三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「中国は化学兵器軍縮・不拡散・協力の均衡ある推進を主張」

2017年12月13日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://j.people.com.cn/n3/2017/1129/c94474-9298429.html
「人民網日本語版」 2017年11月29日14:37
■中国は化学兵器軍縮・不拡散・協力の均衡ある推進を主張 
 中国の呉懇・化学兵器禁止機関(OPCW)常駐代表は28日「化学兵器なき世界という目標の達成は依然として任重く道遠しだ。今後OPCWは化学兵器の軍縮、不拡散、国際協力、防護と援助の4つの問題の均衡ある推進を検討すべきだ」と表明した。新華社が伝えた。
 呉氏は化学兵器禁止条約(CWC)第22回締約国会議の一般討論演説で「国際安全保障体制を構成する重要な一部として、CWC及びOPCWは過去20年間、世界と地域の平和・安全の促進、化学兵器軍縮・不拡散分野で代替不能な役割を発揮し、卓越した成果を挙げてきた。だが化学兵器の廃棄はまだ完了せず、化学兵器を使用したとされる事件が多発し、非国家主体が化学兵器を入手・使用する危険性が高まっており、化学兵器なき世界という目標の達成は依然として任重く道遠しだ」と指摘した。
 また、「化学兵器の完全廃棄はCWCの核心的趣旨であるのみならず、OPCWにとって今後相当長期間にわたる最重要任務でもある。化学兵器なき世界の実現、人類の共通の安全の維持は、各国の一致した期待を反映しており、国際社会の共通利益に合致し、人類運命共同体の構築にとって有るべき筋道でもある。中国側は各国と一致協力して、平和が永続し、普遍的に安全で、共に繁栄する、開放的で包摂的な、清潔で美しい化学兵器なき世界の構築を推し進めたい」と述べた。
 呉氏はさらに「OPCWは日本の遺棄化学兵器の廃棄作業を特に注視すべきだ。日本の遺棄化学兵器が除去されなければ、化学兵器なき世界という目標の真の達成はない」と指摘した。
 「日本の対中侵略戦争終結からすでに70年余りになるが、日本が中国に遺棄した大量の化学兵器は今なお中国国民の生命と環境の安全を脅かしている。日本側はCWCの定める期限内に廃棄を完了していない。この責任は完全に日本側にある。中国側は日本に対して、政治的意志を示し、CWCの義務をしっかりと履行し、廃棄計画に厳格に従い、期限通りの完全廃棄を確保するよう求める」と表明した。
 呉氏はさらに「化学兵器の被害国として中国はかねてより、いかなる国、組織、個人であれ、いかなる状況下、いかなる目的であれ、化学兵器の使用に断固反対してきた」と重ねて表明した。
 「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」(略称:化学兵器禁止条約、CWC)は1997年4月29日に発効した。OPCWの監督下、全世界で保有の申告された化学兵器のすでに96%が廃棄された。
 CWCの締約国は現在192カ国。締約国会議はOPCW本部のあるオランダ・ハーグで毎年開催されている。今回の会議は12月1日に閉幕する。
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「“以史为鉴、面向未来”——中日两国有识之士以口述历史揭露战争真相」

2017年12月12日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://news.xinhuanet.com/world/2017-11/20/c_1121982578.htm
「新华网」 2017-11-20 13:14:17
■“以史为鉴、面向未来”——中日两国有识之士以口述历史揭露战争真相
 新华社日本相模原11月20日电 综述:“以史为鉴、面向未来”——中日两国有识之士以口述历史揭露战争真相   新华社记者王可佳 马峥

  19日下午,中日两国的和平友好人士在日本神奈川县相模原市进行研讨,以经历者的口述历史还原战争真相,揭露侵华日军的残忍罪行,并呼吁人们本着“以史为鉴、面向未来”的理念进一步构建中日两国间的友好关系。
  这一活动由日本民间团体“日中口述历史文化研究会”主办,中日两国的和平友好人士、学者、大学生代表等数十人参加了研讨。研究会会长、樱美林大学名誉教授植田渥雄表示,自己出生于1937年,从小便接触到很多有关侵华日军暴行的口述经历。现在,经历过战争历史的人们均年事已高,研究会要做的就是将他们的反省和记忆更好地传承下去。
  来自日中友好协会的平井润一表示,自己在参观南京大屠杀纪念馆的展览之后方知日军在攻陷南京后残忍屠杀了大量平民的真相,感到非常震惊。这也令他深刻体会到,日本为了和中国构建友好关系,必须要正视和反省这段历史。
  日本和平人士山边悠喜子曾在1941年随家人到中国,亲历过战争年代的她近40年来一直致力于揭露日军731部队的战争罪行。山边说,有很多证据可以证明日军曾利用731部队进行残忍的人体实验,但日本政府却仍想掩盖这段历史。现在战争结束已经70多年了,安倍政府却丝毫没有反省之意,这样的态度令人感到心寒。“承认历史才是两国友好的第一步。”她说。
  和平友好人士、前参议员樱井规顺表示,他和身边的很多人至今仍在努力为南京大屠杀向日本政府追责。樱井表示,努力学习日本侵华历史对自己来说是每天必须坚持的事,他认为人们一旦忘记这段历史,将有可能使日本重蹈战争的覆辙。
  “日中口述历史文化研究会”创办者李素桢曾在写博士论文期间对有关“居住在伪满洲的日本人”的课题进行调查。在调查中,她遇到了多名侵华老兵等战争亲历者,通过交流发现他们揭露战争真相的口述历史正是日军侵华战争的第一手珍贵资料。此后,李素桢创办了“日中口述历史文化研究会”,并发动日本友好人士一起记录下这些口述历史,至今已是第11年。
  李素桢认为,与这些揭露侵华日军罪行的战争亲历者面对面交流就像在读一部可以与之对话的“活历史”传记。她说,这样的口述历史非常珍贵,随着亲历者年事渐高,自己和同伴正在尽一切努力将它们“抢救下来”。
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「日軍奴役殘害中國勞工:屍體堆放到處都是」

2017年12月09日 | 国民国家日本の侵略犯罪
https://kknews.cc/world/8mlmzzg.html
「每日頭條」 2014-07-28  由 新華網 發表于環球
■日軍奴役殘害中國勞工:屍體堆放到處都是

【相片】吉林遼源礦工墓歷史展館內保存的「萬人坑」遺址。(新華社記者 林宏 攝)
【相片】7月4日,記錄侵華日軍奴役勞工的新書《鐵證如山——吉林省檔案館館藏日本侵華郵政檢閱月報專輯》出版。(新華社記者 林宏 攝)
 製圖:潘旭濤


  「昨天在後面的廣場上散步的時候,看到了許多滿洲人勞工的屍體堆放得到處都是,其中有的已經變成了白骨。這些屍體被狗當做美食在啃咬著」。
  1940年6月,在東寧滿鐵汽車區的安藤保,在寫給日本愛知縣安藤松一的信件中,記錄下了上述「在國內(即日本)是不可能看到的場景」,但在中國「最近我都看膩了」,以至於「用腳將他們踢飛」。
  如今,這段被收錄在關東憲兵隊司令部中央檢閱部《通信檢閱月報(6月)》中的文字,連同《月報》的其它內容被公之於世。當年,日軍很擔心這些事傳回日本國內後引起惡劣影響,因此對此信件做出的處理是「沒收」。
  這是發現日軍奴役勞工的新證據。」負責這部分檔案解讀工作的吉林大學東北亞研究院教授陳景彥說,日軍在東北修建了大量軍事工程,強征了數以百萬計的中國勞工。

◆東北遍布「萬人坑」
  1942年,侵華日軍在遼寧省大連市金州區城北龍王廟一帶,搶修一座旨在進行細菌武器試驗的所謂「陸軍醫院」。舊址坐落在金州區龍山路1號,即原大連陸軍學院院內。其主體工程是一處長約500米、帶地下室的多層整體建築。因為它特別長,當時有「亞洲第一長廊」之稱。
  負責這項工程的是日本關東軍滿洲693部隊土建事務所。為了完成此項工程,日本侵略者先後從河北、江蘇、山東一帶及金州、普蘭店等地,騙抓了3萬多名勞工。
  由於長期營養不良和居住條件極為惡劣,大多數勞工患了浮腫病。對於患病的勞工來說,最可怕的是被送進「病號房」,因為這裡沒水、沒飯、沒藥,只有等死。倖存勞工宋茂喜回憶,1943年6、7月間死的人最多,每天都有三四十人,6月有一天,竟從裡面抬出了103具屍體!
  從1942年5月至1945年8月的三年時間裡,勞工們被沉重的勞動、野蠻的毒打、飢餓等折磨致死的有近萬名,全部被拋屍於龍王廟周家溝附近。抗戰勝利後,後人在挖掘中發現此處屍骨堆積如山。
  有史料記載:日本侵略者侵占北票煤礦期間,在掠奪走煤炭8422426噸的同時,殘害致死勞工31200餘人,平均掠奪269.95噸煤炭,就有一名中國勞工失去了寶貴生命。
  「萬人坑」是特殊的歷史時代留下的鐵證,是中國人民受盡苦難的真實寫照。那些保持著張著口、向上爬姿態的遺骸,那些弓著身軀、呈痛苦掙扎狀的遺骸,那些被捆著鐵絲、帶著腳鐐或頭骨被打漏的遺骸……以他們永遠不變的姿勢,控訴著日本帝國主義的侵略罪行。
  東北淪陷期間,日本侵略者掠走的是難以計數的資源,留在東北大地上的則是累累白骨,座座「萬人坑」。據不完全統計,東北地區現有勞工「萬人坑」60餘處。日本侵略者壓迫奴役致死的勞工掩埋地主要有:遼源煤礦萬人坑、吉林市豐滿萬人坑、延吉老頭溝煤礦萬人坑、通化石人血淚山萬人坑、通化七道溝萬人坑、大栗子鐵礦萬人坑等。
  吉林省吉林市「豐滿萬人坑」是日本軍國主義侵華和殘害中國勞工罪行的歷史鐵證,亦是省級重點文物保護單位、省級國防教育基地。黑龍江省鶴崗東山萬人坑位於鶴崗礦務局新一礦,是日本侵華期間拋棄死難礦工屍體的場所,目前已發現4000具礦工的遺骸。
  遼寧境內的34處「萬人坑」大多分布在撫順、本溪、阜新、北票、大石橋等地礦山,也有少數是當年日寇修建大型軍事設施或水電站時留下來的。位於大石橋市聖水村的虎石溝「萬人坑」遺址,是日寇瘋狂掠奪中國鎂礦資源的鐵證,當年有1.7萬名中國勞工被奴役致死。在阜新地區,有證可考的「萬人坑」至少有4處,裡面埋葬的中國礦工達7萬餘人。阜新市孫家灣「萬人坑」遺址是目前國內日本殘害我礦工規模最大的一處「萬人坑」。

◆奴役勞工新證據
  專家最新研究發現,從1934年到1945年,日本關東軍為防蘇聯進攻,在中、蘇、蒙邊界秘密修築軍事工程,號稱「東方馬奇諾防線」,期間數十萬勞工慘死。
  這些檔案來自日本侵華時期各地憲兵隊形成的《郵政檢閱月報》。吉林省檔案館館員張雪介紹說,檔案揭露了在修築秘密軍事工程過程中,日本關東軍視勞工生命如草芥的反人道罪行。
  吉林省檔案館今年最新公布的14件館藏「反映日軍奴役勞工檔案」,是全部從關東憲兵隊全宗中發掘出來的,主要形成於東北淪陷中後期。這些檔案真實記錄了日軍對包括以中國戰俘為主的「特種工人」在內的中國勞工的嚴格管理、殘酷迫害和勞工嚴酷惡劣的生存環境。
  14件檔案中,孫吳、雞寧、東寧、奉天、齊齊哈爾、阿爾山等憲兵隊形成的報告(通牒)集中反映了軍事工程施工中出現的勞工集體逃跑事件。
  《關於強行攤派勞工實情的報告(通牒)》中,奉天憲兵隊對強征勞工中存在的頂替、缺勤、因病被解僱以及逃走等情況進行了調查和原因分析。據檔案記載,出現上述情況的原因主要是糧食衣物供給不足、薪酬低廉、不堪忍受毆打謾罵等。
  《特種工人狀況報告》是1943年7月5日東寧憲兵隊關於管轄內特種工人基本情況、管理狀況、思想動向的報告。檔案中記載,1943年3月26日和5月7日,先後接收日軍華北派遣軍移交特種工人2次共1935人,分別配屬到各部隊從事國防道路建設等軍事工程作業。由於營養不良導致身體極度衰弱以及各種設施不備等原因,1943年3月至7月間,1935人中即有163人病死,幾乎每天都有特種工人病死。
  《關東軍特種工人管理規定》是1943年7月13日關東軍司令部關於特種工人在軍事工程作業中運送、使役、管理、監視和警戒、會計、報告等方面的規定,共計7章32條,頒布實施於1943年8月1日。在該規定中,日軍華北派遣軍移交給關東軍的俘虜、投降兵被稱為特種工人。該規定中的諸多內容都反映了關東軍對特種工人超乎尋常的嚴苛管理。比如,第6條,部隊長不僅負責特種工人的使用、管理和警備,還要在思想上對特種工人進行教育,將其鎮壓在軍律之下;第21條,特種工人中如出現逃亡者,可以使用武力進行鎮壓。
  《關於處置企圖逃亡的特種工人的報告》系1941年7月12日海拉爾憲兵隊關於處置特種工人丁五才企圖逃跑相關情況的報告。檔案中記載:山西農民丁五才於1939年11月被駐紮山西省寧武縣的中國山西騎兵第一大隊徵集入伍,1941年2月20日在與日軍交戰中被俘。被俘後,作為特種工人,在哈拉溝軍用道路鋪設及烏奴耳地區宿舍建設工程地就勞。7月9日下午4點左右,軍醫到哈拉溝作業現場出診,以丁五才為傳染病患者需要隔離為由,將其帶回部隊本部進行嚴密調查。當天晚上8點,在烏奴耳東北方向3000米的山林中將其秘密嚴刑處理。

◆倖存者揭日罪行
  1945年3月29日,對於山東省肥城市孫家小莊村來說,是一個記憶里永遠不能被磨滅的日子。就在這天,這個200多人的村子被侵華日軍和偽軍包圍,31名村民被抓往日本——這幾乎是村裡全部的青壯年。
  目前的唯一倖存者孫遠其回憶說,沒多久他們就被轉移到了青島,並被押到船上前往日本。為了躲避水雷,船隻繞行到日本花了18個晝夜。
  在日本,孫遠其和同伴們被拉去伐木抬樹。孫遠其說,高強度的勞動量面前,最讓他難熬的是吃不上飯。「一頓飯給兩個窩頭,像牛眼大小,一口就吃沒了,一天一共6個,根本吃不飽,然後頂多再讓喝點涼水。一個隊300人,有管工的,一不小心可能就會被他們打……」
  在現今孫家小莊村的一個小山頭上,一塊二戰勞工紀念碑靜靜地矗立著。村裡二戰勞工的孩子都已年過花甲,當初並沒有親眼見證父親被掠走的他們,提到當年的日本侵華歷史,依然「恨得牙痒痒」:「他們給我們父親造成的身體和精神上的損失是無法彌補的……」
  2001年12月,青島市檔案館的工作人員發現了一份「勞工名單」,名單上記錄著100個當年被抓到日本的勞工,只有3個倖存者,其中一位叫閻明正。
  1943年,閻明正20歲。一個春夏之交的傍晚,幾個日本鬼子來了,用明晃晃的刺刀把他們押進了大港碼頭。
  「人挨著人,長隊看不到頭,鬼子用刺刀逼著我們上船。在海里漂了七天七夜,飯只有一小口窩頭,水也勉強活命。上千人像一窩豬一樣被囚禁在昏暗、臭氣熏天的底艙里,體力弱的開始昏厥。到第七天登陸的時候,當他們看到日本的膏藥旗才意識到,被鬼子弄到日本來了。」 閻明正說。
  在一個名叫大瀉張的煤礦,幾百名中國勞工開始了噩夢般的生活。他們連名字都沒有了,只有編號。煤礦乾的是重體力活,每天早晨天還不亮,監工就拿著皮鞭趕著他們上工了,稍微起慢了就會被皮鞭抽得皮開肉綻。每頓飯只有可憐的一小口窩頭,餓得兩眼直冒金星。餓倒在工地上是最危險的,監工看到餓倒的勞工就會凶神惡煞地撲過來,工地上的鋼釺就是他們隨手的懲罰器具。閻明正親眼看到,一個奄奄一息的工友被鬼子用鋼釺活活插死。閻明正回憶說,死人的事每天都有,餓死的、被打死的、病死的,每天都在往外拖,那些還有口氣的沒死的工友也被拖了出去活埋了。
  二戰時期,日本一些企業覬覦中國勞動力,於是派代表向日本政府提出將中國人強擄至日本為企業做苦役的要求。而日本政府認為讓中國人為日本企業做苦役,既有利於其在日本推行全民參戰的國民總動員方針,也有利於其對中國的掠奪。1942年11月27日,日本內閣會議通過《關於向日本內地輸入華人勞工的決議》。
  其實沒有人知道中國勞工的確切數字。有專家研究認為,日本在全面侵華期間,強征、奴役中國勞工總數約1500餘萬人,其中劫掠到日本的華北勞工據目前確認的數目就近4萬人。被掠至日本的169批中國勞工中,年齡最小者11歲,最大者78歲,20歲至39歲的青壯年占總人數的70%以上。
  被掠至日本的中國勞工,被分置於日本本土的北海道、九州、本州、四國4個大島的135處勞動工場,多從事礦山和土建業。
  超強度的體力勞動,惡劣的生活條件,監工的殘暴虐殺,三重摺磨下的中國勞工製造了無數人次的逃亡事件。事實上,華北勞工的4萬人中只有劉連仁一人成功逃出。這位山東大漢於日本投降前一個月逃出北海道的煤礦,在深山中躲藏了13年,不知世事變遷,不知日本投降,直到1958年才被當地人發現。而赴日勞工中的6000多人,永遠地把生命留在了大海彼岸的異鄉。
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「中国人労働者400人以上が犠牲になった「花岡事件」の生存者らが日本で訴訟」

2017年12月04日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://j.people.com.cn/n3/2017/1130/c94475-9299171.html
「人民網日本語版」 2017年11月30日17:02
■中国人労働者400人以上が犠牲になった「花岡事件」の生存者らが日本で訴訟
 第二次大戦中、日本に強制連行され秋田県の花岡鉱山で過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者2人と遺族ら計17人が、国に謝罪と損害賠償を求めた民事訴訟裁判が28日、大阪地方裁判所で行われた。共同通信社の報道を引用して参考消息網が報じた。
 裁判では、生存者で原告の李鉄垂さん(94、河北省出身)が証言を行い、過酷な労働を強いて、多くの犠牲者が出たことについて日本は責任を負わねばならないと訴え、損害賠償を求めた。1944年4月、李さんは旧日本軍に捕まり、花岡鉱山に連行された。李さんは時折涙ぐみながら、1日15-16時間働き、草を食べて飢えをしのいだと、思い出すだけでもつらい当時の様子を語った。
 報道によると、李さんも中国人労働者らが一斉蜂起した「花岡事件」に参加した。李さんは、「犠牲者があまりにも多く、過酷な労働に耐えられなかった」と語った。
 報道によると、李さんは暴動後に近くの山に逃げ込んだものの、すぐに捕まり、その時にこめかみにかすめた銃弾の傷痕や、爪の間に竹串を入れられるなどの拷問を受けた傷跡が今でも残っている。労働者は日本の敗戦後に解放され、李さんは家業である農業を継いだものの、後遺症に悩まされ、決して順調ではなかった。李さんは法廷での証言後、記者会見し、「必要な食べ物や服がない状態で過酷な労働を強いられたことを思い出すだけで、はらわたが煮えくり返る」と語った。
 報道によると、花岡事件では、拷問などを受けた中国人労働者計400人以上が死亡した。原告側は裁判で、日本政府は連行した中国人の健康管理や保護を怠ったと訴えている。


http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20171128/5746751.html
「NHKNEWS WEB 関西 NEWS WEB」 2017年11月28日18時11分
■中国人強制連行訴訟で原告が証言
 太平洋戦争中、日本に強制的に連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者や遺族が、日本政府に賠償を求めている裁判で、原告で元労働者の94歳の男性が法廷で証言し、「多くの中国人が飢えや病気で亡くなった」と、当時の過酷な状況を語りました。
 この裁判では、太平洋戦争中に、大阪や秋田に強制的に連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者や遺族あわせて17人が、日本政府に、あわせて8000万円余りの賠償と謝罪を求めています。
28日の大阪地方裁判所での審理では、当時、秋田で強制労働をさせられたと訴えている94歳の李鉄垂さんが中国・河北省から来日し、法廷で証言しました。
 李さんは、「武装した日本軍に連行され、逃げることもできなかった。草木を食べて飢えをしのぎ、毎日15時間以上働かされた。多くの中国人が病気や飢えで亡くなった」と、時折おえつを漏らしながら語りました。
 中国人の元労働者が、日本政府や日本企業に賠償を求める裁判は、平成19年に最高裁判所が、「日中共同声明によって個人が賠償を求める権利はなくなった」という判断を示しています。
 記者会見した李さんは、「4万人近い中国人が強制連行され、およそ7000人が日本で命を落とした。多くの被害をもたらした強制連行の責任は日本政府にあり、きちんと賠償と謝罪をしてほしい」と訴えました。


https://mainichi.jp/articles/20171129/k00/00m/040/161000c
『毎日新聞』 2017年11月28日 23時27分(最終更新 11月29日 00時22分)
■花岡事件賠償訴訟  「飢えや寒さ虐待」94歳中国人が証言

【写真】記者会見をする原告の李鉄垂さん=大阪市北区で2017年11月28日午後4時43分、遠藤浩二撮影

 第二次大戦中、日本に強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者と遺族ら17人が国に謝罪と1人当たり550万円の損害賠償を求めた訴訟で、秋田県の花岡鉱山で労働者らが一斉蜂起した「花岡事件」の生存者で原告の李鉄垂さん(94)=河北省=が28日、大阪地裁で証言した。李さんは時折涙ぐみながら、飢えや寒さ、仲間への虐待に耐えかね、命がけで逃げた様子を語った。
 李さんは中国共産党軍にいた1944年春、河北省で日本兵に捕まった。収容所生活の後、青島から鉄鉱石を運ぶ船で下関へ。8月、陸路で秋田に連行された。
 花岡鉱山では河川工事を命じられた。1日15~16時間働き、水に足がつかり凍傷になった。三度の食事はドングリの粉を使ったものだけで、食べる度に腹を下した。山で野草や木の葉を取って飢えをしのいだ。冬でも服は1枚。板の間で仲間と身を寄せ合って寝た。飢えや病気で死者が相次いだ。
 一斉蜂起のきっかけは、日本人の現場監督による虐待だった。仲間の1人は日本人からおにぎりをもらったなどとして衆目の中で殴り殺され、もう1人は熱した鉄を体に押しつけられた。「これ以上我慢できなくなった」。
 暴動後に労働者らは近くの山に逃げ込んだ。すぐに憲兵隊に囲まれ発砲を受け、李さんのこめかみには銃弾がかすめた傷痕が残る。警察官から爪の間に竹串を入れられるなどの拷問を受けたが、日本の敗戦で解放された。
 原告のうち生存者は李さんを含め2人。李さんは証言後、記者会見し「強制連行は日本政府の責任。謝罪と賠償をしてほしい」と訴えた。
       【遠藤浩二】

【ことば】花岡事件
 戦時中の1942年、政府は労働力不足を補うため中国人労働者の国内移入を決定。
 約4万人が日本に連行され、35企業135カ所の炭鉱や港湾施設などで過酷な労働を強いられた。
 秋田県の花岡鉱山(旧鹿島組花岡出張所)では986人が働き、飢えや虐待による死者が相次いだ。中国人労働者らは45年6月30日に一斉蜂起し、日本人補導員らを殺害して逃走したが、憲兵隊などに鎮圧され、終戦までに419人が死亡したとされる。
 生存者と遺族計11人が鹿島(旧鹿島組)に損害賠償を求めて提訴。東京高裁で2000年11月、鹿島が11人を含む986人全員の解決を図るため5億円の基金を設立することで和解が成立した。


http://www17.plala.or.jp/kyodo/1128.pdf#search=%27%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E8%A8%B4%E8%A8%9F+%E6%9D%8E%E9%89%84%E5%9E%82%27
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「戦争加害展示の撤去理由文書を非公開にした大阪市、高裁で逆転敗訴」

2017年12月03日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2017/09/29/antena-83/
「週刊金曜日」 2017年9月29日5:39PM
■戦争加害展示の撤去理由文書を非公開にした大阪市、高裁で逆転敗訴

【写真】勝訴の旗を掲げる竹本昇さん(右から3番目)ら。(提供/「ピースおおさか」の危機を考える連絡会)

 大阪国際平和センター「ピースおおさか」(大阪市中央区)が戦争の加害展示を撤去した改装をめぐり、大阪市が展示内容の変更を示す文書を非公開にしたことで精神的苦痛を受けたとして、市民団体「『ピースおおさか』の危機を考える連絡会」の竹本昇さん(67歳)が160万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が9月1日、大阪高裁であった。佐村浩之裁判長は請求棄却の一審・大阪地裁判決を覆し、「非公開決定は違法」として市に5万円の賠償を命じた。
 判決などによると、ピースおおさかは大阪府・市が財団法人を設立して1991年に開館。戦争を被害と加害の両面から捉える必要性から「南京大虐殺」「朝鮮人強制連行」など加害の歴史にも力を入れた。ところが2011年の統一地方選挙で「大阪維新の会」が躍進すると「自虐的だ」との非難を強め、橋下徹知事(当時)が府議会で廃館を示唆。13年4月に加害展示を見直すリニューアル構想が発表され、市民団体などが抗議行動を展開。竹本さんは15年1月、展示変更を示す文書の公開を市に求めたが非公開決定が出された。ピースおおさかは同年4月、リニューアルオープンした。
 判決は、非公開文書は「それ自体秘密性を有するものとはいえない」とし、市の情報公開条例が規定する非公開情報には該当しないと判断。「公開すれば市民団体の批判などへの対応に追われ、改装に向けた準備業務に支障が生じる」との市の主張には、「強い公共的性格を有し、意見や批判などを受けないように取り計らうのは正当ではない」として退けた。
 判決について、竹本さんは「加害展示撤去の手続きの違法性が認定され、市民の知る権利を奪おうとした不当なものであることが明らかになった」と評価。大阪市は上告を検討している。
 竹本さんは市のほかに府、運営財団とも同様の訴訟を起こしているが、いずれも一審は敗訴して大阪高裁で審理中。府相手の控訴審判決は11月30日。
                             平野次郎・フリーライター、2017年9月15日号


http://www.asiapress.org/apn/author/japan/post-56037/
「アジアプレス・ネットワーク」2017年11月10日 新聞うずみ火
■「ピースおおさか」訴訟逆転勝訴(1) 平和博物館の理念どこへ(栗原佳子/新聞うずみ火)

【写真】改装される前の「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)。被害と加害の両面から戦争の実相に迫る平和博物館の先駆けとして知られた。【撮影・新聞うずみ火】

◆被害と加害の両面から戦争の実相に迫る平和博物館の先駆けだった
 一昨年、日本軍の加害に関わる展示を撤去し、大阪空襲に特化する施設に全面改装した「大阪国際平和センター」(ピースおおさか、大阪市中央区)。この改装をめぐり市民団体の男性が大阪市を訴えた情報公開訴訟の控訴審判決で、大阪高裁は一審判決を破棄し、男性の訴えを認める逆転判決を言い渡した。審理の中で浮かび上がったのは、強権的な首長の下で平和博物館の設置理念が骨抜きにされていく姿だった。 (栗原佳子)
 東洋一の兵器工場「大阪砲兵工廠」の跡地、大阪城公園にある「ピースおおさか」。1989年に大阪府と市が共同出資して財団を設立、91年にオープンした。
   “1945年8月15日に至る15年戦争において、戦場となった中国をはじめアジア・太
   平洋地域の人々、また植民地下の朝鮮・台湾の人々にも多大の危害を与えたことを私
   たちは忘れません”。
 このような設置理念に基づき、「大阪空襲と人々の生活」「15年戦争」(満州事変~太平洋戦争)「平和と希求」の3ゾーンで構成。被害と加害の両面から戦争の実相に迫る平和博物館の先駆けとして知られた。
 一方で、90年代後半から保守系団体などから「自虐」「偏向」などと攻撃を受けてきた。危機は2008年、橋下徹氏の府知事当選を契機にした「維新政治」によってもたらされることになる。
 橋下氏は府知事就任まもなくピースおおさかを視察。府職員の出向を問題視して、派遣職員を引き上げた。補助金も大幅カット。最終的には事業費全額をカットした。
 橋下氏はその後、市長に鞍替え。ダブル選となった府知事選では橋下氏率いる地域政党「大阪維新の会」の松井一郎氏(元自民府議)が当選した。2人は揃って人権博物館「リバティおおさか」との統合案や、近現代史を両論併記で学ぶ教育施設を建設する案などをぶち上げた。

http://www.asiapress.org/apn/author/japan/post-56041/
「アジアプレス・ネットワーク」2017年11月10日 新聞うずみ火
■「ピースおおさか」訴訟逆転勝訴(2) 知る権利の具体化に資する判決(栗原佳子/新聞うずみ火)

【写真】ピースおおさかの改装をめぐり大阪市を訴えた情報公開訴訟の控訴審判決で、大阪高裁は一審判決を破棄し、男性の訴えを認める逆転判決を言い渡した。逆転勝訴の報告集会であいさつする連絡会のメンバー、竹本昇さん(66)。(9月撮影・栗原佳子/新聞うずみ火)

◆加害展示撤去がリニューアルの目的
 9月24日、大阪市内で開かれた逆転勝訴報告会。代理人の大前治弁護士は「市が情報公開条例に違反していたこと、竹本さんがその違反によってとても心痛を感じたなど具体的な損害を受けたことを立証することで控訴審は勝利した。知る権利の具体化に資する判決だと思う」と意義を強調し、こう続けた。
 「竹本さんに情報が隠されたことは全ての市民に情報が隠されたに等しい。72年前の戦争は『国民に真実を知らせないこと』を原動力として進められた。同じことを繰り返してはいけない」。
 原告の竹本さんは、「裁判の中で、松井氏と橋下氏の不当な干渉が暴露された」と具体例を列挙した。
 例えば、ピースおおさかはもともと戦後65年に合わせリニューアルする計画があった。元専門職員の常本一さん(今年3月に死去)は意見書にこう記した。
 “橋下氏が大阪市長となってからは、私を中心に部内でつくりつつあったピースおおさかのリニューアル案を突然一方的に中止させ、いわゆる加害展示の撤去というプランを押し付けてきた。その過程はまさに有無をいわさない、独裁的なものでした。”
 被告側はリニューアル当時の館長や事務局長の陳述書を提出。そこには『加害展示が撤去されていたことに加え、各種団体からの意見、要望、要請のほとんどが反映されていないことが明らかになってしまう』などと書かれていた。
 「非公開の本当の理由は、加害展示撤去がリニューアルの目的だということを市民に知られないためだった」と竹本さん。
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「ピースおおさか展示変更 府も敗訴」

2017年12月02日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20171130/5882881.html
「NHK NEWS WEB 関西 NEWS WEB」 2017年11月30日 17時45分
■ピースおおさか展示変更 府も敗訴
 大阪の平和資料館「ピースおおさか」の太平洋戦争に関連した展示内容の変更をめぐり、情報公開を認められなかった市民団体の男性が、府を訴えた裁判の2審で、大阪高等裁判所は、「歴史認識にも深く関わる」として、公開しなかった府の決定は違法だとする判決を言い渡しました。
 この問題をめぐっては、大阪市を相手取った裁判でも2審で原告逆転勝訴の判決が出ています。
 大阪城公園にある「ピースおおさか」は、大阪府と大阪市が出資する団体が運営し、大阪空襲や旧日本軍の加害行為とされる内容を展示していましたが、「自虐的だ」などと批判が寄せられ、おととし、展示内容を変更しました。
 この変更をめぐり市民団体の男性が府や市に情報公開を求めましたが認められず、その後の裁判でも1審で訴えを退けられたため、控訴していました。
 30日の2審の判決で大阪高等裁判所の田中俊次裁判長は、「大阪府は情報を公開すると市民団体などから批判が多数寄せられるおそれがあったと主張するが、展示内容は先の大戦の歴史認識にも深く関わり、公開して議論の対象とすることが望ましかった」と指摘し、1審とは逆に府の決定は違法だとして、5万円の慰謝料を支払うよう命じました。
 この問題をめぐってはことし9月、大阪市を相手取った裁判の2審でも大阪市の違法性を認める原告逆転勝訴の判決が出ています。
 原告の竹本昇さんは、「訴えを認めてくれてうれしい。大阪府は違法性を認め、展示内容も改めてほしい」と話していました。
 一方、大阪府は「判決内容を十分精査したうえで今後の対応について検討していきたい」とコメントしています。


http://www.asahi.com/articles/ASKCZ5G3ZKCZPTIL00L.html?ref=newspicks
「朝日新聞デジタル」 2017年11月30日21時46分
■ピースおおさか展示巡る文書、非公開は違法 高裁判決
 大阪国際平和センター(ピースおおさか)の展示変更に関する文書を大阪府が非公開とし、精神的苦痛を受けたとして、市民団体の男性が160万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が30日、大阪高裁であった。田中俊次裁判長は訴えを退けた一審判決を変更し、府の決定を違法と認定。5万円の賠償を命じた。
 訴えた三重県伊賀市の竹本昇さん(67)は2015年1月、センターの運営財団と、設立した大阪府・市に文書公開を請求。府は「公開すると要望や批判が寄せられ、センターの業務に支障が出る」として非公開としたうえ、一部は展示の変更後に公開した。
 判決は、対象の文書は「戦争の歴史認識にも関わり、高い公益性を有する」と指摘。公開によって事業に著しい支障が生じるとは言えないとし、府の決定を違法と判断した。
 市とセンターを相手取った同様の訴訟で、一審・大阪地裁はいずれも棄却した。今年9月の控訴審で大阪高裁の別の裁判長は市の違法性を認め、5万円の支払いを命じた。センターの判決は来年2月の予定。
                       釆沢嘉高


http://news.xinhuanet.com/world/2017-12/01/c_1122039223.htm
「新华网」 2017-12-01 00:19:30
■未公开有关资料馆撤除加害历史展品信息 日本大阪府被判违法
 新华社东京11月30日电(记者王可佳)据日本广播协会电视台报道,日本大阪高等法院30日对市民状告大阪府未公开有关资料馆撤除二战加害历史展品的信息一案做出二审判决,认为展品信息与对战争历史的认识有很大关联,判定大阪府政府不公开信息属违法行为。
  据报道,大阪国际和平中心曾展出部分有关南京大屠杀等反映二战期间日本加害历史的展品。大阪国际和平中心表示接到投诉称部分展品“偏颇且自虐”,在2015年撤除了反映加害历史的展品。
  对此,日本市民团体大阪国际和平中心危机思考联络会事务局长竹本升曾要求资料馆出资方大阪市和大阪府政府公开撤除展品的相关信息,但遭到拒绝,于是对大阪市和大阪府分别提起诉讼。这两起诉讼都曾在一审时被驳回,但经上诉后均获得胜诉。
  30日,大阪高等法院做出二审判决,判定大阪府违法,并赔偿原告5万日元(约人民币2945元)精神损失费。审判长田中俊次说,大阪府虽以担心引发批判为由拒绝公开相关信息,但这些展品内容与对战争历史的认识有很大关联,理应成为公开讨论的对象。
  竹本升此前在接受新华社记者采访时说,大阪国际和平中心原本是一个通过展览让孩子们全面了解战争中被害和加害历史事实的地方,但安倍政权执政以来,一直在掩盖侵略战争等历史,原本就不多的加害历史展品被撤除,现在的展示内容已经偏离原本的目的,有很多市民对此表达不满,但安倍政府一直无视民意。


https://mainichi.jp/articles/20171201/ddn/041/040/016000c
『毎日新聞』2017年12月1日 大阪朝刊
■ピースおおさか 戦争展示変更文書 非開示、大阪府も敗訴 高裁判決
 大阪市中央区の平和資料館「ピースおおさか」の展示変更を巡り、大阪府が事前に変更内容を記した文書を開示しなかったのは違法だとして市民団体の男性(67)が府に160万円の損害賠償を求めた訴訟で、大阪高裁は30日、府に5万円の支払いを命じる判決を言い渡した。1審・大阪地裁は昨年12月、府と市に対する男性側の請求を棄却。控訴審では高裁が今年9月、市に5万円の支払いを命じたのに続き、府側の逆転敗訴となった。
 ピースおおさかは府市が出資する公益財団法人が運営。展示が自虐的との批判を受け、2015年4月に旧日本軍の加害行為に関する展示を大幅に縮小した。男性は同年1月に展示変更に関する文書を開示請求したが、府と市は非開示とした。
 府は「開示すれば市民団体から批判が寄せられ業務に支障が出た」と主張したが、田中俊次裁判長は「文書は先の大戦に対する歴史認識に関わり、高い公益性を有する。開示に大きな支障はなかった」と指摘した。
                        原田啓之
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「温州华盖山举行悼念仪式」

2017年11月24日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.china918.net/news/read?id=12639
「中国918爱国网」2017-09-27 13:18:17  来源:来稿(作者:刘建国 黄爱盛)
■温州华盖山举行悼念仪式
 今天上午由温州市公园管理处、温州市历史学会、东瀛惨案史研究中心主办的《东瀛惨案受害华工、王希天义士悼念仪式暨赴日祭祖交涉活动进展说明会》在温州市华盖山公园温处两地蒙难华工纪念碑处举行。温州市外侨办朱玉贵副主任、温州市侨联陈晓军秘书长、温州市历史学会刘建国会长、温州市外侨办领事管理处李毅处长、温州市公园管理处党总支书记胡朝明、温州市公园管理处华盖公园党支部书记周琼、东瀛惨案史研究中心、温州日报、温州晚报、温州商报、社会各界爱国友好人士和遗属代表共50多人参加了纪念活动。

【相片】温州市历史学会会长刘建国主持悼念仪式

★温州市历史学会东瀛惨案史研究中心副主任兼秘书长黄爱盛讲话
  尊敬的各位领导、尊敬的各位来宾、女士们、先生们:大家好!
  今天,温州市历史学会、温州市公园管理处、东瀛惨案史研究中心共同举办‘东瀛惨案受害华工、王希天烈士追悼活动,缅怀94年前在关东被日本军、警、暴徒无辜屠杀的华工先辈,以及为调查被屠杀华工情况惨遭毒手的烈士王希天。向无辜死难先辈致以深切的哀悼!
  1923年9月,日本关东地区发生了里氏7.9级的大地震,造成了巨大的人员伤亡和经济损失。当时在东京谋生的700多名温处同胞虽然躲过了天灾,但却遭受了人祸,一些受军国主义思想蛊惑、排外情绪高涨的军、警、暴徒故意制造借口,对无辜华人进行了有预谋的屠杀。700多名华工被害,大约有6000名不幸的朝鲜人被日本军国主义暴徒屠杀,史称“东瀛惨案”。
  当时的中国政府非常重视这个事件,抗议日本政府,要求彻底查明事件的真相,向日本派遣了以曾任职国务院总理在内的9名成员的调查团,迫于压力日本当时政府在1924年作出了‘五大臣决议’的赔偿方案,但由于种种原因,至今仍未落实赔偿方案。
  “东瀛惨案”发生后的几十年来,由于种种原因,真相一直尘封在历史的冰河中,受害华工的遗属、后裔也一直不了解先人的悲惨遭遇。直到1982年,日本宋庆龄基金会副会长仁木富美子女士发现了这段史实,真相才大白于世。
  自2013年起,以林伯耀先生为代表的旅日华侨华人和以田中宏先生为代表的日本各界有良知的友好人士为还原历史真相,做了大量工作,奔走于中日两国之间,收集证据,同着受害华工遗属每年与日本政府交涉。
  广大受害者遗属的5方面诉求,如下:
    1、 日本内阁政府必须负起作为国家的责任,承认这个历史事实,向1923年关东大地
     震时被屠杀的旅日华工、华商以及他们的遗属谢罪;
    2、 根据1924年日本政府内阁决定的赔偿方针按照现行国际惯例,物价水平和遇难者
     人数修正后实施赔偿;
    3、 为了以史为鉴,向下一代传达这个历史事实,在遇害当地建立纪念碑及建设包括
     中国人和朝鲜人被屠杀历史纪念馆;
    4、 写入日本的历史教科书,让日本年青一代知道这段历史,从中吸取教训;
    5、在温州建立东瀛惨案纪念馆,并且写入温州地方历史和中国历史。
  近几年来,遗属的维权、悼念活动在日本、温州分别活动,活动取得了一定的成果,但无论从社会的认知度,还是与日本政府交涉结果,还需付出更多的努力,我们深感任重而道远。
  2014年,遗属向日外务省递交了请愿书,2015/16年递交了敦促书,今年9月4日东京的追悼会上,中国驻日大使馆田培良参赞说,希望日方正视历史,妥善处理历史遗留问题,切实担负政治和道义责任,以实际的行动体现反省历史的承诺。日本社民党副党首福岛瑞穗参加追悼仪式上表示,针对关东大地震时,众多中国和朝鲜劳工被残忍屠杀,日本社会必须正视这段历史,追究事实真相,并通过谢罪或赔偿手段解决遗留问题。
  在日本内阁府,代表团向社民党副党首、国会议员福岛瑞穗递交了《致日本社民党函》,《致日本原首相村山富市函》,遗属希望透过社民党和原首相村山富市能推动以法律形式监督日政府履行关于‘1924年的赔偿方案’;2促进日政府能派出代表走访遇害华工后裔情况,以便日政府了解当时在日华工被屠杀后,造成对其家庭的影响;3、帮助策划筹建‘东瀛惨案’受害华工遇害地建纪念馆一事;4促进东京都政府设立‘东瀛惨案劳工遇难日’,警示后人,以避免日后发生类似事件。

  今年赴日活动,在中国驻日大使馆大力的支持下,得到了央视4套华人栏目头条新闻、人民日报、新华社、新华网、参考消息、国防部新闻、凤凰新闻、新华网络电视等众多国内权威媒体的报道,日本、韩国部分媒体也进行报道,媒体的广泛关注,使得传播这段历史起到了关键作用,特别在日本现政府、部分政客不断否认侵华战争、南京大屠杀的前提下,显得格外有意义,4月份,日本内阁府从其官方网站删除东瀛惨案文件,按照惯例,东京都知事每年会在‘关东大屠杀’悼念仪式上致悼词,但今年东京都知事小池百合子打破惯例,拒致悼词。赴日祭祖活动代表团团长黄爱盛在接受《东京新闻》记者采访时,被问及‘作为遗属,对于小池百合子不再致悼词’一事时表示,‘无论政治家如何操弄历史,历史事实本身就是证明,我希望与爱好和平的日本人士一道奋斗下去’。
  与日本政府态度形成鲜明对比的一位叫‘小川瑠美子’的日本老妇人,她今年71岁,我们在东京横纲町公园‘朝鲜人被屠杀纪念碑’前献花悼念时,恰遇老人也来悼念,简单交谈后得知,她父亲是一位反战人士,被日本政府关押过,她听她父亲讲起‘东瀛惨案’被屠杀的中国人与朝鲜人,在被屠杀日特来悼念。在各自走散,过了约10分钟,老人重新找到我们,给我们后裔捐赠了5000日元,数目虽然不大,但是它代表了日本社会普通百姓爱好和平、正视历史的一种态度与认识。
  目前阶段,如下几项是我们的工作重点:1、继续寻找受害华工遗属,在700多名受害华工,其遗属还只找到300多位,这700多遗属大部分集中在瓯海泽雅、鹿城藤桥、瑞安湖岭陶山、青田油竹麻宅等地;2、希望历史学者把这段历史作为研究课题;3、推动每年9月份在温州大学和温州市博物馆展出‘东瀛惨案’史实材料;4、为建立东瀛惨案纪念馆进行各方面的筹备;5、想方设法申请写入温州历史教科书。
  最后,再次向无故被屠杀的先辈以及王希天烈士表示深切的哀悼!

★遗属代表周江法赴简述日祭祖交涉活动进展
  各位上级领导、女士们、先生们,大家上午好!
  94年前的1923年9月1日,日本发生7.9级关东大地震,当时中国浙江温处两地的“永、瑞、青”三县交界处的山区地方,合法旅日华工商700人,旅居东京大岛町一带,他们虽在大地震中幸存,却无辜惨遭日本军国主义暴徒趁乱煽动的排外主义者大屠杀事件中被害,并且这一血腥的历史被长期掩盖。94年过去了,东瀛惨案,堪称“世纪的沉默”。
  2013年7月,旅日华侨“中日交流促进会”秘书长林伯耀先生率领朱弘先生、中国918爱国网吴祖康夫妇等人来到温州市瓯海区泽雅镇桂川村找到当年被害者后裔周江法等人,了解历史经过情况后,日方邀请周江法等五名后裔代表,决定9月组团赴日追悼700被害华工90周年悼念,当年8月五人组团上交办理赴日签证,后因特殊情况,唯周江法一人代表被害者后裔赴日参加90周年悼念。在林佰耀、田中宏先生等日方友人的支持组织下,于2013年9月6日在东京6000多朝鲜人被害纪念馆内举行温处两地700被害者90周年悼念活动,此时此刻,唯一后裔代表周江法在被害者灵位前祭拜鲜花悼念,这一祭拜鲜花悼念,打破了我们后裔5代人近一世纪的沉默,提醒指明了被害者后裔从此开始,踏上历年坚持组团赴日祭祖被害悼念活动,并向日本政府交涉,讨公道,索赔偿。
对于这次在日90周年悼念活动,中央电视CCTV13频道面对面栏目主持董倩等4人专程亲赴温州市区周江法家采访,并于2014年3月在本频道播放告知世人。
  2014年起,在中国外交部,驻日大使馆,温州市人民政府外事办,侨联的领导大力支持;在日方林伯耀,田中宏先生等友好人士的大力支持协助下,被害后裔从2014年9月第一次组团18人,赴日祭祖被害91周年活动,并于9月8日向日本外务省官员面对面提交请愿书,向日本政府提出诉求。
    1、日本政府必须负起国家责任,承认历史事实,向1923年关东大地震后被无辜屠杀的
     华工以及他们的遗属谢罪。
    2、依据1924年日本政府内阁决定的赔偿方针实施索赔。
    3、为了以史为鉴,面向未来,向下代传达这段惨史的事实,日本政府务必担负在被害
     地和被害者祖籍地,各建立纪念碑和纪念馆。
    4、写入日本历史教科书,促使下代牢记历史,从中吸取教训。
  2015年至2017年的三年,我们后裔始终坚持组团赴日祭祖92、93、94周年悼念活动,并连续向日本外务省官员面对面提交敦促书,耐心地向日本外务省交涉·········,可外务省几年来,对被害者后裔提出“合情、合理、合法的正当诉求”,仍然回避历史事实,至今没有一个明确的答复,我们深感遗恨。
  特别的是:今年赴日活动代表团全体成员获准9月5日,前往驻日大使馆参赞田培良先生接见了我们,田参赞诚恳地与我们交谈了一个多小时,他指示我们全体被害者后裔,始终要有身心,要有耐心继续坚持向日本政府交涉。再过几年,中国更强大了,最终胜利是必然。
  再说:中央电视CCTV4频道华人世界栏目,向全球伦翻播放,9月5日东京新闻刊登了我们活动实况,中国国家级新闻界大该多达8个单位跟踪报道了我们赴日祭祖悼念94周年的活动实况。
  由此可见,我们被害者后裔代表,历时五年的9月组团赴日祭祖悼念,坚持向日本政府交涉至今大势所趋,希望到会的各位领导,有关专家、学者,各新闻界的友好人士,继续支持我们“东瀛惨案史研究中心” 工作的乘胜开展,对此我代表全体被害者后裔向各位表示崇高的敬意和衷心的感谢。
  希望温处两地700被害者后裔团结一致,同心协力,发扬八仙过海,各显神通,为我们祖辈无辜被害,向日本政府讨公道,索赔偿,只要后裔们共同努力,鼓足身心,耐心坚持和日交涉必胜,愿700被害先辈在天之灵,安息!

★温州市公园管理处党总支书记胡朝明讲话
  尊敬的各位来宾:大家上午好!
  在举国上下共同欢庆中华人民共和国成立68周年之际,我们大家聚集在这里,借吉林义士王希天诞辰之际开展缅怀先烈的纪念活动。我们温州市公园管理处、温州市历史学会和东瀛惨案史研究中心联合举办这次纪念活动,既是为了纪念这位中华民族的优秀儿子、旅日华工爱戴的领袖,缅怀先烈,告慰英灵;同时也是我们公园管理处挖掘公园文化特色,丰富公园文化内涵,优化公园服务品质,依托公园景观和传统文化资源开展“一园一品一特色”主题活动的一项内容之一。
  华盖山是我市“九山”之一,位于温州市鹿城区中心,地理位置得天独厚,山上乔木参天,浓阴蔽日,是温州老城区中不可多得的风景名山。吉林义士王希天君纪念碑暨温处旅日蒙难华工纪念碑,位于华盖山大观亭西侧,建于1926年。1944年日军侵占温州时被毁,仅留残石。1991年日本友人、宋庆龄基金会副会长仁木富美子将华工罹难公之于世,继而发起成立日本悼念王希天及蒙难华工委员会捐资立碑。1993年,中国人民政治协商会议温州市委员会、中国浙江省温州市人民对外友好协会负责在原址重建纪念碑,并撰文纪念,祭烈士之亮节永垂。
  我们公园管理处作为属地管理单位,为了做好王希天义士纪念碑的日常管理工作,不仅定期对纪念碑及周边区域进行擦洗、清扫保洁,做好周边绿化植被的养护管理工作,同时每年还组织单位党员、职工开展纪念活动,弘扬烈士的爱国主义精神。我们希望,通过我们大家的共同努力,能让革命烈士精神发扬光大,让温州人民永远铭记那段悲惨又光荣的历史吧!
  谢谢大家!

★温州市外侨办副主任朱玉贵讲话
  各位领导、各位东瀛惨案受害华工遗属、后裔代表,女士们、先生们,大家好!
  今天,我们怀着十分沉痛和悲愤的心情在这里集会,纪念九十多年前在日本惨遭杀戮的受害华工和王希天烈士,在此,我谨代表温州市外侨办向“东瀛惨案”受害者和烈士王希天表示深切的哀悼,对受害者遗属后裔表示亲切的慰问。
  历史是一面镜子,我们今天重温这段悲惨的历史,就是要让我们的子孙后代永远记住血的教训,永远保持清醒的头脑,永远坚持正确的前进方向,借此机会,我讲三点意见:
    一、要牢记屈辱的历史,保持清醒的头脑。九十多年前的1923年9月,日本军国主义
     分子借关东大地震之际,残酷杀害手无寸铁的华工,这段历史被掩盖了几十年。王
     希天烈士的牺牲直到1970年代才被证实,回顾中国近代历史,我们饱受列强欺凌,
     正是在这样的历史背景下,发生了“东瀛惨案”,惨案的发生,不是自然因素的触发,
     而是人为制造的恐怖事件。对此,日本政府有不可推卸的责任,特别是参与杀人的,
     大多是日本的军人、警察。王希天烈士就是被日本宪兵和警察合谋杀害的。王希天
     烈士被害后,日本政府为混淆视听,还假惺惺的发文寻找,故意把真相掩盖五十多
     年,日本政府要担起军人、警察杀害无辜侨民的责任,但是,日本政府至今仍不承认
     错误、不承担责任,对此,我们要有清醒的认识。
    二、要学习先烈一心为民,不怕牺牲的精神。王希天烈士为了华人的利益,奔走呼号,
     不顾个人安危,最后被日本军警杀害,年仅27岁。
      今天,我们缅怀先烈,就是要学习他的“一心为民,不怕牺牲”的精神。对待任何
     事情,不要私字当头,不要计较个人利益得失。特别是在领事保护领域,我们不仅维
     护个人利益,更是维护国家利益,从“东瀛惨案”来看,再次证明了“弱国无外交”
     的铁律。今天的中国,不再是九十多年前的中国,今天中国的外交,也不再是九十
     多年前的中国外交。我希望日本政府对“东瀛惨案”要有一个交待,我相信这样的
     惨案不再发生。
    三、要珍惜当前,为实现伟大的中国梦而努力奋斗。党的十八大以来,在以习近平同志
     为核心的党中央正确领导下,我国各项事业蓬勃发展。特别是在国际事务中,我国承
     担起负责任大国责任,为世界和平、发展与稳定发挥了重要作用,做出了重大贡献,
     在维护我国侨民利益方面,我国更是不遗余力。在最近几天发生的加勒比多米尼克
     大撤侨中,“祖国带你回家”这句振奋人心的口号让每位海外游子倍感温暖,让每一
     个中国人倍感自豪。今天,我们在这里回顾历史,就是要珍惜当前来之不易的大好
     局面,我们要紧密地团结在以习近平同志为核心的党中央周围,坚决拥护党中央的
     坚强领导,高举中国特色社会主义伟大旗帜,为实现伟大中国梦作出应有的贡献。
  最后,祝大家身体健康,工作顺利,阖家幸福,万事如意! 谢谢

★日本关东大震灾被屠杀中国人劳动者追悼会发来的关东大震灾被屠杀中国人劳动者追悼会致辞
 亲爱的温州的朋友们:
 首先祈愿今年9月第5次来日的访日团报告会议能够顺利进行热烈的讨论并成功举办。
 今年9月在东京进行了两个集会。一个是以当地的诸位为中心,对中国人虐杀的历史事实的学习,听取并理解了遗属的证言和要求。
 另外一个是对94年前死难的受难者进行的追悼。在东京都小池知事对关东大震灾虐杀事件进行否定之计,能够在东京都慰灵堂举办慰灵式有巨大的意义。并且韩国来的遗属也来参加慰灵式,这具有划时期的意义。这是至今每次访日团的各位在荒川河川敷参加虐杀朝鮮人追悼式,表明连带责任的成果。
 虐杀的历史事实不能隐瞒,惨剧不能再次发生!
 这是理所当然的。我们将继续努力,从惨剧发生的当地进行实际行动,让我们的伙伴继续增加。
 能够参加温州的朋友今年5月召开的会议,对增加当地的伙伴具有巨大的激励作用。
 相信通过今天的会议,必将使各位更加团结,使中日间的我们的友情更加牢固。
                  日本关东大震灾被屠杀中国人劳动者追悼会
                                2017年9月27日

★親愛なる温州の友人の皆さまへ
 本年9月に来日された第5回目となる訪日団の報告会議において活発な討論が行われ成功することを祈っています。
 本年9月に東京では二つの集会を行いました。一つは、地元の皆さんを中心にして中国人虐殺という歴史事実を学び,遺族の皆さん方の証言と要求を知ることです。
 もう一つは94年前に難死した受難者の皆さんを追悼することです。東京都の小池知事が関東大震災の虐殺事件を否定しようとしているときに、東京都の慰霊堂で慰霊式を開いたことは大きな意義がありました。慰霊式に韓国から遺族が参加されたことも、画期的なことでした。これは今までの訪日団の皆さんが荒川河川敷で開かれる朝鮮人虐殺の追悼式に参加され連帯を表明してきた成果です。
 虐殺の歴史事実を隠蔽させず、再び繰り返させてはならない! この当然なことを、惨劇の地元から実践するために仲間を増やす努力を続けます。
 温州の皆さんが本年5月に開いた会議に参加できたことは、地元で仲間を増やしていくために大きな激励となりました。
 本日の会議が皆様の団結を強くし、日本の私たちとの友情を固めることを信じています。

           関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する会
                               2017年9月27日
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「90年前东瀛惨案:关东大地震后 中国人遭屠杀」

2017年11月23日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.chinanews.com/cul/2014/09-16/6594014.shtml
「中国新聞網」 2014年09月16日 08:43   来源:文汇报
■90年前东瀛惨案:关东大地震后 中国人遭屠杀
  “这份档案太令人震惊了。”9月8日下午,日本东京的参议院议员会馆B102会议室,当1924年5月27日由时任清浦内阁的外务大臣松井庆四郎发给驻中国公使芳泽的电报,呈现在日本社会民主党副党首福岛瑞穗面前时,这位日本政治家不禁惊住了:“我是第一次知道档案的内容,一定会向国会如实反映。”
  这份尘封了90年的档案,明确记录了1923年9月关东大地震引发屠杀中国人、朝鲜人的“东瀛惨案”后,日本内阁裁决:因为无法满足中国提出的检举及处罚负责人的要求,决定用支付赔偿费20万日元的方式来平息愤怒。在这一盖有“私”字印章的机密电文后,附有560名死亡、失踪、受伤者的名单,其中90%来自当时中国的温处地区(今温州、丽水)。
  令人愤慨的是,当时日本政府见北洋政府软弱无能竟未按时赔付,而后来面临内忧外患的国民政府也无力追讨这笔赔偿,导致千百户丧失了顶梁柱的中国家庭生活在不堪想象的苦难之中。更令人遗憾的是,随着时间的流逝,这段痛彻心扉的往事逐渐被湮没,已鲜为人知。
  为了讨还公道,自去年夏天起,中日两国的热心人士开始奔波寻找遗属。目前,已找到近300名亡者后裔。9月6日,来自温州、丽水两地18名遗属代表抵达东京,探访当年祖辈惨遭无情虐杀的所在地,敲响地震纪念公园中的“幽冥钟”祭祀祈福,他们还与日本议员、外务省等政要代表恳谈,提出希望日本政府向遇难者及其后裔谢罪赔偿、为逝者建立纪念碑、将这段往事写入教科书等要求。
  旅日华侨中日交流促进会会长林伯耀认为,以往包括掳日劳工、“慰安妇”制度受害者等中国国民与日本政府打的官司都输了,“此次请愿将有可能成为中日历史遗留问题诉赔的转折点,因为这是日本内阁白纸黑字通过的赔款协议,还有什么理由推卸责任?!”
  尽管前一天深夜才从老家温州赶到上海,坐在上海飞往东京的早班机上,心情复杂的黄建丰却一刻没睡。快降落时,坐在中间位置的他尽力伸长脖子,想看看舷窗外的东京是什么模样。这是他从未到过的城市,却也是他从记事起便熟知的地名。
  92年前,他的两位祖爷爷黄芝连、黄芝森兄弟,和5000多名来自温州、丽水的劳工,先后从家乡来到上海,再一路赶往东京。只是,一年后发生的关东大地震中,黄芝森命丧东瀛,黄芝连重伤而归,还带来了令国人震惊的消息……

★大地震后,突发惨案
  中国是最早捐助日本关东大地震的国家,但中国国民却在关东地区遭大量虐杀。
  1923年10月12日,奄奄一息的黄芝连从东京坐船驶抵上海十六铺码头。当时他还不知道,就在这个码头,一个月前曾陆续开出多艘装满大量国人捐赠物资的轮船驶向东京,救济遭受9月1日“关东大地震”之害的日本灾民。
  大地震发生当天,日本驻上海总领事向中国媒体表示:“灾情重大,为亘古以来所罕有,除建筑物及财产等损失之数,一时尚难调查确实计算外,生命之丧失,约计几及二十余万口。”
  北洋政府旋即组织赈灾救济委员会,并支出库银20万元(当时1元能买40斤大米)用于救灾,还下令暂免食品、服装、药品、卫生材料等出口日本的关税。上海总商会“购办面粉一万包,米三千包”,并垫付611万元,由招商局免费运送,成为日本接受到的第一笔国际援助。中国红十字会也成为到达日本灾区的第一支国际医疗救援队伍。同时,社会各界纷纷捐款,由京剧艺术家梅兰芳发起的赈灾义演筹集了5万元大洋。
  当月23日出版的《民国日报》写道:“希望日本在这次震灾中,领略人类同情心的福音,上下交勉,和中国做一个道义上的朋友”。可黄芝连带回的消息,却远不是“道义上的朋友”该做的事。黄芝连的老家在温州市永嘉县二十三都坑源村(今温州市瓯海区泽雅镇五凤垟村),在他的老乡为日本慷慨解囊捐赠45.4万元物资之时,远在关东地区的700多名温州、处州侨胞,却被受排外主义煽动的军、警、民众用刀剑、铁棒等肆意击杀。
  头部遭受重创、一只耳朵被乱刀砍下的黄芝连,在上海接受了《民国日报》的采访,第一个将“东瀛惨案”的消息传回国内,也成了第一个公开的受害者直接证人。黄建丰从族人口耳相传的故事中,拼凑出了祖爷爷黄芝连死里逃生的往事:那是大地震后的第三天,黄芝连搬到东京江东区大岛町八丁目的林合吉客栈,与173名衣衫褴褛的温处老乡挤在一起避难。中午时分,数百名日本“青年自警团”(相当于联防队)团员、警察和军人手持枪械,冲进了这家小小的客栈。在时不时的余震中,他们威逼这些手无寸铁的华人指认财物储藏之处,并勒令华人跟他们走出客栈。到了店外一片空旷的荒地,有日本人突然高喊“地将复震,必须俯伏”。没怎么经历过地震的174名中国人乖乖卧倒,他们身后的日本人蜂拥而上,斧劈、刀砍、剑刺、钩扎!顿时,惨嚎震天,血流成河。重伤的黄芝连昏死过去,当晚苏醒时,发现自己被同伴的尸首遮盖,成了174人中唯一的幸存者。
  现在,这片荒地上已建成了江东区东大岛文化中心,低矮的灌木围起了一片停车场。18名遗属在这里举行了简单的追悼仪式,为先辈献上鲜花。即将离去时,黄建丰跪下,抓了两把土放进一个随身携带的崭新烟灰盒里。
  9月3日后至黄芝连回国前的事,现存于台湾“中央研究院”近代史研究所的《日本震灾惨杀华侨案(第一册)》,其中有如下记录:苏醒后的黄芝连匍匐着爬到遇难地边上的荷池旁躲藏,到了9月5日晚才逃到七丁目。一整天没有吃喝的他,出门觅食又遇上日本暴徒被捆打,而后被当地街警绑送到小松川警署,再由军队押往千叶习志野收容所拘禁了一个月。在这个收容所,聚集了1600余名从大岛町区域来的华人。这些华人处境如“在狱之囚”,“食蛋大之饭团三枚,不足抵平时一餐之量,夜则枕石卧板苦趣犹不堪言,且天气寒热不常,疾病滋生,守卫兵士又极凶残,稍不如意鞭棍立下。间有华人携来物件均被取去,兼有能操华语之侦探在旁监视。”直到10月5日,收容所中的幸存者才被遣送回国。

  事后,日本政府曾狡辩对华人的虐杀是“误杀”,因为当时日本警视厅(警察局)告诫民众,时为日本“二等公民”的朝鲜人要趁大地震暴动、向水井投毒等,很多日本人因为相信谣言大肆杀戮朝鲜人,而中国人则是被误以为是朝鲜人遭杀害。
  “日本人早就传要杀中国人了。”赴日遗属周南清说,他的曾祖父和祖父早在地震发生次日就听到针对华人的杀戮传言,逃到山中躲藏才幸免于难,“村里去了20个,死了18个。我的三爷爷不相信传言,就惨死在那里。日本暴徒其实都知道被杀的是中国人,不是什么‘误杀’。”

★悲惨境遇,几代人的痛
  如果先辈没有遭到日本暴徒的残杀,他们的命运和他们后代的命运也许都将截然不同。
  命大如黄芝连,回国后一年,也因伤口感染看不起病,撒手人寰。
  在黄建丰的温州老家,黄芝连的墓是座破破烂烂的孤坟。“那时候哪有钱给他办丧事?到现在也只是把家里前两代人的外债还清,还没钱修墓。”黄建丰说,黄芝连遭虐杀时,他身边携带30枚银元被日本暴徒搜去。而那时,他在日本打工每天赚取的不过是两三日元的血汗钱。
  “祖爷爷们要去日本,是因为山区老家太穷了。”黄建丰说,浙江虽是鱼米之乡,却有“七山一水二分田”之称,而这“七山”就集中在浙南的温州等地,农田极少,只能靠造纸、做伞等手工业糊口。一战后,日本经济飞速发展,数千名温州人先后漂洋过海前往日本打工。黄芝连、黄芝森当年都是村里的能人,有手艺、脑子活,和另三名村民于1922年闰五月赴日本做工。
  “去了5个,死了4个。”黄建丰说,特别是他们家一走就是两兄弟,不像有些人家留一个儿子在老家,所以打击更大,“当年像这样青壮年的离世,给家庭带来的都是灭顶之灾。”
  赴日时,黄芝连未娶,惨死在日本的黄芝森已有两个女儿和一个儿子黄顺兵,全靠黄建丰的祖奶奶和几个亲戚帮忙拉扯大。黄顺兵结婚后生下女儿,因无力抚养不幸夭折,靠亲戚家过继了一男一女延续香火。黄建丰的父亲被抱过去时10岁,已懂事。黄建丰的奶奶含辛茹苦养大一双儿女,在黄建丰9岁时过世,丧事全靠亲戚凑钱来办。
  今年5月,当日本友好人士、旅日华侨中日交流促进会代表林伯耀,日本一桥大学名誉教授田中宏等人前往温州农村调查时,遗属黄爱盛告诉他们,曾祖父遇害后,曾祖母终日以泪洗面,原本身体健朗的她被活活气死,三个孩子全靠给人放牛为生,没钱念书。“这种痛苦,往往需要几代人承受。”
  黄爱盛翻出族谱,在祖爷爷黄元友那页写着“公去日本经商未知卒于何处”。林伯耀等人对照被害名单,找到是在“大岛町八丁目林合吉客栈”,应是与黄芝连同时被害。“这是我们温州的痛苦、民族的痛苦,可悲的是,村里的多数先祖同时遇害,以至于我们这些后辈都说不清当时的情况。”他说。

  赴日遗属、来自丽水青田的邱长听在与福岛瑞穗的恳谈中说到,当时村里去了18个人,无一生还,最后15个寡妇改嫁。“如果我们的先辈没有遭到日本暴徒的残杀,他们的命运和我们这些后代的命运都将截然不同。”赴日遗属苏忠海说。
  1986年,当时在上海华东师范大学任教的日本宋庆龄基金会副理事长仁木富美子,在翻阅材料时偶然找到了与这一事件有关的只言片语。在与温州数位文史工作者联系后,她前往温州实地调研。到1993年,也就是“东瀛惨案”发生70年后,这一史实终于大白于天下。
  “但当时没有形成有规模的遗属团体,从更大范围来看,依然有很多人不知道它的存在。”中国918爱国网总编吴祖康说,去年,一批关注中日遗留问题的友好人士在日本横滨开港资料馆发现了关于“东瀛惨案”华侨被虐杀的资料,又查到了当时同意赔款的协议,“决定再次找到这些遗属,争取他们应有的权利。”
  去年夏天,吴祖康夫妇与旅日独立电视人朱弘来到丽水、温州采证。丽水青田县档案馆提前查找出了记有170人的受害者名单,并于去年8月5日给各街道、乡镇、村发了遗属寻访通知。8月6日,就在吴祖康夫妇、朱弘抵达档案馆时,巧遇了特地骑摩托车到档案局咨询的小口村被害者陈法弟的孙子和孙女婿,第一位遇害者的遗属找到了。
  在之后的五天里,寻访工作得到了很多温州、丽水老乡的支持。不仅村委会积极提供信息,还有村民主动带领他们去遗属家探访,当场联络到十数位后人。

★失落90年,惊现突破口
  对这笔赔偿,无辜被害的先人已经等了90年,总不能让遗属们再等90年。
  在日本友人的帮助下,去年9月,温州市瓯海区泽雅镇桂川村村民周江法前往东京,在“关东大地震”祭奠之时,第一次带去了家乡亲人的悲悯与思念。
  今年,包括周江法在内的18名遗属自费前往东京,他们是今年5月25日在温州成立的总数千余名“关东大地震被害中国旅日华工联谊会(筹)”成员的代表。在今年9月7日“关东大地震”纪念日当天,华工遗属集会悼念的场景第一次出现。“这个行动每多10个人,不是多了10倍的力量,而是多了100倍。”周江法说,他希望明年可以聚起200人的队伍,像从1983年起在日本祭奠先祖的朝韩团体一样,成规模地告慰祖上。
  在关东大地震死伤最惨重的横纲公园,18名遗属在上海富商1923年捐赠给关东灾民的幽冥钟前,摆上家乡带来的瓜果,洒上花雕酒,烧纸默哀,撞钟祈福。“希望先人在天之灵能保佑我们国家强盛。”赴日遗属林学进说,91年前,就是因为中国积贫积弱,才会备受欺凌。
  除了祭奠先祖之外,在所有的悼念时刻,遗属们都会自发怀念一位叫王希天的人。这名来自长春的公费留学生,“在日本的中国人没有不知道他的”,他与周恩来曾是莫逆之交。家境优越的他致力于维护华工权益,还聘请日本律师为华工讨要工资,申请成立“留日中华劳动同胞共济会”。震后,他听闻“东瀛惨案”,只身一人骑自行车去出事地点访查,再也没有回来。此后,任由同学怎样寻找询问,日方上下都一口咬定他是“失踪人士”。
  王希天的死讯,直到1972年才被正式爆出。刚从《东京时报》离职的自由撰稿人田原洋,1970年意外发现了当年在龟户地区执勤的野战重炮兵第一联队六中队一等兵久保野茂次的日记,揭开了王希天遇难的真相。在1923年10月18日这天,久保野茂次写道:“当时王希天君来我们中队访问中队官长们,对护送中国人一事,愿为工人们出一些力……有一天,我们走到税务署卫兵处,听说王希天已被某官长斩了。”10月19日他写道:“今天报纸上又注销了前途有为、对社会事业鞠躬尽瘁的王希天君的消息。其真相,我听某人详尽地说过。以中队长为首,诱骗王希天,说:‘你的中国同胞在骚动,你去训诫训诫吧!’说着把他带了出去,来到逆井桥旁边的铁桥处,伺候在那边的垣内中尉来了,向六中队的官长们说,你们往那儿去,休息一下吧!随后,从王希天背后,齐肩一刀斩去,并把面庞、手、脚都斩碎,烧了衣服,掠走了身上的10元7角钱和自来水笔。就这样,杀人的事,在官长们之间,成了秘密。人们从杀人现场的步哨那里听到了详情。”负责执行这次残杀任务的是队中剑术最高超的垣内八洲夫中尉,1981年,他在临终前确认了斩杀王希天之事。
  9月7日,18名遗属来到东京逆井桥畔祭奠这位为他们祖先而死的烈士。“大地常在,英灵长存。”林江都说,在温州华盖山,有一座纪念王希天的石碑,碑正面写着:吉林义士王希天君纪念碑;反面写着:温处旅日蒙难华工纪念碑。1944年,这座纪念碑被日寇捣毁;1993年9月关东大地震70周年纪念时,由日本友好人士捐资重建。
  今年5月,日本“关东大地震中国人受难者追悼会”实行委员会事务局长川见一仁与林伯耀、田中宏等一行日本友人,前往华盖山祭拜王希天。82岁的日本陶艺家关谷兴仁特地用陶瓷制作了一块长、宽约40厘米的“悼”字纪念碑,今年70岁的川见一仁将这块重达约15公斤的纪念碑一路从东京扛到温州泽雅镇,又用头顶着送到华盖山的纪念碑前。
  “义士的血不能白流,祖先的血也不能白流。”遗属周松权说,“我们来不是为了挑起仇恨,而是为了让日本政府负起作为国家的责任,让中日两国人民真正理解对方。”通过日本友人的联络,遗属团一行18人于9月8日来到日本国会前,高举“日本政府必须实行90年前内阁决定的赔偿以向中国遇难者谢罪”、“追究日本政府的历史罪行,追索回历史之公道和正义”的横幅,呼喊口号示威。
  而后,他们来到参议院,与日本社会民主党副党首福岛瑞穗、外务省中国蒙古第一课课长辅佐猪口奈津子、文部科学省教科书课检定调查第一系长村山嘉雷进行恳谈。周松权代表遗属宣读并向日本政府正式递交了《请愿书》。
  遗属们提出日本必须负起作为国家的责任,向1923年关东大地震时被屠杀的中国遇难者及遗属们谢罪。“我们的祖辈都是合法打工者,日本政府有义务在其领域内保障外国人的身体财产安全,日本有国家赔偿责任。”周江法说。
  遗属们认为,日本政府理应根据1924年内阁决定的赔偿方案,按现行国际惯例、物价水平和遇难者人数进行修正后赔偿。林伯耀说,档案上清楚地印有当时外务大臣、内务大臣、司法大臣、陆军大臣、大藏大臣等重要官员的亲笔签名,铁证如山,不容抵赖。当时是北洋政府执政时期,并不受中华人民共和国1972年与日本签订的《中日友好公报》约束,可以追诉日本政府的赔偿责任。“我们希望日本政府的答复越快越好,我们的祖先已经等了90年,总不能让我们再等90年吧?”赴日遗属周春蕾说。
  遗属们要求日本政府还应向下一代传达这一历史事实,在遇害当地建立纪念碑以及建设包含中国人和朝鲜人被屠杀历史的纪念馆。在横纲公园地震纪念馆旁,已有日本政府出面竖立的一座“追悼关东大震灾朝鲜人牺牲者碑”,中国遗属们希望不久后也能看到专为他们祖先建立的纪念碑。“在纪念馆中,日本政府记录美国红十字会对关东大地震灾民的援助,却忽略了第一个到场的中国救援队,应该补上这一笔。”朱弘说。
  最后,遗属们要求将华人遭虐杀的历史写入日本教科书,让日本年轻一代从中吸取教训。日本友好人士木野村间一郎提出,现在日本教科书对于关东大地震后发生的虐杀事件提法越来越暧昧,“不是使用虐杀,而是说在地震中惨死”,对于日本军、警参与暴行也都删除,原本高中教科书中提及的“王希天”现也被删去。“这不是正视历史的态度,是在倒退。”他说。
  林伯耀感到,多年来对日诉讼无果的突破口,或许就在这些关东大地震被虐杀华人的遗属身上。“过程一定是艰辛漫长的,但至少我们已经走出了第一步。 本报记者 单颖文
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「光州の旧日本軍洞窟実測調査、戦争末期の軍事拠点だった可能性」

2017年11月13日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/20780.html
「The Hankyoreh」2015.05.26 07:18
■光州の旧日本軍洞窟実測調査、戦争末期の軍事拠点だった可能性
 日帝飛行場の燃料庫…洞窟壁面に“謎”の龕室空間

【写真】シン・ジュベク教授チームが20日午後、光州市華亭洞の旧日本軍燃料庫と推定される洞窟で、巻尺を使って洞窟の高さと長さを実測している //ハンギョレ新聞社

 「ここが約70年前に日本軍が燃料庫として使った洞窟です」。シン・ジュベク延世大教授(歴史学)が指した場所の周囲は、真っ赤なクマイチゴの実でいっぱいだった。 クマイチゴ、アカシアがうっそうと茂る草むらに鉄の窓が付いた洞窟が隠れていた。
 埋められた歴史のため息だろうか。 鉄門を開けて洞窟内に入ろうとすると冷気が流れ出た。少し中に入ると、崩れ落ちた土や石が通路に積もっている。一歩一歩、積もった土砂や石を乗り越えた。暗黒の中からコウモリの群れが飛び出してきて、一行を驚かせた。やがて少しずつ現れた洞窟内はコンクリートできれいに覆われた直線状のアーチ型構造だ。天井には電灯線を固定させるための木製端子装置が一定間隔で設置されている様子も窺える。 洞窟の一方の壁面には龕室(位牌や経典を収める箱)のような空間がところどころ掘られている。 シン教授は「用途は謎」と話した。 おそらく消防施設があったのではないだろうかと推定するだけだ。
 20日午後、光州市華亭(ファジョン)洞の光州学生独立運動記念館境内。 記念館と光州市青少年修練院の間の丘陵に散在している旧日本軍洞窟3カ所で、シン教授チームは一時間余りの実測作業を始めた。 洞窟を歴史教育の場として活用するため、光州市教育庁の委託により行われた現場調査作業の最終作業だ。記念館の職員の応援を得てシン教授とチョ・ゴン博士(国防史専攻)は三つの洞窟の高さと長さをはしごと巻尺を使いながら逐一記録した。
 この洞窟は1929年から1945年まで近隣の治平(チピョン)洞に造成された飛行場の燃料庫だった。日本陸軍の管轄から海軍航空隊の基地に変わった1944~45年頃に洞窟を掘ったと見られる。 45年8月の敗戦後、日本軍が渡した「光州航空基地設計図」によれば、旧尚武台跡と治平洞飛行場、ここの燃料庫が巨大な三角形を形成している。ソウル龍山(ヨンサン)の日本軍基地をほうふつさせる程の軍事拠点であったことが分かる。 44年頃から本土決戦用に朝鮮人を強制動員し施設が改築され、日本軍撤収後には洞窟からドラム缶がたくさん出て来て燃料商に売ったという住民たちの証言もある。これまで口伝えでだけ伝えられてきたが、2013年に専門家たちに知られ再照明され始めた。
 この日の実測に困難はなかった。 記念館工事の時、後半部分が切られたが、概して保存状態は良好でコンクリート施設も頑丈そうに見えた。 1・2・3洞窟の長さは、それぞれ64、84、55メートルで、高さは人の背丈の二倍程度の3メートル前後あった。 韓国の各地に残った日本軍洞窟地下室が、大概は自然発破式であり、一直線の洞窟は珍しく、コンクリートで丁寧に作られた華亭洞洞窟は相当な戦略的価値を付与した施設だったという評価だ。 特にシン教授が最近、日本の防衛庁文書庫で見つけた1945年7月敗戦直前の光州軍事施設物地図には、滑走路がもう一つ作られており、華亭洞近隣に他の軍事用トンネルが多く配置されていたと出ているため、追加調査が必要な状況だ。 シン教授は「朝鮮徴用者たちの犠牲を無視した日本産業施設の世界遺産登載をに対して批判が多いが、韓国にも朝鮮人の労働力を犠牲にして作られた軍事遺産が多い」として、「深層調査を通じて日帝軍事遺産の価値を呼び覚ます努力が必要だ」と話した。 シン教授チームは来月初めに現場調査内容を整理した報告書を出す予定だ。

光州/文・写真 ノ・ヒョンソク記者
韓国語原文入力:2015-05-25 20:15
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/692790.html


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/18123.html
「The Hankyoreh」登録 : 2014.08.25 19:55 修正 : 2014.08.26 07:31
■光州で旧日本軍事施設の教育活用討論会
 26日に開催、専門家らも参加

【写真】日帝強制占領期間に光州(クァンジュ)飛行場の燃料保存所として造成されたと推定される光州西区(ソグ)花亭洞(ファジョンドン)の洞窟。 光州/勤労挺身隊ハルモニ(おばあさん)と共にする市民の会 提供

 光州市教育庁は26日午後2時、光州市議会5階の予算決算委員会会議室で、光州にある日帝軍事施設を歴史教育空間として活用できる方案を作るために討論会を開催する。
 地下施設(洞窟)は花亭4洞、光州学生独立運動記念館と光州市青少年修練院をつなぐ中央公園の散歩道沿いに3つある。
 地下施設は長さがそれぞれ80メートル、70メートル、50メートルほどのコンクリート製アーチ型洞窟で、日帝強制占領期間に造成された燃料保存所として知られる。 日帝時代の軍事用施設は済州島(チェジュド)を中心に南西海岸沿いに主に残っているが、日帝時代の洞窟が都心の一か所に集中しているケースは珍しい。
 今回の討論会でシン・ジュベク延世大学HK研究教授は、この洞窟が日帝強制占領期間に光州飛行場の付属施設として造成されたことを裏付ける地図を公開すると発表した。チョン・ヘギョン博士は、全南紡績と光州公園にあった旧日帝神社跡など、アジア太平洋戦争の被害事例と遺跡の現況を紹介する。戦争遺跡保存全国ネットワークの菊池実運営委員は、日本の戦争遺跡保全運動の多様な経験と事例を発表する。
 光州市教育庁はこの洞窟を光州学生独立運動記念施設と連係して、日帝侵略期の歴史を理解する教育空間として活用する方案を講じる方針だ。

チョン・デハ記者
韓国語原文入力:2014/08/25 19:40
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/652688.html
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『ピースおおさか裁判』控訴審 住民勝訴について

2017年11月03日 | 国民国家日本の侵略犯罪
■『ピースおおさか裁判』控訴審 住民勝訴について
                                    佐山和子

 『ピースおおさか改悪リニューアル 損害賠償請求訴訟』の控訴審 勝訴のことを、原告竹本昇氏から判決直後にご連絡戴き、この数日感慨に浸っております。
 議会制民主主義は風前の灯火、三権分立は既に実質が失われたかに見えていただけに、今回の大阪高裁 原告勝訴の判決は画期的な内容で驚きをもって迎えたのでした。
 控訴審では、原告が求めた情報 「(ピースおおさか展示リニューアルについての文書)を非公開としたことは違法」と判決して、一審判決を変更。一部損害も認め、「強い公共的性格」のある財団(《ピースおおさか》という社会教育・文化施設)が、住民の批判や意見を回避しようとする姿勢は「正当ではない」ため、大阪市が保有する展示リニューアルの情報を非公開にするのは違法と判示しました。これは、【日本軍の加害展示を撤去する】決断をした被告側に、住民自治の前提である「知る権利」の意味を諭したものかと理解されます。
 二〇一三年の「ピースおおさかリニューアル構想」では、設置理念―憲法前文に則り、戦争の反省と平和主義を展示で示す決意表明―が忘れられ、リニューアル完成後は「加害事実の展示を撤去」、反対に「教育勅語」や「愛国百人一首」が展示されています。戦争犯罪を隠蔽することに手を貸し、植民地や占領地で日本軍が行った「殺戮・略奪・性暴力」等々の事実を消去する仕事の地方請負事業は、大阪だけでなく、ほぼ同時に日本各地で見られる自治体の反動的変化です。
 二〇〇六年第一次安倍政権の策した外堀が教育三法改悪で、その一つ「地方教育行政法」の改悪によって地方自治の崩壊が進行しつつあることが判ります。
 二〇一七年の今日、「道徳は採点科目」として来年から導入。「家庭教育の重視」と「国体(万世一系の天皇の国日本) を誇りとする」国民意識の涵養に力を入れ、それを刷り込む教材として「教育勅語」まで躍りだす始末です。
 二〇〇八年に三重県の久居駐屯地で行われた「一〇〇周年記念行事」は、悪名高い【南京大虐殺】の主力部隊であった「大日本帝国陸軍第三十三連隊」を誇りとし、これに続く自衛隊第三十三連隊であることを示す「軍事パレード」でした。県民が抗議の「公開質問状」を送っても防衛省も東海の管轄局も無視し続けたのは、裏で進行していた【帝国の再興】の計画が在ってのことでした。
 反動の歩みは着々と進み、今テレビのあるチャンネルでは毎日のように国産の戦艦や飛行機がその技術水準の高さを誇り、その軍事技術は「一九七〇年以来の研鑽の結果」だと宣伝しています。
 革新を名乗る政党から離党した一派が、改革を掲げて大勝した女性東京都知事の会派《都民ファースト》=《国民ファースト》に接近中との情報があり、その都知事も《日本会議》の一員で、早くも情報開示には背を向けつつあり、『関東大震災後に虐殺された朝鮮人の追悼式典』に例年送ってきた都知事の【追悼文】を今年からは止める方針で、民族差別の虐殺を自然災害に紛れ込ませるようです。
 大阪で強権を振るって実績のある《橋下維新の会》とこの新進のネオ・ナチが手を結べば、「安倍一強」が二強になっても弾圧と戦争の恐怖は続き、より深刻な暗黒時代を招来するかも知れません。
                                    二〇一七年九月
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