になっていた。
                                                佐藤正人
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