三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 20

2014年01月20日 | 個人史・地域史・世界史
■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 4
 マキンとタラワで日本軍が壊滅してから2か月後、1944年1月に大本営陸軍部は、陸軍をインド北東部のインパール地域に侵入させることにした。
 3月8日に、日本軍は、ビルマからインパール地域への行軍を開始したが、途上でイギリス軍の空爆を受け、食料、弾薬が欠乏し、日本軍は敗退した。
 敗退の途上で、食料をもたない日本軍の兵士が餓死した。
 日本軍のインパール地域への侵入ときには、インド国民軍の兵士約6000人が日本軍とともに参戦した。そのうち約2000人が戦死・餓死・病死したという。
 戦死・餓死・病死した日本兵は数万人であった。

 1944年6月11日にUSA軍はサイパン島への空爆を開始し、13日に艦砲射撃を開始し、15日に上陸を開始した。
 7月7日にサイパン島の日本軍は壊滅した。サイパン島にいた3万人あまりの日本兵の約2万5千人が戦死し約5千人が自殺した。サイパン島にいた日本兵以外の日本人のうち約1万人が爆撃・砲撃などで殺された。自殺した人も多かった。サイパン島に先住していたチャモロ人、カナカ人の犠牲者も多かった。サイパン島に日本政府・日本軍に強制連行されていた朝鮮人も多かった。

 サイパン島の日本兵を壊滅させてから半月後、7月21日にUSA軍はグアム島に上陸を開始した。
 8月11日に日本軍は壊滅した。グアム島にいた約1万8千人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。先住のチャモロ人の犠牲者も多かった。

 1944年7月24日にUSA軍はテニアン島への上陸を開始した。
 8月3日に日本軍は壊滅した。8000人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。約1万5千人の日本人移民のうち約1500人が死亡したという。約3000人の朝鮮人のうち犠牲になった人も多かった。

 ミッドウェー海域での大敗北の時点で、アジア太平洋全域での日本軍の敗退は決定的になっていたが、遅くても、サイパン島・グアム島・テニアン島をUSA軍が再占領した時点で、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、アジア太平洋侵略戦争を中止すべきだった。
 日本海軍が大津島に回天(=人間魚雷)の基地建設を始めたのは1944年9月だった。
 1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾を投下したUSA軍の爆撃機が発進したのはテニアン島だった。
 1975年10月31日に天皇ヒロヒトは、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と日本記者クラブ主催の公式記者会見で公言した。
                                           佐藤正人
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 19

2014年01月19日 | 個人史・地域史・世界史
■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 3
 アジア太平洋戦争開始2か月後の1942年2月17日に、日本陸軍第15軍は、ビルマに侵入し、3月8日に首都ラングーンを占領した。このときの日本陸軍第15軍司令官飯田祥二郎は、1939年2月に日本陸海軍が海南島に奇襲上陸したときの陸軍の「総司令」であった。
 日本陸軍第15軍がビルマに侵入してから2か月後の1942年5月に、第15軍所属の第56師団が、ビルマから北上して中国雲南省西部(滇西)に侵入し、5月5日に拉孟を、5月10日に騰越(現、騰衝)を占領した。ミッドウェー島海域で日本海軍がUSA軍に大敗北する1か月前だった。
 雲南省は、少数民族の多い地域である。日本陸軍地上部隊が中国雲南省西部(滇西)に侵入する以前から日本陸軍の爆撃機が爆撃をくりかえしていたが、とくに侵入直前の1942年5月4日と5日に保山地域を集中的に爆撃し、住民を1万人以上殺害した。爆撃直後からコレラが流行し、住民約6万人が死んだ。日本陸軍はこのとき「コレラ爆弾」を使ったといわれている。日本陸軍第15軍を構成していた組織のなかには「第11防疫給水部」が含まれていた。
 中国雲南省西部(滇西)に侵入した日本軍は、各地で住民を虐殺し、「捕虜の生体解剖」もおこなった(伊香俊哉「中国雲南省にみる日本軍の住民虐殺(一九四二年~一九四五年)」、田中利幸編『戦争犯罪の構造 日本軍はなぜ民間人を殺したのか』大月書店、2007年2月、参照)。
 1944年9月7日に拉孟を占領していた日本軍が壊滅し、9月13日に騰越を占領していた日本軍が壊滅した。約1300人の日本兵のほとんどが死んだ。このとき飯田祥二郎は日本陸軍中部軍司令官となって日本にいた。
 滇西抗戦期の戦士からの聞きとりを記録した章東磐『父親的戦場(中国遠征軍滇西抗戦田野調査筆記)』(2009年7月。山西人民出版社)、日本軍の侵略の犠牲者100人あまりの「口述」を記録した楊聖清主編『苦痛的記憶 中条山戦役難民口述歴史実録』(2011年5月。人民出版社)がだされている。
 最近の中国の近現代史書などでは、拉孟・騰越地域での抗日戦争を「中国遠征軍反攻滇西的作戦」あるいは「中国遠征軍滇西大戦」あるいは「滇西抗戦」といい(《中国抗日戦争史》編写組『中国抗日戦争史』2011年9月、人民出版社。雲南省保山地区新聞中心・雲南省保山地区博物館編『中国遠征軍滇西大戦』1999年12月、雲南美術出版社。耿徳銘『滇西抗戦史証』2006年5月、雲南出版集団公司・雲南人民出版社)、とくに拉孟での抗日戦争を「松山戦役」といっている(龍陵県文体局編『松山戦役映像志』2011年8月、雲南出版集団公司・雲南美術出版社)。 1990年10月に中国文史出版社からだされた《遠征印緬抗戦》編審組編『遠征印緬抗戦』では「滇西反攻戦」と書かれている。
 このブログの2012年6月9日の「海南島近現代史研究の課題と方法」をみてください。
                                         佐藤正人
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 18

2014年01月12日 | 個人史・地域史・世界史
■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 2
 日本は、ミッドウェー海域で主要艦船を喪失した。兵器生産に不可欠の資源が足りず、インドネシアの石油産地を占領しても石油に不足している日本は、1942年6月7日の時点で、アジア太平洋侵略戦争に「勝利」する展望を失っていた。それにもかかわらず、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢部は、アジア太平洋侵略戦争を中断せず、1942年8月から1943年2月までの間にガダルカナル島地域で2万人以上の日本軍将兵を死なせ、地域住民の命を奪った。
遅くても、1943年2月のガダルカナル島地域での敗北後、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢部が、直ちにアジア太平洋侵略戦争を中止していれば、その後、アジア太平洋で1千万人以上の人命が失われ、その数倍の人たちが傷つけられ、村落や都市が破壊され、大地と海が荒廃させられることはなかった。

 日本軍は、ミッドウェー海域でUSA軍との戦闘で大敗した1942年6月7日に、USAが領土としていたアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領した。アッツ島に日本軍は飛行場を建設した。
 1943年5月12日に、USA軍がアッツ島への上陸を開始した。半月後の5月29日に日本軍は壊滅した。補給・援軍を絶たれていた2千6百人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。大本営は5月18日にアッツ島放棄を決めており、5月23日に日本兵全員を戦死させることにしていた。5月30日に大本営は、アッツ島での全滅を「玉砕」という言葉をつかって発表した。

 1943年11月21日に、USA軍がギルバート諸島(現、キリバス共和国)のマキンとタラワに上陸した。
 マキンでは22日に日本軍が壊滅し、500人近い日本兵のうち生き残ったのは1人であった。このとき日本軍の軍属としてマキンに送られていた朝鮮人数百人のうち生き残ったのは104人であった。
 タラワでは23日に日本軍が壊滅し、5000人近い日本兵、日本人軍属、朝鮮人軍属が死んだ。生き残った朝鮮人軍属は百数十人であった。
 マキンとタラワで命を失わされた朝鮮人は、約1200人であったという。朝鮮総督府の文書に、「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」に関して、
   「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於け
   る玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」
と書かれている(『第八六回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、168葉)。このブログの2012年1月13日の「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表 11」、および2013年6月28日の「海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 8(日本軍海南島三亜出港ののち)」などをみてください。
 マキンでのUSA兵の死者は60人あまり、タラワでの死者は1000人あまりであったという。
 激戦地となったマキンやタラワの住民の犠牲も大きかった。日本政府・日本軍の文書で、住民の犠牲についてふれているものはない。
 日本軍とUSA軍が戦闘していた時期にはタラワとマキンを含むギルバート諸島はイギリスの植民地とされていた。1979年7月12日に、ギルバート諸島はキリバス共和国として独立した。1997年7月に、キリバス共和国議会の調査委員会は、日本占領時代に住民536人が日本軍に殺されたと報告した。
                                         佐藤正人
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 17

2014年01月11日 | 個人史・地域史・世界史
■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 1
 徴兵され兵士にされた日本民衆は、アジア太平洋の各地で現地の民衆を殺戮したが、アジア太平洋の各地で戦死・病死・餓死した日本兵も多かった。
 第1次世界戦争開始後、1914年10月14日に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付け、12月に軍政をしいた。第1次世界戦争は、日本にとっては第1次アジア太平洋戦争であった。
 第2次アジア太平洋戦争が開始された1941年12月から1945年8月の間に限っても、アジア太平洋地域で日本政府・日本軍・日本企業はその地に住む千数百万人の民衆を殺害し、2百数10万人の日本兵が戦死・病死・餓死した。オキナワに住む10万人以上の民衆が日本軍とUSA軍に殺され、日本に住む100万人近い民衆がUSA軍、日本政府・日本企業に殺された。
 2百数10万人の日本兵は、天皇ヒロヒトと日本政府と日本軍中枢部の命令によってアジア太平洋の各地に侵入し、その地で死んだ。アジア太平洋各地の抗日軍やUSA軍・英国軍・オランダ軍・オーストラリア軍・ソ連軍の攻撃によって死んだ日本兵より、餓死・衰弱→病死した日本兵がおおかった。
 1941年12月8日未明(日本時間)、日本陸軍がコタバルに奇襲上陸し、日本海軍がパールハーバーを奇襲攻撃した。
 その半年後、1942年6月5日~7日に、日本海軍はハワイ西北のミッドウェーのUSA軍を攻撃した。このとき日本海軍は、大敗し、3千人以上の日本兵が死亡した。6月10日に、大本営は、日本海軍の損害を、「空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」と発表したが、実際は「空母4隻・巡洋艦1隻喪失、駆逐艦1隻大破、巡洋艦1隻中破、289機喪失」だった。日本海軍が失った4隻の空母(「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」 )はすべてパールハーバー奇襲に参加していた。
 1942年6月7日の時点で、日本海軍は、アジア太平洋海域の制海権を失っていた。
 それにもかかわらず、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢部は、アジア太平洋侵略戦争を中断しなかった。
 その1か月後の1942年7月はじめから、USA軍は、日本海軍が滑走路を建設していたガダルカナル島の偵察・爆撃をおこない、滑走路完成直後の8月7日に上陸を開始した。
 ガダルカナル島内とガダルカナル島周辺海域での戦闘に日本軍が勝利する展望はなかった。おおくの日本兵が戦死・病死・餓死した。ようやく12月31日の天皇ヒロヒトを含む会議で、日本軍をガダルカナル島から撤退させることが決定された。しかし実際に撤退が実行されたのは1943年2月になってからだった。
 ガダルカナル島に上陸した日本兵は3万人以上だった。そのうち死者は2万人以上だった。戦闘での死者は5千人、餓死・病死した日本兵は1万5千人。動けなくなるなどして、自決させられたり、薬物を注射されたり、銃殺されたり、銃剣で刺殺された日本兵もおおかった。
 1943年2月9日に、大本営は、「ガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と発表した。
 日本軍はガダルカナル島の滑走路建設に住民を強制的に働かせた。住民の豚や鶏を殺して食べた。戦場となったガダルカナル島を含むソロモン諸島全域で約4万人の島民が命を奪われたという(清水靖子『森と魚と激戦地』1997年5月、北斗出版、111~124頁)。
                                         佐藤正人
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海南島近現代史研究会第13回定例研究会

2014年01月07日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第13回定例研究会を2月9日に開きます。
 みなさんの参加をお待ちしています。

■海南島近現代史研究会第13回定例研究会■
 16世紀末(1592~93年。1597~98年)の秀吉の軍隊の朝鮮侵略を前史とし、国民国家形成以後、日本は、周辺諸地域・諸国家を継続的に侵略し、その地の民衆の命を奪いました。
 日本の政府・軍隊・企業……がアジア太平洋でおこない続けてきている侵略犯罪の実態を明らかにし、その歴史的・社会的責任の内実を問う民衆運動の必然性と可能性を、1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸した75年後に検討しあいたいと思います。
 
 と き:2014年2月9日(日)13時~17時(開場12時)
 ところ:大阪産業大学梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)
 参加費:500円(会員は無料です)

主題:海南島における日本の侵略犯罪
■主題報告(1) 帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪  佐藤正人
 日本の他地域他国侵略の歴史はおわっていません。日本軍・日本企業が海南島で殺した民衆の名は、ほとんど明らかにされていません。日本政府は、国家犯罪の歴史的事実の究明を回避し続けています。
■主題報告(2) 海南島における住民虐殺 証言と記録        金靜美
 海南島での日本軍の犯罪の文書記録はほとんど残されていません。被害者・目撃者の証言を記録しなければ犯罪事実がなかったことにされてしまいます。証言を聞いた場でのことを報告します。
■主題報告(3) 海南島の住民虐殺と戦後日本の植民地主義      斉藤日出治
 海南島のおびただしい住民虐殺はなぜ日本で無視されているのでしょうか。この問題を戦後日本に継承されている植民地主義の視点から考えてみます。
■主題報告(4) 抗日戦士殺害を「功績」とする日本軍        竹本昇
 海南島で1945年3月2日に抗日戦士を爆死させたことを日本軍は「戦闘詳報」で「功績」としています。66年後の同じ日にその現場の新龍鎮新村で、村人と戦士の遺族に話を聞かせてもらいました。

■討論 帝国主義諸国の国家犯罪、とくに日本の国家犯罪をどのように認識するか

■報告 2013年秋(10月21日~11月2日)の海南島「現地調査」
 臨高県馬裊半島楽豪村、海口市紅旗鎮龍発村、澄邁県中興鎮福来村、文昌市潭牛鎮大頂村、昌江黎族自治県昌化鎮光田村・旧県村・浪炳村、東方市東河鎮旧村・江辺郷老村、楽東黎族自治県抱由、楽東黎族自治県志仲鎮、澄邁県中興鎮和安市、澄邁県橋頭鎮新興港村・聖眼村・福留村。
■紹介 邢越「真相与和解  2013年10月25日文昌大頂採訪后感」
■報告 海南島「朝鮮村」の現状
■報告 海南島旦場村の追悼碑建立について
■報告 次回の海南島「現地調査」の主目的と日程(2014年3月下旬)

  海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
    【事務局】 大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室内
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アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年 3

2014年01月04日 | 海南島史研究
■日本国・「イスラエル国」
 1939年2月、日本軍が奇襲上陸し、国民国家日本は、海南島占領を開始した。
 このとき、それを行動や発言で反対した日本国民(「臣民」)はいなかった。
 海南島への侵入を命令された日本兵が、海南島侵略を行動や発言で反対することは難しかっただろう。しかし、数十パーセントの日本国民(「臣民」)が、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、海南島侵略を継続できなかっただろう。
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。
 その半世紀前、1889年2月に、日本政府は、天皇の名で大日本帝国憲法を発布した。そこでは、日本国民は天皇の「臣民」と規定された。天皇を「神」とする「臣民」によって組織された日本軍は、台湾、朝鮮、中国、モンゴル、ミクロネシア、東南アジア……を侵略した。日本軍に前後して日本企業が侵入し、日本人が商人・農民(「移民」)……として侵入した。日本人はその地域に日本神社を建てた。
 日本の他地域・他国侵略の過程で、天皇制が強化された。天皇の「臣民」として統合された日本民衆は、他地域・他国を侵略しつづけた。
 植民地としたアイヌモシリでも琉球でも台湾でも朝鮮でも、日本政府は、そこに住む民衆の国籍を日本とし、日本天皇の「臣民」とした。日本の植民地とされた地域・国家の民衆は、持久的に日本への「同化」と対峙した。
 第2次アジア太平洋戦争敗北後、日本の領土・植民地・占領地は縮小した。日本天皇の「臣民」の数も、それまでのほぼ3分の2に縮小した。1946年5月に発布された新憲法(「日本国憲法」)で、残った3分の2の日本天皇の「臣民」は、日本国家の「国民」に改称された。だが、天皇を「日本国民の象徴」とし、「明治天皇」・ヒロヒト・その子アキヒトそれぞれの誕生日をすべて日本国民の祝日とし、「元号」を使い、「ヒノマル」・「キミガヨ」を拒否しない日本国民は、侵略と「臣民」の時代を克服していない。
 なぜ、日本兵は、アジア太平洋各地で住民を虐殺できたのか。
なぜ、日本国民(「臣民」)は、日本の他地域・他国侵略を肯定しつづけることができたのか。
 なぜ、日本国民(「臣民」)は、他地域・他国侵略を悪だとする、あたりまえの倫理を社会的に確立できなかったのか。
 1948年5月にパレスチナに侵入したシオニスト武装集団は、アメリカ合州国をはじめとする帝国主義諸国の軍事・経済・政治支援のもとに、「イスラエル国」をつくった。
 その後、「イスラエル国」のシオニストは、強大な武力でパレスチナの大地と海の占領を続け、おおくのパレスチナ人を殺し、傷つけ、家を占拠し、農地を奪った。
 「イスラエル国」のユダヤ人のほとんどは、「イスラエル国」の兵士が、幼児をふくむパレスチナ人を虐殺している事実を知りながら、それに反対していない。
 シオニスト占領下のパレスチナで、まいにち、くりかえされている侵略犯罪。
 「イスラエル国」の領土とされている地域から出発し、ジェニン、ナブルス、ガザ……で、おおくの人びとを殺傷し、住居・病院・工場・学校……を破壊し、農地を荒らし、家畜を殺した「イスラエル国」の将兵は、自分たちの家や兵舎に戻って暮らしている。
 アジア太平洋各地で、侵略犯罪をくりかえしていた日本軍の将兵は、日本にもどって、ヒロヒトを象徴とする日本国で「平和」に暮らしつづけた。
                                        佐藤正人
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アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年 2

2014年01月03日 | 海南島史研究
■1939年2月10日
 1939年2月9日(農暦1938年12月21日)夜9時過ぎ、海南島北部の天尾沖に、日本軍の艦船が侵入し、10日未明から、陸軍部隊が、天尾海岸に上陸しはじめた。
天尾海岸に奇襲上陸した部隊は、3路に分かれて首都海口に向かい、10日真昼に海口に侵入した。同じ日、これとは別に、日本海軍陸戦隊が、海口東北海岸を河口とする大河、南渡江をさかのぼって海口に侵入した。

 この日本軍に、「軍報道員」として日本人「文学者」火野葦平や中野実が加わっていた。そのときのことを火野は、『海南島記』(改造社、1939年)で「報告」している。
火野や中野は、海口に侵入するとすぐに、日本軍の「布告」や宣伝ポスターを張ったり、紙に赤鉛筆で「ヒノマル」を書いて「部落の主だったところに貼るように指示」して、「重大なる文化の闘い」をおこなった。
 火野は、2月10日夕方、海口の市場で、日本軍票をつかって豚肉や野菜や豆腐を入手した。そのときのことを火野は、
   「私達は市場に入りこんで買い物をしたが、その物価の低廉なのに先ず驚き、私達がど
   うであろうかと思って出した軍票を、支那商人が平気な顔ですぐに取ったのに更に意外
   の感を抱いたのである」
と書いている。市場の人は、突然侵入してきた日本軍の兵士がつきだしてくる、見たことのない紙切れを、紙幣として受けとらざるを得なかったのではないか。
 その後も、火野は、軍票を使っている。あるレストランの店主は、火野や中野らが集団で飲み食いしたあと、軍票で支払おうとしたとき、「なんぼでもよい、どうでもいいようにして下さい」と言ったという。
 軍の暴力なしには、金額が印刷された紙切れである軍票を紙幣として流通させることはできない。
 火野葦平がこのとき海南島にもちこんで使用した日本軍票は、日本軍が、1937年11月から使いはじめた「甲号軍用手票」であった。1937年7月7日の「盧溝橋事件」の後、日本軍は8月に上海に大規模に侵入した。つづいて、さらに11月5日に杭州湾北岸の金山衛に大量の日本軍が奇襲上陸した。その2週間前の10月22日に日本政府は、軍票発行を閣議決定していた。
 11月5日に金山衛に上陸し南京に向かった日本軍が使用した「甲号軍用手票」の裏面には、漢語で「此票一到即換正面所開日本通貨」と印刷されていた。だが、それは、偽りであった。10月22日閣議で決定された「軍用手票発行要領」では、「軍票と日本通貨との引換えは当分の間行なわないものとする」とされていた。火野葦平は、1937年11月5日に日本兵の一人として金山衛に上陸し、犯罪をくりかえしつつ進み、12月14日に南京に侵入していた。

 海口で火野葦平らは、海南書局のカギを壊して占拠し、「軍報道部」の「看板」をかけた。火野は、そのときのことを、
   「竈には火が残り、茶碗や箸が散乱し、鍋には暖い飯が残つてゐるのは、我々が入る直
   前まで、誰か居たことが歴然として居た」、
   「私達が入る直前に書かれたと思はれる白墨書の文句が家の中の板壁に幾つもあつた。……「打倒日本」「打破日本帝国主義」「中国努力打日本鬼子死了」いふようなものである。
   これは多分店員か職工の書いたものと思われる」
と書いている。
 火野は、『海南島記』のなかで、「私は軍報道員として、此の度の光輝ある海南島攻略に参加しました」、「我々は、今度の海南島攻略は、銃火を以てする戦闘とともに、重大なる文化の闘ひであるとの意気込みを持つたのである」と述べ、海南島民衆を、「土民」、「五指山中に居る蕃族」と呼び、「南洋の土人に近い表情を湛えていた」、「彼等は北方の海南人より一層南洋の土人に近い」などと表現し、抗日武装部隊の人びとを「奥地に蟠居して居た共匪」と言っている。

 火野葦平は、「戦犯作家」として1948年に公職追放となった。
 1937年7月から1945年8月まで、日本の「文学者」のほとんどすべてが日本国民を侵略戦争に煽動したが、戦犯に指名された日本の「文学者」は少なかった。
 火野葦平が戦犯として公職追放処分になる前年、1947年5月、最悪の戦犯天皇ヒロヒトを「日本国の象徴」・「日本国民統合の象徴」とする「日本国憲法」が施行されていた。
 火野は、1950年に公職追放を解除されたが、1960年に自殺するときまで、日本軍兵士や「軍報道員」として犯しつづけていた侵略犯罪を自己批判することはなかった。

 日本の新聞は、連日、日本軍が海南島占領地域を拡大していく状況を煽動的に報道していた。
 日本のマスメディアや火野のような日本軍宣伝員が、日本の海南島侵略を全面的に肯定的に報道しているとき、海南島侵略に怒りを感じた日本民衆、あるいは疑問を感じた日本民衆は、どのくらいいたのだろうか。
                                         佐藤正人
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アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年 1

2014年01月02日 | 海南島史研究
 海南島近現代史研究会の『会報』第2号(2009年2月10日発行)に掲載された「アイヌモシリ植民地化後140年、海南島侵略後70年」を3回にわけて連載します。
                                        佐藤正人
                             
■国民国家日本の近現代史
 1855年2月、「日魯和親通好条約」によって、日本政府とロシア政府は、北方諸民族が生活し労働してきた「千島列島」を分割してそれぞれの国家の領土とするとともに、「樺太島」を共有地とした。
 1869年9月、日本新政府(「維新政府」)は、それまで和人が「蝦夷島」と呼んでいた北方の島(アイヌモシリの一部)を日本の領土とし、「北海道」と名付け、植民地とした。
 1872年10月、日本政府は、九州南方の琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。
 その2か月後の1872年12月、日本政府は、架空の「神武天皇」の即位年をBC660年に設定し、それを「紀元」1年とする「皇紀」の使用を開始し、天皇制の歴史と国家の歴史を一致させた。
1874年5月に、日本政府は、日本陸海軍3千数百人を、台湾に侵入させた(「台湾蕃地処分」)。
その翌年1875年9月に、日本政府は、軍艦を、江華島海域に侵入させた。1974年の「台湾蕃地処分」と1975年の「江華島事件」は、連続していた。
 1875年5月、日本政府とロシア政府は、「樺太千島交換条約」に調印した。これは、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認しあう侵略国間の条約であった。
 1879年4月、日本政府は、「琉球藩」を沖縄県とした(「琉球処分」)。
「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(1895年5月批准書交換)で、台湾・澎湖列島を日本領とした。このころ、日本は、宮古・八重山地域を、曖昧な形で日本領とし、沖縄県に組み入れ、この地域にすむ人びとを日本国の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。この地域西端の与那国島が現在、日本の最西端とされている。1522年に、侵入してきた琉球王国軍にウニトラ(鬼虎)らが敗北するまで、与那国島は、ひとつの国であった。
 1895年8月、日本政府は、台湾・フィリピン間中央の緯度線を「日本国及西班牙国版図の境界線」とする条約をスペイン政府と締結した。
 1898年7月に、日本は、「硫黄列島」東方の無人島を「南鳥島」と名付け、東京府告示で領土にした。それ以来、現在まで、この島が日本領土の最東端となっている。
 1900年に、日本・イギリス・アメリカ合州国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア8か国の軍隊が連合して清国に侵入した(義和団戦争)。それ以後、1945年秋まで日本軍が中国から撤退することはなかった。
 「日露戦争」のさなか、ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた1905年1月末に、日本政府は、独島を自国の領土とすることを閣議で決定し、2月はじめに、島根県に「編入」した。大韓帝国政府が日本の独島占領を知ったのは、1906年3月末であった。
 「日露戦争」の「講和条約」(1905年9月調印)で、ロシア政府は、日本がロシアに代って遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。また、この「講和条約」で、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯50度線によって、先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
 「日露講和条約」を批准した翌月1905年11月に、日本は大韓帝国を「保護国」とし、1910年8月に「併合」した。
 第1次世界戦争開始後まもなく、1914年8月23日に、日本はドイツに宣戦布告した。同年10月に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付け、12月に軍政をしいた(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)。同じころ、日本陸軍はドイツが植民地としていた中国山東省の青島を攻撃し、11月に占領し、青島守備隊司令部が軍政をしいた。
 1922年4月に、日本政府は「南洋群島」の行政機関として「南洋庁」を設置した。「南洋庁」は、アイヌモシリ植民地機関である「北海道庁」と同じく内務省が管轄した。「南洋群島」の先住民族カナカ人やチャモロ人を、日本政府は公文書で「島民」と表現し、おおくの日本人は「(南洋の)土人」と呼んだ。
 1914年の「南洋群島」植民地化から1931年までの17年間、日本は領土・植民地を拡大しなかった(できなかった)が、1931年7月6日に、北回帰線の南に位置する「沖ノ鳥島」を、内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加えて、日本の領土とした。その約70日後の9月18日、日本は、中国東北部・モンゴル東部の軍事侵略(「満洲事変」)を開始した。
 1932年3月1日、日本は、中国東北部とモンゴル東部を植民地として、「満洲国」と名付けた。
 1939年9月1日、日本政府は、張家口に傀儡政府「蒙古連合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を植民地とした。「満洲国」においても「蒙古連合自治政府」の支配地域においても、実権は日本政府・日本軍が把握し、日本族が支配民族として他民族を抑圧した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始し、1935年12月25日に、「冀東防共自治政府」をつくった。1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、日本政府・日本軍は、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して傀儡「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。
 1939年1月17日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、2月中旬ころ海南島北部に共同で侵入し占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んだ。
 1939年2月10日、国民国家日本がアイヌモシリを植民地としてから70年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、海南島に日本軍を奇襲上陸させた。
 その7か月後、1939年9月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
日本政府が2月10日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である2月11日に海南島の首都、海口を占領しようとしていたからであった。その50年前の1889年2月11日に日本政府は、日本国民をすべて天皇の「臣民」とする「大日本帝国憲法」を公布していた。
 1939年2月11日、日本のマスメディアは、海南島奇襲上陸(宣戦布告なしの海南島侵略戦争開始)の「成功」と「紀元節」を大きく報道した。日本国民(「臣民」)のほとんどは、侵略地域の拡大を喜び、支持した。
 アイヌモシリ植民地化開始70年後、日本は海南島侵略を開始した。
 今年(2009年)、それからさらに70年が過ぎた。
 国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史であった。
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日本の海南島侵略の時代は終わっていない

2014年01月01日 | 個人史・地域史・世界史
 1998年6月に海南島をはじめて訪れてから、15年半が過ぎた。
 日本の海南島占領期(1939年2月~1945年8月)の侵略犯罪の実態を解明するとともに、海南島民衆の抗日反日闘争の歴史を究明することを主目的として2008年8月に海南島近現代史研究会が創立されてから、5年半が過ぎた。
 これまでの24回の海南島「現地調査」をふくむ海南島近現代史研究の過程で、海南島での国民国家日本の侵略犯罪のわずかな一部を知ることができただけである。
 海南島近現代史研究は世界近現代史研究の一環であるが、海南島近現代史のなかに世界近現代史における諸問題が内包されていることを、この15年半のあいだに、なんども確認した。
 1939年2月から1945年8月まで6年半の日本侵略期、すなわち抗日反日期の海南島近現代史を認識する作業もまた、世界近現代史における侵略と抵抗、国家、民族にかかわる諸問題を解明することなしには進めることができない。
 国民国家日本の海南島侵略の歴史を、国民国家日本のアイヌモシリ侵略以来の他地域他国侵略史の全過程のなかで認識しようとしないならば、なぜ国民国家日本が海南島を侵略したのか、なぜ国民国家日本の国民(「臣民」)のおおくが海南島侵略を実行・協力したのかを解明することができない(このブログに2012年6月12日から6月19日まで8回連載した「日本はいつ海南島侵略を開始したか」をみてください)。
 1939年1月17日に天皇ヒロヒトが海南島軍事侵略を「裁可」し、同じ日に大本営陸軍部と海軍部が「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を締結し、2月10日に日本陸海軍が海南島に奇襲上陸した。それ以後、6年半の間、日本政府・日本軍・日本企業は、海南島で、住民虐殺・略奪・軍事的政治的文化的経済的民衆支配・女性にたいする性的犯罪を続けた。
 海南島侵略をふくめ、1925年1945年の国民国家日本の侵略犯罪の最悪の責任者はヒロヒトであった。  
 1945年4月28日にイタリアでムッソリーニがパルチザンに銃殺され、その2日後にドイツでヒットラーが自殺した。
 しかし、日本ではヒロヒトは生き残り、1945年8月14日に、なおも日本の第2次アジア太平洋戦争の目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったと主張し、「神州」である日本は不滅だが、「敵」が残虐な爆弾を使うのでこれ以上戦争をつづければ民族が滅亡し、人類の文明が破滅するので、ポツダム宣言を受諾するのだ、「忠良なるなんじ臣民」はこのことを理解せよ、と傲慢卑劣な口調で語り、その録音が、翌日の8月15日にラジオで放送された。
 1946年5月3日に「東京裁判」が開始されたが、ヒロヒトが戦犯容疑者となることはなかった。その半年後の11月3日(「明治節」。1927年制定、1948年廃止。「明治天皇」の誕生日)に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布された。その6か月後、東京裁判開廷1年後の1947年5月3日から、「日本国憲法」が施行され、戦犯ヒロヒトは、「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」となった。

 海南島で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆が何人であるかも明らかになっていない。おおくの犠牲者の名は明らかになっていない。
 アジア太平洋全域で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆が何人であるかも明らかになっていない。おおくの犠牲者の名は明らかになっていない。
 
 海南島における国民国家日本の侵略犯罪が包括的に解明され、犯罪事実が明らかにされ、日本政府が謝罪し、賠償し、責任者を処罰しないがきり、日本の海南島侵略の時代は終わらない。アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪が包括的に解明され、犯罪事実が明らかにされ、日本政府が謝罪し、賠償し、責任者を処罰しないがきり、日本の侵略の時代は終わらない。
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