三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「抗日勝利は台湾人の歴史にあらず」

2016年08月31日 | 台湾
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201608160004.aspx
「フォーカス台湾」 2016/08/16 15:24
■「抗日勝利は台湾人の歴史にあらず」 大学教授ら、平和公園の整備呼びかけ
(台北 16日 中央社)一部の大学教授らで構成される台湾教授協会は15日、政府に対して台湾の歴史に向き合い、第2次世界大戦の終結を記念した平和公園の整備を呼びかけた。戦没者を追悼するため、慰霊碑の設置を提案している。
 同協会はこの日開いた記者会見で、「中華民国政府は昨年、抗日戦争勝利70周年を祝ったが、それは台湾人の歴史的記憶ではない」と強調。日本統治時代の台湾人は徴兵され、連合軍による爆撃を受け、戦後には審判を受けたほか、国民党政権下では台湾の主体性が失われたとした。
 また、先の大戦では台湾人約5万人が亡くなったとされながらも、これまでに慰霊碑などが設置されていないと指摘。平和公園の必要性を主張した。
 記者会見には野党・時代力量の林昶佐立法委員(国会議員)も出席。「台湾化、民主化された今、台湾に必要なのは忘れられた記憶を取り戻すこと」と熱弁をふるった。
 同協会の許文堂秘書長は、長きに渡って中華民国政府は台湾の1945年以前の歴史に目を背けてきたとし、和解したいと述べた。
                (劉麗栄/編集:齊藤啓介)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201608/CK2016081602000119.html
『東京新聞』 2016年8月16日 朝刊
■埋もれた戦争犠牲を伝えたい 大学教授ら訴え「台湾人の慰霊碑を」
 【台北=迫田勝敏】台湾の大学教授らでつくる台湾教授協会(張信堂会長)は十五日、記者会見し、第二次世界大戦中に犠牲になった台湾人を慰霊するため、平和公園の建設と慰霊碑の建立を蔡英文政権に求める運動を始めると明らかにした。台湾は日本の敗戦までは日本統治下にあったが、戦後は中華民国が統治して「戦勝国」となった。このため戦争中の台湾人犠牲者は中華民国のものではないとして、当局による慰霊などは行われていない。
 日本の厚生労働省の統計では、台湾では軍人、軍属約二十万人が徴用され、約三万三千人が死亡した。しかし、戦後に「戦勝国」である中華民国が台湾を統治したため、戦争中に多くの台湾人が犠牲になった事実はあまり知られていない。歴史教科書でも、台湾人犠牲者の存在も含めて戦中・戦前の台湾の歴史は詳しい記載がなく、台湾は戦争中、日本と戦ったと誤解している人も少なくない。
 教授協会の張会長は、こうした埋もれた歴史を若者に伝えることが平和公園と慰霊碑建立の目的だとする。平和公園の建設地は、台北市内の華山文創園区などが候補に挙がっている。同区は日本時代の酒工場跡地で、当時は鉄道駅もあり、ここから台湾人兵士たちが出征したという。
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臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南島經營

2016年08月30日 | 海南島近現代史研究会
■臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南島經營
                                 金勝一
     1、はじめに
     2、海南島に對する臺灣總督府の慾望
     3、臺灣經驗とはなにか
     4、海南島經營に應用された臺灣經驗
     5、おわりに

1、はじめに
 第2次世界大戰末期, 海南島で行われた日帝の韓國人と現地人等に對する殘酷な彈壓行動について十分に理解している韓國人は、今もほとんどない。最近、海外旅行の一環として休息とゴルフ等のため海南島にいく韓國人が増えているため、海南島をただ觀光地としてのみ知っているにすぎない。
 發表者が海南島近現代硏究會會員と3回、韓國獨立記念館獨立運動硏究所硏究員と2回等、合わせて5回にわたって海南島を訪問し、收集した資料及び論文を發表したことによって、硏究者の間で若干知られているだけであり、他の硏究者が発表した論文は1篇もないが、このことは、韓國における海南島硏究が依然として未知の硏究分野であるということを示している。
 海南島は强制徵用及び慰安婦として連行された韓國人と深い關係があり、韓國現代史の非常に重要な部門であるにもかかわらず、このことに關する硏究が手薄で、また、關心を持つ硏究者が現れていないことは、非常にはずかしく思う次第である。しかし、かかる問題は韓國硏究者のみに局限されるべきものものではなく、中華圈の硏究者にも關連する問題であるという點で、海南島近現代硏究會の活動は非常に重要な歷史的意義を持っており、また、未知の硏究分野を開拓していこうとする使命感を持つ團體であると評價すべきであると考える。

 以上述べたように、海南島に關する今までの硏究は質ㆍ量ともに問題を抱えている。今までの海南島に關する硏究狀況をみると、大體5つの方面で分けられる。
 はじめは ‘日本海軍と南進’に焦点を当てた硏究であるが、この方面の硏究は量的に少なくはない。これら硏究の重點は日本陸海軍の‘北進’と‘南進’に對する政治的論爭及びその擴張方向、そして實質的な利益を得る方法に對して論じているのが特徵である。
 二つめは‘海軍軍政’の下の海南島狀況に對する視角である。
 三つめは、日本の海南島占領に對する中國側の視角に對する論文である。これら論文の多くは日本軍統治の保護の下で、日本大企業の海南島資源の掠奪に對する考察である。
 四つめは、臺灣人の海南島經驗に對する議論であり、いつつめは海南島での臺灣拓植會社の役割と影響についての硏究である。
 本論文ではこれらの先行研究とは視角を別にしたものであり、日本政府がなぜ海南島を重視するようになったか、日本政府に先だって海南島を占領しようとした臺灣總督府の行動過程、及びその方法等について考察し、最後に、海南島占領の後、政治的ㆍ社會的ㆍ經濟的に環境が似っていた臺灣植民統治の經驗(いわゆる‘臺灣經驗’)に基づいてどのように海南島を支配したかを考察した。このような分析をおこなうのは日本帝國主義政府の對外擴張努力とその方法を再照射し、日本帝國主義の侵略性の一面を告發するためである。

2、海南島に對する臺灣總督府の慾望
 近代以後, 海南島は淸國によって開發される機會が何回もあった。
しかし、政治的な狀況變化によってその機會を失ってしまった。これに比して日本は、1895年下關條約に基ついて臺灣を占領した後、臺灣總督府を設立して植民統治を開始しつつ、さらに進んで‘南進基地’の必要性を認識し、その野望を達成するために海南島侵略政策を推進した。この政策を遂行するために、尖兵となったのが臺灣總督であった。特に初期の臺灣總督らはすべてが軍人出身であり、それまでの軍內部での謀議によって南進基地の重要性を知っていたので、海南島の地政學的、經濟的の重要性に對して誰よりもよく理解していた。彼らは、海南島を占領するための調査を1908年5月から開始した。
 この調査のため、醫藥品等の原料を確保するためという口實で、臺灣總督府が政治的に曖昧な狀況にあった廣東政府(当時、海南島を管轄していた)を利用して海南島の開發に對する協議をする一方、實質的に廣東政府を支配していた英國と外交的に妥協しようとしたこと等を見ると、これらの動きが南進政策の據點を確保しようとした日本政府と日本軍の戰略的な政策を完成するための布石であったのがわかる。
 しかしながら、中國民衆の反對運動のため、1920年代と30年代には廣東政府との共同開發企劃は頓挫し、
 臺灣總督府は海南島に對する關心を一旦ひっこめたが、南進のためには海南島の地理的な位置が非常に重要であったので、內部では引き続き海南島占領計劃を進めていた。
 そして、再實行の出發點は、日帝が人的·物的資源の總動員のため制定·公布した‘戰時統制の基本法’であり、1938年4月に日本海軍が臺灣に海軍武官部を開設し、‘海南島處理方針’を公布して海南島占領計劃が始まった。この‘海南島處理方針’の冒頭部分には、その要旨が明らかにされている。
   “海南島の軍事的、經濟的な重要性、そして地理的、社會的な特殊性を勘案する時、この
   島の統治にあたっては、當然ほかの占領地域とは異なる政策が行われるべきである。卽
   ち總體的な統治圈を確立することとともに、帝國の外地に對する統治理念を拡大するのを
   主な目標にしなければならない。それため、一つはこの島を統治する時、臺灣を統治した
   經驗を活用し、南方外地の一環として取り扱うべきである。二つは、この島を開發して必要
   な資源を確保しなければならなく、日本、滿洲、中國との經濟協力を强化すると共に、民生
   安定を圖らなければならない。三つは、この島を中心として東沙島ㆍ西沙島ㆍ新南群島に對
   する支配權を確立しなければならない。同時に臺灣および南方外地を統一し、帝國の南方政
   策を推する據點として作るべきである。”

 この文章から、この時点で既に海南島を永久的に占領すべき地域であると考えられていたことがわかる。
この政策を遂行する過程で、英國との外交的葛藤が想定されたので、まず獨立的な自治政府を樹立したあと、傀儡政府を親日派として編成するようにした。そして産業ㆍ金融ㆍ其の他海南島の開發施設に關しては臺灣拓植會社にすべてを委任して經營するようにした。これは臺灣總督府が臺灣經驗を海南島に移植して統治しようとした切迫した心情をよく現わしているといえよう。
 結局、1939年2月10日、日本海軍が主導する中で海南島を占領し、海南島はこの時から敗戰まで6年間日本統治の下に置かれた。このように、臺灣總督府の海南島支配野望は、英國との國際關係、廣東軍閥政府の利用、現地調査、臺灣經驗に基ついた統治方法の構想等すべての點を考えながら、長期的な計劃の下で推進されたことがわかる。

3、臺灣經驗とはなにか
 日帝は海南島を占領した後,照年日本が臺灣を接收して以降、臺灣統治の過程で累積された政治、經濟、社會、産業等の各方面の經驗、卽ち‘臺灣經驗’に基ついて海南島を統治した。日本の著名な經濟雜誌である《ダイヤモンド》の石山賢吉記者は‘臺灣經驗’に對してつぎのように觀察していたことがある。
   “日本は海南島を占領した後、すぐ臺灣を重視することを始めた。なぜなら、海南島を統治す
   る時、臺灣統治の經驗が非常に效果的であろうと考えたからであった。例えば、巡査の場合
   日本內地から來た者より、臺灣で採用した巡査がずっと效果的であるからであった。なぜなら
   かれらは氣候に習れており、中國人を取り扱った經驗があったからであった。勞動者もまた臺
   灣人が非常に適合いしていた。農作物の栽培面でも臺灣經驗が應用できたからであった。こ
   んど海南島開發に對してわが海軍當局は、資本と技術者を活用するにおける經驗があるか、
   實力がある者を歡迎するという方針を立てている。わが海軍はかかる方針に從って30餘個會
   社に海南島開發を指定した。しかしこれら會社が海南島海南對する開發はそんなに熱情的で
   はなく、ただ機會だけをのぞいているようすである...........なぜならかれらの經驗はすべて內地
   での經驗であるから熱帶農業についてはよく分からないので、全く手をつける餘地がないので
   ある。しかしその中で一番突出した會社があり、それがすなわち臺灣拓植會社である。臺灣拓
   植會社は既に試驗栽培の經驗があり、整地作業もやった經驗があるので、その成績が非常に
   優れている。かかる臺灣拓植會社の經驗は海南島內のすべての面で非常に有用である...........
   かかる臺灣經驗は臺灣を統治しながら苦心して得られたのであるから、それほど報答がある
   はずなので、臺灣は南進基地を建設するのに全力を出す使命感を持っているといえよう。”

 これを見ると、日本の臺灣經驗が新たな占領地に對して如何に大きな影響を与えたかが知られる。
では、かかる‘臺灣經驗’は、どのようにして獲得され、蓄積されることができたのであろうか?
 その要因は三つの側面に要約できる。一つめは、日本政府が臺灣總督に軍事執權獨裁專制をおこなうことができる權限を與えたので、‘臺灣經驗’を得ることができたという点である。二つめは、多樣な方面での特殊業務を遂行する警察機關を設立し、恐怖統治を通じて抵抗勢力を封殺できたので、自分の計劃を推進していくのができたという点である。三つめは先の二つの目標を效果的に達成するため、“臺灣で臺灣をおさめる(以台治台)”という政策を實施したためであった。この‘以台治台’の骨格は、厳格な保甲制度と連坐法であった。これらについての具體的な實行狀況は本文を參考していただきたい。
 このような手段によって臺灣において遂行された植民統治は、臺灣を恣意的に蹂躪し、臺灣人を奴隸化するのに非常に効果的であったので、臺灣の財富と資源は容易に掠奪されていった。かかる統治手段は、そのまま海南島占領後の植民統治にも適用され、臺灣と同様に海南島民衆にも苦痛を與え、海南島の資源を掠奪するのに大きな作用を果たしたのである。

4、海南島經營に應用された臺灣經驗
 このように、日本政府はいわゆる‘臺灣經驗’による海南島支配を極大化させた。
 卽ち、“海南島と臺灣の間には早くから多くの交涉があった。往年、南進論を鼓舞する時、先輩たちは海南島の開發に對して相當に苦心した。占領後海南島をどのようにするか?......結局臺灣總督府は軍部側に地理上の各種有利な條件を基礎にして海南島を親日地域と作ることを要求しながら ‘臺灣經驗’に基ついて軍部側の活動を大々的に支援した。”
 これは軍部側にすべての權限を與え、强力な支援を通じて海南島で臺灣のように確固たる植民統治ができる基盤を確保せよという要求であった。
 かかる植民統治は、1938年臺灣總督府內部で事前に決めおいた“海南島處理方針”に從って實行されたのであった。この方針の実行は、1939年4月1日臺灣總督府の事務官も乗船した定期船‘めなど丸’が臺灣を出航し、海口に到着して臺灣總督府事務所を開設した中で始まった。
 この事務所の任務は、海軍、陸軍、外務等によって構成された三省聯合會議及び其の他派遣された駐在機關と協力して事務を處理し,博愛會等總督府關係の諸般團體及び施設、そして調査團に對する總括指揮、臺灣銀行ㆍ臺灣拓植會社ㆍ各種商社等を指揮しながら連絡を取ることであり、關係者に對する指導等の事務及び海南島に對する諸般調査等を管掌することであった。
 臺灣總督府は、かかる應急措置を管掌してその機能を發揮させることのほか、“異民族の統治、熱帶農林業、熱帶醫學”等の領域で、植民地の行政經驗がある者や、知識經驗がある者を派遣して管掌させたり、また、海軍特務部の‘軍政要員’を派遣して敎育關係、日本語學校、農林、畜産、水産關係、專賣關係、電氣通信關係、度量衡關係、産業試驗場、植物檢査所等の各方面を擔當させたりした。
彼らが‘臺灣經驗’を通じて海南島で實行した各種制度及び事業の内容については、本文を參照していただきたい。
 このような狀況を見れば、‘臺灣經驗’が海南島へ移植され、海南島の經營を主導したのが理解されるであろう。このように、日帝の臺灣における植民統治經驗は、‘大東亞共榮圈’を建設するのに實質的に大きな助けになり、海南島もまたその布石のための犧牲地になったことがわかる。

5、おわりに
 日本は内地以外の地域を統治しようとする際に、臺灣をモデルとして經濟を發展させようとし、これを日本帝國の經濟發展の一環としてみなし、自己の經濟圈内で必要なものを補充しようとした。このような基本原則は 海南島にもそのまま適用され、驚くべき方策が提案された。それはまず住民の皇民化を根本政策とすることであった。つぎに計劃經濟を基盤として産業發展を引っ張っていくという方策であった。三つめは臺灣經驗を活用してすべての政策を具體的に樹立して運用するという方策であった。そしてかかる方策の實施に際して‘臺灣經驗’を活用し、約10年間で現在の臺灣と同水準まで統治成果を上げることを目標とした。10年間で臺灣のような‘統治成果’を上げると計劃したことは、いかに‘臺灣經驗’に對して自信を持っていたかということがうかがえる。
 このように‘臺灣經驗’を海南島に普及しようとする切迫した心情は、日本政府の長きにわたっての宿願である南進政策を實現するための橋頭堡を確保したいということと、海南島の豊富な農業資源、林業資源、鑛山資源を開發し、植民地統治及び戰爭において必要な資金を支援しようとしたことの2点に由来するものであった。換言すれば、國防、軍事、南方經營、産業發展という側面から考慮して、海南島を日本の國土に編入することは當時の日本が置かれた狀況においてで最上の方法であり、編入後において最大の效果を得るためには、‘臺灣經驗’による經營が不可欠であったという事實を確認することができる。
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『臺灣日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか

2016年08月29日 | 海南島近現代史研究会
■『台湾日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか ■

                                       竹本昇

 海南島近現代史研究会第5回定例研究会(2010年2月14日)では、「臺灣日日新報」は、日本軍奇襲上陸(1939年2月10日)以降の海南島侵略をいかに報道したかを報告しました(このブログの2010年2月15日の「『台湾日日新報』の記事」をみてください)。
 今回は、1939年2月10日の奇襲上陸前において、海南島侵略を報道していたかについて調べました。

■経済侵略関係
★1908年1月19日 みだし=「蓖麻子油について」 
 記事=「我國に於いては未だ商売的にこれを栽培しやるものなく随って其成績として挙ぐべきものなきを以て参考として廣東省か海南島に於ける栽培法を示すべし」 
     「以上は海南島に於ける栽培法にして移して以って直ちに適用することの良否は未だ遽(には)かに断言し難きも本島に於いては或いは以上の栽培法よりも容易に簡便に栽培し得べし」

★1909年7月9日~14日 みだし=海南島探検(一)~海南島探検(五)
 記事=「今日の如き海上の交通が自由自在なときになっても、同島の事情は、比較的紹介されていない、臺灣あたりでは、全く同島の事情を知ったものはない」
     「殖産局小西嘱託は、此島が天蚕の本場であると云うので、天蚕の状況を調べ、同時に他の動植物や人類産業等の一般状況を調べるために、五月二三日に出発して同島に赴いた」
★1922年2月17日 みだし=凌海丸の遠征 昨日高雄出帆
 記事=「総督府殖産局の水産試験船凌海丸は既報の如く南支那、海南島、佛領印度支那等に於ける水産調査を行うべく一六日午後三時高雄を出帆し遠征の途に就いたが出帆に際し東内務部長を始め州職員其他の有志はランチにて港外まで見送った」
★1922年8月21日 みだし=種豚輸入 海南島から一三頭を
 記事=「臺中の請負師堀土三郎氏は製糖会社の藤の原料採取の為め過般海南島に出張したが同氏は海南島の豚が非常に優良であるらしいので種豚として雄を一頭、雌一二頭計一三頭を本島に輸入した・・・気候風土は本島と毫も異ならず・・・本島に於いては好結果を得るであらうと期待されて居る」
★1925年1月1日 みだし=臺灣から南へ南へ! 海南島へ着目せよ
 記事=「帝國の南方発展策として其使命を完うするには・・・・、帝國の南支南洋支店たる臺灣に更なる南方の何處かにに出張所を設けて貰いたいと思います・・・ソレは廣東省雷州半島に直面し東西交通の咽喉を扼し而も豊饒な土地であり乍ら外國の勢力が餘り及んでゐない海南島であります。此島を是非當局に於いて調査して貰い、一方有力な實業家及資本家に渡航して貰いたいのであります。」
★1928年9月8日 みだし=臺灣に倣って居る 海南島の開發 交通第一主義で押通す黄△氏 ―貴州丸で歸つた平間技師談
★1930年9月23日 みだし=海南島視察記 臺北帝大生土屋米吉 海南島の民情 
★1931年2月16日 みだし=海流瓶の行方 桃園沖から海南島へ
 記事=「總督府水産課では、凌海丸にて海洋調査の際昨年十一月十七日午前十時三十五分桃園沖三十浬の地點で十本の海流瓶を投下したが其中の一本が本年一月二十二日午前八時半頃海南島に到着取得した旨支那人から通知があった。・・・・水産當局の語る所によれば・・・海洋調査から見れば貴重な参考資料」
★1936年9月26日 みだし=製糖事業には有望な海南島 北海から歸つた入江○○談
 記事=「勝間田氏の話では海南島を開發して甘薯を植ゑ製糖をやれば支那全土に供給するだけの砂糖は立派に出来るといふ事だ」
★1936年10月9日 みだし=海南島海口に 俄然排日熱が再燃 馬公で眞否を懸念
 記事=「七日夜ラヂオ放送によつて海南島海口に於て排日熱急に再燃すと報ぜられたが馬公要港部には右(みだしの文)に就いて未だ何等の情報も入つてゐないので其眞否に就き大いに懸念してゐる」
★1936年10月10日 みだし=海南島は南方の寶庫 笹川大尉講演
 記事=「海南島は臺灣よりははるかに資源に富みまだ放置されてゐる寶庫で将来どうしても〇〇の手によって開發せねばならない、今まで餘りに閉脚されてゐた様だ英米の如き多数の人を派し石油其他資源獲得に努めつつあり病院、教會等を通じて人心収攬を行つてゐる、同地の日本人は勝間田氏一人だが家族は既に引あげたとあるから将來の事が思ひやられる。中野氏の死は全く御氣の毒であるが今回の事件によつて日本の海南島に對する認識を深からしめたとするならば同氏の死は決して犬死ではない」
★1936年10月13日 みだし=海南島は招くⅡ この南海の寶庫にも 歐米の魔手は伸びてゐる
記事=「海南島の△業は未開の一語につき、その経済的價値は希望の未知数だ―現在判明してゐる鉱産物の種類は錫、鉛、砂金、鐡、雲母等で凡んど無尽盡と謂われ、全島十四ケ所に小規模な英國系資本で錫の採鑛が行はれてゐるのみである専門家の本格的調査を俟てば脅威に値するものがあらう。資本と科學と人力を持たない島の人達にとつては、寶庫の持ち腐れである。・・・・
 斯の如く總ての事業に於て幼稚の域を脱せず、若し近代式方法を以て開拓すれば島の生産力を数倍加することは容易である。しかしこのバージン・ランドにも歐米の魔手は伸ばされつつあるのだ。・・・勝間田翁は各國の勢力に比して日本の微力なることを遺憾として義久氏と協力し海南事情の書を刊行し、日本朝野の決意を喚起すべく数年前より資料蒐集に努力中であるが、既に草稿の大半を完成してゐるのでその出版は時局柄大いに期待される」
★1936年10月14日 みだし=海南島は招くⅠ 南進 國策の重要な足溜めたらしめよ
 記事=「海南島は我が南進國策の足溜まりとして、経済的のみならず軍事的にも重要性を持つことは贅言を要しないであらう、然し南支那海の制海権を把握するには幾多の重要施設を必要とする、またその時代でもない、無限の寶庫を拓く鍵は資本と科學に先行して、まづ農業移民に與へられてゐる、我が移民を送るに好都合な条件は、島自體が政治的に獨立國形態にあり、・・・。人種的には海南人は穏健であることだ從って島内より抗日排日思想を驅逐することも、政策如何によつては敢えて難事ではない」
★1936年10月22日 みだし=“海南島の開拓をやつて見たい”桑原前基(ジ)隆(ロング)市尹(イン)談
 記事=「私は海南島にどうしても一度行きたいと感がへる領土的野心は持たずに同島を文字通りパラダ
イスにしたい」
★1938年11月30日 みだし=否定された海南島も 企業的生産に成功
                    臺灣生ゴム樹栽培論  (八) 總督府官房外務部 佐多 長春
 記事=「将来のゴム生産に就いて、海南島が重要なる役割を演ずるで有らう事は、想像に難く無い・・・
      その昔完全に否定せられたる海南島のゴムは、今や完全に導馴せられ、企業的生産に立派に成功しつつあるでは無いか?各作物の持つ南限を征服する事が出来、台湾の如き亜熱帯地にも生産し得るので有つて、之即ち台湾山地開發の技術的原理である」

■北海事件関係
★1936年9月9日 みだし=海南島海口で邦人殺害さる 香港總領事館に入電
 記事=「海南島海口在留者勝又善作氏より香港總領事館への入電に依れば雷州半島の西部に當る北海の在留邦人平野某は支那人のため殺害されたと云はれる、原因その他詳細不明」
★1936年9月15日 みだし=海南島にも便衣隊潜入 在留邦人を極力保護
 記事=「目下軍艦嵯峨は北海港外にあり嵯峨艦長は海南島海口に於て同地の公安局及び鞍靖公署の秘書陳香氏と會見した・・・公安局長代理は『去る三日北海で日本人中野を短刀で殺害した事件後當地の日本人に對しても嚴重保護を加へてゐるが現にに勝本某に對して二名の巡警つけて保護してゐる中野を殺したのも一九路軍か便衣隊であらう當地にも便衣隊が入つたと云ふので警戒してゐる』と云ってゐる」
★1936年9月16日 みだし=任務遂行の障害 速かに除去せよ 今明日中に提出か 
                    南遣部隊終結完了
 記事=「海南島に南遣部隊の集結を完了せる我が海軍では事件の調査及び北海に在る居留法人保護の見地から支那側に對して我方の任務遂行に支障を来す一切の障害を速かに除去するよう嚴重申出を今明日に提出する模様である」
     「在上海大使館附海軍武官室は本日左(上記)の發表を爲した 我が海軍の有力なる南遣部隊は今日海南島に集結を完了した」
★1936年9月16日 みだし=我北海調査員 海南島にて待機 國府の保障工作完了まで
 記事=「北海事件に關する我調査員を乗せた軍艦嵯峨は萬一に備へるため集結された第十三駆逐隊と共に海南島某所にありて嚴重なる警戒を行ってゐるが、これら出先當局と密接なる連絡を執りつつ飽くまで支那中央政府を責任ある保障工作をなさしめて後現地を行ふべく努力して居り未だ一歩も惨害地に踏入らず待機の姿勢をとつてゐる」
★1936年9月22日 みだし=蒋氏、海南島の防備強化を計る 獨立第九旅を新設
 記事=「蒋介石氏は日本が北海事件現地調査のため軍艦を海南島北岸海口に派遣せしめた事より時局の尖鋭化を見越し之に對抗する目的をもつて海南島の防備強化を圖り、同島に獨立第九旅を設置することとし、二十日王定暇を旅長に任命之を發表した。獨立第九旅は三個團より成り一旦戦闘勃發せる際は全滅を賭して外敵より海南島を護れと訓辞されてゐると言はる」

■軍事侵略関係
★1933年4月18日 みだし=海南島沿岸に海軍根據地
 記事=「廣東省沿岸防備強化の爲海南島海岸に海軍根據地を建設する案が目下西南派将僚間で計畫されて居るが建設費は特別公債で支出する」
★1937年9月10日 みだし=海南島の防備を強化 日本軍艦現はれたとて
 記事=「海南島瓊州より廣東軍事當局への入電によれば七日夕刻日本軍艦〇隻が瓊州海峽(雷州半島と海南島の間)に現はれ廣州湾を中心に海空より同方面の支那船舶の航行を監視中であるとのことで余漢諜は直に海南島と北海駐屯部隊に對して二十四時間以内に戦闘準備をなすやう命令を發した、北海駐屯部隊は廣西軍の増援を得て目下三万餘の兵力に上つてゐるに對し海南島部隊は十旅にすぎなかつたものが廣東軍の増援を得て三倍の兵力となる模様である」 
★1937年9月19日 みだし=海南島 海口を砲撃 我が軍艦〇隻 一時間に亙り
 記事=「去る一六日午後五時三十分我軍艦〇隻は海南島の主要港海口を砲撃支那側も砲臺より反撃し來り交戦約一時間にして埠頭其他軍用施設に多大の損害を與へて引揚げた」
★1937年11月5日 海南島を望む  写真のキャプション「海南島を遠望」・「偵察に出動の○○艦載機(後方に見ゆるは海南島最南端)・「○○島に碇泊、錨を下す○○艦」   ―總督府許可済―
★1938年1月25日 みだし=海南島楡林港を砲撃 臨檢隊を小癪にも齊射 直ちに反撃、敵陣を粉碎
 記事=「大本營海軍部公表 南支方面海上監視中の我が海軍○○部隊は豫て海南島楡林港に支那戎克船の密航するものあるに注意しつつありしところ本月十九日軍艦○○は午前八時三十分同港に進入し飛行機偵察の結果、港内に戎克多数碇泊中を發見せり、依つて同艦臨檢隊は内火艇及びカツターに搭乗し陸岸に向け航行中、突如港内陸岸倉廩より機関銃及び小銃の齊射を受けたるを以て直ちに反撃を加へ、軍艦○○亦この敵を砲撃、機銃陣地等を粉碎し敵に大打撃を與へ潰走するに至らしめ無事臨檢隊を収容せり、本戦闘に於いて臨檢員に三名の輕傷を出したる外我方に損害なし、尚同港の周圍には砲△を構築しあるを確認せり」
★1938年4月16日 みだし=小癪・敵陣地から 矢庭に一齊迷射 海南島附近で航行遮斷中 
 記事=「先般我が○○が海南島附近で支那戎克船の臨檢に赴いた所何を血迷つたか小癪にも陸上の敵が我に猛射を浴びせかけた、其腹癒せなんてそんなケチな考へでは勿論ないのであるが○○日我が○○は勇猛果敢同地の重要軍事施設に對して猛爆撃を加へた、敵は我が爆撃に對して高角砲で抵抗して来た、連続二日に亘る今回の爆撃に依つて敵の○○重要軍事施設は徹底的に損害を受けた事は確実である、無論我方海の荒鷲に微少の損害だもあらう筈がない、・・・
     支那は遉に宣傅上手な国である、・・・文明国人が文明の新聞に對する觀念を以つて支那殊に現在の支那新聞などを讀んで居たらとんでもない目に遭う、是れはつい最近に事実がであるが、我が○○は去る日的に○○砲台と一寸撃ち合つて、悠々其場を去つて行つた、・・・
     実際は敵の砲弾は弾片さへも受けてゐない・・・それが撃沈とあるから笑はせられる、・・・
     只善良なる一般民衆が迷はされる事が氣の毒であり、又平和促進の阻害となる事をおそれる(原文は漢字)次第である」
★1938年6月19日 みだし=海南島を爆撃
 記事=「艦隊報道發表  十七日中南支一帯は天候極めて險悪時に豪雨來襲せり
     一、揚子江進撃部隊は悪天候により刻々増水しつつある濁流を制し着々水路障碍物を排除進撃を続け續けつつあり
     二、航空部隊は新學線、廣東西江方面を攻撃、・・・又海南島攻撃部隊は海口における警備司令部及び軍事施設を爆撃大なる損害を與へたり」
★1938年11月22日 みだし=海南島の防衛を嚴命 瓊州で重要軍事會議
 記事=「某方面よりの來電に依れば国民政府は此程海南島の防衛に關し嚴命を發したものの如く、最近同島官憲と国民政府との間に頻繁に通電連絡が行はれてゐるが、また同島軍事當局は瓊州に重要軍事會議を開催したと言はれてゐる」
★1939年2月11日 みだし=海南島上陸を祝し 旗行列と提燈行列 あす全島一齊に擧行
 記事=「南支の要地であり色々な点で似た所が多い所から本島とは馴染の深い海南島に皇軍の精鋭の一部が上陸に成功したとの報は五百万島民の上に大きな歓喜を齎(もたら)してゐるが、この島民の歓びと今回の壮挙に従つた皇軍将兵の辛勞に對する感謝を形に表はすべく總督府では十日正午二見長官代理以下部局長が参集協議の結果、十一日の紀元節の佳き日を期し全島一齊に旗行列(畫間建国祭終了後)と提燈行列を行ふ事に決定その旨地方△に通牒を發した」
★1939年2月11日 みだし=瓊州、海口を占領 我が上陸軍先頭部隊
 記事=「我が上陸軍先頭部隊は十日午前十時四十五分瓊州に入城した、又他の有力部隊は午前十一時海口に進入し日章旗を翻した」
           みだし=我に損害殆どなし
 記事=「一.・・・同島第一の都會海口を占領せり
      二.・・・占領により海上部隊の今後に於ける活動を益々容易ならしめ」
           みだし=陸海の荒鷲交々 敵軍に巨彈の雨
 記事=「・・・我が軍は目下〇〇と瓊州間の街道を進撃中で又海南島における二大都市たる瓊州、海口はともに日章旗が全域に翻つてゐる」
           みだし=海南島の攻撃と其の意義
 記事=「一 十日早朝、吾が陸海軍の精鋭部隊が海南島を奇襲、上陸進撃中といふ大本營陸海軍部の公表は、國民の期せずした快哉を叫ぶ一大快報であつた。南支方面作戦の根據地として、又援蒋ルート覆滅といふ上から見ても、海南島攻略の意義は頗る重要なるものあるのである。海南島は、香港とシンガポールの中間に横たはり又佛領印度支那とは、一衣帯水、租借地廣州湾の咽喉を制する共に、比島以南の他南洋方面に對しても無言の壓力を加ふるものである。之に依て香港海防等孤立化し、南支の動脈は掌中に△したものと謂へる。英、佛両國の受けたる動揺は蓋し想像以上のものがなくては叶ふまい。
      二 ・・・新支那は現に生成しつつある。興亜新體制は愈よ運命共同體としての根基を固めつつあるのだ。」
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1908年には蓖麻子油(潤滑油に使用)の栽培方法を海南島から導入するべきとの主張、その後、製糖の原材料を海南島から手に入れるために海南島を調査したこと、海南島を開発して製糖業を起こすことを主張、軍人の大尉が海南島は南に宝庫だから開発すべきとの主張、鉱産物が無尽蔵にある海南島を開発するための決意を官民に喚起、などの記事が掲載されていました。
 1907年に台湾総督府殖産局が蚕山調査、1922年に殖産局が水産調査、1931年総督府水産課に海洋調査、当局への調査と実業家・資本家への渡航を求める記事、海南島を「南進」の拠点にすることを国策とするべきとの特派員の記事、総督府は台湾でのゴム生産技術の開発を誇っている記事が掲載されていました。
 1933年廣東省沿岸防備強化を理由に、海南島に海軍根拠地建設が計画されたこと。1936年9月3日に起きた「北海事件」により、日本軍は海南島に南遣部隊を配備した記事が掲載されていました。
 1937年7月の日中全面戦争により、同年9月16日海南島海口を砲撃、11月5日の海南島(「最南端」と記載)に軍艦が出動、1938年1月には海南島最南端の三亜の楡林港を銃撃、1938年4月海南島爆撃(場所は〇〇と伏字)、1938年6月海口爆撃の記事が掲載されていました。
 1939年2月10日の奇襲上陸以前にも、日本軍は海南島への武力攻撃を行っていました。

     注=〇〇は、原文記事が〇〇表示。
     △は、マイクロフイルムからのプリントで字が潰れて判読不可能な文字
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海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会 進行表(抄)

2016年08月28日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会 進行表(抄)■
  と き:2016年8月28日13時10分~16時50分
  ところ:クレオ大阪西 研修室            

主題:海南島と台湾

■開会あいさつ 
■主題報告 海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)
                            佐藤正人
■主題報告 臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南經營
                            金勝一
■主題報告 台湾総督府・朝鮮総督府・南洋庁・「海南庁」 
                            金靜美
■主題報告 台湾総督府の南進政策と海南島侵略
                            斉藤日出治
■主題報告 抗日霧社蜂起犠牲者の遺骨略奪と差別研究および海南島調査
          ――台北帝国大学・金関丈夫に即して
                   三木ひかる(紙上参加。紹介:佐藤正人)
■主題報告 『台湾日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか
                            竹本昇

     休憩
                              
■討論 1945年8月以後の海南島・台湾・ベトナム・フィリピン・インドネシア・朝鮮……日本
■報告 海南島への侵略と支配(所蔵資料1.図版・写真記録関係の紹介)
                            久保井規夫
■調査報告 第29回・第16回海南島「現地調査」(2016年春)   
                            金靜美
■2016年10月の海南島近現代史研究会の17回目の海南島「現地調査」について
■大阪労働学校第一回公開講座「日本の海南島における国家犯罪」について
■閉会あいさつ                            


■懇親会・交流会
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海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」………) 

2016年08月27日 | 海南島近現代史研究会
海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会報告要旨
■海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」………)     佐藤正人

   1 帝国主義諸国の他地域他国侵略史における海南島と台湾
   2 海南島侵略機関としての台湾総督府
   3 台湾人兵士・軍属
   4 台湾報国隊・朝鮮報国隊
   5 海南島の「慰安所」に入れられた台湾人女性
   6 姜延壽さん

1 帝国主義諸国の他地域他国侵略史における海南島と台湾
   琉球王国、台湾民主国、マダガスカル(メリナ王国)、ハワイ王国。
   アヘン戦争、義和団戦争、マジマジ戦争、シベリア戦争。
   シオニストのパレスティナ侵略→「イスラエル国」。

2 海南島侵略機関としての台湾総督府
  国民国家日本は、アイヌモシリ、琉球王国、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部を植民地としたあと、海南島を植民地としようとした。台湾が、海南島植民地化の基地とされた。おおくの台湾民衆が、日本軍の兵士として海南島に送りこまれた。台湾の獄中者が、日本軍用飛行場建設などのために海南島に送りこまれた。台湾の女性が日軍隊性奴隷として海南島に連行された。鉱山労働者として台湾の青年が海南島に強制連行された。日本政府は、台湾総督府に相当する海南島総督府をつくろうとしていた。台湾植民地化と海南島植民地化は連続していた。

※「海南島ニ對スル台湾総督府ノ協力」
 アジア太平洋戦争戦争開始1か月後、1942年1月、台湾総督府は、「南支及海南島ニ對スル台湾総督府ノ協力概要」という文書をだした。それは、「厦門」、「汕頭」、「広東」、「海南島」、「其他」の5章からなり、第4章「海南島」の構成はつぎのようなものであった。
    第一節  政治行政関係、   第二節  宣撫宣伝関係
    第三節  医療防疫関係、   第四節  交通通信及土木関係
    第五節  公共事業関係、   第六節  産業関係調査及指導
    第七節  学術調査隊ノ派遣、 第八節  台湾関係会社銀行ノ進出
    第九節  一般産業開発ニ對スル協力、  第十節  其他
 第九節には、「目下軍ノ要請ニ依リ派遣方手配中ノ石碌鉄山ニ於ケル台湾人労働者二、〇〇〇名ヲ始メ同島開発ニ對スル労務者其他技術員ハ多ク台湾ヨリ派遣セラルヽ等同島開発事業ノ台湾ニ對スル依存性ハ極メテ大ナルモノアリ」と書かれており、第十節には、「台湾人ノ中目下海南島ニ於テ通弁若クハ軍夫トシテ従軍活躍中ノモノ通弁約四百二十名、軍夫千五百余名アリ而シテ現在同島ニ進出セル台湾人ハ右軍関係者ヲ除キ男約二千名、女約百九十余名ニシテ在留邦人約五千名ノ五分ノ二を占ム」と書かれている。

※「海南島の開発と台湾」
 「海南特務部は漸次事実上の行政庁となりつつあるが、その要員は内外地官民各方面より派遣されてゐる。然し台湾よりの派遣員はその大部分を占め、殊に熱帯植民地特殊行政の経験手腕を必要とする教育関係、農林・畜産・水産関係、土地制度・専売制度・衛生制度関係等の分野は全く台湾よりの派遣者を以て構成されてゐる状況である」、
 「現地海軍各部隊に隷下し警察部面より治安確保に協力すべき多数の警察官及び警察官補の派遣があり、又多数の台湾人の軍通弁並びに軍夫を派遣してゐる」。
       青木茂台南州産業部長(前台湾総督府海口出張所長)「海南島の開発
      と台湾」(執筆日1942年10月18日。台湾経済年報刊行会編『台湾経済年
      報』1943年版〈国際日本協会刊〉)。

3 台湾人兵士・軍属
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第二三軍司令官田中九一代理)の名でだされた第二三軍司令部の「状況報告」の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、「海南島地区」の陸軍部隊は68人、海軍部隊は3万3475人、居留民は1万1935人、計4万5478人であり、陸軍部隊は全員が「内地籍」、海軍部隊は、「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「カンセキ」733人、居留民は、「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「カンセキ」1233人と書かれている。ここでは、日本敗戦時に、日本海軍部隊に入れられていた台湾人は、1万5068人であったとされている。
 日本海軍の用紙に手書きで書かれた佐世保鎮守府第8特別陸戦隊「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」(『海南地区終戦処理概要及現状報告』1946年)には、日本敗戦時、同特別陸戦隊に所属していた「台湾籍軍人軍属」約1500人は1945年11月7日に中国陸軍に「正式ニ移管」し、「朝鮮籍軍人軍属」23人のうち、10人は海口の「朝鮮人民連合会」に加入し、13人が約1600人の日本人とともに「集結地」(田独の「石原鉱山宿舎」)に行き、1946年2月下旬に「正式ニ中国側ニ移管」したと書かれている。

4 台湾報国隊・朝鮮報国隊
 1943年9月25日に、内務大臣安藤紀三郎は、総理大臣東条英機あて文書で、台湾での獄中者の構外作業を監督する職員の増員を閣議決定することを要請していた(「臺湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」1943年9月25日付け内務省臺管第190号)。
 そこに添付された「受刑者構外作業ニ伴フ増員 要綱」には、「海南島鉄鉱開発上急施ヲ要スル鉄道工事……」と書かれていた。また、「受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件 説明」には、
 「日本鉱業株式会社(金瓜石銅鉱山五〇〇人)及株式会社西松組(海南島鉄道建設一、〇〇〇人内第一回分三〇〇人)竝ニ臺南市役所(土木工事二〇〇人)ヨリ夫々収容者出業方要求アリ之等ハ何レモ戦力増強目的ノ上ヨリシテ緊急不可欠ノ事業ニ属スルノミナラズ……」
と書かれていた。「構外作業」する台湾の獄中者を監督する職員の増員は、1943年9月27日に閣議決定された。台湾の刑務所から海南島に連行する獄中者300人を監督するために増員された職員は35人だった(典獄補一、看守長二、看守三〇、保健技師一、教誨師一)。
 その半年前、1943年3月末に、「朝鮮報國隊」に入れられて、朝鮮の刑務所から海南島に連行される朝鮮の獄中者がソウルを出発していた。

 朝鮮総督府法務局行刑課内にあった治刑協会が発行していた月刊誌『治刑』(1944年3月号)に、看守長貴島貞四の「我等は挺身する」と題する文書が掲載されている。そこに貴島は、
 「此の頃の気候は海南島でもつともよい季節で、随て作業能率も大いに増進してゐる」、
 「朝鮮報国隊は各方面とも、予てからその作業振りに対して頗る好評を……」、
 「○○には台湾報国隊も進出し……」
と書いている。この伏字になっている「○○」が具体的にどこなのかははっきりしないが、「台湾報国隊」に入れられた人の一部は、1944年はじめころ、海南島東南部の陵水で働かされていた。

 2000年春に、陵水黎族自治県三才鎮后石村に住む龍起義さん(1926年生)は、
  「朝鮮人と台湾人が、近くで飛行場建設の仕事をさせられていた。朝鮮人が住んでいたところには、門に“朝鮮報国隊”、台湾人が住んでいたところには“台湾報国隊”と書かれた木の板がかけられ、鉄条網で囲まれていた。見張っている人間がいつもいるので罪人だと思っていた」、
  「近くに日本軍人たちの建物があった。門に“海南島海軍施設部陵水工事事務所”という木の板がかかっていた」
と話した。朝鮮で「第7次南方派遣朝鮮報国隊」が編成されたのは1943年末だった。このとき、海南島に「朝鮮報国隊」の人たちを連行した刑務職員は41人で、その総責任者は、朝鮮総督府大田刑務所の看守長であった衣笠一(1913年生)だった。衣笠は、2001年に書いた「(自分史) わが足跡 上」の「陵水時代」の章に、1944年1月に「第7次南方派遣朝鮮報国隊」が陵水飛行場建設現場にトラックで運ばれたとき、そきには、すでに、「朝鮮報国隊」の人たちが450人、「台湾報国隊」の人たちが200人働かされていた、と書いている。

 1943年9月27日に閣議決定された「臺湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」の添付文書に「株式会社西松組(海南島鉄道建設一、〇〇〇人、内第一回分三〇〇人)」と書かれている。 
このとき台湾の刑務所から海南島に連行された「台湾報國隊」の人たちは、黄流~北黎間の軍用鉄道建設工事をさせられたと思われる。
 創業百年史編纂委員会編『西松建設創業百年史』(1978年)には、つぎのように書かれている。
 「西松組は海南島における港湾整備、鉄道建設、鉱山開発のため1941年台北に台北支店を、海南島に海南営業所を開設した」、
 「海南島開発の工事は、大別して三つに分けられる。第一は三亜~北黎間204kmの軍用鉄道建設、第二は日窒海南興業による石碌鉱山開発(西松組担当)、第三は石原産業による田独鉱山開発(清水組担当)である」、
 「海軍省は……軍用鉄道を北黎まで延長することを決定、1943年3月、黄流間80kmを2工区(第4工区、第5工区)に分け、いずれも西松組に特命した」(原文、「元号」使用)。

5 海南島の「慰安所」に入れられた台湾人女性
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死した。
 朴来順さんとおなじ紅沙の「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さんは、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を、1999年にはじめた。2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、三亜、紅沙の「慰安所」に入れられたと証言した。盧満妹さんによると、その「慰安所」には30人あまりの女性が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮人女性や日本人女性もいたという。
 2000年8月15日に大阪で開かれたアジア、太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会で、金靜美さんは盧満妹さんと直接はなしをする時間を持つことができた。そのとき盧満妹さんは、紅沙「慰安所」のすぐ近くには、石原産業の会社事務所があったと話した。

6 姜延壽さん
 1945年8月14日の日本敗戦後、数年間、戦犯裁判が上海、広東、香港、漢口、北京、南京、瀋陽、シンガポール、マニラ、グアム、ラバウル、クアラルンプール、バタビア、メダン、サイゴン、東京、横浜などでおこなわれた。
 東京での裁判(極東国際軍事裁判)以外は、USA軍、イギリス軍、オランダ軍、中国国民党軍、フィリピン軍、オーストラリア軍、フランス軍による軍事裁判としておこなわれた。このとき、中国人とフィリピン人以外のアジア太平洋民衆は証人としては参加したが裁判権を行使することはできなかった(中華人民共和国で瀋陽と太原に特別軍事法廷が開設され戦犯裁判がおこなわれたのは1956年だった)。
 極東軍事裁判の裁判官は、アメリカ合州国、オーストラリア、フィリピン、ソ連、フランス、中華民国、オランダ、カナダ、ニュージーランド、イギリス領インド帝国からのみ、 検察官はアメリカ合州国、中華民国、フィリピン、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド、イギリス領インド帝国からのみ派遣されており、中華民国とフィリピン以外のアジア太平洋諸国・諸地域の人間は裁判権を行使できなかった。
 アジア太平洋地域における最悪の戦犯である天皇ヒロヒトが逮捕されず訴追されなかったことに明白に象徴的に示されているように、戦犯裁判は、不十分で不公正なものであった。
 戦犯裁判において、おおくの台湾人と朝鮮人が国民国家日本の侵略戦争の戦犯として逮捕され裁かれ、その中の約50人が処刑あるいは獄死させられた(『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』(1955年12月1日現在)の「韓国・台湾出身戦争裁判刑・獄死者」の名簿には、朝鮮人23人と台湾人26人の名が書かれている)。
 海南島における侵略犯罪によって広東で処刑された人は7人で、6人は日本人(兼石績海南警備府第15警備隊大尉、富田堯人海南警備府第15警備隊大尉、望月為吉海南警備府第15警備隊中尉、前田三郎海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中尉、鮫島宗義佐世保鎮守府第8特別陸戦隊巡査部長、中村三郎)、1人は台湾人の姜延壽さんだった。
 前田の「起訴理由概要」には「1945年4月海南島中原事件」(原文「元号」使用)と書かれており、1947年9月16日に広東で銃殺された。鮫島の「起訴理由概要」は、「楽会県互助郷坡村において民衆を集団虐殺せり」というもので、1947年5月10日に、広東で銃殺された。その1週間前の5月3日から、最悪の侵略犯罪者天皇ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」する「日本国憲法」が施行されていた。
 兼石の「起訴理由概要」には、第15警備隊大尉富田堯人、第15警備隊中尉望月為吉とともに「被告達三名は共謀して1942年7月頃~1943年11頃迄の間に亘り海南島文昌県文教県に出兵し計画的に且連続して土民の屠殺財物の掠奪家屋の破壊等を行った」(原文「元号」使用)と書かれており、1947年7月26日に、3人が共に広東で銃殺された。中村は、海南島でアヘンを生産・販売していた厚生公司の支配人であったとして1947年4月21日に広東で死刑を執行された。
 姜延壽さんにたいする起訴状には、つぎのように書かれていた。
“被告姜延壽は、1942年8月ころ、日本海軍警察巡査補に任命され、海南島文昌縣煙墩市警察隊に服務し、煙墩の偽治安維持会の会長荘運焜、副会長の呉堅文および密偵洪世光らと結託していた。1943年2月25日、呉堅文らと共に張堯章の家に行き、その息子の妻である龍氏と林氏の2人を逮捕し、軍票1000元を出させてから釈放した。また、この年4月ころ張堯章の家屋の2部屋を破壊し、その帰路の途中に張堯章の息子である張運樺を殺害した。1944年旧暦1月6日に林椅英、その妻林陳氏、その側室を部隊に連行し、同月28日に妻と側室を釈放し、同年3月10日に林椅英を殺害し、林椅英の娘林玉樓を拘禁し罰金3000元を課した。1944年旧暦2月14日に、韓仕準の子韓炎豊を部隊に連行し殺害した。5月2日に梁慶保の子梁好欽を殺害した。日本投降後呉運雄らが瓊山縣警察局に文書をもって告訴した”。

 姜延壽さんを裁いた「広東裁判」の劉賢年裁判長は、ほとんど実質審理をしないで、死刑判決をおこなったようである。
 判決後に劉賢年裁判長にだした「對于判決之陳情書」で、姜延壽さんは、呉運雄氏の証言が偽りであること、事実調べをすべきであること、瓊山警察局で審問されたとき拷問されたことなどを訴えるとともに、徴用されて海南島におくられた台湾人に自由はなかったと述べている。

 日本海軍巡査補として海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属させられていた姜延壽さんが、1947年8月4日に処刑される3か月前の5月9日に、安村對一、奥平定世、稲葉直、鈴木薫、村尾勝雄、黒住真雄、宮本春一、今井豊平、永田武雄氏ら9人の日本人を「広東裁判」を担当していた検察官は不起訴処分にした。
 かれらは、1946年3月に海南島で国民党軍によって戦犯容疑で逮捕され、広東の戦犯拘留所に拘禁されていた。
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」によると、日本敗戦当時、安村對一は「所轄:特務部兼司令部」・「配置:政務一、二課長兼参謀」で日本海軍中佐であり、奥平定世は「所轄:特務部」・「配置:政務一課情報係」で嘱託であり、稲葉直氏「所轄:第15警備隊」・「配備:七基地指揮官」で日本海軍大尉であり、鈴木薫は「所轄:司令部」・「配置:掌砲長」で日本海軍少尉であり、村尾勝雄は「所轄:特務部」・「配置:連絡部瓊山派遣所長」で書記であり、黒住真雄は「所轄:特務部」・「配置:政務一課報道宣伝主任」で司政官であり、宮本春一は「所轄:舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊」・「配置:南坤石浮中隊長」で少佐であり、今井豊平は「所轄:特務部」・「配置:連絡部指導官」で海軍巡査だった。
 今井豊平が1978年に発表した『嗚呼天哉命哉』(海南海軍警察隊戦友会発行)には、9人にたいする「国民政府主席広東行轅審判戦犯軍事法庭軍法検察官不起訴処分書」の写真が掲載されている。それには、陶冠文軍法検察官の名で、9人を不起訴にしたのは証拠がないからだ、と書かれている。
 今井豊平は、姜延壽さんが佐世保鎮守府第8特別陸戦隊煙墩市警察隊に海軍巡査補として所属していたときの1943年6月ころ舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊警察隊の海軍巡査をしていた。
 そのときのことを、今井は、つぎのように書いている。
「当海軍巡査隊は若い男の共産「ゲリラ」一名を逮捕して来た。陣地内の中央広場に於て海軍兵士による強制訊問が始まる。数時間に及ぶ強制訊問により仮死状態になる事数度。然し絶対に自白しない。日暮れ近くには遂に両眼が突出した。……八番線の太い針金で両手足と首を縛り広場の大木に縛り合せ再訊問は明朝再開する事にした。翌朝起床と同時に昨日の捕虜は如何にと思い広場に行った処影も形もない……」(『嗚呼天哉命哉』、9頁)。

 「広東裁判」では、「討伐」や「捕虜」拷問に加担していた日本人海軍巡査らが不起訴になり、台湾人巡査補が処刑されていた。
 海南島では、台湾人海軍巡査補であった台湾人は逮捕され処刑されたが、海南島で侵略犯罪を直接指揮していた海南海軍警備府司令長官や参謀たちは逮捕されることなく、日本に帰国した。
 日本海軍省は日本敗戦後、第二復員省と名称変更していた。第二復員省総務局総務課在外部隊調査班が1946年3月31日に出した「在外部隊状況速報第二〇号」には、「海南島状況」として、つぎのように書かれていた。
 「三月十九日大竹着V六〇号竝ニ二十一日田邊着V三八号ニテ海南島南部地区ノ海軍部隊帰還セリ
  主要帰還者、横四特司令青山茂雄大佐、十六警司令能美実、同主計長今井善樹主少佐、海南警備府参謀荒井義一郎少佐、猶海南島地区ハ四月上旬内地着便ニテ還送完了ノ予定」。
 1946年4月25日の「在外部隊状況速報第二十三号」には、「海南島及雷州半島」とのこととして、     「雷州半島部隊ハ海南島海口ニ集結シ海南島部隊ト共ニ帰還セリ。海南島部隊ハ四月六日田邊着ニテ海南警備府長官以下引揚ヲ完了セリ」と書かれている。

 厚生省引揚援護局が作成した『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』(1955年12月1日現在)に、「韓国・台湾出身戦争裁判刑・獄死者」の名簿が掲載されており、朝鮮人23人、台湾人26人の名、生年月日、本籍、裁判国、死亡地、死亡年月日などが示されている。朝鮮人23人はすべて刑死しているが、台湾人26人のうち刑死者は25人で、2人が事故死、1人が自殺、2人が病死している。
 広東で処刑された朝鮮人はいなかった、陳添錦さん、李安さん、姜延壽さんの3人の台湾人が広東で処刑されており、顔新富さんが広東で病死している。
 『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』には、陳添錦さん(1946年11月25日処刑)と李安さん(1947年4月18日処刑)は「通訳」、姜延壽さん(1947年8月4日処刑)は「巡査補」、顔新富さん(1947年11月15日病死)は「商人」と書かれている。
 広東で処刑された日本人は、日本敗戦時に「支那派遣軍第23軍司令官兼香港占領地総督」だった田中久一、「第130師団長」だった近藤新八ら45人だった。

【参考資料】
※今井豊平『嗚呼天哉命哉』(海南海軍警察隊戦友会〈金沢市〉、1978年5月)。
※張子涇『台籍・元日本海軍陸戦隊軍人軍属いずこに(二次大戦緒戦の南進基地海南島 台湾人日本兵苦闘の始末)』(聯邦書局出版事業股份有限公司〈台中市〉、1984年4月)。
※基佐江里編著『旧台湾出身日本兵秘録 聞け! 血涙の叫び』(おりじん書房、1986年8月)。
 海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊第6中隊第2小隊の台湾人兵士だった黄玉珍が、1983年春に日本の国会に送った「陳情書」の抜粋。
 今日まで、私の心の奥に何時までも、終戦後1年以上も経過したのに、未だ台湾に帰れず、遠い異郷の赤水集中営で、台湾籍軍人軍(巡査補)が数百人、餓死又は病死で、悲憤の涙をのんで息絶えた、最後の恨みに燃えた瞳と、飢えて痩せこけた、哀れな顔と身体、絶望的な糧食欫乏の苦労続きで、来てゐる着物は汗と泥まみれの、破れたランニングとパンツだけの死体、この悲惨な光景が残ってゐる。
 終戦と同時に、海南島に派遣されてゐる日本海軍陸戦隊から、除外されて、武装解除された、私達台湾籍軍人軍属〈巡査補〉は、復員船も無く、海南島で一年間も置き去りにされた後で、強制的に対岸の雷州半島に追い渡されて、そこから徒歩で、あらゆる苦労を克服して、赤水の集中営に辿りついたが、規定の糧食給与はなく、衛生設備もないままで、大きい池水一つを頼りに、飲料水から、洗濯、洗澡まで、同じ池の水を使ってゐたので、もとから喰うや食わずで、永い間飢えて骨と皮ばかりに痩せてしまって、疲労し切ってゐた抵抗力の弱い隊員は、アメーバ赤痢に罹り、医薬も無い為に、相継いで死亡した。酷い時は1日に数十人死んだ記録もある。そして死体を包む筵さへない為に、遺体はそのままで、まるでノラ犬の様に、附近の荒野に埋葬された。生き残りの重患者は、その後附近の湛江港に搬ばれて、そこから国際救援会の船に便乗させてもらって、救出されて台湾に引き揚げた〈航海中にも多数の隊員が死亡し、その遺体は即時に水葬にふされた〉。…………
 第2次大戦中に、台湾籍軍人軍属巡査補を徴用して遠い戦地に連れて行ったのは、日本國だから、終戦後同じ様に復員計画にも彼等台籍の軍人軍属を責任を以て、台湾に送り帰したら、上述の様な雷州半島の赤水集中営で起った、多数の餓死者(戦争中に海南島で戦死した巡査補の数よりも、数十倍もある)を出さずに済んだのに。

 『旧台湾出身日本兵秘録 聞け!』に収録されている日本軍の軍属などとして海南島に送られた台湾人やその遺族の発言。
■黄運送(元軍属。苗栗県在住)
 「海南島の東洋一の飛行場で戦争中は働いた。きょうだいは7人で、長男と次男が徴集されたが、両親は「戦争は国のためだから」といって、私たちを送り出した。最後には、海軍特別陸戦隊に配属された。給料ももらえず、郵便貯金も返ってこない。
 戦争が敗けてから1年間は、南方で自給自足で生活していた」。
■黄玉珍(元軍属。南投県在住)
 「1943年20歳で出征して、海軍巡査佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に配属された。戦争も大変だったが、戦後はもっと苦しかった。戦地に台湾兵だけ置き去りにされて、復員したのは1946年の11月だ。海南島にはたくさんの戦友が眠っている」。
■劉福(元軍属。彰化県在住)
 「黄玉珍さんと同じ“八特部隊”にいた。いやあ、戦争は面白かったよ。敵と山の頂上で“鉢合わせ”して、あと一歩というところで死ぬということもあったが、銃座をつけずに腰の位置で弾を撃って命拾いしたこともある。海南島では、うちの部隊は怖がられる存在だった。130名いたが、あるときは10名足らずの兵隊で400名近い敵を全滅させたこともある。一番悲しかったのは8月15日。終戦のあの気持ちは日本も台湾も同じだと思う。「ああ、やっと助かったのか……」、こう思って銃を下ろした。戦運には恵まれていたが、やっぱり戦争はやるべきではない。「挙隊一心、強く正しく朗らかに」、これが八特部隊の標語です。今もこの気持ちだけは忘れないで、養鰻業を営んでいます」。
■李朝江(元日本兵。屏東県在住)
 「海軍陸戦隊として巡査補の名義で海南島に派遣された。中隊長の命令で海南島の共産軍と戦って、中隊長の通弁を仰せつかったこともある。終戦になってからは、現地で1年ぐらいいて、喰うや食わずの生活をした。100名ぐらいで帆かけ船をつくって台湾に帰るつもりだったが、香港に流れ着いてしまい、英国船に助けられて台湾に帰ってきた」。
■高延陵(元軍属。屏東県在住)
 「第1回南方派遣海軍工員として1943年2月4日に高雄港を出発しました。南方へ行く 者は契約1年ですが、海南島に2年いて敗戦になりました。仕事は主に飛行所の土木作業です。九基地ロコ13班に配属されて、1班20名ずついました。ぼくたちの班の1人は焼夷弾を受けて足を1本切断しました。軍属は空襲のときが危険なだけで軍隊のなかでも恵まれていたが、病死した人もたくさん見ました。傷を受けた3名は赤十字の高砂丸で先に帰って、あとの17名は降伏後に台湾に帰りました」。
■黄應菜(元日本兵。屏東県在住)
 「1942年11月に佐世保鎮守府第8特別隊に配属されて、海南島に行った。私は27歳のとき子供3人残して出征したのだが(現在は3男4女)、戦地での給料は1ヵ月60円で、毎月10円ずつを貯金に入れた。このとき小隊長は「これは義務としてやるべき貯金で、戦争が終わったら必ず返すから……」とぼくたちの前でいっていた。
 海南島に4年いて、1946年6月に台湾に帰った。帰るときは、海の上で支那の海賊に遭い持ち物をみんな持っていかれた。残ったのは貯金通帳だけだが、40年以上たっても日本からは何もない」。
■蒋春長(元軍属。高雄県在住)
 「21歳で軍属にとられて、海南島の海軍施設部の飛行場で働いて、それから1年たって香港へ転勤なりました。海南島と香港いるあいだ、毎日空襲あって日に10名の戦友が死んだのです。停戦まで3年、その前も病気とかいろいろありましたから、合わせて4年私は日本のために働きました」。
■曾慈興(元軍属。新竹市在住)
 「海南島の萬寧県にある会社で、農業指導員として働いていた。当時の給料は1ヵ月12円で、だいたい5年分を台湾銀行に預けた」。
■陳金龍(遺族。屏東県在住)
 「陳克平は私の兄です。兄は24歳で出征し、海南島海軍陸戦隊の「ウ二二四」楠木隊に所属していたのです。兄はおそらく海南島で戦死したのだと思います。戦友からは何の連絡もありませんが、貯金通帳は友達が持ってきてくださいました。4200円ぐらいあります。私たちはきょうだいがたくさんいますが、お父さんがいません。
 兄が出征したとき私は学校に通っていて、お母さんや姉2人が働いて生活を支えまし  た。生活はとても困難でした。貯金通帳は、兄が私達に残してくれた財産です」。
■鍾正勝〈遺族。新竹県在住〉
 「鍾善珍は、私の叔父にあたります。叔父は海南島の“海軍特務部経済局第1課農務”につとめていました。終戦となって1945年11月1日に“解雇”されたようですが、それ以降の消息はわかりません。ある話では台湾人だけが現地に残され、食料に困った叔父は、「イモ泥棒をして殺された」という話しがあり、一緒に戦争に行った人の話では「海南島の人に殺された」「病気になって死んだ」と原因がはっきりしません。叔父が亡くなったという確かな証拠はないんですが、“死亡届け”だけは出しました。日本の厚生省にも問い合わせてみましたが、はっきりした返事はもらえませんでした」。
 * 鍾正勝氏の“問い合わせ”に対し、厚生省援護局業務第2課長の「回答」の「死亡証明について」には、以下のような記述が見られる。
 「当課は、旧海軍の残務処理を担当しているところであります。1975年〔原文、元号使用〕3月15日付当局調査課あてに中川金助(鍾善珍)殿に係る戦死証明方の申請がありましたが、当課の記録では、御本人は海南特務部雇員として勤務されていたところ、終戦に伴い1945年〔原文、元号使用〕11月1日現地海南島において解雇されたことになつておりますので、御了承ください。おつて、貴方におかれて御本人が解雇後現地において死亡されたという情報をお持ちでしたら、折返しお知らせを願います」。
 * 鍾正勝氏の母親は死の間際までわが子の生存を信じ、「私の子供はまだ死んでいない」と叫んでこの世を去った。

※鄭麗玲採訪撰述『臺灣人日本兵的戰爭經驗』(臺北縣立文化中心〈台北縣板橋市〉、1995年7月)。
※鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」(『台湾風物』46巻3期、1996年)。
   一、第二次大戦時期的海南島
     (一)佔領海南島的戦略考量  (二)北海事件
   二、戦争時期在中国的台湾人
   三、海南島佔領與台湾兵
      (一)日軍攻略海南島     (二)各国的反応 
      (三)台湾兵在海南島的職務  (四)戦地生活
   四、悲惨的戦後経歴
※林繼文『日本據台末期(1930-1945)戰爭動員體系之研究』(稻鄉出版社〈台北縣板橋市〉、1996年3月)。
※楊碧川『日據時代台灣人反抗史』(稻鄉出版社〈台北県板橋市〉、1996年6月)。
※王曉波『台湾抗日五十年』(正中书局〈台北市〉、1997年7月)。
※陳銘城‧張國權等編著『台灣兵影像故事』(前衛出版社〈台北市〉、1997年10月)。
※黃金島『二二八戰士 黃金島的一生 』(前衛出版社、2004年12月)。
 黃金島本名黃圳島,1926年9月28日生於台中州南屯犁頭店竹圍農家。1941年留日。1942年派赴海南島受訓成為日本海軍機關助士,當年加入海軍特別志願兵,服役於橫須賀第四海軍陸戰隊,實戰於海南島戰區。戰後被中國政府軍關入北黎八所集中營。後來脫逃,組織自費回台團,海上漂流十七天。回台灣半年多,二二八事件發生,義不容辭參加二七部隊抗暴軍,站在第一線指揮埔里烏牛欄戰役,大勢底定後,在蔣家王朝特務追緝下逃亡六年,其間曾戲劇性地加入中國海軍陸戰隊,1952年在裝甲兵學校被捕入獄,先後拘禁於保密局高砂鐵工廠看守所、台北軍法處看守所、新店軍人監獄、綠島政治犯集中營(新生訓導處)、台東泰源監獄、綠島感訓監獄。1975年出獄。1979年美麗島事件後「重出江湖」。
※柴洋子「海南島へつれていかれた盧満妹阿媽の場合」、『FIFTY  YEARS OF SILENCE 50年間の沈黙 (台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 会報』第6号、2000年11月)。
※安然『台湾民众抗日史』(台海出版社〈北京〉、2003年9月)。
※李展平『前進婆羅洲:臺籍戰俘監視員』(國史館台灣文獻館〈台灣南投縣南投市〉、2005年8月)。
※陈小冲『日本殖民统治台湾五十年史』(社会科学文献出版社〈北京〉、2005年9月)。
※朱徳蘭『台湾総督府と慰安婦』(明石書店、2005年11月)。
※湯熙勇「脱離困境:戰後初期海南島之臺彎人的返臺」(『臺彎史研究』第12巻第2期、中央研究院臺灣史研究所、2005年12月)。
※謝培屏『戰後遣送旅外華僑回國史料彙編:南洋.海南島篇』(國史館〈台北市〉、2007年12月)。
※鍾淑敏「植民と再植民―-日本統治時代台湾と海南島の関係について」(松浦正孝編著『昭和・アジア主義の実像  帝国日本と台湾・「南洋」・「南支那」』〈2007年12月、ミネルヴァ書房〉 第12章)。
※葉碧苓『學術先鋒 : 臺北帝國大學與日本南進政策之研究』(稻郷出版社、2010年6月)。
※蓝博洲『台共党人的悲歌』(中信出版社〈北京〉、2014年8月)。
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「台籍日本兵 遺族悲情史」

2016年08月27日 | 台湾
http://old.ltn.com.tw/2004/new/oct/27/today-life15.htm
「自由新聞網」 2004年10月27日
■台籍日本兵 遺族悲情史
〔記者陳鳳麗╱南投報導〕台籍日本兵董長雄被以日軍戰犯身分判處絞刑,處死前悲傷而卑微的遺書,希望日本政府讓其獨子受教育,五十多年後,才被台灣人把放在日本靖國神社的遺書影印本送回台灣,只是日本政府並未完成董長雄遺願,目前遺族生活困苦,聞者無不鼻酸。
  明年為太平洋戰爭終戰六十週年紀念,台灣文獻館正全力蒐集有關戰爭的史料,四處拜訪台籍日本兵及家屬,希望找到更多不為人知的戰爭故事,文獻館長劉峰松等上週由全國原國軍台籍老兵暨遺族協會會長許昭榮協助,前往屏東縣拜訪董長雄的媳婦孫素珠,才發掘了這個埋藏五十多年的悲傷故事。看到台籍日本兵遺族困苦的生活,劉峰松數度落淚。
  日治時期,董長雄離開妻子和年幼的獨子,被派到南洋管理戰俘營,日本戰敗後,被盟軍國際審判庭當成A級戰犯,判處絞刑,當時有廿六名管理員被處死,但只有兩人被處絞刑。
  董長雄因成為戰犯而被判絞刑所寫的遺書,被放於日本靖國神社,去年許昭榮才被日本人告知,並經由他將遺書影本帶回台灣,交給董長雄家屬,只是這一段路走了五十多年,而他的妻子以及寄望最深的獨子董英明早已病故。
  劉峰松表示,董長雄當時接受日本政府效忠皇軍的洗腦教育,被送上國際審判庭,雖力爭仍無法免除其刑,臨死前並沒有激憤或怨恨,但在昭和廿三年二月十八日寫下遺書,遺書中寫著「我是台灣人,因故我奉獻我的身體,犧牲了妻子,在法庭上力爭,最後失敗而赴死地。我是為了日本,遵守始終一貫的信念來戰鬥。如今國籍雖有變更,但我仍想以日本軍人身分走向那另一國度。若是這法庭不是為正義,而是為報復而進行裁判,那我被判處死刑也毫無怨言。」
  而董長雄一心掛念的是獨子董英明,在遺書中卑微地請求:「大日本帝國若能復興,期望日本政府能給我那一個兒子有接受日本教育的機會。」
  只是日本政府沒有依照其遺願,讓董英明到日本接受教育,更讓董長雄的遺書留在日本靖國神社五十多年。
  去年,許昭榮將遺書影印本帶回台灣,日本政府曾請許昭榮代為探視董英明,了解其近況,但知道董英明在七年前已因癌症病故後,即不再聞問,讓董英明的妻子孫素珠十分難過。
  孫素珠目前靠著打零工為生,但一年只有三個月有工可做,經濟拮据,常靠鄰居資助生活。
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「《前进婆罗洲》简介」

2016年08月26日 | 台湾
http://intimes.com.my/yeo-html/yeo567b.htm
■《前进婆罗洲》简介  文・图:李展平2009年2月1日刊登
     ●《前进婆罗洲》封面。
     ●当年遗留下来的守卫室。
     ●古晋老鼠园防空壕一景。
  
  2005年8月间,经吴岸介绍,认识了三位来自台湾的电视特稿拍摄者,要我陪同前往古晋一些第二次世界大战的遗迹进行拍摄,说是要报导有关被日本征兵派来古晋服役的台湾兵士的事迹。我和他们到巴都林当集中营、老鼠园和长梯头一带,他们猎取了不少镜头。
后来,吴岸传来其中一位名字叫做李展平的所撰写的一本16开型书籍,书名为《前进婆罗洲——台籍战俘监视员》。这本书由台湾文献馆在2005年8月8日出版。由于这本书记载不少第二次世界大战时期台湾籍日本士兵在古晋的事迹,我特意读了一些,觉得可以介绍给“风下”副刊的读者。
《前进婆罗洲——台籍战俘监视员》,厚二百四十余页,图文并茂。作者李展平,生于1952年,是一名报导文学作家,出版过七本书。他在《前进婆罗洲》的扉页写下这样的字句:经过千山万水寻找战犯悲歌。
本书共收录12篇文章:
1,流落南洋的台籍战犯——周庆丰;
2,命运大逆转——死里逃生柯景星;
3,穿过雨林身影——盟军战俘监视员许清泉;
4,难忘心中监狱——屏东麟洛第三分所;
5,厨师上战场——北婆罗洲战俘连阿木;
6,血衣招魂——李彬彩呼天录;
7,被遗忘的影像——婆罗洲台籍男儿;
8,残霄犹得梦依稀——死刑战犯董长雄;
9,高呼台胞幸福——姜延寿广州泣血记;
10,古晋所监视员忆往——萧世儒、陈泽立;
12,古晋台籍战犯——林水木缠讼一生;
附录:日本兵(台籍军属)BC级战犯审判资料。

2005年,是太平洋战争结束60周年,李展平在本书《写在出版前夕》一文中,发出感慨。他说:“谁愿于人间深巷倾听台籍战犯悲凉的心声?” 他对台籍战犯做了一些介绍。以下是他的文章:
据笔者访查:台湾内部派往新竹湖口受训者,除少数留在岛内,大部分派遣菲律宾渡1600部队,俘虏收容所第一分所冈本队;俘虏监视员工建祥(现居埔里)表示:1942年7月,自高雄港启航,前后派遣680名。终战返台者今健在196人,归来后往生者160人,阵亡菲岛109人,战地失踪或失联者210人,死亡惨重。另外俘虏营派遣战线,以北婆罗洲为主,全数来自白河演习所,大致分古晋组、山打根组收容所。他们在1942年7月12日,调到英属北婆罗洲执行看管盟军战俘勤务,被迫杀害或凌虐战俘,导致盟军报复性审判,一生命运曲折悲痛,即使经过60年的岁月疗伤,笔者每探索那一段生命史,皆碰触他们内心,深深伤痛;犹记得几次与(台湾文献馆)馆长刘峰松联袂拜访死刑战犯李琳彩、姜延寿、董长雄家属,当李琳彩侄儿李春生拿出叔父临死“血衣”留言,刘馆长几度哽咽,抿紧嘴唇;当姜延寿在广州被判死刑,虽一再跟(台湾)——国民政府陈冤,最后竟以“空言狡辩”峻拒,临死前高呼“愿台胞幸福”,如此临终前流露殖民同胞的患难与共,自己都快死了,犹祝台胞幸福;而落籍屏东枋山乡的董长雄一表人才,高眺俊秀,毕业于长荣中学,在南洋战场担任通译任务,以“凌虐战犯致死”罪名被盟军判“绞首刑”,临死时遗稿:“为天皇效命终生不悔”……唯一的心愿,将来大日本帝国复兴后,他唯一的儿子董英明,希望能接受日本教育,吾愿已足。事实证明,复兴后的日本,并未理会他的心愿,反将他的遗稿“尘封”,直到几年前日本人野田博爱,自东京“靖国神社”取出董氏遗书,辗转送交其屏东家人;而其子董英明品学兼优,以优异成绩考上屏东师范,十几年前食道癌往生。目前其妻孙素珠女士租屋渡日,生活极为清贫,如此情景,亦让笔者午夜梦回暗自垂泪,一位优秀台湾之子,如此不堪命丧他乡,“有魂无体”漂流南洋战场,日本军方并未将其遗骸骨灰交给家属,导致遗孀伍改只能收拾丈夫遗物,作为衣冠冢,家人伤痛并不随60年前远征的背影消失啊!
日本发动太平洋战争,造成生灵涂炭,两三千万人失去家园和生命,所犯下的罪行,罄竹难书。台籍日军的行为,包括他们是否被迫杀害和凌虐战俘,李展平的观点如何,不是我们评论的范围,就让历史去评价吧。我们转载这本书的部分内容,是要让读者了解,有这么一本书,在叙述台籍战犯在婆罗洲(古晋)的事迹。
本期“风下”副刊,刊登《前进婆罗洲》书中原题为:《命运大逆转——死里逃生柯景星》的文章。编者将题目改为《台籍日军在古晋的经历》,需要声明的是,本文曾经编者删节和某些字句加上说明。
  李展平访问柯景星时,柯已经85岁。他在大正9年6月25日出生,昭和17年(1942)7月12日,柯景星从彰化坐火车到嘉义白河,接受为期两周的训练。在白河训练所结训,大半派到北婆罗洲、菲律宾当监视员,基本上可分古晋组及山打根组。《台集日军在古晋的经历》主要就是介绍他们的情况。
     ●(上图)拍摄防空壕的镜头。
   ●(右图)第二次世界大战期间,盟军战俘的遗物及宿舍模型。像片中人是物件收藏者。



http://blog.xuite.net/mig2178778/twblog/137544685-K%E6%9B%B8%E5%BF%83%E5%BE%97%EF%BC%9A%E5%89%8D%E9%80%B2%E5%A9%86%E7%BE%85%E6%B4%B2%EF%BC%8D%E5%8F%B0%E7%B1%8D%E6%88%B0%E4%BF%98%E7%9B%A3%E8%A6%96%E5%93%A1
「歐貝泰的心情手扎」 2007年11月22日首閱
■K書心得:前進婆羅洲-台籍戰俘監視員

作者:李展平
出版書局:國史館台灣文獻館
出版時間:2005年8月8日

★本書結構分為:
  館長序
  作者序
  流落南洋的台籍戰犯-周慶豐
  命運大逆轉死裡逃生-柯景星
  穿過雨林身影盟軍戰俘監視員-許清泉
  難忘心中監獄-屏東麟洛第三分所
  廚師上戰場-北波羅洲戰俘連阿木
  血衣招魂-李琳彩呼天錄
  被遺忘的影像-波羅洲台籍男兒
  殘宵猶得夢依稀死刑戰犯-董長雄
  高呼台胞幸福-姜延壽廣州泣血記
  古晉所監視員憶往-蕭世儒陳澤立
  古晉台籍戰犯-林水木纏訟一生
  附錄:日本兵台籍軍屬BC級戰犯審判資料

★重要內容摘要:
  根據日本厚生省1973年的公佈,日本統治末期台灣總督府應軍方之請,派出227183人充軍,喪生30304人(館長序),一說53393人(第146頁)
  供奉在境國神社的有28000人之多。
  26名台籍戰犯被處死、173人被判刑,所謂BC級戰犯是也。
  1996年。日本政府決定以120倍的費用支付薪資等等費用。
  1945年6月8日盟軍登陸北婆羅洲。
  山打根死亡行軍,1300名澳洲戰俘僅有6人生還。
  志願兵、高砂義勇隊、海軍少年工員、勤勞特設團、戰俘營 監視員、從軍看護婦等名義。
  日本戰後組日本戰歿者遺骨遺品收集團、生命感恩團等多次進入南洋戰區。
  二戰日軍捕獲35萬名盟軍戰俘,約33000名死於疾病或運輸途中。
  皇民奉公會招募監視員。
  1942到1945年間,台灣成立12處盟軍俘虜營,共計8155名戰俘。
  茶園義男-大東亞戰下外地俘虜收容所,本書74、75頁。
  1942年07月17日,開設台北本所與金瓜石 第一、台中第二、屏東第三、花蓮港 第四分所。
  1943年04月02日,開設玉里第五分所
  1943年06月07日,花蓮港 第四分所移轉到白河庄
  1943年06月15日,玉里第五分所移轉到木柵,開設大第六分所
  1944年11月06日,開設斗六臨時分所,員林臨時分所
  1945年01月16日,員林臨時分所關閉
  1945年01月22日,木柵第五分所關閉
  1945年03月05日,斗六臨時分所關閉
  1945年03月15日,屏東第三分所關閉
  1945年04月12日,台中第二分所關閉
  1945年05月16日,金瓜石 第一分所移往新店庄
  1945年08月15日,台北本所、新店庄第一分所、白河庄第四分所、大直第六分所關閉。
  殖民地出身、軍隊內的非戰鬥員兩種身分。
  1960、1962、1965年,日方三度敦促國府出面協商台籍問題,國府不理會。

★心得:
  這本書主要敘述二戰後期,一些台灣人士,在皇民化以及宣傳機構,加上經濟因素的考量,分別加入皇軍的外圍組織,紛紛遠渡南洋,擔任非軍事或準戰鬥人員。不幸的是,在盟軍收復失地後,紛紛對所謂的日本戰犯以及台籍準戰鬥人員,作出BC級戰犯的審判,這些台籍人士被判死刑、15年或以下的徒刑,分散到南洋各地集中營關押。
  這批台籍人士有的因為執行長官的命令,被迫下令對盟軍戰俘施暴或是槍殺,因此在盟軍收復後,這批台籍人士就被盟軍法院判處若干刑期,命運各自迥異。有的是被日本軍官推諉,推說台籍幹部蠻恨因此對盟軍戰俘施暴,所以被判重刑。有的是被好長官擋下來,有過一肩扛,因此台籍人士的罪行就比較輕。
  當然也有看不慣日軍虐待盟軍戰俘的台籍人士,無論是偷帶食物給戰俘吃,或是幫忙採集草藥,這些善舉日後卻變成這批台籍人士的保命符,這些受會的戰俘有的寫些感謝狀給這批戰俘監視者,日後成了保命狀,有的還被歡迎到英國移民哩。
  這批台籍人士服監期滿後,先被船運到日本,端視其意願,有意願的就留在日本謀生,想回台灣的救回台灣,大部分的人選則回台灣,但是國府的態度卻是:這批人是頑劣份子、忠誠度有疑問,加上228事件又發生,因此這批人一在基隆上岸,就被警總跟監,按奈指紋,返鄉後隨時有人跟監,因為警總常常造訪造成這批人無法擔任公職,只能在下層階級謀生活,很是悽慘。
  被判死刑的遺族,心情很複雜,當有日本友人將故人遺物托人送到台北時,有的遺族因為擔心故人分家產,或是靈位難以安排等等,居然拒領遺物,這種現象有點不可思議,不過,我們沒辦法處在那個時空環境下去設想,因此我也無法說些什。

★插播
  愛利斯的故事。在盟軍於台灣的戰俘營 中,有位英軍戰士在服役前,與一個愛利斯的女孩相戀並訂婚,但是在男主角病死於戰俘營 後,愛利斯並不知道,竟然終身未婚。接著愛利斯透過外交管道等等,都無法取得男主角的消息,接著在何麥克會長的引導下,居然跑到台灣屏東戰俘營 ,弔念男主角的最後遺跡,這真的有點不可思議。
  不過作者以及整個台灣文獻館在寫這本書時有點不好,1937年用了中日軍事衝突而不是中日戰爭,不用日本戰敗而用終戰的字眼。當然我這樣子批評也會惹起很大的爭議。
  按照法理,1937年中國確實沒有對日宣戰,要等到1941年日軍偷襲珍珠港後,國府才對日宣戰,因此嚴格來說算是軍事衝突沒有錯。但是日本政府很討厭,往往細究字面意義,以為1937到1941年期間,中日不是處於戰爭狀態,因此想規避一些義務,這點是很不可取的。在使用中日軍事衝突描述1937到1941年的中日關係時,必須注意日本政府的心態。
  另一個就是終戰,這詞彙很麻煩,用日本戰敗一辭,別人說你大中國主義,用終戰一辭,別人說你媚日附和,我的態度是:一律用日本戰敗後而不用終戰。終戰也好、戰敗也好、戰爭結束也好,日本政府必須擔負起戰後的一些賠償責任,不要用終戰等文字字面意義,規避你們應當負有的義務,如果繼續用這種態度面對亞洲各國,即使日本進入聯合國安理會,也一樣不會得到亞洲各國的認同的啦,認真看一下前西德總理布蘭德怎麼做的吧,不要說些五四三的。
  
★重要參考書籍
  鍾淑敏:俘虜營收容所,國史館台灣文獻館 。
  濱崎紘一:我呀一個台灣人日本兵簡茂松的一生,東京新潮社,2000年。
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「海南島八前慰安婦要求日本賠償」

2016年08月26日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.epochtimes.com/b5/1/7/16/n110240.htm
「大紀元」 更新: 2001-07-16 7:09 PM
■海南島八前慰安婦要求日本賠償
【大紀元7月16日訊】八名中國大陸海南島女性,今天向東京地方法院控訴日本政府,疏於對她們過去被迫充當慰安婦的名譽損害加以恢復,要求日本政府謝罪及賠償每人三百萬日圓,這是戰後要求賠償案件中,首樁以名譽問題追究日本的國家責任的控訴。
 這八名向日本政府提訴的女性都是出身海南島少數民族的七十多歲女性。她們在訴訟文中指出,一九四零年代她們年紀只有十四歲至十八歲時,被登陸海南島的日軍監禁強暴,二次大戰結束後雖被釋放,但迄今還被鄰居乃至先生冷眼相待,經常作惡夢而處於心理創傷後遺症 (PTSD) 的痛苦中。訴訟文並指出,日本政府在戰後未對她們受損的名譽加以恢復,疏忽戰後國家應負的責任而要求謝罪及進行總共兩千四百萬日圓 (約十九萬兩千美元) 的賠償。
 日本律師團今天在提出訴訟後指出,這是日本戰後要求國家賠償訴訟中,第一樁以疏忽恢復受害者名譽的責任問題向日本政府提出的訴訟案件。律師團並說明以恢復名譽提出訴訟的理由指出,過去一些慰安婦的訴訟案件遭判處敗訴,要求司法當局對暴行直接受害者賠償困難,因此將控訴焦點集中在疏於恢復受害名譽的責任問題。自一九九0年代初期日本戰時慰安婦問題表面化後,迄今來自亞洲受害鄰國的慰安婦阿媽提出要求謝罪賠償的訴訟案件已達約十件,包括九位台灣阿媽於一九九九年七月向東京地方法院提出而目前還在審理中的謝罪賠償訴訟案。一部份慰安婦阿媽提出的訴訟案在日本的地方法院或高等法院已被判敗訴,日方司法當局作此判決的主要「說詞」是,有關問題已在戰後雙邊國家關係談判中解決,對個人無需進行賠償。
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「遭處死台灣兵 名單尋獲」

2016年08月26日 | 台湾
http://www.epochtimes.com/b5/4/11/6/n710364.htm
「大紀元」 更新: 2004-11-06 9:46 AM
■遭處死台灣兵 名單尋獲
【大紀元11月6日訊】〔自由時報記者蘇福男╱高縣報導〕國史館台灣文獻館對殘存的台籍日本兵進行口述歷史訪談,透過「台灣南星會」總幹事鄭春河提供,尋獲廿六名遭國際法庭審判處死的台灣兵名單,國史館希望透過本報報導,其遺族能主動與該館聯繫,在明年太平洋戰爭終戰六十週年紀念,解開這段埋沒一甲子之謎。
  現年八十五歲的鄭春河,在太平洋戰爭爆發前,被日人徵調於「台灣步兵第二聯隊」,一九四三年間調往印尼帝汶某小島參戰,一九四六年返台後,又遭國民黨政府以「不滿現狀」羅織政治犯罪名,入獄服刑四年。
  鄭春河重獲自由後,將這段不為人知的悲慘史實,以日文鉅細靡遺記錄書寫,先後自費出版「嗚呼大東亞戰爭」、「台灣步兵第二聯隊」、「戰後的日本人」等專文,分贈台、日兩地好友參閱,一九九八年並在日本友人的資助下,出版厚達五百四十二頁的「台灣人的志願兵和大東亞戰爭」一書。
  正在編纂太平洋戰爭台籍日本兵史料的國史館台灣文獻館,館長劉峰松四日到高雄湖內鄉訪談鄭春河,鄭春河提供數十年來相關著作,讓劉峰松大為驚嘆,尤其尋獲戰後遭國際法庭審判處死的廿六名台灣兵名單,更讓他如獲至寶。
  這廿六名台籍日本兵當年因日本戰敗,被列為戰犯處死,之後供奉在日本靖國神社,民國八十七年八月,鄭春河和劉志賢等老兵將這廿六名迎回台灣卻被摒棄在外的亡靈,與其他戰亡者合祀於台中寶覺寺。
  廿六人分別為鄭錦樹、劉長坑、安田宗治、潘進添、木代原雄、林金隆、林一、林義德、鈴木三郎、王壁山、蔣清金、陳添錦、許祺禪、郭張興、楊樹木、陳水雲、陳見章、李安、姜延壽、陳煥彩、顏新富、鐘永吉、董長雄、黃來金、林石藏和彭錦良。
  劉峰松表示,除董長雄,另廿五名台籍日本兵的資料國史館幾乎一無所知,他感慨指出,生還的台灣兵中,有人認為被列為戰犯相當可恥,絕口不提當年事,也有遺族認為先人事蹟不光彩,不願提供文獻資料,益增訪談的困難度。
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海南島と台湾 年表

2016年08月25日 | 海南島近現代史研究会
1592年~1593年 壬辰倭乱、1597年~1598年、丁酉倭乱
1609年 薩摩軍、琉球国に侵入→幕府、琉球国を薩摩藩の「所管」とする
1637年12月~1638年4月 島原・天草烽起。幕府軍、37000人を殺害
1776年7月4日 アメリカ東部13州(「USA」)独立宣言。→先住民織の大地にたいする新たな大規模侵略(「西部開拓」)開始
1828年~1832年 「ブラックウォー」(タスマニア人ほとんど絶滅。フリンダーズ島へ強制移住)。1878年、最後のタスマニア人トルガニーニ、死亡
1830年 フランス、アルジェリアを領土化(1962年まで。独立戦争開始1954年11月1日)。
1830年 USA、先住民にたいする強制移住法制定
1840年~1842年 アヘン戦争
1850年~1864年 太平天国
1855年2月 「日魯和親通好条約」(日本政府とロシア政府は、北方諸民族の「千島列島」を分割、「樺太島」を共有地とした)。
1857年~1859年 インド大反乱(第一次インド独立戦争)
1864年11月29日 USA軍、コロラドのサンドクリーク(シャイアン族とアラパホー族の村)で大虐殺
1864年~1870年  パラグアイ対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ戦争(→50万人余のパラグアイ人のうち約30万人が死亡)
1867年 オーストリア=ハンガリー帝国成立(多民族帝国:ドイツ人、マジャール人、スラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、イタリア人、ルーマニア人……)
1868年1月~1869年6月 「戊辰戦争」
1869年9月 日本政府(維新政府)、アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける。
1871年1月18日 ドイツ帝国成立
1872年10月 日本政府、「琉球藩」設置(琉球国王を琉球藩王・華族に。「第1次琉球処分」)
1872年12月 日本政府、架空の「神武天皇」の即位年をBC660年に設定、「皇紀」使用開始
1873年1月10日 日本政府、徴兵令布告(←1972年2月1日、日本政府、「壬申戸籍」編成開始)
1873年3月 オランダ、アチェ王国侵略開始(1904年、アチェ王国滅亡)
1874年4月5日 日本政府、「台湾蕃地事務局」設置
1874年5月はじめ 西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入。5月下旬から「牡丹社」などの村落を襲い住民虐殺(「台湾蕃地処分」)
1879年 琉球王国を日本領土とし「琉球藩」を「沖縄県」と名づける(「第2次琉球処分」)
1894年~1895年 朝鮮日本戦争(甲午農民戦争)→清日本戦争
1895年1月 清日本戦争の最中に、釣魚島(釣魚台)を「沖縄県」に編入すると閣議決定
1895年4月 「日清講和条約」締結(台湾、澎湖列島、遼東半島を日本領土とする)
1895年5月23日 台湾民主国、独立宣言。5月25日 台湾民主国、建国
1895年5月29日 日本軍、台湾侵入開始。以後、長期にわたって台湾民衆を殺害
1895年6月17日 台湾総督府、開庁
1898年11月5日 台湾総督府、「匪徒刑罰令」発布。→多くの抗日戦士を処刑
1900年~1901年 義和団戦争
1905年 大韓帝国を植民地とする。独島、カラフト南部、遼東半島南部、「満鉄附属地」を日本領土とする
1909年 台湾総督府、「五箇年理蕃計画」開始
1910年8月 大韓帝国を日本領土とする
1911年1月1日 中華民国成立
1914年7月28日 第一次世界戦争開始(オーストリア、セルビアに宣戦布告)
1914年8月23日 日本、ドイツに宣戦布告
1914年10月 日本海軍、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付けた。12月に軍政(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)
1914年10月 日本陸軍、ドイツの植民地であった中国山東省の青島を攻撃、11月に占領
1917年3月15日 ロシア二月革命
1917年11月7日 ロシア十月革命
1918年7月~8月 「米騒動」
1918年8月~1922年10月 日本軍、シベリアに侵入
1918年11月 オーストリア=ハンガリー帝国崩壊
1919年1月 台湾総督府専売局『海南島事情』(『海南島事情 第一』に相当)発行
1919年3月~5月 3・1独立運動
1919年3月22日 日本軍、イワノフカ村虐殺(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)
1919年4月12日 関東都督府廃止、関東庁設置。関東都督府陸軍部、関東軍に改編
1919年4月13日 イギリス軍、インドのアムリットサルで大虐殺
1919年5月4日 五・四運動
1921年9月 彭程萬(台湾総督官房調査課訳)『海南島事情 第二』(南支那及南洋調査51輯)発行
1921年12月ころ 台湾総督官房調査課『海南島事情 第三』(南支那及南洋調査第66輯)。台湾総督府専売局嘱託村上勝太が「調査復命」したもの。1919年7月に台湾総督府専売局に海南島の「視察」を命じられた村上勝太は、1921年3月までに3回、計約2年間海南島に滞在
1922年4 月1日 日本政府、「南洋群島」に南洋庁設置
1928年4月15日 上海で「日本共産党台湾民族支部」結成
1929年 平間惣三郎(台湾総督府中央研究所技師)『海南島に於ける農産業調査』台湾総督官房調査課(南支那及南洋調査第157輯)発行
1930年 台湾総督府、「蕃地開発調査」開始→「蕃社集団移住」(先住民族、「保留地」へ強制移住)
1930年10月27日~12月 霧社烽起
1931年4月25日 霧社虐殺(216人が殺された。生存者298人)
1931年7月6日 「沖ノ鳥島」を内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加え日本領土とする
1931年9月18日 日本関東軍、中国東北部侵略開始
1931年12月28日 台湾総督府、「理蕃政策大綱」指示
1932年3月1日 「満洲国」偽造(中国東北部・モンゴル東部植民地化)
1936年8 月7日 広田弘毅内閣の五相会議(総理・陸軍・海軍・大蔵・外務の5大臣の会議)で「国策の基準」策定(→8月11日、閣議決定。「帝国トシテ確立スベキ根本国策ハ外交国防相俟ツテ東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ南方海洋ニ進出発展スルニ在リ」、「国防軍備ヲ充実ス」、「国民ノ覚悟ヲ強固ナラシム」)
1936年9月3日 「北海事件」(抗日反日グループ、日本人商人中野順三を殺す)
1936年9月15日 日本海軍軍令部「北海事件処理方針」(「北海方面ニオケル兵力行使終了セバ、所要ノ兵力ヲ海口方面ニ駐メ、爾余ノ兵力ハ所要ノ方面ニ集結ス」、「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」)
1936年9月11日 日本海軍砲艦「嵯峨」が海南島海口に侵入(9月13日に第13駆逐隊の二等駆逐艦「若竹」が、9月15日に軽巡洋艦「球磨」と第16駆逐隊の「朝顔」、「芙蓉」、「刈萱」が、9月16日に軽巡洋艦「夕張」が、9月17日に第4駆逐隊の駆逐艦「太刀風」が海口に侵入)
1936年11月~12月 「綏遠事件(綏東事件)」
1937年7月 中国への全面的侵略開始
1937年12月 日本陸軍、南京大虐殺。日本海軍、三灶島(三竈島)に侵入
1937年12月14日 日本政府、華北に傀儡「臨時政府」製造
1938年1月 日本海軍将兵が海南島南部の楡林に上陸しようとしたが中国国民党軍が反撃し撤退
1938年2月 朝鮮人にたいする陸軍特別志願兵令公布
1938年3月 三灶島虐殺
1938年3月12日 ドイツ、オーストリアを「併合」
1938年3月28日 日本政府、華中に傀儡「維新政府」製造
1938年5月5日 国家総動員法を朝鮮、台湾、樺太で施行
1938年7月29日~8月11日 張鼓峰事件(ハサン湖事件)
1938年9月 台湾総督府、「海南島処理方針」(海南島を軍事占領し台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とする)作成
台湾総督府、「南方外地統治組織拡充強化方策」(「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」)をだす
1938年12月23日 日本政府、海南島のはるか南方の「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議決定
1939年1月17日 天皇ヒロヒト、海南島軍事侵略「裁可」
日本大本営陸軍部・海軍部、「北部海南島作戦陸海軍中央協定」締結
1939年 多田恵一『往け海南島へ』南洋開発社出版部
1939年 片山透『海南島はどんな處か』昭和書房
1939年1月 『海南島及附近水路資料』(支那沿岸水路資料第20号)、水路部
1939年2月 台湾総督官房調査課編『海南島』南洋協会台湾支部(台湾総督府内)
1939年2月 千葉燿胤(三井物産株式会社査業課)『海南島の研究』(貿易奨励資料第23輯、付大型地図)、財団法 人貿易奨励会
1939年2月 日本海軍第五艦隊情報部『海南島概略』
1939年2月 拓務省拓務局南洋課『海南島開発要領』
1939年2月10日 日本陸海軍海南島北部に奇襲上陸
1939年2月14日 日本海軍陸戦隊海南島南部に上陸
1939年2月~11月 日本海軍海南島で「Y一作戦」(地域住民虐殺)
1939年2月 三省(日本外務省、海軍省、陸軍省)連絡会議による海南島政治支配開始
1939年2月16日 「海南島占領ニ伴フ政務処理要綱案」
1939年2月22日 東洋協会調査部編『現下の海南島事情』(調査資料パンフレット第38輯)、東洋協会
1939年2月24日 在海南島日本総領事館開館
1939年3月1日 海口連絡会議(現地ニ在ル陸海軍各政務処理機関及外務派遣機関ヲ以テ構成)、「海南島施策要綱」決定
1939年3月1日 海口連絡会議「海南島金融対策要綱(試案)」
1939年3月14日 在広東岡崎総領事「海南島への邦人の渡航制限につき報告」有田外務大臣宛
1939年3月21日 台湾銀行海口市店開業(軍票交換、預金、送金など)
1939年3月30日 台湾総督府令第31号で、「新南群島」を日本の領土とし、台湾高雄市に編入
1939年4月15日 南支調査会編『海南島読本』南支調査会
1939年4月21日 陸軍省・海軍省・外務省「海南島政務暫定処理要綱」決定
1939年5月13日 興亜院、陸軍省、海軍省、外務省「漢口広東及海南島各方面重要事項処理ニ関スル件」申合せ
1939年7月15日 日本軍、傀儡「海南島臨時政府(瓊崖臨時政府)」設立
1939年9月 西からドイツ軍が(9月1日)、東からソ連軍が(9月17日)ポーランドに侵入、分割占領
1939年9月1日 朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の朝鮮人強制連  行開始)
1939年11月 海南島根拠地隊編成(横須賀鎮守府第4特別陸戦隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、第15警備隊、第16警備隊)。2月以来、海南島軍政を担当していた日本海軍第5艦隊情報部、海南島海軍特務部と改称(規模拡大)
1940年2月~4月 日本海軍海南島で「Y二作戦」(地域住民虐殺)
1940年6月 舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、海南島根拠地隊の編成下に
1940年6月 外務省通商局編『海南島農業調査報告』
1940年6月22日 フランス、ドイツに降伏
1940年7月27日 大本営政府連絡会議(ヒロヒト参加)で「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」決定
1940年8月16日 「経済的大東亜共栄圏ノ完成」を目標とする「南方経済施策要綱」を閣議決定
1940年9月 第一期晋中作戦復行実施要領
1940年9月23日 日本陸軍(第五師団)、「仏領印度」北部(ベトナム北部)に侵入開始
1940年11月14日 石原産業海運株式会社「海南島田独鉄山第一次増産計畫」
1940年11月14日 日本窒素肥料株式会社「海南島石碌鉄山開発計畫」
1940年11月15日 企畫院「海南島鉄鉱資源開発方針」
1941年1月 日本窒素事業所開設(日本軍駐屯地北黎に)
1941年2月3日 大本営政府連絡会議、「対独伊「ソ」交渉案要綱」決定。世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、「ソ」聯圏(印度「イラン」を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」とした
1941年2月~3月 日本海軍、海南島で「Y三作戦」
1941年4月1日 海南島根拠地隊、海南警備府に「昇格」。海南警備府司令部、三亜に
1941年4月~10月 日本軍南機関、アウンサンらを、海南島で軍事訓練(1941年12月、アウンサンら、バンコクでビルマ独立義勇軍結成)
1941年5月 海南島海軍特務部、海南海軍特務部と改称(海南島軍政機関の形態整備)
1941年6月6日 大本営陸海軍部、「対南方施策要綱」決定
1941年6月24日 日本海軍、海南島楽会県北岸郷で住民虐殺
1941年7月2日 ヒロヒトら「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」決定(「帝国は……大東亜共栄圏を建設……」、「帝国は……自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す」)
1941年7月 海南島警備府司令部『海南島敵匪情况』(機密海南部隊命令第七号別冊)
1941年7月24日 「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入する日本陸軍第25軍約4万人をのせた輸送船39隻、海南島楡林港に集結完了
1941年7月25日 日本海軍の艦艇約50隻と日本陸軍第25軍を輸送する39隻の計約90隻の船団、楡林港から「仏領印度」南部に出港→28日に侵入開始
1941年8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)
1941年9月6日 ヒロヒトら「帝国国策遂行要領」決定(「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」)
1941年11月5日 ヒロヒトら、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定(開戦時を12月上旬に設定。これは、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた)
1941年11月6日 大本営陸軍部・大本営海軍部、グアム島、ビスマルク諸島占領を決定
1941年11月 大本営、海南島三亜港周辺に機雷敷設指示
1941年11月15日 海南警備府司令長官「現状申告書」
1941年11月18日 マレー作戦陸海軍協定、サイゴンで調印
1941年11月20日 大本営政府連絡会議「南方占領地行政実施要領」決定
1941年11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」(「南方」侵略の基地海南島の「治安」確保のため)
1941年11月15日 第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発
1941年11月26日 日本海軍「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾出発
         日本海軍「馬来部隊(南遣艦隊)」
1941年12月1日 ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定
     マレー半島東海岸に奇襲上陸する日本陸軍第25軍先遣兵団(第5師団・第18師団)、海南島楡林港に集結完了
1941年12月2日 大本営、「ニイタカヤマノボレ」(パールハーバー奇襲攻撃命令)発信
1941年12月4日 日本海軍軍艦(「馬来部隊」)が護衛する日本陸軍第25軍先遣兵団の船団、海南島楡林港から出港
1941年12月8日 午前1時半、日本軍コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。午前3時、パールハーバー奇襲。午前4時、ホンコン侵入。午前8時、グアム島奇襲爆撃、午前9時半、ルソン島ツゲガラオ飛行場・バギオ兵営奇襲爆撃
1941年12月10日 日本軍、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領開始
1941年12月18日 日本軍、ホンコン占領
1942年3月 「高砂挺身報国隊」(「第一回高砂義勇隊)募集。
1942年4月 台湾で陸軍特別志願制実施
1942年6月5日~7日 ミッドウエー海域で日本海軍大敗北
1942 年7月 日本で海南島海軍軍属(保安警察的事務従事)募集
1942 年7月 海南島陸軍司令部政務班「「セ」号作戦ト期ヲ一ニシテ行ハレシ海南島海軍聯合討伐並Y六作戦ノ敵側ニ與ヘタル影響」
1942 年8月 海南海軍特務部「海南島土地処理要項」
1942年秋 海南島でも抗日軍のたたかい活発化(日本軍基地、軍用車両など攻撃)
1942年9月 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の一部、マーシャル群島ミレ島へ(1943年6月、第66警備隊に)
1942年9月23日 フィリピン抗日ゲリラ部隊、パナイ島のアンチケ鉱山の銅鉱石を略奪する石原産業を攻撃(従業員14人死亡)。日本陸軍航空隊が爆撃
1942年11月 三省(日本外務省、海軍省、陸軍省)連絡会議廃止。海南島の「政務処理」を海南海軍特務部が独占
1942年11月~43年4月 日本海軍海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民虐殺)
1943年1月 海南警備府「海南島政務処理ノ現状」、「海南警備府部隊作戦及警備概要申告覚書」
1943年1月 海南海軍特務部政務局「一般財政政策要綱(案)」
1943年3月 「朝鮮総督府受刑者海南島出役に伴う監督職員等増員に関する件」日本政府閣議決定
1943年3月30日 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」ソウル出発→海南島へ
1943年4月~5月 日本海軍海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部の住民虐殺)
1943年5月 USA軍、海南島三亜・楡林地域爆撃。住民死傷
1943年5月29日 アッツ島の日本軍守備隊全滅
1943年6月 USA軍、海南島海口地域爆撃。住民死傷
1943年6月 日本海軍海南島で「Y七作戦 3期」(海南島西北部の住民虐殺)
1943年6月 大本営、海南島楡林港外における機雷敷設指示
1943年7月 朝鮮人にたいする海軍特別志願兵令公布
1943年8月 「海南島人労務者管理規定」
1943年9月8日 イタリア、「連合軍」に全面降伏
1943年9月30日 ヒロヒト・日本政府・日本軍、「今後採るベき戦争指導の大綱」決定。「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域を、千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域とす」。「絶対国防圏」を「大東亜共栄圏」より縮小して設定
1943年11月 「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍壊滅
1943年12月から1年間断続的に  日本海軍海南島で「Y八作戦」(地域住民虐殺)
1944年3月~7月 「インパール作戦」。日本陸軍兵士数万人・「インド国民軍」兵士数千人死亡
1944年6月15日~7月9日 アメリカ合州国軍、サイパン島占領
1944年7月21日~8月10日 アメリカ合州国軍、グアム島再占領
1944年9月 日本大津島に回天(=人間魚雷)基地建設
1944年10月 小野卯一(海南海軍特務部経済局海軍技師)「五ヶ年間に於ける海南島農業開発概観」
1944年10月10日 オキナワ10・10大空襲
1944年10月21日~1945年8月15日 特攻隊(死者 海軍 4156人〈航空隊2531人、特殊潜航艇440人、回天104人、震洋1081人〉。陸軍 1689人〈航空隊1417人〉。計5845人。他に第二艦隊3751人など8164人。総計1万4009人)
1944年10月23日~25日 レイテ沖海戦
1944年12月 日本海軍海南島で「Y九作戦」(地域住民虐殺)
1944年12月 大本営陸軍部『軍事秘密 海南島概説』(附、海南島近傍兵要地誌図)
1945年1月4日~6月~ ルソン島戦(フィリピン人犠牲者110万人)
1945年1月 台湾に徴兵制度施行
1945年1月 USA軍の海南島上陸を予想し、日本陸軍独立混成第23旅団、雷州半島から海南島に→5月に、海南島から広東方面に
1945年2月 日本海軍特攻部隊震洋隊、海南島に「配備」
1945年2月3日~3月3日 マニラ大虐殺(フィリピン人犠牲者10万人)
1945年2月19日~3月17日 硫黄島戦(日本側死者2万人余、アメリカ合州国側死者6821人)
1945年3月26日 アメリカ合州国軍、沖縄慶良間諸島の座間味島などに上陸。沖縄戦開始。以後、アメリカ合州国軍と日本軍によって沖縄人15万人が殺された
1945年4月1日 アメリカ合州国軍、沖縄本島中部西海岸に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで「集団自決」(140人のうち83人)
1945年4月27日 沖縄阿嘉島で日本軍、朝鮮人軍夫約10人虐殺
1945年4月30日 ヒトラー自殺
1945年5月7日 ドイツ無条件降伏
1945年6月13日頃 沖縄で日本海軍大田司令官自殺。6月22日頃、日本陸軍牛島司令官自殺
1945年6月21日 沖縄真栄平村で日本軍、住民虐殺。「南北之塔」
1945年6月27日 沖縄久米島で日本軍、住民虐殺
1945年8月6日、9日 アメリカ合州国政府・軍、広島、長崎に原爆投下(14万人、7万4千人殺害)
1945年夏 日本海軍海南警備府第16警備隊の兵士ら、「朝鮮報国隊」の朝鮮人を虐殺
1945年8月14日 日本無条件降伏
         当時、海南島の台湾人約23000人。
1945年10月 中国陸軍粤桂南区統指揮部前進指揮所・中国杭州空軍第6区地区司令、海南島の日本軍施設接収
1946年3月12日~19日 海南島楡林港から日本へ「帰還船」4回出港(第16警備隊・横須賀鎮守府第4特別陸戦隊・佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の兵士、「居留民」など1万4948人乗船)→大竹・田辺へ
1946年3月22日~24日 海南島秀英港から日本へ「帰還船」3回出港(第15警備隊・舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の兵士、「居留民」など9401人乗船)→浦賀・田辺へ
1946年4月 海南島から、朝鮮へ「帰還船」出港→釜山へ
1947年2月~3月 「二二八事件」
1947年5月3日 ヒロヒト、「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」となった。アジア太平洋各地で、侵略犯罪をくりかえしていた日本軍の将兵は、日本にもどって、ヒロヒトを「象徴」とする日本国で「平和」に暮らしつづけた。
1947年7月 元第15警備隊文昌中隊長兼石績、元文昌中隊長冨田堯人、元文昌中隊小隊長望月為吉、住民を虐殺したとして広東で処刑。
1947年8月4日 姜延壽、広東で処刑
1948年4月9日 デイルヤシーン村虐殺→イスラエルによるパレスチナ人虐殺。パレスチナに侵入したシオニスト武装集団は、アメリカ合州国をはじめとする帝国主義諸国の軍事・経済・政治支援のもとに、「イスラエル国」をつくった。
1948年4月 海南鉄礦田独礦区の労働者、田独鉱山に「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」建立
1948年6月 香港のオーストラリア軍法廷で、元海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令官と軍医長に絞首刑判決
1948年10月 元海南島第16警備隊司令官能美実、USA軍捕虜殺害で、横浜裁判で終身刑宣告
1949年4月 国民党政府、海南特別行政区設置
1949年10月1日 中華人民共和国成立(首都、北京)
1949年12月7日 中国国民党政府、首都を台北に
1950年5月1日 中国人民解放軍、海南島「解放」。海南島の国民党軍台湾へ
1950年6月25日 朝鮮戦争開始
                           佐藤正人作成

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「靖國神社與台灣高砂義勇隊」

2016年08月24日 | 台湾
「苦勞網」 2004/08/14  來源:海峽兩岸台灣史學術研討會
■靖國神社與台灣高砂義勇隊  傅琪貽(政治大學日本語文學系主任)

  從一八九五年五月到一九四五年八月共五十年三個月的時間,台灣淪為日本的殖民地。台灣原住民族因居住在約佔60﹪的高山森林地帶,從殖民者的立場來看,這的確是天然資源的寶庫,非得收歸日本人手裡。因此搬出帝國主義進化論,認定台灣原住民族是「野蠻未開、原始、森林野獸」,只有外表長得像「人」,而剝奪其一切的人權、生命、財產、文化自主等權利。「理蕃」政策,乃是以掠奪原住民資源、消滅原住民族為基礎,所採取的武力和文化混合的兩手策略,如「討伐」、「教化」、「同化」、「綏撫」等,其目的如出一徹。
  日本的台灣總督府「理蕃」當局,在戰爭末期的一九四〇年代,在原住民地區旋風般的展開「皇民化」政策,還設計了「高砂義勇隊」組織,迫使部落青年「志願」赴南洋協助日軍。本文針對戰前和戰後「高砂義勇隊」作歷史性的探討,以及對日本政府和靖國神社的「戰爭責任」提出若干的思考。

一、一九四二、三年高砂義勇隊始末
(一)「高砂族」命名由來
  一九三〇年秋,台灣中部賽德克族發動霧社抗日事件。當時日軍藉此實彈射試機會,舉行了大規模軍事演習。然日方為討伐區區兩百多名的「蕃人」,卻動用軍人1,563名、日警1,231人、「蕃人」奇襲隊6,822人次,以及山炮、炸彈、機關槍、毒氣等最新武器,花了三個月才平定戰事。日軍派遣的參謀,在此戰役中發現了台灣「蕃人」善於叢林游擊戰,很適合培養為日本帝國未來到南洋打仗時的好幫手。
  事後,為了強化對「蕃人」的社教,日警「理蕃」當局從部落中挑選能說流利日語的青年來組織「青年團」,勉勵勤勞農耕並實施軍事訓練。一九三五年,當台灣總督舉辦「施政四十年」紀念活動,同時在總督府內召開第一次「高砂族青年團幹部懇親會」,共有來自各族區域代表32名青年幹部參加。與會的「高砂族」青年中有25人,把原名改為日本名,如「中山清」、「井上一郎」、「日野三郎」、「田中愛二」等,對日本人深表服從與信任。
  為「蕃人」「賜名」為「高砂族」者,是台灣總督府「理蕃」當局。總稱「高砂族」的台灣原住民有九族如泰雅、布農、阿美、排灣、鄒族等,約有十四餘萬人。日方把這些「高砂族」的教化,緊密連結在未來發展南洋統治與南方異族治理之中。此「高砂族」的新命名,象徵著日警「理蕃人」傲人的成績。「高砂」名稱可與古日本傳說蓬萊仙島的「高砂」神話相同,又與十六世紀歷史上的豐臣秀吉接受來自「Takasan」國人的朝貢相結合,甚至創造了與日本同祖先等論調,確實是精心設計過的命名。如今青年幹部以「先驅者」部落菁英身分,率先接受「皇民」苗種,負「盡忠報國」的任務。可說是台灣的原住民被冠上「高砂族」名稱之後,其命運就被賦予成最效忠日本的「臣民」角色。

(二)「志願」?過程中的宣傳與動員
  一九四〇年七月,日本戰爭決策最高單位,以天皇為首,文武大臣共同協商戰爭佈局的機構 —「大本營」,決定了「南進」的武力政策,即該年的九月到四一年六月分南北侵攻印尼。該年十二月八日,日軍奇襲珍珠港,隨即對英美宣戰後,以速戰速決的攻勢,侵佔東南亞到南太平洋諸島。十二月十二日,終於將一九三七年以來延用的「支那事變」名稱,改稱為「大東亞戰爭」。俟一九四二年十一月新設「大東亞省」管理新佔的南洋領土,才把台灣、朝鮮等早期殖民地移交給日本國內的「內務省」管理。此後台灣在法治上即成為準「日本內地」的一部份。
  雖然日本對英美宣戰而開打南洋新戰場,但當時的日軍對南洋不夠了解,連兵站地圖都是邊打仗邊製作。加上近代明治以來的百年戰史中,日軍早已陷入嚴重的兵源不足及素質低落之窘境。陸相東條英機於一九四一年五月,決定從四二年度起在台實施「特別志願兵」1,000人。據「理蕃之友」第107號(1941年9月發行)記載,當時全台高砂青年1,887人(男1,349人、女538人)表明「志願」當兵的意願,其中還包括了以鮮血寫書,強烈表達從軍決心的40位男女青年。日警對高砂族的踴躍響應,題以「幸福的高砂族」為文,認為高砂族已經有能力脫離野蠻而向上進步,且能享受日本天皇「無窮聖恩」和「一視同仁」的待遇,真幸福。
  該號另以專刊特別報導「愛國少女」Sayon犧牲報國的故事。泰雅族Sayon其實是替被徵召從軍的日警老師,背著行李下山時,不小心滑到漲滿的溪水中,被沖走而滅頂。在台灣總督府刻意的安排下,Sayon成為偉大的「盡忠報國」的楷模。日方把故事拍成電影、為其編曲編詞,又打造Sayon愛國鐘等,為了Sayon,連台灣總督長谷川清及以下各大官都列席參與,舉辦非常隆重的儀式。可說高砂族愛國情操被激情地炒作,達到高潮並得到最好的宣傳效果。

(三)被設計的高砂族「志願」
  雖然高砂族青年一聽到「志願兵」一詞,立刻表明堅定的「志願」從軍意願,但在「志願兵制度」下,要能當「志願兵」,還得要通過「國語」、「國史」等學科考試及格才行。日警「理蕃」當局,發覺到高砂族沒幾個人能考得上的事實。「理蕃」政策下的台灣原住民族,雖長期接受日警簡易教育所四年教育,與日警溝通或聽命和平常日語表達沒問題,但學科則絕對不足。於是日警「理蕃」當局開始思考各種改革案;如教育所四年後追加二年農業科或者建立八年級學制,以利增加「國史」必修課等科目的時數;但目前為了應急之需,暫定每日夜間補習二小時,以提高「志願兵」錄取率的措施。除了學科上彌補學力,還重視營養防疫等以保持健康身體,決定由部落青年充任警察兼醫療人員,實施培訓醫療人員簡易訓練班,打破部落傳統文化、習俗的「陋習」。
  隨著重視「皇民化」教育,日警「理蕃」當局不得不修正「高砂族」沒有法律地位,而無法治理的事實。因此決定承認「蕃人」為「本島先住民族」乃是與「本島人」一樣,有相同的地位。因為實施「志願兵」制度之後,接著從一九四五年度起,安排台灣殖民地人民也要全面接受「徵兵」制度。但若名為高砂族在法律上仍舊停留在不適用法律的「野蠻人」階段,日方連依「戶籍法」實施高砂族徵兵都成問題。台灣總督府在過去的「理蕃」政策上,一直都不把原住民當「人」看待,長期否決了其人格尊嚴、土地、財產所有權及文化自主權。原「獵人」被強制改成為「農人」、「野蠻人」不需賦予法律上的「人格」等,然而這一切不合理、不公平的待遇,因日本人陷入最惡劣的戰局,竟然依日方之便,自我尋找合理的答案,就把高砂族的「皇民化」解釋為「蕃人」變成「人」的過程。
  於是為了滿足高砂族「志願」從軍之意願,日警「理蕃」當局特別設計了不必應考也能赴戰場的「義勇」之途,如組織海軍勞務奉公隊、特設勞務奉公團、特設看護婦(護士)志願隊等。這些「義勇」隊者,被解釋為自告奮勇,不惜「以死報國」的人。其實日本從上—東條陸相、長谷川總督到各地方派出所、部落等,有層層配給下來的「名額」及其範圍以內分批出動的計劃。唯因為部落人不知道當局有此特殊巧妙設計,有的出於自願的,也有的被點名不得不「志願」者。

(四)「高砂義勇隊」的形成
  軍隊內的階級是非常嚴格的。所謂「義勇」隊,從國家立場乃屬非正式且臨時招募的,從事打零工、雜役夫等工作,法律上國家對這些義勇隊不需給予任何金錢上的撫恤或情份上的道義。
  組織「高砂義勇隊」構想,來自於日軍和台灣總督府,是純出自於日本在南洋打不贏,陷入極缺乏物資、軍備,苦戰到幾乎全軍覆沒的所謂「玉砕」階段時,為了保衛在前線節節敗退的日軍,而把高砂義勇隊當箭靶消耗。一九四二年三月第一批「高砂族挺身報國隊」500人赴菲律賓,因五月七日參戰而成功地擊退巴丹半島美軍後聲名大噪,改稱為「高砂義勇隊」,俗稱「台灣軍」,是日軍唯一能信任依靠的戰場益友。
  台灣總督府對此「高砂義勇隊」傑出的表現,特別發行「高砂義勇隊專刊」,表揚高砂族在南方前線英勇的戰果。該第一批部隊中,扣除重新編列為橫山先遣隊轉戰的100人,其餘400人則安然無恙回台灣接受隆重的凱旋式,不但如此,在日警「理蕃」當局的安排下出任警察,扮演後方原住民部落支援前線的任務。台灣總督府「理蕃」最高當局中村文治警視,曾親赴菲律賓探視在叢林前線服務的高砂族人,事後在「理蕃之友」第127號中發表感文,認為高砂義勇隊比志願兵表現更為優異,可望今後有更大活躍的空間等詞,以表今後大量投入高砂義勇隊的構想。
  一九四二年「理蕃之友」刊載了幾封第一批高砂義勇隊的青年寄回給台灣親朋好友的「通信」。其中充滿了身為「日本人」的「幸福感」和「感恩」、「決心」等生命意義,如:巡遣菲律賓夏第九八五五部隊高砂義勇隊荒川部隊板橋隊蘇澳郡Buta(武塔)社出身的「豐田健太郎」寄回家鄉妻子的信裡說:
  令我感到最高興的是已成為偉大日本帝國的義勇軍。我不是軍夫,也不是軍屬。……在這裡每天過著很好的生活,有很多鹽巴可以吃,也有很多好吃的東西,連甜點這種奢侈的東西都得今生第一次嚐到。日軍非常強大,沒有一個美國兵在這裡,只看到菲律賓當地人。這裡的土地廣闊且很肥沃,比台灣的土壤好得多……,我到戰地深深地感受到身為日本人的幸福……。

  另有位同鄉「松本達夫」等二十四名的高砂族青年寄信給家鄉管區派出所的日警,說:
  我們代表柑子頭社來的高砂義勇隊,所以假使我身軀成為餵狗食肉,仍舊以犧牲報國的精神,決心報皇恩……。

  然而高砂義勇隊的青年寄給親人的通信是屬於「報平安」和「勉勵」性質,完全不同於日警領隊對高砂青年戰鬥力評估和「理蕃」政策成功的自我讚美等內容。這與高砂義勇隊青年通信中完全沒有出現一絲的懷疑或猜忌心,表現坦然接受命運安排的純潔心,形成強烈對比。

(五)被拋棄到「飢餓戰場」
  「理蕃之友」在一九四二年八月份和十二月份缺刊,一九四三年只發行十二月「廢刊」號。這與日本在南洋戰局失利,任何軍艦和運輸船都成為美軍的活靶,一一被擊中沉沒,而陷入全軍覆沒的局面有關。日本的台灣總督府「理蕃」當局,似乎已經沒有任何「好消息」可報導,也沒有一封高砂義勇隊青年寄來「報平安」的信。從紀念第一批高砂義勇隊巴丹島奇襲美軍成功的專刊以後,「理蕃之友」中只看到率領高砂義勇隊日警從戰場寄回來的「通信」、「高砂義勇隊員戰死對蕃社一般民心的影響」評估及和「遺族」相關的報導。
  高砂義勇隊第一批(一九四二年三月)到菲律賓回來的有400人。當時部落的人誤以為這是「全部」出征的人數,不但其英勇的表現被日本人公開表揚,去了戰場還能平安回來當警察,有名譽又有高薪可領,好處多多,當兵真好。於是第二批六月有1,000人、第三批十一月414人、第四批於一九四三年六月200人、第五批七月500人、第六批六月800人、第七批五月800人等,皆被送往防堵澳軍、美軍最前線的印尼新幾內亞島打硬仗。根據口述資料整理出來的各種紀錄,生還之前「高砂義勇隊」員都談到「日本人吃人肉」的事實:如白種人屍稱「白豚」、黃種人屍「紅豚」、當地原住民屍「黑豚」、日本兵屍「混雜(肉)」代稱。新幾內亞島上飢餓到極點的日本兵最可怕,連自己同胞日本人都不放過,所以當地有「吃人肉」習俗的原住民都怕遇到日本兵、被吃掉。從第二批以後的高砂義勇隊不被宣揚、不拿來報導,也不寄通信回來,這些數以千計的「高砂義勇隊」,萬萬沒想到是被送往遭棄之不顧的飢餓戰場上自生自滅。
  一般認為這些高砂義勇隊效忠日本,願意犧牲性命,但從戰地寄來的「通信」內容,看不出高砂族要「死的回來」等詞,反而強烈表達「粉身碎骨,為我族的名譽盡心盡力」、「發揚高砂青年的義氣」、「絕不可輸任何人的大決心,率先賣力工作」,以及對家鄉父老青少無限的思念。有位「森田勇」的泰雅族青年,信中描寫被日本軍俘虜的美國兵說:
  巴丹半島遭受我方總攻擊才六天就淪陷了。然不管怎麼說,仗輸的那一方是多麼地可憐。我看到敵俘不吃不喝,連躺下來休息的地方都沒有,而如今瀕臨死亡邊緣,令我難過得快流下眼淚。我們很幸運地在祖國日本的庇護之下過日子。但一旦仗輸了,我也變成像那些敵俘一樣可憐,所以重新為我仗贏決心打強心針。
  可見在那最殘酷、最淒慘、飢餓和疲憊交迫的地獄戰場中,台灣高砂義勇隊青年不失人性。當然其中一個原因,是叢林勇士熟悉如何在熱帶叢林中,找得到食物和水求生存之道有關係。

(六)讓高砂義勇隊迷糊的「終戰」
  依二〇〇〇年十月十七日統計,在日本東京皇宮附近的「靖國神社」中,因「大東亞戰爭」死亡而被供奉的靈魂總共2,133,778柱。這裡不包括因「滿洲事變」和「支那事變」而戰亡者,可想而知所謂的「大東亞戰爭」對日本國民強迫犧牲及對整個亞洲帶來的空前浩劫。
  日本殖民地台灣人民被驅趕赴戰者計80,433人,軍屬與軍夫共計127,650人,合計208,083人,其中戰死及病死者30,304人。換言之,赴戰者者每七人中就有一人死亡,以戰爭結束時台灣人口約600萬人計算,約每2,000人就有一人成為戰爭的犧牲者。靖國神社從台籍三萬人的戰歿者中挑選27,800人與日人「合祀」供奉。
  到目前為止,以「高砂義勇隊」之名送往南洋有多少人,死亡多少人等基本的人數統計,還不清楚。第一次高砂義勇隊生還者中,有的因無法面對部落內其他戰友遺屬,深感愧疚和歉意,而有選擇再次出征以求解脫而再不回來者。以新幾內亞島為例,島上日軍共十六萬,其中於一九四五年八月以後投降美軍而生還的日本兵才13,000人,被收容的台灣人500人,高砂族2,500人。據一般說法,高砂義勇隊共出動七次或八次,總人數有4,000人或6,000人到12,000人等不同的說法,但這只能說是推測的數字而已。因為其中還有未到達目的地之前,就在航海途中遭美軍轟炸,整個船隊沉沒而溺斃者也不在少數。然這些數字顯示,特別是對安排人數稀少的原住民做日本的活箭靶,護國盾牌,消耗大量年輕男丁的作法,是多麼殘酷,近乎滅族的行為。
  一九四四年夏季以後,在新幾內亞島戰場大本營的日軍倉庫中,早已沒有任何軍需物資可以叫高砂義勇隊扛送。從戰後在收容所的人數來推算,這時候至少還有二、三千的高砂青年在營服務。日軍為了減少食口(?),將原扛運苦力的高砂族青年重新編入其他負有「特殊任務」的部隊內,如「齊藤特別義勇隊」、「猛虎挺身隊」、「佐藤工作隊」、「北本工作隊」等,安排送死。另有一九四三年十、十一月,分批各500人送往菲律賓呂宋島戰場者,其中被取名為「薰空挺身隊」者則是全軍覆沒,沒有一人生還。
  欲搬貨卻沒貨可搬,而改編入日軍部隊內的高砂族青年們,隨著接近一九四五年八月的戰敗,從該年二月執行從日軍上司下達的各種命令。首先他們出任「宣撫」當地原住民的工作,這可說是台灣「理蕃」綏撫的翻版,如設簡易教育所教日語或唱日本歌、或者贈送布片以防當地原住民倒戈。接著接到「自給」命令即食物、水等一切要「就地取材」。到了七月收到「玉砕」全軍戰亡的命令,八月十六日又收到「各自手上持有文書燒毀令」。各部隊的長官手拿著美軍空投「日本投降」字樣的文宣單,對著高砂義勇隊員說了一句簡單的話,說:「戰爭結束了,各位辛苦了。」因為高砂義勇隊員原本對皇軍深信不疑,而一時間無法了解「戰爭結束」的意思。日本軍官也不直接了當地說「皇軍慘敗投降」一詞,害得高砂義勇隊員在糊裡糊塗的情況下繳械,乖乖做美澳軍營的俘虜。在俘虜收容所內雖然已被分為日本人、台灣人、朝鮮人等,但日本人深怕「吃人肉」事件被揭發而受到嚴厲的處分,曾偷派使者到舊殖民地人的收容所,下達全數重編為「光部隊」的密旨,並叮嚀保持沉默,以求順利脫罪。
  然前「高砂義勇隊」唯一想知道的答案,就是到底日本是戰敗的、還是打贏的,就那麼簡單一句話而已。

二、靖國神社與前「高砂義勇隊」
(一)靖國神社與「高砂義勇隊亡魂」
  根據一九七八年日本朝日新聞報導,在一九七七年夏,台灣籍出身的前日本軍遺族代表向日本的靖國神社要求歸還祖靈。後有日本佛教界團體也依宗教信仰不同的理由,向靖國神社要求從其供奉「祭神」名單中移除。日本帝國舊殖民地朝鮮人也向「加害者」日本討回民族人格尊嚴。於二000年正式向日本政府、小泉首相、靖國神社提出控訴。二00二年八月台灣前「高砂義勇隊」遺族代表親赴日本靖國神社要求「還我祖靈」,要求被拒後,於二00三年八月正式向大阪地方裁判所(法院)控訴日本政府、小泉首相與靖國神社。二00四年五月,大阪地方裁判所判決,被告小泉首相參拜靖國神社不涉及國家立場,雖身為「內閣總理大臣」,但在緊急情況下的行為,仍然可解釋為屬於個人行為,並無違背「政教分離」的憲法精神;另被告靖國神社雖然曾拒絕台灣人遺族要求取消「合祀」(與日本兵等共同被祭祀)之訴,但仍有遺族到被告—靖國神社參拜,而不能視為被告對遺族以自己的方式祭祀或追思往生者加以脅迫或干涉,且在原告證據不足下,被告靖國神社並無侵犯原告法律上的權益,故原告對靖國神社之要求也無從判斷。因此法院下定的「結論」,是「原告要求沒有任何理由」而判決「棄卻」,即控告不成立。此控告不成立的判決,對前「高砂義勇隊」遺族,顯然非常不公平。日本的法院面對「國家大權」時,似乎不敢公平審理,賠掉了司法正義的形象。
  曾淪落為日本殖民地的台灣、朝鮮,在日本大打「大東亞戰爭」時被不自由地投入戰場。日本人說這是為了建立「大東亞共榮圈」、「解放亞洲民族」而打的「聖戰」,但實際上是為了掠奪印尼石油而侵略南洋的侵略行為。台灣原住民族在此日軍陷入無法自拔的苦戰時,被充當作日本人的替死鬼。特別是台灣少數的原住民「高砂義勇隊」在固有部落傳統文化完全被否決,加上處在日警武力強壓下,不得不接受「絕對聽從官命」的命令。「高砂義勇隊」在日警的心目中,是連二等兵都不如的軍中苦力。「高砂義勇隊」能夠被列名在國家級神社—「靖國神社」中,能與北白川宮能久以下日本將領「英靈」同座,是多麼了不起的「皇恩」榮耀。然而從「高砂義勇隊」的立場來看,不是協助日本的侵略戰爭,而是為了推翻長期被污衊、被壓迫,為自我拯救族人而敢赴戰場,欲證明誰是真正有高尚人格,信守承諾的英雄好漢。
  戰後曾在南洋戰場上被「高砂義勇隊」幫助而能死裡逃生的日本人,對此「救命恩人」表示衷心的「感恩」,但這些日本人和日本國家不但不知道怎麼「報恩」,反而繼續不斷地傷害且瞞騙台灣原住民。

(二)前「高砂義勇隊」新生代抗爭靖國神社
  二〇〇〇年四月,團名「高砂義勇隊訪日團」共十人,在日本人曙光會門脇朝秀的安排下,被招待到日本訪問十天。四月五日上午八點四十分此一行人,被門脇朝秀帶領到靖國神社參拜。接著二〇〇二年四月三日門脇朝秀又率領前「高砂義勇隊」遺族參拜靖國神社。這回招待的對象以一九三〇年「霧社抗日事件」的後代,南投縣仁愛鄉出身的泰雅族前「高砂義勇隊」遺族為主。這些原住民也與上回一樣,免費招待旅遊日本十天。日本媒體為此「霧社抗日」原住民後裔參拜靖國神社,花了大篇幅報導。因為這的確令日本人震撼,認為連抗日的霧社原住民都這麼地「愛日本」、「親日本」、「崇拜天皇」,可以說是日本在戰前五十年殖民台灣得到高度的肯定。特別是日警「理蕃」被解釋為成功地改造「野蠻人」邁向「文明人」,留下最好的、最光輝的政績。帶領的門脇,還替霧社原住民代為回答記者的採訪說:「我曾多次向高砂族人詢問:『是否還懷恨日本?』,他們一致回答『沒有』,因此能實現此參拜靖國神社之行。」
  「因為我義父的的靈魂在靖國神社,所以我就想參拜靖國神社。」
  某霧社遺族如此表明參拜靖國神社的個人理由。對台灣原住民族來說,沒有任何政治性動機,只求與祖靈互通互慰。然而,日本曙光會退役老兵團體,竟然壞到利用「高砂族」後代子孫作「活證人」,塑造其嚮往日本的形象,肯定日本「大東亞戰爭」是「聖戰」。對這些日益凋零、年逾八十的日本老兵來說,這二十幾個來自台灣霧社的原住民乃成為最終凝聚「皇民精神」的救星。靖國神社、日本政府和法院,從此二十幾個前「高砂義勇隊」遺族訪日行為,似乎也找到了合理化、自我脫罪的解釋。台灣原住民再次被利用、欺瞞、誤解了。
  然前「高砂義勇隊」新生代扛起抗爭「靖國神社」所代表的日本軍國主義侵略歷史和思想。台灣原住民族新生代已脫離被殖民「理蕃」的束縛,為回復自己民族尊嚴,努力開拓新時代。對抗靖國神社,提出「還我祖靈」的訴求,乃是其中「還原原住民族苦難史」的一環,艱辛創造民族歷史的一個重要的過程。從文獻上的「高砂義勇隊」寄回來的通信中,看不到「死的回來」的「玉砕」念頭,可見當時皇民精神根本不存在於高砂青年的心中,反而他們不敢違背祖靈的叮嚀:「不能在野外死」。祖先的叮嚀,引導台灣原住民如此驍勇善戰。台灣原住民最大的忌諱是死在野外成為孤魂野鬼的「惡靈」,因此絕不能死在外頭,一定要活著回來。日本人怎麼強行灌輸台灣原住民族「高砂族」,效忠天皇最崇高的表現乃是「死的回來」,絕不能「活著回來」的生命觀,但得到的結果,是恰恰相反的。台灣新生代原住民族,更不能忍受祖靈被日本壓迫、困鎖在靖國神社的事實,也為此捍衛祖先遺訓而向日本抗爭。靖國神社供奉前「高砂義勇隊」靈魂的行為,只證明日本軍國主義仍舊欲控制台灣,不願解放台灣原住民,而企圖讓台灣原住民作永久的「怨靈」奴隸。
  日本法院判決「棄卻」聲明,顯然完全不採納原告台灣原住民族所列之理由、證據和訴求,而是站在完全偏袒日本國的立場。從原住民的立場發掘更多更具體貼切的歷史證據,即是台灣原住民族新生代能真正地奪回原住民尊嚴和再生的契機,也是受到祖靈庇祐的起源。相反地,日本人不仁不義地只想利用「霧社」原住民遺屬身上塑造「親日」、「媚日」的小動作,成為國際人權運動上的退步,留下了一個大污點。

三、結論
  前日軍慰安婦問題因其嚴重侵犯女性人權而引起各國政府、民間人權團體等廣泛的譴責。日本政府也一度為彌補此「歷史的傷痕」,曾在日本中學歷史教科書中記入兩行字,以表達日本人對歷史的反省,卻引發日本國內外歷史教科書的論爭。
  前「高砂義勇隊」長期被外界誤解為「最親日」,站在侵略者日本「皇軍」同邊的形象;「高砂族」的名字,被誤解成為日本天皇犧牲奉獻、無怨無悔、死而不憾的代名詞。戰後日本老兵到台灣,向前「高砂義勇隊」表示最高的敬意和謝意,但這些誠摯的私情,回國之後卻不能成為「感恩圖報」的原動力,不願為原住民作任何洗刷誤會的行動,還想繼續欺瞞,阻止歷史真相的還原。日本政府也因台日間沒有邦交,志願「義勇」原本就是無法理可循的體制外出征行為,與日本無關,而不道歉或致謝!日本人對其救命恩人的「高砂族」,不願賠償。那「高砂義勇隊」大公無私的英勇,也不被編入日本教科書中公諸於世。其實日本人不願意「高砂義勇隊」的真相曝光,是因為害怕世人看穿日本在侵略戰爭中,其實暗藏著「滅族」的犯罪企圖。
  從戰前到戰後,日本人不斷地對台灣原住民族反覆洗腦,灌輸戰前「大東亞戰爭」是「聖戰」。日本政府為此大騙局,應負「國家犯罪」的責任。特別是台灣少數民族在日本五十年的「理蕃」政策下,完全失去自主權,只作日本的奴隸。霧社抗日抗暴起義,是為民族尊嚴、求生存最嚴厲的控訴。結果事件後日警「理蕃」當局,更加嚴厲地監控台灣原住民族,對其施展徹底地「皇民化」政策。高砂族皇民化,是原住民族傳統文化和精神消滅的最後終結,也是利用「志願」之名義實行滅族政策。台灣總督府「理蕃」最高當局在「理蕃之友」上呼籲,動員十五萬高砂族作護國盾牌!若能如此「洗腦」成功的話,所謂「理蕃」最終目的圓滿達成而結束。叫十五萬高砂族犧牲作護國盾牌,這種政策難道不能說是一網打盡的滅族計謀?不但如此,戰後還利用那些倖存的前「高砂義勇隊」和其家屬,繼續污衊原住民族的尊嚴。靖國神社戰後在一九四六年改頭換面成一般宗教團體,但因其祭祀對象為百年戰亡靈魂,性質仍舊與戰前「護國神社」即「侵略神社」相同。因此仍可以說是扮演延續日本軍國主義思想最後堡壘的角色。
  然而,台灣原住民族即使處在強大的國家強權壓力與日本的台灣總督府最後計謀:讓原住民滅族的「皇民化」政策下。歷經「弱肉強食」、「適者生存,不適者被淘汰」的進化論考驗,「高砂義勇隊」驍勇善戰、「活著回來」的不爭事實,證明了與自然共存、愛護自然的民族絕不會被淘汰的鐵律。
  二〇〇四年台灣原住民新生代,控告日本政府、小泉首相和靖國神社,這可說是台灣原住民正努力用自己的手改寫族人歷史、推翻污衊歷史的新一頁。相對之下,日本不尊重弱小民族、不關心人權、對異文化不願瞭解的落伍形象,在二十一世紀反而損害了日本在國際上的形象。


《參考文獻》
1. 台灣總督府警務局理蕃課編『理蕃之友』第三卷(日文後刻版),日本綠蔭書房,1993年。
2. 藤井志津枝 『理蕃—日本治理台灣的計策』,台北:文英堂,1997年。
3. 「近代日本『傷痕』中的高砂義勇隊」『「回歸正義的起點—台灣高砂義勇對歷史回顧研討會」論文』,台北:中華民國台灣原住民族文化發展協會,山海文化雜誌社,1998年。
4. 『台灣原住民史—政策篇』,南投:台灣省文獻委員會編印,1999年。
5. 土橋和典編『忠義拔群:台灣高砂義勇兵の奮戰』(日文),東京:戰志刊行會,1994年。
6. 門脇朝秀編『尋找台灣山地的舊高砂族』(日文),日本:曙光會,1999年。
7. 林えいだい編 『台灣第五回高砂義勇名簿、軍事貯金、日本人證言』(日文),日本:文榮出版,1994年。
8. 『證言台灣高砂義勇隊』(日文),東京:草風館,1998年。
9. アウィ—ヘパハ著,許介鱗解說『證言霧社事件』(日文),東京:草風館,1985年。
10. 山中恆著『靖國神社問題』(日文),日本:小學館,2003年。
11. 込子實著『侵略神社』(日文),日本:新幹社,2003年。
12. 「小泉首相靖國神社參拜違憲亞洲訴訟」,東京地方裁判所判決書,平成15年5月。
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「原住民不需要蔡英文假道歉 只要真骨气」

2016年08月23日 | 台湾
http://www.taiwan.cn/plzhx/hxshp/zhzh/201608/t20160809_11532242.htm
「中国台湾网」2016年08月09日 09:01:30
■原住民不需要蔡英文假道歉 只要真骨气
  “向原住民道歉”是蔡英文上台后第一场精心规划的政治秀。在这场政治秀中,她要求原住民的各族耆老穿着传统服饰,到蔡英文办公室听她发表一篇充满矫情的“十个道歉文”,说她要代表荷兰、郑成功政权、清朝时代,以及“四百年来,每一个曾经来到台湾的政权”,向原住民道歉。其中最令人难以理解的是:她竟然越俎代庖,要为“日本统治时期全面而深入的理蕃政策”道歉。
  对此,台湾《中国时报》发表文章指出,日本占据台湾初期,原住民各部落和汉人一样,都曾经遭受日本占领军的血洗和屠杀。1930年,雾社事件爆发,日军参谋和知鹰二鉴于原住民对日本军警作战英勇,以寡击众,因此建议征召原住民替日本作战。为配合日本“南进政策”,当时台北帝大的“人种学研究室”,负责调查台湾山地原住民的智力、形状知觉、色彩偏好、民族习性与惩罚制度等,准备利用他们,到南洋作战。
  二战之初,日本殖民政府认为:殖民地的人民没有资格当“日本兵”,直到二战末期,日本败象毕露,才征召第一批“高砂族挺身报国队”500人,于1942年3月,开赴菲律宾参战,5月7日击退巴丹半岛美军而声名大噪。后来日军又陆续运送7批“高砂义勇军”到南洋作战。日本军官普遍认为:“高砂队员英勇、服从、为长官效命及牺牲奉献的精神”,连日军也望尘莫及,可是其牺牲也特别惨烈。
  当时日军已经失掉台湾的制空权,高砂队员总数约4000人,大多数人所乘的船舰一出港,就被炸沉在海上,估计超过3000人战死,其中“熏空挺身队”全军覆没。
《中国时报》指出,蔡英文有骨气的话,就应当以台当局领导人的身分,代表所有的“台湾住民”(包括原住民),向日本政府要求:比照日本兵,给予“法律上的赔偿金”,而不是给予象征性的“慰问金”。她又不是日本殖民政府的“总督”,凭什么代表日本政府向原住民道歉?这种道歉是什么意思?


http://mainichi.jp/articles/20160802/k00/00m/030/077000c
『毎日新聞』 2016年8月1日21時31分
■台湾 蔡英文総統、先住民に謝罪
【台北・鈴木玲子】台湾の蔡英文総統は台湾の「先住民族の日」の1日、総統府に各先住民族の代表を招き、日本統治時代(1895〜1945年)を含め400年にわたって外来政権が続いた台湾で、「先住民族は苦痛や不公平な待遇を受けてきた。政府を代表して謝罪する」と述べた。総統が先住民族に公式に謝罪するのは台湾史上、初めて。
 5月に発足した蔡政権は、過去の政権による人権侵害の真相究明の他、被害者の名誉回復や補償を行い、社会正義を実現していく「移行期の正義」の実現を掲げる。蔡氏は1日の演説で「歴史を正視し、真相を明らかにすべきだ。最も重要なのは、政府が過去について真摯(しんし)に反省しなければならないということだ」と強調。さらに「謝罪は全ての人々を和解に向かわせる始まり」と主張した。
 台湾は14世紀ごろから漢族の移住が進み、17世紀以降はオランダやスペインに支配され、漢族の鄭成功、清朝が統治。蔡氏は、先住民族が400年来、武力制圧され、土地を収奪されるなどの「権利侵害」を受け、日本統治時代の同化政策や中国から台湾に渡った国民党政権の政策で言語が失われたことも指摘した。
 初の台湾出身者だった国民党の李登輝政権が94年8月1日、憲法を修正し、差別的な意味合いを持つ「山地同胞」の呼称を「先住民」に改めた。民進党の陳水扁政権時代の2005年、この日を「先住民族の日」に制定。政府が認定した先住民族は16あり、約55万人で全人口の2%。
 蔡氏は1日、先住民の地位向上や共存を目指す専門の委員会を総統府に設置させると表明。「先住民族自治法」など関連の法整備を図り、先住民族として認定されてこなかった「平埔族」の身分保障も進めるとしている。


http://www.afpbb.com/articles/-/3095941
「AFP」 2016年8月1日 18:37 発信地:台北/台湾
■台湾の蔡英文総統、先住民に公式謝罪 元首として初
   【写真】台湾・台北で開かれた式典に出席した、蔡英文総統(左)と
      先住民代表(2016年8月1日、台湾総統府提供)。
【8月1日 AFP】台湾の蔡英文(Tsai Ing-wen)総統は1日、何世紀にもわたって虐げられてきた先住民に対し、元首として初めて公式に謝罪した。
 先住民族の血を引く唯一の総統である蔡氏は、先住民社会との緊張緩和を目指す政府の取り組みの一環として、過去の不当な扱いについて調査する委員会を自ら率いる方針を明らかにしている。
 蔡総統は演説の中で「先住民が過去400年間耐え忍んできた苦しみと不平等に対し、心の底から遺憾の意を表し、政府を代表して陳謝する」と述べた。
 さらに今回の謝罪を「前へ踏み出す新たな一歩」と位置付け、「歴史を真摯(しんし)に見つめ直し、真実を語る必要がある」と指摘した。
 先週末、台北(Taipei)の総統府前では先住民数百人が抗議行動を行い、狩猟権の保護や政府からの具体策の提示を要求していた。
 台湾の人口2350万人のうち約2%を占める先住民は、数世紀前に中国本土から移民が到着するようになって以来、伝統文化が破壊されてきたと訴えている。(c)AFP


http://www.singtaousa.com/845243/post-%E6%86%91%E5%95%A5%E4%BB%A3%E6%AE%96%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C%E9%81%93%E6%AD%89/?variant=zh-hk&fs=16
「星島日報」2016-08-15  (黃光國 台灣 )
■憑啥代殖民政府道歉
  「向原住民道歉」是蔡英文精心規劃的政治秀。她讓原住民耆老到總統府,說要代表荷蘭、鄭成功政權、清朝及「四百年來每一個曾經來到台灣的政權」向原住民道歉。最令人難以理解的是:她竟越俎代庖要為「日本統治時期全面深入的理蕃政策」道歉。
  日本佔據台灣初期,原住民各部落和漢人一樣,都曾遭受日本佔領軍的血洗和屠殺。
  1930年霧社事件爆發,日軍參謀和知鷹二鑑於原住民對日本軍警作戰英勇,以寡擊眾,因此建議徵召原住民替日本作戰。
  為配合日本「南進政策」,當時台北帝大的「人種學研究室」負責調查台灣山地原住民的智力、形狀知覺、色彩偏好、民族習性與懲罰制度等,準備利用他們到南洋作戰。
  二戰初,日本殖民政府認為:殖民地的人民沒資格當「日本兵」,直到二戰末期日本敗象畢露,才徵召第一批「高砂族挺身報國隊」500人,於1942年3月開赴菲律賓參戰,5月7日擊退巴丹半島美軍而聲名大噪。
  後來日軍又陸續運送7批「高砂義勇軍」到南洋作戰。日本軍官普遍認為:「高砂隊員英勇、服從、為長官效命及犧牲奉獻的精神」連日軍也望塵莫及,可是其犧牲也特別慘烈。當時日軍已失掉台灣的制空權,高砂隊員總數約4000人,多數人所乘船艦一出港就被炸沉,估計逾3000人戰死,其中「薰空挺身隊」全軍覆沒。
  台灣原住民李光輝是陸軍一等兵。戰後仍躲藏在印尼的摩洛泰島山區,獨自生活近30年。
  1974年被發現後送回其故鄉台東,當時日本政府發給李光輝日幣6.8萬元。但同時期在關島山洞被救出的兩名日本兵,橫井庄一領了1000萬,少尉軍官小野田寬郎領了2000萬,非常不公平!
  明治大學宮崎繁樹教授組成「台灣人元日本兵士補償問題思考會」,並組成8人律師團,邀台灣人鄧盛等13人當原告,義務代理訴訟,要求日本政府及國會賠償。
  1982年東京地方法院判決:「台灣人的告訴非常值得同情,但是沒有法律上的依據。」殖民地的台灣人不是日本人,所以不是敗訴,而是「棄卻」(駁回)。
  告訴團團長鄧盛在法庭大發雷霆說:「這種天理難容的判決,是不是日本已沒有正義、人道? 日本人是沒血沒淚的嗎?」 1987年9月日本國會通過一項法案,決定戰死者「慰問金」每人200萬元。
  蔡英文有骨氣的話,就應以「總統」的身分,代表所有的「台灣住民」(包括原住民)向日本政府要求:比照日本兵給予「法律上的賠償金」,而不是給予象徵性的「慰問金」。
  她又不是日本殖民政府的「總督」,憑甚麼代表日本政府向原住民道歉?這種道歉是甚麼意思?
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海南島における日本の国家犯罪

2016年08月17日 | 海南島近現代史研究会
大阪労働学校第一回公開市民講座 海南島における日本の国家犯罪

 全国水平社・日本農民組合・日本労働組合総連合・東京朝鮮労働同盟会・大阪朝鮮労働同盟会などが結成された1922年に開校し、全日本労働総同盟が戦争支持を決議し日本軍が上海・南京大虐殺をおこなった1937年に閉校した大阪労働学校の名をひきついで、ことし(2016年)4月に開校した大阪労働学校・アソシエが、秋に最初の公開市民講座を開きます。
 この3回の市民講座では、海南島近現代史研究会が報告します。
 みなさんの参加を待ってます。

               海南島近現代史研究会
               http://www.hainanshi.org/


主催 大阪労働学校・アソシエ
http://www.ols-associe.or.jp/ 電話06-6583-5555    
場所 学働館・関生 4階ホール (大阪市西区川口2-4-2)
      地下鉄中央線・千日前線「阿波座」下車。7番出口から徒歩8分。
      JR大阪駅よりバス「天保山ゆき」で「川口1丁目」下車、徒歩2分。
      阪神野田駅よりバス「鶴町4丁目ゆき」で「川口1丁目」下車、徒歩2分。
日時 第1回 9月10日(土) 午後1時開会 
    第2回 10月1日(土) 午後1時開会
    第3回 10月8日(土) 午後1時開会
参加費 無料

 ことし3月29日に日本政府は「平和」をかかげる戦争法(「平和安全法制整備法」・「国際平和支援法」)を施行しました。1941年12月8日に天皇は、「東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス」とのべ、「平和」をかかげて、アジア太平洋戦争を開戦していました。
 あらたな日本の侵略戦争の時代が開始されたいま、日本民衆が日本の他地域他国侵略の歴史的事実を具体的に詳細に明らかにすることがさらに重要になってきました。
 1922年6月に出発した大阪労働学校は、日本の侵略戦争体制が強化されるなかで、1937年に閉校しました。日本の労働者の多くが日本軍兵士として「平和」をかかげる侵略戦争に参戦しました。
 1939年2月に、日本は海南島に侵入し1945年8月の敗戦に至るまでの間に、多くの村を襲撃して村民を無差別に虐殺し、家を焼き、コメや家畜を略奪しました。また、鉱山労働や軍用施設の建設に村人を労働に駆り立て、女性を虐待・強姦し、人々の暮らしと文化を破壊しました。
しかし、日本政府、日本軍、日本企業は、1945年8月以後もこれまで、これらの重大な犯罪の責任を回避しつづけてきました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会は1998年から海南島の各地で多くの被害者から日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪の実態について証言を聞かせてもらってきました。
 大阪労働学校の第一回公開講座では、海南島における日本の侵略犯罪と抗日反日闘争の歴史を海南島近現代史研究会に報告してもらいます。その報告をふまえて、日本の労働者がアジア太平洋侵略戦争をなぜ阻止できなかったのか、日本の政府と社会がなぜこの重大な犯罪を敗戦後も放置しつづけてきたのか、日本の侵略に抗する海南島の民衆の闘争を日本の労働者はどのように受けとめなければならないか、についてみなさんとともに考え討論したいと思います。

第1回 9月10日(土)
  海南島で日本は何をしたのか
     ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』上映、討論。
 1939年2月、日本は、アジア太平洋地域の中心部に位置する海南島の軍事占領を開始し、海南島を東南アジア・太平洋侵略基地とし、さらには全島を植民地としようとしました。日本政府と日本軍は、日本企業とともに、港湾、道路、橋梁、鉄道、軍事施設(飛行場、司令部、兵舎、要塞、望楼、砲台、トーチカ、火薬庫、給水塔、軍用倉庫、軍用洞窟)などを整備・新設し、鉱山資源、水産資源、森林資源などを略奪しました。日本軍は、抗日軍の根拠地と判断する海南島各地の民衆を無差別に殺害しました。
 ドキュメンタリーは、日本政府・日本軍が当時の植民地朝鮮から朝鮮人獄中者を海南島に連行して軍用施設の建設に酷使し1000人以上の朝鮮人を虐殺し遺棄した犯罪、日本軍が海南島の村々を襲撃し多くの村民を無差別に殺害した犯罪について、多くの証言を伝えます。

第2回 10月1日(土) 
  海南島月塘村における日本軍の住民虐殺
     ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』上映、討論。
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵は月塘村を襲い、4時間の間に、多くの村人を殺傷しました。月塘村虐殺をふくむ、日本占領下の海南島における住民虐殺の事実は隠されつづけており、みどり児や幼児や妊婦をふくむ村人を殺傷した日本軍司令官の名も日本兵の名も明らかにされていません。
 1994年4月に月塘村の全村民は、「月塘村村民に国際社会に公開で謝罪すること、幸存者と犠牲者家族に賠償すること、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し追悼式をおこなうこと、焼失した家屋や強奪した財産を弁償すること」を日本政府に要求する文書を出しました。
 虐殺63年後の2008年4月に、村人は、190人の犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立し、2014年7月に、証言集『血和泪的記録 海南万寧月塘村三月廿一日惨案専輯』をだしました。

第3回 10月8日(土) 
  日本国家の海南島侵略史の世界史的意味   
     報告者:佐藤正人(海南島近現代史研究会)
 日本の侵略に抗して、海南島の民衆は、戦いつづけました。
 アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は、抗日反日闘争の時代でした。
 その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていません。
 公開講座参加者のみなさんとともに、日本国家の海南島における侵略犯罪を世界史のなかで考えるとともに、海南島近現代史のなかの世界史について考えたいと思います。
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「在祖國戰場上的抗日台胞」

2016年08月16日 | 台湾
  在海南島戰場,台胞陳獅在海南島戰場上,秘密將日軍情報遞交我軍,後被識破,被捕囚禁,慘遭酷刑,後經我游擊隊救出,倖免於難。台胞郭耀傳,也是為我軍傳遞情報及釋放我方被俘抗日地下人員,被日軍識破,乃起義投入我軍;台灣嘉義人楊坤榮等28人,於1945年元月19日,擊斃日軍50餘人及生俘一名,起義來歸。據悉,總計海南島一地起義的台胞多達290人。


http://www.haixia-info.com/articles/4603.html
《海峽評論》188期-2006年8月號
■在祖國戰場上的抗日台胞    戚嘉林(南非普裡托利亞大學博士)
  抗日戰爭是近代中國人民,抵抗日本侵略的一場民族保衛聖戰,許多台灣同胞也參加了這場戰爭。抗戰期間,由於我國是處於貧窮落後的狀態,物資條件極差,故歷史記錄工作不足。復以抗戰才剛結束,接著又發生國共內戰,國民政府自大陸撤退遷台,大批文件毀於戰火,尤其是許多參與抗戰的人,因涉及國共間的內戰,所以白色恐怖時期,在台灣,我們無法從整個民族的高度,記載或紀念這段可歌可泣攸關民族生死存亡的抗戰歷史。當然,這也使得在祖國戰場上抗日台胞的歷史不彰。及至上個世紀末,台灣政治上又陷於「去中國化」的氛圍,各界幾乎忘了抗日戰爭,當然也忘記了,抗日台胞曾馳騁在祖國戰場上的這段歷史。今天,台灣的白色恐怖已經不再,兩岸文化可相互交流,使我們瞭解在華中、華北也有抗日台胞的足跡。故我們今天有能力,也應該從整個民族的歷史高度,回顧這段歷史。其中,尤其是抗日台胞的貢獻,絕不容被泯滅。
  關於抗日戰場,可分為與敵人短兵相接的實戰戰場,與意識型態的理論戰場。在此,先就實戰戰場,介紹一些抗日台胞,在我國香港、華南、華中、華北、及海外各個戰場的英勇事跡。

一、與敵人短兵相接的實戰戰場
  香江諜影
  在祖國南方璀璨明珠的香港,可用「香江諜影」來形容抗日戰場。在香港,國民黨政府是借重抗日台胞的中日文雙語能力,從事對日本的情報工作。
  二次大戰爆發後,英國政府在殖民地香港「郵政總局」內設立了「郵電檢查處」,對經過香港的各國郵電書刊進行檢查。儘管當時日本尚未對英國開戰,但英國人已感受日本的嚴重威脅,乃加強搜集日本的情報,將日文郵電書刊列為檢查重點。當時,台灣彰化二水鄉人,前副總統謝東閔先生就在「郵電檢查處」擔任日文函電書刊的檢查工作。英國人對日文的郵電檢查,是事先交給謝東閔一份黑名單,名單上有名字的往來日文郵件,一律拆開檢查。未列在黑名單內的日文郵件,檢查與否,則由謝東閔決定。於是,謝東閔遇到有參考價值的日文郵件,就秘密抄一份,轉交給當時在香港負責搜集情報的台灣雲林人李萬居(其前任為台灣彰化人謝南光)。李萬居再將該情報轉往重慶隸屬軍事委員會直接受命於委員長蔣介石的國際問題研究所處理。
  當時在香港還有另一個政府的情報組織,那就是中國國民黨中央組織部長朱家驊布建的情報網。當時朱家驊派台灣台南人翁俊明為駐香港單位的負責人,他當時在香港,以行醫方式掩護工作,期間曾派人回台灣搜集情報,轉呈重慶。當時台灣嘉義人劉啟光為書記,台灣雲林土庫人陳哲生負責組織工作,並奉命潛伏在香港的日文報社工作,伺機搜集情報。但1941年12月日軍佔領香港,陳哲生仍堅持留港工作,不願撤離。後來日人發覺他的真實身份,將他逮捕,送回台灣,嚴刑毒打致死,壯烈犧牲。

  華南戰場
  台灣台北蘆洲鄉人李友邦少將,領導「台灣義勇隊」,約300餘人,成員幾乎全為台灣人,於1940年代初,活躍在浙江西南部的金華、衢州,與福建中西部的建陽、龍巖等地,以巡迴宣傳、搜集敵情、開辦醫療(先後附設四所台灣醫院)、生產軍需物資、襲擊日軍等方式,從事各式各樣的抗日活動。李友邦並聲明,「台灣義勇隊」的任務就是「保衛祖國,恢復台灣」。1943年,「台灣義勇隊」擴大為「台灣義勇總隊」,李友邦升任中將總隊長,直屬於國民政府軍事委員會政治部。
  台灣屏東茄冬腳的蕭道應,台北帝國大學醫學部畢業後,1940年時攜妻黃素貞、與李南鋒、和就讀明治大學的鍾和鳴(後改名鍾浩東)及其妻蔣碧玉等五人,先後自台灣潛赴大陸,參加台灣苗慄人丘念台領導的「東區服務隊」,在廣東近福建交界處的蕉嶺、與廣東南部的博羅等地,從事堅苦的抗日工作。
  1943年中國國民黨,將中央直屬的台灣黨部設在福建南部的漳州。主任委員就是台灣台南人翁俊明、書記長檯灣南投人林忠、執行委員兼宣傳科長謝東閔。當時這個組織設計各式各樣的日文傳單,大量印刷,交由美軍空投台灣。有時也利用交通船或漁船,將傳單運往日軍佔領下的廈門。
  在海南島戰場,台胞陳獅在海南島戰場上,秘密將日軍情報遞交我軍,後被識破,被捕囚禁,慘遭酷刑,後經我游擊隊救出,倖免於難。台胞郭耀傳,也是為我軍傳遞情報及釋放我方被俘抗日地下人員,被日軍識破,乃起義投入我軍;台灣嘉義人楊坤榮等28人,於1945年元月19日,擊斃日軍50餘人及生俘一名,起義來歸。據悉,總計海南島一地起義的台胞多達290人。

  華中戰場
  台灣台南白河人吳思漢(原名吳朝和),1943年7月台北高校畢業,10月入京都帝國大學醫學部。1944年4月,吳思漢從京都搭火車前往下關,抵釜山,經韓國,鴨綠江、瀋陽、山海關抵北京,入北京大學工學院,一面讀書,一面尋找去重慶的門路。後來幾經輾轉,終於抵達重慶,參加國民政府的抗日行列。
  台灣基隆人朱天順,1939年自台灣抵華中武漢地區,1942年初進入豫鄂邊區抗日根據地,後來在新四軍第五師政治部對敵部,擔任對日軍的宣傳、搜集日人情報、管理日本反戰同盟第五支部等工作。

  華北戰場
  台灣嘉義大林人林思平,1941年畢業於東京慶應大學醫學部。1943年林思平夫婦二人放棄日本的優渥生活,並動員白鳳洋、黃仁和、楊泰山和楊丁銘等台灣知識份子,投奔祖國大陸,來到山西太原。當時林思平在太原鐵路醫院當醫生,並以醫生身份將當時奇缺的藥品和醫療器械秘密支援華北抗日的八路軍,及掩護中共地下黨幹部。1945春,因遭日本特務懷疑,林恩平夫婦乃前往晉察冀解放區的張家口市,在白求恩所創的「國際和平醫院」當醫生,擔負救死扶傷的工作。
  台灣台南人楊誠,幼時隨父母移民印尼,14歲時返內地廈門集美學校就讀,1934年入北京大學。七七事變後,楊誠赴延安參加抗日,並於1937年參加中國共產黨。1940年擔任「歸國華僑救國聯合會」主任,1944年出任「延安外語學院」英語系班主任兼系黨支部書記。
  台灣台北板橋人李子秀(原名呂芳魁),1940年入長春滿州建國大學,1942年欲投奔關內抗日,但逃到山海關就被學校抓回。1943年,李子秀被徵調入日本陸軍士官學校炮兵科,後以優異成績畢業,任日軍炮兵少尉,駐防日本和歌山縣。1945年5月,逃離軍營,返回祖國,入晉察冀解放區,參加八路軍,旋赴張家口市擔任炮兵團教官。李子秀當時還編寫反坦克教材,訓練中共部隊的反坦克技術人員。1946年2月13日,李子秀於排除反坦克地雷的一場意外爆炸中犧牲。現在,在張家口烈士陵園,有李子秀的墓碑,墓碑並由昔日晉察冀軍區司令員聶榮臻元帥題詞紀念。
  台灣台南縣人林棟,於1943年名古屋大學畢業時,拒絕了老師及友人要他在日本就業定居的挽留,在畢業典禮當天下午,即毅然啟程,回到苦難的祖國。林棟歸返祖國後,首先落腳山西太原,一面教書維生,一面尋找聯繫朋友嚮導。一年後,方衝破日軍封鎖,抵達太行抗日民主根據地,成為一名八路軍戰士,參加抗日戰爭。
  台灣台北人翁阿冬,經廖承志介紹,於1938年單身經新加坡、香港,回到內地,奔赴延安,參加抗日隊伍。為避免累及台灣的親友,她接受陳雲的建議,改名馮志堅。當她得知中國共產黨黨員的哥哥翁澤生在台犧牲的消息後,立誓要「把血淚變成銳利的刺刀,刺在每個敵人的身上」。
  台灣高雄人楊美華,1941年春,高雄州立高等女子學校畢業後,前往東京日本女子牙科醫學院就讀,1945年2月放棄學業返回祖國,同年8月16日前往解放區,入渤海軍區三分區野戰醫院。
  台灣台中縣梧棲港人陳文英(本名陳定瀾),1944年考上北京大學政治系,1945年1月前往解放區,歷經艱難,抵達中共晉察冀分局城市工作委員會所在地的阜平縣,投入抗戰工作。

  海外戰場
  台灣台中霧峰林家人林正亨,於1937年抗日烽火燃起之際,投考南京陸軍官校,畢業後隨國軍部隊於1940年參加廣西崑崙關之役。後部隊調往湖南整休,任消毒連連長。1942年在重慶任國民政府交通司上尉副官。1944年,林正亨參加中國遠征軍,任步兵團指揮連連長,參加反攻緬甸北部密支那的戰鬥。在戰場上,與日軍浴血奮戰,最後並與敵人展開短兵相接的肉搏戰,身負重傷,後雖在戰地醫院治療四個多月,但左手殘廢;林正亨的妹妹林岡(原名林雙盼),1925年時隨母返回台灣霧峰林家,1936年秋前赴大陸,並輾轉至重慶。中共組織將林岡調到塔斯社駐重慶分社工作,她後來嫁與董必武的政治秘書魯明。魯明後來曾任中國大陸駐科威特大使,林岡隨夫赴任。
  台灣台南人黃朝琴,1923年早稻田大學畢業,留學美國。1925年加入中國國民黨,1926年獲美國伊利諾州大學碩士,後回祖國於1928年入國民政府外交部,1935年5月出任我駐美國舊金山總領事。七七事變爆發後,黃朝琴適時召集舊金山及其附近城鎮的各僑領開會,成立「金山華僑救國總會」,推動愛國捐獻運動,兩年約計募集美金四、五百萬元之鉅。這對祖國的抗戰,也是另一種形式的貢獻。

二、抗日台胞的特點
  歸納上述抗日台胞的事跡,有三大特點。首先是抗日台胞幾乎都有顯赫的學歷,例如謝東閔是中山大學畢業、謝南光是東京高等師範學校畢業、李萬居是法國巴黎大學畢業、黃朝琴是美國伊利諾州大學碩士、丘念台是東京帝國大學畢業、李友邦是黃埔軍校畢業、翁俊明是台北醫學院畢業、蕭道應是台北帝國大學醫學部畢業、宋斐如是北京大學畢業、林棟是名古屋大學、林思平是東京慶應大學……等等,他們都是高學歷的台灣知識菁英。
  此外,抗日台胞中有人家境頗佳,例如楊美華,父親是土木建築技師、母親是助產士。有人還是地方首富,例如黃朝琴,家中有田地約150餘甲。有人更是一門忠烈,例如丘念台是丘逢甲的三公子、蔣碧玉是蔣渭水的養女、翁阿冬是抗日烈士中國共產黨黨員翁澤生的妹妹、林正亨是閩南軍司令林祖密之子及清末台灣抗法名將林朝棟之孫。因此,總體而言,他們可說是那個時代台灣人菁英中的菁英。他們歸返祖國投入抗日戰爭的行動,如實反映了那個時代的台灣人民心聲。
  第二個特點,他們不是個別的單一個人事件,而是許許多多的台胞菁英,不約而同,前仆後繼地投入抗日大業。他們在台灣都需躲避日本殖民當局的監控,自己設法隱瞞親戚友人,秘密輾轉西行,奔向人生地不熟的祖國大陸,其中甚至有經歷坎坷者。例如蕭道應等一行五人在廣東惠陽,因無良民證,身份不明,而遭逮捕,險遭槍決,幸吉人天相,與丘念台聯繫上,才能參加抗日行列。
  吳思漢,他從京都出發,抵達重慶時,前後歷時一年三個月。
  李子秀則更傳奇,他是日本陸軍正規軍的炮兵少尉,部隊駐防日本本土的和歌山時,身穿日本軍官軍裝,佩帶軍刀,藉故逃離軍營,機智勇敢地擺脫了日本憲兵的追捕,經大阪、由下關輪渡上海,輾轉抵達仍被日本佔領的北京,經台灣同鄉北大教授林耀堂與蘇子蘅先生的引薦,突破日軍重重封鎖,方抵達晉察冀解放區。由此可見,當時抗日台胞投奔祖國,參加抗日戰爭的信念,是何等的堅強。
  第三個特點,他們加入不同政黨。由於當時祖國內部有中國國民黨與中國共產黨兩大政黨。而這些獻身祖國民族保衛戰的抗日台胞,從或然率的角度,也就分別參加了中國國民黨與中國共產黨,甚至中國青年黨的抗日行列(李萬居就是中國青年黨黨員)。當然,如果依地理位置的角度來看,如果抗日台胞是先回到祖國華南,則大體上是加入中國國民黨。如果抗日台胞是先回到祖國華北,則多是加入中國共產黨。

三、無硝煙的意識型態理論戰場
  1940年,在祖國南方各地的台灣抗日組織,例如李友邦領導的「台灣獨立革命黨」、謝南光領導的「台灣民族革命總同盟」、陳友欽領導的「台灣青年革命黨」、柯台山領導的「台灣國民革命黨」、與張邦傑領導的「台灣革命黨」,為了集中力量,加強抗日救國光復台灣的工作,各個台灣抗日團體於1941年2月在重慶,合併成立了「台灣革命同盟會」,其宗旨為「……光復台灣,與祖國協力建設三民主義新中國」。
  1942年夏,在一份美國軍部內檢討用的備忘錄中,就提及台灣地位應予特別考慮,由臨時托管機構予以掌控。同(1942)年8月,美國著名雜誌《幸福》《時代》與《生活》的編輯,聯合發表戰後和平方案,其中就提出戰後台灣應由國際共管的主張。
  對於美國出現這樣的輿論,「台灣革命同盟會」常務委員李友邦於1943年2月撰寫專文予以駁斥。接著同(1943)年的4月17日,「台灣革命同盟會」發表宣言,鄭重聲明「台灣土地原為中國領土,……,必須一致主張戰後台灣應即歸還中國」。同(1943)年11月23-26日開羅會議召開。「台灣革命同盟會」在同(11)月21-28日召開第三屆代表大會時,通過陳情國民政府「設立台灣省政府,以勵人心而副民望」,使「五十年失地得以歸依祖國」。此外,會中謝南光亦提案並獲大會通過「請以大會名義向英、美、蘇各國領袖致敬,並要求其承認台灣歸還中國」,支援政府在開羅會議光復台灣的立場。
  因此,「台灣革命同盟會」的最大貢獻是在意識型態的理論戰場,對內不但更加喚起祖國各界有關收復台灣的輿論,並提供台灣歸依祖國的台灣民意基礎;對外則代表台灣人民向國際社會發聲,宣示台灣人民回歸祖國的強烈意願。相信,當時美國國務院駐重慶的外交官,對這些抗日台胞團體的意見,自是瞭若指掌。合理推斷,「台灣革命同盟會」對台灣回歸祖國方面的貢獻,也是國民政府向美、英要求收復台灣的重要原動力之一。
  從以上的種種事跡可知,在祖國戰場上的抗日台胞,無論是與敵人短兵相接的實戰戰場,或是無硝煙意識型態的理論戰場,抗日台胞都在祖國這場偉大的民族保衛聖戰中,留下了不可磨滅的卓越貢獻。他們的抗日事跡,不但是台灣歷史的一部份,也是祖國歷史不可分割的一部份,應永載史冊。
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「“皇民化运动”和台湾兵」

2016年08月11日 | 台湾
http://hnrb.hinews.cn/html/2009-03/09/content_109990.htm
『海南日报』2009年3月9日  文\ 海南日报记者 李科洲
■“皇民化运动”和台湾兵  永不忘却 日军侵琼70年
  二战期间,为了从根本上割断台湾与祖国文化的联系,使台湾永远充当日本的殖民地,日本在台湾大规模推行“皇民化运动”。其中最为险恶的阴谋是,将大批台湾青年输送到日本侵华前线充当炮灰,让骨肉相煎。侵琼日军中,台籍士兵超1万人。
  阴谋能得逞一时,却无法变异亘古不变的血脉亲情。在那段非常时日中,也有不少在日军中效力的台胞为中国抗日军队递送情报,有的则起义参加了抗日队伍。仅在海南一地的战场上,就有4000余台湾兵成功地参加到抗日队伍中。

★杀戮之前:日军文化灭族阴谋
  为了消灭台湾人民的祖国观念,将台湾建成日本侵略中国和亚洲其他国家的基地,使台湾人民为其侵略战争效命,日本在台湾大规模推行了“皇民化运动”。除了通过强制推行日语、禁说汉语和地方方言等进行文化“灭族”,“皇民化运动”还加强对台湾青壮男子的军事训练,将大批台湾青年输送到日本侵略战争前线充当炮灰,力图从根本上割断台湾与祖国文化的联系,使台湾永远充当日本的殖民地。
  1941年6月20日,在日本偷袭珍珠港、太平洋战争爆发前的半年,“台湾总督府”与台湾日军司令部正式宣布,志愿兵制度将在第二年开始在台湾正式实施。
  甲午战争后,台湾被日本占领,台湾民众多次武装反抗。这是在征召一个岛屿上的中国人到另一片中国的土地攻打中国人呀!难道日军就没有一点顾忌吗?有的,但3年前就开始加入“皇军”的“朝鲜军人”在战场上的表现让日军打消了顾虑,看到了以殖民地青年来扩充兵力的希望。
  其实,身为被殖民者的台湾人是没有服兵役义务的,但中日开战后,中国战线上的日军军需物资补给工作需要大量人手,日本于是在1937年9月开始征召台湾人充当不具备正式军人身份的军属与军夫。第一批台籍军夫参加了上海的淞沪会战。这批招募人员被称为“台湾农业义勇团”,主要负责在上海附近种蔬菜。随着战局的扩大,“台湾总督府”又以各种名义招募台籍军属、军夫到中国战场上担任物资运输、占领区工农业建设等工作,诸如农业指导挺身团、台湾特设劳务奉工团、台湾特设勤劳团、台湾特设建设团等。
  有了这些“铺垫”和“朝鲜军人”的表现,再加上兵力的短缺,日军才开始考虑在台湾征兵。

★骨肉相煎:“皇民化运动”一时得逞
  让日军惊喜的是,他们实行的“志愿兵制度”竟然顺利。据当时媒体报道,几天之内便有700多人向台湾日军司令部和各地宪兵队提交“志愿书”,两个月后突破3000名,至1942年初更达两万人以上!
  在正式申请期间的1942年2月1日到3月10日,约有42.6万台湾人提出申请,应征1,000名左右的志愿兵位置,即426人争一个名额。这批申请人要经过3个月的出身调查、学科笔试与口试等重重严格的测验后,最后筛选出了1020名合格者,分别在同年7月与次年1月入伍受训。有学者估计,申请人数相当于当时全台湾成年男性总数的14%!也就是说,在100个成年男子中就有14人提出申请。
  台湾士兵在日军主要从事后勤工作,但也有不少人被日军放在前线,其中部分参与了日军的战争罪行。战后,据知有26名台湾兵因虐待战俘被盟军国际审判庭判为战犯,处以死刑。战后,台湾兵中有2.8万人进了靖国神社。
  根据研究者对当年参军人士的访问,台湾青年之所以申请加入日本军队,除日本占领者的强大压力外,还有几种原因:有些人是希望享受与日本人同样的待遇,有些人是在生存艰难的情况希望找到工作(当一名日本军属,工资是台湾基层警察工资的3倍),有些人目睹美军轰炸台湾竟产生了“保卫家园”的想法。
  研究者指出,这是日本在台湾实行奴化政策的结果。日本侵占台湾期间,台湾人只能学日文,不准学中文,这实际上是从文化上对台湾人实行“灭族”政策,不仅在台湾培养了一批日本“顺民”,而且对台湾人民的心理和文化造成了极大的伤害,其恶劣影响甚至一直延续到今天。
  一位来琼旅游的台胞吴大姐告诉记者,就是到现在,一些上了年纪的台湾人国语不太会讲,但日本话却说得很流利,这些人对日本文化很有认同感,外出旅游时也爱选择日本作为目的地,因为交流起来很方便,基本没有任何障碍。她听家里的老人讲,1945年日本投降时,台湾有的学童还不明白自己是中国人,听到“天皇”在广播里宣布投降的消息时竟“伤心”地哭了。
  回顾这段历史时,许多台湾同胞有着深刻的反思。

★血的记忆:侵琼日军中的台湾兵超1万人
  有台湾学者引用日本方面的资料表明,在二战期间,日本在台湾共征调20.7万台湾青年入伍。根据海南师范大学教授张兴吉的研究,一般的资料记载,日军在海南岛的兵力在2万人左右。而日军侵琼期间,随日军在海南岛的台湾兵超过1万人。
  按照惯例,战争结束后,要将战俘遣送回国。日本军民很快于翌年即1946年上半年,全部被接回日本。而在日军中服役的台湾人,却由于各种原因,有的被关在集中营中,有的流落街头。这些人中有的两年多后才回到台湾,有的则最后留在了海南。
  海口琼剧团老作曲家吴梅记得,日本投降后,真正的日本人大都及时撤走,有一些来不及撤退的台湾人,被海口民众当作日军士兵追打。
  张兴吉告诉记者,抗战胜利后,驻扎在榆林、三亚、崖县、感恩、北黎、昌江、乐东间的日军第十六警备队暨横须贺第四特别陆战队的上千台湾士兵,到1946年底还来不及撤走,聚居在榆林的货仓。而在榆林待遣的,还有6000名台湾士兵和普通台民。

★血浓于水:台胞在海南战场起义
  毕竟正义仍在,毕竟血浓于水。台湾士兵在日军中就有不少人反弋一击,投身抗战洪流,与中国同胞并肩作战。在海南战场上就有很多这样的例子。在日军中服役的台胞陈狮秘密地将日军情报递交在琼的抗日游击队,不幸暴露身份,被日军严刑拷打,好在游击队经多方努力最终将其救出。郭耀传则不仅为在琼抗日军队传递情报,还借机释放了被日军俘虏的抗日地下人员。在被日军识破后,他毅然起义投入了抗日队伍。1945年1月,台湾嘉义人杨坤荣等28人起义,击毙50多名并生俘一名日军。
  据资料显示,1943年至1944年,有众多台湾兵起义。起义失败不幸被日军杀害的就有7000多人。
  台湾民众当军人最初只是当“军属、军夫”。按照“军人、军犬、军马、军属、军夫”的排序,“军夫”最为劣等。(注:军属是当时日军用语,乃日语“军人佣人”之意,非汉语的“军人家属”之意。)
  战后,曾被征为日本兵的台胞林俊雄回忆,台籍官兵在部队中的待遇与日籍官兵相差很大:除了军饷低外,平常遇到苦差,也总是台湾士兵的份内事。他记得有一次,他们奉派去攻打海南岛北部,桥梁被中国抗日军队毁了,日本指挥官就挑选身体强壮的台湾兵———林俊雄就是其中的一位,站在河里当桥梁,让穿皮鞋的日本兵从台湾兵肩膀上踏过去。当全军通过后,台湾兵两肩都溃烂了。林俊雄说,每当他回想那一天的情景,肩头还会隐隐作痛。台湾兵不过是日军的炮灰啊!
  日军在台湾征兵时,发行了军用手票、保险、邮政储金等,承诺战争结束将让台湾兵得到丰厚回报。但日本战败后,这些“银票”一夜之间成了废纸,难以兑现。二次大战战死和失踪的台湾兵有3万名。经遗属多年争取,1990年代才得到每人日币200万(折合台币约43万元)的吊慰金。而真正日本兵的慰问金,是这个数目的数十倍!
  今天梳理这段历史时,人们便清醒地看到:“皇民化”是日本帝国主义时代所特有的历史现象,是日本军国主义扩张的阴谋,随着日本的战败,这一运动最终以失败而告终。
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