三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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北岸村で 3

2007年06月23日 | 北岸村
 何子徳さん(1938年生)は、こう話しました。
   「日本兵が来たとき、わたしは3歳になっていなかった。母はわたしを抱いてテーブル横
  の寝台の下に隠れた。二人の兄も寝台の下に隠れた。だが、母は見つかって日本刀で切られ
  て即死した。母が全身でかばってくれたが、わたしは同じ日本兵に3か所刺された。いまも
  このように傷跡が残っているが、胸を2か所、右腕を1か所だ。
   小さな子どもを抱きしめている母親を殺し、その子どもまで殺そうとする日本人は人間で
  はない。あなたたち、日本人はどう思うか! 
   あのときいっしょに寝台の下に隠れた兄も二人とも殺された。うえの兄は何子錦、したの
  兄は何子成。日本軍が村を襲って来たとき、父は家にいなかったので助かった。日本軍がた
  くさんの村人を殺していなくなってから父が戻ってきた。殺されたとき母は40歳くらいだっ
  た。
   あのとき姉の何子蘭はよその家にいっていたが、そこで殺された。16歳くらいだった」。

 村長(北岸村委員会委員長)によると、1941年の五・三十惨案の幸存者は、いまは、北岸村では10人たらずになってしまったそうです。2005年2月18日に、北岸村委員会は海南省民政庁に「五百人碑」の修復を申請(「関于修復“五百人碑”的申請」)したが、まだ回答がきていないといいます。
 今回は、大洋村を訪ねることができませんでした。ことし10月に北岸村を再訪するとともに大洋村に行き、五・三十惨案について「調査」したいと考えています。
                                   佐藤正人
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北岸村で 2

2007年06月22日 | 北岸村
 何子佳さん(1923年生)は、こう話しました。
   「日本軍が村を包囲したとき、わたしは家にいた。わたしは、家を出て村はずれまで逃げ
  たが、そこにも日本軍がいた。それでひきかえして途中の川に入り、対岸に泳いで渡った。
  それで運よく逃げだすことができた。日本軍は、龍滾や中原から来た。
   あの日、父が殺され、妹二人が殺され、伯母が殺され、めい二人が殺された。日本兵はみ
  んなを殺したあと火をつけて焼いた。まだいきているうちに焼かれた人もいたと思う。父
  の名は、何君輝。53歳だった。日本軍がいなくなってから家にもどって、父の遺体を見た。
   母は逃げることができた。兄は当時シンガポールに行っていたので助かった」。

 何君範さん(1935年生)は、こう話しました。
   「まだ小さかったが、あのときのことは、よく覚えている。忘れることができるはずがな
  い。日本兵は機関銃や小銃や日本刀をもっていた。
   何君志と何君日の家に入った日本兵は、家に火をつけたあと、ひとりずつ殺し始めた。
   わたしは、腕と腹と背中を刺された。右の口元も切られた。日本兵は、わたしのような子
  どもも平気で殺した。わたしを刺した日本兵は20歳くらいに見えた。刺されたあとわたしは
  気を失ったが、熱いので意識がもどった。日本兵はいなくなっていた。全身が血まみれにな
  っていた。まわりが燃えていた。日本軍が火をつけたのだ。
   父はあの日、薬を売りに出かけていて助かった。母(馮崇波)も父といっしょだった。二
  番目の姉は家にいて殺された。わたしの家で最初に殺されたのは弟だった。名前は何君鴻。
  1歳半くらいになっていて、よちよち歩きをしていた。とても可愛いかった。日本兵は、あ
  んな小さな子を生きたまま火で焼き殺したのだ。
   妹も殺された。まだ生まれてから4、5か月だった。遺体がみつからなかったので、どのよ
  うに殺されたか、わからない。
   あのとき、姉が2人、兄が1人、弟が1人、妹が1人、伯母が1人、兄嫁が1人、殺された。わ
  たしは4男だ。もうひとりの姉は、あの日別の家にいて、日本兵が来たとき水がめに隠れて
  助かった。
   父と母が帰ってきて、みんなでずいぶん泣いた。
   母はよく働く人だったが、それから人が変わったようにすっかり気力を無くしてしまい、
  まもなく死んでしまった。41、42歳だった」。

 話し終わってから、何君範さんは、わたしたちに腕と腹と背中の傷を見せてくれました。
 くちびるの左上には3センチほどの傷跡が残っていました。日本兵に切られたあと数年間はうまく話すことができなかったそうです。
 ほとんどの幸存者がそうなのですが、何君範さんも実に穏やかな表情で静かに話しました。
                                  佐藤正人
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北岸村で 1

2007年06月21日 | 北岸村
 海南島に侵入した日本海軍は、「Y1作戦」(1939年2月~11月)、「Y2作戦」(1940年2月~4月)、「Y3作戦」(1941年2月~3月)、「Y4作戦」(1941年8月)、「Y5作戦」(1941年11月~1942年1月)、「Y6作戦」(1942年6月)、「Y7作戦」(1942年11月~43年6月)、「Y8作戦」(1943年12月から1年間断続的に)、「Y9作戦」(1944年12月)をおこない、抗日反日武装部隊を制圧し抗日反日闘争の深化を阻止しようとして住民虐殺をくりかえしました。
 日本軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に海南島各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、略奪、人権侵害を重ねました。
 「Y3作戦」と「Y4作戦」の中間期、1941年6月24日(農暦5月30日)深夜、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊が、瓊海市博鰲鎮北岸郷(旧、楽会県北岸郷)の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始しました。
 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』6(日軍暴行録専輯、1995年9月発行)には、6月25日からの数日間に、北岸村と大洋村の村民369人と、村外から来ていた人130人、合わせて499人の人びとが惨殺されたと書かれています。
 日本軍が海南島に奇襲上陸してから68年目の2007年2月10日を発行日とする写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』の表紙は、北岸村に1948年に建てられた「五百人碑」です。この写真は、わたしたちがはじめて訪ねた2002年10月に撮影したものです。その後、2003年8月にもわたしたちは「五百人碑」を訪ねました。このときの影像は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』に入れました。
 これまでわたしたちは、「五百人碑」のある北岸村やその隣りの大洋村で聞きとりができていませんでしたが、今回は林彩虹さんと梁瑞居さんの助けをかりて、5月25日に北岸村で幸存者に会い、話を聞かせてもらうことができました。
                                 佐藤正人
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