三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 10

2024年05月18日 | 海南島近現代史研究会
 4月8日朝8時に文昌市内の旅館を出て9時半に文昌市郊外の東閣鎮南文村に着いた。
 2014年11月に、南文村の自宅で邢福橋さん(1934年生)は、
   「日本軍が来た時、家族といっしょに山の洞窟に隠れた。食べるものを探しに洞窟を出たが、姉に見つかって、すぐ
  に洞窟に連れ戻された。姉は、わたしを洞窟に隠したあと日本軍に見つかって殺された。そのとき40人以上が殺され
  た。姉の名は、月花。20歳くらいだった思う」
と証言を聞かせてくれた。
 2024年4月8日に南文村を再訪したとき、邢福橋さんは3、5年前に亡くなっておられた。
 南文村を離れ、近くの林村村に向かった。
 わたしがはじめて東閣鎮林林村を訪ねたのは、2011年11月6日だった。
 「抗日戦争遇難郷親紀念碑」が建っていた。「一九九五年仲秋吉日」に「林村村林氏宗親」が建てた碑だった。
 碑の裏面に、「「墓誌銘 哀鴻遍野 日冦侵華連天 鴻史前鮮 凄凄荒草埋寃骨 堆遺爸娘盼儿心 三六前生三六死 七二横遭刀火臨 魂飛雲巻往板來東 徒増父老泣無声」と刻まれていた。
 碑の前で、村人の林樹存さん(1952年生、辰年)が、
   「同じ日に72人が殺された。ここには30人くらいが埋葬されている。ここに埋葬されている以外の人は、家族が
   別に埋葬した。この村出身で台湾から戻ってきた人が金を出して碑を作った。周りの塀などは村民みんなが金を
   出してつくった。
    生き残った林鳳通さんは文昌に住んでいる。林堅さんは海口にいる。このふ たりが72人の名前を知っている。
   生き残った人は、12、3人だった
と話した。

 その数日後、文昌市文城鎭に住んでいる林鴻通さん(1932年10月生)を訪ねた。
 林鴻通さんはつぎのように話した。
   「日本軍が攻めてきたときは9歳だった。朝4時ころ。わたしは祖母(母の母)といっしょに寝ていた。家には、
   母と弟ら全部で7人がいたが、母は朝食の支度をしていた。外から、人の声、犬の吠える声が聞こえてきた。
    村には、日本軍がそれまで何回も攻めてきたときがあるから、急に攻めてきたときに隠れる場所をつくって
   あった。板で覆って草でかぶせてある。そこに一部の人が隠れた。共産党が、日本軍が襲ってきたときのことを
   考えて掘れといって、つくった穴だった。周りの村でもみんな掘っていた。穴は村の若者が掘った。
    日本軍はさいしょ村の入り口の大きな木の下に集まっていた。村に入ってきたのはごく一部で、何もしないで
   帰った。
    警戒解除という状態になったので、朝ご飯の時間でもあるし、洞くつから出てきたら、日本軍がおおぜいで
   また攻めてきた。2回目は6時ころ。朝ごはんを食べているときだった。
    このときは、村は包囲されて、逃げるところがなく、じぶんの家にいた。日本軍は各家をまわって、家から
   人を追い出して集めた。こうしてほとんどの人が外に出されて集められた。ごく一部の人が隠れた。
    日本兵は子どもと大人を分けた。子どもはぜんぶで11人だった。日本兵は、子どもに、水をくめといって、
   列を組ませて井戸の方に連れていった。列の先頭は、林樹民(?)。林樹民(?)の腕をつかんで、そのまま井戸に
   放り込んだ。2番目、3番目の子どもは誰だったか……、覚えていない。子どもの首を抱えてうしろから剣で刺
   して、井戸に放り込んだ。4人目までそうして剣で刺されて井戸に放り込まれているうち、5番目にいたわたし
   は、じぶんから井戸に飛び込んだ。頭と額を固いところにぶつけて、こぶができた。井戸は、わたしの背丈より
   深かった、先に4人の死体があるので、その上に立ってあごまで水に浸かっていた。日本兵は、井戸のふちに座っ
   て、足でわたしの頭を踏みつけた。わたしは何度も、その足を引っ張ったり避けたりした。そうしているうちに、
   日本兵は、剣を銃に付けて、刺そうとしたが、わたしは死んだふりをして、浮
   いたり沈んだりしていた。日
   本兵はわたしが死んだと思った。わたしは助かった。姉さんも目の上とか背中とか刺されて、井戸に投げ込まれ
   たが、すぐには死ななかった。
    11人のうち、9人は井戸で死んだ。わたしと姉だけが、生き残った。姉はわたしのうしろだったが、何番目だっ
   たかわからない。井戸の壁がレンガだったので、這い上がることができた。姉といっしょに這い上がった。
    日本兵は3人いた。顔は覚えていない。太陽が昇ってきて、影が井戸に映った。そのときはじっとしていた。
    先にふたりの日本兵が井戸を離れた。影がなくなって、姉から先に這い上がり、近くの田んぼに逃げて隠れ
   た。稲の収穫時で、まだ稲を刈っていなかったので、稲の中に隠れていた。午後4時ころまでじっとして隠れて
   いたら、爆竹の音とか家が焼けおちる音が聞こえた。正月が終わってまもなくだったので、爆竹が残っていた。
   村が焼かれたのだ。
    その間、姉は2回ほど村に近寄ってみた。2回目は11時ころ。まだ日本兵がいたので、また稲に隠れた。3回目、
   4時ころ村に近寄ってみたら日本兵がいなかったので、姉がわたしを連れに来て、村に戻った。何時間も井戸に
   つかっていたので、寒くて……。
    村に戻って2か所を見た。村は、真っ黒で、屋根とか柱とか、まだ燃えていた。
    ひとつは、さいしょにみんなが集められたところ。入り口で、ひとりが剣で刺されて死んでいた。ふたりが、
   焼かれて外に逃げて死んでいた。祖母はここで殺されて焼かれた。
    もうひとつの家で、7人が殺された。母、曽愛娥。弟、林鴻富。ふたりの兄嫁(2大嫂)(ひとりはいとこの兄嫁か
   ?)、名前はわからない。おばさん、父の姉)。この家の女の人、ふたり。ひとつの部屋に入れられて焼かれていた。
   ひとりだけはわかるが、6人は真っ黒でだれかわからない。
    3日くらいたって、死体を片付けようとしてさわったら、頭とか足とか折れたので……。
    5時ころだったと思う。寒くて、食べ物がなくて。姉はわたしを隠れ家に連れていって着替えさせた。
    日本兵は13人くらい。3人は子どもを井戸に連れていった。5人は、家から人を追い出して集めた。5人は、
   2軒に草とかガソリンとか集めて焼く用意をしていた。
    何軒が焼かれたかわからない。本(『椰林血泪』)には、そのころ覚えていたことを思い出して書いたので詳しい。
   姉の名前は、林月英。当時11歳。父は兄とタイに行っていた。兄弟3人と姉。タイに行っていた兄、姉、わたし、
   弟。弟は5歳くらい。
    李山村に2軒、親せきの家があった。5時ころ、姉に連れられて、母の実家がある李山村に行った。母のいとこの
   弟、曽紀立のところに行き、一晩泊まった。また日本軍が来ると思ったので、姉はわたしを連れて宝典に行った。
   井戸の中で血の水をいっぱい飲んだので、のどが痛くて何も食べられなかった。水も飲めなかった。7日間
   くらい、なにも食べられず、美柳村の人が、やわらかい果肉などを食べさせてくれて、それで、元気になった。
   元気になったので、また李山村にもどった。2軒の親戚に交代で食べさせてもらった。
    姉はさきに林村村にもどって、いとこの兄嫁といっしょに田んぼのしごとをした。いとこの名前は、林樹政。
   わたしも林村村にもどって姉といっしょに暮らしながら、農業の手伝いをした。姉は14歳のとき、婚約して
   いた相手の村に行った。羅晨村。
    日本兵は鉄の帽子をかぶって、まわりに布を垂らしていた。日本兵はその前も見たことがある。日本兵は村に
   来ると、“ヌイヌイヌイ……”と手ぶりで指を丸めて言った。卵をくれという意味だ。
    1947年8月に、わたしは文昌県中隊に入隊した。独立団で、名前は英勇隊といった。
    父はタイで1977年に亡くなった。家に一回ももどらなかった。兄は8回ほどもどってきた。1回目は1975年。
   それから去年、最後に帰ってきた。今年は83歳になる。
    いま昔のことを知っている人は3人だけだ。わたし、林樹逢、林樹慈」。

 1926年に林村村で生まれた林樹慈さんが2010年12月に出版した『椰林血泪』(海南郷土文化研究会主辦 天馬図書有限公司出版)に、林鴻通さんは「剣戮水淹 惨絶人寰——林鴻通的回憶」を寄稿している(8~14頁)。

 2024年4月8日に邢越さんとわたしが林村を訪ねたとき、「抗日戦争遇難郷親紀念碑」の前の広場には人影はなかったが整備されていた。
 わたしは2011年11月6日以後、しばしば林村村に行き、村民に話を聞かせていただいて来た。2015年3月28日~4月9日の紀州鉱山の真実を明らかにする会第27回・海南島近現代史研究会第14回海南島「現地調査」のとき、4月4日の清明節に行われた追悼集会には、南海出版公司の編集者らも参加した(海南省文化交流促進会編・南海出版公司2015年8月発行『真相』217~220頁)。

 2024年4月8日、林林村から楊必森さん(1922年生)に会うために東閣鎮鳌頭村を訪ねた。
 2014年10月30日に楊必森さんは、
   「1943年3月6日の朝、日本軍が来て村の入り口を封鎖した。
    このころはサツマイモの収穫期で、母は薄く切ったサツマイモを天日で乾かすために村の外に出たときに日本軍と出会った。日本軍は母のはらを突き刺した。母は銃剣を両手でつかんで手も切られ、その場で死んだ。
    家の地下に穴を掘っていて、日本軍が来たので兄とわたしはそこに隠れた。
    日本軍は家に火をつけた。煙がひどくて隠れていっれず、出ていくと、兄もわたしも、えりくびをつかまれ、火のなかに放り込まれ、尻を蹴りこまれた。兄は足をやけどし、わたしは火の中に手をついたので、両手をやけどした。腕の皮膚が焼け落ちた。日本軍がいなくなって火から逃げ出した。日本兵は4、5人だった。兄はやけどがひどくて、1948年に死んだ。
    母は、邢氏。兄の名は、楊必雄」
と話した。
 2024年4月8日に家を訪ねた。誰もいなかった。 楊必森さんは亡くなられていた。

 東閣鎮鳌頭村を離れ、潭牛鎮の中心部(潭牛墟社区 )に行って宿泊した。 

     佐藤正人
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