三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島でのアヘン生産 2

2007年06月30日 | 海南島でのアヘン生産
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(1995年8月)に、
   “1943年12月23日未明、日本海軍舞鶴第一特別陸戦隊の部隊が、儋州市和慶鎮地域の抗
   日闘争を抑えようとして、和慶鎮和合村を襲撃した。このとき、353人が殺された”
と書かれています。
 わたしたちは、2003年春と2006年春に、和合村を訪ねました。
 2003年には、わたしたちが訪ねた前前日(3月31日)に、日本軍に襲撃されて生き残った人が亡くなったとのことでした。そのとき和合村に住む韋雪梅さん(1921年生)は、
   「わたしはこの村で生まれ、結婚して隣の村にいた。それで殺されなかった。あの日、こ
  この村人は、ほとんどが殺された。あれからしばらく、村は無人だった。その後、15人ぐら
  いが他の村から戻ってきた。今は40戸くらい。後から来た人が多い」
と話しました。
 殺された村人の遺体は、1944年になってから埋められ、墓がつくられたといいます。その近くのゴム林に住む韋邦群さん(1960年生)は、「1970年に用水路をつくったので、以前の墓を50メートルほど移した。以前の墓の骨を集めてここに埋めた。村人が清明節などには供養している」と話しました。

 その和慶鎮で、山田行夫さんは、アヘン用のケシ栽培をしたといいます。
 1942年に「厚生公司」の研究員となり、1943年に「厚生公司」から海南島の海南海軍特務部に派遣されることになった山田さんは、1943年7月に神戸を発って、台湾の高尾、香港を経由し、1か月ほどかかって海南島北部の黄沙港に入り、黄沙から海口に行き、洛基を経由し、9月15日に那大に到着し、そこで9か月間、ケシ栽培をしたそうです。
   「海南島に着いてから、どんどん治安が悪くなった。那大では共産軍に襲撃されたことが
  あった。1944年6月6日に、那大から和慶に移った。和慶では、日本軍の望楼(要塞兵舎)
  に寝泊りしていた。この年、12月28日に、その望楼が襲撃された」
と、山田さんは話しました。
                                佐藤正人
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海南島でのアヘン生産 1

2007年06月29日 | 海南島でのアヘン生産
 「山田行夫のホームページ」 http://www.geocities.jp/pales1219/index.html に、山田さんはこう書いています。
   「私は軍隊に入る前は、海南島でアヘンの事業に携わっていた。……
    “厚生公司”という国策会社によって、中国南部の海南島で、ケシ栽培、アヘン製造の
  事業が始まり、日本のアヘン政策は「大東亜共栄圈」構想の一環として進められた。
   この厚生公司は、大東亜省や陸海軍、海南海軍特務部の支援と期待で、大きな権限を与え
  られて事業を展開した。
   私は1942年に旧制中学を出ると、東京虎ノ門に本部をおくこの厚生公司に研究生として入
  り、厚生省の機関でケシ栽培などの勉強をした。そして翌年に海南島に渡り、現地でアヘン
  事業に携わった。
   戦前にわが国がこのアヘンを国家事業として行った目的は、名目は「麻酔剤モルヒネの原
  料確保」つまり医療用ということと、「支那(中国)に多いアヘン中毒者の治療に必要」と
  いうことだったが、本音は、この事業が生み出す猛烈に膨大な利益を戦費に役立てること、
  であり、いまひとつは、中国人にアヘンを広めて………という、忌まわしい狙いが隠されていた
  かと思う。
   だから、その本拠の厚生公司は、中国側では「アヘン戦争」以来、許すことができない国
  家の仇敵機関と見なして当然だった。
   私は1945年に、既記のように陸軍に応召して海南島を離れたので、戦後、中国でアヘンに
  関連した日本人はみな戦争犯罪人として裁かれたが、私はそれを免れた。
   海南島に残っていた厚生公司の支配人中村三郎氏は、広東で裁かれて公開銃殺されたの
  だが、その中村氏が広東で銃殺されたちょうどその時、私は同じ広州で捕虜生活をしてお
  り、銃殺の現場に程近い広東大学に捕虜として収容されていたが、このことは復員してか
  ら知った」。

 わたしたちは、ことし4月末、山田さんの自宅で、話を聞かせてもらいました。
 山田さんは、1925年生まれですが、「歴史の証言」を残すのは、加害者であった自分の人生の締めくくりとしてどうしてもやらなければならないことだ、といって、長時間、くわしく話してくれました。
 山田さんは、ホームページに、
   「わが国はあの戦争では「加害者」であった。「被害者」側の(特に)中国の民衆とは、
  あの戦争の「風化」の度合いが違うはずだ。つまり、わが国では「おおむかし」のできごと
  と思っていても、中国などではまだ「きのう」のできごとと認識している人が多いに違いな
  い」
と書いています。
 わたしたちも、海南島でそのことを痛感し、2004年にドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』を制作しました。
                                 佐藤正人
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白蓮鎮で 5

2007年06月28日 | 白蓮鎮
 12、13歳だったころ、この大きな樹の附近で牛を放牧していたとき、10人ほどの日本兵が一人の女性を強姦したのを見たと、李学三さんは言いました。

 羅驛村の村人にケシを植えさせたのは、台湾人で、日本人はほとんど姿を見せなかったそうです。
 かつてケシが植えられたことがある広い畑の脇の道を、南に200メートルあまり歩くと、羅驛村の中心部に着きました。その手前に1000平方メートルほどの空き地がありました。李愛連さんと李学三さんは、ここにケシ栽培の実験場があった、ここで苗を育てた、と話しました。
 そこから100メートルほどのところの家がたてこんでいる場所に、廃墟がありました。家の一部だったと思われる石がころがっており、大きな土台石もありました。そこは、日本軍の飛行機が爆弾を落し、少年の命を奪った場所でした。
 李愛連さんと李学三さんは、そこから100メートルほど離れた空家にわたしたちを案内し、ここにも同じ日に、日本軍が爆弾を落したと言い、さらに、そこから70メートルほど離れた場所に行き、ここで老人が日本軍の爆弾で殺された、と言いました。

 李学三さんと自宅の前で別れ、わたしたちは、李愛連さんと白蓮にもどりました。
 白蓮の中心部に入ってから、李愛連さんに旧日本軍の「慰安所」跡に案内してもらいました。
 改築されていましたが、当時の家が残っていました。日本軍がいたころ、李愛連さんはこの近くにしばしば用事があって来たので、よく知っているとのことでした。
   「1週間に一度、女性が5、6人来た。近くに日本軍の兵舎があった。白蓮小学校のある場
  所だ。日本兵は20人あまりいた。慰安所に来たのは日本兵だけだった。女性はみんな海南島
  人だったように思う」
と李愛連さんは話しました。
                                   佐藤正人
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白蓮鎮で 4

2007年06月27日 | 白蓮鎮
 6月1日、約束していた朝10時のすこし前に待ち合わせの場所、白蓮の茶店にいくと、すでに李愛連さんが李学三さんと待っていてくれました。
 李学三さん(1929年生)は、羅驛村の人で、この日、わざわざ白蓮まで来てくれたのでした。
 李学三さんは、こう話しました。
   「1939年農暦12月22日朝9時ころ、日本軍の飛行機が羅驛村の上空に来て、爆弾を5会落し
  た。家が3軒壊され、子ども一人と老人一人が死んだ。子どもの身体が吹き飛ばされ、内
  臓が樹の枝にぶらさがった。この日、日本軍は、近くの潭池村に共産党員が隠れていると
  いって、かくまったと疑った家の人を全部殺した。
   それからまもなく、日本軍は共産党員が隠れていると聞いたといって、羅驛村に入ってき
  て、村人を一か所に集めた。そのとき村に李忠培という日本語がすこしわかる人が来た。李
  忠培は澄邁県の治安維持会会長で、ふだんから日本軍に接触しており、日本軍の司令官とも
  交流していた。李忠培が、この村には共産党員はいない、と説明すると、そのときは、日
  本軍はなにもしないで村からでていった。
   その後、日本軍は、はじめ村の畑地に砂糖キビを植えさせた。その2、3年後、日本軍とい
  っしょに来た日本人が、村人に大規模にアヘン用のケシを植えさせた。しかし、大雨が降っ
  て、ケシの苗が水浸しになって全部枯れてしまった。それからは、ここではケシは植えられ
  なかった」。

 白蓮で李学三さんから話を聞かせてもらったあと、わたしたちは、李愛連さんと李学三さんに案内されて、羅驛村に行きました。乗客が二人のれる三輪オートバイで、白蓮から20分ほどのところでした。
 オートバイを降りたところは、羅驛小学校の前で、その横に祠堂がありました。石の高い塀で囲まれた100平方メートルあまりもある敷地の中央にある祠堂には、広い部屋がいくつもありました。むかしここは学校としても使われており、李愛連さんも李学三さんもここで勉強したといいます。日本軍が来て、ここに村人を集めて、共産党員を隠していないか人尋問したのもこの祠堂だったそうです。
 祠堂の建物は壊れかけ廃墟となっていましたが、天井下の太い梁には蓮の花の彫刻が残っていました。まもなくこの祠堂は、羅驛村出身の華僑の協力によって建てかえられることになっているとのことでした。
 祠堂正面を背にして左側の道をいくと紅い小さな花が真っ盛りの10メートルあまりの大きな樹があり、あたりに黒い牛が10数頭、放牧されていました。
 その樹の前面の広い畑を指さして、李愛連さんは、ここにアヘン用のケシが、一回だけだったが、いちめんに植えられた。わたしもここで働いた、と言いました。
                                  佐藤正人
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白蓮鎮で 3

2007年06月26日 | 白蓮鎮
 李愛連さんのつれあいの李秀蓉さん(1932年生)は、こう話しました。
   「日本軍が村に来たとき、わたしは10歳になっていなかったが、道路工事をやらされた。
  日本兵は、大人をよく殴っていた。わたしのような子どもは殴られなかった。
   共産党の人がいると疑って日本軍がわたしたちの村を襲ってきたとき、わたしの家が焼か
  れた。家族はみんな山に逃げた。薯を掘ってようやく暮らした。稲刈りの時期になって、や
  っとご飯をたべることができた」。

 李秀蓉さんが稲刈りの話をしているとき、そばで聞いていた李愛連さんが、とつぜん、
   「日本軍は村を占領して、土地を奪い、村人に、稲やアヘンや砂糖キビを植えさせた。村
  はずれに精糖工場をつくって砂糖キビから砂糖をつくった」
と話しだしました。
 これまで、わたしたちは、アヘン栽培の跡を探していましたが、見つけ出せていませんでした。
 李愛連さんにアヘン栽培についてさらに訊ねると、驚いたことには、李愛連さんは、アヘン農場で働かされたことがある、と言いました。
 水田で働いても金をもらうことはなかったが、アヘン農場で働いたときには金をもらった、と言いました。
 この日は、もう午後5時をすぎていたので、翌日(6月1日)にアヘン農場跡に案内してもらう約束をして別れました。別れぎわに、李愛連さんと李秀蓉さんは、家によって晩御飯をたべていけ、と言ってくれました。
                                    佐藤正人
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白蓮鎮で 2

2007年06月25日 | 白蓮鎮
 白蓮小学校の近くで、李愛連さん(1925年生)は、こう話しました。
    「日本軍が来たとき、ここから3キロほど離れた羅驛村に住んでいた。
    日本軍は、樹を切り倒し、その樹やレンガをつかって戦壕をつくった。
    日本兵が自分で樹を切ったのではない。むりやり村人に切り倒させた。戦壕も村人がつ
  くらされた。わたしも働かされた。三人一組になって働かされた。
    大きな樹を何本も切り倒させられた。村でいちばん大きな松の樹を切り倒せといわれて
  もいやだとは言えなかった。
    戦壕をつくらされたあと、水溝を掘らされた。はばの広い水溝だった。仕事のやりかた
  がよくないといって、日本兵は村人をよく殴っていた。
    当時の羅驛村は、いまより大きくて、村人の数も多かった。はっきりしないが3000人ほ
  どだったと思う。
    日本軍は、村人に道路もつくらせた。
    村が大きく人も多いのに、道路工事のすすみかたが遅いといって、日本兵が村人を集め
  て並ばせ、一人ひとりを激しく殴ったこともあった。
    わたしの村から共産党の軍隊に参加した人が二人いた。ある日、日本兵は、村に共産党
  の人が隠れているといって、村中を捜索した。
    男も女も、年よりも子どもも、みんな家から追い出されて、学校に集められた。学校は
  大きな祠堂のなかにあった。日本兵は機関銃をもっていた。
    日本兵は、村人を家から追い出し学校に集めるとき、おとな一人ひとりに“良民証”を
  もっているかどうか訊ねた。もっていないと言うと、すぐに殺した。あの日、日本兵は、共
  産党の人を見つけることができなかった。
    日本軍は、村の女性二人を“慰安婦”にした。その一人は、日本軍がいなくなってから
  タイに行ってしまった。いまも元気でいるらしい」。
                                  佐藤正人
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白蓮鎮で 1

2007年06月24日 | 白蓮鎮
 1947年に出された大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査 海南島篇』には、海南島の日本企業のひとつとして厚生公司の名があります(112頁)。そこでは、厚生公司は、農場経営と精米事業をやっており、コメ、野菜、黄麻をつくっていたことになっています。
 しかし、厚生公司にいた山田行夫氏は、厚生公司がコメや野菜をつくっていたことはないし、精米事業をやっていたこともなかったと証言しています。
 実際には、厚生公司は、海南島で、アヘンを生産していました。
 『日本人の海外活動に関する歴史的調査 海南島篇』には、厚生公司の農場は、瓊山県の烈楼、澄邁県の豊盈、瑞渓、澄邁、儋県の那大、洛基、南豊の7か所にあったとされています。
 だが、厚生公司の農場は、老城、白蓮、土艶などにもありました(江口圭一編、及川勝三・丹羽郁也『証言 日中アヘン戦争』岩波書店、1991年8月。江口圭一「日中戦争期海南島のアヘン生産」、『愛知大学国際問題研究所紀要』97、1992年9月、参照)。
 ことし5月31日に、わたしたちは、澄邁県の白蓮鎮に行きました。
                                 佐藤正人
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北岸村で 3

2007年06月23日 | 北岸村
 何子徳さん(1938年生)は、こう話しました。
   「日本兵が来たとき、わたしは3歳になっていなかった。母はわたしを抱いてテーブル横
  の寝台の下に隠れた。二人の兄も寝台の下に隠れた。だが、母は見つかって日本刀で切られ
  て即死した。母が全身でかばってくれたが、わたしは同じ日本兵に3か所刺された。いまも
  このように傷跡が残っているが、胸を2か所、右腕を1か所だ。
   小さな子どもを抱きしめている母親を殺し、その子どもまで殺そうとする日本人は人間で
  はない。あなたたち、日本人はどう思うか! 
   あのときいっしょに寝台の下に隠れた兄も二人とも殺された。うえの兄は何子錦、したの
  兄は何子成。日本軍が村を襲って来たとき、父は家にいなかったので助かった。日本軍がた
  くさんの村人を殺していなくなってから父が戻ってきた。殺されたとき母は40歳くらいだっ
  た。
   あのとき姉の何子蘭はよその家にいっていたが、そこで殺された。16歳くらいだった」。

 村長(北岸村委員会委員長)によると、1941年の五・三十惨案の幸存者は、いまは、北岸村では10人たらずになってしまったそうです。2005年2月18日に、北岸村委員会は海南省民政庁に「五百人碑」の修復を申請(「関于修復“五百人碑”的申請」)したが、まだ回答がきていないといいます。
 今回は、大洋村を訪ねることができませんでした。ことし10月に北岸村を再訪するとともに大洋村に行き、五・三十惨案について「調査」したいと考えています。
                                   佐藤正人
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北岸村で 2

2007年06月22日 | 北岸村
 何子佳さん(1923年生)は、こう話しました。
   「日本軍が村を包囲したとき、わたしは家にいた。わたしは、家を出て村はずれまで逃げ
  たが、そこにも日本軍がいた。それでひきかえして途中の川に入り、対岸に泳いで渡った。
  それで運よく逃げだすことができた。日本軍は、龍滾や中原から来た。
   あの日、父が殺され、妹二人が殺され、伯母が殺され、めい二人が殺された。日本兵はみ
  んなを殺したあと火をつけて焼いた。まだいきているうちに焼かれた人もいたと思う。父
  の名は、何君輝。53歳だった。日本軍がいなくなってから家にもどって、父の遺体を見た。
   母は逃げることができた。兄は当時シンガポールに行っていたので助かった」。

 何君範さん(1935年生)は、こう話しました。
   「まだ小さかったが、あのときのことは、よく覚えている。忘れることができるはずがな
  い。日本兵は機関銃や小銃や日本刀をもっていた。
   何君志と何君日の家に入った日本兵は、家に火をつけたあと、ひとりずつ殺し始めた。
   わたしは、腕と腹と背中を刺された。右の口元も切られた。日本兵は、わたしのような子
  どもも平気で殺した。わたしを刺した日本兵は20歳くらいに見えた。刺されたあとわたしは
  気を失ったが、熱いので意識がもどった。日本兵はいなくなっていた。全身が血まみれにな
  っていた。まわりが燃えていた。日本軍が火をつけたのだ。
   父はあの日、薬を売りに出かけていて助かった。母(馮崇波)も父といっしょだった。二
  番目の姉は家にいて殺された。わたしの家で最初に殺されたのは弟だった。名前は何君鴻。
  1歳半くらいになっていて、よちよち歩きをしていた。とても可愛いかった。日本兵は、あ
  んな小さな子を生きたまま火で焼き殺したのだ。
   妹も殺された。まだ生まれてから4、5か月だった。遺体がみつからなかったので、どのよ
  うに殺されたか、わからない。
   あのとき、姉が2人、兄が1人、弟が1人、妹が1人、伯母が1人、兄嫁が1人、殺された。わ
  たしは4男だ。もうひとりの姉は、あの日別の家にいて、日本兵が来たとき水がめに隠れて
  助かった。
   父と母が帰ってきて、みんなでずいぶん泣いた。
   母はよく働く人だったが、それから人が変わったようにすっかり気力を無くしてしまい、
  まもなく死んでしまった。41、42歳だった」。

 話し終わってから、何君範さんは、わたしたちに腕と腹と背中の傷を見せてくれました。
 くちびるの左上には3センチほどの傷跡が残っていました。日本兵に切られたあと数年間はうまく話すことができなかったそうです。
 ほとんどの幸存者がそうなのですが、何君範さんも実に穏やかな表情で静かに話しました。
                                  佐藤正人
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北岸村で 1

2007年06月21日 | 北岸村
 海南島に侵入した日本海軍は、「Y1作戦」(1939年2月~11月)、「Y2作戦」(1940年2月~4月)、「Y3作戦」(1941年2月~3月)、「Y4作戦」(1941年8月)、「Y5作戦」(1941年11月~1942年1月)、「Y6作戦」(1942年6月)、「Y7作戦」(1942年11月~43年6月)、「Y8作戦」(1943年12月から1年間断続的に)、「Y9作戦」(1944年12月)をおこない、抗日反日武装部隊を制圧し抗日反日闘争の深化を阻止しようとして住民虐殺をくりかえしました。
 日本軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に海南島各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、略奪、人権侵害を重ねました。
 「Y3作戦」と「Y4作戦」の中間期、1941年6月24日(農暦5月30日)深夜、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊が、瓊海市博鰲鎮北岸郷(旧、楽会県北岸郷)の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始しました。
 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』6(日軍暴行録専輯、1995年9月発行)には、6月25日からの数日間に、北岸村と大洋村の村民369人と、村外から来ていた人130人、合わせて499人の人びとが惨殺されたと書かれています。
 日本軍が海南島に奇襲上陸してから68年目の2007年2月10日を発行日とする写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』の表紙は、北岸村に1948年に建てられた「五百人碑」です。この写真は、わたしたちがはじめて訪ねた2002年10月に撮影したものです。その後、2003年8月にもわたしたちは「五百人碑」を訪ねました。このときの影像は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』に入れました。
 これまでわたしたちは、「五百人碑」のある北岸村やその隣りの大洋村で聞きとりができていませんでしたが、今回は林彩虹さんと梁瑞居さんの助けをかりて、5月25日に北岸村で幸存者に会い、話を聞かせてもらうことができました。
                                 佐藤正人
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