Ⅱ、証言
映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で、畑に向かう道で、畑で)
テロップ:朱学平さん(1933年生)
ナレーション:
朱学平(ジュ・シュエピン Zhu-Xueping)さんは、
「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、な
にも言わないで、殺しはじめた。10人家族のうち、わたしだけが生き残った。
父、母、兄2人、姉、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の朱彩蓮
(ジュ・ツァイリェン Zhu-Cailian)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて
腸がとびだしていたが、まだ生きていた。こわかった。
血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確か
めた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は瀕死だったが、3日ほど生
きていた。
半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていた
が、骨になりきっておらず、くさっていた。
まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧から来て、遺体を近くに運
んで埋めた。父の朱開陵(ジュ・カイリン Zhu-Kailing)は52歳、母の呉洋尾
(ウ・ヤンウェイ Wu-Yangwei)は50歳だった」
と話しました。
影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さ
ん
影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
ナレーション:
朱学平さんは、「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。遺骨が埋め
られたと思われる場所をなんども掘って探したが見つからなかった。焼けた骨は土
のなかで砕けてしまったのだと思う」と話しました。
映像:朱学平さんのむかしの家の跡
テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
影像:その向かいの家の跡 土台石が残っているだけ
テロップ:朱学平さん家の向かいの家の跡 土台石が残っているだけ
ナレーション:この家では7人家族全員が殺されたそうです。
映像:朱建華さん
テロップ:自宅の中庭で話す朱建華さん(1944年生)
ナレーション:朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、
お母さんが抱いてかばってくれたそうです。
お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の
兄は刺され、即死したそうです。
このとき、叔父さん4人と、叔母さん2人も殺されました。その叔父さんの
1人は、日本刀で腹を刺され、のどが渇いて水を飲んだら、腸がとびだしたそ
うです。
影像:日本軍に刺された数か所の傷跡を示す朱建華さん
映像:朱光清さん
テロップ:日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん(1934年生)
ナレーション:朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったと
き、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。
その家のあった場所で、朱光清さんは、
「とつぜん日本兵が家に入ってきたとき、わたしは母といっしょだっ
た。
お辞儀をしている母を日本兵は日本刀で切った。倒れた母を日本兵は
なんども刺して殺した。
わたしは、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびで
た。手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも
止まらなかった。日本刀で5か所切られていた。
殺されてとき母は、43歳だった。
父は日本軍がくる前に死んでいたので、両親がいなくなった」
と話しました。
映像:腹部の深い傷跡、右足首上部の細長い傷跡を示す朱光清さん
影像:母が殺された場所を示す朱光清さん
映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で、畑に向かう道で、畑で)
テロップ:朱学平さん(1933年生)
ナレーション:
朱学平(ジュ・シュエピン Zhu-Xueping)さんは、
「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、な
にも言わないで、殺しはじめた。10人家族のうち、わたしだけが生き残った。
父、母、兄2人、姉、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の朱彩蓮
(ジュ・ツァイリェン Zhu-Cailian)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて
腸がとびだしていたが、まだ生きていた。こわかった。
血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確か
めた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は瀕死だったが、3日ほど生
きていた。
半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていた
が、骨になりきっておらず、くさっていた。
まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧から来て、遺体を近くに運
んで埋めた。父の朱開陵(ジュ・カイリン Zhu-Kailing)は52歳、母の呉洋尾
(ウ・ヤンウェイ Wu-Yangwei)は50歳だった」
と話しました。
影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さ
ん
影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
ナレーション:
朱学平さんは、「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。遺骨が埋め
られたと思われる場所をなんども掘って探したが見つからなかった。焼けた骨は土
のなかで砕けてしまったのだと思う」と話しました。
映像:朱学平さんのむかしの家の跡
テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
影像:その向かいの家の跡 土台石が残っているだけ
テロップ:朱学平さん家の向かいの家の跡 土台石が残っているだけ
ナレーション:この家では7人家族全員が殺されたそうです。
映像:朱建華さん
テロップ:自宅の中庭で話す朱建華さん(1944年生)
ナレーション:朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、
お母さんが抱いてかばってくれたそうです。
お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の
兄は刺され、即死したそうです。
このとき、叔父さん4人と、叔母さん2人も殺されました。その叔父さんの
1人は、日本刀で腹を刺され、のどが渇いて水を飲んだら、腸がとびだしたそ
うです。
影像:日本軍に刺された数か所の傷跡を示す朱建華さん
映像:朱光清さん
テロップ:日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん(1934年生)
ナレーション:朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったと
き、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。
その家のあった場所で、朱光清さんは、
「とつぜん日本兵が家に入ってきたとき、わたしは母といっしょだっ
た。
お辞儀をしている母を日本兵は日本刀で切った。倒れた母を日本兵は
なんども刺して殺した。
わたしは、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびで
た。手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも
止まらなかった。日本刀で5か所切られていた。
殺されてとき母は、43歳だった。
父は日本軍がくる前に死んでいたので、両親がいなくなった」
と話しました。
映像:腹部の深い傷跡、右足首上部の細長い傷跡を示す朱光清さん
影像:母が殺された場所を示す朱光清さん