三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「2024年春の海南島「現地調査」報告 6 」

2024年04月20日 | 海南島近現代史研究会
 4月4日朝9時、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」の前に着いた。
 碑の裏面には、
    這是鮮血和生命凝鋳的歴史。随着“九・一八”的硝烟、我祖国大好河山被日寇鉄蹄蹂躪。数千万同胞被殺戮。一九三九年二月、日軍侵占海南后、我旦場村民為捍衛民族尊厳、不甘当亡国奴、拒領“順民証”、憤怒的撕破焼毀日本国旗。
    由此、日軍対我村進行滅絶人性的野蛮報復、当年十一月四日深夜(農暦九月二十三日)、全副武装的日軍従水路上岸包囲我村庄、殺害九十三同胞、其中孕婦五人、強奸村姑四人、焼毀民房三十多間、槍劫財物無数……制造旦場九・廿三大惨案。
    歴史決不能忘却、惨劇更不容重演! 為報国難、家仇和民族恨、旦場先烈們在抗日戦争中可歌可泣的事跡永載史冊、他們寧死不屈的革命精神永遠激励着后人、奮発図強、振興中華、反対侵略戦争、維擁世界和平。
    為永恒的紀念、旦場村民立碑銘記。
                        公元二〇一三年三月
と刻まれており、そのそばに犠牲者の名、性别、殉难时年龄、亲缘关系がつぎのように刻まれていた。

1 张生珠 男 81 张恩福曾祖父
2 谢连瑞 男 50 良昌祖父
3 许江匙 女 52 文丕富伯母
4 谢宏茅 女 68 张永值祖母
5 符凤岑 女 49 张天太祖母
6 文建熙 男 3 文益忠叔父
7 李则佑 男 28 李开现堂伯父
8 符兰荣 女 46 文名发祖母 
9 文仍面 女 68 符克勤祖母
10 文绍谦 女 54 张天助祖母
11 文士钦 男 70 文国瑶祖父
12 谢先炳 男 67 谢克精祖父
13 谢连兆 男 65 则富伯父
14 林 女拜 角 女 63 则富伯母
15 谢泽兰 女 13 则富堂姐 
16 谢泽坤 女 8 则富堂姐
17 谢泽路 女 一个月 则富堂妹
18 文贵女 女 46 王永双母亲
19 王永成 男 14 王永双胞兄
20 文昌才 男 25 文益丰父亲
21 文丕毓 男 35 文坤卜父亲
22 文成美 男 26 许承仕小舅公
23 文其英 男 37 昌显父亲
24 符玉佳 女 26 文国富前妻
25 黄永银 女 38 张坡弟前妻
26 文 女拜 窝 女 65 张天兴祖母
27 张天梅 女 30 张天兴胞姐
28 文其生 男 29 文昌民叔父
29 文兆和 男 42 文世连父亲
30 文国秀 男 37 文任元父亲
31 王之仁 男 40 永乐父亲
32 张石纯 男 46 张天玉祖父
33 赵永姨 女 40 文益留祖母
34 文瑞赫 男 36 文宗文伯父
35 文亚妹 女 36 文宗文伯母
36 文宗世 男 3个月 文宗文堂弟
37 谢则鸟 女 21 文宗文前母
38 谢祥符 男 32 谢泽长父亲
39 文琼銮 女 32 谢泽长母亲
40 谢泽玉 男 18 谢泽长胞弟
41 谢坡小 男 7天 谢泽长胞弟
42 陶安三 女 62 文秉山祖母
43 王永善 男 21 永乐胞兄
44 文 经 男 35 文德远父亲
45 文庆补 男 36 文高岗祖父
46 李则兴 男 13 李则贵胞弟
47 文亚小 女   王永善的前妻
48 文现熙 男 32 文益成父亲 
49 文令护 男 38 文成群父亲
50 文拜堪 女 35 许瑞梅母亲
51 文仁堪 男   文义五父亲 文昌盛继承 
52 王绍堪 女   文义五母亲 文昌盛继承
53 陶仍姐 女 60 文高荣祖母
54 文其川 男 40 文丕训父亲 
55 文仁均 男 48 亚条父亲开琼继承
56 谢三拥 男   谢良高叔父
57 文妹琴 女   文妹真胞姐
58 张成汤 男   张天才堂伯父 
59 谢金亻于 男  谢宝智父亲
60 谢祖兴 男   谢良才父亲
61 谢则性 男   谢良月父亲 
62 文妹笑 女   文宗娥继承
63 文其兴 男   文丕福叔父
64 文瑞路 男   文相机兄
65 文龙排 男   文其雄兄
66 张玉全 男   张永奎叔父 
67 文昌南 男   文丕高兄
68 许明芬 男 75 许瑞俊继承
69 文绍番 男   文永职父亲
70 文性龙 男   文昌东叔父 
71 黄金才 男   黄永照父亲
72 文康复 男   文永真父亲
73 文兆熙 男   文 女拜 珍父亲 註:「女拜」は、「拜」に「女」偏がついた漢字。 
74 许代奇 男 51 许瑞底父亲 
75 文 女拜 耐 女 60 许瑞俊继承
76 文瑞雄 男   文秉位叔父
77 文世帖 男   昌功叔父
78 谢先堪 女   文相器母亲 
79 文先喜 男   文天亮父亲
80 赵拜移 女 32 文庆勇叔母
81 文拜小 女 几天 赵拜移女儿 
82 文天明 男   文性方叔父
83 张 骞 女   成福祖母
84 谢家宝 男   谢昌姨父亲
85 符登雄 男 38 文永祥小舅
86 文其福 男   克耿父亲
87 符开尧 男   符振养叔父 
88 符仕高 男   符美柳父亲
  胎儿五名

 海南島近現代史研究会がはじめて東方市北方の四更鎮旦場村を訪ねたのは、2012年11月2日(農暦9月19日)の午後3時ころだった。
 このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人の名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知った。
 この日の午後8時過ぎに、旦場村から東方市内に着いたわたしたちは、旦場村の追悼碑建立の準備を中心になって進めている謝良昌さんと李永賢さんからくわしく話を聞かせてもらうことができた。
 それから5か月後の海南島「現地調査」の最初の日、2013年3月25日にわたしたちは再び旦場村を訪問しようと考えていたが、出発10日前に、謝良昌さんから、“旦場村の人たちが多く東方市にいるので、旦場村にではなく、東方市にこないか”という連絡があったので、東方市を訪問することにした。
 わたしたちは、1989年にはじめて海南島を訪問しましたが、そのとき東方市にも行きました。東方市は、日本が海南島を侵略した時期には、八所という小さな村だった。石碌鉱山の鉄鉱石を奪って日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事で多くの人命が奪われた。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられました。
 東方市は、その北東の昌江黎族自治県、白沙黎族自治県、南の楽東黎族自治県と同じく黎族の人たちが多く住む地域で、1990年代なかごろまでは、東方黎族自治県とされていた。清国時代から1940年代までは、昌江県と感恩県の一部とされており、東方黎族自治県とされたのは、1950年代のようである。

 2013年3月25日午前11時に東方市内の待ち合わせ場所に着くと、謝良昌さん、李永賢さんとともに、旦場村委員会書記の文益夫さん、旦場村委員会主任のまだ20歳代の張恩朝さん、東方中学校の校長をしている謝華さん(謝良昌さんの弟)、東方市の二軽局の局長を退職した文培徳さんが迎えてくれた。
 その席で、追悼碑の建立について、李永賢さんはつぎのように話した。
   “追悼碑は、昌化江に向かって南向きに建てる。場所は、みんなで決定した。
   碑の正面に、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」と刻み、その下に碑文を刻む。
   石の裏面に殺された人の名前を刻む。碑の周囲は樹木や花で囲みたい。
   あなたたちが来た昨年11月には、93名の犠牲者のうち、85人の名しかわからなかったが、その後、これまでに90人の名を知ることが
  できた。
   旦場村の交通の便は、いまは悪いが、これからは道路や橋が建設されると思う。
   この碑を外から訪れる人、とくに若い人たちに事件を伝える教育基地としていきたい。
   ことし、74年前に93人が日本兵によって殺害された農歴9月23日(普通暦では、10月27日)に除幕式を開催したい”。
 謝良昌さんによると、旦場村の追悼碑を建立する運動が本格的に始められたのは7年ほど前からで、犠牲者の名前、年齢、「親縁関係」などの調査を始めたのは、2011年からだとのことでした。犠牲者の名簿(「旦場9・23惨案殉難同胞登記表」)の作成が、1939年から70年あまり経過してようやく行なわれることになったことについて、謝良昌さんは、
   “村ではむかしから犠牲者の名を調べてきていたが、中心になる人が多忙だったこともあり、定年になってようやく本格的な活動ができ
  るようになったからだ”
と話した。
 
                                         佐藤正人

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2024年春の海南島「現地調査」報告 5

2024年04月19日 | 海南島近現代史研究会
 4月3日朝8時に黄流を出発し、9時半に楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村の邢亜响さん(1923年生)の家に着いた。邢亜响さんは2023年10月に亡くなっていた。脳梗塞で倒れ海口の病院で2か月間闘病したが家に戻って亡くなったという。邢亜响さんは日本軍と戦ったときの弓矢や火縄銃を保管していたが、邢亜响さんの死後、風習にしたがって燃やしたという。
 生前、邢亜响さんは、
   「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
    自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
   鉄だった。
    仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
    機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
   た。日本兵を殺して銃を奪った。
    7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
   た。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。
    解放後、村はここに移った」
と話していた。kouniti kuromayumuraHP (hainanshi.org) 
 邢亜响さんの一男の邢福球さん(1959年生)に昔の黒眉村に案内していただいた。
 昔の黒眉村では、多くの村人が日本軍に殺されたので、1945年にいまの場所に生き残った村人すべてが移り住んだという。

 黒眉村から感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)に午後2時過ぎに着いた。
 「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
   「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
    周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
   西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
 わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
 湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
 話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
 張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
   “夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
   子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだ
  のは、正月18日だった。
   夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
   夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。  
   夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮ら
  していた。
   夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
  ころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
   わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
  ったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急
  になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだっ
  た。
   あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
   愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけてきた。逃げる
  ときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人は逃げるのが遅かったので、
  日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
   日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
   地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
  ぶつかる。日本兵は、村人に命令して、土を掘らせた。
   その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
  たら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このとき平服で七~八人だったか
  ら、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
   日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
  人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
   日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
   ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
   しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて  
  飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
   日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
   朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
  に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が無かった。
   そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
   隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
 張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
 湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
 墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
 高さ二メートルあまりの墓碑に、
   「永垂不朽」
   「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
   村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
   為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。

 3月2日午後3時半に東方市新龍鎮新村を離れ、5時半に東方市八所鎮新街村に着いた。わたしが新街村の倪定平さん(1936年生)にはじめて会ったのは2003年春だった。その時、新街村の日本語学校のあった場所や横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部司令部のあった場所などに案内してもらった。日本語学校にかよったことのある倪定平さんは、
   「当時、生徒は160人くらいだった。1クラス40人で4クラスあった。正面に職員室があった。
    左右に教室があった。日本人教師のひとりの名は、水村定男だった。
    学校の後ろに、日本軍専用の病院があった」
と話した。 
 倪定平さんは「日本侵略期の新街小学校の生徒たち」、「新街小学校前の日本兵士と日本語教師たち」、 「新街小学校の教師たち 軍帽をかぶった日本人教師2人とかぶっていない台湾人教師2人」などの写真をもっていた(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行、76頁)。
 その年11月に再会し隣村の墩頭村の漁港近くにあった横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、日本軍が爆撃した学校の跡などに案内してもらった。その後なんども倪定平さんに会って新街村とその周辺での日本軍の侵略犯罪についてくわしく話していただいた。

 4月3日に家を訪ねると、倪定平さんは1年前(2023年4月20日)に新型冠状病毒肺炎で亡くなっておられた。わたしが最後に会ったのは2014年11月20日だった。一男の倪徳雲さんが“父は発病してから10日間ほど入院したが家で死んだ。肺が真っ白だった”と話した。

                                   佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 4

2024年04月18日 | 海南島近現代史研究会
  4月2日朝9時40分に旅館から回新村に向かった。5年半前にはなかった道路ができていて、なかなか着かない。10時40分に着くが、村中の道路もおおきく変わっている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が初めて回新村を訪ねたのは、21年前の2003年3月24日だった。このとき出会った哈秉堯さん(当時74才)は、日本人が、朝鮮人を「朝鮮報国隊」の人たちだと言うのを聞いたことがあると言った。 
 わたしたちは、朝鮮人の宿所跡に、案内してもらった。朝鮮人は、飛行場建設や、道路建設をさせられ、殴られて死んだ朝鮮人もいたという。
 哈秉堯さんは、その現場に案内してくれた。哈秉堯さんは、子どものころ毎日のように朝鮮人がおおぜい死ぬのを見たと言った。
 その後、わたしたちは、なんども回新村を訪ね、村人から証言を聞かせてもらった。
 2004年4月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は1998年6月からの海南島での「現地調査」での映像を編集して、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』を制作した。2004年7月にその朝鮮語版を、2004年12月にその漢語版を制作し、2005年はじめに回新村で漢語版を上映した。
 わたしが最後に哈秉堯さんに会ったのは、2018年10月下旬だった。今度訪ねたら家は空き地になっており、近所の人が哈秉堯さんは何年か前に亡くなり、家族は飛行場の近くに引っ越したと話した。
 回新村を離れて、「朝鮮村」に向かった。11時10分に「朝鮮村」の南丁小中学校の前に着いた。
 わたしたちは、これまで20回ちかく「朝鮮村」を訪ね、「朝鮮村」の村人に日本軍が「朝鮮村」をその周辺で朝鮮人を強制的に働かせ、暴行し、虐殺した目撃証言を聞かせてもらってきた。
 今回は同行できなかったが、海南島近現代史研究会の会員の在日朝鮮人が、「朝鮮村」の貧しい小中学生に使ってもらうようにと南丁小中学校に100万円を寄金したいと言い、わたしが預かっていた。南丁小中学校の蔡少冠校長は、上部機関(教育局→民生局)に問い合わせてから、受け取ってくれた。校長は、貧しい生徒と成績のいい生徒のために使いたいと言った。南丁小中学校に隣接している広場には日本政府に「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行されて1945年夏に虐殺された朝鮮人1000人以上が埋められていた。

 4月2日12時15分に南丁小中学校から離れてが埋められている広場に行った。広場の南丁小中学校寄りの場所(朝鮮人の遺骸がいまも埋められている)には、陶器工場が建設されていた(現在は休業中)。
 12時40分に「朝鮮村」から黄流に向かった。

                                      佐藤正人
 
 
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2024年春の海南島「現地調査」報告 3

2024年04月17日 | 海南島近現代史研究会
 4月1日朝8時35分に旅館を出発し、9時30分に英州鎮九尾村(前、九尾吊村)に着いた。
 わたしは、2005年に、政協陵水黎族自治県委員会主席の蘇光明さんから『陵水文史 7 日軍侵陵暴行実録』(1995年2月発行)をいただいた。その書には、馮徳郷・藍信郷・馮興瓊口述、蘇光明整理「死里逃生憶当年——九尾吊村“三・九”大屠殺述実」が掲載されていた。そこには1943年農歴3月9日に日本軍が村民72人を殺害したという証言が記されていた(陵水黎族自治県老区建設促進会編『陵水黎族自治県革命老区発展史』(2021年12月、海南出版社発行)には「死里逃生憶当年」が「九尾吊村大屠殺遺址」と題されて6行に縮められて収録されている。314頁)。
 2007年から海南島近現代史研究会は村人に証言を聞かせてもらうために、何度か九尾吊村を訪ねた。
 2014年4月7日に英州镇红鞋村委会九尾村全体村民は、陵水黎族自治县人民政府に、村に日本軍の村民殺害の「歴史真相」を伝える「纪念碑」建設を求める文書を提出する準備を開始していた。
 海南島近現代史研究会が前回九尾村を訪ねたのは、2014年11月4日だった。そのとき、元書記の馮興義(1933年生)さん、現書記王田衛(1970年生)さんらは各家をまわり、戸主が死んだり、全滅した家のばあいは、親戚を訪ねて聞いて、殺された人の名まえ、虐殺の状況を調べて文書をつくったと言った。
 馮興義さんは、
   「日本軍は村の二つの方向から攻めてきた。田んぼの方には日本兵はいなかったので、20何人が田んぼのほうに逃げた。
    逃げられなかった人はぜんぶ、剣で刺し殺された。
    当時わたしは13歳ころで、家族は、父、母、兄3人、姉2人、じぶんの8人家族だった。わたしは末子なので、父はわたしを
   連れて逃げた。兄ふたりと姉ひとりは逃げることができたが、兄の亜楽と姉の玉英は殺された。兄は25歳、姉は15歳だった。
   王廷朝と李家珍はつかまって、隆広の日本軍の基地まで、村のニワトリやブタ、羊などを運ばされたあと、首を切られて殺された。
   首は見つからないまま。隆広の人が見ていて、村の人に教えてくれた。村の人が遺骸を引き取りに行ったが、首がなかった。探しても見つからなかった。
   村の人はみんな山に逃げているので、村には
  人はいない。家は焼かれて、壁だけ焼け残っていた。日本軍は何回も来た。家を壊して、レンガを盗っていった。
   壁を壊したり、運んだりしたのは、別の村の人がした。どこの村の人かわからない。英州あたりの村の人。
  車はないので、みんなかついで運んだ。
と話した。とげがはえた大きなサボテンをゆびさして、馮興義さんは、
   「日本軍時代、大きく茂っていて、村のまわりぜんぶに植えられていた。‘界刺(ゴイシ)’という。動物も入って行かない。
   痛いが、ここに隠れた人は助かった」と言った。
 その9年半後の2024年4月1日に、わたしは 九尾村を訪ねた。村人に聞くと、追悼碑(「纪念碑」)は、まだ建設されていないと言う。
 馮興義さんの家を訪ねた。馮興義さんは、ほとんど目が見えなくなっていた。すこしの間話していると、声でわたしのことを思い出してくれた。馮興義さんは、1958年から1988年まで30年間、村里(周辺のいくつかの村)の書記をしていたという。

 2024年4月1日午後12時15分に、保亭黎族苗族自治県什玲鎮で陳厚志さんに会った。陳厚志さんは、張応勇さんに教えられて海南島で民衆運動を続けてきている人だ。
 保亭市内で張応勇さんの三女の張蕾さんに会った。張応勇さんの妻の黄菊春さんは2020年後半に、一女の張嘉さんは2022年後半に乳がんで亡くなったという。張応勇さんの遺稿集出版について話し合った。
 午後6時、三亞市内に着き、三亞民间文化博物館に行き、館長の蔡明康さんに再会し話を聞いた。『海南島近現代史研究第4号・第5号』を寄贈すると、「このような資料はいちばんだいじなものだ」と語った。

                                     佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 2

2024年04月16日 | 海南島近現代史研究会
 3月31日早朝、海口を車で出発し、高速道路を南に向かい、定安県・瓊海市を通過し、11時過ぎに万寧市万寧鎮に着いた。
 新型冠状病毒肺炎流行のため、海南島近現代史研究会が海南島に行くのは訪ねるのは5年3か月ぶりだった。
 初めに蔡徳佳さんの家を訪ねた。蔡徳佳さんは、2年前に亡くなられていた。
 わたしが、初めて蔡徳佳さんに会ったのは、2002年4月5日だった。その後、わたしが蔡徳佳さんに10数回話を聞かせてもらってきた。
 初めにあった日に、万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行資料専輯)』(『万寧文史』第五輯、1995年7月)をいただいた。その書には、蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末——制造“四大屠殺惨案紀実”」、楊広炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・廿一”惨案」が掲載されていた。
 3月31日午後1時過ぎに、月塘村の朱振華さんの息子さんを訪ねると、朱振華さんは2年前に脳の病気で入院し、いまはほとんど記憶を失っていると話した。
 わたしが初めて朱振華さんに出会ったのは、2007年5月24日だった。
 朱振華さんは、1980年代末から、月塘村虐殺の犠牲者の「調査」をはじめ、犠牲者と幸存者全員の名簿をつくった。虐殺三年後の1948年に月塘村で生まれた朱振華さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を一軒一軒、なんども訪ねて聞きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしていた。
 月塘村の追悼碑(三・廿一惨案紀念碑)は、2008年農暦3月21日(4月26日)に除幕された。
 追悼碑の建設は、朱振華さんと朱学基さんが中心になってすすめた。
 1945年5月2日明け方、日本軍は、北方の万寧市のほうから、月塘の西側の道を通って、村に入ってきた。その道は、いまでも残っている。
 月塘のすぐ近くの朱光清さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったという。その家のあった場所で、朱光清さん(一九三四年生)は、
   「とつぜん家にはいってきた日本兵に、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
   手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。
   門のそばで母が殺された。四三歳だった」。
と、ときどき遠い所を見つめるようにして、低い静かな口調で話してくれた。
 朱光清さんは、傷跡をみせてくれた。腹部の傷跡が深く残っており、右足首上部の傷が細長く残っていた。
 2024年3月31日に朱光清さんの家を訪ねた。妻の黄玉金さんが、朱光清さんは家のなかで転んで骨折し、1か月ほど寝込んで農歴2023年2月10日に89歳で亡くなった、と語った。

 月塘村を離れ、高速道路を南西に進み、陵水黎族自治県英州鎮にいった。

                                 佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 1

2024年04月15日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会は、2024年3月30日から13日まで20回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては回目)の海南島「現地調査」をおこないました。
 その行程は、つぎのとおりでした。

3月30日午後9時、海南島海口国際空港にホンコンからの直行便で到着。 
3月31日 海口→月塘村→英州鎮大坡村→英州鎮九尾村→陵水泊。
4月1日 陵水→保亭→「朝鮮村」→三亞泊。
4月2日 三亞→三亞民间文化博物馆→黄流日本軍飛行場跡→黄流泊。
4月3日 黄流→感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)→東方市博物館→八所鎮新街村→四更鎮→東方市泊。
4月4日 東方→四更鎮英顕村→昌化鎮旦場村→烏烈鎮→白馬井鎮→新盈鎮泊。          
4月5日 新盈→臨高→沙土(聖眼村・欽定村)→澄邁泊。 
4月6日 澄邁常樹村→雷鳴鎮南曲村→雷鳴鎮梅種村→黄竹→南陽→文昌泊。 
4月7日 文昌→清瀾港→東郊鎮→文昌泊。 
4月8日 文昌→東閣鎮→石馬鎮→中国銀行→大至坡泊。  
4月9日 大至坡→三江で李粒くんに会う→咸来→潭牛泊。
4月10日 潭牛→秀田村→舖前泊。
4月11日 舖前→澄邁県橋頭鎮理善村→臨高角解放記念碑→臨高→海口泊
4月12日 海口市石山鎮玉榮村の“迷人洞”→1939年2月10日に日本陸海海軍が奇襲上陸した天尾村海岸(現、新海港)→海口図書館→海南省史志館→新華書店→海口泊。
4月13日 海口人民公園に建てられている海南革命烈士纪念碑のそばの許如梅さんの「墓」に、許如梅さんの息子さん(邢勇さん)に案内してもらう→南海出版公司との話し合い→海口発(ホンコン経由で日本に)。
                                 佐藤正人
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「日本に堂々と謝罪を要求するためには」

2024年04月15日 | 個人史・地域史・世界史
「The Hankyoreh」 2024-04-15 10:50 
■[寄稿]日本に堂々と謝罪を要求するためには
 李東石(イ・ドンソク)|在日コリアン 
 <ハンギョレ‐ノ・フェチャン財団共同企画[6411の声]>

【写真】昨年10月29日、ソウル市鍾路区の日本大使館の前で筆者が「朝鮮学校と共にする人々『モンダンヨンピル』」と一緒に日本にある朝鮮学校の高校無償化を要求するデモをしている=キム・チャンソプ氏提供//ハンギョレ新聞社

 私は1952年に日本で生まれた在日コリアン2世だ。日本の高校3年生だった18歳のとき、朝鮮人であることを自覚するようになった。しかし、どうすれば朝鮮人として生きていくことができるのか分からなかった。悩みぬいた末、在日コリアンの同級生と日本の学校内に「朝鮮文化研究会」を作り、それまで使っていた日本名を捨て、朝鮮人として生きていくことを決意した。朝鮮文化研究会で朝鮮高校の生徒と交流し、日本の高校に通う在日コリアンの生徒たちの集まりにも参加した。その過程で、朝鮮人として生きようとするのであれば、韓国語を習わなければならないと考え、韓国留学を決心した。1971年に初めてソウルに来て、1973年に韓国外国語大学フランス語学科に入学した。
 1975年11月、保安司令部の要員が下宿に来て、令状なしで私を連行した。40日間保安司令部に監禁されて拷問と脅迫で自白を強要され、私は「スパイ」になった。韓国語と自分たちの歴史を学びたくて加入した朝鮮文化研究会で総連系の人に会って話したことが、「スパイ」になった主な容疑だった。在日コリアン17人が拘束された、いわゆる「学園浸透スパイ団事件」だ。私は5年の刑を受けて大田(テジョン)刑務所で獄中生活をすることになった。そんな私を支援して激励してくれたのは、日本の人たちが組織した「救援会」だった。救援会の人たちは裁判を傍聴して励ますためにソウルに何度も来て、大田にも何回も面会に来た。
 私は救援会がなければ健全な精神ではいられなかっただろう。私が釈放されて1981年に日本に帰ってきた後も、全斗煥(チョン・ドゥファン)独裁政権下で在日コリアンのスパイ事件が多く発生した。拘束された在日コリアンの家族に会って励まし、救援会とともに支援運動を行った。多くの人たちの支援を受けたので、今度は私が取り組まなければならないと考えた。
 労働運動に関心があった私は、韓国の良心囚がほとんど釈放された1990年代後半に「在日高麗労働者連盟」(高麗労連)に加入した。高麗労連は朝鮮半島にルーツがある在日コリアンであれば南北関係なく誰でも加入できる労働組合だった。その組合で在日コリアンに対する労働差別改善や韓国人労働者の支援と交流のために活動した。監視を受けてはいたが2000年代になってからは韓国に行くことができるようになり、日本と韓国の労働者の交流の過程で通訳を担当して何度も韓国に行った。
 2005年に「真実和解のための過去事整理委員会」(真実和解委員会)ができたが、日本に住む私たちがその存在を知るようになったのは、ずっと後のことだった。国家権力による拷問を受けて長い間刑務所生活を経験した在日コリアンの良心囚は、国家機関である真実和解委員会を信じられず、当初は真相究明の申請をためらう雰囲気だった。私もそうだったが、真実和解委員会は韓国の民主化闘争の成果だと考え、2011年に真相究明を申請した。その後、裁判所が再審で「拷問で強要した自白には証拠能力がない」と判断し、2015年に無罪が確定し、賠償金も受け取った。賠償金は、国家の過ちは認めるが、金を支払うことでこれ以上の国家責任を問えなくするものだ。私は今後どのように生きていくのかを決めなければならなかった。大学に再入学することにした。2017年に外国語大学に入り、私より若い教授に学び、2020年2月に卒業した。大学生活の間に良い韓国の人たちと多く知り合い、卒業後も韓国で暮らしたくなった。4年が過ぎた今でも、ソウルに住みながら、在日コリアンの良心囚の再審を支援し、韓国内の難民問題や外国人労働者問題、ベトナム民間人虐殺問題などに関心があり、集いや集会に参加している。
 韓国は、日本による植民地下での痛みを経験し、解放後の済州(チェジュ)4・3事件では多くの難民が発生して日本に渡っていき、韓国人も労働者として外国に働きに行った歴史がある。現在、韓国に住んでいる外国人や難民に対する韓国の政府や国民の態度を見ると、とても残念に思う。韓国が国家の過ちを認めて修正し、外国人や社会的弱者に対する人権を保障してこそ、「慰安婦」や「徴用工(強制動員)」問題に対する日本の謝罪を堂々と要求できる。そして、在日コリアンへの差別をなくせと声を上げることができる。私がこの問題に関心を持って連帯活動をする理由は、歴史の過ちは正さなければならず、良い社会を作る責任が韓国人として生きる自分にもあるという思いからだ。私はいつも弱者の立場に立ち、労働者の目で世の中を見ようと努力している。

李東石(イ・ドンソク)|在日コリアン (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-14 18:44
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「自衛隊、植民地支配正当化する「大東亜戦争」公式SNSで使用」

2024年04月14日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「The Hankyoreh」 2024-04-09 06:41
■自衛隊、植民地支配正当化する「大東亜戦争」公式SNSで使用
 朝日新聞「日本政府も使わない」…タブー 
 A級戦犯内閣が侵略を正当化するために閣議決定した表現

【写真】日本の陸上自衛隊の部隊が公式SNSアカウントで侵略戦争を美化する「大東亜戦争」という表現を用いていたことが確認された=第32普通科連隊の公式SNSより//ハンギョレ新聞社

 日本の陸上自衛隊の部隊が公式SNSアカウントで、侵略戦争を美化する「大東亜戦争」という表現を使用していたことが8日に確認された。この用語は、日本の起こした戦争はアジアの植民地を解放するためのものという歪曲された意味を含んでいるため、日本でも使用がタブー視されている。
 陸上自衛隊第32普通科連隊は5日、公式SNSアカウントに「32連隊の隊員が、大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に旗衛隊として参加しました」と投稿した。そして「慎んで祖国のために尊い命を捧げた日米双方の英霊のご冥福をお祈りします」と付け加えた。
 日本の自衛隊が「大東亜戦争」という表現を公式SNSアカウントで使用したことは、物議を醸している。オンラインでは「中国、朝鮮、台湾、東南アジアでの植民地統治や侵略を正当化する名称だ」、「公の機関が使用してはならない」などの批判の声があがっている。
 朝日新聞も「政府は太平洋戦争を指す言葉として、この呼称を公式文書では用いていない」と強調した。日本の陸上自衛隊は「大東亜戦争」という表現を使ったことについて、同紙に「本日はコメントすることができない」と答えた。
 大東亜戦争という用語は、太平洋戦争のA級戦犯である東條英機内閣時代の1941年、公式な表現として閣議決定された。この表現は、日本の主張した「欧米の帝国主義からアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を築いてアジアの自立を目指す」とする「大東亜共栄圏構想」から来たものだ。敗戦後、日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)は、公文書などでのこの用語の使用を禁止した。
 今も日本政府はこの用語を使用しておらず、事実上タブーと認識されている。日本では大東亜戦争ではなく太平洋戦争や第2次世界大戦という表現が使われる。歴史歪曲で悪名高い日本の極右団体「新しい歴史教科書をつくる会」などが使う用語だ。
 日本の陸上自衛隊は今年初め、陸将を含む数十人の幹部が太平洋戦争のA級戦犯の合祀されている靖国神社に集団参拝していたことが分かり、波紋を呼んでいる。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-08 11:06
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