三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

写真集「日本の海南島侵略と抗日反日闘争」を読んで

2007年08月31日 | 写真集
 歴史再考の旅立へ誘われる    足立正生

 この写真集を捲っていくと、1ページ毎に怒りの感情に囚われて行く。
 次いで、茫漠とした何かへの不安感が生じ、それを掬い上げるかのように、開かれたページの写真群が各所に埋もれている「事実」を指し示し始め、一つの方向に向かって不安の広がりを誘っていく。この、怒りとともに生じた不安感。それは、何なのか。
 この写真集の全ては、日本政府・日本軍が「大東亜共栄圏」作戦の名でアジアの各地を侵略占領して人々を虐殺した時代の、太平洋地域に展開すべき日本軍の中枢拠点を海南島に置いた「事実」に結びついたものだ。それは、日本国家と日本人が行った占領し破壊し、失わせた社会と家族、村落経済と文化の屍骸が累積する戦争犯罪の今日的な姿を浮き彫りにしていく。
 写真の群の間に帝国軍の作戦図や実践報告の一部も示されているが、戦争犯罪の明らかな証拠となる部分は政府と自衛隊の隠蔽によって非公開のままだという。怒りの方は、ここで爆発しそうになる。
 そして、怒りに同伴し続けていた不安の中身が徐々に頭を表わし始める。
 いや、その不安感とは、突き詰めて言えば、むしろ写真の群の中で海南島の生存者や目撃者たちが表情と身振りで示す事実や犯罪の「証拠」が、日本国家の隠し通している「報告」(証拠)以上に多くの歴史的な実態を露に指し示し、実は怒っている自分をこそこの物語りの完結へ向けて走り出すように促されていることへの怯えだと気付かされる。写真が物語る事実が不安に落とし込んでいるのである。これほどの挑発があるだろうか。
 そういう意味では、この写真集は、写真による「事実」と歴史認識の再考への旅を促す挑発の書なのである。
 その上、その写真群が、末尾に語られている「証言(ことば)・『場』・『物』・記録」や年表で示す徹底した民衆史観と連なった時、一つの歴史的な事柄、つまり、日本国家と日本人が犯した戦争犯罪の事実は、過去のものではなく、その事実の隠蔽によって、今現在も続いている犯罪行為なのだということを知らされる。そして、不安感のもう一つの実態である、自分もまた日本人としてその犯罪を黙認して加担し続けている現実を突きつけられるのである。
 初めに溢れた怒りの感情と不安感が行動への旅立ちを誘う挑発であったように、海南島だけでなく、近代日本の日本国家と日本人が行ってきたアジアにおける戦争犯罪の全貌を一歩でも突き止めない限り、その旅は終わらないだろうことも分かってしまう。
この写真集が持っている戦争犯罪を見つめる旅への誘いは、中途半端な愛国主義者が護持する偽造神話史観やそれで他を自虐史観だと非難するイデオロギー的なレベルを突き抜けて、事実に照らして歴史を現在に生きかえらせようという決意に連なっているのである。
 従って、この写真集は、事実で歴史を検証し、人々の歴史と現実を照らして語ろうとする者への、実証的な入門書とも言える。
 最後になってしまったが、この写真集の読み方は、冒頭の「序」に極めて穏やかに書かかれている。しかも、末尾には、新たな民衆史観を獲得する為の事実発掘の旅(=運動)を続けるという闘争宣言とともに、まやかしの「戦争の記憶」を語る者たちへ、事実確認を蔑ろにして戦争犯罪を隠蔽する仕掛けに乗じる権力追随者だと警告を発している。私も、その考えに組したいと思う。
 何故なら、現実を形作っている過去と現在の日本の戦争犯罪を暴く行為は、日本国家と帝国軍部に責任を問うだけでなく、それを許している自分に問わなければならい問題だと痛感させられるからである。
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月塘村の追悼碑建立に参加を!

2007年08月10日 | 月塘村
                海南島近現代史研究会からの、月塘村虐殺の犠牲者256人の
               追悼碑建立協力の呼びかけです。 


 海南島月塘村の追悼碑建立基金募金に協力してください

 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具
体的にはほんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行な
どの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明
らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかで
す。
 みどり児や幼児をふくむ人びとを殺傷した日本兵の名や所属部隊名は、隠されたま
まです。

 日本敗戦わずか3か月半前、「沖縄戦」のさなか、1945年5月2日に、万寧市万城鎮
月塘(ユエタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、住
民を虐殺しました。
 月塘村虐殺3年後、1948年に月塘村で生まれた朱振華(ジュ・ジェンホァ)さん
は、成人後、獣医をしながら、村の家を1軒1軒、なんども訪ねて聞きとりをし、一家
が皆殺しされた犠牲者のことをふくめて綿密に「調査」し、日本軍に殺害された村人
256人の名簿をつくりました。
 この名簿は、1945年5月2日未明から4時間ほどの間に、日本兵は、256人もの村人を
殺害したという事実をはっきりと示しています。

 日本軍に襲撃され村民が虐殺された海南島の村々には、村民が自分たちで追悼の碑
を建立しているところもありますが、月塘村にはまだ追悼の碑がありません。
 月塘村のひとびとは、いま、256人の犠牲者1人ひとりの名を刻んだ追悼碑を建立し
ようとしています。
 
 わたしたちは、日本軍の残忍な犯罪事実と日本政府の侵略責任を明らかにするため
にも、月塘村の追悼碑の建立に参加させてもらいたいと思います。
 月塘村で1945年5月2日に虐殺された犠牲者を追悼する碑を建立することに参加させ
てもらう過程で、月塘村のみなさんとともに、日本政府に真相糾明にかんする公開質
問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させ
る運動をすすめていきたいと思います。

 月塘村追悼碑建設基金募金に、協力してください。  一口3000円としたいと思い
ます。

    募金第1期  2007年8月~9月      目標金額 60万円(200口)
    募金第2期  2007年10月~3月     目標金額 70万円(234口)
    募金第3期  2007年5月~12月     目標金額 70万円(234口)

 月塘村追悼碑の除幕は、2008年5月2日、あるいは2009年5月2日を予定しています。

                                2008年8月5日

海南島近現代史研究会                  
  連絡先  大東市中垣内3-1 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
  郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485
  Email:saito@eco.osaka-sandai.ac.jp
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ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 6

2007年08月09日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅵ、月塘村追悼碑
影像:月塘村集会場→月塘の文字
影像:集会場前の樹齢300年余の樹
影像:2007年5月24日会議
テロップ:2007年5月24日
     月塘村集会場で
     月塘村追悼碑建設についての話し合い
ナレーション:
     月塘村では、虐殺された犠牲者を追悼する碑の建設が試みられてきましたが、これま
    で実現していませんでした。
     2007年5月24日、月塘村集会場で、月塘村追悼碑建立について話し合いがおこなわれ
    ました。
影像:月塘村追悼碑建立予定地
テロップ:月塘村追悼碑建立予定地
影像:月塘村追悼碑建立予定地から見る月塘
テロップ:月塘村追悼碑建立予定地から見る月塘
ナレーション:
     1945年5月2日に虐殺された犠牲者を追悼する碑を建立することと、日本政府に月塘村
    虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させることは、つながっ
    ています。
影像:月塘
ナレーション:
     月塘村虐殺の日、午後、突然、空が曇り、雷が鳴り、雨が激しく降り始めたそうです。殺
    されたおおくの村人の血が、雨水とともに、この月塘に流れこんだといいます。

Ⅶ、要求賠償   
影像:朱学平さんと子どもたち
テロップ:2007年5月
影像:クワをかついで月塘の道を去っていく朱学平さんの後姿
テロップ:畑仕事を終えて家に帰る朱学平さん
     2007年5月

                     『海南島月塘村虐殺』  2007年8月
                        構成・シナリオ:佐藤正人
                        編集:佐藤正人 小谷英治 金静美
                        協力:蔡徳佳 朱振華 林彩虹
                        撮影:小谷英治 佐藤正人
                        ナレーション:崔文子
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ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 5

2007年08月08日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で 
影像:佐世保の「海軍墓地」
テロップ:佐世保市内にある「海軍墓地」
影像:「海南島忠魂碑」
テロップ:1974年に建てられた佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の死者の碑
影像:佐世保陸戦隊死亡者の碑(「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」)
テロップ:1983年に建てられた
     約300人の名が書かれている(そのうち10人は沖縄人、55人は台湾人)
影像:「説明石」
     「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。
     この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」
ナレーション:
     月塘村虐殺をおこなったのは、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の
    日本兵たちでした。
     海南島で残酷な侵略犯罪をくりかえしていた日本兵たちは、日本敗戦後、日本に
    戻りました。
     かれらは、日本に帰ってからは、海南島でおこなった犯罪を隠し、責任をとろうと
    しないで、最悪の戦犯ヒロヒトを「象徴」とする日本国で生きつづけました。
影像:六連嶺
影像:六連嶺山麓に建てられている革命烈士記念碑
影像:万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』
テロップ:万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(1995年刊)
ナレーション:
     日本軍は万寧(ワンニン Wanning)県で8000人以上の無辜の民衆を殺害したと書
    かれています。
     万寧北方の六連嶺(リゥリェンリン Liulianling)地域には抗日軍の根拠地があり
    ました。佐世保鎮守府第8特別陸戦隊はその地域の村々を襲撃し、抗日軍を支援した
    として村民を虐殺し、家屋を焼き、村を無人化していきました。

Ⅴ、海南島における日本軍の住民虐殺
影像:瓊海市楽会県波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の追悼碑
テロップ:瓊海市楽会県波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の追悼碑
影像:「五百人碑」
影像:「“三・一”被難公塚」
ナレーション:
     佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、1941年5月13日未明、楽会(ロホ
    ェイLehui)県の波鰲(ボーアォ Boao)村など三つの村を襲って住民を殺し、さらに
    その翌月、6月24日に、楽会県北岸(ベィアンBeian)郷の北岸村と大洋(ダーヤン 
    Dayang)村を襲撃し、数日間に、499人の村人や通行人を惨殺したといいます。いま、
    北岸村に、そのときの犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられています。
     北岸郷の西隣りの楽会県互助(フージュHuzhu)郷でも、多くの人々が佐世保鎮守府
    第8特別陸戦隊の日本兵によって殺されました。大虐殺がおこなわれたのは、日本敗戦
    の4か月まえ、1945年4月12日でした。
     いま、虐殺現場には、追悼碑が建てられています。
     1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、占領下の海南島で、日本軍と日本企
    業によっていのちを奪われた犠牲者のその数も、名前も、ほとんどが明らかになって
    いません。
     海南島各地で住民虐殺を命令し指揮した日本軍将校の名前も、直接住民を虐殺した
    日本兵の名前も、隠されたままです。   
     1944年7月にアメリカ合州国軍がサイパン島を全面占領した後、ヒロヒト・日本政
    府・日本軍は、硫黄島やウルマネシアに大量の軍隊をおくりこみました。それは、ア
    メリカ合州国軍の「本土」上陸をすこしでも遅らせ、天皇制を維持するためでした。
     ウルマネシアでは、10万人の住民が日本軍やアメリカ合州国軍に殺され、約9万
    人の日本軍兵士と、軍夫とされた朝鮮人が死にました。
     月塘村虐殺がおこなわれたのは、沖縄戦のさなかでした。
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ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 4

2007年08月07日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅲ、要求日本国政府賠償請願書・月塘惨案受害者登記表 
影像:朱振華さん
テロップ:朱振華さん(1948年生)
ナレーション:月塘村虐殺3年後、1948年に月塘村で生まれた朱振華(ジュ・ジェンホァ Zhu-
      Zhenhua)さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を1軒1軒、なんども訪ねて聞
      きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしてきました。
       朱振華さんの綿密な「調査」によると、1945年5月2日に日本軍は、村人256人と
      胎児2人を殺しました。
影像:要求日本国政府賠償請願書
ナレーション:1994年4月1日に、月塘村の全村民は、殺された犠牲者256人の名と傷を負いな
      がらも生き残ることができた30人の名を記して、日本国政府に賠償を要求するこ
      とを中華人民共和国外交部に求める文書をだしました。
影像(連続的に):日本軍に襲撃された家の跡(廃墟)と現在の月塘村風景
影像:殺害された日付、1945年農歴3月21日(1945年5月2日)が書かれている墓石
ナレーション:その文書には、こう書かれています。
       
       1945年5月2日(中国農歴乙酉年3月21日)、万寧県万城(ワンチョン Wancheng)
      の日本軍部隊は、理由なくわれわれ月塘村を襲った。罪のない村民286人が殺傷
      された。そのうち、現場で死んだ者およびそのときの傷が治らないで死亡した者は
      256人であり、傷つけられながらも生き残った者のうち、いまも健在な者は18人で
      ある。
       この日、日本軍は、月塘村の家70軒を焼き、多くの牛などの財産を強奪した。
       日本軍は、われわれ月塘村の100以上の家庭から親しい家族を失わせるという
      苦痛をあたえ、われわれ月塘村村民に、ことばでは言い表すことのできない肉体
      的精神的物質的損失をもたらした。
       49年が過ぎたが、われわれ、罪のない被害者に誰も責任をとろうとしていない
      ことに対して、われわれはこころから憤慨し、日本国政府に厳正につぎのことを
      要求する。
           1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
           2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
           3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
           4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
        日本軍がひき起こした月塘村虐殺にかんするわれわれ月塘村村民の要求に対し
       て、日本国政府が具体的に回答することを希望する。そうしないことによって生
       ずるいっさいの問題の責任は、すべて日本国政府が負わなければならない。

影像:月塘惨案受害者登記表   頁を開いていく。「一屍二命」という文字や幼児の名をアップ
テロップ:要求日本国政府賠償請願書に付けられている
影像:現在の月塘村の子どもたち
影像:廃墟
ナレーション:
       ここには、256人の犠牲者と30人の「幸存者」の名が記されています。
       1945年5月2日の朝、まだ暗いうちに月塘村を襲った日本海軍海南警備府佐世保鎮
      守府第8特別陸戦隊の日本兵たちは、わずか4時間ほどの間に、1歳の幼児1人、2歳
      の幼児6人、3歳の幼児7人、4歳の幼児4人、5歳の幼児3人、6歳の少年・少女4人、
      7歳の少年・少女2人、8歳の少年・少女5人、9歳の少年・少女5人、10歳の少年・少
      女9人をふくむ村民256人を殺しました。
       朱開洪(ジュ・カイホン Zhu-Kaihong)さんの妻で19歳だった女性と朱鴻周
      (ジュ・ホンジョウ Zhu-Hongzhou)さんの妻で25歳だった女性は、妊娠してお
      り、胎児も殺されました。「一屍二命」(一体のしかばねに二つのいのち)と書
      かれています。
       朱学雲(ジュ・シュェユン Zhu-Xueyun)さんの家では、1家9人のうち、父、
      妻、娘、弟、弟の妻、妹、姪の7人が殺されました。父朱開世(ジュ・カイシー
      Zhu-Kaishi)さんは52歳、妻は24歳、娘の朱亜燕(ジュ・ヤーイェンZhu-Yayan)さ
      んは5歳、弟の朱学琨(ジュ・シュェクン Zhu-Xuekun)さんは26歳、弟の妻は
      24歳、妹の朱和妹(ジュ・ホーメイ Zhu-Hemei)さんは3歳、姪の朱亜妹(ジュ・
      ヤーメイ Zhu-Yamei)さんも3歳でした。生き残ったのは朱学雲さんと母親だけで
      した。朱学雲さんはあまりの悲しさにこころを病み、まもなく亡くなったそうです。

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ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 3

2007年08月06日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
映像:朱進春さん
テロップ:朱進春さん(1937年生)
ナレーション:朱進春(ジュ・ジンチュン Zhu-Jinchun)さんは、日本刀で8か所傷つけられました
      が、生き残ることができました。
       朱進春さんは、月塘村虐殺の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、言っ
      ています。

映像:朱学超さん
テロップ:朱学超さん(当時3か月)
ナレーション:朱学超(ジュ・シュェチャォ Zhu-Xuechao)さんは、下腹部を刺され、睾丸をひと
      つ切り取られたそうです。朱学超さんは、そのとき、祖父の朱鴻里(ジュ・ホンリ 
      Zhu-Hongli)さん、父の朱開輝(ジュ・カイホェイ Zhu-Kaihui)さん、兄の朱学金
      (ジュ・シュェジン Zhu-Xuejin)さん、姉の朱桂二(ジュ・グォェイアル Zhu-Guier)
      さんと朱桂三(ジュ・グォェイサン Zhu-Guisan)さんを失いました。祖父は67歳、父
      は44歳、兄は8歳、姉は5歳と3歳だったそうです。

映像:朱秀容さん
テロップ:祖母と3番目の伯母が殺された家の跡で話す朱秀容さん(1936年生)
ナレーション:
  朱秀容(ジュ・シュゥロン Zhu-Xiurong)さんは、
    「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃をつ
    きつけて並ばせ、お辞儀をさせた。日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。3番目の伯
    母が殺される瞬間、わたしは逃げた。隣りの家との間の細い隙間をとおりぬけて走った。
     こわくて、どこまでも逃げた。
     山に入りしばらく家に戻らなかった。食べるものも着るものもなかった。あのころ、万寧一
    帯は大飢饉だった。飢え死にした人がたくさんいた。
     まもなく日本軍が負けて海南島からいなくなったが、そのとき日本軍を殺す機会がなくな
    ったことが悔しかった。
     日本兵を恨みつづけてきた」
  と話しました。

影像:朱開琨さん
テロップ:朱開琨さん(1935年生)
     ここで5人殺された
影像:傷跡を示す朱開琨さん

影像:朱五弟さん
テロップ:朱五弟さん(1937年生)
影像:朱開琨さんと朱五弟さん
テロップ:子どもの時、ここでよくいっしょに遊んだ

影像:李玉菊さん
テロップ:李玉菊さん(1933年生)
テロップ:あの家の中で、父と母が殺された
     父の李家勝は56歳、母は55歳だった
影像:傷跡を李玉菊示すさん
影像:当時の家の敷居

影像:李金治さん
テロップ:李金治さん(1938年生)
影像:傷跡を示す李金治さん

影像:李建栄さん
テロップ:李建栄さん(1938年生)
ナレーション:李建栄(リ・ジェンロン Li-Jianrong)さんは、当時6歳でしたが、父親を日本刀で切
      り殺した日本兵の顔を覚えているといいます。その日本兵は唇のうえに髭をはやしてい
      たそうです。「お父さんを殺すな」と叫んだ小さな李建栄さんは、日本兵に切りつけら
      れ、父親のそばに倒れこんで気を失ったそうです。4日後、重傷を負わされた父親の李
      家昌(リ・ジァチャンLi-Jiachang)さんは亡くなりました。
影像:傷跡を示す李建栄さん

影像:李家和さん
テロップ:李家和さん(1930年生)
影像:傷跡を示す李家和さん
   日本兵に何度も日本刀で切りつけられた
影像:日本兵が侵入してきた道を指さす李家和さん
テロップ:「日本兵は、この道から来た」
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海南島近現代史研究会創立集会議事

2007年08月05日 | 海南島近現代史研究会
きょう8月5日の海南島近現代史研究会創立集会の議事はつぎのとおりです。

1 開会                               午後1時30分
2 海南島近現代史研究会創立にいたる経過報告      午後1時35分
3 創立集会へのメーセージ                   午後1時50分
4 会則(案)、討議                          午後2時
  会則、決定
5 海南島近現代史研究会の活動計画・年間計画      午後2時30分
                 提案と討論
  休憩                                午後3時
6 ドキュメンタリー『月塘村惨案』日本語試写         午後3時10分
                 感想と批判
7 月塘村追悼碑の建立基金協力について           午後4時
8 日本政府にたいする海南島侵略犯罪真相究明要求    午後4時20分
9 「朝鮮村虐殺」真相究明のための「朝鮮村発掘」について  午後4時40分
10 自由討論                              午後5時
11 閉会                                午後5時30分
                              懇親会 午後6時30分まで

   場所は、大阪産業大学梅田サテライト・レクチャーA教室(大阪駅前第三ビル19階)です。
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海南島近現代史研究会創立集会へのメッセージ 4

2007年08月04日 | 海南島近現代史研究会
 “海南島近現代史研究会”創立大会が8月5日に大阪に開かれることを聞き、わたしは、海南大学図書館を代表して、研究会のみなさんに、心からのお祝いの気持ちを述べたいと思います。
 第二次世界大戦のとき、日本軍は海南島を7年に近い間軍事占領し、海南島の各種の自然資源を大規模に掠奪し、海南人民に深刻な災難をもたらしました。これは誰も忘れることができない歴史です!
 1998年以来、“紀州鉱山の真実を明らかにする会”のみなさんは、前後して何度も海南島に来て、第二次世界大戦期に日本軍が海南島で犯したさまざまな犯罪行為を実地に調査し、豊かな成果を取得したことは、たいへん喜ばしいことです。きょう、“海南島近現代史研究会”が成立することは、必ず日本学界におけるこの領域の研究を促進させるので、意味深いとことです。このことを、わたしたちは心から喜ぶとともに鼓舞される思いをもちます。
 さまざまな原因によって、中国学界は、日本軍の海南島侵略期の歴史をいまだ全面的に深く研究し、充分な調査をおこなっていません。最近、海南大学図書館は、海南地方文献研究センターに依拠して海南地域の文献を探索し整理するとともに、日本の海南島侵略期の歴史資料と歴史事実の調査研究を開始し、いくらかの成果を得ました。今後、わたしたちは、貴研究会をはじめとする日本の研究者との交流をさらに強め、共同で日本軍の海南島侵略の歴史事実を明らかにし、おおくの青年にさらに歴史の真相を理解してもらい、歴史の悲劇を再びくりかえすことのないようにしたいと思います。
 最後に、“海南島近現代史研究会”のみなさんが大きな成果をあげられることを祈ります。わたしたちの友人の健康と幸福を!              海南大学図書館館長 長智
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海南島近現代史研究会創立集会へのメッセージ 3

2007年08月03日 | 海南島近現代史研究会
傷跡・土地痕跡(海南島近現代史研究会創立集会に寄せるメッセージとして)

 人の体には、様々な傷跡がある。その人がたどって来た歩みの過程において、避け難く記されてきたものである。私の体にも、様々な傷がある。その傷を見る度に、傷を負った時の忘れがたい思い出・痛みが甦る。右の手首の火傷の跡は、右の足首にある7針縫った傷跡は、などなど。
 人が暮らす土地にも、それぞれ土地の痕跡が残されている。昔の痕跡は、今まで<遺跡>と呼ばれてきた。今や<遺跡>は、大昔の事とは限らない。人間が残したあらゆる痕跡が<遺跡>なのである。そうした痕跡が残されるに至った経緯についても、様々な原因と経過がある。ある痕跡は、その土地に住む人々にとって誇るべきものであり、他の痕跡は忌むべき物であるという場合もある。その土地に住む人々が協力して、その土地で暮らしていくために必要不可欠なものとして作り上げた痕跡もあれば、呼んでもいないのに圧倒的な力を背景に有無を言わさず無理矢理作らされた痕跡もある。
 私たちは、そうした傷跡を身に帯びて生きている。
 私たちは、そうした土地痕跡の上で暮らしている。
 地中に残されたあるいは一部が地上に現われている様々な痕跡が、どのような経緯で、誰によって、何時、何のために、どのようにして残されたのか。今は地中に埋没して見えない痕跡を、発掘という作業を通じてこうした疑問を明らかにするのが、考古学という学問の役割である。
 発掘作業は、一人ではできない。多くの人の協力を得て、煩雑な準備作業を経て、ようやく地中に埋もれた痕跡に陽の光が当てられる。予想していたものが出てくるとは限らない。掘らなければ判らないことの方が、圧倒的に多い。掘って判ることよりも、掘っても判らないことの方が多いことがしばしばである。
 何を明らかにしたいのか。何のために明らかにするのか。誰のために明らかにするのか。
 海南島には、日本人によって残された様々な痕跡が、未だに人知れず地中に眠っている。それぞれが胸の痛くなるような経緯を持っている。それらを一つでも多く少しでも詳しく明らかにすることが必要である。
 土地の痕跡が呼び起こす痛みは、その土地に住む人々と外から来た人々では、全く異なるだろう。体や土地に一度記された傷跡や痕跡を、完全に元に戻すことは出来ない。私たちに出来ることは傷跡を通じて、傷跡が記された事柄を正面から見据えることである。
海南島近現代史研究会のこれからに、期待する所以である。             五十嵐彰
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海南島近現代史研究会創立集会へのメッセージ 2

2007年08月02日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会創立をお祝いします。
 歴史歪曲のもっともかんたんな方法は、歴史的事実それ自体を歴史から消してしまうことです。海南島といえば、韓国では、だれも知らない島です。いわんや、日帝時代、そこで韓国の若い青年たちが、朝鮮報国隊という美名のもとに、強制連行され、日本軍に殺されたという事実はだれが知っているでしょうか。しかし、隠された現代史が今般、紀州鉱山の真実を明らかにする会によって明らかにされました。
 わたしは、強制連行された朝鮮人青年たちが列車に乗せられ、日本の大阪駅で降りる光景を直接目撃した証人のひとりです。あのはるか遠い海南島まで連行されて死んだ青年たちを思えば、涙が自然に出てきます。日帝が残した侵略犯罪を、われわれ後の世代が発見し、告発できなかったという事実をはずかしく考えます。いま、植民統治はなくなったが、新たな植民統治がいすわり、日帝植民史観もまた生き残り、幽霊のように世界史を歪曲し、人類の未来を誤導しています。この幽霊とたたかい、勝つものだけが、まことの歴史の勝者でしょう。
 海南島近現代史研究会は、かならず歴史の勝者となるでしょう。そのような日が近づいてくることを、こころから望んでやみません。            韓國學中央研究院名譽授 朴成壽
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