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「東亞日報」 March. 30, 2019 08:25
■地中の壺に「亡くなった夫の血のついた服」を保管、光復後に広げて号泣
1919年、日本の剣によって亡くなった独立運動家の文鏞祺(ムン・ヨンギ)先生(1878~1919・愛国彰・写真)は、益山(イクサン)4・4万歳運動の精神的支柱だ。先生が益山万歳デモの象徴として位置づけられたのは、妻のチェ・ジョンジャ夫人(1887~1955)の深謀遠慮がある。
朝、出ていった先生が死体になって戻ると、彼の老母と九歳の娘が昏絕して、そのままこの世を去った。4歳の娘も病気を患った末、その年に死亡し、チェ夫人は一年間で4度も葬儀を行わなければならなかった。
チェ夫人は、このようにとんでもない状況にも冷静さを失わなかった。彼女は、夫が着ていた血のついたトゥルマギと綿チョゴリを壺に入れて地中に埋めた。いつか光復(日本植民地から独立)になれば、日本帝国の蛮行を生々しく証言する証拠になるだろうという判断からだった。後で日本軍がやってきて先生の遺品を出せと脅したが、彼女はびくともしなかった。
チェ夫人は、夫の血衣が色あせする兆しを見せると、壺から取り出して、自分の韓服のスカートで包んだ後、梁に丁寧に吊り下げておいたりした。ついに光復になると、チェ夫人は初めて血のついたトゥルマギと綿チョゴリを取り出して、庭に敷かれたむしろの上に広げておいて、祭祀を行った後、息子と一緒に大泣きした。
この血衣は、嫁のチョン・グィレ氏が1985年、独立記念館に寄贈した。独立記念館はその後4年間、先生の血衣を展示し、1989年から保存のために収蔵庫に保管している。現在、独立記念館の第3展示館(民族の叫び声)で見られる血衣は複製品だ。日本の憲兵の大剣に刺されてできたチョゴリの左脇腹の部分と襟、袖の鮮血の痕跡は、100年が過ぎた今でも、当時の日本の野蛮な弾圧状況を生々しく示している。
鄭勝豪 shjung@donga.com
「東亞日報」 March. 30, 2019 08:25
■地中の壺に「亡くなった夫の血のついた服」を保管、光復後に広げて号泣
1919年、日本の剣によって亡くなった独立運動家の文鏞祺(ムン・ヨンギ)先生(1878~1919・愛国彰・写真)は、益山(イクサン)4・4万歳運動の精神的支柱だ。先生が益山万歳デモの象徴として位置づけられたのは、妻のチェ・ジョンジャ夫人(1887~1955)の深謀遠慮がある。
朝、出ていった先生が死体になって戻ると、彼の老母と九歳の娘が昏絕して、そのままこの世を去った。4歳の娘も病気を患った末、その年に死亡し、チェ夫人は一年間で4度も葬儀を行わなければならなかった。
チェ夫人は、このようにとんでもない状況にも冷静さを失わなかった。彼女は、夫が着ていた血のついたトゥルマギと綿チョゴリを壺に入れて地中に埋めた。いつか光復(日本植民地から独立)になれば、日本帝国の蛮行を生々しく証言する証拠になるだろうという判断からだった。後で日本軍がやってきて先生の遺品を出せと脅したが、彼女はびくともしなかった。
チェ夫人は、夫の血衣が色あせする兆しを見せると、壺から取り出して、自分の韓服のスカートで包んだ後、梁に丁寧に吊り下げておいたりした。ついに光復になると、チェ夫人は初めて血のついたトゥルマギと綿チョゴリを取り出して、庭に敷かれたむしろの上に広げておいて、祭祀を行った後、息子と一緒に大泣きした。
この血衣は、嫁のチョン・グィレ氏が1985年、独立記念館に寄贈した。独立記念館はその後4年間、先生の血衣を展示し、1989年から保存のために収蔵庫に保管している。現在、独立記念館の第3展示館(民族の叫び声)で見られる血衣は複製品だ。日本の憲兵の大剣に刺されてできたチョゴリの左脇腹の部分と襟、袖の鮮血の痕跡は、100年が過ぎた今でも、当時の日本の野蛮な弾圧状況を生々しく示している。
鄭勝豪 shjung@donga.com