三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の領土と「周辺」 12

2012年09月30日 | 個人史・地域史・世界史
■(二) 帝国主義国の領土拡大と殺戮
 15世紀末のコロンブスのアメリカ到着以後、西ヨーロッパの白人は、南北アメリカでインディヘナ虐殺、資源掠奪、破壊をくりかえした。16世紀から数世紀にわたって、アフリカ大陸からアメリカ大陸に多くの民衆が奴隷として強制連行された。1700年代中期からアリューシャン・アラスカ地域に侵入したロシア人は、アレウト人を虐殺し、その大地を奪った。アメリカ大陸各地の鉱山では、インディヘナが強制労働させられ、多くの人が生命を失なわされた。
 この西ヨーロッパ白人とロシア人による侵略・虐殺の時代に続く、19世紀から20世紀前半までの国民国家の領土・植民地拡大の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であった【註1】。
 その歴史のなかで、侵略された地域・国家の民衆が、殺され、傷つけられ、家を焼かれ、穀物や家畜を奪われた。タスマニア島では、その地に住む先住民族が、侵入してきた白人によって狩猟労働と生活の場(森林・草原)を破壊され、白人が持込んだ病原菌によって病死し、さらには虐殺された。白人の人類学者らは、タスマニア島の先住民族の遺骨を墓地から盗み、「絶滅した人種」の標本としてヨーロッパ各地の博物館などに売却した【註2】。イスパニョーラ島西部では、先住のインディヘナのほとんどすべてが死に、その地は、アフリカから強制連行された黒人の国家(ハイチ。1804年「独立」)となった。

 19世紀後半以後、ヤマト民族(和人)は日本の「周辺」を侵略し、領土・植民地を拡大し、その過程で、日本国民と日本語を形成してきた。国民国家の他地域・他国侵略には、国民的同意が必要である。国民的同意の形成過程は、国民の形成過程でもあった。
 国民国家の発展、資本主義体制・帝国主義体制の強化の精神は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する精神・思想であった。この精神・思想を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。国民国家日本においてはこの精神・思想の根幹は、天皇制であった【註3】。
 天皇(制)に統合された日本国民(天皇の「臣民」)は、領土拡大を喜び、さらなる領土拡大を望んだ。
 領土拡大のためには、国民国家の国民は先住民族を抑圧し、しばしば殺戮をおこなう。国民国家の「発展」は、先住民族虐殺を肯定するイデオロギー装置が必要であった。アイヌモシリに侵入したヤマト民族は、アイヌモシリの自然を破壊し、アイヌ民族の生活と労働の場を荒らし、病原菌をもちこみ、コタンを衰退させ、鹿猟や鮭漁を禁止して生活を成り立たなくさせた。アイヌ民族の人口は、激減した。
 日本政府は、アイヌ民族からアイヌ語を奪い、名前を日本式に変えさせ、アイヌ民族の伝統的な儀礼・習俗・芸能を変質・解体させ、日本に「同化」させようとしてきた。
 だが、アイヌ民族は、アイヌモシリを日本領とすることに同意したことはなかった。アイヌ民族は、自由意志でみずからの名前を日本式に変えたのではなかった。アイヌ民族は、アイヌ語を自らの意志で日常生活で使わなくなったのではなかった。
 アイヌモシリと琉球でやったことを、日本国民は、台湾でも朝鮮でも「南洋群島」でもおこなった。もし、日本国民に他地域・他国民衆に対する共感があれば、国民国家日本は、他地域・他国侵略・植民地支配をできなかっただろう。
 だが、日本国家の他地域・他国侵略によって経済的・政治的・社会的に恩恵をうけ、侵略・資源掠奪・領土拡大による利益を拒否できない日本国民は、侵略・資源掠奪・領土拡大・民衆虐殺を恥じる人間的モラルを喪失していった。恥を知ることができず、侵略を合理化する思想・感性の根源は、天皇(制)であった。

 フランスとの戦争に勝利したプロイセンが、22個の君主国と3個の「自由市」を統一して1871年に形成した国民国家ドイツは、アフリカ・アジア・太平洋の諸地域・諸国を侵略して領土・植民地を拡大した。1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツの領土とされていた)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ軍は、ジェノサイドをおこなった。このときヘレロ民族の8割が死亡したという。その翌年1905年にタンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の時にも、ドイツ軍は1907年までに10万人を越える民衆を虐殺した。国民国家ドイツは、第2次世界戦争時のユダヤ人虐殺に関しては国家として謝罪しているが、アフリカ・アジア・太平洋でおこなった歴史的犯罪の歴史的事実をいまなお明らかにしようとせず、ナミビアやタンガニイカの民衆に対して謝罪も賠償もしていない。
 1948年に、ユダヤ人シオニストは、パレスチナを占領し国民国家イスラエルを建国した。その後、シオニストがパレスチナの民衆に対しておこなった犯罪(レバノンの居住区への無差別爆撃、占領地のパレスチナ民衆に対する暴行・迫害、占領地へのユダヤ人大量移民)は、アメリカ大陸に侵入した白人がインディヘナ民衆に対しておこなった犯罪を20世紀後半に繰りかえすものであった。
                                    佐藤正人

【註1】
 金静美「東アジアにおける反日・抗日闘争の世界史的脈絡」、『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』現代企画室、1992年、参照。
【註2】
 細川弘明「タスマニア先住民族の土地権と文化権の現状」、『先住民族の10年ニュース』13、先住民族の10年市民連絡会、1995年、参照。
 アイヌモシリ侵略機関のひとつである北海道大学には1000体を越すアイヌ民族の骨が集められ、人類学者などによって「研究」され、医学部に放置されていた。さらに、1995年7月に、北海道大学文学部の「標本庫」に放置されていた6体の頭蓋骨が、アイヌ民族の一人によって偶然発見された。そのうちの3体はウイルタ民族であり、「南樺太」の墓地から盗みとったことを示すメモが付けられていた。また、他の1体には、墨で「韓国東学党首魁ノ首級ナリト云フ」と書きつけられていた(山本一昭・小川隆吉「人骨研究にみる北大の侵略・植民地主義」、『飛礫』11号、つぶて書房、1996年、および『古河講堂「旧標本庫」人骨問題報告書』北海道大学文学部古河講堂「旧標本庫」人骨問題調査委員会、1997年、参照)。
【註3】
 金静美「侵略の時代をおわらせるために」、『水平運動史研究ーー民族差別批判ーー』現代企画室、1994年、参照。
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国民国家日本の領土と「周辺」 11

2012年09月29日 | 個人史・地域史・世界史
■(一)国民国家日本の領土と日本国民
Ⅴ、第2次アジア太平洋戦争敗北後
 1855年の「日魯和親通好条約」締結によるアイヌモシリの一部(「千島列島」)植民地化から開始された、日本の領土・植民地・支配地拡大は、第2次アジア太平洋戦争の敗北によって中断され、日本の領土・植民地・支配地は、縮小した。
 だが、アイヌモシリの一部(「北海道」)は、日本の植民地のままに残された。アイヌモシリの他の一部(「南樺太」と「千島列島」)も、北方先住民族に返還されず、再びロシアの植民地とされた。いま、日本政府と一部の日本人は、ロシア政府に「北方四島」の「返還」を要求し、再占領しようとしている。
 「南洋群島」は、アメリカ合州国の植民地とされ、そこで、繰り返し水爆実験がおこなわれた【註1】。
 朝鮮の北部は1945年8月から、ソ連軍の軍政下におかれ、独島を含む南部は1945年9月からアメリカ合州国軍の軍政下におかれた。1948年8月15日に朝鮮南部に大韓民国が建国され、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、南北朝鮮におけるアメリカ合州国軍とソ連軍による軍政は、形式的に終了した。その後、日本は独島再占領策動を開始したが、独島には韓国軍が常駐し、日本の再占領を阻止している。
 奄美群島は1953年12月まで、小笠原諸島は1968年6月まで、琉球列島、宮古・八重山地域、釣魚島(釣魚台)は1972年5月までアメリカ合州国が占領し軍政を続けた。現在、日本は、釣魚島を武力で占領している。
 いま日本政府が続けている独島再占領策動、「北方四島」再占領策動、釣魚島再占領は、領土と経済水域を拡大しようとする現在の日本の他地域・他国侵略策動の一環である。
 1987年に日本政府は、放置しておけば東太平洋の荒波に侵蝕されて消滅する「沖ノ鳥島」(満潮時の高さ約70センチの2個の珊瑚礁露頭。東京都小笠原村に所属)をコンクリートで固め、その周囲を鉄製の消波ブロックで囲んだ。これが、国民国家日本の領土の現在の最南端となっている。この小岩礁を領土とすることによって、日本の緯度が台湾よりも南となり、「経済水域」が40万K㎡おし広げられている。1999年度から日本政府は、「沖ノ鳥島」を国家が全面的に維持管理することにした。
                                     佐藤正人

【註1】
 前田哲男『棄民の群島 ミクロネシア被爆民の記録』時事通信社、1979年。島田興生『還らざる楽園』小学館、1994年、など参照。
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「慰安妇陈金玉病逝」

2012年09月28日 | 海南島
http://www.hnlswhw.cn/nshow.aspx?k=2067
「海南历史文化网」2012年09月28日 15:23
■慰安妇陈金玉病逝,海南岛慰安所全部被毁
  2012年9月28日南国都市报(记者利声富)报道:1995状告日本政府的我省“慰安妇”黎族老大娘陈金玉,22日病逝,昨天入土为安,享年86岁。报道说,2001年7月,在中日律师的帮助下,陈金玉与7名受害的黎族苗族姐妹一起,于日本东京地方法院以日本政府为被告提起诉讼,要求判令日本政府在中、日两国媒体上公开赔礼道歉,并赔偿每位原告2300万日元。2008年12月,陈金玉老人还远赴日本作证,希望打赢这场官司,以便讨回公道。然而,日本法院不顾历史事实先后两次驳回原告要求日本政府谢罪并给予赔偿的诉求。陈金玉老大娘是保亭加茂镇北赖村人。1940年春,日军侵占保亭并在加茂河边建立据点。1941年初,陈金玉被日军征到据点强迫充当慰安妇,天天遭受日本军人的强暴与凌辱,过着非人的生活。日军投降后,她嫁给了当地的一位农民,由于当时有幸不吃日军发的“预防丸”,先后生了3男2女。据了解,陈金玉老人病逝后,中国慰安妇研究中心发来唁电,并捐助2万元人民币。目前,状告日本政府的8名黎苗族“慰安妇”中已有4人去世。
  1995年,由符和积主编的《铁蹄下的腥风血雨——日军侵琼暴行实录》一书出版发行,引起国内外史学家、中日法学家以及日本有关团体对“慰安妇“的注意。他们先后派人来海南进行“慰安妇”问题的联系、调查、取证。
  1996年至1997年,中日律师团来海南实地取证,最后确定了海南8名受害“慰安妇”同意签名起诉日本政府。
  1999年,日本民间组成了“海南战争受害妇女支援会”,“支援会”曾来海南进行过法律取证。
  2001年6月,海南“慰安妇”向日本东京地方裁判所起诉日本政府。日本东京地方法院于2006年8月30日作出一审判决,驳回海南“慰安妇”要求日本政府谢罪并给予赔偿的诉求,但判决书认定了侵华日军士兵对中国“慰安妇”进行性迫害的事实。  
  在日本侵华战争期间,日本侵略军有组织、持续地对数十万名中国女性实施了残酷的性暴力侵害。1939年2月,日军入侵海南岛后,在海口、陵水、保亭、昌江、三亚等多个市县设立了“慰安所”。但是,由于文物保护意识差,目前海南遍布各地的日军慰安所已经踪迹全无。网友萧烟2011于2012年10月9日在海南在线回帖时说:“昌江的慰安所旧址我去过,当时好像改为了一个派出所,现在好像拆后改成了一个旅馆。附近山头的一个日本炮楼,还隐没在一个小山头的荒树丛中,不知现在情况如何?”
  政协文史资料显示:海南“慰安妇”人数多、来源广、受害程度深。在当时日军占领海南岛的16个县1个建制市中,被日军采用暴力强制、征掠掳逼而来的海南各地妇女人数最多,她们大多被安排到军营、据点、哨所,被称为“战地后勤服务队”,受害程度更深。1941年后,崖县“慰安所”中的“慰安妇”约有300多人。1942年石碌铁矿“慰安所”先后共有“慰安妇”300多人。北黎“慰安所”中约有“慰安妇”40多人。这些女性在慰安所饱受折磨,身心受到极大的伤害。
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国民国家日本の領土と「周辺」 10

2012年09月28日 | 個人史・地域史・世界史
■(一)国民国家日本の領土と日本国民
Ⅳ、ベトナム北部侵略以後 3
  ③、「絶対国防圏」
 1943年9月8日、イタリアが「連合軍」に全面降伏した。その3週間後、1943年9月30日に、日本政府・日本軍の中枢は、ヒロヒトを含めた会議で、「今後採るベき戦争指導の大綱」を決定した【註1】。この第2次アジア太平洋戦争遂行の基本方針のなかで、かれらは、
    「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域を、千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域とす」
とし、「絶対確保すべき要域」(「絶対国防圏」)を、「大東亜共栄圏」より範囲を縮小して設定した。
 だが、わずかその2か月後、11月に、「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍(両島で5000人余)が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅した。このときマキン島で捕虜となった146人のうち朝鮮人は132人、タラワ島で捕虜となった105人のうち朝鮮人は104人であり、両島で生命を失った朝鮮人は、1,200人であったという【註2】。
 その後、「絶対国防圏」内の諸地域が、日本軍とアメリカ合州国軍の戦場となり、その地域に住む民衆が大きな被害を受けた。日本軍は各地で敗走し、日本の「国防圏」は急速に縮小していった。飢餓に苦しむ日本軍の兵士のなかには、遺体だけでなく「捕虜」や住民や自軍兵士を殺害して人肉食をおこなった者もいた【註3】。だが、最極悪の戦争犯罪者ヒロヒトは、日本国内の安全地帯で生き残り、「神」として「戦争指導」を続けた。
 ヒロヒトは、1945年8月14日付けの「終戦の詔勅」で、なおも第2次アジア太平洋戦争の戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったとし、「忠良なる爾臣民」に対して「神州の不滅」を信じることを要求した。
                                     佐藤正人

【註1】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書588~589頁。
【註2】
 タラワ島では約1500人の朝鮮人が労働させられていた。1944年末の朝鮮総督府の文書に、「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」に関して、
    「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 7300名(「タラワ」「マキン」両島に於け
   る玉砕者約1200名を含む)と推定せられ其の外行方不明735名を出せり」
と書かれている(『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、168葉)。
 劉喜亘を呼びかけ人として、タラワ島に朝鮮人犠牲者の追悼碑が、1991年11月25日に建てられた。劉喜亘は、1942年10月に日本海軍の軍属として徴用され、タラワ島で通信施設建設などをさせられ、アメリカ合州国の空爆によって負傷した経験をもつ朝鮮人である(「朝鮮人徴用工1500人 タラワ島に慰霊碑 在日の遺族会が建立」、『毎日新聞』1991年12月4日、および郡義典『マウリ・キリバス』近代文芸社、1996年、173~178頁)。
 タラワ島とマキン島の日本軍がアメリカ合州国軍によって壊滅させられた後、この両島を含むギルバート諸島は、再びイギリスの植民地とされたが、1979年7月12日に、キリバス共和国として独立した。1997年7月に、キリバス共和国議会の調査委員会は、日本占領時代に住民536人が日本軍に殺されたという報告書を作成した。
【註3】
 尾川正二『極限のなかの人間』筑摩書房、1983年。田中利幸『知られざる戦争犯罪』大月書店、1993年、など参照。
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国民国家日本の領土と「周辺」 9

2012年09月27日 | 個人史・地域史・世界史
■(一)国民国家日本の領土と日本国民
Ⅳ、ベトナム北部侵略以後 2
 ②、「共栄圏」・「資源圏」
 1941年12月1日に、ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した【註1】。
 第2次アジア太平洋戦争は、1941年12月8日、日本陸軍がイギリスの植民地マラヤのコタバルに上陸した時に開始された。その1時間後、日本海軍が、アメリカ合州国の植民地ハワイのオアフ島パールハーバを爆撃した。コタバルに上陸した日本軍は、海南島から出発していた【註2】。
 第2次アジア太平洋戦争は、日本軍が海南島に奇襲上陸した1939年2月10日に開始されたともいえる。1939年2月12日に、蒋介石は重慶で、
   「海南島攻略は1931年9月18日の奉天攻略と対をなすものと考へられる、換言すれば日本
   は海南島を攻撃することによつて太平洋に第二の奉天をつくり出したのだ。奉天は満洲
   事変の発端であつた、海南島は太平洋事変の発端であらう」
と発言していた【註3】。この蒋介石の分析は正しかった。
 日本軍は、1941年12月10日に、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領を開始した。グアム島、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島など)の占領は11月6日に決定されていた【註4】。
 1942年1月18日に、日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を結んだ。このとき日本軍は、西はインド西部からウラル山脈にいたる地域から、東は南北アメリカ大陸西海岸にいたる地域を戦場とすることを想定していた【註5】。
 1942年2月28日に、大本営政府連絡会議は、「帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」と設定した【註6】。この「大東亜の地域」には、アイヌモシリ、朝鮮、中国、ビルマ、タイ、「蘭領印度」、フィリピン、パプア島、「南洋群島」、ソロモン諸島(ガダルカナル島など)、ギルバート諸島(タラワ島など)……が含まれていた。このとき同時に、大本営政府連絡会議は、日本の「資源圏」と「補給圏」を、次のように設定した。
   「帝国資源圏は日満支及西太平洋地域とし自給生産力の拡大を期し豪洲、印度等は之が
   補給圏たらしむるものとす」【註7】。
 国民国家日本は、その「共栄圏」・「資源圏」を維持するためには、軍事占領後、政治・経済的支配体制を確立しなければならない。
 日本は、台湾や朝鮮には総督府を設置して支配したが、「南方」各地を軍政によって支配した。軍政の基本的事項は、大本営政府連絡会議で決定された。占領地において軍政を実行するためには、多数の行政官が必要であった【註8】。
 占領地の歴史的・政治的・社会的諸条件によって、軍政の内実は異なった。シンガポールでも香港でも、軍政の初期に多くの中国人が虐殺された。インドネシアでは、スカルノらが親日派となって協力したが、日本政府・日本軍は軍政を続けた。マラヤやシンガポールや香港や海南島でも、日本政府・日本軍は、軍政支配を続けた。ビルマでは、1943年8月に傀儡国家がつくられた。同年10月に、フィリピンでも、傀儡国家がつくられた。
 軍政地域で日本軍は軍票を大量に使用して、資源・農産物・労働力を奪った【註9】。日本軍の敗北後、軍票は、紙くずとなった。
 チモール島東部(ポルトガルの植民地)では、日本軍は中立国ポルトガルの「主権」を形式的に維持した。日本軍は軍票は使用したが、住民に日本語強制はできなかった【註10】。
 1943年5月31日に、ヒロヒト、日本政府・日本軍中枢は合同会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した【註11】。このときヒロヒトらは、ビルマとフィリピンを「独立」させ、「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を、「帝国の領土と決定」し、軍政を継続し、「重要資源ノ供給地」とすることを夢想していた。この「大綱」では、海南島に触れられていないが、日本政府・日本軍は、海南島を実質的に日本の領土としていた。
 国民国家日本の第2次アジア太平洋戦争の戦争目的は、領土・植民地拡大と資源収奪であったが、日本政府・軍は、アメリカ合州国・イギリス・オランダの植民地支配からの「解放」が目的であると宣伝した。
 日本政府・軍は、占領した地域の「敵国」の資産を没収したが、地域の民衆には渡さず、アメリカ合州国人・イギリス人・オランダ人らが経営していた鉱山、工場、農園などのすべてを日本企業に渡した【註12】。日本政府・軍は、占領地で日本時間をつかい、「ヒノマル」を掲げ、「元号」や「皇紀」を使い、「キミガヨ」を強制し、行政機関や教育現場に日本語をもちこんだ。日本のマスメディア(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、同盟通信社など)は、侵入した「大東亜共栄圏」の各地で、天皇制イデオロギーや日本軍の強大さなどの偽りを宣伝した【註13】。
                                      佐藤正人

【註1】
 「対英米蘭開戦に関する件」、前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書564~569頁。
【註2】
 マレー半島に上陸した第5師団と第18師団の兵員は、1941年12月2日までに海南島南端の三亜に集結し、その輸送船団は、12月4日に海南島を出発している(防衛庁防衛研修所戦史室編『マレー侵攻作戦』〈戦史叢書1〉、朝雲新聞社、1966年、15~17、145頁)。1941年12月8日朝9時半にフィリピンのルソン島のツゲガラオ飛行場とバギオ兵営を奇襲した爆撃機は、台湾の航空基地から飛びたっている(防衛庁防衛研修所戦史室編『比島攻略作戦』〈戦史叢書2〉、朝雲新聞社、1966年、117~118頁)。
【註3】
 『大阪朝日新聞』1939年2月13日。
【註4】
 大本営陸軍部・大本営海軍部「瓦無及・ビスマルク・作戦に関する陸海軍中央協定」、防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋陸軍作戦〈1〉』〈戦史叢書6〉、朝雲新聞社、1967年、18~19頁。
【註5】
 「日独伊軍事協定」、防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部〈3〉』〈戦史叢書35〉、朝雲新聞社、1970年、252~253頁。
【註6】
 「大東亜戦争現情勢下に於て帝国指導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」、同前『大本営陸軍部〈3〉』490~491頁。
【註7】
 同前『大本営陸軍部〈3〉』487頁。
【註8】
 第2次アジア太平洋戦争の末期に、朝鮮総督府は、「将来南方軍政要員に相当数の朝鮮人起用を実現せしむる考へなり」という方針を示している(『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府官房関係、24葉)。
【註9】
 小林英夫『日本軍政下のアジア  「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、参照。
【註10】
 貴島正道「陸軍主計中尉としてみた東ティモール」、インドネシア日本占領期史料フォーラム編『証言集 日本軍占領下のインドネシア』龍渓書舎、1991年、参照。
【註11】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書583~584頁。
【註12】
 疋田康行編著『・南方共栄圏・ーー戦時日本の東南アジア経済支配ーー』多賀出版、1995年、参照。
【註13】
 前野和久「占領地のマスコミ活動」、鈴木静夫・横山真佳編『神聖国家日本とアジア』勁草書房、1984年、194~226頁。
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国民国家日本の領土と「周辺」 8

2012年09月26日 | 個人史・地域史・世界史
■(一) 国民国家日本の領土と日本国民
Ⅳ、ベトナム北部侵略以後 1
 ①、「大東亜新秩序」・「大東亜共栄圏」
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した【註1】。
 続いて、同年9月4日に、日本政府の首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が、合同会議で、「日満支を根幹とし旧独領委任統治諸島、仏領印度及同太平洋島嶼、泰国、英領馬来、英領‘ボルネオ’、蘭領東印度、‘ビルマ’、濠洲、新西蘭竝に印度等」を日本の「大東亜新秩序建設ノ為ノ生存圏」とする方針を出し、9月19日にヒロヒトらを含む会議で決定した【註2】。
 その4日後、フランスがドイツに降伏した翌日、9月23日に、日本軍が、「仏領印度」北部(ベトナム北部)に侵入した。
 1941年2月3日に、大本営政府連絡会議は、「対独伊‘ソ’交渉案要綱」を決定し、そこで、世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、‘ソ’聯圏(印度‘イラン’を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」とした【註3】。国民国家日本の領土拡大は、「大東亜共栄圏」にいきついた。それ以後、日本政府・軍は、ヒロヒトを中心とし、「八紘一宇」をスローガンとし、「大東亜共栄圏」の各地に、日本軍を侵入させた。
 1941年6月6日、大本営陸海軍部は、「対南方施策要綱」を決定した【註4】。そこでは、「対南方施策の目的」(すなわち「南方」侵略の目的)は、日本の「総合国防力」を拡大することであるとされていた。この目的達成のために、この年7月28日に、日本陸軍第25軍約4万人が海南島三亜から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に「出撃」した。この「仏領印度」南部軍事侵略の3週間前、7月2日に、ヒロヒトらは、「南方進出」にあたっては「対英米戦を辞せず」と決定していた【註5】。続いてヒロヒトらは、同年9月6日に、
   「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を
目途とし戦争準備を完整す」
とする「帝国国策遂行要領」を決定した【註6】。
 同年11月5日に、ヒロヒトらは、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定した【註7】。そこでは、開戦時を12月上旬に設定していた。その半月後の11月20日、大本営政府連絡会議は、第2次アジア太平洋戦争開戦を前提として、「治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保」を目的として、占領地に軍政を実施することを決定した【註8】。続いて11月25日に、大本営陸軍部は、軍政実施の具体方針を決め、フィリピン、マラヤ、「蘭領印度」、ボルネオから掠奪する「重要資源」の地域別リストを作成した【註9】。その翌日、11月26日に日本陸軍と海軍は、「軍政実施の担当区分」を決定した【註10】。第2次アジア太平洋戦争開戦の目的は、アジア太平洋地域の資源掠奪と国民国家日本のさらなる領土・占領地拡大であった。
                                      佐藤正人

【註1】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書636~637頁。
【註2】
 「日独伊提携強化に対処する基礎要件」、防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部〈2〉』〈戦史叢書20〉、朝雲新聞社、1968年、110~114頁。
【註3】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書480~482頁。大本営政府連絡会議は、日本軍参謀総長、日本政府閣僚らの合同会議で、1944年8月に最高戦争指導会議と改称された。
【註4】
 同前、文書495~496頁。
【註5】
 「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」、前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書531~532頁。
【註6】
 同前、文書544~545頁。
【註7】
 同前、文書554~555頁。この「帝国国策遂行要領」は、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた。
【註8】
 「南方占領地行政実施要領」、同前、文書562~563頁。
【註9】
 「南方作戦に伴ふ占領地統治要綱」、防衛庁防衛研究所戦史部編著『史料集 南方の軍政』朝雲新聞社、1985年、93~95頁。
【註10】
 「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」、同前、96~97頁。
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国民国家日本の領土と「周辺」 7

2012年09月25日 | 個人史・地域史・世界史
■(一) 国民国家日本の領土と日本国民
Ⅲ、中国・モンゴル侵略戦争開始後
 1914年の「南洋群島」植民地化から1931年までの17年間、日本は領土・植民地を拡大しなかった(できなかった)が、1931年7月6日に、北回帰線の南に位置する「沖ノ鳥島」を、内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加えて、日本の領土とした【註1】。その約70日後の9月18日、日本は、中国東北部・モンゴル東部の軍事侵略(「満洲事変」)を開始した。
 1932年3月1日、日本は、中国東北部とモンゴル東部を植民地として、「満洲国」と名付けた。「満洲国」の「国旗」は、漢族、モンゴル族、満族、朝鮮族、日本族の「五族協和」を表わす黄色を地色とする青・赤・白・黒の5色旗とされた。
 1939年9月1日、日本政府は、張家口に傀儡政府「蒙古連合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を植民地とした。「蒙古連合自治政府」の「政府旗」は、モンゴル族、漢族、回族、日本族を示す青、黄、白、赤の4色7条で、中心の色は日本族を示す赤であった。
 「満洲国」においても「蒙古連合自治政府」の支配地区においても、実権は日本政府・日本軍が把握し、日本族が支配民族として他民族を抑圧した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始し、1935年12月25日に、「冀東防共自治政府」をつくった。1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、日本政府・日本軍は、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して傀儡「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。1939年3月30日付で、日本政府は、「新南群島」を、台湾総督府令で高雄市の管轄とした【註2】。
 1939年2月10日に、日本陸海軍が台湾から出撃して、海南島侵略を開始した【註3】。海南島侵略作戦は、1939年1月17日に決定されていた【註4】。海南島占領と「新南群島」の領土化は結びついていた【註5】。
 海南島占領の主目的は、「南方」侵略の軍事基地の確保と資源掠奪であった【註6】。この侵略目的にしたがう行政機関として、1939年7月15日に、日本軍は、傀儡「海南島臨時政府」を設立しようとしたようである【註7】。
                                       佐藤正人

【註1】
 『官報』1931年7月6日。
 1923年と1926年に「満洲」という名の日本軍艦が「沖ノ鳥島」を測量している。
【註2】
 「台湾総督府告示第122号」、『官報』1939年4月18日。
 1939年6月1日に、台湾総督府の「新南群島調査団」が、「新南群島」の「長島」に、「高雄市新南群島」という標柱を建てたという(牧山鶴彦「新南群島紀行 領土編入後の初調査日誌抄」、『台湾時報』1939年9月号、134頁)。
【註3】
 防衛庁防衛研修所戦史室編『中国方面海軍作戦〈2〉』〈戦史叢書79〉、朝雲新聞社、1975年、93~97頁。
【註4】
 「北部海南島作戦陸海軍中央協定」、『現代史資料 日中戦争』二、みすず書房、1964年、406頁。
【註5】
 1938年9月、台湾総督府は、海南島を中心としてその南方の「新南群島」などに対し「強力なる支配権を確立」し、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成した。そこで、台湾総督府は、海南島軍事占領を前提とし、「住民に対する方策は皇民化を以て本旨とす」、「大体十年を以て現在の台湾と同程度の統治成績を収むるを以て目標とす」、「住民の日本国籍取得は申請に依る許可制度とす」、「徹底せる国語普及政策を行ふ」、「黎人に対しては台湾に於ける‘アミ’族に対する理蕃方針に準じて之を撫育し山地資源の開発を促進す」などとしていた(「海南島処理方針」、『現代史資料 日中戦争』三、みすず書房、1964年、451~463頁)。また同じ1938年9月に、台湾総督府は、「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」という「方策」を出していた(「南方外地統治組織拡充強化方策」、同前『現代史資料 日中戦争』三、465頁)。
 日本が「新南群島」と名付けた地域は、「南沙群島」あるいは「スプラトリー諸島」と呼ばれてきた。現在、中国は、海南島から遥かに離れたこの群島を海南省に組み込み、軍事支配している。
【註6】
 「海南島政務暫定処理要綱」(1939年4月21日、陸軍・海軍・外務3大臣決定)、防衛庁防衛研修所戦史室編『支那事変陸軍作戦〈2〉』〈戦史叢書89〉、朝雲新聞社、1976年、340~341頁。
【註7】
 郡茂徳「海南島記」、『台湾時報』1939年9月号、127頁。
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国民国家日本の領土と「周辺」 6

2012年09月24日 | 個人史・地域史・世界史
■(一) 国民国家日本の領土と日本国民
Ⅱ、「明治維新」以後 2
 1898年7月に、日本は、「硫黄列島」東方の無人島を「南鳥島」と名付け、東京府告示で領土にした。現在、この島が日本領土の最東端となっている。
 その1か月後、1898年8月、アメリカ合州国は、スペインとの帝国主義戦争の最中に、「南鳥島」東方のハワイを「併合」した【註8】。日本政府は、1871年にハワイ王国と修好通商条約を結んでいたにも拘らず、アメリカ合州国のハワイ植民地化をただちに承認した。
 1900年に、日本・イギリス・アメリカ合州国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア8か国の軍隊が連合して清国に侵入した(義和団戦争)。それ以後、1945年まで日本軍が中国から撤退することはなかった。
 「日露戦争」の最中、ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた1905年1月末に、日本政府は、独島を自国の領土とすることを閣議で決定し、2月はじめに、島根県に「編入」させた【註9】。大韓帝国政府が日本の独島占領を知ったのは、1906年3月末であった。
 「日露戦争」後、「講和条約」(1905年9月5日、記名。11月25日、批准書交換)で、ロシア政府は、日本がロシアに代って遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。日本政府とロシア政府による自国の領土侵略に関する不当な約束を、清国政府は日本との「満洲に関する条約」(1905年12月22日調印、1906年1月23日批准書交換)で簡単に追認した。
 また、ロシアとの「講和条約」によって、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この先住民族を無視した侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯50度線によって、先住民族の生活圏・労働圏が分断された【註10】。
 1905年11月に、日本は大韓帝国を「保護国」とし、1910年8月に「併合」して日本の領土とした。
 第1次世界戦争開始後まもなく、1914年8月23日に、日本はドイツに宣戦布告した。同年10月14日に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付け、12月に軍政をしいた(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)【註11】。同じころ、日本陸軍はドイツが植民地としていた中国山東省の青島を攻撃し、11月に占領し、青島守備隊司令部が軍政をしいた。第1次世界戦争は、日本にとっては第1次アジア太平洋戦争であった。
 1919年に、国際連盟は、日本に、「南洋群島」の「統治」を「委任」した。日本の南方の支配地域はいっきに拡大した。
 1922年4月に、日本政府は「南洋群島」の行政機関として「南洋庁」を設置した。「南洋庁」は、アイヌモシリ植民地機関である「北海道庁」と同じく内務省が管轄した。「南洋群島」の先住民族カナカ人やチャモロ人を、日本政府は公文書で、日本国民(「臣民」)ではなく、「島民」と規定し、おおくの日本人は「(南洋の)土人」と呼んだ。
                                       佐藤正人

【註8】
 北アメリカに侵入したイギリス系ヨーロッパ白人は、1776年に「東部16州」を独立させてアメリカ合州国を「建国」したあと、さらに西部のインディヘナの大地を奪って領土を拡大し、大陸の西端まで国境線を広げた。太平洋岸に達したアメリカ合州国が、さらに太平洋地域を侵略し、「南鳥島」東方のミッドウエー島(ハワイ北西200㎞)を領土としたのは、南北戦争2年後の、1867年であった。「ミッドウェー」という地名は、北アメリカ大陸西岸と中国大陸東岸の「中間地点」を意味している。同じ1867年にアメリカ合州国は、ロシア帝国から、原住民族の大地アラスカを720万ドルで購入して領土としている。
 スペインとの帝国主義戦争ののち、1898年12月に、アメリカ合州国は、スペインに2000万ドルを支払って、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民地とし、その翌年1899年に、ウェーク島を領土とした。第2次アジア太平洋戦争のとき、ミッドウエー島海域、ウェーク島海域、フィリピン、グアム島は、アメリカ合州国軍と日本軍の激戦地となった。
【註9】
 佐藤正人「国民国家日本の独島占領」、国際教科書研究所編『世界化時代의 歴史学과 歴史教科書(第7次国際歴史教科書学術会議総合報告書)』1996年。および佐藤正人「世界近現代史における独島」、独島学会編『独島領有権 問題와 海洋主権의 再検討』1998年、参照。
【註10】
 田中了『サハリン北緯50度線』草の根出版会、1993年、参照。
【註11】
 今泉裕美子「南洋群島委任統治政策の形成」、『近代日本と植民地』4、岩波書店、1993年、参照。
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国民国家日本の領土と「周辺」 5

2012年09月23日 | 個人史・地域史・世界史
■(一) 国民国家日本の領土と日本国民
Ⅰ、1850年代~1869年            
 1855年2月、「日魯和親通好条約」【註1】によって、日本政府(徳川幕府)とロシア政府は、北方諸民族が生活し労働してきた「千島列島」を分割してそれぞれの国家の領土とし、「樺太島」を共有地とした。その後、日本政府は「樺太島」を南北に2分割することをロシア政府に提案したが、ロシア政府は拒否し、1867年3月、「日魯間樺太島假規則」【註2】によって、両政府は、「樺太島」が共有地であることを再確認した。
 幕藩制国家体制の崩壊期に、日本政府は、アイヌモシリ領土化策動を開始していた。

【註1】日本外務省編『日本外交年表竝主要文書』上、日本国際連合協会、1969年、文書5~6頁。
【註2】同前、文書31~32頁。

Ⅱ、「明治維新」以後 1
 1869年9月、日本の新政府は、先住民族であるアイヌ民族になんら断りなしに、一方的にアイヌモシリの一部を植民地とし、「北海道」と名付けた。その後、日本(本州、四国など)から大量の和人「移民」がアイヌモシリに侵入した【註1】。アイヌモシリの和人の人口比率は急速に上昇した。アイヌモシリ植民地機関「開拓使」は、1873年ころからアイヌ民族を日本戸籍に「編入」しはじめ、1876年から日本式姓名を強制した。1878年に「開拓使」は、「旧蝦夷人」「古人」「土人」「旧土人」等としていたそれまでのアイヌ民族に対する呼称を「旧土人」に統一するという指令をだした【註2】。
 1872年10月、日本政府は、九州南方の琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。その1年半後(「徴兵制」実施の1年4か月後)、1874年5月に、日本政府は、日本陸海軍3千数百人を、台湾に侵入させた(「台湾蕃地処分」)。続いてその翌年9月に、日本政府は、軍艦「雲揚」を、江華島海域に侵入させた。1974年の「台湾蕃地処分」と1975年の「江華島事件」は、連続していた。
 1875年5月7日、日本政府とロシア政府は、「樺太千島交換条約」に調印した。これは、その地で生きている先住民族との条約ではなく、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認あう侵略国間の条約であった。
 この北方諸民族の大地と海を分割して、それぞれの領土とする侵略国間の条約に基づいて、「江華島事件」の12日後に、「千島列島」のうちそれまでロシアが領土としていた「ウルップ島」以北18島のロシアから日本への「譲渡式」がおこなわれた。この時から70年後の1945年8月まで、「千島列島」最東の「シュムシュ島」が、日本の最北端かつ最東端の領土となっていた。
 アイヌモシリ各地の地名は、当然ながらアイヌ語であったが、日本人はその地名を日本式に変えていった。「北海道」の東に隣接するキナシリ(「草の島」を意味するアイヌ語)を日本人はクナシリ島と呼び、国後島という漢字をあてはめた。国(日本国)の後にある島という意味であろう。フランス革命が開始された1789年に、キナシリでアイヌ民族は、和人侵略者と闘っていた(「クナシリ・メナシの烽起」)【註3】。
 1876年2月、日本の軍艦隊が海域に侵入している江華島で、朝鮮国と日本国の「修好条規」が締結された。この不平等条約に、日本政府を代表して調印したのは、「開拓使」長官黒田清隆であった。1874年6月に、黒田は、屯田兵(アイヌモシリ駐屯軍)を創立していた。
 1876年10月17日に、日本政府は、小笠原群島を日本領にすることを、アメリカ合州国、イギリス、ロシア、フランス、オランダ等12か国の公使に通告し、1882年までに住民すべてを日本国籍とした【註4】
 1879年4月4日、日本政府は、「琉球藩」を沖縄県とした(「琉球処分」)。それ以後、ウチナーンチュ(「琉球人」)は、「日本人」とされた【註5】。
 それから10年余の間、日本は領土を拡大しなかったが、1891年9月10日に、日本政府は、「勅令」190号で、「硫黄列島」を日本領にすると告示し、1895年1月14日、「日清戦争」の最中に、釣魚島(釣魚台)を日本の領土とすることを、閣議で決定した。
 「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(1895年4月17日調印、5月8日批准書交換)で、台湾・澎湖列島・遼東半島を日本領とした。その半年後の11月29日に、日本政府は、フランス、イギリス、ロシアなどの「干渉」を受けて、遼東半島は清国に返還したが、そのさい「報償金」として庫平銀3000万両を要求した。このころ、日本は、宮古・八重山地域を、曖昧な形で日本領とし、沖縄県に組み入れ、この地域にすむ人びとを日本の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。この地域西端の与那国島が現在、日本の最西端とされている。1522年に、侵入してきた琉球王国軍にウニトラ(鬼虎)らが敗北するまで、与那国島は、ひとつのくに(国)であった【註6】。
 1895年8月、日本政府は、台湾・フィリピン間中央の緯度線を「日本国及西班牙国版図の境界線」とする条約をスペイン政府と締結した【註7】。
                                       佐藤正人

【註1】金静美「国民国家日本と日本人・移民・」、『差別と共生の社会学』15、岩波書店、1996年、参照。
【註2】「開拓使達」1878年第22号(大蔵省編『開拓使事業報告附録布令類聚』1885年、に収録)。
【註3】根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ  寛政アイヌの蜂起200年』北海道出版企画センター、1990年、参照。
【註4】「小笠原島問題に関する件」、『日本外交文書』第9巻、481~524頁。
    日本政府が、金玉均を小笠原群島の父島に強制追放したのは、小笠原群島領土化10年後の1886年8月であった。2年後の1888年7月に日本政府は金玉均を小笠原群島(父島→母島→父島)から出し、ひき続いて1888年8月から1890年4月まで、アイヌモシリに追放した(琴秉洞『金玉均と日本』緑蔭書房、1991年、229~593頁)。
【註5】大山朝常『沖縄独立宣言――ヤマトは帰るべき・祖国・ではなかった』現代書林、1997年、34頁。
【註6】『成宗実録』巻105に、1447年に与那国島に漂着した済州島漁民の見聞記が掲載されている。
【註7】「西太平洋に於ける領海に関し日西両国宣言書交換の件」、『日本外交文書』第28巻第1冊、292~300頁。
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2012年秋の海南島「現地調査」 11

2012年09月23日 | 海南島史研究
 きょう(11月9日)、海南省档案館を訪ね、夕刻、車沛霖さんと話し合いました。
                                      佐藤正人  
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