三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島 2009年6月 8

2009年06月28日 | 海南島
■沙土で 3
 6月22日に、沙土の北山村で、符礼慶さんの家で、符礼慶さん、符明魁さん、符明進さん、陳承裕さんにつづいて、陳春洪さん(78歳)と符礼章さん(69歳)に話しを聞かせてもらうことができました。 
 陳春洪さんは、つぎのように語りました。
   「わたしの家では、父の陳必連、祖父の陳書桂、祖母(婆道村の人)、叔父の陳必史、姉の陳妃転が、家で殺された。
    わたしと弟二人は、学校にいたので、日本軍に見つからなかった。
    母はあのとき村にいなかった。兄は、日本軍が村で人を殺していると聞いて、すぐに逃げたので助かった。
    日本軍が村からいなくなってから、午後5時か6時ころだったと思うが、わたしは家族の遺体を埋めた。父は7か所刺されていた。
    父は農民だった。
    父が殺されてから、わたしは、兄といつも山にいってさつまいもを探して家にもってかえって食べた。
    日本軍が村人を殺した翌年、わたしは日本軍の仕事をさせられた。
    当時、日本軍は花場に駐屯していた。
    わたしは、花場で道路工事などをさせられた。日本軍はカネも食べ物もくれなかった。食べるものは自分でもっていった。
    日本軍に家族を殺されてから、いつもこころが苦しく、毎日泣いた。
    このこころの苦しみをことばで表すことはできない」。

 符礼章さんは、つぎのように語りました。
   「わたしが生まれてから数日後に、日本軍が村を襲った。
    父が市場から戻るときに日本軍の車がむらの入り口に停車して日本兵が降りてきたという。
    父は日本兵にお辞儀をしたが、日本兵は銃剣で父を刺そうとした。
    その銃剣を父は手で押さえたが、手が血だらけになったという。
    その後、父は家にいた母をつれて逃げ出すことができた。
    の母に、わたしが抱かれていた」。
                                   佐藤正人                       
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海南島 2009年6月 7

2009年06月27日 | 海南島
■沙土で 2
 6月22日に、沙土の北山村で、符礼慶さん(84歳)は、つぎのように語りました。
   「あの日は、わたしは、村人みんなといっしょに田んぼで働いていた。
    そのとき、村長が、日本軍を迎えるので村人みんなが集まるようにと言った。
    いかないと日本兵になにをされるかわからないので、みんなは村に戻った。
    すると、日本兵は、女や年よりや子どもを一軒の家に押し込め、切りつけて殺し家に火をつけて焼いた。
    男は縄でつないで一人ひとり銃剣で突き刺して殺した。
    200人ほどが殺された。
    遺体は日本兵がいなくなってから、村はずれに埋めた。
    わたしは、みんなといっしょに村に戻らず逃げたので助かった。
    当時、父はすでに亡くなっていた。あの日、母は村を離れていたので助かった。
    弟の符礼堂は、家にいたので殺された。4歳くらいだった。
    日本軍が村人を殺したあと、村が回復してから、わたしは、いつも日本軍に仕事をさせられた。
    道路工事をさせられたり、石を運ばされたり、樹を切らされたりしたが、日本軍は、カネをよこさず、食べ物もくれなかった。食べ物は、自分で持っていった。
    疲れてすこしでも休むと、日本兵は、棍棒で殴った。
    仕事は輪番制で、毎日、村長が仕事に出る村人を調整した。
    わたしは、花場まで行かされて働かされたことがある。花場にいた“三曹”という日本兵がとくに凶悪で、ひんぱんに強姦し人を殴った。
    日本軍を恨んでいる」。

 符明魁さん(82歳) は、つぎのように語りました。
   「村に学校がなかったので、父、符道崇が提唱して学校をつくった。
    学校ができてまもなく、1942年農暦6月12日に、日本軍が村に入ってきた。
    わたしの家では、妹の符妃美、符妃英、符妃育と弟の符明深、4人が殺された。
    母は、刺されて深い傷をおわされたが命はとりとめた。
    漁民だった父は、魚を売りに市場に魚を売りにいっていて家にいなかったので、運良く助かった。
    わたしは、学校にいた。
    日本軍は学校には来なかったので、そこにいた人はみんな無事だった。
    日本軍は村人を一軒の家に押し込めて一人づつ刺し殺した。
    そのあと何か月かたってから、生き残った村人が日本軍の仕事させられるようになった。
    大人がいくと日本兵にいつも殴られるので、子どものわたしが父にかわって仕事にいった。大人が遅れていくと、日本兵は鍬の頭で殴った。
    花場から福山までの道路をつくらされたり、花場で日本軍の建物をつくらされたりした。
    仕事にいっても日本軍はカネも払わず、食べる物もよこさなかった。自分の家から食べ物や飲むものをもっていった。
    日本軍が投降したことを知ったのは、ある日の夜だった。
    日本軍がいなくなって、とてもうれしかった。
    日本軍を限りなく恨んでいる。この恨みを永遠に忘れることはない」。

 符明進さん(82歳) は、つぎのように語りました。
   「わたしの家では、伯父の符道瑞と伯母(洋欽村の人だった)と弟の符明国の3人が、あの日、日本兵に殺された。わたしは、学校にいっていた。日本軍は学校には来なかった。両親は、村の外に仕事にいっていた。
    日本軍は、たくさんの村人を殺したあとしばらくたってから、生き残った村人に仕事をさせた。両親の代わりに、わたしは日本軍の仕事にいった。
    日本軍がやれといったことは、なんでもしなければならなかった。花場や才芳で、道路をつくらされたり建物をつくらされたりした。
    花場と才芳には、日本軍が駐屯していた。
    わたしが聖眼村の近くの坡に牛をつれていっていたとき、日本兵がその牛を奪ってどこかに連れていったことがあった。
    その牛は殺されて食べられてしまったのだと思う。
    日本軍が敗けていなくなったときには、こころのそこから喜んだ。だが、日本軍にたいする恨みが消えることはない」。

陳承裕さん(70歳) は、つぎのように語りました。
   「母は、わたしを産んでから3か月後に、日本兵に殺された。
    小さなわたしを胸に抱えていた母は、日本兵に背中から刺されて殺されたそうだ。
    母が全身でかばってくれたので、わたしは、いまこうして生きているのだ。
    あの日、わたしの家では、母や兄の陳承明と陳承法など13人が殺された」。

                                   佐藤正人

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海南島 2009年6月 6

2009年06月26日 | 海南島
■沙土で 1
 6月22日から24日まで、3日間、海南島北部の澄邁県橋頭鎮の沙土に行きました。 
 沙土地域には、昨年10月12日に、瓊海市龍江鎮濱灘に生まれいま海口に住む海南島近現代史研究会会員の梁昌寶さんと、はじめて行きました(海南島近現代史研究会『会報』第2号の梁昌寶「沙土惨案」をみてください)。
そのとき訪ねたのは聖眼村でした(海南島近現代史研究会『会報』第2号の表紙に聖眼村に建っている「史証碑」の写真が掲載されています)。
 その後、昨年10月末ー11月初めに林彩虹さんと福留村、昌堂村、才芳村を訪ねました。
 橋頭半島突端(沙土北方)の日本軍の基地があった才芳村では王平義さん(1927年生)に当時のことを話してもらうとともに、日本軍の基地跡に案内してもらいました。
 沙土には、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝など13の村がありますが、22日には、昨年訪問できなかった北山村に行きました。
 海口市内の西バスターミナルから西方(那大、石碌方面)にバスで1時間ほど行って高速道路の福山入り口で下車し、そこからまたバスで30分あまり行くと橋頭に着きます。沙土はそこから三輪車で行きます。
 昨年、橋頭で出会い、沙土各地を案内してもらった三輪車の運転手の王春英さんに、こんども再会し案内してもらうことができました。
 澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころに編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」(曾憲富、呉可義、雷登華整理)には、1941年農暦6月11日に北山村で100人あまりの村人が日本兵に殺されたと書かれてあります。
 橋頭から北山村までは5キロくらいです。
 22日午後1時10分に北山村に着くと、王春英さんが、そこにいた村人に当時のことを知っている人がいないかを尋ねてくれました。
 その5分後に、符礼慶さん(84歳)の自宅を訪ね、すぐに話を聞きはじめさせてもらうことができました。
 符礼慶さんから聞きとりしていると、村人が集まってきました。
 同じ場所で、符明魁さん(82歳)、符明進さん(82歳)、陳承裕さん(70歳)、陳春洪さん(78歳)、符礼章さんからつぎつぎと話を聞かせてもらうことができました。
 そのあと、外にでて、1941年農暦6月11日に村人が押し込められて火をつけられて殺されたという家の廃墟の前をとおって、符明進さんのお兄さん、符明沢さん(86歳)、がいる木陰に行きました。そこで符明沢さんから話を聞かせてもらったあと符明清さん(82歳)に話を聞かせてもらいまいた。
 沙土の地域語しか使わない符明清さんには、林彩虹さんの海南語も漢語もつうじません。そばにいた符明信さんに間に入ってもらって聞きとりしました。
 沙土の地域語は臨高語の方言だとのことです。
 そこに年配の女性もいたので話を聞かせてもらいたかったのですが、4時半近くになっていたので、翌日(つまり、23日に)話を聞かせてもらう約束をして、1941年農暦6月11日に学生たちが隠れていて助かった学校跡と、村人が押し込められて殺されたという家の廃墟を撮影して符礼慶さんの家の前まで戻りました。
 符礼慶さんのつれあいさんが、ふかしたさつまいもを出してくれました。
 橋頭発の終バスが5時半なので、5時に北山村を離れました。
                                      佐藤正人
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海南島 2009年6月 5

2009年06月25日 | 海南島
■旧州で 4
 共産党員がいるといって、1943年に日本軍が陳俊良さんの母親が住んでいた也金村を襲撃し、村を焼き尽くしたそうです。
 陳俊良さんのお母さんの弟、曾文波さんが、いま也金村の近くに住んでいるというので、案内してもらいました。
 旧州から也金村の方向に3キロほど舗装道路を進み、さらに森の小道を20分あまり歩いたところの一軒家の前で曾文波さんは、薪割りをしていました。夕方5時近くになっていました。
 雨が降り出し、雷が近くに何度も落ち、豪雨になりました。
 家のなかで、曾文波さん(1938年生)は、つぎのように話しました。
    「也金村にとつぜんやってきた日本軍は、わたしの母の兄、林吉秀を捕まえた。村人の陳献忠も捕まえた。林吉秀の妻は日本兵に強姦された。村人の陳ハイロンも強姦された。わたしは母と姉といっしょに逃げた。家も着るものも食べるものも全部焼かれてしまった。
     捕まった林吉秀と陳献忠は、旧州近くの道端で首を切られた。二人の首は、望楼に吊るされた。
     二日ほどしたら首がくさってきた。
     林吉秀の父、つまりわたしの祖父は、日本軍から林吉秀の首を受けとって埋葬した。
     陳献忠の首は、受けとる人がいなかったので、日本軍は捨てた。どこに捨てたかはわかない。
     也金村は、家が7軒ほどの小さな村だった。
     いまは、焼かれた家の土台石だけが残っている」。
 
 電気のない暗い部屋で話を聞かせてもらっている間に、雷鳴も豪雨も静まってきました。
 曾文波さんに也金村まで連れて行ってもらうことにしました。
 小雨のなかを、森の道を歩き、舗装道路に出て1キロほど行き、さらに20分ほど畑や水田の中の道を通って林を過ぎたところが、也金村があった場所でした。
 大木と背の高い夏草が生い茂っていました。
 「この向こうに、焼かれた家の跡が残っているが、いまは、見ることができない。冬になれば……。墓地もこのなかにある」と曾文波さんは話しました。
 すこし前の豪雨でできた深い水溜りのなかを歩いて戻りました。帰り道、曾文波さんはずっと無言でした。
                                       佐藤正人
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海南島 2009年6月 4

2009年06月24日 | 海南島
■旧州で 3
 8か月前に訪ねた旧日本軍の望楼跡の1階は食料品店になっていますが、そこで梁玉娘さん(83歳)と陳義華さん(1930年生)から話を聞かせてもらうことができました。

 梁玉娘さんは、つぎのように話しました。
    「日本軍が来る前に両親が亡くなっていた。わたしと兄だけが残されていた。
     日本軍が来てから、わたしは兄の代わりに日本軍の仕事をした。輪番制だった。
     望楼を囲む壕を掘らされたり、道路工事をさせられた。
     カネはもらったことがない。食べるものもくれなかったので、自分でもっていった。
     日本兵に殴られたこともあった。“四脚牛”をさせられた人もいた。
     日本軍はとても悪かった。人を殺した。家に火をつけた。女性を強姦した」。

 陳義華さんは、つぎのように話しました。
    「当時、日本軍は、村人が自由に塩を売るのを禁止していて、塩を売っている村人を見つけたら、すぐに首を切った。
     わたしは、まだ小さかったが、日本軍に働かされた。麻袋にいっぱい砂をつめ、それを二人で担いだ。
     日本兵はよく大人を殴ったが、子どもは殴らなかった。
     この近くの美蓮村に共産党がいるといって日本軍が襲い、12人を焼き殺したことがあった」。
 
 陳義華さんの話を聞いているとき、陳俊良さんが、「近くに也金村があったが、日本軍に焼かれてしまい、無人村になってしまった。そこに案内したい」と、話しかけてきました。
                                     佐藤正人
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海南島 2009年6月 3

2009年06月23日 | 海南島
■旧州で 2
 王瓊梅さんは、自宅の前で、つぎのように話しました。
   「この村には日本軍の基地はなかった。旧州から日本兵が来ると、村人はみんな道美嶺に逃げた。日本兵は山の中までは追ってこなかった。
    人がいなくなった村で、日本兵は豚やにわとりを盗んだ。
    盗んだ豚を日本兵はすぐに村の中で焼いて食べたこともあった。そのとき内臓などは残してあった。
    旧州の日本軍の望楼工事をやらされたことがある。望楼の地下には防空洞があった。
    日本軍は、あちこちの民家を壊し、そのレンガや木材を材料にして望楼をつくった。
    日本軍の仕事をしても金はくれなかった。食べ物も水も自分の家からもっていって働いた。
    近くの川辺で、日本兵が人を殺すのをむりやり見せられたことがある。日本兵が男の人を3人縄でつないてつれてきて、背中から銃剣で突き刺した。銃剣の先が腹から飛び出した。死体は河に流した。日本兵はその人たちが働かなかったからだと説明した」。

 王瓊梅さんと別れて旧州に向かう道の途中に、3人が殺された川辺の近くを通りました。そこには灌漑用水ダムが作られてありました。
 旧州の市街地の自宅で、呉徳礼さんに話を聞かせてもらいました。97歳でしたが、杖を突きながらも力づよく歩き口調もしっかりしていました。呉徳礼さんは、望楼で日本軍の食事をつくる仕事を2年近くしたそうです。炊事や焚き木集めをしたほか、日本兵といっしょに市場に食材の買出しに行ったこともあったそうです。
 「市場で日本兵は軍票で支払ったが、わずかな額だった。なにをされるかわからないので、市場の人たちは、日本兵のいいなりになって品物を渡さないわけにはいかなかった。それを見るのはつらかった。わたしの給料も軍票だった」と、呉徳礼さんは話しました。

 呉徳礼さんの家を出て、呉徳礼さんが働かされていた旧日本軍の望楼跡を探しました。
 そこは、バナナ畑になっていました。
 旧州人民政府から旧日本軍の望楼跡の土地を借りて整地してバナナ畑にしているのは、湖南省から来た一家でした。
 整地していると、近所の住民から、爆弾が埋まっているかもしれないからあまり深く掘らないでくれと言われたそうです。
 整地中に地下壕があるのがわかったそうです。長い銅線も見つかり、売ったら100元近くになったそうです。
 バナナ畑のすこし小高くなっているところに、古いレンガがいくつもころがっていました。

 この望楼跡から300メートルほど離れたところに、昨年10月にわたしたちが訪ねた旧日本軍の望楼跡があります。
 旧州には日本軍の望楼がふたつあったようです。
                                      佐藤正人
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海南島 2009年6月 2

2009年06月22日 | 海南島
■旧州で 1
 旧州には、シンユエさんに案内されて行きました。
 シンユエさんは、海南島の黄流出身で、いま海口に住み、最近海南島近現代史研究会に入会しました。
 シンユエさんのお母さんは、2歳くらいのとき、その父の兄が国民党員だったので、村を襲ってきた日本兵に祖母に抱かれていっしょにつかまり、黄流の監獄に1か月ほど入れられたそうです。
 海口市内を朝8時20分に出発し、三亜に向かう高速道路を1時間近く行き、南渡川を越えてからまもなく左(東方)にまがると、平野にひとつだけ山がみえました。それが、1941年という文字(「元号」使用)のある鉄パイプがある旧州の山でした。山の名は、「公式」には旧州嶺だが、地元の人は道美嶺と呼んでいるそうです。
 日本軍の分遣隊が「駐屯」していた仙溝を過ぎて3キロほど東に進んで道美村に着きました。
 シンユエさんがあらかじめ連絡しておいてくれた林尓欽さんが待っていてくれました。林尓欽さんは、瓊海出身で、1975年に軍隊に入り、それ以来、道美村で暮らしている人です。道美村には、中国軍の対空砲部隊と対戦車砲部隊の基地があります。
 会うなり、林尓欽さんは、“今朝、鉄パイプがあるところまで行って見ておいた”といいました。
 さっそく、林尓欽さんと近くの坡秀村に住む黄広富さんに案内されて、鉄パイプのある地点まで、強い日差しの中を道美嶺の小道を登りはじめました。
 10分あまりで、着きました。
 鉄パイプは、道美嶺中腹の小高い地点に作られた給水池から軍基地に給水するための導管として使われていました。
 直径10センチ、長さ4メートルほどの厚い鉄のパイプが何本もつなげられていました。給水施設の管理をしている林尓欽さんによると、1本の重さは400キロだとのこおtでした。
 各パイプの端に、製造年が鋳られてあり、「元号」で、1941年と書かれているものと1942年と書かれているものとがありました。
 この鉄パイプは、日本軍が敗退したあと、共産党軍が軍事基地の給水用に転用したものですが、それがもともとどこにあり、どのように使用されていたのかは、林尓欽さんにもわからないとのことでした。
 11時過ぎに、山麓の道美村に降り、王瓊梅さん(82歳)に話を聞かせてもらうことができました。
                                      佐藤正人
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海南島 2009年6月 1

2009年06月21日 | 海南島
 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては1998年以来17回目、海南島近現代史研究会としては2007年以来5回目の海南島「現地調査」の報告です。

■旧州へ
 防衛研究所図書館にある『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、海南島に侵入していた日本海軍守備隊の位置が約160か所書かれています。
 そのうち、わたしたちが、これまで「現地調査」したのは76か所です。
 わたしたちは、とくに旧日本軍部隊が「駐屯」していた地域を重点的に「調査」したのではありませんが、これまで訪れた200か所あまりの地域のうちの3分の1ほどが、海南警備府守備隊の「駐屯地」でした。そこには、兵営、望楼などがつくられていましたが、現存するのはわずかでした。
 1943年3月1日の時点で佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の部隊が「駐屯」していたのは47か所だったようですが、そのうち、これまでわたしたちが「現地調査」したのは、嘉積、会文、黄竹、烟塘、大路、長坡、潭門、新市、楽会、中原、陽江、橋園、龍滾、中興、烏場、和楽、万寧の17か所でした。
 1943年3月1日の時点で舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の部隊が「駐屯」していた地域は52か所だったようですが、そのうち、これまでわたしたちが「現地調査」したのは、石山、長流など21か所でした。
 舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に所属する部隊が「駐屯」していた新坡と旧州を尋ねたのは、昨年10月11日でした。新坡の日本軍の望楼があった場所には、中学校が建てられていました。当時のことを知っている人から話しを聞いた後、船で南渡河を渡り、対岸の旧州に行きました。昨年は旧州に午後5時ころ着いて、日本軍の望楼のあった場所を聞くと、いまでも残っていると聞いて、あわてて、そこに行き、外部から撮影したあと、中に入れてもらいました。そうしているうちに最終バスに乗り遅れ、ようやく反対方向の定安に行く最終バスにのり、大回りして海口にもどりました。
 きのう(2009年6月20日)、旧州を再訪しました。
 今月はじめに、シンユエさんが、旧州の山中に、「元号」で1941年という文字のある鉄パイプがあると知らせてくれました。
 きのう旧州に行ったのは、その鉄パイプを見るためと、そのことについて現地の人から話を聞かせてもらうためと、昨年行った望楼跡で当時のことを知っている人から話を聞かせてもらうためでした。
                                     佐藤正人
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「記憶」と「歴史」の陰で“厄災”の現実は今も続く 5

2009年06月20日 | 海南島近現代史研究会
■虐殺を黙認する行為を止める闘い
 当時の日本政府と軍需企業各社は、海南島で行って来た犯罪事実の一切を密封して現在に至っている。それは、戦後日本の経済復興を担ってきたと自称する多くの企業や商社が、実は日本政府(関東軍)の戦争犯罪を共同して蓄えた利益を戦後日本の経済活動へと活用させてきたのであり、それが暴かれることを極度に恐れているからである。その隠蔽のための都合だけで行われる「過去の清算」として、典型化された「物語認識」へと捏造されて数々の事実を忘れさせる為に作動させられている。
 それに気付くと、私たちの「認識」と「記憶」は、そのように戦争犯罪を隠蔽する為に動員され、現在もなおそれを続ける犯罪性を発揮していると言えるのである。そこには、私たちがいかにヒューマニストの顔つきを取り繕っても、まさに今もなお侵略占領の「厄災」に傷つき続ける人々の上に降り注ぐ悪夢の共犯者にしかなれないことを自覚させられるのである。つまり、パレスチナや海南島で行われていることと同じことが、世界各地で繰り返され、血塗られた世界地図に塗り固められたままの現在があることを、私たちは看過しているのではないかと知らされる。
 だからこそ、私たちは、旧い「認識」と「記憶」に安住せず、虐殺の犯罪行為を黙認する行為を止める戦いを、歴史の事実の一つ一つからでも紡ぎ出して続けなければならない。
                            2009.01.06.
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「記憶」と「歴史」の陰で“厄災”の現実は今も続く 4

2009年06月19日 | 海南島近現代史研究会
■事実の一つ一つが持っている真実
 パレスチナ問題に出会って、一知半解を解体する旅を続けて三十年が経った。しかし、私は、海南島に関する「認識」や「記憶」で同じ過ちを犯していたことにあらためて気付かされた。
 たとえば、それまでの私の海南島についての「物語認識」は、抗日パルチザンが日本帝国軍隊に対して抵抗戦争を戦った激戦地の一つとして聞き知り、仏帝占領を受け継いだ米帝のベトナム侵略戦争時に無限に民衆と土地が痛めつけられるニュースに触発されて東南アジアの地図を再度眺め直した程度のもので、一言で言って、日本の侵略戦争が東アジアの人々にもたらした夥しい一連の被害の「物語認識」を持っていただけに過ぎない。いや、その「物語認識」は、いろんな虐殺や酷薄な民衆抑圧の実態を、事実とは関係なく想像力で補って肉付けしたもので、実はとんでもなくのっぺらぼうな代物である。過去を隠蔽し事実を追い出そうと作為していたわけはないが、「知っている」「分かっている」つもりで各個の事実を脇へ押しやり、過去化させてしまう作為が働いた「認識」と「記憶」に整合されたものである。そのことが、海南島について知れば知るほど明らかにされていくことになる。
 最近、日本(関東軍)の中国占領、特に「玄洋社」や「満州浪人」「馬賊」の名で知られる日本人の中国における行動を知ろうとして満州関連の資料や本を読んでいて、海南島についての意外な関連事実の一端を知り、自分の歴史に関する想像力や認識力の弱さを思い知らされた。
 英植民地主義が中国占領支配の野望で東インド会社を使ったために起こったアヘン戦争に関連しても、実は、英国だけでなく日本こそが阿片ビジネスを中国支配の国策事業にしていたという幾つかの事実を知った。中国へ侵攻した日本(関東軍)は、占領政策の実行費用を捻出する為に、特に、その特務機関は大々的な阿片売買や偽造紙弊発行による収益確保を任務にしていた。しかも、中国支配システムの環としての「満州帝国」の建国運営予算の大半も阿片収益で賄おうとした。更に、そこで活躍した軍人や軍属官僚たちは、「満州帝国」での戦争犯罪行為の続きを、敗戦後の日本国経営で行っていた。戦犯から首相になった岸信介や戦後経済界のボスを演じた鮎川義介などの“満州の三スケ二ヒコ”のように、「満州帝国」経営官僚たちの人脈が戦後日本の“戦犯”シンジゲートとなり、「日本国株式会社」運営を支配実行してきたのが、日本の戦後史の実態だと知った。甘粕正彦や里見甫などの策謀家が大川周明に共鳴したアジア主義の“正義感”を振り回して中国を破壊し続けた活躍の陰で、もっと小者の笹川や児玉が当時の特務機関活動のなかで私腹化した財力で戦後日本社会を経済界を牛耳るボスやフィクサーとなり、戦後日本をも貪り続けていたことも知った。
 その中で最も驚いたのは、まだ推論的な部分が残るものの、あの「五族協和」のファナチズムに彩られた軍人軍属たちが、中国や朝鮮民衆を虐殺し続けながら、資源確保の為に東南アジアへの占領支配を拡大していたが、その時、海南島が栽培を始め阿片ビジネスのターゲットの一つとして登場した時だ。
 日本(関東軍特務機関)は、満州や蒙古で収穫される阿片の質が悪く、栽培収穫量も思うに任せなかったため、一時はペルシャやトルコ産の阿片を買い付けたりするが、恒常的で効率のいい財源確保の為には独自の東南アジア諸国での阿片栽培収穫が必要として、その計画をおし進めようとしたようだ。
 当時満州で活躍していた、あの甘粕正彦が、インドシナ半島一帯から東チモールまで“稲作可能性の調査”などと称して秘密裏に出張して各地の地味の探索を展開したりもしたが、恐らく阿片栽培に適した地域の探索も視野にあったのだろう。そして、米や小麦の二毛作が可能な海南島の地味の良さは、逆に水はけが悪くて阿片栽培には適さない為に、海南島が阿片の本格的なモノカルチャー世界に貶められることから救われたのだと思われる。但し、高橋善彦という怪しげな人物が「阿片王」と呼ばれた里見甫の部下として海南島での阿片栽培の責任者であった記録が残っている。
 1939年、海南島では、日本によって全面占領が開始された。
 1940年、特務部隊第四八師団が海南島で編成された。この部隊の任務は、東南アジアからチモール、オーストラリアまでを射程に入れた東南アジア“防衛線”の維持だったが、元々海南島に建設され始めていた阿片の栽培収穫、そして中国や日本への輸送特務が拡大されて負わされていた可能性も言われている。そんな事情のなかで、海南島の軍事的な位置が強化再編され、東南アジア一帯への占領統括を行う戦略的な中枢基地機能を担うものへと格上げされようとしたとも言える。いずれにしても、海南島では、阿片ビジネスから軍事的な戦略基地としての空港と港湾、そして軍事基地施設と軍用道路の建設が拡大強化されたのだ。
 さて、私は、「馬賊」の物語を知ろうとしながら、次々と、そのような海南島に関する事実の記録断片に向かい合うことになり、それまでの旧い「認識」と「記憶」は次々と破砕され、新たに意識化された事実による全貌の追及へと道を辿ろうとする。勿論、それは、同じ時期に、アラブパレスチナで行われた欧米植民地主義の野望と蛮行の占領政策と同時的に連関させ対比させて考えることによって、初めて新たな歴史認識へと結実していくものだろう。
 海南島では、1939年から45年、日本敗戦までの約六年半、東アジア統一支配の野望の実現の為に、軍部と共同した日本企業が多数進出し、基地建設の労働力として中国、朝鮮、台湾、香港から膨大な数の人々を強制連行して過酷な条件下で建設作業を負わせ、餓死させ、軍事機密保持のために密殺した。並行して、日本帝国軍部隊は各地の村落を次々と急襲し、抗日パルチザンの支持者として包囲し、住民男性を強制労働に連行し、残った者や子女を悉く虐殺していく。
 先にあげた『日本が占領した海南島で』によってその事実を知った者は、次いで報告される『「朝鮮報国隊」』(DVD)によって虐殺の実態記録に直面して知識を再編し記憶化する。
 そして更に、それらの記憶は、三作目の『海南島月糖村虐殺』(DVD)を見て虐殺から生き残った人々の証言を聞き、新たに集積された記憶が、先の「虐殺の典型」へと収斂するのではなく、虐殺の結果が今もなお現実生活のなかで拡がり続けている実態にたどり着く。
 記録映像と証言を見て聞き進むうちに、当時、旧日本軍がとっていた虐殺行動が、何故、かくも苛烈なものである必要があったのかという謎として浮かび上がっていた。それが、実は、戦略基地建設のためであり、同時に、軍事費捻出の阿片ビジネスの機密維持のためだったのではないかという確信に近い思い込みとして、私の貧しい想像力のなかで生じ始める。
 平和な農村の人々を急襲虐殺した事実の意図が、占領虐殺した者たち(日本政府と軍需企業)によって隠蔽され続けたために、今に至るも海南島の人々の中には延々と「厄災」が蓄積されて地域全体を埋め尽くしている。
 それは、私たちが今や、中国、朝鮮、フィリピン、そして東南アジア各地で旧日本軍が行った各種の悪行を、中国、朝鮮、東南アジア一帯での戦争開始拡大の為の謀略工作の例、そして南京虐殺などで典型化されてしまった「記憶」というものが何かを知らせてくれる。つまり、海南島での日本軍と軍需企業が行った悪行の実態を事実として徐々に知れば知るほど、典型化された記憶とは全く違う実態の在り様が現れていることに気付く。そのように、典型化された「認識」と「記憶」によって、実は、私たち自身が全体像から見ればほんの一部を特筆することによって、事実の一つ一つが持っている真実を隠蔽することに与してしまっているのである。
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