4月4日朝9時、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」の前に着いた。
碑の裏面には、
這是鮮血和生命凝鋳的歴史。随着“九・一八”的硝烟、我祖国大好河山被日寇鉄蹄蹂躪。数千万同胞被殺戮。一九三九年二月、日軍侵占海南后、我旦場村民為捍衛民族尊厳、不甘当亡国奴、拒領“順民証”、憤怒的撕破焼毀日本国旗。
由此、日軍対我村進行滅絶人性的野蛮報復、当年十一月四日深夜(農暦九月二十三日)、全副武装的日軍従水路上岸包囲我村庄、殺害九十三同胞、其中孕婦五人、強奸村姑四人、焼毀民房三十多間、槍劫財物無数……制造旦場九・廿三大惨案。
歴史決不能忘却、惨劇更不容重演! 為報国難、家仇和民族恨、旦場先烈們在抗日戦争中可歌可泣的事跡永載史冊、他們寧死不屈的革命精神永遠激励着后人、奮発図強、振興中華、反対侵略戦争、維擁世界和平。
為永恒的紀念、旦場村民立碑銘記。
公元二〇一三年三月
と刻まれており、そのそばに犠牲者の名、性别、殉难时年龄、亲缘关系がつぎのように刻まれていた。
1 张生珠 男 81 张恩福曾祖父
2 谢连瑞 男 50 良昌祖父
3 许江匙 女 52 文丕富伯母
4 谢宏茅 女 68 张永值祖母
5 符凤岑 女 49 张天太祖母
6 文建熙 男 3 文益忠叔父
7 李则佑 男 28 李开现堂伯父
8 符兰荣 女 46 文名发祖母
9 文仍面 女 68 符克勤祖母
10 文绍谦 女 54 张天助祖母
11 文士钦 男 70 文国瑶祖父
12 谢先炳 男 67 谢克精祖父
13 谢连兆 男 65 则富伯父
14 林 女拜 角 女 63 则富伯母
15 谢泽兰 女 13 则富堂姐
16 谢泽坤 女 8 则富堂姐
17 谢泽路 女 一个月 则富堂妹
18 文贵女 女 46 王永双母亲
19 王永成 男 14 王永双胞兄
20 文昌才 男 25 文益丰父亲
21 文丕毓 男 35 文坤卜父亲
22 文成美 男 26 许承仕小舅公
23 文其英 男 37 昌显父亲
24 符玉佳 女 26 文国富前妻
25 黄永银 女 38 张坡弟前妻
26 文 女拜 窝 女 65 张天兴祖母
27 张天梅 女 30 张天兴胞姐
28 文其生 男 29 文昌民叔父
29 文兆和 男 42 文世连父亲
30 文国秀 男 37 文任元父亲
31 王之仁 男 40 永乐父亲
32 张石纯 男 46 张天玉祖父
33 赵永姨 女 40 文益留祖母
34 文瑞赫 男 36 文宗文伯父
35 文亚妹 女 36 文宗文伯母
36 文宗世 男 3个月 文宗文堂弟
37 谢则鸟 女 21 文宗文前母
38 谢祥符 男 32 谢泽长父亲
39 文琼銮 女 32 谢泽长母亲
40 谢泽玉 男 18 谢泽长胞弟
41 谢坡小 男 7天 谢泽长胞弟
42 陶安三 女 62 文秉山祖母
43 王永善 男 21 永乐胞兄
44 文 经 男 35 文德远父亲
45 文庆补 男 36 文高岗祖父
46 李则兴 男 13 李则贵胞弟
47 文亚小 女 王永善的前妻
48 文现熙 男 32 文益成父亲
49 文令护 男 38 文成群父亲
50 文拜堪 女 35 许瑞梅母亲
51 文仁堪 男 文义五父亲 文昌盛继承
52 王绍堪 女 文义五母亲 文昌盛继承
53 陶仍姐 女 60 文高荣祖母
54 文其川 男 40 文丕训父亲
55 文仁均 男 48 亚条父亲开琼继承
56 谢三拥 男 谢良高叔父
57 文妹琴 女 文妹真胞姐
58 张成汤 男 张天才堂伯父
59 谢金亻于 男 谢宝智父亲
60 谢祖兴 男 谢良才父亲
61 谢则性 男 谢良月父亲
62 文妹笑 女 文宗娥继承
63 文其兴 男 文丕福叔父
64 文瑞路 男 文相机兄
65 文龙排 男 文其雄兄
66 张玉全 男 张永奎叔父
67 文昌南 男 文丕高兄
68 许明芬 男 75 许瑞俊继承
69 文绍番 男 文永职父亲
70 文性龙 男 文昌东叔父
71 黄金才 男 黄永照父亲
72 文康复 男 文永真父亲
73 文兆熙 男 文 女拜 珍父亲 註:「女拜」は、「拜」に「女」偏がついた漢字。
74 许代奇 男 51 许瑞底父亲
75 文 女拜 耐 女 60 许瑞俊继承
76 文瑞雄 男 文秉位叔父
77 文世帖 男 昌功叔父
78 谢先堪 女 文相器母亲
79 文先喜 男 文天亮父亲
80 赵拜移 女 32 文庆勇叔母
81 文拜小 女 几天 赵拜移女儿
82 文天明 男 文性方叔父
83 张 骞 女 成福祖母
84 谢家宝 男 谢昌姨父亲
85 符登雄 男 38 文永祥小舅
86 文其福 男 克耿父亲
87 符开尧 男 符振养叔父
88 符仕高 男 符美柳父亲
胎儿五名
海南島近現代史研究会がはじめて東方市北方の四更鎮旦場村を訪ねたのは、2012年11月2日(農暦9月19日)の午後3時ころだった。
このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人の名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知った。
この日の午後8時過ぎに、旦場村から東方市内に着いたわたしたちは、旦場村の追悼碑建立の準備を中心になって進めている謝良昌さんと李永賢さんからくわしく話を聞かせてもらうことができた。
それから5か月後の海南島「現地調査」の最初の日、2013年3月25日にわたしたちは再び旦場村を訪問しようと考えていたが、出発10日前に、謝良昌さんから、“旦場村の人たちが多く東方市にいるので、旦場村にではなく、東方市にこないか”という連絡があったので、東方市を訪問することにした。
わたしたちは、1989年にはじめて海南島を訪問しましたが、そのとき東方市にも行きました。東方市は、日本が海南島を侵略した時期には、八所という小さな村だった。石碌鉱山の鉄鉱石を奪って日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事で多くの人命が奪われた。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられました。
東方市は、その北東の昌江黎族自治県、白沙黎族自治県、南の楽東黎族自治県と同じく黎族の人たちが多く住む地域で、1990年代なかごろまでは、東方黎族自治県とされていた。清国時代から1940年代までは、昌江県と感恩県の一部とされており、東方黎族自治県とされたのは、1950年代のようである。
2013年3月25日午前11時に東方市内の待ち合わせ場所に着くと、謝良昌さん、李永賢さんとともに、旦場村委員会書記の文益夫さん、旦場村委員会主任のまだ20歳代の張恩朝さん、東方中学校の校長をしている謝華さん(謝良昌さんの弟)、東方市の二軽局の局長を退職した文培徳さんが迎えてくれた。
その席で、追悼碑の建立について、李永賢さんはつぎのように話した。
“追悼碑は、昌化江に向かって南向きに建てる。場所は、みんなで決定した。
碑の正面に、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」と刻み、その下に碑文を刻む。
石の裏面に殺された人の名前を刻む。碑の周囲は樹木や花で囲みたい。
あなたたちが来た昨年11月には、93名の犠牲者のうち、85人の名しかわからなかったが、その後、これまでに90人の名を知ることが
できた。
旦場村の交通の便は、いまは悪いが、これからは道路や橋が建設されると思う。
この碑を外から訪れる人、とくに若い人たちに事件を伝える教育基地としていきたい。
ことし、74年前に93人が日本兵によって殺害された農歴9月23日(普通暦では、10月27日)に除幕式を開催したい”。
謝良昌さんによると、旦場村の追悼碑を建立する運動が本格的に始められたのは7年ほど前からで、犠牲者の名前、年齢、「親縁関係」などの調査を始めたのは、2011年からだとのことでした。犠牲者の名簿(「旦場9・23惨案殉難同胞登記表」)の作成が、1939年から70年あまり経過してようやく行なわれることになったことについて、謝良昌さんは、
“村ではむかしから犠牲者の名を調べてきていたが、中心になる人が多忙だったこともあり、定年になってようやく本格的な活動ができ
るようになったからだ”
と話した。
佐藤正人