歴史再考の旅立へ誘われる 足立正生
この写真集を捲っていくと、1ページ毎に怒りの感情に囚われて行く。
次いで、茫漠とした何かへの不安感が生じ、それを掬い上げるかのように、開かれたページの写真群が各所に埋もれている「事実」を指し示し始め、一つの方向に向かって不安の広がりを誘っていく。この、怒りとともに生じた不安感。それは、何なのか。
この写真集の全ては、日本政府・日本軍が「大東亜共栄圏」作戦の名でアジアの各地を侵略占領して人々を虐殺した時代の、太平洋地域に展開すべき日本軍の中枢拠点を海南島に置いた「事実」に結びついたものだ。それは、日本国家と日本人が行った占領し破壊し、失わせた社会と家族、村落経済と文化の屍骸が累積する戦争犯罪の今日的な姿を浮き彫りにしていく。
写真の群の間に帝国軍の作戦図や実践報告の一部も示されているが、戦争犯罪の明らかな証拠となる部分は政府と自衛隊の隠蔽によって非公開のままだという。怒りの方は、ここで爆発しそうになる。
そして、怒りに同伴し続けていた不安の中身が徐々に頭を表わし始める。
いや、その不安感とは、突き詰めて言えば、むしろ写真の群の中で海南島の生存者や目撃者たちが表情と身振りで示す事実や犯罪の「証拠」が、日本国家の隠し通している「報告」(証拠)以上に多くの歴史的な実態を露に指し示し、実は怒っている自分をこそこの物語りの完結へ向けて走り出すように促されていることへの怯えだと気付かされる。写真が物語る事実が不安に落とし込んでいるのである。これほどの挑発があるだろうか。
そういう意味では、この写真集は、写真による「事実」と歴史認識の再考への旅を促す挑発の書なのである。
その上、その写真群が、末尾に語られている「証言(ことば)・『場』・『物』・記録」や年表で示す徹底した民衆史観と連なった時、一つの歴史的な事柄、つまり、日本国家と日本人が犯した戦争犯罪の事実は、過去のものではなく、その事実の隠蔽によって、今現在も続いている犯罪行為なのだということを知らされる。そして、不安感のもう一つの実態である、自分もまた日本人としてその犯罪を黙認して加担し続けている現実を突きつけられるのである。
初めに溢れた怒りの感情と不安感が行動への旅立ちを誘う挑発であったように、海南島だけでなく、近代日本の日本国家と日本人が行ってきたアジアにおける戦争犯罪の全貌を一歩でも突き止めない限り、その旅は終わらないだろうことも分かってしまう。
この写真集が持っている戦争犯罪を見つめる旅への誘いは、中途半端な愛国主義者が護持する偽造神話史観やそれで他を自虐史観だと非難するイデオロギー的なレベルを突き抜けて、事実に照らして歴史を現在に生きかえらせようという決意に連なっているのである。
従って、この写真集は、事実で歴史を検証し、人々の歴史と現実を照らして語ろうとする者への、実証的な入門書とも言える。
最後になってしまったが、この写真集の読み方は、冒頭の「序」に極めて穏やかに書かかれている。しかも、末尾には、新たな民衆史観を獲得する為の事実発掘の旅(=運動)を続けるという闘争宣言とともに、まやかしの「戦争の記憶」を語る者たちへ、事実確認を蔑ろにして戦争犯罪を隠蔽する仕掛けに乗じる権力追随者だと警告を発している。私も、その考えに組したいと思う。
何故なら、現実を形作っている過去と現在の日本の戦争犯罪を暴く行為は、日本国家と帝国軍部に責任を問うだけでなく、それを許している自分に問わなければならい問題だと痛感させられるからである。
この写真集を捲っていくと、1ページ毎に怒りの感情に囚われて行く。
次いで、茫漠とした何かへの不安感が生じ、それを掬い上げるかのように、開かれたページの写真群が各所に埋もれている「事実」を指し示し始め、一つの方向に向かって不安の広がりを誘っていく。この、怒りとともに生じた不安感。それは、何なのか。
この写真集の全ては、日本政府・日本軍が「大東亜共栄圏」作戦の名でアジアの各地を侵略占領して人々を虐殺した時代の、太平洋地域に展開すべき日本軍の中枢拠点を海南島に置いた「事実」に結びついたものだ。それは、日本国家と日本人が行った占領し破壊し、失わせた社会と家族、村落経済と文化の屍骸が累積する戦争犯罪の今日的な姿を浮き彫りにしていく。
写真の群の間に帝国軍の作戦図や実践報告の一部も示されているが、戦争犯罪の明らかな証拠となる部分は政府と自衛隊の隠蔽によって非公開のままだという。怒りの方は、ここで爆発しそうになる。
そして、怒りに同伴し続けていた不安の中身が徐々に頭を表わし始める。
いや、その不安感とは、突き詰めて言えば、むしろ写真の群の中で海南島の生存者や目撃者たちが表情と身振りで示す事実や犯罪の「証拠」が、日本国家の隠し通している「報告」(証拠)以上に多くの歴史的な実態を露に指し示し、実は怒っている自分をこそこの物語りの完結へ向けて走り出すように促されていることへの怯えだと気付かされる。写真が物語る事実が不安に落とし込んでいるのである。これほどの挑発があるだろうか。
そういう意味では、この写真集は、写真による「事実」と歴史認識の再考への旅を促す挑発の書なのである。
その上、その写真群が、末尾に語られている「証言(ことば)・『場』・『物』・記録」や年表で示す徹底した民衆史観と連なった時、一つの歴史的な事柄、つまり、日本国家と日本人が犯した戦争犯罪の事実は、過去のものではなく、その事実の隠蔽によって、今現在も続いている犯罪行為なのだということを知らされる。そして、不安感のもう一つの実態である、自分もまた日本人としてその犯罪を黙認して加担し続けている現実を突きつけられるのである。
初めに溢れた怒りの感情と不安感が行動への旅立ちを誘う挑発であったように、海南島だけでなく、近代日本の日本国家と日本人が行ってきたアジアにおける戦争犯罪の全貌を一歩でも突き止めない限り、その旅は終わらないだろうことも分かってしまう。
この写真集が持っている戦争犯罪を見つめる旅への誘いは、中途半端な愛国主義者が護持する偽造神話史観やそれで他を自虐史観だと非難するイデオロギー的なレベルを突き抜けて、事実に照らして歴史を現在に生きかえらせようという決意に連なっているのである。
従って、この写真集は、事実で歴史を検証し、人々の歴史と現実を照らして語ろうとする者への、実証的な入門書とも言える。
最後になってしまったが、この写真集の読み方は、冒頭の「序」に極めて穏やかに書かかれている。しかも、末尾には、新たな民衆史観を獲得する為の事実発掘の旅(=運動)を続けるという闘争宣言とともに、まやかしの「戦争の記憶」を語る者たちへ、事実確認を蔑ろにして戦争犯罪を隠蔽する仕掛けに乗じる権力追随者だと警告を発している。私も、その考えに組したいと思う。
何故なら、現実を形作っている過去と現在の日本の戦争犯罪を暴く行為は、日本国家と帝国軍部に責任を問うだけでなく、それを許している自分に問わなければならい問題だと痛感させられるからである。