三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

10月31日 文昌市東郊鎮田頭老村、福羅村などで

2014年10月31日 | 海南島史研究
 きょう(10月31日)、朝8時半に文昌市文教鎮渓西村にある「宗儒戦役烈士紀念亭」に着きました。
 この紀念亭は、文昌县人民委员会が1958年7月に建てたもので、その前の石版に、
   “宗儒戦役は、1943年6月に、この亭から遠くない宗儒小学の公路で、琼崖抗日総隊第二支隊第三大隊の40人あまり
    の戦士が日本軍の車両を襲撃し、1台を破壊し日本兵数名を殺傷し、歩兵銃数丁を奪ったが、その後日本軍が兵
    され、局面が変わり、我軍が大くの犠牲者をだした戦戦闘である。このとき、大隊長鄭奇ら13人の同志が戦死し、
    副大隊長高仁新ら4人の同志が負傷した”
という意味の言葉が刻まれていました。
 「紀念亭」を離れ、宗儒学校に行きました。学校は廃校になっていました。
 そのあと、文教橋をわたり、文教鎮の市街地に行きました。3年前の2011年11月6日にわたしたちは、ここを訪ねたことがあります(このブログの2012年8月27日、28日の「海南島文昌市文教鎭と龍楼鎮で」1、2をみてください)。
 中心部の道路沿いに大きな枇杷樹が立っていました。日本軍がこの樹に、抗日戦士の首を切って吊るしたことがあったそうです。
 
 9時半ころ文教鎮から東郊鎮に向かいました。
 10時半過ぎから、東郊鎮の中心街に住む符和金さん(1935年生)に自宅で話を聞かせてもらうことができました。
 東郊鎮南宝村で生まれ育った符和金さんは、
   「南宝村で木の上で見張りをしていた符福蔭が、日本軍が近づいてくるのを見て、村に知らせた。村にいた遊撃
   隊は逃げたが、符福蔭は、木からおりるときに日本兵が来て捕まった。藍田坡で銃剣で刺し殺された。16~18歳
   だった。もう一人、見張りがいたが、逃げることができた。 
    わたしは当時5歳だったが、符福蔭が捕まるとき見た。自分も知らせを聞いて逃げたが、見える距離だった。南
   宝村のおとなはみんな逃げたので、日本軍はよその村に行った」
と話しました。
 符和金さんは、2014年7月10日に文昌市東郊鎮関工委五老編写小組が作成した「以血淋淋的事実 控訴日軍侵華的滔天罪行」をみせてくれました。文昌市東郊鎮関工委五老編写小組は、日本軍の東郊鎮地域侵略の歴史を伝えていくために2013年2月に符和金さん(老幹部)、符和培さん(老教師)、華開民さん(老戦士)、符史明さん(老教師)、符福通さん(老教師)、符瑜さん(老職工)。伍振卿(老幹部)さんの7人が結成した組織で、「五老」とは、戦士、幹部、専門家、模範労働者、教師だとのことでした。。
 「以血淋淋的事実 控訴日軍侵華的滔天罪行」は、小組の会員が地域の老人に聞いた話や自身の体験を記録したものを“資料”として符和培さんがまとめたものだ、“資料”集めはいまも続いている、紀念碑を建てるのが目的だとのことでした。
 符和金さんに話を聞かせてもらったあと、近くの田頭老村に行きました。 
 田頭老村で、1942年秋に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民を多数虐殺した祠堂をみたあと、符福通さん(1930年生)を訪ねました。
 符福通さんは、つぎのように話しました。 
   「この村で生まれ育った。家は改築したが、場所はそのままだ。
    祠堂で殺されたのはこの村の人ではない。海辺の邦塘村の人たちだった。
    邦塘村の近くで共産党が日本軍を襲撃して戦闘になったことがあった。それで邦塘村の人たちが日本軍に襲わ
   れると考えて、上坡村のほうに逃げた。上坡村は密林に囲まれていて、邦塘村の人たちは上坡村のまわりの密林
   に隠れていた。
    海辺から、邦塘村―田頭村―上坡村―東郊鎮の順。上坡村は東郊鎮にあった日本軍の基地に近いが、周りは密
   林なので、安全だと考えた。
    良民証を見ればどこの村の人かわかるので、村ではなく、村の外に広がる林に隠れていたが、日本軍が上坡村
   に入ってにわとりを捕まえようとして、逃げるにわとりを追いかけて、隠れ住んでいる邦塘村の人たちを見つけ
   た。このとき、邦塘村の人たちといっしょに、上坡村の77歳の女性とその3人の子どもも捕まった。あわせて21人
   がこの祠堂で殺された。男は、15、6歳の子、ひとり。あとはみんな女性と子ども。女性は若い人が多い。女性は
   強姦されて殺された。
    そのあと日本軍は祠堂に火をつけた。朝8時か9時ころ、祠堂から煙が出るのに気づいた。隣りの村(符姓が多い)
   の人たちにも声をかけあって消火作業をした。わたしもいっしょにした。
    消火活動のとき、殺されている人たちを祠堂の中や外でも見つけた。(殺された人たちの遺体は)祠堂の近く、遺
   体が見つかったすぐその近くに埋めた。
    日本兵は村の入り口を通って去っていったが、この村(田頭村)には入ってこなかった。通り過ぎて行ったあと、
   祠堂から煙が出てきた。
    祠堂に邦塘村の人たちが連れてこられたのは気がつかなかった。
    上坡村のまわりの密林で捕まえて、どうして祠堂に連れてきたのか、知らない。
    日本軍のなかに、朝鮮人、台湾人がいた。日本は朝鮮を攻めて、台湾を攻めた。それで、日本軍のなかに朝鮮人
   と台湾人がいたのだ。
    台湾人で日本軍の通訳をしていた鄭心軒が、日本の敗戦前に共産党に入り、解放後、県のしごとをしていたが、
   周りで、あいつは日本人だという人がいて、つかまった。そのあと、東郊の町で、群衆大会で銃殺された。1950年
   後のことだ。そのころはきちんと調べないで、訴えがあると捕まえて殺した。
    わたしは。21歳から東郊で教師をしたが、そのときのことだった。大会だから、学生、一般人、おおぜいがが見
   た。このときはひとりだけ銃殺された。
    群衆大会での銃殺は、はっきり覚えているのは、2回だけだ。もう1回は、宦官だった下東村の符和万と福城園村
   の潘儒保。銃殺するとき名前を示すので覚えている。こういう大会は1952年、53年ころに多かった。
    日本軍のしごとをしたことがある。母が行った。わたしも行った。このころ、父は、魚を取りに行って台風で死
   んでいなかった。
    調炳村の炮楼をつくるしごとをした。草や木を切ったり、レンガや土を運んだ。村人はみんな交代で行った。甲
   長が行けと言ったら、恐いから行かなくてはならない。1世帯にかならずひとりがいかなくてはならなかった。日
   本軍は金も食べるものをよこさないので昼食は自分の家からもっていった。
    日本軍は、近くの福羅村でもたくさん村人を殺した」。

 符福通さんに自宅前の大きな樹の下で長い間話を聞かせてもらったあと、福羅村を訪ねました。
 村の中心の広場にいた人たちに、昔のことを知っている高齢者はいないですかと聞くと、そこにいた符梢(1953年生)さんが母親の黄文香さん(1926年)さんをオートバイで迎えに行ってくれました。
 黄文香さんは、
   「わたしは林春園村で生まれた。16歳のとき結婚してこの村に来た。結婚してから、福羅村で日本軍がなにをし
   たのかを夫から話をいろいろ聞いた。
    夫の父の弟の符福興とその妻(名前はわからない)。夫の兄ふたり符和榜、符和益が日本軍に殺された。
    符福興夫婦はどこで殺されたのかわからない。夫の兄ふたりは清瀾の日本海軍の基地のところに連れていかれ
   て殺された。
    この広場にある木のそばに符福興の妻が埋められている。
    林春園村に2、3人の共産党員がいた。ひとりは、黄循仕。黄文香が共産党員に食事を運んでいた。姉も食事
   を運んでいた。代わりにわたしがはこんだこともある。13歳のころのことだ」。
と話しました。そばにいた符史森さん(1952年生)は、
   「父の符和桂から話を聞いた。父は2003年に85歳で亡くなった。
    日本軍がこの村を襲ったのは、父が8歳か10歳のころだった。父は逃げることができた。田んぼのそばに川があ
   って川に木の根がびっしり張っていた。そこにつかまって隠れていた。ひとりで。
    祖父(符福昇、父の父)、祖母(父の父の妻)、父の妹は祠堂で殺された。父の妹は4、5歳だった。父の父方のい
   とこの兄(符気壹)の妻が強姦されて乳房を切り取られて殺された。
    父は食事のたび、酒を飲んではこの話をしていた」
と話しました。午後5時40分過ぎに、村のみなさんに見送られて福羅村を離れました。
 その後、文昌市内の宿所にもどる途中、「符節烈士紀念園」を訪ねました。
 符節さん(1899-1928)は、文昌市东郊镇下田村で生まれ育った人で、1925年に黄埔軍官学校に入り、1927年に"八一"南昌起义と广州起义に参加し、1928年2月に海南島に戻り、琼崖工农红军政治部主任となり、同年5月10日に国民党第十一军第一师に逮捕され、同年7月4日に澄迈县金江镇で殺害された人です。「符節烈士紀念園」の建物の中に、1996年7月1日付の文昌市人民政府による「符節烈士簡介」、「東郊人民革命闘争簡史」、「革命烈士名単如列」がありました。「革命烈士名単如列」には、429人の名が記されていました。

                                    佐藤正人



 以下は、きょう(10月31日)の『海南日報』に掲載された記事です。

http://hnrb.hinews.cn/html/2014-10/31/content_14_1.htm
■日本学者再到海南搜集日军侵琼铁证
 佐藤正人愿助海南民间对日诉讼

  本报文城10月30日电 (记者刘笑非)
  昨天下午,冒着淅淅沥沥的小雨,日本学者佐藤正人再一次开始了他的海南寻证之旅。对于这片土地他已不再陌生,算上这次,佐藤正人已经是第26次到海南搜寻日军侵琼暴行的证据。而对于本报曾报道的文昌市东阁镇日军暴行幸存者准备发起对日诉讼,佐藤正人表示,他将尽自己的努力,在诉讼中予以协助。
  下午,佐藤正人和“海南岛近现代史研究会”同仁齐藤日出治、金静美一起,来到抱罗镇石马村,寻访“石马屠杀”幸存者谢春梅老人。他告诉记者,2003年,他曾到过石马村采访谢春梅,但由于老人的抵触情绪,最终未能获得完整的资料,而此行也算是对10年前采访的一次补充。谢春梅老人也终于放下成见,向佐藤正人完整还原了1942年正月初六发生在石马村的屠杀惨案。
  听完老人的讲述,佐藤正人和同仁们还走访了惨案的发生地,寻访两位当年惨案的亲历者:88岁的王录雾和84岁的潘正川,并详细记录下了两位老人的口述。佐藤正人表示,在整个海南岛,还有许多未被披露的日军暴行,随着幸存者越来越少,记录下这段历史显得尤为迫切。
  佐藤正人的日语翻译邢越告诉记者,佐藤一行此次将会在海南呆上10天,除抱罗镇外,还将前往东阁镇、东郊镇以及陵水、万宁等地,寻找遗落的铁证。对于东阁镇鳌头村准备对日诉讼一事,佐藤正人说,他曾协助过海南慰安妇的对日诉讼工作,若此次鳌头村幸存者们能够成行,他也会尽自己的努力,发动日本民间力量对他们进行协助。
  “毕竟,还原历史的路还很长,相互扶持,也会使这条路好走一点。”佐藤正人说,这一次来海南,还绝不是最后一次。
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10月30日 文昌市東閣鎮鳌頭村で

2014年10月30日 | 海南島史研究
 きょう(10月30日)、日本政府に謝罪させ賠償させる訴訟を準備している邢锋さんに案内されて、1943年4月10日(農歴3月6日)に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民43人を虐殺しその後一か月間にさらに30人を殺害した東閣镇新群村委会鳌头村を訪ねました。
 幸存者杨必森さん、楊昭栄さん、杨愛蘭さんに話を聞かせてもらうことができました。
 楊必森さん(1922年生)は、
   「3月6日の朝、日本軍が村の入り口を封鎖した。
    このころはサツマイモの収穫時期で、母はその日の朝、サツマイモを薄く切ったものを乾燥させるために村の外に行
   こうとしていた。日本軍と出会った。日本兵は母の腹を突き刺した。母は銃剣を両手でつかんで手も切られその場で死
   んだ。母は、邢氏。
    わたしは兄といっしょに、穴に隠れた。日本軍は家に誰もいないのを見て火をつけた。わたしと兄は、煙がひどくて
   隠れていられず穴を出てつかまった。えりくびをつかまれ、火のなかに放り込まれた。兄は足をやけどし、わたしは火
   の中で手をついたので、両手を火傷した。兄はやけどがひどくて、1948年に死んだ。兄の名は、楊必雄、4歳年上だ
   った」
と話しました。楊必森さんの両手の指は、ねじまがっていました。
 わたしたちが楊必森さんに自宅で話を聞かせてもらっているときに訪ねてきた隣家の楊昭栄さん(1929年生)さんは、
   「家族4人が殺された。あのとき、家族は父と母、姉、わたし、妹、弟3人の8人だった。
    母は午前中、楊応庄の家で閉じ込められてほかの人たちといっしょに焼き殺された。一番下の弟は、外にいて、銃剣
   で刺されたが、気が付いてのどが渇いて家に戻ってきたところをまたつかまって蹴られて死んだ。当時、4歳か5歳。名
   は楊昭瑞。
    父は、翁田村のほうに、鉄のしごとのことで出かけていて助かった。
    母の父母が、同じ日、隣村で殺された。母の父は、教師をしていて、名は範会瓊。母の母は、符氏。
    姉はもう一人の弟を負ぶって逃げ、洞くつに隠れていた。じぶんと妹、もう一人の弟は文教のほうに牛追いに行って
   いて助かった」
と話しました。楊愛蘭さん(1929年生)は、
   「南文村に嫁いだが夫は、東南アジアに行ったので、実家に戻った。ここは生まれた村。
    13歳のとき、父が殺された。楊必育。36歳だった。14歳のとき、家が焼かれた。
    楊応庄の家に21人か22人が集められた。年寄りと子どもだけ。出口はひもでしばって閉じ込められた。日本軍がやし
   の枝を運んで入り口に積んでいたので危ないと思って、家の中にあった刀で、内側からひもを切って逃げた。
    逃げることができたのはふたりだけだった。あとの人たちは逃げる間がなく全部殺された」
と話しました。
                                     佐藤正人
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10月29日 文昌市抱羅鎮石馬村で

2014年10月29日 | 海南島史研究
 きょう(10月29日)、朝8時半から海口の南海出版公司で霍宝珍薫事長、张愛国副総経理、呉雪さん、魏霊玲さん、黄志勇さん(「日寇在琼屠戮史证坛」のデザイン方案の責任者)と今後の共同作業について話し合い、午後 1942年3月2日(農歴1月16日)に日本海軍第15警備隊部隊が襲撃し住民172人を虐殺した文昌市抱罗镇の幸存者谢春梅さんに抱罗華僑医院の裏の自宅でに話を聞かせてもらいました。刘笑非海南日报记者が同行しました。
 海南島近現代史研究会創立前、2003年3月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は谢春梅さんを訪ねたことがあります(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、24~25頁をみてください)。
 谢春梅さんに話を聞かせてもらったあと孫の潘浩さんの案内で石马村に向かいました。
 石马村では、潘孝勇さんとその弟の潘孝赴さんに迎えられました。
 祠堂の近くの墓地に、「公元一九四二年農歴元日十六日被日本無辜殉逝」と刻まれた石碑が建てられていました。1984年春に建てられたものでした。
 幸存者の潘正川さんの息子さんの家に案内してもらいました。
 午後4時過ぎから潘正川さん(1931年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 潘正川さんは、
   「この村は共産党の根拠地だった。共産党の組織が村で活動していた。
    日本軍の兵隊は、抗日組織の遊撃隊に撃たれてけがをした。それでこの村を襲って焼いた。
    1月17日の朝、172人が殺され、22日に22人が殺された。
    自分の家は、大きな部屋2つ、小さな部屋3つ焼かれた。
    当時、家は大小合わせて300軒くらい。人口はわからない」
と話しました。その場に来てくれた石馬村の初代共産党書記長の王録雰さん(1927年生)は、
   「殺された人が多くて、すぐにみんなを埋葬できなかったので、犬やブタなどに食べられないように、遺体を木の上
   にあげた」
と話しました。
 潘家泰さん(77歳)は、
    「母が台所にかくまって助かった。祖父が殺された。祖父は目が見えなかった。それまで日本軍は何回も来たが
    家の中で座っている祖父には何もしなかったので、1月16日にも座っていたが、殺された。祖父の名前は、潘先桂。
    台所に9人が隠れていたがみんな助かった。小さいとき母は亡くなったので、このことは母かにら聞いたのではな
    い。同じところに隠れて助かった人から聞いた」
と話しました。
 午後6時過ぎに暗くなりかけた石馬村を離れ、文昌市内に向かいました。
 別れ際に、潘孝勇さんは、殺された人たちのなまえは全力を尽くして探す、と言いました。潘孝勇さんによれば、石馬村は、トウガラシ、カボチャ、イネ、ラッカセイの産地だが、交通が不便で道路が悪く、経済は遅れているとのことでした。

                                       佐藤正人
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21回目と7回目の追悼集会に参加してください

2014年10月28日 | 集会
 1994年11月20日に李基允さんと相度さんを追悼する碑が除幕されてから20年になります。
 李基允さんと相度さんを追悼する21回目の追悼集会と紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する7回目の追悼集会を開きます。 

        三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
        紀州鉱山の真実を明らかにする会


■李基允さんと相度さんを追悼するつどい
 とき 2014年11月22日(土) 午後2時 開会
 ところ 李基允氏と相度氏の追悼碑前(木本トンネル熊野市側入り口) 
         JR熊野市駅から左に尾鷲方面に向かって徒歩8分ほどです。
 
 追悼のつどいの後、「木本事件」の跡をたどって極楽寺に行きます。
 追悼集会と合わせて、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行などに関する写真パネル展を開きます。
 展示時間 11月22日:13時~17時
      11月23日:9時~16時
 ところ 熊野市文化交流センター多目的広場
        熊野市井戸町643 電話 0597-89-3686 JR熊野市駅をでてすぐ右です。    
 追悼集会・写真パネル展の参加費は無料です。
                                    
<宿泊のご案内>
 11月22日夜、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑に近い朝鮮人の飯場があった湯の口に宿泊し、懇親会をひらきます。
 宿所は、「湯元山荘 湯ノ口温泉」です。
 宿泊を希望する方は連絡してください。
 宿泊費は、夕朝食費をふくめ5,000円ほどです(懇親会費は別です)。
                         問い合わせ及び宿泊申し込み先:pada@syd.odn.ne.jp


■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会
 とき 2014年11月23日(日) 午後1時開会
 ところ 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑前
         熊野市紀和町板屋(熊野市紀和鉱山資料館のななめ前)

 午前10時から12時まで、旧紀州鉱山地域の「現地調査」をおこないます。
 
 追悼集会と合わせて、11月22日と23日に「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行などに関する写真パネル展を開きます。
 場所は、熊野市文化交流センター多目的広場です(JR熊野市駅に向かってすぐ右です)。         
 展示時間は、22日は13時~17時、23日は9時~4時です。         
 入場は無料です。 
 
 前夜(11月22日夜)、追悼碑の近くの「湯元山荘 湯ノ口温泉」に宿泊し懇親会をひらきます。
                         問い合わせ及び宿泊申し込み先:pada@syd.odn.ne.jp.
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『慶北新聞』の記事にたいするあらたな公開質問

2014年10月28日 | 木本事件
 9月1日の韓国の『경북신문』(『慶北新聞』)に、「木本事件」に関する事実と大きく異なることがいくつも書かれている「91년 전 관동 조선인 대학살, 그 참혹한 역사와 마주하다(91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き合う)」と題する김희동記者の記事が掲載されました(その原文全文は、9月2日にこのブログに掲載してあります)。
 この記事は、『경북신문』(『慶北新聞』)のウェブサイトに、9月1日17時21分にアップされ、それを三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会が発見したのは、9月2日朝でした
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会は、直ちに9月3日に、この『慶北新聞』の誤った記事にたいし、公開質問するとともに記事訂正を求めました(このブログの9月3日の「『慶北新聞』にたいする記事訂正要求」、および9月4日の「『慶北新聞』にたいする記事訂正要求(日本語訳文)」をみてください)。
 『경북신문』(『慶北新聞』)からは、いつまでたっても応答がないので、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会は。9月21日に、「訂正要求に直ちに応じてもらいたい」と、再度応答を求めました。

 「91년 전 관동 조선인 대학살, 그 참혹한 역사와 마주하다(91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き合う)」と題する記事の他に、『慶北新聞』には、9月14日までの間に、「木本事件」にかんする虚偽に満ちた記事が4個掲載されました(そのうちの2個については、このブログの9月5日の「『慶北新聞』のあらたな偽りの記事」と9月6日の「『慶北新聞』のあらたな偽りの記事 続」をみてください)。

 『慶北新聞』に、「木本事件」に関する偽りの記事が何度も掲載され、そのままになっている事態を放置しておくことはできません。
 なぜ、どのような経緯で日本と韓国の民衆運動にかかわる重大な虚偽にみちた記事が掲載されたのかを明らかにしたいと思います。
 そのため、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会は、今朝(9月28日未明)、慶北新聞社に、公開質問書を送りました、
 以下は、その全文と日本語訳文全文です。

       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会  佐藤正人
  



 경북신문사 귀중

 공개로 질문하겠습니다

        미에현 기노모또에서 학살된 조선인 노동자(이기윤씨・배상도씨)의 추도비 건립회
                           http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
 2014年10月28日

■(一)■
 미에현 기노모또에서 학살된 조선인 노동자(이기윤씨・배상도씨)의 추도비 건립회에서는 경북신문의 잘 못 된 기사에 대해 9월3일에 질문과 정정요구를 했습니다만 회답이 없어 다시 9월 21일에 회답을 독촉하는 메일을 보냈습니다.
“경북신문”의 이러한 틀린 기사는 역사적 사실을 밝히고 일본의 침략책임을 따지려는 일본과 한국의 민중운동을 방해하는 것입니다.
속히 정정해 주시기 바랍니다.

 9월 3일의 질문 및 정정요구는 2014년 9월 1일 “경북신문”에 게재된 「91년 전 관동 조선인 대학살, 그 참혹한 역사와 마주하다」라는 제목을 붙인 기사(입력: 2014年9月1日17:21)에 대해서였습니다.
이 기사 이외에도 9월 14일 까지 “경북신문”에는 '기노모토사건'에 관한 허위 기사가 게재되었습니다.
그것은 다음과 같은 4개 기사입니다.

■(B)『경북신문』(掲載:2014년 09월 01일。입력 : 09월 01일 17:22)
   "일본내 독립운동 뿌리 뽑기 위해 유언비어 퍼트려 조선인 학살"
  김문길 한일문화연구소 소장 인터뷰
■(C)『경북신문』(입력 : 2014년 09월 01일 21:06)
  "경주군 내동면이 고향인 이기윤씨 유족을 찾습니다"
  김문길 한일문화연구소장
  1923년 관동 대지진 이후 '기모도쵸 조선인 학살 사건'
  '배상도•이기윤'비문•무덤
  日 기모도쵸 현지에서 발견
  일제만행 규탄위해 유족 찾아
■(D)『경북신문』(입력 : 2014년 09월 02일 20:05)
  정부, 일본 관동대학살 책임 강력히 대응할 때
■(E)『경북신문』(입력 : 2014년 09월 14일 17:12)
  일제감정기 억울하게 죽은 이기윤씨, 경주서 유족 찾는데 희망적
  김문길 한일문제연구소장
  당시 주소 배반동 위치 확인

       ※註 2014년 9월1일에 “경북신문”에 게재된 「91년 전 관동 조선인 대학살, 그 참혹한 역사와
          마주하다」라는 제목을 붙인 기사를(A)로 합니다.

■(二)■
 “경북신문”에 왜 어떤 경위로 허위 기사가 게재되게 됐는지를 알고 싶습니다.
다음 질문에 대답해 주시기 바랍니다.

 (1)9월1일의 “경북신문”기사(「91년 전 관동 조선인 대학살, 그 참혹한 역사와 마주하다 」)에서 '기사는 김문길 한일문화연구소 소장의 증언을 바탕으로 정리했음을 밝힙니다'라고 주기가 붙여져 있는데 김희동기자는 김문길씨에게 직접적으로 취재하고 기사를 썼습니까?

 (2)9월1일의 “경북신문”기사(부제:「김문길한일문화연구소소장인터뷰」.김문길씨의 사진도 게재되어 있다)는 기자가 실제로 김문길씨에게 인터뷰를 해서 쓴 기사입니까?

 기사(A)에는 '기사는 김문길 한일문화연구소 소장의 증언을 바탕으로 정리했음을 밝힙니다' 라고 주기가 붙여져 있고 인터뷰기사(B)에는 김문길씨의 약력과 사진이 첨부되어 있습니다.

 이 기사에 대해 김문길씨는 일본에 있는 지인에게
    '직접적인 인터뷰는 없었고 건네 준 작년의 활동보고를 참고로 기자가 정리한 기사이다'
    '9월1일까지 김희동기자에게서 취재를 받은 적이 없고 자료를 몇장 건네 주었을 뿐이다'
라는 이야기를 했습니다.

 만일 기자가 김문길씨에게 실제로 증언을 듣지 않는데 '기사는 김문길 한일문화연구소 소장의 증언을 바탕으로 정리했음을 밝힙니다'라고 주기한 기사, 및 인터뷰를 하지않는데 '김문길한일문화연구소소장인터뷰' 라는 부제를 붙인 기사를 “경북신문”이 게재했다면 앞으로 “경북신문”이 사회적으로 사죄하고 기사를 철회하지 않는 한 사실을 전한다는 언론기관으로서 그 책임을 포기하는 것이 되지 않겠습니까.

 회신을 주시기 바랍니다.




 慶北新聞社 貴中
 
 公開で質問します

       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会
                          http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
 2014年10月28日

■(一)■
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会では、『慶北新聞』の誤った記事にたいし、9月3日に質問および訂正要求をしましたが、回答がなく、再度9月21日に回答を催促するメールを送りました。しかし、それにも回答がありません。
『慶北新聞』の誤った記事は、歴史事実を明らかにし、日本の侵略責任を問う日本と韓国の民衆運動の深まりを妨げる記事です。
速やかに、訂正してください。

 9月3日の質問および訂正要求は、2014年9月1日の『慶北新聞』に掲載された「91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き合う」と題する記事(入力: 2014年9月1日17:21)にたいしてでした。
 この記事の他に『慶北新聞』には、9月14日までの間に、「木本事件」にかんする虚偽に満ちた記事が掲載されました。
 それは、つぎの4個の記事です。

■(B)『慶北新聞』(掲載:2014年9月1日。入力 : 9月 1日 17:22)
  "日本の朝鮮独立運動の根を断つため 流言飛語をひろめ朝鮮人虐殺"
  金文吉韓日文化研究所所長インタビュー
■(C)『慶北新聞』(入力:2014年9月1日21:06)
   "慶州郡内東面が故郷である李基允さんの遺族を探します"
  金文吉韓日本文化研究所長
  1923年関東大震災以後 ‘木本町朝鮮人虐殺事件'
  ‘相度・李基允'碑文・墓
  日本 木本町現地で発見
  日帝蛮行糾弾のために遺族を探して
■(D)『慶北新聞』(入力: 2014年9月2日 20:05)
  政府、日本の関東大虐殺の責任に強く対応すべき
■(E)『慶北新聞』(入力 : 2014年9月14日 17:12)
  日帝強占期、無念に死んだ李基允氏、慶州で遺族探しに希望
  金文吉韓日問題研究所長
  当時の住所、排盤洞の位置を確認

     ※註 2014年9月1日の『慶北新聞』に掲載された「91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き
       合う」と題する記事を(A)とします。

■(二)■
 『慶北新聞』になぜ、どのような経緯で、虚偽にみちた記事が掲載されたかを明らかにしたいと思います。
 次の質問に答えてください。
 
 (1)9月1日の『慶北新聞』の記事(「91年前 関東朝鮮人大虐殺、その残酷な歴史と向き合う」)に、「記事は金文吉日本文化研究所所長の証言を基に整理した」という注記がつけられていますが、記者は、金文吉씨に直接取材して記事を書きましたか。
 (2)9月1日の『慶北新聞』の記事(副題:「金文吉韓日文化研究所所長インタビュー」。金文吉氏の写真も掲載されている)は、記者が実際に金文吉氏にインタビューして書いた記事なのですか。
 記事(A)には、「記事は金文吉日本文化研究所所長の証言を基に整理した」という注記がつけられており、インタビュー記事(B)には、金文吉氏の略歴と写真が添付されています。

 この記事について、金文吉氏は、日本の知人に、
   「直接インタビューはなく、手渡した昨年の活動報告を参考にして記者がまとめた記事である」、
   「9月1日までにキムヒドン記者に取材を受けたことはなく、何枚かの資料を渡しただけだ」
という意味のことを述べています。

 万一、記者が、金文吉氏から実際に証言を聞くことなく「記事は金文吉日本文化研究所所長の証言を基に整理した」と注記した記事、および、インタビューすることなしに「金文吉韓日文化研究所所長インタビュー」という副題をつけた記事を『慶北新聞』が掲載したのなら、『慶北新聞』が社会的に謝罪し記事を撤回しないかぎり、事実を伝えるという言論機関としての責任を放棄することになりませんか。

 返信を待っています。
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会結成から25年、追悼碑建立から20年

2014年10月27日 | 木本事件
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日から設立準備会議をかさね、この年11月30日に、会への参加を呼びかける文書をだしました。
 そこには、
    「木本事件はけっして過去の事件ではありません」、
    「わたしたちは、李基允、相度の無念の声を聞き取り、さらに名を知られることさえなく暗闇の中で殺されていった
   朝鮮人やその他のアジア人の遺志をたずね、ふたたび同じ悲劇が起こらぬように努力していかねばなりません」、
と書かれています。
 1989年4月23日に津で、6月4日に大阪で、会の結成集会をもちました。
 その前に、相度さんの本籍地である韓国慶尚南道東來郡沙下面の面事務所に問い合わせの手紙を送り、相度さんの二男の敬洪さんと1988年10月末に連絡がとれていました。
 「事件」当時、両親や姉妹と木本に住んでいた敬洪さんは相度さんの孫である哲庸といっしょに、津での集会にも、大阪での集会にも来てくれました。
 津での集会の翌日、敬洪さんは、アボヂが虐殺され家族で木本を離れてから63年ぶりに熊野に行きました。極楽寺の階段状の無縁墓地に離ればなれに置かれていた李基允さんと相度さんの「墓石」を、哲庸さんと会の嶋田実さんなどが下におろして並べたとき、敬洪さんは、「アボヂはともだちといっしょにおられるのだな」とつぶやくように言いました。
 大阪での結成集会の翌日、わたしたちは、熊野に行き、哲庸さんとともに熊野市長と教育長に会い、①「事件」の再検証と、『熊野市史』の書き換え、②熊野市民に「事件」の真相を伝えること、③遺族、熊野市、建立する会の3者で追悼碑を建立する、④1990年1月3日あるいはその近い日に、三者で追悼行事を行うことなどを求めました。

 それから、5年半後に、会は独自で、異郷で殺されたお二人の無念のこころを思いつつ、追悼碑を建て、1994年11月20日に除幕集会をもちました。

 会結成から25年、追悼碑建立から20年たったいまなお、熊野市は、「事件」を再検証しようとしておらず、「事件」の真相を伝えようとしておらず、『熊野市史』を書き換えていません。熊野市は、お二人を追悼する「行事」をおこなったことはなく、会がこれまで開催した追悼集会にいちども参加していません。
 熊野市は、「木本事件」をなかったことにしようとしているようです。

 追悼碑のある木本トンネル入り口まえの高台の小さな広場は、お二人を追悼する場であるとともに、お二人が虐殺された社会的原因を明らかにし、その歴史的責任を追及する民衆運動の根拠地となっています。

                                        キム チョンミ
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この四半世紀で「変わったこと」と「変わらないこと」

2014年10月26日 | 木本事件
 1988年に「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(イギユン、ペサンド)の追悼碑を建立する会」の準備会ができ、翌年、この会が結成されました。1994年には三重県熊野市にお二人の追悼碑を建立しました。また、朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会が名古屋ではじめて開催されたのは1990年でした。この会の活動がはじまってから、四半世紀以上の26年が経過したことになります。
 この26年の間で「変わったこと」、「変わっていないこと」があると思います。「木本事件」を直接知る人たちはもうご存命ではないかもわかりません。過去に熊野で「木本事件」があったことを知った人は、会の活動、木本トンネルの前に追悼碑を建立したこと、会報発行、『63年後からの出発』の出版、数々の集会開催、写真パネル展の開催、新聞へのビラ入れ、Webサイト、ブログなどでの情報発信などで増えたと思います。
 極楽寺の無縁墓地に置かれていた李基允氏と相度氏の「墓石」に刻まれている差別戒名などの文字はかなり風化しています。極楽寺には新たに足立住職が建立したお二人の墓石があります。1992年に出版された『三重県史資料編』には「木本事件」について事実に基づき記載されています。『熊野市史』には「木本事件」で朝鮮人を虐殺したことを「素朴な愛町心の発露」としたまにしており、熊野市にはこの『熊野市史』を書き換える予定はいまだありません。
 最近、日本では近現代の歴史の中で、朝鮮人や中国人の強制連行はなかったことに変わりつつあるように思えます。「慰安婦」の問題では、加害者である日本がいつのまにか「被害者」であるような風潮になってきています。
 こうした時代の中で、事実と真実を突き詰め、積み重ねてきたこの追悼碑を建立する会の活動は意義深いものだと思います。
                                           嶋田実
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『会報』60号・15号合併号

2014年10月25日 | 『会報』
 きょう(10月25日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会『会報』60号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』15号の合併号を発行しました。        
 内容は、つぎのとおりです。

佐藤正人「追悼碑建立20年 「木本事件」の歴史的意味」
キム チョンミ「会結成から25年、追悼碑建立から20年」
嶋田実「この四半世紀で「変わったこと」と「変わらないこと」」
日置真理子「『木本事件』から88年後、2014年の千葉に生きるわたしが思うこと」
宇恵悟「熊野にいて考える熊野」
『朝鮮日報』1926年1月7日記事
     「隧道中に逃れた朝鮮人を包囲攻撃! 凶暴に飛びかかる自警団と警官隊の残酷な行動に、
    同胞は爆弾で応戦。三重県下乱闘惨劇の真相」(見出し日本語訳)
『東亜日報』1926年1月10日記事
     「妊娠したからだで幼子をおぶい、異郷で泣く女性。無残に死んだ夫を想い、食べるものもなく
    放浪する身の上。三重県惨死者遺族」(見出し日本語訳)
嶋田実「2013年の追悼集会報告(李基允氏と相度氏、紀州鉱山の「追悼の場」)」
佐藤正人「日本の国家犯罪の隠蔽を許さない民衆運動を!」
竹本昇「熊野市を被告とする訴訟の経過」
キム チョンミ「李白洛さんと千炳台さんのこと」
李白洛さんと千炳台さんの遺児の立証と証言
『慶北新聞』にたいする記事訂正要求(日本語訳文)
山邉悠喜子「父は? 祖父は? (忘れない、忘れてはならない記憶)」
斉藤日出治「海南島近現代史研究会 第8回総会・第14回定例研究会総会報告」

 B5版 20頁。 定価 200円(送料80円)
 連絡先 和歌山県海南市日方1168 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を
     建立する会
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追悼碑建立20年 「木本事件」の歴史的意味

2014年10月24日 | 木本事件
 20世紀末(1994年11月)の追悼碑建立からまもなく20年になる。この20年間に、この碑の前に立った人は何人になるだろう。
 まもなく89年が過ぎようとしている1926年1月の「木本事件」の歴史的・現在的意味を、あらためて考えてみたい。

■地域住民による集団的朝鮮人虐殺
 「木本事件」は、木本虐殺(熊野虐殺)であった。
 地域住民の生活を便利にするための木本トンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民(在郷軍人、消防組員など)が集団で襲撃し、ふたりを虐殺した。木本警察は、虐殺者を逮捕しようとしないで、逆に、虐殺者をふくむ木本町民とともに、近くの山中に逃げた朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りをした。

■朝鮮人労働者と日本人労働者の共闘
 襲撃してくる地域住民集団にたいして、共にトンネル工事をしていた朝鮮人と日本人は、ダイナマイトなどを武器として反撃した。
 「木本事件」の1年前、1925年2月22日に創立された在日本朝鮮労働総同盟は、1925年10月に開始された「軍事教練反対運動」において重要な役割を果たし、「木本事件」の時には、在東京朝鮮無産青年同盟会,三月会とともに檄文「三重県撲殺事件に際し全日本無産階級に訴ふ」を出した。
 そこには、「我々朝鮮人労働者が今に生命を失はんとする刹那林林一、高橋萬次郎等日本労働者は勇敢にも我々に味方してタイナマイトを取った……」と書かれていた。
 「木本事件」のとき、朝鮮人民衆と日本人民衆の共同のたたかいが実践されていた。

■「木本事件裁判」
 「事件」の半月後、1月中旬から2月下旬までの間に、50人の木本消防組員のうち14人が津刑務所未決監に収監された。在郷軍人は一人も逮捕されなかった。
 5月に、襲撃した日本人17人が起訴され、襲撃された朝鮮人側の人が15人起訴された。その中には、朝鮮人と共に反撃した日本人3人(林林一、高橋萬次郎、杉浦新吉)が含まれていた(杉浦新吉氏については、このブログの2007年12月14日の「紀州・熊野地域における「素朴な愛町心」とのたたかい 3」、2013年10月3日の「杉浦新吉氏のこと」、2013年10月4日の「杉浦哲栄さんとの出会い」を見てください)。
 10月30日に、裁判官は、李基允氏を殺害したとして起訴された桃原増市、大川實一、三宅国一に懲役2年の実刑判決、相度氏を殺害したとして起訴された大平忠一に懲役6月(執行猶予3年)の判決をだし、騒擾罪・爆発物取締罰則違反などで起訴された朝鮮人金明九に懲役3年の実刑判決、尹貞鎮に懲役2年の実刑判決、李道述と兪相範に懲役1年半の実刑判決をだした。

■現在の問題:「素朴な愛町心の発露」
 「木本虐殺(熊野虐殺)」を、熊野市は、1983年に発行した『熊野市史』中巻で、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」としている。熊野市は、この記述の書き換えに、いまも応じていない。
 朝鮮人を虐殺したことを「愛町心の発露」として肯定することは、「国のために」として他地域他国を侵略し、略奪、破壊、異民族を殺したことを「愛国心の発露」として肯定することと同じである。

 20世紀末から、日本の国家主義、排外主義は一段と強化されてきた。
19世紀後半からの国民国家日本の他地域他国侵略の歴史を克服しない日本人の愛町心・愛国心の発露(独島再占領策動、「集団的自衛権」の行使など)とのたたかいにおいて、李基允氏と相度氏を追悼する碑は、ひとつの拠点としてあり続けるだろう。
                                            2014年10月15日 佐藤正人記
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木本虐殺(熊野虐殺)80年後

2014年10月23日 | 木本事件
 関東大虐殺の2年4か月後、1926年1月3日に、熊野地域に住む日本人が、集団で朝鮮人労働者を襲撃し、李基允さんと相度さんを、銃剣や鳶口[トビクチ]などを使って惨殺した。
 それから80年。いまなお、熊野市(当時、木本町とその周辺の村落)と熊野市教育委員会は、この虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」としている。それが、いまの日本。
 木本トンネルの道をたどって、日本の他国他地域侵略の歴史を、さらに追及していきたい。

■“大逆事件”の時代
 追悼碑を建立する会(準備会)が発足したのは、1988年9月11日だった。そして、1994年11月20日に、追悼碑除幕。
 1997年9月25日に、李基允さんと相度さんを追悼する碑から20キロほど南にある新宮市南谷墓地に「高木顕明師顕彰碑」が建てられた。
 2003年7月20日、新宮市内に、紀州・熊野地域に関係が深い“大逆事件”犠牲者6人、大石誠之助さん、成石平四郎さん、成石勘三郎さん、高木顕明さん、峯尾節堂さん、久保誓一さんの「顕彰碑」が建てられた。
 大石誠之助さんと成石平四郎さんは1911年1月24日に絞首され、高木顕明さんは1914年6月24日に秋田監獄で自殺し、峯尾節堂さんは1919年3月6日に千葉監獄で獄死し、成石勘三郎さんは1929年5月に長崎刑務所から仮出獄し1931年1月に病死し、久保誓一さんは1929年4月に秋田刑務所から仮出獄し1955年10月に病死した。

 60年前、1946年11月3日、「明治天皇」の誕生日に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布され、その半年後に施行された。その時から、戦犯ヒロヒトが、「日本国」と「日本国民統合」の象徴となった。
 「大逆罪」は、1947年になくなったが、天皇制は廃絶されていない。
 「大逆罪」は日本刑法から削除されたが、“大逆事件”の時代は終わっていない。
 “大逆事件”の再審請求を最高裁は、1967年に最終的棄却し、いまも、国民国家日本は、26人を「有罪」としたままである。

■「素朴な愛町心の発露」
 1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻には、住民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれている。
 追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立集会の翌日、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで17年間、求めつづけてきた。
 だが、熊野市も熊野市教育委員会も、拒否しつづけている。

 木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものであった。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民が集団で襲撃し、ふたりを虐殺した。在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りした。
 その事実を、「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の書きかえを求めようとする熊野市民は、少ない。
 『熊野市史』中巻には、
    「南京占領の報道が伝わると、国民は一入〔ひとしお〕感激し、町や村で祝賀会が続いた」
と書かれているが、南京大虐殺については、なにも書かれていない。『熊野市史』上巻には、
    「熊野の古代史を見るとき、神武天皇を除いて考えることはできない」
と書かれている。『熊野市史』は、天皇制を肯定し、他国他地域侵略を肯定する立場で書かれている。
 これは、『熊野市史』だけの問題ではない。

■追悼碑は一つの根拠地
 12年まえ、碑文のおわりに、わたしたちは、こう書いた。
    「わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、
   二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました」。

 紀州・熊野地域の人たち、おおくの人たちとともに、つぎの一歩を!

                                           佐藤正人記


※以上は、2006年11月10日に発行された三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』第44号に掲載された文章です。
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