三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「朝鮮人追悼碑モチーフの作品、指導で解体撤去 群馬」

2017年10月31日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.asahi.com/articles/ASK4Q639TK4QUHNB00L.html
「朝日新聞デジタル」2017年4月23日05時03分
■朝鮮人追悼碑モチーフの作品、指導で解体撤去 群馬

【写真】追悼碑をモチーフにした作品。展覧会前に撤去された(群馬県立近代美術館、白川昌生さん提供)

 群馬県立近代美術館で22日から展示予定だった、県内の「朝鮮人犠牲者追悼碑」をモチーフにした造形作品が、同館の指導で解体撤去されたことがわかった。追悼碑をめぐっては、存廃が法廷で争われている。同館は「県は碑の存廃をめぐる裁判の当事者。存否の両論を展示内容で提示できない以上、適さないと判断した」としている。
 撤去されたのは、前橋市の作家白川昌生さんの作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」。布を使って追悼碑を表現した直径5メートル、高さ4メートルほどの作品で、同県在住の芸術家の作品を集めた展示の一つに予定されていた。同館と白川さんによると、同館幹部らが21日夕、展示前の最終点検で不適と判断。白川さんと修正を模索したが、最終的に同館側が撤去を求めたという。
 碑は、戦時中に動員・徴用され、建設現場などで働いて死亡した朝鮮人らを追悼する目的で、市民団体が2004年、県立公園内に建立。県は14年、碑の前で開かれた追悼集会の発言が「政治的」で設置許可条件に違反したとして許可更新を不許可とした。市民団体が処分取り消しを求める行政訴訟を起こしている。白川さんは「群馬の問題だから、群馬で展示できれば良いと思った。残念だが、仕方がない」と話している。


https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/what-is-neutrality?utm_term=.vuoo4rrzJ#.nnOWPyyAX
「BuzzFeed News」2017/05/26 06:01  籏智広太 BuzzFeed News Reporter, Japan
■撤去された「朝鮮人強制連行追悼碑」 問われた展示の「中立性」とは
 群馬県立近代美術館の企画展で展示されるはずだった白川昌生さんの作品は、なぜ撤去されたのか。

 2017年4月。群馬県立近代美術館の企画展に展示されるはずだった造形作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」が、開会当日の朝になって撤去された。
 県が係争中の案件を取り扱った作品だったため、「中立ではない」と館側が判断し、作家同意のもとで撤去されたという。
 いったい、どういう経緯だったのか。作品の「中立性」とは何なのか。 BuzzFeed Newsは関係者に取材をした。

★実在する碑をモチーフに
【写真】撤去される前の「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」  白川昌生さん提供

 まず、大枠の経緯を振り返ろう。
 撤去された作品は、前橋市のアーティスト・白川昌生さん(69)のもの。群馬県立近代美術館で開かれる企画展「群馬の美術2017〜地域社会における現代美術の居場所」で展示される予定だった。
 そもそもこの作品は、近代美術館がある公園「群馬の森」(高崎市)の敷地内に実在する「『記憶、反省、そして友好』の追悼碑」をモチーフにしたものだ。
 碑をめぐっては、その撤去を求める県と設置主体の市民団体の間で裁判が起きている。
 「追悼碑」は2004年、「戦時中に群馬で強制労働に従事させられ、亡くなった朝鮮人犠牲者を追悼すること」を目的とし、市民団体によって建てられた。県議会が全会一致で請願を採択し、県が許可を出したうえでの建設だった。
 しかし2012年ごろから、碑の存在に反発した保守団体が街宣活動などを開始。2014年には設置許可取り消しを求める陳情が県議会で採択され、県も設置許可の更新申請を却下。撤去の方針が決まった。
 「政治的行事及び管理」を禁止した許可条件に違反している、などの理由だ。これを不服とした団体側は県を提訴。いまも裁判が続いている。
 白川さんはこうした経緯を踏まえ、「公共の場における碑の役割」を提起したいとの思いを作品に込めている。同様に碑の設置に関して揉めていた「長崎原爆投下記念碑」をモチーフにした作品とともに、2015年に発表した。

★撤去が決まったのは前日だった
【写真】白川さん

 「館長決定ですから、企画展に呼ばれている作家としてはしょうがないですよね。最初は学芸員もノリノリだったので、根回しも済んでいるかと思ったんですが……」。
 前橋市内でBuzzFeed Newsの取材に応じた白川さんは、そう淡々と語り始めた。
 そもそも白川さんが作品の撤去を伝えられたのは、開会前日(4月21日)の夕方のことだった。学芸員から 「大変なことになりました」と電話があり、「県が当事者の裁判についての作品だから展示ができない」という説明を受けたという。
 苦肉の策として、作品のキャプションを外したり、経緯を簡単にまとめた動画の上映をやめたりするなどの選択肢を提示した。しかしその日の夜、「館長決定」として、撤去の方針が伝えられたそうだ。

 白川さんは言う。
 「作品には、県の言うような『追悼碑の撤去に反対』というメッセージを込めているわけではありません。公共の彫刻が抱えている課題を伝えたかった」
 自身が「追悼碑」の設立や、訴訟に関わっているわけではない。ニュースで問題を知ったといい、そこからインスピレーションが生まれている。
 「公共彫刻は社会に接して立てられるものです。できごとに対する見る側の記憶を呼び覚ますきっかけになり、それをめぐる闘いも引き起こす。碑がなければ、記憶そのものが『ある』『ない』以前の問題になりますよね」
 「そういう性質を持っているため、公共彫刻は時の政治的な流れで排除される、作り変えられるなどのことは避けては通れない。今回の作品では、公共彫刻がそういった社会の動きと不可分であることを、群馬と長崎の『事件』を通じて提示したかったのです」
 受け手にも、この問題を考えてもらいたい。そんなメッセージを込めていたゆえに、「事件」のあった群馬において展示することにこだわっていたという。

★県が「中立ではない」と判断した理由
【写真】美術館と同じ「群馬の森」にある「記憶、反省、そして友好」の追悼碑 Kota Hatachi / BuzzFeed

 近代美術館側はなぜ、白川さんの作品を「中立ではない」と捉えたのか。
 「県の行政サービスのなかで美術館は運営されている。当事者の一方が県である係争中の事案を表現した作品はふさわしくないと、美術館として判断しました」。
 そうBuzzFeed Newsに語るのは、美術館の稲葉友昭副館長だ。撤去に至った経緯をこう説明する。
 「白川さんの作品は、さまざまなモニュメントが公共の場から無くなっていることを『良いのか?』と問題提起するもの。反語的には追悼碑を撤去するのは『ダメだ』と感じとられる懸念があると考えました」
 「意見が分かれているものについて、一方の側の意見を反映したものだけを展示すると、バランスを欠いていることになってしまいます。その懸念を感じ、訴訟の当事者でもある県の組織として、このような判断となりました」
 しかし、芸術がバランスを欠いていて展示できないというのは、そもそも企画展のテーマである「現代美術の居場所」を否定することにもなるのではないか。
 そう聞くと、稲葉副館長はこう答えた。

 「芸術作品が政治的であることはまったく否定していません。たとえばピカソのゲルニカだって、フランコ政権に反対するという政治性がありますが、それは時間的にも昇華され、戦争の悲惨さを伝えるものになっています」
 「ただ、白川先生の作品は生々しすぎた。いま、県で先鋭的な意見対立が起きている碑を取り上げている。アンタッチャブルな部分に踏み込んだもので、県立の美術館で展示することはできないと判断しました」

★撤去に至るまでの経緯は
【写真】群馬県立近代美術館 Kota Hatachi / BuzzFeed

 では、なぜ開会当日の撤去だったのか。稲葉副館長の説明を時系列にまとめると、下記の通りになる。大きな流れは、白川さんの記憶とも食い違いはない。
 •3月上旬:美術館から白川さんに企画展に複数の作品の展示を依頼
 •3月19日:白川さんからうち一つの作品を「追悼碑」に変更したいと連絡。すでに発表済みだったため、学芸員が許可したが、共有せず
 •4月21日午前:「追悼碑」が設置されていることが発覚
 •4月21日午前:「県が係争中の裁判に関わる作品がふさわしいのか」と館内で議論がはじまる。県に報告、東京にいる岡部昌幸館長(帝京大学教授)を呼び出す
 •4月21日午後5時ごろ:白川さんに連絡。撤去以外の選択肢が提示される
 •4月21日午後9時ごろ:作品撤去が適当と館長が判断。白川さんに連絡
 •4月22日午前9時ごり:白川さんが自ら解体撤去、代替作品の展示はなし
 •4月22日午前9時半〜:開会
 
 白川さんの「追悼碑」は2015年に東京・表参道「消された記憶展」で、2017年2〜3月には鳥取県立博物館で展示されている。
 そのため、学芸員は展示を「問題ない」と判断。それを館内で共有していなかったため、前日まで事態自体に気がつくことができなかった、ということだ。

★県の「忖度」はあったのか?
【写真】「記憶、反省、そして友好」の追悼碑に書かれた文章 kota Hatachi / BuzzFeed

 撤去に至るプロセスで、県文化振興課の担当者からは、「展示するのはまずいのではないか」という「オーダーではない」(稲葉副館長)言葉があったという。
 美術館は、県の上層部の意向を忖度したのではないか。そう問うと、稲葉副館長は「忖度ではありません」とし、館として独立した判断だったと強調した。
 「県立近代美術館で開かれる企画展ですから、我々が主導的な役割と責任を果たさないといけない。今回の作品は、その範囲を超えている」。
 「たとえば、『追悼碑は撤去すべき』という作品があれば、展示全体としてはバランスが取れたと思います。しかし、直前に別の作品を展示するのは難しいことですよね」。

 県はどう見ているのか。県文化振興課の担当係長は、BuzzFeed Newsに経緯をこう説明する。
 「事案があったという連絡を受け、作品を確認し、館側から話を聞きました。大きな問題ですから、うちの方からは部長以下、課長、次長、担当者が美術館に向かい、館側と協議をしましたがあくまで館の判断を支持するという立ち位置です」。
大きな問題、とは?

「同じ敷地内で碑の方が係争中ということが、大きな問題なのです。作家の同意の元で作品撤去をしたという結論に至るプロセスも大事になってくる。何度も繰り返しますが、指示するということはしていません」

★撤去すること自体が「中立ではない」?
【写真】いまも続く訴訟の弁護団。マイクを持つのが下山弁護士 kota Hatachi / BuzzFeed

 「美術館の姿勢には矛盾を感じざるを得ません」。
 そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、碑をめぐる訴訟で市民団体側の弁護団事務局長をつとめる下山順弁護士だ。
 「作品のモチーフになっている碑の撤去は、日本会議に関係する議員の多い県議会が、保守団体の動きに呼応し、県の判断となったもの。圧力に屈したというのが私たちの見方です」
 今回の美術館の動きも、こうした県の判断の延長にあるとみる。
 白川さんとは直接会ったことはなく、ニュースでこの美術館をめぐる問題を知ったという下山弁護士。「中立性」を強調し、作品を撤去した美術館の判断をこう批判した。
 「中立性を保つために碑を公園から排除する、美術館から作品を撤去するという判断自体が矛盾しているのです。撤去すること自体がそもそも政治的で、強烈なメッセージ性があると言えるのですから」

★誰が「中立」を決めるのか
 一方の白川さん本人も、美術館側がこだわった「中立性」について聞くと、こうつぶやいた。
 「そもそも作品が中立であるかどうかを、誰が決めるんでしょうね」。
 その上で、「どんな作品でも展示できるのが美術館の果たすべき役割だ」と指摘した。
 「作品が政治的であったとしても、公の場で公の問題を提示できるような様々な作品を見せられるのが、美術館の役割だと考えています。近代美術館には、それを果たしてもらいたかった」
 「碑を撤去するという県や県議会の方針は決まっている。本来であれば独立性を保ち、美術館の役割を果たす必要があるのですが、どう考えても現実的には忖度したんでしょう」

★置かれた「わたしはわすれない」の旗
【写真】もともと作品があった場所 kota Hatachi / BuzzFeed

 企画展は、6月25日まで続く。白川さんの作品が本来置かれていた場所にはいま、「わたしはわすれない」というのぼり旗が建っている。
 展覧会に展示している別の白川さんの作品に使われている旗だが、撤去後に白川さん自身が置いたものだ。
 「今回の騒動を知っている人が旗を見たときに、ひょっとしたらいろいろ想像してくれるかもしれないと思って、置いたんです。ある人から『恨みがあるんですか』と聞かれたけれどそんなことはありませんよ」
 騒動を知った人たちからは、こうしたすべての動きも含めて「作品」だったのではないか、と聞かれることもある。そういった意図はなかったという。
 再展示や美術館への抗議などは特段、予定していないそうだ。
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戦争法・「日本産業革命遺産」・「日本遺産」

2017年10月27日 | 個人史・地域史・世界史
■戦争法・「日本産業革命遺産」・「日本遺産」■
                                     佐藤正人

 1889年2月11日に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とする「大日本帝國憲法」が発布された(1890年11月29日施行。1947年5月2日まで存続)。
 1946年11月3日に、最悪の侵略犯罪者・戦犯を「日本国の象徴」・「日本国民統合」の象徴とする「日本国憲法」が公布された(1947年5月3日施行)。
 1999年8月13日に、侵略の旗「ヒノマル」、天皇賛歌「キミガヨ」が、国民国家日本の「国旗」、「国歌」とされた。
 2015年7月に、日本の「産業革命遺産」が、ユネスコの「世界文化遺産」に登録された。
 2015年9月30日に、「平和」をかかげる戦争法(「平和安全法制整備法」+「国際平和支援法」)が公布され、2016年3月29日から施行された。
 2015年4月から文化庁は、「日本遺産(Japan Heritage)」の認定を開始し、2016年4月25日に、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」という「旧軍港四市」が共同申請した「ストーリー」を「日本遺産」に認定した(このブログの2017年10月4日の「日政府新认定19件文化遗产 旧日本海军镇守府等获选」をみてください)。
 2017年7月11日に「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」が施行された。

■軍隊・戸籍・徴兵制
 1868年にクーデタによって国家権力を奪取した維新政府は、1869年9月にアイヌモシリを、1872年10月に琉球王国を植民地とした。
 維新政府は、国民国家(「臣民国家」)の形成を急ぎ、1872年2月に陸軍省・海軍省を設置し、同じ年に戸籍を編成し、1873年1月に徴兵令を制定した。戸籍がなければ徴兵制を維持できない。
 1874年に西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入して住民を虐殺し、1875年に日本の小型砲艦「雲揚」が江華島海域に侵入した(1876年に「朝日修好条規」調印・発効)。
 1889年2月に日本政府は「大日本帝國憲法」発布し、日本国民を「臣民」と規定した。
 国民国家日本の軍隊は、ヨーロッパ諸国民国家の軍隊と等しく、他地域他国侵略の機関であった。
 日本政府は、1884年に横須賀鎮守府、1889年に呉鎮守府と佐世保鎮守府、1901年に舞鶴鎮守府、1905年に旅順口鎮守府を設置した。鎮守府は、アジア太平洋各地を侵略する日本海軍の根拠地であった。
 鎮守府は1945年11月に廃止されたが、1954年7月に日本海軍(海上自衛隊)の地方隊として継承され現在に至っている。

■日本海軍 鎮守府 特別陸戦隊
 1939年2月10日に、日本陸海軍が海南島に奇襲上陸した。
日本海軍は海南島を5地域に分割し、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、第15警備隊、第16警備隊の5特別陸戦隊に軍事支配させた(第15警備隊と第16警備隊を構成していたのは呉鎮守府特別陸戦隊)。
 横須賀・呉・佐世保・舞鶴の日本海軍鎮守府の特別陸戦隊は、1939年2月から1945年8月まで、海南島各地の村落・都市を襲撃し、民衆を虐殺し、家を焼き、コメ・家畜・資源を掠奪し続けた。
 残忍で凶悪な侵略犯罪をくりかえしていた横須賀・呉・佐世保・舞鶴の日本海軍鎮守府の日本兵が海南島を去ってから70年あまりのち、日本政府の政府機関は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」という「ストーリー」を「日本遺産」に認定した。

■「日本近代化の躍動」 
 その「ストーリー」の冒頭には、
   「明治期の日本は、近代国家として西欧列強に渡り合うための海防力を備えることが急
   務であった。このため、国家プロジェクトにより天然の良港を四つ選び軍港を築いた。
    静かな農漁村に人と先端技術を集積し、海軍諸機関と共に水道、鉄道などのインフラ
   が急速に整備され、日本の近代化を推し進めた四つの軍港都市が誕生した」、
と書かれていた。
 文化庁の認定の4日前、2016年4月21日に4市の市長が連名で「報道機関関係者」に「旧軍港四市が日本遺産に認定されました!」という文書をだした。そこには、つぎのように書かれていた。
   「★ストーリーの骨子
     ○明治期の日本は、近代国家として海防力を備える必要があったため、国家プロジェ
     クトにより天然の良港4か所に軍港を築き、鎮守府を置いた。
     ○静かな農漁村に人と先端技術が集まり、独自の都市形成の歩みの中で軍港都市が
     誕生し、日本の近代技術が育まれた。
     ○日本の近代化を推し進めた四市には、海軍由来の食文化もまちに浸透し、多種多
     様な数多くの近代化遺産とともに、躍動した往時の姿を体感できる。
    ★今後の対応:日本の近代化の歴史を物語る遺産の活用や環境整備等に四市連携し
    て取り組むとともに、国内外への積極的な情報発信を通じ、まちの賑わい創出,地域活
    性化に取り組みます」。

■「ストーリーを語る文化財」
 旧軍港四市が「ストーリーの構成文化財」として文化庁に申請した「文化財」にはつぎのようなものが含まれている。
 ★呉市:旧呉鎮守府司令長官官舎、旧呉海軍工廠塔時計、旧高烏砲台火薬庫、海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎(旧呉鎮守府庁舎)、長迫公園(旧海軍墓地)、旧呉海軍工廠造船部、旧呉鎮守府兵器部護岸、旧魚雷積載用クレーン、旧呉海軍工廠海軍技手養成所跡と周辺の海軍遺構、高烏砲台跡(兵舎跡)、大空山砲台跡。
 ★横須賀市:米海軍横須賀基地C1建物(旧横須賀鎮守府庁舎)、米海軍横須賀基地C2建物(旧横須賀鎮守府会議所・横須賀海軍艦船部庁舎)、米海軍横須賀基地B39建物(旧横須賀海軍工廠庁舎)、海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎(旧横須賀鎮守府司令長官官舎)、猿島砲台跡(東京湾要塞跡)、兵舎(東京湾第三海堡構造物)、米海軍横須賀基地 ドライドック1〜6号 (旧横須賀製鉄所・造船所・海軍工廠第一〜第六号船渠)。
 ★佐世保市:旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設、旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(佐世保市民文化ホール)、西九州倉庫前畑1号倉庫(旧第五水雷庫)、立神係船池(旧修理艦船繋留場)、旧佐世保要塞砲兵連隊跡(佐世保要塞及び関連施設)、前畑火薬庫、田島岳高射砲台跡(海軍防備隊、警備隊砲台群)、旧佐世保海軍工廠施設群、佐世保鎮守府庁・海兵団関連施設群、佐世保鎮守府関連記念碑群、旧海軍墓地。
      佐世保の「海軍墓地」とそこに1973年9月に建てられた「海南島忠魂碑ついては、
     このブログの2007年2月26日の「日本海軍佐世保鎮守府 1」、2008年6月10日の
     「「口述史」について 12」、2010年9月27日の「証言・記録、そして証言者と聞きと
     る者との関係 13」、2012年2月12日の「広東裁判」・「香港裁判」 14」などをみて
     ください。
 ★舞鶴市:旧舞鶴鎮守府軍需部倉庫、海上自衛隊舞鶴地方総監部会議所(旧舞鶴鎮守府司令長官官舎)、ジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所(旧舞鶴鎮守府海軍工廠)、海上自衛隊舞鶴警備隊正門(旧舞鶴鎮守府西門)、海上自衛隊舞鶴地方総監部大講堂及び海軍記念館収蔵資料(旧海軍機関学校大講堂及び鎮守府関係資料)、海上自衛隊舞鶴地方総監部第一庁舎及び第四術科学校校舎(旧海軍機関学校庁舎及び生徒館)、舞鶴市水道施設桂貯水池(旧舞鶴鎮守府水道施設 桂取水堰堤)、鎮守府周辺の石積護岸、砲兵大隊正門跡(旧舞鶴要塞跡)、旧市長公舎(旧海軍北吸乙号官舎)。

■侵略遺跡 侵略遺産 文化財
 旧軍港4市には、旧呉鎮守府庁舎、旧呉鎮守府司令長官官舎、旧横須賀鎮守府庁舎、旧横須賀鎮守府司令長官官舎をふくむ日本海軍の他地域他国侵略犯罪の跡が遺されている。
 そのなかには、現在、海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎、米海軍横須賀基地C1建物などとして、現在、日本海軍(「海上自衛隊」)、アメリカ合州国海軍の施設として使われているものもある。
 文化庁と旧軍港4市は、日本海軍による他地域他国侵略犯罪をまったく隠して、鎮守府 のあった横須賀・呉・佐世保・舞鶴を「日本近代化の躍動を体感できるまち」を、「日本遺産」・「文化財」としている。横須賀・呉・佐世保・舞鶴は、かつて日本海軍の侵略根拠地(鎮守府)があった「まち」であり、現在日本海軍の基地のある「まち」である(横須賀と佐世保は、アメリカ合州国海軍〈第7艦隊〉の基地のある「まち」でもある)。
 旧軍港4市は、その「まち」を「日本遺産」とするならば、かつて日本海軍4鎮守府がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪にかんする諸事実を可能なかぎり詳細に明らかにしなければならない。

    海南島における4鎮守府の特別陸戦隊の犯罪の一部については、海南島近現代史研究
   会の『会報』、『会誌』、ドキュメンタリー(『海南島月塘村虐殺』)、紀州鉱山の真実を明らか
   にする会の『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』、『写
   真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』、
   『“朝鮮報国隊”』などをみてください。

■「日本産業革命遺産」                        
 2014年1月29日に、日本政府内閣官房(地域活性化統合事務局)は、「明治日本の産業革命遺産」の推薦書をユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産センターに提出した。2015年7 月の世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの「世界文化遺産」に登録された。
 その「明治日本の産業革命遺産」には、「三菱長崎造船所 第三船渠」、「高島炭坑」、「端島炭坑」、「三池炭鉱、三池港」、「官営八幡製鐵所」などの他に、「松下村塾」、「萩城下町」が含まれている。
 産業革命に直接的には関係のない「松下村塾」、「萩城下町」を日本政府が「明治日本の産業革命遺産」に含めていることは、日本政府が侵略イデオロギーを保持し続けていることを示している。
 「松下村塾」は、吉田松陰が教師をしていた「萩城下町」の私塾であった。吉田松陰は、アイヌモシリ・琉球の領土化、朝鮮の植民地化、「満洲」・台湾・「呂宋諸島」(フィリピン)領土化を主張していた。かれのアジア太平洋侵略イデオロギーは、「維新政府」以後、現在にいたるまで日本政府に受けつがれている。

■産業革命 負の遺産
 綿織物工業・製鉄工業・石炭採掘業などにおける技術革新を契機とするイギリスの産業革命は、イギリスの植民地支配を前提としていた。原料収奪地と市場としての植民地がなければ、他地域他国侵略による資本蓄積がなければ、産業革命は起こりえなかった。
 イギリスに続く、西ヨーロッパ諸国、ロシア、アメリカ合州国の産業革命も、日本の産業革命も、他地域他国侵略・植民地支配を前提としていた。
 日本は、19世紀後半のアイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略の過程で、軍備を増強し、産業革命をおこない、「富国強兵」、「殖産興業」を実行し、経済基礎構造を強化した。
 「明治日本の産業革命遺産」には、「三菱長崎造船所 第三船渠」、「高島炭坑」、「端島炭坑(軍艦島)」、「三池炭鉱、三池港」、「官営八幡製鐵所」などが含まれているが、これらの「遺産」の歴史は、朝鮮人強制連行・強制労働の歴史と結びついている。
 日本の鉄道・港湾・道路などの基礎構造を最底辺で建設したのは、植民地民衆であった。
 「日本の産業革命遺産」は、負の「遺産」である。

■国民国家日本の侵略犯罪 侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)
 日本政府は、過去も現在も、国民国家日本の侵略犯罪・国家犯罪の歴史的責任をとろうとせず、謝罪も、賠償も、責任者処罰もおこなっていない。日本政府は、日本の侵略犯罪・国家犯罪にかんする証拠を消去・隠蔽し、事実を抹殺しようとしてきた。
 19世紀後半以後の国民国家日本は他地域他国侵略という国家犯罪を重ねてきた。1945年8月以前も以後も、日本の国家的・社会的・思想的構造は本質的に変わっていない。
 20世紀末以後、日本政府は、過去の侵略犯罪という歴史的事実を認めず、侵略の国家構造を強化する策動をすすめてきた。1999年8月13日に、日本は、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とし、その12日後の8月25日に、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行した。
 2015年7月の日本「産業革命遺産」の「世界文化遺産」登録、2015年9月の戦争法公布、2016年4月の「鎮守府」の「日本遺産」認定、2017年7月の「共謀罪法」施行は、ひとつづきの国民国家日本・日本政府の侵略犯罪である。
                                      2017年10月25日 記
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「ハングル学者、李克魯氏のドイツ語「独立運動出版物」を発見」

2017年10月19日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/28009.html
「The Hankyoreh 」登録 : 2017.07.24 22:07 修正 : 2017.07.25 07:56
■ハングル学者、李克魯氏のドイツ語「独立運動出版物」を発見

 ドイツ留学時代に出した宣言文とパンフレット 
 植民支配・独立運動の現実を欧州に紹介 
 原本入手した収集家がハンギョレに情報提供

【写真】収集家チ・ボラム氏が保有する李克魯関連資料原本。左から『日本帝国主義に対抗した韓国の独立闘争』(1927年)『韓国の独立運動と日本の侵略戦争』(1924年)1923年在独韓国人大会で配布された『韓国に対する日本の暴圧統治』宣言文=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

 ハングル学者で独立運動家でもあった李克魯(イ・グンノ)氏(1893~1978)が、ドイツ留学時代の1920年代に日本帝国主義の蛮行を糾弾し、これに対抗した韓国民族の独立運動を国際社会に知らせるために書いた声明書と出版物の原本が発見された。
 ハンギョレは最近、李克魯氏がドイツ・ベルリンに留学した時期の1923年「在独韓国人大会」で作成・配布した宣言文である『韓国に対する日本の暴圧統治』、1924年に出版した『韓国の独立運動と日本の侵略戦争』(以下『侵略戦争』)、1927年に出版した『日本帝国主義に対抗した韓国の独立闘争』(以下『独立闘争』)の原本を確認した。この資料の存在と内容はすでに知られていたが、原本の発見は今回が初めてだ。この資料は収集家のチ・ボラム氏(32)がドイツの古書店で3~4年にかけて順次入手したもので、ハンギョレは今月11日にパク・ヨンギュ高麗大学韓国史研究所研究教授とともにチ氏に会い、原本であることを確認した。
 李克魯氏は、日帝強制占領期間に独立運動家として活躍したが、解放後の越北行跡のためにこれまでまともに照明を浴びることはなかった。彼は1922~29年にドイツのベルリン大学で政治経済学を学んだが、今回発見された資料は当時彼が欧州で植民支配された韓国の実状を知らせるためにどのような活動を繰り広げたかをよく示している。
 1923年9月、日本で関東大震災を契機に韓国人の大量虐殺が起き、これに怒った在独韓国人は「在独韓国人大会」を開き、日帝の蛮行を糾弾した。この行事を主導した李克魯氏は、宣言文をドイツ語、英語、漢文で作成し配布した。今回公開された原本はドイツ語で作成されたものであり、裏表紙に「Kolu Li」という李克魯氏の署名がはっきり記されている。宣言文は日帝の朝鮮半島植民化過程と大量虐殺の惨状を明らかにして「私たちの苦しい闘争を助け支持するすべての人々に告げる」と訴えている。
 『侵略戦争』と『独立闘争』は、李克魯氏がそれぞれ1924年2月と1927年5月にドイツ語で自費出版し、欧州の各図書館に配布した30ページ余りの薄いパンフレットだ。日本帝国主義が韓国民族を支配している犯罪を告発し、これに対抗した大韓民国臨時政府活動、義烈団の闘争など韓国民族の独立運動を紹介しようとする共通の目的と内容を持っている。これらの資料は、李克魯氏が欧州社会で“ペン”を通した独立運動に孤軍奮闘し、朝鮮半島の現実を綿密に把握していたという事実を物語る。例えば、1927年5月に出版したパンフレットには、天皇暗殺を計画した朴烈(パク・ヨル)が裁判で無期懲役を宣告されたニュース、羅錫疇(ナ・ソクジュ)が東洋拓殖株式会社に爆弾を投げたニュースなど、1926年に起きた“最新”事件が含まれている。
 パク・ヨンギュ研究教授は「李克魯氏がドイツに遺した資料は、日帝強制支配下の韓国の現実を欧州の知識人たちに最初に紹介したという点で意味が大きい。原本が残っていて、これを直接確認できたことは本当に幸い」と評価した。

チェ・ウォンヒョン記者
韓国語原文入力:2017-07-24 15:04
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/804028.html
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「朝鮮人追悼碑訴訟  結審、判決は来年2月 地裁弁論 /群馬」

2017年10月18日 | 個人史・地域史・世界史
https://mainichi.jp/articles/20171012/ddl/k10/040/171000c
『毎日新聞』2017年10月12日 地方版 群馬県
■朝鮮人追悼碑訴訟  結審、判決は来年2月 地裁弁論 /群馬
 県立公園「群馬の森」(高崎市)に建てられている朝鮮人追悼碑の設置許可を県が更新しなかったことに対し、市民団体「追悼碑を守る会」が不許可処分の取り消しを求めた行政訴訟の第16回口頭弁論が11日、前橋地裁(塩田直也裁判長)であり、結審した。判決は来年2月14日。
 訴訟で主な争点となっているのは不許可処分の違法性▽政治的行事の定義--など。
 県側は「追悼碑前で、政治的発言が繰り返され、除幕式や追悼式の内容の一部は設置許可条件の違反となる政治的行事。その結果、追悼碑は存在自体が論争の対象となり、県民の憩いの場としてあるべき施設としてはふさわしくない」などと主張している。
 一方、守る会側は「(県側の主張には)『政治的行事』『政治的発言』の定義がない。どのような発言をすれば『政治的行事』になるのかの基準が読み取れない。不許可処分は裁量権を逸脱乱用したもので違法」と訴えている。
 追悼碑は2004年に「追悼碑を守る会」の前身団体が県の許可を得て建立。「朝鮮人に対し多大の損害と苦痛を与えた事実を記憶にとどめ、過ちを繰り返さない」などと刻まれている。
 14年1月に設置許可期限が切れ、会側が県に更新を申請していた。しかし、過去に碑の前で開かれた集会で、参加者が日本政府に批判的な発言をしたことなどが、「政治的行事を行わない」という設置許可条件に抵触したことを理由に、県は不許可とした。14年11月、会が提訴した。  【西銘研志郎】


http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201710/CK2017101202000187.html
『東京新聞』2017年10月12日 群馬 
■判決は来年2月 朝鮮人犠牲者追悼碑訴訟 地裁で最終弁論
 県立公園「群馬の森」(高崎市)の朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑の前で碑を管理する市民団体が開いた集会で、設置条件に反する政治的発言があったとして県が更新を不許可とし、市民団体が処分の取り消しなどを求めた訴訟の最終口頭弁論が十一日、前橋地裁(塩田直也裁判長)であり、結審した。判決は来年二月十四日の予定。
 訴状などによると、碑は二〇〇四年、県が政治的な行事をしない条件で許可し、市民団体「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会(前橋市)の前身団体が建立。しかし、碑の前で開かれた追悼式で「日本政府は(中略)強制連行の真相究明に誠実に取り組んでおらず(後略)」などの発言があったことを県は政治的と判断し、一四年に設置更新を不許可とした。
 最終口頭弁論で、原告弁護団は「碑文には(県も認めた)労務動員との言葉があり、これは朝鮮人が意思に反して日本に連れられ、労務に服したことは明らかだ」と述べ、発言を政治的と判断したことは不当と主張した。
 これに対し、県側は最終準備書面で「政府は強制連行という表現を使用しておらず、政府見解に反するのは明らかで、独自の主義主張となる」などと反論した。 (菅原洋)


http://www.sankei.com/affairs/news/171012/afr1710120009-n1.html   
http://www.sankei.com/affairs/news/171012/afr1710120009-n2.html
「産経ニュース」 2017.10.12 10:43
■高崎・朝鮮人追悼碑が結審、来年2月に判決 焦点は「政治的発言」の有無 前橋地裁


http://www.asahi.com/area/gunma/articles/MTW20160416101060001.html
「朝日新聞デジタル」2016年04月16日
■記者報告  県立公園の「朝鮮人犠牲者追悼碑」

【写真】碑には日本語、ハングル、英語で「記憶 反省 そして友好」と刻まれている
【写真】木立の中にたたずむ朝鮮人犠牲者追悼碑。周辺には森を散策する人らが訪れている=いずれも高崎市綿貫町

 高崎市の県立公園「群馬の森」に朝鮮人犠牲者追悼碑が建てられ、今年で12年になる。碑の前であった追悼集会での発言が「政治的」で設置許可条件に違反したとして、県は2014年、更新を許可せず管理団体に碑の撤去を求めた。決着は法廷の場に持ち込まれ、双方の主張は平行線をたどっている。20日には第7回口頭弁論が予定されている。碑の存続を願う人と、撤去を求める人。法廷外で当事者に聴いた。

◆存続を「『政治的』の判断、恣意的」
 2014年11月、追悼碑を管理する市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」は、碑の設置許可更新を不許可とした県の処分の取り消しと、許可の更新を求める行政訴訟を前橋地裁に起こした。森野善右衛門さん(87)も原告団に加わった一人だ。
 東北学院大学で実践神学を教え、定年後に前橋へと居を移した。1998年から「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」の一員として活動してきた。碑文の原案の「強制連行」という文言に県が難色を示し「労務動員」と言い換えた。「県立公園という公有地に碑を建てることに意義がある。より多くの人にこの歴史を知ってもらえるからです」
 04年4月、碑の除幕式が行われた。森野さんは「小寺弘之知事(当時)のメッセージが代読され、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)や民団(在日本大韓民国民団)の関係者も並んだ」と思い起こす。
 追悼集会はその後も12年まで毎年、碑の前で行われてきた。参列者も内容も大きな変化はなかったという。自身も06年の集会で「戦争中に強制的に連れてこられた朝鮮人がいた事実を刻むことは大事、アジアに侵略した日本が今もアジアで孤立している」「このような運動を『群馬の森』から始め、広げていこう」と発言した。
 それから8年後、県はこの発言などを「『宗教的・政治的行事および管理を行わない』とする設置許可条件に違反した」と問題視、碑の設置期間更新を不許可とした。
 森野さんは納得できないでいる。04年の除幕式には県の関係者もいたといい、「参列者の発言に『政治的だ』などとする警告はなかったと記憶している」と話す。その上で「県は何を基準に我々の発言が政治的と判断したのか。その論拠が明確に示されず、恣意(し・い)的だ」と指摘している。

◆撤去を「碑を口実に政治活動」
 裁判で原告側は、県が追悼碑の設置期間更新を不許可とした理由の一つに、2012年に、碑の撤去を求める「『右翼団体』『嫌韓団体』などが抗議活動を始めたこと」を挙げている。
 しかし拉致被害者家族を支援する市民団体「救う会・群馬」代表の大野トシ江さん(83)と夫で事務局長の敏雄さん(80)はこの主張に異議を唱える。「私たちは、一般市民の立場から碑の存在に反対している」。同会は14年5月、碑の設置許可取り消しを求める請願を県議会に提出し、同種の2件の請願と共に採択された。
 夫妻は県議会の一般質問を傍聴して追悼碑の存在を知った。その後、インターネットで追悼集会の様子を報じる朝鮮新報の記事などを見つけた。朝鮮総連の幹部の「日本政府は強制連行の真相究明に誠実に取り組んでおらず」「国際的にも例のない不当で非情な差別を続け民族教育を抹殺しようとしている」といった発言などが報じられていた。「追悼集会はしめやかな行事であるはずだ。でもこの記事からはそういう雰囲気は伝わってこない」と敏雄さん。「碑の前で日本政府への批判を繰り返している。碑を口実にした政治活動としか言いようがない」
 夫妻は横田めぐみさんの父滋さん(83)、母早紀江さん(80)と親交が深く、今も連絡を取り合っている。「北朝鮮に対しては多くの日本人が複雑な思いを抱えているのが実情だ。私たちの気持ちにも配慮してほしい」とトシ江さん。
 敏雄さんは、県が一連の発言を「政治的」と判断した姿勢を評価する。「『強制連行』という表現が『労務動員』で決着した。県が言葉に神経質であることは当時からわかっていたはずだ」として、「県有地を借りている立場なのだから、もっと言動に注意を払うべきだ」と指摘する。

◆長崎市「碑文案の再検討要請中」
 長崎市では2014年1月、民団長崎県地方本部が平和公園に韓国人原爆犠牲者慰霊碑の建立を計画し、市に設置許可を申請した。しかし2年余が経過した今も建立には至っていない。
 市によると、日本による強制労働を非難する内容が碑文案にあり、市内外から1千以上の意見が寄せられた。「平和公園に不適切」などとする批判が大半を占め、建立反対の陳情も市議会に提出された。
 市は「被爆者の慰霊という公園の趣旨に合っているか判断したい」とする一方、同本部に碑文の内容の再検討などを求めたが「現在まで回答がないため、建立計画は審査中にとどまっている」と話した。
 奈良県天理市では、1995年に市と市教育委員会が市有地の海軍飛行場跡地に建てた説明板をめぐり、14年2月以降、強制連行などの説明部分に対する抗議が数多く寄せられたという。市は「説明文の中身の検証が必要」として同年4月、説明板を取り外した。
 その後、市の判断を支持する意見や「元に戻すべきだ」とする声も寄せられたが、説明板は今も市役所内で保管されているという。

■朝鮮人犠牲者追悼碑をめぐる動き■
 1995年3月 「戦後50年を問う群馬の市民行動委員会」結成。「朝鮮人の強制連行・強制労働」講演会など開催
 1998年9月 「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」結成
 2001年2月 追悼碑建設用地の提供を求め、県議会に請願書提出
 2001年6月 同請願書、県議会で趣旨採択
 2001年3月 県、碑の設置を許可
 2001年4月 追悼碑除幕式。以後、毎年、碑の前で追悼集会が行われる
 2012年4月 第9回追悼集会。この後、県内外から「碑の前で政治的な活動がなされている」「碑を撤去するべきだ」などの批判が県に寄せられる
 2013年4月 碑の建立に合わせて名称変更した「追悼碑を守る会」、第10回追悼集会を高崎市労使会館に場所を変更して開催
 2012月 守る会、碑の設置許可の更新を申請
 2014年1月 10年の設置許可の更新期限。県、更新を保留
 2014年6月 県議会産経土木常任委員会、碑の設置許可の不更新を求める請願2件を採択、1件を一部採択
 2014年7月 県、設置期間更新を不許可と決定し同会に碑の自主撤去を要請。守る会の「当分の間、碑の前で集会を開かない」などの代替案も退ける
 2014年11月 同会、「更新申請不許可は違法・違憲」として前橋地裁に県を提訴
 2014年12月 県議会産経土木常任委、同会が提出した設置期間更新を求める請願を不採択
 2015年2月 行政訴訟の第1回口頭弁論。県、争う姿勢を示す
 2016年4月 第7回口頭弁論(予定)
         高崎市労使会館で第13回追悼集会(予定)
                                     (馬場由美子)
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「731研究所 朝鮮人被害者家族찾기사업 본격 가동」

2017年10月13日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.iybrb.com/gih_vew.aspx?id=159
『연변일보』 2007-1-30 11:23:54
■731연구소 조선인피해자가족찾기사업 본격 가동
 해당연구일군에 따르면 할빈시사회과학연구원 731연구소가 지난 2년간 준비사업을 거쳐 일전 일본침략군 731부대 《특별이송》조선인 피해자가족찾기사업을 본격적으로 시동했다. 이로써 중국, 한국, 구쏘련, 몽골 등 나라들의 부분 사회단체와 민간인들의 731부대《특별이송》피해자가족찾기활동이 국제적련대성을 이루고 공동협력하는 새로운 발전단계에 들어섰다.
 《특별이송》이란 일본침략군 관동헌병대와 731부대 내부에서 사용한 전문 명사로서 일본침략군 각 헌병대, 헌병분대에서 체포한 항일인원과 반파쑈인사들에 대해 법정심판을 하지 않고 직접 비밀심문을 하고 심문결과를 상급으로 층층이 올려보내 관동군사령부에 보고하여 비준을 얻은 뒤 비밀리에 731부대에 이송하여 인체실험을 한 보존서류를 가리킨다. 그리고 《특별이송》된 사람을 《마루다》라 했다. 현재까지 보존서류에서 《마루다》가운데 생환한 사람이 있다는 기록을 찾아볼수 없다.
 731연구소는 지난 20여년간 731부대죄행에 대한 연구와 죄증수집사업을 간단없이 벌려왔다. 그간 731부대죄행연구전문가인 고 한효선생과 김성민선생은 국내외 수십개 보존서류관, 수백명 관련인원을 찾아다니며 731부대죄행에 관한 자료를 수집하고 일본침략군 제731부대 《특별이송(特别移送)》인 1463명을 찾아냈는데 그중 318명의 성명과 신분이 확실하게 밝혀졌다. 이 318명가운데 조선( 김기수 등 6명), 구쏘련, 몽골 등 나라의 25명 피해자도 포함되여있다.
 근년에 중국, 한국, 일본, 몽골 등 나라들의 일부 사회단체와 민간인들이 피해자의 령혼을 안위하고 피해자가족들의 피해보상을 돕기 위해 《특별이송》피해자가족찾기사업에 나서 선후로 《특별이송》 피해자가족 30여명을 찾았다. 그런데 조선인과 구쏘련, 몽골의 피해자가족은 한명도 찾지 못한 상황이다.
 할빈시과학연구원 731연구소 김성민소장은 《731부대죄행력사가 이미 60여년전의 일로 되고 이 력사를 목격한 사람들이 날로 줄어드는 상황에서 피해자가족을 찾기란 쉬운 일이 아니지만 조금도 등한시할수 없는것이 오늘날 살아있는 우리들이 지켜야 할 량심이고 해야 할 직책이다》고 하면서 앞으로 사회 각계가 조선인피해자가족찾기사업을 힘껏 협조해줄것과 피해자 또는 피해자가정정황에 대해 아는 사람이 있으면 즉시로 련락해줄것을 간절히 희망했다.

                    장경률기자

*《특별이송》명단에 오른 조선인명단
 김기수( 李基洙), 남, 28세, 조선인. 원적:조선 함경북도 신흥군 동흥면( 朝鲜咸镜北道新兴郡东兴面). 1941년 7월 20일 간도성 훈춘현 춘화촌 태마구(间岛省珲春县春化村抬马沟)에서 체포되였음.
 한성진(韩成镇), 남, 30세, 조선인. 원적:조선 함경북도 경성(朝鲜咸镜北道境城). 체포되기전 거주지: 간도성 훈춘현 춘화촌 두황자툰 제2패(间岛省珲春县春化村杜荒子屯第2牌). 농민. 1943년 6월 25일 체포되였음.
 김성서(金圣瑞), 남, 조선인. 원적: 조선 함경북도 길주면(朝鲜咸镜北道吉州面). 체포되기전 거주지: 간도성 훈춘현 진안촌 마적달툰 제8패(间岛省珲春县镇安村马滴达屯第8牌). 1943년 7월 31일 체포되였음.
 고창률(高昌律), 남, 42세, 조선인. 원적: 조선 강원도 회양군 란곡면(朝鲜江源道淮阳郡兰谷面). 체포되기전 거주지:간도성 훈춘가 대동구 제9패(间岛省珲春街大同区第9牌), 음식업에 종사했음. 1941년 7월 25일 체포되였음.
 심덕룡( 沈得龙), 남, 조선인. 1943년 10월 대련 흑석초(大连石礁)에서 대련 헌병대에 체포되여 731부대로 특별이송되였음.
 리청천(李清泉), 남, 조선인. 1944년 7월 할라얼(海拉尔)헌병대로부터 731부대로 특별이송됨.
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「北海道の炭鉱町に朝鮮女性のいる産業慰安所があった」

2017年08月21日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/international/28181.html
「The Hankyoreh 」登録 : 2017.08.14 23:33
■[ルポ]「北海道の炭鉱町に朝鮮女性のいる産業慰安所があった」
 芦別に残る哀しい歴史の痕跡
 丘の上に「慰安所」として使われた建物残る
 住民たち「チマチョゴリを着た4~5人」
 朝鮮人相手の売春に追いやられた現場

 日帝強制動員された朝鮮人労働者
 「地獄の労働」により逃走が続出すると
 三井などの財閥企業が積極介入
 日本全域各地に「慰安所」開設

 植民統治の末端にいた被害女性たち
 どんな経路で来てどこへ行ったのか
 記録もほとんど残っておらず歴史の闇に

【写真】11日、北海道の芦別市に産業慰安所の建物跡が残っている。ポストの後に見える建物が慰安所として使われた建物で、今は民家として使われている=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 「商店の後に小さな家が見えますね。そこが元は産業慰安所でした。今は元の面積の一部だけが残っています」。
 11日、北海道芦別市の郷土博物館である「星の降る里百年記念館」の長谷山隆博館長は、丘の上の小さな家を指さした。今は民家として使われている赤い屋根のの建物が北海道に残る唯一の「産業慰安所」跡だ。
 日本は中日戦争と太平洋戦争時期に炭鉱などに強制動員された朝鮮人労働者が苛酷な労働環境に耐えかねて逃走する事例が続出したため、朝鮮人女性を集めて性売買を強要するいわゆる「産業慰安所」を作った。日本の代表的財閥企業の三井が1992年まで炭鉱を経営した芦別に産業慰安所があったという事実は、村の人々が60年代から証言を通じて少しずつ知らされていたが、ここに連れて来られた女性たちの声や彼女たちの具体的事情はまだ明らかになっていなかった。
 1978年、この地域の高校教師だった杉山四郎氏は炭鉱で働いていた朝鮮人に聞いた話を証言した。1942年から芦別炭鉱で働いていた朝鮮人は杉山氏に「川の向こう側に慰安所があって慰安婦4~5人がいた。全部朝鮮の女たちだった。稼ぎの良い鉱夫には割引券が配られた。稼ぎが良いというのは、月に一度も休まずに働いたという意味だ」と打ち明けた。
 芦別炭鉱の朝鮮人寮があった所は川の下流で、慰安所に行くためには橋を渡って約3キロメートル歩かなければならなかった。朝鮮人労働者が渡った橋は昨年閉鎖されたが、当時の様子そのままにまだ残っている。
 長谷山館長は2003年、芦別炭鉱で働いた日本人の前田ヨシミツ氏から慰安所の存在を再確認した。前田氏は「朝鮮人女性のいる慰安所があった。慰安所のそばには広場があった。もし私が徴兵対象ならば私もそこへ遊びに行ったかもしれない」と証言した。

【写真】11日、北海道芦別市、今は閉鎖された橋が見える。朝鮮人労働者はこの橋を利用して慰安所に行ったとみられる=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 2006年、慰安所の前にあったあさか商店の娘であるアサカシズエ氏からも証言を聞くことができた。「1944年高校生の時、春休みをむかえて家に帰ってみると、家のそばにあった炭鉱独身者用の寮が急に朝鮮料理店(慰安所)になっていた。そこにはチマチョゴリを着た女性4~5人がいた。そのうちの1人が身振り手振りで服の修繕を頼みに来て受けたことがある。1945年3月、高校を卒業して家に帰ってきた時にも慰安所があったが、戦後になって急になくなった」と話した。証言を総合してみれば、芦別炭鉱には1944年頃に産業慰安所が作られ、日本が太平洋戦争で敗戦した後の1945年以後になくなったと見られる。
 産業慰安所は日本政府の黙認または助長の下に企業が業者に依頼して作るケースが一般的だった。産業慰安所は九州、福島、北海道など炭鉱採掘や土木工事が行われた日本全域に作られ、日本の南部など在日朝鮮人が比較的多かった地域では既存の朝鮮料理店を業者が活用するケースが多かった。福島県と茨城県にまたがる常磐炭鉱の労務管理者が「会社が性売買する所を指定した。朝鮮の女性たちが相手した」と回想した記録が残っている。

【写真】11日、北海道芦別市に太平洋戦争後に石炭輸送のために作った橋が見える。橋の下の河川敷で朝鮮人労働者の遺骨発掘作業が2005年に行われた=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社

 北海道では日本企業が積極的に関与した情況が一層明確に明らかになった。「開拓地」であった北海道居住の朝鮮人が在日朝鮮人全体に占める割合は1934年に1.7%に過ぎなかったが、39年「国民徴用令」を通じてこちらに強制徴用された朝鮮人労働者が急増し、42年には4.1%に増えた。企業は朝鮮人男性が急増すると積極的に介入して慰安所を設置し始めた。北海道炭鉱汽船が経営した夕張炭鉱では、企業が業者に慰安所の建物を無償貸与し物資まで配給した。
 長谷山館長は「三井が芦別炭鉱の慰安所に関する記録を持っていたが、なくしたのではないかと思う」と話した。三井は地域の炭鉱会社である芦別炭鉱から1944年に炭鉱を買収し、土地と施設をすべて引き継いだ。  三井の許可なしに慰安所を運営することは不可能だったと見られる。あさか商店のアサカ・シズエ氏も、慰安所の前の建物に三井芦別炭鉱労務管理係の職員が住んでいたと証言した。職員が住んでいた所は慰安所のあった建物から100メートル程度しか離れていなかった。三井芦別炭鉱の労務管理係が慰安所の運営に関与した可能性が高い。朝鮮人寮は今は人の背を越える雑草が生い茂ったところに変わっていた。今、住民のための共同浴湯がでいた町角には当時は派出所があった。警察が朝鮮人労働者がどこに行くかを監視していた。
 芦別炭鉱には1944年6月、朝鮮人1905人と中国人760人、連合軍捕虜609人がいた。朝鮮人労働者は金が稼げるという誘惑に乗って日本に来た人と、1939年「国民徴用令」以後に強制徴用された人々だった。労働は苛酷だった。朝鮮人51人が事故と病気で亡くなった。2012年、日本と韓国の市民団体は河川敷に朝鮮人労働者を埋めた話を聞いたという元炭鉱職員の証言に基づいて発掘調査をしたことがあるが、遺骨は発見できなかった。調査チームは川が氾濫した時に遺骨が流失したものと推定した。
 芦別慰安所の朝鮮女性たちがどんな経路で北海道まで来て、慰安所が閉鎖された後にどこへ行ったのかは分かっていない。チマチョゴリを着て身振り手振りで服の修繕を頼みに来たという点から推測して、朝鮮出身で日本語はほとんどできなかった女性たちと推定できる。遠い北海道の炭鉱で苛酷な労働をした朝鮮人、日本当局が彼らの労働を効率的に絞り取るために動員した朝鮮女性たちは、日本植民統治の最も末端にいる被害者だった。彼らの悲劇は、記録も殆ど残っておらず、ただ薄い痕跡としてこちらに残っている。

芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員
韓国語原文入力:2017-08-14 21:07
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/806783.html
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琉球人遺骨返還へ 63体、台湾大が意向  今帰仁から持ち出し

2017年08月09日 | 個人史・地域史・世界史
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-548960.html
『琉球新報』2017年8月5日 08:30
■琉球人遺骨返還へ 63体、台湾大が意向  今帰仁から持ち出し

【写真】人類学者らが持ち出した遺骨が、いまだ返還されていない百按司墓=今帰仁村

 台湾の国立台湾大学は4日までに、同大学医学院体質人類学研究室で琉球人の遺骨63体を保管していることを明らかにし、沖縄側に返還する意向を示した。台湾と沖縄の研究者らでつくる中華琉球研究学会(石佳音理事長)の質問に回答した。ただ時期や返還先などは示されていないことから、研究者らは台湾大学への働き掛けを続ける方針だ。遺骨は1928~29年、人類学者の金関丈夫氏(1897~1983)らが今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓などから持ち出したものとみられる。
 旧帝国大学の研究者らが持ち出し、返還されていない琉球人遺骨は台湾大学だけでなく京都大学にも保管されていることが、研究者の論文や著書などから明らかになっている。しかし、これまで大学当局が遺骨を保管している事実を明らかにしたことはなく、返還の意向を示すのも初めて。
 中華琉球研究学会は、「琉球民族遺骨返還研究会」代表の松島泰勝龍谷大教授と連携し、遺骨の返還を台湾大学に働き掛けてきた。松島教授によると中華琉球研究学会は琉球人遺骨と共に、台湾先住民の遺骨も返還するよう要求している。研究者の動きに連動し、台湾先住民タイヤル族出身の高金素梅立法院委員(国会議員)も、台湾政府教育省に対して遺骨返還を求めている。
 松島教授は「教育省は国会議員に回答する義務があり、台湾大学も返還の意向を示したと考えられる。近年、アイヌ民族の遺骨返還が進むなど、先住民族の遺骨返還が欧米諸国をはじめとして世界的な潮流になっていることも背景にあるのだろう。ただ実際に返還されるかどうかは不明確で、引き続き働き掛ける必要がある」と話した。
 両団体は今後も連携して旧帝国大学に琉球人、台湾先住民の遺骨返還を求める方針だ。8月中に京都大学に対し、台湾先住民の遺骨保管状況を質問し、返還を求める。(宮城隆尋)
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「アイヌ遺骨 ドイツが返還 138年ぶり日本に」

2017年08月08日 | 個人史・地域史・世界史
http://uhb.jp/news/?id=2395
「北海道ニュースUHB」2017年8月4日12:28
■138年ぶり返還 アイヌ民族遺骨 故郷で慰霊式"イチャルパ"厳かに 北海道
 8月4日、北海道大学構内にあるアイヌの納骨堂で慰霊式が行われ、138年ぶりにドイツから返還された遺骨が、供養されました。
 北海道大学のアイヌ納骨堂には4日午前、北海道アイヌ協会など関係者約140人が集まり、黙とうをささげた後、伝統的な慰霊式「イチャルパ」をとり行い、ドイツから138年ぶりに返還されたアイヌの遺骨を供養しました。
 この遺骨は、1879年にドイツ人旅行者により、札幌市の墓地から盗掘され、7月、外交ルートを通じ、初めて日本に返還されました。
 遺骨は当面、北海道大学の納骨堂に保管され、2020年、新たに開設される北海道白老町の民族共生象徴空間に移される予定です。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170804/k10011087661000.html
「NHK NEWSWEB」2017年8月4日 18時58分
■138年ぶり遺骨返還でアイヌ民族伝統の供養
 明治時代に札幌市で盗掘されたあとドイツに持ち出されていたアイヌ民族の遺骨が138年ぶりに返還されたことを受けて、遺骨が納められた北海道大学の納骨堂でアイヌ民族伝統の儀式による供養が行われました。
 アイヌ民族の遺骨は人類学の研究目的などとして墓から掘り出されて一部は海外にも持ち出されましたが、このうち明治12年に現在の札幌市中心部で盗掘されドイツにわたっていた遺骨1体が、先月末、138年ぶりに日本側に返還されました。
 遺骨は札幌市の北海道大学にある納骨堂に納められ、4日、関係者などおよそ200人が集まり、アイヌ民族伝統の儀式にのっとって供養を行いました。アイヌの人たちが木を削って作った「イナウ」と呼ばれるささげ物や果物などの食べ物を納骨堂の脇に供え、祈りの言葉をささげていました。
 北海道アイヌ協会の阿部一司副理事長は「138年ぶりに遺骨が返還され、私たちも気持ちが高揚しています。今後も国内外の遺骨を持ち出された場所に返還するために取り組みたい」と話していました。


https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/098000c
『毎日新聞』2017年7月31日 21時37分(最終更新 7月31日 22時14分)
■アイヌ遺骨 ドイツが返還 138年ぶり日本に
【ベルリン中西啓介】北海道内で盗掘されドイツで収蔵されていたアイヌ民族の遺骨について、日本政府は7月31日、ベルリンの在独日本大使館で返還式を開いた。収集から138年ぶりに遺骨は日本政府に返還された。国連の「先住民族の権利に関する宣言」に従い、外交ルートを通じた返還が行われるのは初めて。アイヌ民族を代表して出席した、北海道アイヌ協会の加藤忠理事長は「歴史的一ページを画す記念日になった」と述べた。
 式には加藤理事長のほかに、収蔵団体である独民間学術団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」(BGAEU)のアレクサンダー・パショス代表、内閣官房アイヌ総合政策室の平井裕秀室長が出席。返還されたのは、昨年8月の毎日新聞の報道で存在が明らかになったドイツ人旅行者ゲオルク・シュレージンガーが1879(明治12)年に札幌市内の墓地で収集した頭骨。BGAEU創立を主導したベルリン大教授のルドルフ・ウィルヒョウが保管していた。
 パショス代表は「当時の法律に違反するだけでなく、アイヌ(の意向)への配慮がなかった」と述べ、返還経緯を説明。平井室長は「100年以上も遺骨が保管されていたことは遺憾だ」としたうえで、返還決定に謝意を示した。また、第1号返還について「大きな一歩であり、引き続き海外からの返還に向け努力したい」と述べた。
 3者は返還の「証明書」となる覚書に署名。パショス代表から加藤理事長と平井室長に遺骨が入った白い木箱が手渡された。ドイツではBGAEUだけでなく、政府系研究機関もアイヌ遺骨を保管している。加藤理事長は「先住民の人権課題に配慮してもらうことを希望する」と述べ、さらなる返還を要望。首脳レベルの交渉による包括返還なども模索するよう求めた。
 返還された遺骨は、8月2日に札幌市内の北海道大学構内にある「アイヌ納骨堂」に一時的に安置される。同4日には恒例の慰霊式「イチャルパ」が行われる予定で、アイヌ式の慰霊を受けることになる。



http://www.jiji.com/jc/article?k=2017073100761&g=soc
「時事ドットコムニュース」2017/07/31-20:24
■アイヌ遺骨、ドイツから返還=外交ルートで初

【写真】31日、ベルリンの日本大使館で、独学術団体代表からアイヌ民族の遺骨を受け取る北海道アイヌ協会の加藤忠理事長(中央)と内閣官房アイヌ総合政策室の平井裕秀室長(左)(時事)

【ベルリン時事】北海道で盗掘され、ドイツの学術団体で保管されていたアイヌ民族の遺骨の返還が決まり、ベルリンの在独日本大使館で31日、式典が行われた。海外に持ち出されたアイヌ民族の遺骨が外交ルートを通じて返されたのは初めて。
 返還対象は、ドイツ人旅行者が1879年に札幌で収集した頭骨1体。当時の文献などから、この骨が独民間学術団体「ベルリン人類学・民族学・先史学協会」にあることが分かり、「非合法という認識の下、墓から盗まれた」ことも確認されたため、同協会が返還方針を日本政府に示した。
 式典では、同協会のアレクサンダー・パショス代表、内閣官房アイヌ総合政策室の平井裕秀室長、北海道アイヌ協会の加藤忠理事長が返還証明書に署名した。遺骨は北海道大学構内で納骨される。
 パショス代表はあいさつで「(盗掘は)倫理的な一線を越えていた」との認識を表明。加藤理事長は記者団に対し、返還された遺骨について「尊厳と名誉を回復し、北海道の空気と風土に触れさせてあげたい」と述べ、涙を浮かべた。
 19世紀に先住民族の研究が各国で盛んになり、アイヌ民族の遺骨も海外に持ち出された。オーストラリア政府もアイヌ遺骨を返還する意向を表明している。



https://this.kiji.is/264742088488108036?c=39546741839462401
「共同通信」2017/7/31 22:10
■アイヌの遺骨、独から返還
 外交ルート初「歴史的」
【ベルリン共同】ドイツの学術団体が31日、アイヌ民族の遺骨を北海道アイヌ協会に引き渡した。アイヌの遺骨は研究目的で日本から海外に持ち出されたことが判明しているが、内閣官房アイヌ総合政策室によると、外交ルートでの返還は初めて。北海道アイヌ協会の加藤忠理事長は「先住民族アイヌの人間にとって歴史的だ」と強調した。
 ベルリンの日本大使公邸で開かれた返還式で、学術団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」のアレクサンダー・パショス代表は、遺骨が「墓から盗掘された」と説明し「入手方法が非合法で、道徳的な問題があった」と指摘した。


http://www.asahi.com/articles/ASK704Q42K70UHBI00N.html
「朝日新聞デジタル」2017年8月1日00時02分
■アイヌ民族の遺骨、ベルリンで返還式 19世紀に盗掘

【写真】遺骨の受け渡しを行うベルリン人類学民族学先史学協会のアレクサンダー・パショス代表(右)と北海道アイヌ協会の加藤忠理事長(中)=31日、ベルリン、高野弦撮影

 ドイツ国内に保管されていたアイヌ民族の遺骨の返還式が31日、ベルリンの日本大使館であった。海外に持ち出されたアイヌ民族の遺骨が公式に返還されるのは初めて。
 返還されたのは、ドイツの学術団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」が保管していた頭骨1体。1879年、ドイツ人旅行者が盗掘で持ち出したもので、日本政府が引き渡しを求めていた。
 返還式には、同協会のアレクサンダー・パショス代表と加藤忠・北海道アイヌ協会理事長が出席した。加藤理事長は式典で「先住民族アイヌの人権にとって、歴史的な1ページを画す記念日となった」と語った。
 アイヌ民族の遺骨は19世紀後半以降、人類学の研究目的などで海外に持ち出された。ドイツのほか、オーストラリアや英国、米国などに保管されていることが分かっている。日本政府は引き続き、返還の可能性をさぐる方針。(ベルリン=高野弦)


http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170802/k10011084631000.html
「NHK NEWSWEB」2017年8月2日 17時24分
■アイヌ民族の遺骨 138年ぶり北海道に戻る
 明治時代に札幌市で盗掘され、ドイツに持ち出されていたアイヌ民族の遺骨が2日、138年ぶりに北海道に戻りました。
 アイヌ民族の遺骨は19世紀半ばから戦後にかけて研究目的で墓から掘り出されるなどして一部は海外にも持ち出されました。このうちドイツのベルリンにある学術団体が保管していた遺骨1体が先月31日、現地で日本側に返還され、2日午前、北海道アイヌ協会の加藤忠理事長らとともに新千歳空港に到着しました。
 遺骨を保管していたドイツの学術団体の記録では、この遺骨は1879年(明治12年)に現在の札幌市中心部にあった墓から盗掘されて持ち出されたことがわかっていて、北海道に戻るのは138年ぶりとなります。遺骨は盗掘された場所に近い札幌市北区の北海道大学に運ばれ、アイヌ協会の関係者などが見守る中、キャンパス内にあるアイヌ納骨堂に納められました。
 北海道アイヌ協会の加藤理事長は「遺骨が138年もの間、どのように過ごしたかと思うと涙が出るし、申し訳ない気持ちもあるが、ふるさとにもどり喜んでいると感じている。4日にアイヌ民族の伝統的な儀式、イチャルパを丁重にしてあげたい」と話していました。
 また、遺骨の返還に向けて交渉を行った内閣官房アイヌ総合政策室の平井裕秀室長は「遺骨を持ち帰ることができ安どしているとともに、引き続き、海外にある遺骨の調査と返還に努めたい」と述べました。

★動き出した遺骨返還 一方で実態不明な点も
 アイヌ民族の遺骨は明治時代から戦後にかけて研究目的で墓などから収集されました。国が調査を行った結果、全国の大学や博物館などに現在、合わせて1700体以上の遺骨が保管されていることがわかっています。
 遺骨の返還を求める声は各地で挙がっていて、大学を相手に裁判を起こし、返還を実現したケースもあります。国は1700体以上の遺骨について、身元のわかる遺骨は遺族に、掘り出された地域が明らかな遺骨は地域のアイヌ団体に返還し、そのほかの遺骨については、3年後に北海道白老町に完成予定の慰霊施設で保管する方針を示しています。
 一方、北海道大学の研究者の調査では、一部の遺骨が人類学の研究などのため海外にも持ち出され、アメリカやイギリスなどでも保管されていることが確認されています。このうち、オーストラリアの2か所の博物館が保管する遺骨3体についてはことし6月、オーストラリアの駐日大使が北海道アイヌ協会を訪れ、返還の意向を表明しています。
 また、ドイツのベルリンにある学術団体が保管していた遺骨6体のうち1体は、盗掘という「非倫理的な方法で収集が行われた」として今回、日本への返還が実現しました。
 国は海外にある遺骨についても調査し、返還につなげたい考えですが、保管されている遺骨の数などは正確に分かっていない上に、持ち出されたいきさつが分からない遺骨も多く、今後、返還が実際に進むのかどうか注目されます。


https://mainichi.jp/articles/20170720/k00/00m/030/170000c
『毎日新聞』2017年7月20日 07時00分(最終更新 7月20日 12時19分)
■アイヌ民族遺骨
 31日に独で返還式 独学術団体と合意

【写真】ドイツの学者、ルドルフ・ウィルヒョウが描いたアイヌの頭骨のスケッチ(19世紀末の民族学誌のコピー)=ベルリン支局で2016年7月6日午前9時59分、中西啓介撮影

【ベルリン中西啓介】北海道で盗掘されたアイヌ民族の遺骨がドイツで保管されている問題で、日本政府は遺骨を所有する独民間学術団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」(BGAEU)と返還について合意し、31日にベルリンの在独日本大使館で遺骨の返還式を行うことを決めた。複数の関係者が明らかにした。19世紀後半以降、アイヌ民族の遺骨が人類学などの研究対象として海外に持ち出されたが、外交ルートを通じた返還が実現するのは初めて。
 また、日本は2007年に国連で採択された「先住民族の権利に関する宣言」に賛成しているが、返還は宣言に盛り込まれた「先住民族の遺骨返還への努力」を政府が履行した最初の例になる。
 返還されるのは、1879年にドイツ人旅行者ゲオルク・シュレージンガーが札幌のアイヌ墓地から収集した頭骨1体。シュレージンガーは19世紀の民族学誌で「夜の闇に紛れて入手した」と盗掘による収集だったと認めている。遺骨はBGAEU設立を主導したベルリン大教授のルドルフ・ウィルヒョウに研究資料として提供されていた。
 BGAEUは昨年12月の毎日新聞の取材で、遺骨が「不当な手段」で収集された可能性があることを把握。測定や資料照合の結果、今年1月、「倫理的に許されない手段で収集された」と認め、日本政府と返還協議を行う意向を表明。内閣官房アイヌ総合政策室が在独日本大使館を通じ返還協議を進めていた。
 返還式には、北海道アイヌ協会の加藤忠理事長がアイヌ民族を代表して出席。BGAEUのアレクサンダー・パショス代表、日本政府の代表者と共に、返還合意文書に署名する予定だ。ドイツ以外の外国にも複数のアイヌ遺骨が散逸しており、今後返還が実現する場合、今回の政府主催による返還式がひな型になる見通しという。

★138年の歳月を経て「帰国」
【ベルリン中西啓介】北海道から盗み出されドイツへに渡ったアイヌ民族の遺骨が138年の歳月を経て、「帰国」する。海外からの返還「第1号」となる遺骨を巡っては、日本政府と独収蔵団体の間で数カ月にわたる協議が行われた。返還協議で政府が進めた取り組みは、国内外でのアイヌの地位向上に大きく貢献しそうだ。
 独民間学術団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」(BGAEU)が今年1月、返還の意向を表明したことを受け、政府は日本大使館職員をBGAEUに派遣し返還協議に着手する一方、返還後の遺骨の取り扱いなどについて検討を進めた。
 6月の閣議決定で、北海道に完成予定の「アイヌ文化振興施設」の基本方針の中に、遺族への返還を優先し「直ちに返還できない遺骨については施設に集約する」と明文化することになった。人権に配慮し、施設で管理する遺骨を研究対象にしないことも記した。
 海外のアイヌ遺骨を巡っては豪州政府が6月、国内にある3体の返還意向を表明している。ドイツとの返還協議で作られた政治的枠組みや、返還式のあり方は、今後の海外からの遺骨返還を促進することになる。
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「中国必胜,正义无敌——古北口长城抗战遗址寻访记」

2017年08月06日 | 個人史・地域史・世界史
http://news.xinhuanet.com/mil/2017-07/03/c_129645690.htm
「新华网」2017年07月03日 07:33:57 来源: 新华社北京7月2日 记者李斌、赵琬微
■中国必胜,正义无敌——古北口长城抗战遗址寻访记 
  “锁钥凭天险,因山戍垒成。千盘蛇阵势,十里马蹄声。”
  北京东北角,燕山山脉的崇山峻岭间,有一处著名的兵家必争之地——古北口。
  “七七事变”爆发前4年——1933年,面对来犯强敌,中国军队就在这里进行了两个多月的拼死抵抗,谱写了一曲可歌可泣的抗战颂歌……
  全面抗战爆发80周年纪念日到来之际,新华社记者来到位于潮河之畔、长城脚下的千年古镇古北口,实地探访抗战遗址。

★“激战中的激战”
  秀美山川间,长城巍巍伫立……
  “那是一场激战中的激战,战斗持续了两个多月,打破了日本鬼子‘一个星期拿下古北口’的迷梦……”2008年起担任讲解员的古北口村村民刘宪娥说。
  1933年,盘踞在我国东北的日寇侵占热河后一路长驱直入。在喜峰口﹑古北口等地,长城抗战爆发。
  是年3月,北京地区抗战第一枪在古北口打响。这是长城抗战中战时最长、双方投入兵力最多的一场战役。密云区党史办主任郭生河说,先后有4万余名官兵奋勇抗击日寇,伤亡万余人,毙敌数千人,战况极为惨烈。
  沿着崎岖山路,登上古北口附近蟠龙山长城一处制高点——将军楼,极目四眺,群山之间,万里长城绵延不绝,恢弘壮观。80多年前,为争夺这处制高点,敌我双方展开殊死搏斗。
  十米见方、满目疮痍的将军楼保留了80多年前的原貌:一层顶上赫然一个直径一米多宽的炮弹洞,墙上可见大小不一的弹坑;一块斑驳城砖上,留着日寇刻的汉字——“步兵十七联队占领”。
  “当时的长城血流成河,漫山遍野都是尸身。”68岁的村民张玉山说,父辈告诉他,战斗持续两个多月,村里百姓冒着生命危险,将几百具阵亡将士的尸骨收殓,合葬于长城脚下。
  “入土为安,一层芦席,一层遗体……”被百姓称为“肉丘坟”的“古北口战役阵亡将士公墓”2015年8月被列为国家级抗战纪念设施、遗址,公墓大门上是一幅黑色挽联:“大好男儿光争日月,精忠魂魄气壮山河”,横批“铁血精神”。

★“不畏强暴、血战到底,虽败犹荣”
  距离将军楼不远处,一条乡间公路旁,形似帽子的帽山虽然不高,却格外陡峭。
  山脚下,一块白色大理石材质的“古北口长城抗战七勇士纪念碑”耸立,在青山绿水间格外醒目。
  84年前,日寇在此遭到顽强阻击,用飞机和重炮疯狂轰击、以死伤百余人的代价艰难攻克山头,结果发现阻击者竟只有7名战死的中国士兵。
  侵华日军被中国军人忠勇为国、宁死不屈的精神所打动,将遗体埋葬于山前,并在坟前竖起木牌,题字“支那七勇士之墓”。
  “电影《集结号》还约定吹号撤离,这里没有集结号。7个中国士兵凭一挺机枪、几支步枪,勇敢担负起掩护大部队撤退的任务,直至全部壮烈牺牲……”回忆历史,郭生河感慨万千。
  “这些没留下姓名、不清楚籍贯的英雄埋葬在这里,精神万古永存。”刘宪娥说。
  从3月5日中日军队接战,到5月19日密云县城陷落。历时75日的古北口战役中,中国军队不畏强暴、浴血奋战,用鲜血和生命捍卫了民族尊严。

  纪念碑前,一株株鲜艳的秫秸花怒放,生机勃勃……

  “古北口一役,虽以失败告终,但将士们视死如归、血战到底,虽败犹荣!”密云党史办原调研员林振洪说。

★人民必胜!正义必胜!
  提古北口长城抗战,不能不提潮关村惨案。1933年4月,因被中国军队偷袭而恼羞成怒的日寇两次血洗潮河之畔的古北口镇潮关村,全村80户、400多间房,有83人被杀、360间房被烧。这是日寇在北京地区制造的第一起惨案。
  “母亲告诉我,日本兵冲进家里,用刀扎死了祖父母、哥哥,还火烧了房子。”潮关村83岁的刘庆生老人说,当时,日本兵见人就砍,见房就点,男女老少甚至牲畜都不放过,家家户户都有人被杀,只有一些上山逃避的村民幸存。
  哪里有侵略,哪里就有反抗。密云党史办公室编写的《浴血古北口》一书这样记录:抗战期间,当地百姓运送伤员、送饭送水,用牲畜帮助军队运送物资;在县城设立粥棚、急救站为官兵服务。
  1937年全面抗战爆发后,密云人民前赴后继,先后3000多人参加中国共产党领导的抗日武装,7600多名抗日群众献出生命。
  “全面抗战爆发后,北平虽被日寇占领,但中国共产党领导的抗日武装一直战斗在长城内外。1945年,日寇投降,苏联红军和冀东抗日根据地承兴密联合县政府在古北口接受了日军投降。”林振洪说。
  人民必胜!正义必胜!
  “1945年的一天,看到日寇控制的车站、长城上竖起了白旗,我知道我们胜利了!”刘庆生老人说。
  “在武器落后、缺少保障的战争年代,古北口抗战是民族抗战精神的重要体现。”古北口镇党委书记吴显生说。
  落后就要挨打,发展才是硬道理。经过多年努力,如今9000多人的古北口镇已经成为全国首批中国特色小镇、中国历史文化名镇。作为生态涵养区,旅游业已经成为这里的支柱产业。
  古北口长城抗战纪念馆正在修缮,不久后将以崭新面貌再次开放……
  距古北口约60公里外,京沈客运专线正紧锣密鼓地施工。未来几年开通后,包括古北口在内的北京密云,这块光荣的土地,将踏进高铁时代……


http://jp.xinhuanet.com/2017-07/04/c_136415539.htm
「新華網」2017-07-04 10:54:34
■中国は必勝、正義は無敵——古北口長城抗戦遺跡探訪記
 「険しい地形の要塞、山に面した激戦地。幾つもの曲がりくねった山道を十里にわたり馬蹄の音が響く」。北京の北東の角で、燕山山脈の崇山峻嶺に軍事拠点で有名な古北口がある。「七七事変」(「盧溝橋事件」とも言う)が勃発する4年前の1933年、強敵に対抗し、中国軍隊はこの地で2カ月余りにわたって必死の攻防を展開し、悲喜交々の抗戦の歌が綴られた。全面抗戦勃発80周年記念日を前に、新華社記者は潮河之畔、長城の麓にある千年の古都、古北口を訪れ、抗戦の遺跡を現地取材した。


http://www.krzzjn.com/html/49136.html
「抗日战争纪念网」2017-05-09 10:13:17 来源:铁血网
■1933年长城抗战之古北口——血满将军楼
一、前言
  1933年日军以热河省属于伪满洲国为由,诡称恢复满洲治安,全面进犯热河。在日军的强大攻势下,以东北军为主体的中国军队在极短的时间内全面崩溃。原本日军计划首先占领长城各口以切断热河与内地的联系,而后卷击热河省的腹心地区,不料开战仅十多天日军即攻取热河首府承德,战事进展之顺利令日军都始料未及。日军向长城各口的进攻就这样演变成了一场追击战。而在长城各口中,古北口控扼承德——北平大道,中日两军对此都极为重视,日军攻占承德后即以主力迅速扑向古北口方向,而中国方面也将北上应援的中央军主力投入此地。古北口也由此成为了长城抗战中战斗最为激烈的战场。

二、战场地理

【相片】今天的古北口长城

  古北口处于密云平原的最北端,再往北走就是连绵的山地和高原,潮河从北蜿蜒流来,在山脉间切出一个谷地,到了古北口,这个谷地迅速向南呈喇叭状展开成一片大平原,古北口就成了从北方进入这一平原的咽喉要道。古北口隘口南北狭长,左右两山对峙,东侧称为蟠龙山,西侧称为卧虎山。承德至北平的大道也经此隘口沿潮河东岸向南延伸。
  历史上这里就是北方的游牧民族进入南方大平原的重要通道,因此早在北齐时期古北口就修筑了长城以抵御北方游牧部落的侵袭。到了明初,大将徐达沿燕山一线要隘修建长城,古北口长城的选址也是出自这位常胜将军之手。徐达按北齐长城遗址大致走向修建了明长城,到了明朝中后期,戚继光镇守蓟州,又进一步增筑,长城本为土城,戚继光加贴墙砖,还将原北齐长城部分修葺,整个防御体系更为森严。古北口的关门修筑在隘口中间,有水陆两关门,潮河东岸陆路关门也称为铁门关,潮河上的水路关门则称为水门关,但清代已经被洪水冲毁。长城向东西延伸到卧虎、蟠龙两山,东侧蟠龙山一端山势雄伟,最高峰是370高地,再往东则是著名的将军楼,该处视野开阔,控扼险要,在古代就是长城防御的重要指挥阵地,将军楼也由此得名。长城由此再往东延伸就可以到达炮石台、龙王峪口,继续东行就是现代著名的旅游点金山岭、司马台长城。
  从关口向南,沿大道两边,房屋鳞次栉比,这就是古北口的北关。过北关后大道转向东南,就是古北口关城。这个关城位于蟠龙山脚下,建于明洪武十一年,城池随山势上下起伏,全城呈三角形,周4里310步,有东、南、北三门,城墙高5米,陡峭处以山石垒成,平缓处以条石为基,青砖包砌,是明代守军的防御指挥中心。出关城东、南两门就是东关、南关等商住区域。

三、中国军队态势
  1933年的3月10日,古北口战云密布,大战一触即发。热河前线迅速崩溃,完全打乱了中国军队的部署。原驻古北口及密云一带的东北军107师被迫前出到口外的长山峪、曹路口一线阻击。107师表现出色,将日军死顶了两天,为后续部队争取了时间,然而3月9日107师战线被突破,撤退中部队的逐次抵抗也没有成功,日军乘汽车追击穷追猛打,给107师造成巨大损失。该部主力14个小时被日军狂赶数十里,撤入古北口。3月10日晨6点,日军追击部队第32联队相田第3大队赶到古北口外的二里塞,直迫古北口关门。
  而此时,古北口内有中国军队3个师的番号,其中东北军2个师。除了败退下来的107师,112师也已先期到达。该师前身为东北军第12旅,在军中这个师的地位有些不太一般,该师师长张廷枢时年30岁,是东北军耆老原吉林督军张作相的次子,17岁入东北讲武堂,28岁就任中将旅长,跟少帅张学良交情匪浅,因此该师在军中格外受宠,装备待遇都相当不错,吸引了很多人到此谋职,以致很多军官宁可到此候补也不愿去别的部队服役,该师军官大半都是军校科班出身,就连军需、军医都是专门学校毕业的,例如635团团长白毓麟还是东北讲武堂第一期的,而师长张廷枢、参谋长刘墨林、634团团长贺奎等人更是留學日本軍校的毕业生。该部有一些老部队有善战的传统,但自改编成12旅后却很少去战场,阅兵倒是经常参加,所以实战经验缺乏,甚至被同僚戏称为少爷旅。该旅九一八事变时驻扎在锦州,入关后驻守在北平南苑一带。此次热河开战,张作相受命督战热河,112师本来是准备作为张作相的卫队旅经古北口进军承德的,不料承德迅速失陷,原驻古北口和密云的107师被调去长山峪阻击,112师遂接过了古北口正面的防御任务。112师下辖634、635、636三个团,还包括一个山炮连以及自动步枪连,全师人数在7千人左右。
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「アイヌ遺骨追い続け 北海道大返還訴訟原告 小川さん、琉球人遺骨問題にエール」

2017年07月15日 | 個人史・地域史・世界史
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-534585.html
『琉球新報』2017年7月14日 11:47
■アイヌ遺骨追い続け
 北海道大返還訴訟原告 小川さん
 琉球人遺骨問題にエール
 人類学者が戦前から戦後にかけて研究目的で墓を暴くなどして持ち出し、北海道大学などに保管されているアイヌ民族の遺骨の返還を求めた訴訟で原告として闘った小川隆吉さん(81)=札幌市=が、和解成立後も資料の掘り起こしに奔走している。和解を受けてアイヌ遺骨のコタン(集落)への返還が認められつつあるが、実態が解明されていない史実も数多く埋もれているからだという。同様に人類学者が戦前、沖縄から持ち出した琉球人の遺骨の問題についても「(返還に結び付けるには)信念で行動し続けるしかない」と沖縄にエールを送っている。
 和解を受け、北海道大は掘り出されたコタン(集落)がはっきりしている遺骨については返還する方針。昨年7月に浦河町杵臼(きねうす)の墓地で小川さんのおじの遺骨を含む12体が“再埋葬”された。今年8月以降にも複数の地域への返還が予定される。遺骨が掘り出された地域や経緯が特定され、受け皿が整えば今後も返還が進むとみられる。

【写真】日本平和学会で報告する小川隆吉さん=1日、札幌市の北海道大学

 小川さんは1日に北海道大(札幌市)で開かれた日本平和学会の春季研究大会で、北海道大が保管する江別市対雁(ついしかり)の遺骨24体について、北海道開発のために政府により強制移住させられた樺太アイヌの遺骨とみられると報告。図書館などに通い、1965年の「北海タイムス」で児玉作左衛門北海道大名誉教授(当時)らが掘り出したことが記事になっているのを確認した。
 しかし対雁では300人以上の樺太アイヌが亡くなったという記録がある。小川さんは遺骨が掘り出された埋葬地に隣接して北海道電力の建物があることを挙げて「掘り出された24体以外は、敷地内に今も埋められたままになっているはずだ」と訴えている。
 樺太アイヌは1875年に日露両政府によって交わされた樺太千島交換条約に伴い、開拓使庁(明治政府)の指示で841人が北海道の宗谷に移住する。そこからさらに対雁に強制移住させられたが、対雁では和人(アイヌ以外の日本人)が持ち込んだコレラや天然痘が流行し、300人余が命を落としたとされる。
 支配者による強制移住は先住民族から先祖伝来の土地を奪い、生存権を脅かす。国連の先住民族権利宣言(2007年採択)でも禁止されている。国内では政府がアイヌに対して行ったことが明らかになっているほか、沖縄戦終結直後には沖縄各地で米軍が住民を強制的に移住させ、集落をつぶして基地を建設した。
 小川さんは今後も複数地域で遺骨返還が予定されていることに「本当にうれしい」と語りつつも、さらなる返還と埋もれた史実の解明に向けて「まだまだ頑張る」と力こぶを作った。(宮城隆尋)
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