三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

熊野市にたいする抗議・要請 2016年11月27日 

2017年01月26日 | 紀州鉱山
 きのう(1月25日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会と第9回追悼集会参加者一同は、河上敢二熊野市市長と倉本勝也熊野市教育長に、抗議と要請の文書を送りました。文書の日付けは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する昨年の9回目の追悼集会の日である2016年11月27日です。抗議・要請文の全文はつぎのとおりです。
 
                    紀州鉱山の真実を明らかにする会

■抗議・要請■
 わたしたちは、2010年3月に追悼碑を建立し、毎年11月に碑の前に集まって追悼集会を開催して9回目を迎えました。これまでと同様、今回も千葉、東京、小樽、京都、奈良、兵庫など各地から参加して、紀州鉱山に拉致され過酷な労働を強いられた後、故郷に戻ることなくその生を断たれた朝鮮人を追悼する集会を開催しました。
 昨年の追悼集会の直前には、三重県に住む朝鮮人の協力により、亀山から運んだ巨石に「朝鮮人追悼碑」と刻んだ新しい石碑を建立しました。土地の中央に建てられた追悼碑、および犠牲者ひとりひとりの名前を刻んだ石碑に加えて、道路に向かったこの新しい大きな石碑が道行く人に紀州鉱山における朝鮮人強制連行の歴史を訴えています。この土地が日本の過去の植民地支配と侵略戦争の犠牲となった朝鮮人を追悼するという公的な場であり、そのような場として年々整備が進められていることをここからしっかりと確認することができます。
 昨年も、今年も、追悼集会には雨が降りましたが、参加者の中には「この雨は犠牲者の悔し涙だ」、と語る人もいました。
 石碑に刻まれた35名の方々は、わたしたちの会が知りえたかぎりの方々であり、紀州鉱山の強制連行によって亡くなった方々のすべてではありません。しかもその35名のなかでも本名が一部しかわからない方もおり、さらにそれらの方は多くが遺骨の所在すらいまもなお不明のままです。
 70年以上か経過した現在もなお、日本の政府と企業は、朝鮮人を連行し死に至らしめその方々の生命の尊厳を踏みにじった行為に対して、実態の調査も、責任者の処罰も、犠牲者に対する謝罪も、賠償も、行っていません。
 追悼集会では、熊野市の不当な課税行為に抗議する裁判の報告もおこなわれました。熊野市は追悼碑の土地を私有地と見なして固定資産税を課しました。熊野市のこの課税行為は、市民団体が紀州鉱山で命を断たれた朝鮮人を追悼し日本の歴史的責任を明らかにするためにおこなった追悼碑建立の公共的意義を否定するものにほかなりません。
 わたしたちは追悼集会のたびに、熊野市に対して、本会とともに、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働に対する実態を調査し記録し、朝鮮人を追悼する行事に取り組むよう求めてきました。しかし、熊野市は、一昨年も、追悼集会に際してわたしたちが発した抗議要請に対して、回答していません。そのような熊野市の態度は、行政の公的業務を放棄することを意味します。
 昨年の抗議要請文をこの抗議要請と合わせて同封しますので、昨年の質問事項を確認のうえ、責任のある回答を求めます。2月末日までにかならず文書で回答してください。
                                  (2017年1月25日発信)


                                  
抗議・要請      2015年11月8日
  熊野市長   河上敢二 さま
  熊野市教育長 倉本勝也 さま

               紀州鉱山の真実を明らかにする会
               第8回追悼集会参加者一同

 わたしたちは、1997年2月の会の結成以来、朝鮮から紀州鉱山に連行され過酷な労働を強いられた1000人以上に及ぶ朝鮮人労働者の歴史について調査を進めてきました。そして2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、それ以降毎年追悼集会を開催して、本日、8回目の追悼集会を迎えました。
 今回の追悼集会には、紀州鉱山で働かされた朝鮮人の出身地のひとつである慶尚北道の道議会のみなさんが参加されました。紀州鉱山に連行され労働を強いられ犠牲となった朝鮮人の韓国の遺族のかたがた、そしてその出身地の地域や議会がこの追悼集会に強い関心のまなざしを向けています。
 当会が独自に調査を進めた結果、これまでのところ、少なくても朝鮮人労働者とその家族35名が紀州鉱山で亡くなったことが明らかになっています。しかし、この35名の方の遺骨の所在も、死亡の状況や原因についてもほとんどわかっていません。
 わたしたちは旧紀和町、そして熊野市がこれらの朝鮮人の追悼碑の建立に取り組むよう働きかけてきましたが、貴職らは誠実に応答しませんでした。 
 わたしたちはやむなく、会で独自に土地を確保し、追悼碑を建立して、2010年3月28日に除幕集会を開催しました。ところが、この土地に対して、熊野市長は固定資産税を求めてきました。
熊野市への朝鮮人強制連行、熊野市での朝鮮人強制労働という歴史について、熊野市が責任をもってその事実を究明し、犠牲者を追悼することは当然のことであるにもかかわらず、貴職はその責務をはたさないばかりか、市民団体が心ある多くの人びとの寄金によって入手した追悼碑の土地に課税をするという、無恥で理不尽なことをしました。
 わたしたちはその不当性を公の場で問うために2011年3月18日に三重県津地裁に訴訟を提起しました。この訴訟の提起は日本の社会だけでなく、韓国にも大きな反響を呼び起しました。紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷の江原道および慶尚北道の道議会では、わたしたちの会による提訴を支持し、熊野市による固定資産税の課税の撤回を求める決議がなされています。また慶尚北道の道議会議員団が2012年4月に三重県と熊野市を訪れ、三重県の不動産取得税と熊野市の固定資産税の課税を撤回するよう求めました。慶尚北道の道議員団は今回8回目の追悼集会に参加するため、熊野への二度目の来訪をおこないました。
 以上の経緯を踏まえて、熊野市のこれまでの不当な対応に抗議するとともに、改めて以下のことを要請します。

 1 熊野市紀和鉱山資料館に、紀州鉱山への朝鮮人強制労働、紀州鉱山での朝鮮人強制労働に関する資料を展示すること。
 2 紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働についての調査を進めること。
   石原産業が1946年に三重県内務部に提出した朝鮮人労働者についての「報告」はきわめて不正確なもので、この「報告」に「逃亡」したと書かれている千炳台さんは紀和町で死亡していることが判明していますが、旧紀和町は、私たちが千炳台さんの埋火葬許認可書の開示を要望したにもかかわらず、この要望を拒否し続けてきました。
 3 熊野市は、紀州鉱山での朝鮮人犠牲者を、今後どのようなかたちで追悼するのか、その内容を具体的にあきらかにすること。
昨年の7回目の追悼集会ではこの同じ要請を貴職に対して行ったにもかかわらず、貴職は当会への回答を1年近く経過した今日までおこなっていません。
 市民の要望に答えるという行政の基本的な責務を放棄するこのような態度は許すことのできないものです。

 さらに加えて、倉本教育長に対して以下の質問を行います。
 昨年9月25日の熊野市教育委員会で、鉱山資料館に紀州鉱山の朝鮮人の強制労働に関する資料の展示についての教育委員の質問に対して、杉松前教育長は、「鉱山の資料館として、昔こういう方達がはたらいていたことで写真を飾ることは構わないと思います」と答えています。
 この答弁について以下に質問します。
 1 倉本教育長は、鉱山資料館にすでに英国人捕虜の鉱山労働に関する写真の展示があるのは御存じでしょうか。
 2 杉松前教育長は、これまで当会が紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働についてくりかえし要請してきた経過を承知のうえで、このような答弁をしたのでしょうか。倉本教育長はこの答弁と同じ考えなのでしょうか。
 3 「鉱山資料館に写真を飾ることは構わない」と答弁するに当たって、教育委員会はこの件に関してどのような調査をおこない、どのようなことを確認したのでしょうか。
 4 倉本教育長は、鉱山資料館の道路を挟んだ斜め向かいに紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建てられていることをご存知でしょうか。また、熊野市がこの土地に対して、固定資産税を課していることをご存知でしょうか。

 上記の要望と質問に対する回答をかならず12月28日までに文書で求めます。
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「刻まれたのは“欠けた”名前 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立」

2016年12月30日 | 紀州鉱山
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=1046
『週刊金曜日』2010/4/2 金曜アンテナ 
■刻まれたのは“欠けた”名前
 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立

 石原産業旧紀州鉱山(三重県熊野市)でアジア・太平洋戦争中、強制連行により労働を強いられ、異郷で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会が三月二八日、同市であった。碑は、市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」と在日本朝鮮人総聯合会県本部、在日本大韓民国民団県地方本部が結成した会が建立。碑文は、アジア各地の日本軍・企業による侵略の責任追究を誓うとともに、犠牲者の冥福を祈る。集会には、韓国の関係者をはじめ在日朝鮮・韓国人、日本人ら約一〇〇人が参加した。
  「明らかにする会」の調査では、同鉱山で一九四〇年から四五年までのべ一三〇〇人超の朝鮮人が働いていた。しかし、紀和鉱山資料館の展示では全く触れていない。同鉱山で死亡した英国人捕虜一六人の名前や年齢は墓地に明記され、合併前の旧紀和町長も参列し慰霊祭が営まれたのと対照的だ。
 追悼碑の前には、三五個の石が並び、亡くなった朝鮮人三五人の名前がひとりずつ書かれている。同会のメンバーが九六年から訪韓を重ね、生存者・遺族らから聞き取るなどして調べた。だが、うち一一人は名前の一部が欠け、出身地が判明したのは六人にすぎない。
 同会の金静美さん(六〇歳)は「当時、日本式の名にさせられていたため、(資料を探しても)本当の名前が分からない。(欠けた)名の書かれ方は、紀州鉱山の真実が明らかになっていないことの証」とし、碑の建立を、真相解明に向けた新たな出発点とすることを呼びかけた。
 
                            山本柚・ライター
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「紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会」

2016年11月28日 | 紀州鉱山
 以下は、きのうの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会のことを報道する、今日(11月28日)の『毎日新聞』三重版の記事です。

■紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会
【熊野】旧入鹿村周辺(現熊野市紀和町)にあった紀州鉱山で第二次世界大戦が終わるまでに亡くなった朝鮮人35人を追悼する集会が27日、紀和町板屋の追悼碑前であった。雨が降る中、在日朝鮮・韓国人や日本の支援者ら約20人が冥福を祈った。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美事務局長)が主催した。紀州鉱山は銅を産出し、1978年に閉山した。会によると、戦争中1300人以上の朝鮮人がいた。うち35人が死亡している。
 この日は神戸市や北海道などから参加者があった。金管楽器で「アリラン」が演奏された後、追悼碑にカーネーションを献花、日本酒で献杯した。  【汐崎信之】

【写真】追悼碑に献花する在日朝鮮人・韓国人ら 熊野市紀和町板屋で
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する9回目の集会

2016年11月27日 | 紀州鉱山
 今日(11月27日)は朝から雨が降り続いていました。
 午後1時から、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広場で、9回の追悼する集会(기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 모임)が開かれました。

 はじめに、八王子からきたUさんによってユーフォニウムによる「ありらん」が演奏されたあと、会員の竹本昇さんが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地にたいする熊野市の課税に抗議する裁判について報告しました(対熊野市第2訴訟の経過については、このブログの2016年3月7日の「裁判官の侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)」、2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などをみてください)。
 この報告の最後に、竹本昇は、「わたしたちは、敗訴しましたが、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした」とのべました。
 つぎに会員の佐藤正人が、「紀州鉱山と海南島」という主題で報告しました。佐藤は、
   「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、
   追悼碑を建立した翌年の1995年から紀州鉱山に強制連行された朝鮮人について調査
   を開始しました。
    1992年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が創立されました。
    紀州鉱山の真実を明らかにする会は、13年間、紀州鉱山にかかわる歴史的事実の
   調査をつづけ、2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼碑を建立
   しました。
    それから6年8か月が経ったいま、わたしたちは日本政府・日本企業の他地域他国
   侵略の歴史に対決していく民衆運動をさらに深め広げていかなかなければならない
   と考えています。
    石原産業は、海南島でもマレイシアでも、フィリピンでも多くの民衆のいのちを犠牲
   にして鉱物資源を略奪していました。海南島では日本窒素や三菱鉱業も大規模の企
   業犯罪をおこなっていました。日本窒素も石原産業も日本国内で毒物を放出し多くの
   人の命と健康を奪ってきました。
    石原産業と日本窒素の海南島、朝鮮……における侵略犯罪を日本政府・日本企業
   の侵略犯罪のなかで把握し、アイヌモシリ侵略以後の日本の他地域他国侵略の歴史
   と対決する民衆運動を、これからさらに紀州鉱山の真実を明らかにする会は深め強め
   ていきたいと考えています」、
と話しました。
   
 そのあと、雨の中、追悼碑のまえの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の一人ひとり(ひとつひとつ)に花をおくり、献杯しました。

 それから、参加者一人ひとりが、思いを語りました。
 Aさん:わたしは京都の丹波で生まれた中国人です。母は朝鮮の釜山に生まれ、日本に
    来て盧溝橋事変の前に都会の排外的な空気を避けて丹波に住むようになりました。
     母は反物の行商をやっており、幼かったですがわたしも母に連れられて一緒に行
    ってました。中国人ということでよくいじめられました。「軍人遺族の家」というのが
    あって、その家の前を通ると“自分の息子が大陸で中国人兵士に殺された”といって犬
    をけしかけて“シナ人来るな”と脅されたこともありました。母子で田んぼのあぜ道
    を逃げて、売り物の反物が田んぼのなかに落ちて母と一緒に田んぼの中に入って拾っ
    たこともありました。母は谷川でそれを洗い木に干しました。母は空に向かって朝鮮
    語で“アイゴー、アイゴー”といって日本人をののしり涙を流していました。
     ここに来て、故郷の丹波のことを思い出しました。マンガン鉱の採掘の為に多くの
    朝鮮人が連れられて来て被差別部落の人も住まないような山の裾にみすぼらしい
    杉皮葺きの小屋を建てて住んでいました。多くの朝鮮人がじん肺などで死んだと聞
    きました。
     わたしは2005年まで、南京攻略戦に参加した日本兵を探しに三重県になんど
    も来ました。三重の33連隊は南京大虐殺で城内と揚子江岸で虐殺に大きくかか
    わった部隊です。兵士達が昔のままの思想で如何に多くの中国人を虐殺したか、
    女性を次々と強姦したかを誇らしげ語っていたのに、私の体が怒りに震えるのを
    止めることはできませんでした。    
     中国人も朝鮮人も日本人も、加害民族と被害民族ではその立場は異なります
    が、過去の歴史を如何に受けつぐかということは大切だと思います。
     1923年9月の関東大地震のときに東京神奈川で1千人近い中国人が虐殺され
    ました。
     わたしは4年前からその中国人労働者の遺族とともに、日本政府に謝罪と賠償
    を求める運動をすすめています。また、花岡事件の被害者や大阪港に強制連行さ
    れた被害者と共に、日本政府の戦争犯罪を追求する国賠訴訟に係わっています。
    これらは半世紀前或いは1世紀前のことですが、過去の過ちは正しく清算されない
    限り、人類の進歩はありません。
     いまの日本は歴史をゆがめ、他民族を排外する傾向が強くなっていると感じて
    います。あの時代と同じ空気ですね。覆われてきた歴史のベールをはいで、いま
    こそ、歴史の真実を我々自身にとりもどさなければならないと思います。
     紀州鉱山の真実を明らかにする会の集会には、はじめて参加しましたが、ずっと
    まえから参加したいと思ってました。中朝日の連帯の上に、共に未来をきりひらい
    ていく運動をすすめていきましょう。
 Bさん:八王子から来ました。一人の日本人として歴史を背負って生きていこうと思ってます。
 Cさん:いま、韓中日の民衆の連帯の深まりを感じています。
 Dさん:日本の学校での在日朝鮮人の教育にかかわわっています。自分の名前を名のれる
    社会をつくっていきたいと思っています。
 Eさん:紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人は加害の歴史的責任をとろうとして運動
    しているように感じています。在日2世としていっしょに運動をすすめていきたいと思
    います。
 Fさん:千葉から子ども3人と母といっしょに来ました。子どもたちが自分でどのように歴史
    を知っていくかは、まだ幼いのでわかりません。しかし、ここに来ると歴史を知ること
    の大切さはわかっていくと思います。
 Gさん:去年も今年も雨が降りました。犠牲者のくやし涙だと思います。そのくやしさをうけ
    とめて、今日から来年までの1年間を生きていこうと思います。

                                佐藤正人
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する8回目の集会

2016年11月07日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する8回目の集会

 11月8日、今年も、各地から多くの人が紀州鉱山があった熊野市紀和町の追悼の場に集まり、追悼集会を開きました。
 司会者の開会の挨拶につづいて、韓国慶尚北道議会の議員団を代表して崔泰林議員が、
   「今日、私たちは愛する家族を離れ、遠い異国において強制労役に従事し紀州鉱山で
  亡くなった35人を追悼するためにこの席に一緒に集まることになりました。
    不幸な歴史の真実を明らかにし、私たちはこの35人の魂が安らかに眠れるよう最善
  の努力を尽くしたいと思います」
と述べました。
 つづいて、「朝鮮人追悼碑」と朝鮮語と日本語で刻んだ新しい石碑の除幕式を行いました(この碑については、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』61号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』16号号合併後25頁の金靜美「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する「場」のこと」、およびこのブログの11月2日の金靜美「新しい碑」、11月3日の宇恵悟「朝鮮人追悼碑をささえる12個の石」を見てください)。
 次に、四日市から参加した在日朝鮮人青年によるサムルノリが演奏され、チン(鐘)、プク(太鼓)、チャング(鼓)、ケンガリ(小さい鉦)の音が鳴り響きました。
 そして、兪柄煥さんが、新しい石碑の設置について、
   「昨年、はじめて追悼集会に参加したとき、日本人の参加者が多かった。日本人の
  会員のひとりが言った“紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼することは、日本人がな
  すべき当然のことだ”という言葉に感銘した。
    それで、石を寄贈することにした。この碑の基礎の石の配列は朝鮮半島をかたど
  っている。亡くなっている人は、南も北もありません。安らかに眠ってほしい。これ
  をきっかけに、みんなで仲良くし、そして、みんなでこの石を守っていくのだという
  想いを込めています」
と話しました。
 次に、事務局の竹本昇が、熊野市が植民地支配に対する反省と謝罪を込めて追悼碑を建立するべきあるのに、逆に、この土地に固定資産税課税を課税してきたことに対する不当性を訴えて起こした2回目の裁判の報告を行いました。
 つづいて、参加者のみなさんが、
   「1年に1回しか来られませんが来てみると、自分は植民地化された国にルーツを持
  つ人間だと改めて感じます。そのことを活かしてしていきたいなと思ってやって来ま
  した」、
   「大阪で民族学級の講師をしています。最近、あまり学校の中で植民地の歴史につ
  いて語ることができないことが多いです。教える場所は少なくなっているけれども自
  分自身は、もっともっと、知るべきだと思っています」、
などの想いを語りました。
 最後に地元の会員である宇恵悟さんが、
   「自分はここから車で40分ほどの紀宝町に住んでいる。昔の朝鮮人差別にきちんと
  謝罪しなかったことがいまのこのような状況を招いている。
    自分は非力だが,少しでもやれることをやっていきたい」、
と閉会の挨拶をしました。
 今年の追悼集会は、途中、雨が降ることがありましたが、予定通り行うことができました。参加されたみなさんは、来年の再会を約束して集会を終えました。

                               竹本昇 記
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼しつづけるために

2016年11月05日 | 紀州鉱山
 今年、11月27日に第9回紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会が開かれます。
 2009年7月に紀和町の土地を購入し、7年数カ月過ぎました。追悼の場には、まずひとかかえほどある石をひとつずつ川から拾ってきて、お名前を書き込み、置きました。
 また近くの方から、追悼碑にするための石を寄贈していただきました。それに碑文版をはめ込んでいただいたのも、近くの方です。
 入り口には、木で作った手書きの案内板を立てました。また来るたびに木を植えていきました。地面の下がじゃりなので、生育はあまりよくない土地のようです。
 昨年、3人の在日朝鮮人の方のご尽力で、入り口に、もう1つ大きな碑も建ちました。そして地元の会員により、お名前を書き込んだ石たちの置き場が整備されました。
 またお名前を書き込んだ石の1つが割れ、新しい石を見つけてきて、交換しました。木枠の宣言文版をステンレスで建て直す計画もあります。
 紀和町板屋の追悼の場では、毎年秋に追悼集会が開かれ、ひとびとが各地から集まります。また個別に、訪ねてくれる人もいます。
 幹線道路に面しているので、車で通る人も目にしているでしょう。この場が、慰霊ではなく、追悼の場であるということは意味が大きいと思います。


 朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、
 亡くなった人たち。
 家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった
 幼い子たち。
 わたしたちは、
 生きて故郷に帰ることができなかった
 みなさんを想い、
 なぜ、みなさんが、
 ここで命を失わなければならなかったのかを
 明らかにし、
 その歴史的責任を追求していきます。


 自分の日常生活の中に、日本の侵略の歴史があり、被害者が存在するということをこの追悼の場は証明しています。
 この追悼の場は、現在、便宜上会員5人の共同名義で所有しています。この土地を購入するときに、ある朝鮮人のご厚意により、無利子で多額の借金をしました。その後、カンパを集めましたが、まだ完済していません。
 
 この追悼の場を、おおくの方々と一緒に支えつづけていきたいと考えています。
 希望するひとびとに少しずつお金を出していただいて、土地を少しだけ維持する、各地のひとびとが、少しずつこの追悼の場を支えつづける仕組みです。まだ詳細は検討中なので、いいアイデアがあれば、お寄せいただきたいと思います。プランが立ちましたら、お知らせいたしますので、ご協力をよろしくお願いいたします。
                                日置真理子
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熊野市を被告とする第2訴訟の経過

2016年11月04日 | 紀州鉱山
 対熊野市第2訴訟(2012年度固定資産税賦課処分取消及び減免不承認処分取消請求事件)については、2015年10月7日に発行した紀州鉱山の真実を明らかにす会の『会報』16号で、2015年8月26日の最高裁が、名古屋高裁民事第3部の裁判官(揖斐潔、眞鍋美穂子、片山博)を忌避する紀州鉱山の真実を明らかにする会の特別抗告を棄却したところまでを報告しました。その後の経過は次のとおりです。

 2015年11月13日名古屋高裁で、控訴審が開かれました。当日、午後1時に、控訴人らは、名古屋高裁民事3部に、紀州鉱山の朝鮮人追悼碑の敷地の公共性がより強固になったことをのべつつ本訴訟の本質を明示する「準備書面」を出しました。その1時間後、11月13日午後2時から、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地への熊野市の課税に抗議する訴訟の控訴審が開かれました。
 この最初の裁判で、名古屋高裁民事3部の揖斐潔裁判長裁判官、眞鍋美穂子裁判官、片山博仁裁判官は、ほとんど実質審理をせず、短時間の形式的な手続きのあと、一方的に強権的に弁論を終結させようとしました。
 控訴人らは、2015年4月21日に出した証拠申立書にもとづき、「紀州鉱山に連行され紀州鉱山で亡くなった犠牲者の遺児を証人として採用することが、実質審理の前提だ」と主張しましたが、揖斐裁判長は「証拠申立ては、却下する」と言いました。
 直ちに、控訴人らは、裁判官を忌避しました。しかし、揖斐裁判長は一方的に「これで弁論を終結します」と言いました。それにたいし、即座に、控訴人らは「裁判官を忌避する」と再度言いましたが、揖斐裁判長は「判決日は、12月25日午後1時10分から」といい、他の二人の裁判官とともに法廷を逃げるように出て行きました。
 控訴人らは、「裁判官忌避申立書」を、12月22日に名古屋高裁民事部にだしました。
 私たちは、実質的な審理をしないで形式的に判決文をだそうとしている裁判官に抗議し、裁判官が判決日としていた12月25日には、「出廷」しませんでした。しかし、この日、無恥の3人の裁判官(揖斐潔裁判長ら)は、控訴棄却という判決をだしました。
 2016年1月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、最高裁に上告し、3月7日に、上告理由書をだしました。
 2016年5月11日に、最高裁は、上告を棄却しました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、敗訴しました。しかし、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした。                                             
                                    竹本昇
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朝鮮人追悼碑をささえる12個の石

2016年11月03日 | 紀州鉱山
■朝鮮人追悼碑をささえる12個の石

                         宇恵悟

 碑石の土台を12個の石で兪柄煥さんが囲んでいった。その工事は暗くなるまで続いた。
その作業をそばでみていたわたしには、その石の意味がわからなかった。
 朝鮮半島の12の地域を表している、と兪さんが言った。

 新しい追悼碑の設置工事は、兪さんとその会社の古参の社員の方、従業員の中国からの研修生の方お2人の計4名が当たられた。他は生コンを運んできたトラックの運転手さん、クレーンオペレータさんなど。
 兪さんたちは、三重県の北の亀山から南の端の熊野まで、長い時間をかけて、石やユンボや資材を積んだ大型のトラックでの何回も往復した。
 数日かかって築いた土台の上に碑石を置こうとしたが、亀山から運んだクレーンが小さ過ぎて他の大型クレーンを持ち込んだが、垂直降下する碑石の微妙な位置修正にクレーンの運転手さんたちが苦労した。
 最後の仕上げに基石と碑石の間に流し込んだ生コンに小石を詰める作業に、わたしたちも加わらせてもらった。その兪さんの計らいを嬉しく思った。
 言葉の不自由さの中で、暗くなっても黙々と作業する中国人の研修生の方の姿、土台工事を終え碑石の据え付けのために静かに左官小手を操るすっきりした黄色のシャツ姿の兪さんの佇まいを今でも鮮明に思い出す。
 兪さんの工事の過程を見ていて在日の人の立場が折につけ頭をよぎった。
 この時ばかりでなく、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動に参加してきて、これまでの作業や行事を通じても度々感じていた事だが、もし差別や人権の問題に関心のある人が声をあげる土壌があり、国や、過去に朝鮮人や中国人に危害や人権侵害を加えた地域の住民がその歴史を踏まえて外国人差別や人権にもっと敏感に反応すれば、兪さんは勿論、他の在日の人々やその支援者もこのような作業に貴重な時間や経費を割かずに、家族の為に、レジャーに、或いは寄付行為などの社会貢献活動にも、今以上に傾倒できたし、できるだろう。
 熊野市の住民達も加害者だった「木本事件」、朝鮮人が動員され犠牲者を出した紀州鉱山、そんな地域の人達が在日の朝鮮人の生きにくさには無関心であるという事には合点がいきにくい。
 なぜ地元の人達のおおくは、「木本事件」の犠牲者、紀州鉱山での犠牲者に無関心でいられるのだろう。その当時生きていたとして、自分ならそんな虐殺行為はしなかったと断言して割り切っているのだろうか。今の私達ならそんなことを繰り返さないと言い切れるのだろうか。
 現在、都会で見られるヘイトスピーチは、木本で虐殺が起きた時代の住民意識と重ならないのだろうか。  「木本事件」の償いの為にもヘイトスピーチのような朝鮮人排斥の声に何か行動をとろうとは思わないのか。
 熊野市でも人権週間の時などには啓発活動を行っているが、あれは予算が廻ってくるからその消化としてやるのだろうか。
 身近な所で甚大な人権侵害があった歴史に思いを馳せないで、人権、差別の問題を語れるのだろうか。過去の隣国への加害行為を清算することなく、遠いイタリアや南米の国とかイギリスとかと国際平和交流を謳うことに疑問を感じないのだろうか。
 沈黙や静観は、余計な心労やコストを払って生きている在日の人達に対する差別を知らぬ振りしやり過ごすことで、過去の加害行為の責任を自らは果たさないで地域の責任を国任せにし、その国も責任をとろうとしないのを看過しているのではと思う。
                                 2016年10月30日
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新しい碑

2016年11月02日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場に、新しい碑が建った。ハングルと漢字で「朝鮮人追悼碑」と彫られている。
 この碑は、三重県に住む兪柄煥さん、申載永さん、呉相龍さんの協力によって建てられた(2015年10月7日に発行の三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』61号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』16号合併号の金靜美「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する「場」のこと」を見てください)。
 申載永さんは、2010年3月28日の除幕集会に在日本大韓民国民団三重県地方本部団長として参加した。兪柄煥さんと呉相龍さんは、2014年11月8日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する8回目の集会に、申載永さんといっしょにはじめて参加した。
 集会が終わった直後に、兪柄煥さん、申載永さん、呉相龍さんから、追悼の場のあらたな整備に協力したいという提案があった。
 昨年9月3日、会員が亀山に行き、兪柄煥さん保有の石を選定した。
 そのあと、碑文字を会員が書き、その彫刻を兪柄煥さんが業者に依頼した。
 10月24日に、兪柄煥さんたちが「朝鮮人追悼碑」と彫った石を亀山から「追悼の場」に運んで、設置作業がはじめられた。
 その後、26日、27日、29日、30日と、延べ5日間、兪柄煥さんと職人さん数人が、設置作業に取り組んだ。紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員も手伝った。
 石は大きい。見るからに頑固そうで、大地に踏ん張っている。
 それを固定するのに、兪柄煥さんたちはとても大変そうだった。石と格闘する、というようすだった。
 ようやく場所を得た碑石のまわりを、兪柄煥さんは、石で囲んだ。朝鮮半島の形だという。「朝鮮人追悼碑」と彫られた碑石は、「軍事境界線」をまたがっている。
 碑石を固定するコンクリートにみんなで小石を嵌めた。
 碑文のある追悼碑と犠牲者の名を記した35の石は、この新しい「朝鮮人追悼碑」に守られているように感じられる。
                                     金靜美
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壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる 2

2016年10月31日 | 紀州鉱山
壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる
    ――2015年11月、韓国慶尚北道の道議員団とともに――

                                   金靜美

■解放後、新宮地域で亡くなった朝鮮人
 このあと、浄泉寺に安置されている朝鮮人の遺骨を見せていただいた。 
 山口範之住職によれば、本堂を改修したときに出てきたという。
 「栄宋讃」と書かれているが、朝鮮で「栄」という姓があると聞いたことはないので、書きまちがいかもしれない。
 山口範之住職からいただいた「ダム 工事人夫 家 過去帳」と書かれた名簿によれば、金光珠さんは1959年8月19日に亡くなり、42歳であった。ほかに、金徳俊さん(32歳)、河玉変さん(42歳。燮のまちがいと思われる)、金点守さん(54歳)、金成出さん(35歳)、「金田武夫」さん(35歳)の名前があるが、遺骨が残っていないので、家族が引き取ったのだろう。

★南谷墓地
 その後、山口範之住職に新宮の南谷墓地にある共同墓地に案内していただいた。
 南谷墓地には、「大逆事件」の犠牲者、大石誠之助さん(1911年に処刑)、高木顕明さん、峯尾節堂さん(1919年に千葉監獄で獄死)の墓がある。
 高木顕明さんの顕彰碑に案内していただいた。

■16世紀末の日本の朝鮮侵略と熊野
 その後向かった徐福公園にある「徐福の墓」(1736年建立)の碑文字「秦徐福之墓」は、李梅渓が書いたものだという。李梅渓(1617-1682年)の父、李真栄(1571-1633年)は、朝鮮慶尚道霊山の儒学者で、壬辰倭乱(1592-1593年)のときに捕えられ、大阪に連行され、後に和歌山の紀州藩主徳川頼宣の「侍読」になった。 李真栄と李梅渓の墓は、和歌山市道場町の海善寺にある。
 その後行った熊野速玉大社(2004年7月にユネスコの世界遺産)は、熊野本宮大社、熊野那智大社を合わせた熊野三山のひとつである。
 壬辰倭乱のさい、熊野水軍の総督として朝鮮海域に侵入した九鬼嘉隆は鳥羽城に本拠を置いていたが、九鬼の祖先は、9世紀から13世紀末にかけて熊野三山を統括する役職だった「熊野別当」をしていたという。
 また、新宮地域の支配者であった堀内氏善も熊野水軍に加わり、壬辰倭乱と丁酉倭乱(1597-1598年)のとき、朝鮮に侵入した。
 朝鮮侵略のさい、熊野地域沿岸の港では、船100隻あまりが造船されたという。

 こうして、慶尚北道議員団とわたしたちは、11月6日から7日にかけて、李基允氏と裵相度氏を追悼する集会がはじまる午後2時まで、16世紀末から20世紀中期の朝鮮人の強制連行にいたる時期の熊野地域を回った。
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