三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会

2016年07月23日 | 海南島近現代史研究会
 8月28日に第10回総会・第18回定例研究会を開きます。
 みなさんの参加をお待ちしています。
                             海南島近現代史研究会


■海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会■              
と き:2016年8月28日(日)13時10分~17時(開場12時45分)
ところ:クレオ大阪西 研修室
        大阪市このはな区西九条6-1-20  電話06-6460―7800
        JR大阪環状線・阪神なんば線 西九条駅下車、 徒歩約3分            
参加費:500円(会員は無料です)

主題:海南島と台湾
 1895年5月に日本軍が台湾に侵入し、6月に日本政府は台湾総督府を開設しました。10月に台湾民主国は崩壊しましたが、その後も、太魯閣民族など台湾民衆は、抗日反日闘争を持続的に戦いました。
 日本の台湾植民地化機関である台湾総督府は、1910年代から日本の海南島侵略を準備する「調査」を開始しました。1938年9月に、台湾総督府は、海南島を中心として、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成しました。同じ1938年9月に、台湾総督府は、「南方外地統治組織拡充強化方策」をだし、そこで「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」としていました。
 1939年2月の日本軍の海南島奇襲上陸後、日本の植民地であった台湾からおおくの民衆が、兵士、労働者、軍隊性奴隷……として海南島に連行されました。

■主題報告 海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)   佐藤正人
■主題報告 日本の海南島侵略における台湾総督府の役割           金勝一
■主題報告 台湾総督府・朝鮮総督府・南洋庁・「海南庁」             金靜美
■主題報告 台湾総督府による「海南島調査」と台北帝国大学による「海南島学術調査」
                                                  斉藤日出治
■主題報告 『台湾日日新聞』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか
                                                  竹本昇
■討論 1945年8月以後の海南島・台湾・ベトナム・フィリピン・インドネシア・朝鮮……日本
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾・朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本は、1945年8月以後もその歴史を継承しています。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆のちからで明らかにしていく道について話し合いたいと思います。
■報告 海南島への侵略と支配(所蔵資料1.図版・写真記録関係の紹介)    久保井規夫
■調査報告 第16回海南島「現地調査」(2016年春)                   金靜美
 嶺尾村、光村、南北溝村、高石村、英歌村、八所村、新街村、墩頭村、大坡村、老王村、昌美村、土卜嶺村、慶雲村、大水村、龍馬坡、純雅村、三媽溝市村、詩礼村、潭陸村……での証言を報告します。
■2016年10月の海南島近現代史研究会の17回目の海南島「現地調査」について

      海南島近現代史研究会 【事務局】 奈良市中山町200-191  斉藤日出治方
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「砂糖黍農場の日々」

2016年07月16日 | 海南島史研究
 「(1939年)2月、 佛山を出発して、 海南島に向かいました。2月10日に海南島の西北部に上陸し、 夜の12時頃、 海口市の南四キロほどに位置している政治の中心地瓊山市 (*現在は省都の海口市に編入されている) に到達しました。 その間、 敵の抵抗はなく、 無血占領に成功して紀元節と合わせて二重の喜びに浸りました。
 1939年 8月、 大隊は海南島から広州に上陸し、 新会市に駐留することになりました」。

 「1940年9月、 輸送船に乗り、 北ベトナムのハイフォンに上陸しました。 直ちにドーソン砲台を目指して進撃し、 ハイフォンの背後の高地を占領しました。 占領後、 仏印軍との停戦交渉を成立させ、 無血入城に成功しました。 ハイフォンは椰子畑の中に外人住宅が立ち並び、 どこか西洋の街にいるような雰囲気でした。 街は整然としていて、 住民も平常と変わらぬ生活を続けておりました。 仏印無血進駐により、 援蒋ルート遮断の目的が達成されたため、 部隊は南寧の南方の欽県港に上陸して連隊の指揮下に入りました。11月15日、 部隊に撤退命令が下さ れました。
 輸送船に乗り、 苦しい戦いが続いて幾多の戦友が散っていった大陸を後にして、 再度海南島に転進しました。 海南島では、 瓊山市から定安市に通ずる交通の要衝である永興の町の警備に当たりました。 永興の町の警備を解かれて瓊山市に駐留し、 学校を宿舎として毎日訓練に明け暮れておりました。その際、 慰安婦の護送を担当したことがありました。 東海岸の部隊に送るのですが、 朝鮮人の若い女性十人ぐらいと引率の男をトラックに乗せて山道を護衛して行ったのです。 引率の男に聞いたところ、 募集して来たのだそうですが、 女性たちも覚悟して来たのか落ち着いた様子でした。 部隊では、 一般の女性を強姦することは固く禁じておりました。 しかし、 古兵の中には、 「女を徴発に行こう」 と言って遊びに行く者もおりました。 ただ、 私は行った ことがないので、 それが強姦を意味するのか、 私娼と遊ぶと言う意味なのかは判りま せん。 また、 第一線では戦闘がありますから慰安所はなく、 後方の部隊が駐屯しているようなところに開設されておりました。
 1941年の10月、 次期作戦準備のために、 海南島の瓊山から台湾の高雄に転進することになりました」。

http://www3.kumagaku.ac.jp/research/fa/bulletin/page/2
『海外事情研究』(熊本学園大学付属海外事情研究所所報)第41巻第1号(通巻82号)2013年9月発行
          柴公也「日本統治時代の台湾生活誌(Ⅴ)」
■「砂糖黍農場の日々」 馬本貞雄(1916年生。熊本農業卒)
 私は、 熊本市四方寄の農家の次男に生まれました。 熊本の農業学校を出て、 家で農作業を手伝っていましたが、 1936年5月に学校の推薦で、 台南の近くの塩水港製糖会社に就職しました。 外地手当てが付いて初任給は30円でしたから、 二十歳前後 の若者にしては、 結構良い給料でした。 ただし、 勤務地は、 東海岸の花蓮港から20キロほど南の寿庄にある花蓮港製糖所の砂糖黍農場でした。 農場は、 千五百町歩ほど もある広大なものでした。 農場には、 内地人の幹部社員のほかに、 台湾人の労働者がいて、 その労働者たちを、 中村、 村山、 増田という日本名の三人のアミ族の社員たちが監督していました。 私は、 社宅で自炊しながら、 毎日砂糖黍栽培の指導と品質検査に明け暮れておりました。 時々、 在郷軍人として軍事訓練にも参加していました。 台湾の東海岸にも、 大陸の戦争の足音が響き始めようとしていた頃のことでした。 1938年の5月に、 寿農場の事務所で、 庄役場の係員から召集令状を受け取り、 同僚五人と一緒に台北の歩兵第一連隊に入営しました。 月給は10円ぐらいだったと 思います。 当時、 台湾には志願兵制度がなかったので、 台湾人の兵隊はおりませんでした。 見送りは盛大で、 寿駅頭の日の丸の旗の波、 万歳の歓呼の声が今でも耳の奥に響いてきます。 ただ、 親兄弟の姿がなく、 これで娑婆ともお別れかと思うと、 涙が止め処なく流れてきました。
 連隊での訓練は厳しくて、 古兵には大分気合を入れられました。 食事と風呂に入ることぐらいしか楽しみはありませんでしたが、 入浴後、 戦友と身の上話に花を咲かせ たものでした。 たまの日曜日には、 戦友と外出したりして楽しい思い出もありました。
 三ヶ月ほど訓練を受けて中支派遣軍に編入され、9月5日に基隆から輸送船に乗って 上海経由で武漢に向かいました。 前年12月の南京攻略では、 便衣兵 (*軍服ではなく平服を着た兵隊であるが、 国際法では禁止されている)を大分殺害したとの噂でした。
 揚子江を遡って9月12日に九江に着き、 200キロほど離れた武漢三鎮を目指して、 秋雨の中の行軍を開始しました。
 行軍の途中の村は、 皆逃げていてもぬけの殻でした。 放し飼いの豚や鶏、 家鴨だけが村の中をうろついておりました。 米などの食料は兵站部隊が運んで来ていましたが、 おかずにするのが足りなかったので、 それらを徴発と称して捕まえ、 食料にしておりました。
 道中、 露営での食事は泥水で飯盒炊爨したものでした。 夜間の行軍の際には、 真っ暗で道が判らないので、 道を照らすために両側の空き家に火を放って灯りにしておりました。
 部隊は、 山を越え谷を越えて強行軍を続けまし た。 敵と遭遇した方が休憩できるから、 早く出てきてくれないかなと戦友と話しなが ら行軍しておりました。
 途中、 むごたらしく損壊された日本兵の遺体が打ち捨てられていました。 支那兵は日本兵を捕まえると虐殺して、 見せしめのために遺体を損壊するのです。 ある時、 捕虜が引き立てられて来て、 上官から刺殺を命じられたことがありました。 しかし、 捕虜を目の前にして、 どうしても刺殺することが出来ませんでした。 結局、 他の戦友が代わって刺殺しましたが、 何とも言えず後味の悪いものでした。 また、 捕虜を斬首する場面に出遭ったこともありますが、 とても正視出来ず、 思わず顔を背けてしまいました。 秋雨が降り続く泥道の強行軍では、 洗濯はおろか体も洗えません。 汗と泥水で軍服 はベトベトになり、 股擦れで両股から血が流れてきましたが、 遅れたら命がないので 必死に付いて行きました。
 行軍の途中、 私の小隊50人のうち、20人ぐらいが水に当たって病死しました。 何度か敵と激しい銃撃戦を繰り広げて、 15人ぐらいが戦死しました。 夜間には敵の射撃が一段と激しくなり、 チェコの機関銃弾がヒューンと頭をかすめていきました。 その時の私の本心は、 敵の弾が手か脚に当たってくれれば、 傷病兵として内地へ送還されるのではないかというものでした。 それで塹壕から手を挙げて見ましたが、 弾はなかなか当たらず、 結局、 怪我もせずに10月26日に武昌に到着しました。 途中、 敵の敗残兵が方々にいましたが、 既に戦闘意欲をなくしていたので戦いにはならず、 友達になりました。 ただ、 言葉が通じず、 話し掛けてもニコニコして いるだけでした。
 行軍の途中、 「文」 という16歳ぐらいの支那兵の少年が私たちの捕虜になりました。 何でも上海の中学に通っていた時、 兵隊に引っ張られたとのことでした。 分隊の当番兵代わりにして荷物を担がせたり、 駐留中は煮炊きや水汲みなどに使役したりしていました。 日本語は片言でしたが、 互いに気心が通じ合い、 弟のように可愛がっておりました。 二ヶ月ほど経って部隊が転進することになり、 武昌で涙を流して別れました。
 また、 日本軍に協力してくれた馬賊がおりました。 作戦中、 私たち初年兵が水汲みに行くと、 支那兵が堂々と水を汲んでいるのです。 古兵が、 「何だ、 貴様は」 と叱りつけましたが、 その後、 頭目が中隊長に面会を申し込んできたのです。 中隊長が丁重に応対していましたが、 頭目には数百名の部下がいて、 我が軍の作戦に側面から協力しているとのことでした。12月8日、悪戦苦闘の三ヶ月間を過ごした武昌を後にして輸送船で上海に向かいました。 一時上海に上陸し、 日本租界やガーデンブリッジを見学しました。 再び、 輸送船は上海から広州を目指して大海原を進んで行きました。 何日か経って、 広州の黄 埔港に上陸しましたが、 そのまま行軍して20キロほど離れた佛山市に到着し、 南支那派遣軍に編入されたのです。 翌年の2月、 佛山を出発して、 海南島に向かいました。2月10日に海南島の西北部に上陸し、 夜の12時頃、 海口市の南四キロほどに位置している政治の中心地瓊山市 (*現在は省都の海口市に編入されている) に到達しました。 その間、 敵の抵抗はなく、 無血占領に成功して紀元節と合わせて二重の喜びに浸りました。
 1939年 8月、 大隊は海南島から広州に上陸し、 新会市に駐留することになりました。 我が小隊は、 宿営地から5キロほど離れた大梅山の警備に当たりました。 ある日、 孫文の生誕の地の中山県に敵の討伐に出掛けたことがありました。 討伐を終えて、 帰途の行軍の一時休憩の時、 数人の支那服姿の老婦人に出会いました。 すると、 その中の一人が日本語で 「兵隊さん、 ご苦労様です」 と声を掛けてきたのです。 聞くと、 横浜の人で、 支那人と結婚して当地に住んでいるとのことでした。
 その後、 南寧に向かって進軍を開始し、 1940年1月24日、 南寧市に集結しました。 南寧で、 仏印から中国内陸に物資を運ぶ援蒋ルートを遮断することが目的だったのです。 ある時、 山頂から下山して、 麓の山陰に宿営したことがありました。 誰か先に寝ている人の間が暖かそうだったので、 その間に横になりました。 翌朝、 目を覚 ますと、 なんと敵の死体の間に寝ていたのでした。
 1940年9月、 輸送船に乗り、 北ベトナムのハイフォンに上陸しました。 直ちにドーソン砲台を目指して進撃し、 ハイフォンの背後の高地を占領しました。 占領後、 仏印軍との停戦交渉を成立させ、 無血入城に成功しました。 ハイフォンは椰子畑の中に外人住宅が立ち並び、 どこか西洋の街にいるような雰囲気でした。 街は整然としていて、 住民も平常と変わらぬ生活を続けておりました。 仏印無血進駐により、 援蒋ルート遮断の目的が達成されたため、 部隊は南寧の南方の欽県港に上陸して連隊の指揮下に入りました。11月15日、 部隊に撤退命令が下さ れました。
 輸送船に乗り、 苦しい戦いが続いて幾多の戦友が散っていった大陸を後にして、 再度海南島に転進しました。 海南島では、 瓊山市から定安市に通ずる交通の要衝である永興の町の警備に当たりました。 永興の町の警備を解かれて瓊山市に駐留し、 学校を宿舎として毎日訓練に明け暮れておりました。その際、 慰安婦の護送を担当したことがありました。 東海岸の部隊に送るのですが、 朝鮮人の若い女性十人ぐらいと引率の男をトラックに乗せて山道を護衛して行ったのです。 引率の男に聞いたところ、 募集して来たのだそうですが、 女性たちも覚悟して来たのか落ち着いた様子でした。 部隊では、 一般の女性を強姦することは固く禁じておりました。 しかし、 古兵の中には、 「女を徴発に行こう」 と言って遊びに行く者もおりました。 ただ、 私は行った ことがないので、 それが強姦を意味するのか、 私娼と遊ぶと言う意味なのかは判りま せん。 また、 第一線では戦闘がありますから慰安所はなく、 後方の部隊が駐屯しているようなところに開設されておりました。
 1941年の10月、 次期作戦準備のために、 海南島の瓊山から台湾の高雄に転進することになりました。 高雄市郊外の陸軍倉庫を兵舎として宿営しました。 既に大東亜戦争の開戦は必至の情勢で、 我が部隊はフィリピンに上陸することになっており、 上陸後の進出目標も設定されていたのです。
 11月下旬に高雄を出港し、 澎湖島の海 軍基地の馬公港で待機していましたが、 12月8日、 船中で日本海軍がハワイの米軍基地を攻撃したとの報せを受けました。
 12月17日、 ついに馬公を出港してフィリピ ンに向かったのです。 マニラから160キロほど北方に位置する リンガエン湾に上陸しました。 早速自転車と自動車を乗り継いでマニラに向かいました。 途中、 敵と激しく交戦しながら12月31日マニラに入城しました。 敵軍には米兵だけではなく、 現地人も参戦しておりました。
 1月5日、 バターン半島を攻略するために、 銀輪を連ねてマニラを出発しました。 途中自転車を放置し、 敵と激烈な銃撃戦を繰り広げながらバターン半島を占領し、 敵をコレヒドール島に退却させたのです。 我が軍は華々しい戦果を挙げたのです が、 大隊長を始め、 多くの戦友を失ってしまいました。
 1942年2月1日、 我が軍はジャワ攻略のために、 リンガエン湾から輸送船の金城丸に乗船しました。
 第三艦隊に護衛され、 数十隻の輸送船は、 一路ジャワを目指して南進を始めました。 熱帯の海を、 途中マカッサル海峡のホロ島に一時立ち寄り、 一ヶ月掛けてジャワ島の中部の北岸にあるクラガンに上陸しました。 攻略の目標は、 東部の中心都市スラバヤでした。 自動車部隊として、 砂糖黍畑の中のアスファルト舗装の道路を進みました。 途中、 住民たちは親指を立てて我が軍を歓迎してくれました。 ジャワの住民は、 フィリピンの住民とは違い日本軍に対して友好的で、 敵対することはありませんでした。 私たちが斥候に行くと、 住民はコーヒーを 出して接待してくれるのです。
 3月10日、 スラバヤが落城しましたが、 我が部隊は入城せず、 残敵掃蕩のためスラバヤ南方のマランに転進することになりました。 マランは、 高原に位置するオランダ人の避暑地でした。 我が部隊は市内にある学校 に宿営し、 治安の維持に乗り出しました。 住民たちは非常に親日的で、 友好を兼ねてジャワ語の勉強をしておりました。 ただ一度、 宿舎としていた学校にジャワ人の娼婦が入り込んできて、 兵隊とトラブルになったことがありました。
 4月になり、 今度は上陸地点のクラガンの近くのレンバンで市内の巡察に当たることになりました。 住民は平穏に暮らしており、 私たち幹部は、 時折郡役所に招かれて ジャワの踊りを見学したりしておりました。 毎日住民との交流に努め、 ジャワ語を習ったり日本語を教えたりしていたのです。
 8月中旬、 私たちに内地帰還の命令が出ました。 戦死した戦友たちを残し、 生死を共にした戦友と別れを惜しみ、 連隊本部のあるバタビア (*ジャカルタ) に移動しました。 連隊長より別れに際しての訓示を頂いて輸送船でシンガポールに向かい、 三週間ほど待機して市内を見学しておりました。 その際、 市内のホテルに朝鮮服を着た若い女が 人ほど宿泊していたので、 引率していた男に聞いたところ、 「ビルマの前線に行くと儲かるので朝鮮から連れて来た」 とのことでした。 女たちは無理矢理連れて来られたようには見えませんでしたから、 募集で来たのでしょう。 その後、 サイゴンを経由して台湾の高雄港に着いたのは、 9月の中旬でした。 検疫を済ませて湖口の演習場に十日ほど隔離され、 9月30日、 台北第一連隊補充隊に戻りました。 当時は、 日本軍が優勢の時でしたので、 国民も戦勝気分に湧き立っており、 歓迎の日の丸の旗の波に迎えられて営門を潜りました。
 1942年10月3日に除隊 し、 花蓮港寿庄出身の戦友四名と寿駅頭で会社の歓迎式に列席し、 私が代表として謝辞を述べ、 四年半の私の軍隊生活に幕を下ろしたのでした。
 花蓮港製糖会社に復職し、 寿農場の第三農場長に就任しました。 もう20代の半ば を過ぎていましたので、 両親の勧めに従って、 翌年の4月、 熊本の中川裁縫女学校を出た8歳下の妻と熊本で華燭の典を挙げました。
 妻を連れて台湾に戻る途中、 同じ船に乗り合わせた二十代とおぼしき五~六人の内地人の女性たちと知り合いになりました。 私たちが新婚だと判ると、 妻に向かって 「奥さんはいいですねえ、 私たちは ……」 と言葉を濁して、 涙顔になってしまいました。 不審に思って、 後で周りの人に聞いたところ、 何でも戦地の軍隊に行く慰安婦の人たちとのことでした。
 妻にとっては、 台湾は初めての外地でした。 最初は、 内地との違いに驚いていましたが、 直ぐ慣れて台湾での生活を楽しむようになりました。 製糖会社には社宅があって、 八畳と六畳に台所と風呂、 トイレが付いておりました。 水道はなく、 タンクから 水を引いていました。 ガスはありませんでしたが、 薪は台湾人が割って用意してくれました。 風呂は、 台湾人が当番で水を汲んでくれました。 ただ、 洗濯や食事は台湾人の手を借りずに自分たちで切り盛りしておりました。 米は購買所で買っていましたが、 水道代や燃料費は只でした。 生活面では、 熊本よりもずっと楽でした。 ただ、 社宅は事務所や購買所からは一キロほど離れていたので、 購買所に買い物に行く時は、 台湾人の押してくれる台車に乗って往復していました。 アミ族の監督の三人と台湾人の労働者の班長も社宅に入っておりました。 労働者たちも社宅でしたが、 トタン葺で板の間の粗末な社宅に住んでいました。 ただ、 台湾人や アミ族の家には風呂が付いていませんでした。 元々風呂に入る習慣がなく、 水やお湯で水浴びをしていたのです。
 台湾人やアミ族の生活は、 それほど豊かとは言えません が、 食べる物には不自由しておりませんでした。 アミ族の部下は、 前述したように中村、 村山、 増田と日本名に改姓名した三人がおりました。 三人は、 台湾人の労働者の監督をしていました。 アミ族は平地に住んで稲作をしており、 首狩もせず大体において温和な人たちでした。 私の隣家の増田さんは 社宅に住んでいましたが、 全く内地人と同じような生活をしていました。 ただ、 奥さんは着物ではなく、 伝統的な民族衣装を着ていました。 三人の子供がおりましたが、 皆優秀で内地人の学校の小学校に入り、 娘さんは内地人でも難しい花蓮港高等女学校に通っていました。 弟も、 花蓮港中学に合格しています。 ただ、 アミ族の人たちは、 終戦後中村さんだけを残して農場を辞め、 田舎に帰ってしまいました。
 1944年の9月に、 大型台風が襲来し、 台湾人やアミ族の家が大分壊されました。 それで、 会社の倉庫を開放して被災者たちが入居できるようにしたことがありました。 怪我人にはヨードチンキを塗って消毒してあげたのです。 また、 子供が生まれたばかりの台湾人の母親たちがいたので、 私の家に引き取って世話をしました。 その間、 私たちは子供たちを抱いて押入れに寝ていました。 私は、 台湾人やアミ族と接する時は、 常に思い遣りの心を持って接することをモットーにしていたのです。 終戦後、 その母親たちから 「台風の時は、 大変お世話になりました」 と、 食料の差し入れを受けました。 大東亜戦争の戦雲も急を告げ、 寿製糖工場も空襲されるようになり、 敵軍の本土上 陸も囁かれるようになりました。
 1944年10月、 私は花蓮港飛行大隊台湾特設工兵隊に再度召集されました。 月給は20円ぐらいでしたが、 他に会社から家の方に毎月50円ぐらい支給されておりました。 今度は軍曹に任じられ、 台湾人やアミ族の志願兵の第二小隊長を命じられました。 志願兵にも、 一ヶ月20円ぐらい支給されていました。
 花蓮港飛行場は、 特攻機の基地になっていたので、 敵の攻撃から特攻機を守るため、 特攻機を裏山に秘匿するのが任務でした。 特攻機の出撃の際には、 昼夜の別なく特攻機をトラックに載せて飛行場までの数キロの道を運んでおりました。 特攻機の出撃を見送る時は、 実に感無量でした。 平常は至極平穏で、 普段は作業場の見回りをし、 休養日には全員で魚獲りをしておりました。
 1945年の 8月、 私はマラリヤに罹って陸軍病院に入院していました。9日、 ソ連軍の参戦の報があって、 即刻退院を命じられました。15日、 国民学校の校長室 で終戦の詔勅を拝聴しました。 敗戦の報には残念でならず、 人目を憚ることなく声を上げて泣いてしまいました。 すると、 志願兵たちが、 「隊長、 心配しないで下さい。 日本は必ず復活しますから」 と慰めてくれたのです。 翌日、 大隊長の命令により隊を解散し、 私の二度目の御奉公も終りを告げました。 解散する時、 アミ族の志願兵にだ け小銃を渡して帰しました。 アミ族は日本人に親近感を持っていて、 もしもの時には 台湾人よりは頼りになると思ったからです。
 製糖会社には、 都合四年半ほどおりましたが、 台湾人やアミ族と喧嘩したことはあ りません。 口で叱ることはありましたが、 手を出したことはありません。 当時、 アミ族は日本人と先祖を同じくする人たちだと思っていましたが、 台湾人は日本人とは違って支那人の子孫だと思っていました。 一視同仁とは言っていましたが、 台湾人を同胞だとは思っていませんでした。 だからと言って、 馬鹿にしたり軽蔑したりしたことは 全くありませんでした。 花蓮港の街の中でも、 内地人と台湾人が喧嘩するようなことはありませんでした。 ただ、 終戦後、 台湾人の態度が大きくなったような感じは受けました。 花蓮港でも、 警察官が報復されたという噂を聞きました。 国民党の軍隊が花蓮港にも来ましたが、 それほど悪いことはしませんでした。 終戦により除隊し、 製糖会社に復職して終戦業務に従事していましたが、 台湾人が 我々に危害を加えたり、 仕返ししたりすることはありませんでした。 出来るなら、 ずっと台湾に住み続けたかったのですが、 翌年の4月、 台湾人の従業員たちの盛大な見送りを背にして、 住み慣れた寿農場から引き揚げました。 花蓮港から鹿児島港に上陸 して熊本に帰り、 日本での新しい生活を踏み出したのです。

               原文は「元号」使用。
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「太魯閣族」

2016年07月15日 | 台湾
http://www.dmtip.gov.tw/Aborigines/Article.aspx?CategoryID=1&RaceID=10
http://www.dmtip.gov.tw/Aborigines/Article.aspx?CategoryID=7&ClassID=25&TypeID=0&SubTypeID=0&RaceID=10
「臺灣原住民數位博物館」
■太魯閣族
     (圖1):東西橫貫公路入口
     (圖2):太魯閣族傳統領域(西寶)
  太魯閣族的文史工作耆老們,Yudaw Pisaw(田信德)、Yudaw(許通益)、Yuki(吳金成)、Jiru(高順益)、Ikuy(張永晃)等在南投地區近八年(1993-1998)的田野調查中 ,所收集之珍貴傳說資料記載:太魯閣族人上古時期是由南洋一帶坐船而來,登陸後定居於台中至台南的平原上,這就是最早的發祥地。後來在平原上因與平埔族不合而被驅逐追殺,被迫逐次向台灣中部高山地區遷移。傳說中的遷移史,太魯閣族人的祖先,從台中平原一帶,經埔里西方名為Ayran(愛蘭)的地方,繼續向東遷移,經過幾個世紀,遷移了十七個地區位置,才到達易守難攻的Truwan(多羅灣)山谷,才保留了太魯閣族人的生存。其路線為 Ayran → Suwil → Smlaan Lukus → Puqan Rudux → Mujiyan → Bhbuh → Dgiyaq Towngan → Sbahu → Habun → Bungu Gsilung → Meebung → Gayus Beenux → Yayung Sabun → Pnawan → Pludux → Twanan →Truwan (現在的南投縣仁愛鄉合作村平生部落)等地區。
  後來居住於Truwan地區的族人,因人口增加,耕地及獵區等生活領域空間不足,部分的族人才分散到今日的平靜部落至霧社高地。
  住於平靜至廬山部落者,是居住於往返霧社的Ddaan(經過)的地方,族群稱為Teuda群。而遷居於霧社一帶的族人,因位於較為山上,而被稱呼住在山上Daya的人,簡稱Tkdaya群。因此Truku群、Teuda群、Tkdaya群,實際上都是淵源於Truwan(多羅灣)的Truku族人。

(1)、據1917年統計,分支之後的部落其分情況如下:
  太魯閣族人的世居在南投縣仁愛鄉Truwan溪旁Brayaw Daya,Busyug Ska,Sadu,Truwan,Rkudaya,Rusaw,Bgbung,Ska,Tnbarah‧住在Dakusay溪與眉溪邊Bwarung,Bkasan,Sukug,Mhibu,Truwan,Qacuk,Gungu,Drudux,Sipaw,Towngan,Paran。

(2)、四百多年前,太魯閣族祖先因耕地不足,人口增加,離開南投truwan翻過奇萊山來到大濁水以南,木瓜山以北(含立霧溪、三棧溪),前前後後散居96處部落‧(圖1)(圖2)

(3)、1914年太魯閣族抗日戰役後之遷徙地理分佈
  太魯閣族抗日戰役是指太魯閣族祖先在一百多年前,於中央山脈與日軍警抗戰的輝煌歷史。 在日本官方的文獻裡,稱之為太魯閣討伐,意指太魯閣族人犯人來看待。但對我們太魯閣族人來說,是為了悍衛土地、生存及習俗與入侵的日本軍警發生一連串戰爭的。例如祖先自1896年12月的新城(1896年12月)、三棧(1897年.1月)、加灣(1897年.2月)、威利(1906年)、及太魯閣族抗日戰役(1914年.5月起至8月底),特別是太魯閣族抗日戰役,最為耗大的戰爭,日本政府動用軍警二萬餘兵力,用精良武器,來對付徒手的族人約2500–3000男丁。這也證明日本據台近20年(1914年)後,最後向日本降服的族群就是太魯閣族。日本政府統治台灣五十年,但統治太魯閣族才三十二年。日本政府以好管理為藉口,開始勸誘遷居平地,但於1930年發生霧社事件之後,為防止族人再次團結起來抗日,自1931年起至1937年強迫族人遷居現址,包括秀林鄉行政區域:和平村、崇德村、富世村、秀林村、景美村、佳民村、水源村、銅門村、文蘭村,萬榮鄉行政區域:西林村、見晴村、萬榮村、明利村、紅葉葉及卓溪鄉行政區域:立山村,另外有部份族人被遷居至漢人居住區域之吉安鄉行政區域:慶豐村、福興村、南華村,在遷居時,採取混居政策,來破壞本族部落社會結構及傳統文化。

★人口遷移
  第一階段:自早期的遷徙至1914年。由今秀林鄉的山區逐次向東擴展,其後在和平溪(大濁水溪)下游及其支流北溪、立霧溪、三棧溪、木瓜溪中上游諸流域,建立了居住區域。
  第二階段:1914年至1931年。1914年太魯閣戰役底定後,在日人勸導與強制的雙重政策之下,開始進行部落的集團移住,迫使族人的部落遷離山區,移至日人指定的居住區域。此區域都在中央山脈脊嶺東方盡端下方的山麓,沿太平洋岸及台東縱谷的西側沿山一帶的地區。
  第三階段:1931年起,日人鑑於霧社事件的發生,再次強制住於山區的部落移住,除了沙卡丹流域的沙丹丹(今大同)、哈魯閣臺(今大禮)、希拉岡三個部落,及金洋之部分住區已為日人規劃為蔬菜種植區以外,全部遷離山區移住於平原或下游河谷。
  至戰後國民政府時期,東賽德克群的部落移動仍有八件以上,大體而言,多數部落由深山朝淺山、沿河流域及海岸地帶等區域移動(許木柱等 1995:28),亦有部分族人離開部落前往台灣各地都市討生活。

★日據初期集體管理政策
  進入日治時代以後,日人基於殖民統治的考量,於1910年代中起大規模強制移住深山地區太魯閣族的各個部落,打散了原有部落,將不同部落融合成一個部落,衝擊原有的血緣、親緣的組成規則,形成以地緣為為結合原則的部落(參林恩顯、林顯宗 1991。日人對族人實施進行集團移住政策之後,住居家屋便不像以往如此的分散,而經常是在日警的駐在所及蕃童教育所等機構周邊,經過日人安排規劃,形成密集的住屋排列,此乃日人基於有效控管族人之理由(參李瑞宗 1998)。

★1914年的「太魯閣事件」
  1906年8月1日花蓮泰雅族人「太魯閣蕃」十四社聯合襲擊日人賀田組為主的腦寮區,擊殺區內賀田組人員、日人腦丁、教員共30餘人,花蓮港支廳長警部大山十郎亦遇害,史稱「太魯閣事件」。事件起因於臺東廳長森尾茂助將理蕃事務改由警務課專管,政策轉向嚴密取締,並准許賀田組擴大樟腦事業侵入山區,終致引發太魯閣蕃社的反抗。此事件明顯改變了總督府綏撫的理蕃政策,隔年1月佐久間左馬太總督確立了五年理蕃計畫,對泰雅族屬的「北勢蕃」展開嚴厲取締的高壓手段,此後對太魯閣蕃社的討伐戰役不斷。1914年5月擔任討伐軍司令官的佐久間總督,率領配備總槍數約2800枝、各式火炮31門、機關槍8座、編制2萬餘人的軍警聯合部隊親赴蕃地,以優勢軍力對太魯閣蕃社展開全面性的戰爭,蕃社總兵力約3000人於山區與日軍激戰3個月,終因人數武力懸殊,8月下旬遭日軍鎮壓底定,此役被視為太魯閣戰敗的代表。此後,日本總督府實際執行其政治統治意志於太魯閣社會中,連年戰爭、集團移住、禁制舊習、灌輸日本文化等手段,摧毀太魯閣傳統社會文化甚鉅(參王學新 1997、1998;李季順 2001a、2001b、2003;高琇瑩 1996、1999、2000a、2000b;潘繼道 2000a等)。

★外來宗教傳入
  西方基督宗教在日治中期便已傳入太魯閣地區,花蓮太魯閣一帶是台灣「山地」部落中最早受到基督長老教會影響的地區,1924年時便出現第一位信徒Ciwang- Iwal(芝苑、姬望)(江天順 1965:373-378;邱韻芳 2004:99)。惟因日本政府的禁止,日治時期的傳教效果並不彰。至戰後,接受西方基督宗教的族人迅速增加,主要的教派包括基督長老教會、天主教、真耶穌教會等。
  當代信仰基督宗教後,宗教領袖則為教會神職人員或長老,協商教會事務的進行。宗教領袖在族人的日常生活,甚至政治運動中,也可能扮演重要角色,如太魯閣正名運動發起初期,多由教會牧師為核心份子。

★太魯閣族正名運動
  太魯閣族正名運動的正式展開約在1990年代中期,由不同組織分別推動族群正名運動。1996年臺灣基督長老教會太魯閣中會及花蓮縣太魯閣建設協會分別舉辦了正名的相關研討會,且各自主張不同族名。教會系統主張以太魯閣族為名,建設協會乃主張包括西部族人的賽德克族為名,彼此意見不一。直到2002年九月,花蓮縣德魯固族文化發展協會再次舉辦正名研討會,並將之落實成立「太魯閣族正名促進會」,此後,開始建構以「太魯閣族」為族名的正名行動(李季順 2003:60-61)。另一方面,對於同為東部族人的teuda、tkdaya、truku三群對使用「太魯閣族」一稱彼此有不同意見,但在推動正名運動中,支持「太魯閣族」的族人立場,主要乃依據truku指的是發源地,而非人群名稱這層意義上,希望藉此含括三群人在同一族名之下(希雅格‧烏洛2004:76)。
  縱使仍有在東賽德克中位居少數的tkdaya、teuda語群的部分族人,以及南投地區的部分西賽德克族人,對此正名運動抱有不同意見,「太魯閣族」終於在2004年1月14日,經行政院通過認定為台灣的第十二個原住民族(推動正名運動過程可參李季順 2003:47-78;希雅格‧烏洛 2004)。
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「風雲太魯閣 二十世紀臺灣最大規模的戰役」

2016年07月14日 | 台湾
http://blog.xuite.net/shylian.chen/blog/19082885-%5B%E8%BD%89%E8%BC%89%5D+%E9%A2%A8%E9%9B%B2%E5%A4%AA%E9%AD%AF%E9%96%A3+-+%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%96%E7%B4%80%E8%87%BA%E7%81%A3%E6%9C%80%E5%A4%A7%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E7%9A%84%E6%88%B0%E5%BD%B9+
「阿亮的假日趴趴GO!」2008-08-27 作者:李季順(花蓮縣立玉東國中校長)
■風雲太魯閣 二十世紀臺灣最大規模的戰役
一、前言
  「太魯閣抗日戰役」一詞專指1914年6月1日至8月13日的那場軍事行動;而「太魯閣事件」泛指日本入主台灣直至「太魯閣抗日戰役」之前,日本人與太魯閣人的一切衝突,如威里事件、新城事件、三棧事件---等。
  日本統治台灣時,第一任總督是 樺山 資紀(1895年5月~1896年6月),他於1895年8月25日,訓示部屬對台灣原住民「以綏撫為主,以期收效於他日」,因此,這時期的指導原則是:「欲開發台灣島,必須先令原住民馴服」。
  經由教導原住民從事農耕及養蠶等事業之推展,擺脫狩獵的經濟生活,進而降低其尚武之風,以便於日本人之統治。
  第二任總督 桂 太郎(1896年6月~10 月)及第三任總督 乃木 希典(1896年10月~1898年2月),均沿襲此原則。第四任總督 兒玉 源太郎(1898年2月~1906年4月),則採用當時總督府參事官,也是山地行政顧問的持地六三郎的建議,他於1902年提出的從「經濟主義」的觀點,採取「討撫並用」的政策,然而此政策並未收到預期的效果,尤其在太魯閣族群方面,更是徹底失敗。
  第五任總督 佐久間 左馬太(1906年4月~1915年5月),鑑於討撫並用的山地政策失敗的原因,在於原住民一直擁有武力,改為先「討伐」、後「撫育」的政策,因此,1910年~1914年的「五年計劃」主要工作目標,就在於徹底繳原住民的槍枝彈藥,完全解除其武裝。

  日治時期歷任總督     任期          原住民政策
   樺山資紀       1895、5~1896、6     綏撫為主
   桂太郎        1896、6~1896、10     綏撫為主
   乃木希典       1896、10~1898、2     綏撫為主
   兒玉源太郎     1898、2~1906、4     討伐、綏撫並用
   佐久間左馬太    1906、4~1915、5     先討伐、後撫育
   安東貞美       1915、5~1918、6     民政開始

  根據文獻記載,太魯閣抗日戰役發生於1914年6月1日至8月13日,前後歷時74天,日本入主台灣後,原住民抗日事件頻繁,在佐久間總督時代有所謂「前期理番事業」與「後期理番事業」。前期完全集中在隘勇線的推進,與通電鐵刺網的架設工作,造成全島原住民的活動範圍縮小,如耕地、獵區急遽縮小,到處暴發武裝抗爭,也引起官方的武裝鎮壓,至1909年為止,這樣的武裝衝突事件共計36次,雙方傷亡無法正確估計。

二、「攻打太魯閣人」前的窺伺:
  為徹底統治山區原住民,台灣總督府於1914年4月27日成立所謂「太魯閣討伐軍」,並秘密組成了三支「太魯閣人居住地探險隊」分由新城、南湖大山以及合歡山等三方面,探勘內、外太魯閣的山勢地形,為了進行一場台灣空前未有最大規模、更全面性的軍事行動,做好情報蒐集的工作。

1、在新城方面:
  以利誘方式,請外太魯閣人為嚮導,自花蓮港越過隘勇線的鐵刺網,經新城登立霧山,探查沙卡丹地區,總結了合歡山至南湖大山的觀測,以及大濁水溪的探查,完成內、外太魯閣地勢及原住民分布圖。
  在探勘立霧山時,探險隊等人夜宿於外太魯閣總頭目 哈魯閣 那威的家,哈魯閣得知日人為窺探地形而來,頗為忿怒,入夜升火聚會,飲酒唱歌,社眾情緒極為激昂,即欲動手斬殺探險隊員,但哈魯閣不欲速啟戰端,反對族人輕舉妄動,欲爭取時間做戰鬥準備,為防範族人夜襲日本人,當晚乃與日本人同床而眠,次夜,在副頭目畢捎家亦遭逢同樣情況,最後還是有驚無險地全身而退。

2、在南湖大山方面:
  探險隊員由三星山下南澳比亞毫社,登南湖大山絕頂,下山時往南山村方向,在南澳群追擊下速向蘭陽溪直降。此行觀測到自南湖大山、中央尖山一線的南澳群以及內太魯閣群陶塞溪方面的地形。

3、在合歡山方面:
  第一次及第二次均因受風雨襲擊而失敗,數十名隊員被凍死。第三次由總督 佐久間左馬太親自率領,以步兵一中隊,武裝警察三百多人以及兩千多名腳夫,組成「合歡山探險隊」。於觀測過合歡山一帶並繪製成地圖後,總督先行下山,留下軍警保護番務本署技師野呂寧等人,繼續進行探測。
  野呂寧等人首先自合歡山東峰至合歡山北峰,觀測畢祿山、中央尖山連峰至三錐山一帶,然後攀登奇來山北峰的絕壁,由峰頂俯瞰一千公尺腳下的托博闊社,並利用望遠鏡觀測了附近的斯米可、巴拉瑙等部落,繪成原住民社的分布圖;也觀測了屏風山、太魯閣大山等幾座高山,繪成山川形勢圖。

三、東西夾攻的作戰計劃:
  日軍這次的作戰計劃如下:

1、西路軍方面:
  (1)「平岡守備隊」:越過能高山,進入木瓜溪流域,攻向太魯閣大山一帶。
  (2)「荻野守備隊」:則越過合歡山,進入立霧溪流域。  
  兩隊會師於西拉歐卡候尼,然後繼續向東依序掃蕩內、外太魯閣各原住民社。
2、東路軍方面:
  (1)「巴托蘭攻打隊」:由松山率領,自今之鯉魚潭邊的文蘭村,兵分兩路:一向
    西攀登波卡散高地,占領古莫給,溯木瓜溪而上,直指巴托蘭社;一向北經初
    英(吉安南華村),進迫摩古伊波。
  (2)「得其黎攻打隊」:由永田隊長率領,從花蓮港入山,北向攻打外太魯閣地區
    各原住民社,中途屯駐新城,然後進入太魯閣峽口,溯立霧溪而上,攻打內太魯
    閣地區各原住民社,與由合歡山東下的西路軍遙相呼應,形成兩面夾擊的攻勢。

  為了支援這次作戰,日軍先期規劃了通訊、交通、倉儲、糧食、醫護等各項後勤工作,修築從埔里經霧社、立鷹(今佳望新村)、追分(今翠峰)、櫻峰以迄合歡山的臨送道路。並於1914年5月23日,終於在東合歡山西北方地方(約在今陸軍寒訓中心),設立了所謂「討伐軍司令部」,集結了將近一萬人,包括陸軍兵員、文官、漢人苦力、原住民隊(親日)。現場搭起兩百頂供司令部、聯隊本部使用的帳蓬,也搭建了陸軍經理部倉庫,以及供五千名漢人挑夫過夜的茅屋。

四、太魯閣人的防禦武力:
  1914年5月24日總督向原住民各社發出了「招降諭告」:「---盼汝等儘速繳出槍械彈藥,表達歸順之誠意---汝等即使抵抗至勢盡而向徐山幽谷逃逸,我軍亦必窮追不捨,悉予剿滅,無一倖免----。」這樣的招降諭告,其實就是一份宣戰書,而當時太魯閣人的防禦力量,大概估計如下:
  1、內太魯閣地區戰士約為:1100人
  2、外太魯閣地區戰士約為:1000人
  3、巴托蘭地區戰士約為:250人
  參加「太魯閣抗日戰役」的太魯閣戰士,合計約為2350人,而攻打的日軍卻有20749人,也就是說,日軍以十倍兵力的優勢,進行此次的「攻打」,至於武器的精良,補給的充裕,那就更不是只有弓箭獵槍,並且糧食彈藥卻極其有限的太魯閣人所能望其項背。

五、「太魯閣抗日戰役」戰況:
  1914年6月1日太魯閣人開始進入了台灣史上一段最陰暗、最悲情的歷史隧道中。由總督佐久間 左馬太自任司令官,由當時民政長官 內田嘉吉擔任總指揮官,警視總長龜山里平太擔任副指揮官,兵分東西兩路攻打族人,其戰況列表如下:
  兵員裝備:兵員、軍伕總計20749人,武器方面,配屬野戰砲48門,機關槍24挺,此外,又配合軍艦、飛機,進行炮擊、轟炸,東西夾擊的方式。
東路討伐軍 
1、得其黎討伐隊(永田隊長率領)
  時間:1914年6月1日至7月3日
     總頭目哈魯克 那威7月3日繳出槍械,並於1915年2月22日含恨以歿
  攻克社名:古魯社、巴拉丹地區各要地、卡奧灣社、落支煙社、得卡倫社、赫赫社。
  戰役:2名隘勇陣亡,1名巡查受傷
2、巴托蘭討伐隊(松山隊長率領)
  時間:1914年6月1日至6月26日
     古莫給社、摩古伊波社、巴托蘭社、斯莫旦巴魯社得呂可社
  戰役:腳夫2名陣亡,巡查、隘勇、腳夫各

西路討伐軍
1、第一守備隊(由平岡少將率領)
(1)奇萊南峰線(鈴木聯聯隊及影山大隊)
  時間:五路人馬出發時間不一,大約從五月中旬起,即按路途的遠近難易而先後出發,
    以便能於6月1日之前進入戰鬥位置,準備受命發起攻擊。
  攻克社名:自盧山出發,經奇萊山南峰、能高山,與東路巴托蘭隊會師後,參與內太
      魯閣戰役。攻克巴托蘭社及巴拉丹地區原住民各社。
  戰役:1、發生「沙卡亨之役」:5月30日,日軍經沙卡亨北側,遭太魯閣戰士攻擊,
    雙方互有傷亡;6月3、4日,日軍攻打沙卡亨社,日軍3名陣亡,重傷2名、輕傷
    5名;6月6日抗日英雄西巴 瓦旦襲擊日本搜索隊,日軍急調軍隊,雙方激戰多時
    日軍、腳夫各3名陣亡,1名中尉、9名兵士受傷。11日始告平息,日軍放火燒燬
    房舍及穀倉以為報復。
(2)奇萊北峰線(山田大隊)
  攻克社名:由櫻峰出發經奇萊北峰,至托博閣溪谷攻克托博閣地區各社。

2、第二守備隊(由荻野少將率領)
(3)屏風山線(深水大隊)
  攻克社名:由合歡東峰出發,經屏風山南峰向東爬升,再向東下降至托情闊溪,攻克托
      情闊地區各社。
  戰役:2、發生「克拉寶之役」:6月5日,日軍一小隊到克拉寶東南方溪谷搜索,遭克
    拉寶社壯丁襲擊,日軍1名陣亡、3名受傷;7日以機槍掃射猛攻、社眾散入山中,雙
    方激戰後,一小隊自隊長 室島少尉以下悉數被消滅。該山頭也因此被命名為室島山,並
    立碑紀念。
(4)塔次基里溪線(佐久間帶領第二守備隊司令部及阿久津聯隊)
  攻克社名:由「合歡山根據地」出發,經屏風山北稜尾,經塔次基里溪後,沿溪南岸東
      行,經魯比社,在托情闊溪與塔次基里溪的合流點(魯比合流點),與屏風山
      線會合,向東往西拉歐卡候尼 。
  戰役:3、「西拉歐卡候尼之役」
       :6月12日凌晨4時許,突擊西拉卡候尼社,遭到六、七十名太魯閣戰士頑強
       抵抗。在日軍猛烈攻擊下,終於不支而去,退至該社東北方1公里處據險扼守,
       抵抗日軍向立霧溪下游推進,仍被日軍以山炮和機槍所攻克。日軍一名少尉與
       三名士兵陣亡,一名中尉、一名下士與四名士兵受傷。
     4、「可巴洋之役」:可巴洋社頭目為戰團首領,6月13、14日雙方發生激戰,在
      日軍強大火力之下,抗日軍終告不支,日兵陣亡3人。
(5)畢祿山線(岸和田大隊)
  攻克社名;由合歡東峰出發,經大禹嶺、畢祿山南側,攻克瓦黑爾溪流域原住民各社,
      抵天祥西邊的饅頭山。

  所謂「東路討伐軍」分為兩隊,一支為「巴托蘭討伐隊」;另一支為「得其黎討伐隊」,動用兵員加上壯丁、軍伕合計10841人。「巴托蘭討伐隊」從現之秀林鄉文蘭村兵分兩路:一向木瓜溪上游而上,佔領高地;一向北經現之吉安南華村,向北推進。而「得其黎討伐隊」則由花蓮港入山,北向攻打外太魯閣各原住民部落,中途屯駐新城,然後進入太魯閣峽口,溯立霧溪而上,攻擊內太魯閣各原住民居住地。
  所謂「西路討伐軍」,也分兩隊,一隊由西向東越過能高山,進入木瓜溪,攻向太魯閣大山一帶;另一隊越過合歡山,進入立霧溪流域,動用兵員,加上壯丁、軍伕,合計9908人。
  以上所謂東西兩路「太魯閣討伐軍」,兵員、軍伕總計20749人,武器方面,配屬野戰砲48門,機關槍24挺,此外,又配合軍艦、飛機,進行炮擊、轟炸,東西夾擊的方式。當時太魯閣人戰士約3000人,面對日軍優勢的兵力及精良的武器,在烽火中寫下了太魯閣人的悲情與血淚。根據日人文獻一段記載:「--在攻打到西荖卡候尼時,戰役最為慘烈,太魯閣人毫不畏懼,面對日軍壓境,彈盡糧絕之下,不再逃走,轉而持槍肉搏迎戰----」。最後為求族人命脈的延續,只有被迫投降,這場懷璧有罪的無妄之災,差點為太魯閣人帶來滅族的禍害。(高琇瑩載於烽火十八年-記太魯閣抗日事件始末)
  而霧社事件發生的根源,是因為日本入主台灣之後三十年,霧社分社的日警自行負責學校建築工程,興建小學校、公學校、小學生宿舍,以警察之力「役使原住民」,並以「超低工資」和「強制勞動」的方式,且在搬運木材的勞役中,態度蠻橫、口出穢言,以「非我族類」待我,視原住民形同「賤民」,早已引起原住民不滿的情緒,雙方心理鴻溝不斷加深。
  霧社事件其導火線是事變前二十天,日本吉村巡警路過「馬黑保社」,巧遇結婚喜宴,頭目摩那魯道的長子-叫「達道歐摩那」,誠意邀請吉村巡警入席並勸酒,吉村以不衛生為由推辭,在發生拉扯之間,日警除用手裡拐扙抽打「達道歐摩那」的手之外,更口出穢言辱罵:「巴旮鴉摟!Ban jin !」於是達道歐摩那憤怒撲向吉村巡警,他的弟弟及父親-摩那魯道頭目也加入,將吉村摔倒在地並痛打,因而引發不祥之兆,日警與原住民的關係也從此一步步逼向無法挽回的境地。
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「太魯閣族抗日戰役」

2016年07月13日 | 台湾
http://www.knowlegde.ipc.gov.taipei/ct.asp?xItem=660048&CtNode=7436&mp=cb01
「臺灣原住民族文化知識網」2010/1/4
■太魯閣族抗日戰役
  太魯閣族抗日戰役是指太魯閣族祖先在一百多年前,於中央山脈與日軍警抗戰的輝煌歷史。在日本官方的文獻裡,稱之為太魯閣討伐,意指將太魯閣族人當犯人來看待。但對太魯閣族人來說,是為了悍衛土地、生存及習俗與入侵的日本軍警發生一連串的抗爭。例如新城(1896年12月)、三棧(1897年1月)、加灣(1897年2月)、威利(1906年)、及太魯閣族抗日戰役(1914年5月起至8月底),特別是太魯閣族抗日戰役,最為耗大的戰爭。這也證明日本據臺近20年(1914年)後,最後向日本降服的族群就是太魯閣族。

  1895年日本殖民政府拿下臺灣,中央山脈的原住民並未順服,太魯閣族更是其中最強悍的族群,日方雖多次發動征伐,卻屢遭失敗。在日本佔據臺灣後的第二年,也就是1896年起至1914年期間,日本用軍力及新式兵器來對原始無武裝的太魯閣族進行入侵的軍事行動,先後28次。其中1914年5月31日深夜發動的所謂「太魯閣征伐軍事行動」,動用20,748軍警與太魯閣族人作戰80餘日,是日本征伐臺灣原住民中最久的戰爭。

  為徹底征服臺灣原住民,日本政府持續推動第二個「五年理蕃計畫」。計畫由四方面同時進行:

  設置12推進隘勇線,封鎖太魯閣族獲得日用品、槍枝及彈藥。
  開闢山路38條。
  圍剿掃蕩21次。
  調查地理,測繪地圖。

  第五任總督佐久間左馬太率軍對太魯閣族宣戰,他採取高壓手段,並從1908年開始組織作戰準備,想用威脅或脅迫的方式來鎮壓:
  1908年 從和平開始進入。
  1910年 從奇萊山開始進入。
  1913年3月 從合歡山開始進入。
  1913年9月 由總督親自率領,在陸軍協助下做詳細計劃,從合歡山、能高山、南湖大山、塔次基里(今崇德)、和平等同時進入山區,另一支從木瓜溪上游進入。

  以上五次探險路徑艱苦,山難不斷,失蹤軍警88名,凍死34名,亦常遭遇太魯閣族人的襲擊。佐久間左馬太對太魯閣族的戰役於1914年5月開始,以警察部隊及陸軍部隊同時兵分三路進行作戰圍剿。東部由警察部隊分二隊:由永田為隊長從塔次基里(崇德)沿溪掃蕩,並繼續向內太魯閣族居住區域挺進與合歡山方面的陸軍部對會合。另由松山所率領的警察部隊向巴托蘭(Btulan)方面進攻,以銅門與文蘭為起點向奇萊山進攻與陸軍會合,帶給巴托蘭(Btulan)人壓迫。兩部隊均配有野戰砲、山砲、臼砲、迫擊砲、三八式機槍三十九門,其裝備非常齊全及精良。西部以陸軍部隊為主,由佐久間左馬太親自督陣,以木下宇三郎少將為參謀,平岡少將、荻野少將為第二守備司令官,並命令向合歡山、畢綠山、奇萊山主北峰進攻內太魯閣族。攻擊巴托蘭太魯閣族,與花蓮及新城方面西進的警察部隊呼應。

  太魯閣族人擅長打游擊戰,利用地形巧妙敏捷地出沒,從山間、樹蔭襲擊,頑強抵抗。6月12日平岡部隊所率領的陸軍部隊,與松山所率領的警察部隊會合。6月29日荻野所率領的陸軍部隊,與永田所率領的警察部隊會合,情勢大致底定,以破竹之勢進攻,太魯閣族抗日抗戰由此進入高潮。此役佐久間左馬太於6月26日於砲火中弓箭密集下跌落三十餘公尺深谷受傷(此點族人耆老的流傳說是被亂槍及亂箭擊中而死的)。

  日方死傷250人,沒收的槍械6300挺。雖然太魯閣族抗日戰役就此結束,但仍然追擊逃向南澳及道賽方面的太魯閣族人壯丁,展開第二次作戰,松山部隊對付道賽方面的太魯閣族壯丁,而永田對付南澳方面的太魯閣族。警察隊田凡部隊與陸軍平岡少將所率部隊協助搜取槍枝,7月1日下達命令,7月19完成任務,8月13日作戰結束,並將最頑強Tpdu(天祥)附近各社部落一一撫平。

  日本政府統治臺灣五十年,但統治太魯閣族才三十二年。日本政府以好管理為藉口,開始勸誘遷居平地,但於1930年發生霧社事件之後,為防止族人再次團結起來抗日,自1931年起至1937年強迫族人遷居現址,包括秀林鄉行政區域:和平村、崇德村、富世村、秀林村、景美村、佳民村、水源村、銅門村、文蘭村,萬榮鄉行政區域:西林村、見晴村、萬榮村、明利村、紅葉村及卓溪鄉行政區域:立山村,另外有部份族人被遷居至漢人居住區域之吉安鄉行政區域:慶豐村、福興村、南華村,在遷居時,採取混居政策,來破壞太魯閣族部落的社會結構及傳統文化(金清山撰述,2006)。

★太魯閣族族群意識變遷
 太魯閣族族群意識變遷概約可分為四個時期(宋卓立,2007):

第一個時期(萌芽期)
  自三百年前族群東遷向東部花蓮山區移動開始,到日本殖民政府1895年於臺灣始政為止,太魯閣群(Truku)、德克達雅群(Tgdaya)、道澤群(Tauda)等三群離開南投祖居地之後,受到崇山峻嶺的阻隔,與原鄉極度缺乏互動往來的機會,各種客觀外顯的文化特徵演變出現歧異,與文化原型脫節,逐漸萌生特有的太魯閣意識。

第二個時期(發展期)
  自日本殖民政府1896年於臺灣推動理蕃政策開始,歷經「太魯閣事件」、「集團移住政策」,以及近代我國政府「太魯閣國家公園成立」,一連串的重大歷史事件成為太魯閣族的歷史集體記憶,形塑出太魯閣族族群意識的原型並成長發展。

第三個時期(成熟期)
  從1996年7月10日臺灣基督教長老教會太魯閣中會舉辦的正名研討會開始,第一次以組織型態推動太魯閣族正名運動,此時的太魯閣族族群意識已趨近成熟,族群菁英已嫻熟的運用組織並結合政治上的影響力,動員族群力量達成正名目標。

第四個時期(再發展期)
  則是完成正名之後,刺激西部賽德克族人亦隨即在2008年4月23日成功脫離泰雅族獨立,族群菁英順利完成階段性目標,而內部尚存德克達雅群(Tgdaya)、道澤群(Tauda)二小群的認同歧見,以及後續原住民自治運動政經利益的重分配問題,使太魯閣族認同有再發展的趨勢。

  正名太魯閣族的過程,由於族群內部以Truku群為主的族人傾向於以「太魯閣族」、以及以Tgdaya及Tauda群為主的族人傾向以「賽德克族」作為族群名稱,因而展開了內部間的衝突與對話。而推動正名「太魯閣族」主要的花蓮縣秀林與萬榮兩鄉,則透過行政系統推行連署。2003年5月,在未經過內部三群的充分溝通與討論、以及在原民會族群認定小組的審議前,反而由當時的行政院長,在選舉造勢場合宣佈同意正名為太魯閣族,造成同屬族群內部一片譁然,與日後不休的爭議。
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「神秘的崖县梅山交通站」

2016年07月12日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2016-07/11/content_19_1.htm
『海南日报』2016年7月11日 文\图 本刊特约撰稿 蔡明康
■神秘的崖县梅山交通站

   【相片】梅山革命根据地。在这里,每一个山头都有许多传奇的革命故事。
   【相片】梅山抗日游击队活动的梅山角头湾。
   【相片】日本侵略军在梅山残存的碉堡。
 
  每年的7月7日,是中国人民抗日战争纪念日。1937年7月7日,中国抗日战争全面爆发,两年后的1939年2月,抗日的烽火燃烧到了孤悬海外的海南岛。从北到南,琼岛人民奋起反抗,崖县(今三亚市)梅山抗日交通站的秘密建立,书写了一段抗战传奇,在海南抗战史上留下可歌可泣的一页……
  2016年建成开馆的梅山革命史馆,是琼南地区一个革命传统教育基地。七月流火,更是吸引了社会各界参观并接受革命传统教育。馆内陈列的抗战图片,虽然斑驳模糊,但却有力地再现了梅山作为抗日革命根据地所经受的战争考验和做出的历史贡献,是领导琼南抗战取得胜利的南部重镇。
  1939年2月,日军侵琼之后,中共崖县县委充分把握当前对敌斗争形势,决定将县委迁驻梅山。这是一个战略性抉择,既有利于保存自己,又能带领全区人民坚持持久的抗日游击战争。梅山就此成为历史上一个坚不可摧的抗日游击根据地,成为梅山人民开展对敌斗争历史上最悲壮最值得追忆的一页。
  值得一提的是,1939年3月,中共崖县县委为了加强和西南临委(琼崖党委派驻昌感党组。昌感,即今东方市,编者注)的联系,及时获得敌人情报与开展对日斗争,因此决定在崖县西南建立梅山交通站,并把建站的任务交给梅山乡党支部和乡民主政府去完成。
  梅山乡党支部在琼崖内忧外患、危机四伏的艰难处境下,他们坚定地接受了建站的光荣任务。

★交通站的神秘线路
  梅山地处崖县区域(今三亚、乐东、东方一带,编者注)中心,面临大海,背靠大山,山高林密,无论水上还是陆地,进可攻,退可守,既容易隐蔽,又能出奇制胜,特别是这里的群众基础好,是个开展游击战的好地方。从梅山到西南临委(今东方市),全程约有100多公里之遥,而且沿途平原有日军设防布守;山区更有敌伪军驻扎巡逻,真是四邻多垒,岗哨林立,荷枪实弹,戒备森严。但是梅山乡党支部紧紧地依靠人民,神秘般地开辟出“一海二陆”的交通线。“一海”:即梅山—角头—望楼港—莺歌海—昌感县的墩头—和西南临委联系。“二陆”(平原区和山区)。平原区:梅山—桔棵—中灶—望楼港—新村—新丰—老孙园—七寒头坡—和西南临委接线;山区:梅山—桔棵—山脚—抱笋—草岭—红五—山公穴—翁公头坡—和西南临委联络。总称:“一海二陆”交通线。
  交通站的任务是“三送”:送公文、送情报、送党政军(青年抗日入伍新兵)人员的安全过往。事关大局、责任重大,既要做到交通顺达,又要做到万无一失。因此,梅山乡党支部认真谨慎地从“青抗会”和“民兵中队”里遴选出机智灵敏、胆大心细的孙光林、麦亚保等人当交通员。他们吃着自家饭,穿着自家衣,为了抗日,交通员奋不顾身,将生死置之度外,来去如风地走险在交通线上。有时陆上交通突然出现敌情,马上随机应变改走“海上”。以三条路线作为“足球场”和日军“踢球”。如踢边受阻时,立即将球传中过渡,等待机会创造条件去“破门”。梅山交通员在这三条交通线上,发挥自己的特长,与日军斗智斗勇,搞得敌人焦头烂额。“有时一次接送的人数,竟达四五十人之多。地下交通线的建立,沟通了党组织上下级之间的密切联系,极其有利于抗日工作的开展。”(摘自《崖县革命史》·中共党史出版社·1995·北京·第106页)。

★交通站活跃在抗战最前沿
  梅山交通站神出鬼没的工作,让村子里的汉奸怀疑是“青年抗日会”所为,他们便向日军告密,因此敌人在1940年春季里的一天,突然举兵“围剿”梅西村、梅联村(角头村)。鬼子一进村,就丧心病狂,穷凶极恶地逐户搜捕群众数十人,惨无人道地杀死两名“青抗会”成员,又纵火烧民居,房屋夷为平地,财物一扫而光。紧接下来,便是“清乡”,推行十天一“围剿”,五天一“清乡”,所谓“彻底治安肃正”的方针,其目的是恫吓、威慑群众对交通站的保护和支持。
  不久,日军在汉奸、特务和伪保长的配合下,在梅山的战略要地位置上,筑工事、设兵防,阴谋封锁梅山交通站和西南临委的联络。敌人在梅东村的牛头岭、梅西村的高土墩、长山村的白土园分别筑起了三座碉垒,同时驻守日军三个派遣队,实施“三相”——防地相连、环海相接、守兵相望,日夜死盯着梅山抗日根据地和交通站的一切动静……
  为了坚决打击日军和汉奸的破坏,确保梅山交通站的畅通无阻,梅山党支部在县委的领导下,指引全乡人民团结起来,开展勇除汉奸、智解保长的斗争。他们那时采取了“分化互解”和“打拉并举”的方法,向汉奸、保长指明,日本人早晚总是会被打败的,大家都是梅山人,不要和侵略者同出一气,伤害自己的乡亲,成为千古罪人,不时给汉奸分子喻以民族大义的教育。经过不断的斗争,大多数的敌伪人员,都给争取过来为我们所用。从此梅山再也没有汉奸给日军通风报信了,敌人失去了耳目,变成了“耳聋”、“眼瞎”。梅山交通站更加神秘般地活跃在崖县抗日斗争的最前沿。
  1941年9月,琼崖抗日独立大队第3支队奉命执行战略东移来崖县,县委派李大和、孙惠公当向导,前往乐东县乌槐岭接应。近200人全副武装,由李、孙两人引路进入了梅山交通站路线开始东移。他们“暗渡陈仓”,越过封锁,顺利地到达崖县梅山。“3支”在梅山活动数天,筹足军粮和补充军备,经仲田岭最后抵达万宁县六连岭抗日根据地,完成战略东移任务。然而一贯主张“捕人要多,杀人要快”自命不凡的“皇军”,却一点儿未曾发现过梅山交通站的“蛛丝马迹”。梅山交通站和它的无名英雄,在崖县抗日斗争的艰难岁月里,付出了生命和鲜血,是应该永远被铭记的。
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「琼崖抗战中的王毅将军」

2016年07月11日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2016-07/11/content_11_1.htm
『海南日报』2016年7月11日 文:本刊特约撰稿 陈立超
■琼崖抗战中的王毅将军

     【相片】王毅将军
     【相片】《天涯浴血》剧照,王毅将军(左三)在云龙改编上讲话。

  《天涯浴血》电视剧中的王毅将军是琼崖国民党当局难得的正面人物,他的戏份主要集中在第15集到第18集,剧中对王毅在建立琼崖抗日民族统一战线中的作用和贡献做了生动的展示。正直公正、爱国爱琼心切的王毅将军给广大观众留下深刻的印象,尤其是第18集中,王毅和冯白驹在海边的长谈,英雄相惜,彼此推心置腹,虽然在史料中难寻出处,但毫无疑问是符合王毅在琼崖抗战初期的主张和表现的。可惜的是,王毅将军的戏份在18集后就戛然而止了。其实在吴道南来琼后,王毅仍然继续担任着国民党琼崖守备司令一职,直到抗战胜利。

★主张“唯战能存”
  王毅出生于海南澄迈县。1930年任中央陆军工兵学校筹备委员、中校教官。1932年后任蒋介石侍从副官,洛阳航空学校教务处长,上海保安总队参谋长。1936年12月授陆军少将,任广东绥靖公署参议。抗日战争时期,由于国民党政府对保卫琼崖的信心不足,认为“琼崖孤悬海外,鞭长莫及,难能保守。”故在1938年将驻守琼崖的正规军第62军调走。在匆忙中接任广东第九区行政督察专员兼琼崖保安司令、守备司令的王毅能指挥的仅有地方保安队第十一团、第十五团(后改为保安第六、第七团)以及壮丁常备队,加上民众自卫团,总兵力不超过4000人。
  王毅上任初期,正值全国人民团结抗日呼声日益高涨。他在公开演讲中,旗帜较为鲜明地说,我们为什么要抗战?是为了保住琼崖每一寸土地,为了保卫国家和民族的利益,为了赶走日本侵略者。他用大量事实来揭露日本侵略者占领东三省后,又继而向华北、华东、华中及华南进犯,企图吞并整个中国、把中国变为殖民地的侵略野心,道出了要抗战就要不分党派,联合友党友军,一致对外的抗战主张。
  此外,他还认为“毅之职责,在于抗战”,积极地做一些有益于抗日救亡运动的宣传工作。王毅多次在广播讲话中强调“屈服必亡,唯战能存”,并指出“唯战能存”是抗战的基本方针,希望全琼将士坚持自战自给,坚持自力更生。他还说,大敌当前,大家都应该统一意志,都要充分认识到,我们穿的是“抗战鞋”,吃的是“革命菜”,住的是“卧薪屋”,用的是“尝胆盐”。为了保住琼崖,希望大家学古人愚公移山志,勾践要复仇,卧薪并尝胆,枕戈待旦,忠心抗战。号召大家要一致奋起,誓死坚持抗战,争取胜利。王毅的上述言行,对琼崖的国共合作,发动人民群众奋起抗日产生了很好的影响,从而推进了琼岛抗日救亡运动的浪潮,为国共谈判,合作抗日打下了良好的基础。

★“不准再说‘八字脚’”
  王毅上任前,琼崖国共两党已经进行了长期的谈判,但由于原国民党琼崖当局谈判代表林序东无理要求中共琼崖特委交出军队,由国民党统编领导,导致谈判陷入僵局,无法取得进展。王毅得知后,对琼崖守备司令部办公室主任黄麟玉说,“要冯白驹交出军队是不合理的,我主张顺应人民大众要求一致抗日救亡的大潮流,各党都应有自己治党治军的自主权。国难当头,不忍对内用兵,损失国力,只求国共合作,为着国家的生存,民族的命运,团结起来,共同抗击日寇的侵略。”
  王毅对驻琼国民党军政官员中,有碍于琼崖抗日民族统一战线建立的言行敢于正视,说公道话。云龙改编后,有的国民党军政官员提醒王毅说,“要提防‘八字脚’(这是国民党内部通常骂共产党的代号)的破坏活动。”王毅对此深恶痛绝,多次公开指责这些官员说,“什么‘八字脚’,共产党就是共产党,还有什么代号?今后不得随意给共产党起外号,或骂‘共匪’,免得影响国共合作,一致抗日。”
  王毅遵守信用,在其掌权时期,始终按协议书的要求,照常供给独立队需要的军饷和其他军需物资等。对此,有的国民党官员却把王毅请中共琼崖特委派政工人员到守备司令部联络处工作视为是“请鬼探病”“搬起石头砸自己的脚”;把王毅发给独立队军需物资视为“反水”“容共”之行为。而当时的王毅并没有因受其部下的非议等压力而收回原有的主张,他话中有话地说,国共合作是大局,南京国民党政府也这样强调。他还比较自信地说,之所以这样做,完全是为顾全大局,为了一致抗日。当时的王毅基本上说到做到,照常允许已在守备司令部联络处做政工的同志发挥作用。
  王毅的这些言论和做法,动机当然比较复杂,但纵观琼崖国共合作抗日的历史,从国民党方面看,无论是王毅之前的琼崖国民党当局者张达、陈章,还是其后继者琼崖督察专员吴道南、丘岳宋等人,皆对琼崖国共合作缺乏诚意,对国共合作、团结抗日进行阻挠、破坏。后者吴道南上任后,消极抗战,积极反共,一改王毅以前的作法,大幅度减少独立队的军饷,由原来的8000元逐月减少为400元,还下令停止给独立队发枪支和弹药,要将已有1000多人的独立总队缩编为一个300人的大队建制。并公开宣扬:“要留子弹来清党,与冯白驹算账”,足见在王毅前后的国民党当局者的言行均无益于琼崖国共合作的形成和发展,他们都是逆历史潮流而动的。相比之下,王毅将军的举动无疑是明智的,是顺应历史潮流的,不愧为琼崖抗日名将。

★惨遭架空坚持抗战
  1939年6月,吴道南被委任为广东省第九行政区督察专员兼保安司令,王毅被排斥、削权,只保留着一个名不副实的守备司令职务,团结抗日政策也逐步被国民党顽固派的“溶共”“防共”“限共”政策所代替。电视剧《天涯浴血》中王毅的角色到此就结束,而事实上,此后的王毅并没有离开琼崖,而是一直在海南岛坚持抗日斗争。作为历史人物的王毅和作为艺术形象的王毅在此后有了较大的差异。作为历史人物的王毅,由于历史的阶级的局限,受党派政治需要的左右,远比艺术形象显得复杂。在国民党片面抗战路线的影响下,王毅后来也做了一些不利于抗战,甚至破坏抗日统一战线的事情,参与策划围攻我美合革命根据地的“美合事变”。
  电视剧《天涯浴血》第24集一开场,就有苗族头人急急忙忙地向王国兴求救,王国兴回答说:“兄弟,出了这么大的事情,你就是不来找我们,我也要去找你们。”王国兴口中的“大事情”不是别的,正是王毅直接策划制造的“中平惨案”。
  王毅坚持在琼崖战斗,直到抗战胜利,然而此时琼崖国共双方的力量对比已经有了根本性的转变。到抗战胜利前夕,国民党琼崖当局共有4个步兵团、4个地方挺进纵队,总兵力约6000余人。但同时,由于坚持片面抗战的路线,琼崖国民党当局赢得了抗战,却失掉了民心。在抗日斗争中中共琼崖地方组织坚持独立自主原则,琼崖独立纵队发展到7700多人,县、区抗日民主政府基干队2000多人,还有不脱产的反攻预备队9000多人。亲眼目睹这一切的王毅百感交集,他在《海南抗战纪要》中坦率的承认:“琼崖奸匪(首领冯白驹)数年来以我军与敌作战之关系,致一时不能肃清……统计奸匪目下人数不下六千余人,蔓延日广,为祸日深,此诚琼崖今日最大之危机也。”1949年1月,王毅遭遇海难逝世。
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ある海南警備府第16警備隊兵士の証言 1

2016年07月07日 | 海南島史研究
 きょう(7月7日)、海南島近現代史研究会の会員4人が、海南警備府第16警備隊の兵士だった湊健一さん(1923年生)の自宅(石川県白山市)を訪問し、4時間あまり、話しを聞かせてもらいました。

                            佐藤正人
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「海軍特別陸戦隊――海南島 台湾出身志願兵との絆」

2016年07月06日 | 海南島史研究
www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/.../O_10_384_1.pdf
平和祈念事業特別基金刊『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第10巻』(1999年3月)
筆者:石川県 湊健一
■海軍特別陸戦隊――海南島 台湾出身志願兵との絆 
 私は小学生のころは中国の上海に住んでおり、海軍陸戦隊のラッパや鐘の音を聞いて暮らしていた。上海
事変の時には白い軍装で銃剣を持った水兵さんに学校まで送り迎えをしてもらったので、日本の軍隊は陸戦
隊であると思っていた。陸軍を知ったのは、親の故郷の金沢へ来て第九師団を見てからだった。
 一九四三年十月二日、大学・高等専門学校学生の徴兵延期が廃止になり、理工科系学生以外の文科系学生は十二月に陸海軍に入らなければならなくなる。これが、現在もニュース映画や写真に残る、いわゆる学徒出陣である。
 私は、十二月十日舞鶴海兵団に入団するように通知を受けていた。残された二ヵ月間、前途を思ったり、何をどうずればよいのか全く手がっかない毎日だった。
 十月二十一日、出陣学徒の壮行会が明治神宮外苑で行われた。学校の校庭でも在校生徒諸氏の壮行会が行われ、学生服に巻脚絆、帯剣を腰に締め、小銃を持って代々木の会場に向かった。小雨が降り出し黙々と列が進み、服は濡れて薄寒かった日である。
 やがて入口にさしかかると拍手の嵐であった。ハッと我れに返り見上げると神宮外苑のスタンドは拍手をする女学生で埋まり、髪から雨の雫が落ちて黒髪が光って見えた。分列行進が「抜刀隊」の行進曲に合わせて前進し、水溜まりも何のその、足が自然に高く上がり、泥のはねが背中の上までいっぱいになり我を忘れて進んだ。
 東條首相、文部大臣、陸・海軍大臣の激励の言葉、残る学生代表の送る言葉に、出陣学徒が答辞を述べ、「天皇陛下万歳」を三唱し解散した。
 文部省主催で挙行した学徒出陣壮行会には、東京周辺七十七校が参加した。出陣学徒兵の数は、全国で十万人余り。そして、この中の多くの学生が、陸に海に空に行って還らぬ人となったのである。
 一九九三年に「出陣学徒壮行の地」と刻まれた記念碑が国立競技場の一隅(千駄ヶ谷門内のマラソンゲート
脇)に建てられた。
 十一月にもなると、母が上海から陸路数十回も乗り換え、朝鮮経由で私の所へ来てくれた。母の愛は強いものと、感激でいっぱいであった。学生服に名前が書かれた日の丸の旗を襷がけにして、私は母と共に親類へ挨拶、靖国神社、明治神宮等を参拝した。
 神社の境内や街にも多くの学生が歩いていた。皆の気持ちは私の気持ちと一緒であったろう。映画館では「無法松の一生」が上映されており、私は母と見る最後の映画になるかもしれないと思いながらこの映画を見た。無法松のひく「人力車の車輪の回転」が静かに止まる印象的なこの映画を忘れることが出来なかった。これが、母子二人の最後なのかと思う時、母の心の辛さを思いながらの一時であった。
 十一月中旬から帰京の学生の送別のため、上野、東京、新宿の駅前の広場は、毎日学生の波また波であった。また校歌・応援歌グループが多く出来、私もその中に入って「頑張ってくるぞ」「後を頼むぞ」の言葉
を交わして別れたのである。
 十二月九日午後五時過ぎ、臨時列車が松任駅に着いた。この列車は、舞鶴海兵団へ入団する出陣兵の臨時列車であり、長野発各駅停車で東舞鶴へ向かう。「防諜のため静かにお見送りください」との駅員の声もいつしか「万歳」の声に変わり、私は列車の中へ入った。
 学生服に日の丸・奉公袋と同じ姿ではあるが、皆初対面である。学校も違うから各停車駅から乗り込んで来る。この人達と一緒に兵隊になるのかと思うと、少し不安になった。通過する駅を無言のまま外を見つめていると、暗闇の中に電灯の光が走る。不安とやりきれない気持ちでいっぱい、というのが私の偽らざる心境であった。
 やがて列車は東舞鶴駅に着いたが、まだ薄暗い。明けて十二月十日である。駅から、下士官に引率される。 四列縦隊の長い列である。足音だけがザックザックと続く静かな行進であった。海兵団の門をくぐり練兵場に整列。三階建ての黒い兵舎が夜明けとともに眼前に浮かんでくる。異様な圧力と緊張を感じた。
 これから三カ月余り、娑婆(一般社会)より兵隊になる猛烈訂練が始まった。吊床(ハンモック)訓練、短艇(カッター)訓練等忘れることの出来ない特訓である。時々、「何のためにするのか?」とも思ったが無我夢中であった。終了後、武山海兵団を経て、鬼と言われた千葉県館山海軍砲術学校での陸戦科の特訓。
 まさに鬼の館山の血の出るような実科訓練を受けたのである。我々は訓練期間が終わると同時に各前線の陸上、艦船に配属された。
 私の赴任した現地は、上海特別陸戦隊〜海南島であった。私の希望は少年時代過ごした上海、上海特別陸
戦隊で、その希望がかなえられたのは幸せであった。
 神戸港より瀬戸内海を通り、大型輸送船に予科練の兵隊とともに玄界灘へ出る。直ちに対空・対潜の警戒体制に入り、朝鮮半島を右に見て海岸に沿って(潜水艦を避けて)第二の故郷上海に着く。
 上海特別陸戦隊より家への連絡は、家の隣家の田尻陸戦隊付剣道師範より伝えられた。家族の驚きと喜びは「お兄ちゃんが帰って来たよ」だった。まさか、上海へ来るとは夢にも思わず大騒ぎだったそうである。
 毎日、母の手料理で歓迎。海軍の話をするのが楽しみであったし、海軍に入って良かったなあとつくづく感
じた。
 司令部中隊より呉淞砲台の近くのボ東砲台に変わった。この砲台は、上海空襲で砲台員全員が戦死した。
 母の引揚げ後の話では「上海にいたらあんたも戦死だったよ」とのことで、これも運命であったと、今も砲
台員の冥福を祈っている。
 ボ東砲台勤務から一ヵ月余り過ぎた日、突然「海南島へ補充兵員五〇人と、機関銃四〇挺と共に上海派遣
隊として直行すべし」の命令を受けた。駆逐艦「蓮」に便乗して海南島へ行く。家族には行先は秘密、「現
地に着いてから連絡する」と言うと顔色が変わった。
 せっかく上海に着いたのにという父母の心は判るが、「絶対に言わぬから言ってくれ」と言われても、これ
ばっかりは言えない。軍の秘密である。
 舟山列島を通過して台湾馬公着、軍票を積み香港着、海が美しく箱庭のようである。香港を出港した艦船は必ず空襲を受けるとのスパイの連絡があり、特別警戒に入る。水中探知器が潜水艦をキャッチ、爆音が聴こえる。空と水中との戦闘配置、艦が左右に蛇行するのがスクリューの回転によって夜光虫が白く光り、白い線を描いている。至近弾を二発受けたため全艦水びたしとなった。
 夜明けと共に椰子の茂る海南島三亜港の楡林港に着いた。やれやれとホッとする。七七ミリの機銃と兵員を各司令部へ配置、戦力増強となる。海南島は海岸線を確保し三亜飛行場、航空隊特攻基地、人間魚雷基地などがあったので、毎日、ロッキードP38、B29、グラマン、カーチス戦闘機の攻撃を受けた。
 十日に一度連絡に来ていた川西式飛行艇も来なくなり、制空権もなくなったと感じた。友軍機は空中退避
するし、十二・七センチ高角砲も一万メートルの上空では届かない。そのため敵機は悠々と通過して行くが、残念ながらどうにもならない。
 海南島への攻撃は日に日に激しくなり、我々も銃爆撃の被害を受け緊迫した状況になってきた。
 しかし、兵員の補充が困難になったので「現地の台湾出身の民間人、軍属の中から志願兵を募集し、特訓
して兵力を増強すべし」との通達により、試験の結果、優秀な者を海南島五ヵ所にて約九〇〇人余りを集め新兵教育を行うことになった。
 私は、第十六警備隊の中之島訓練所付を命ぜられ、一般内務、陸戦は同じであるが、カッター、吊床の訓練がなく、ジャングル戦、機関銃、挺進切り込みの実戦で間に合う訓練をした。私の担当は普通学科、数学、国語と陸戦であったが、教科書が無いので困った。昔を思い出して植木算、鶴亀算、平方根、ピタゴラスの定理等々、自分自身もわからない学科も教えなければならない。これならもっと勉強しておけばよかったとつくづく考えた。
 教育期間中は、外食、外からの差し入れ厳禁。新兵は皆空腹である。そこで陸戦訓練中に部落の近くで小
休止して、三十分休憩する。その間に原住民の駄菓子屋と食堂で一息入れると皆頑張る。訓練中食べたビー
フン(米の粉で作った麺類)の味は忘れられない。
 彼等は日本兵だから、台湾語は絶対に喋ってはいけない。名前も全員日本名に改名している。どこから見
ても日本軍人である。高砂族出身もいたが、広東省出身者と福建省出身者とが分かれて争いが絶えぬのにも
困った。
 教育終了後、十八歳から二十一歳までの若い兵士は、各部隊、各砲台、派遣隊の兵力の増強になり、日本兵の年輩の補充兵とは比較にならぬほど重宝がられ喜ばれた。台湾出身者は真面目に訓練を受け、大部分が軍人として立派に任務を遂行してくれた。
 私は四十人余りの志願兵と共に、海岸線防衛と治安維持の任務に就き、毎日戦車壕と防空、対上陸軍防衛
のためのタコ壼を掘り、トーチカ、要塞の建設に従事した。ここが死に場所になると頑張り、皆と「運命を
共にしよう」と語り合った。
 Y作戦の信号があり、「敵機動部隊・艦船が南シナ海を遊弋中、直ちに戦闘配置に就け」という命令であ
る。全員武装し、食料として「おむすび」が配給され、敵の上陸を防ぐため死に場所へ行った。
 トーチカの中で眠れぬ夜が明けた頃「敵機動部隊は北上しつつ沖縄上陸す」との報で、Y作戦は中止とな
り、命が延びた。またゲリラ掃討のジャングルの討伐にも出動することが度々あった。日本は連合軍に包囲
され、各地の戦線がだんだんに厳しくなってきた状況も無線などで知るようになった。
 いつ、米軍が上陸してくるかも知れないので、対空砲を垂平砲(砲台)に変えて海岸線の防備を強化した。 そのため毎日毎日、土木工事にも汗を流した。とにかく、ここが自分の墓場になるのだと思って一生懸命に全員力を入れていた。将校も下士官も兵隊も、そして台湾の志願兵も一致して、空腹にも耐えながら努力をしていた。
 その間、インドのデリー放送(短波)を傍受し、南方の島々も撤退(転進)作戦をしていることを知った。そして「広島、長崎に新型爆弾が炸裂(原子爆弾) 、被害が甚大」という。デマだ、日本は不滅だ、必ず勝つと信じていたが、終戦を迎えることになった。
 「八月十五日、重大放送あり。本部に集合」との連絡があった。服装を正して整列する。ラジオは雑音が
ガーガーとして聞き取れない。戦いが終わったようでもあり、また、励ましの御言葉のようでもある。誰言
うとなく「負けた。戦争は終わった」と肩を落としすすり泣きが聞こえる。皆虚脱状態である。「デマだ」
一瞬静かになり、またざわめく……。
 デリー放送が、盛んに「日本全面降伏、ポツダム条約受諾」を伝えているが、我々は信じられなかった。
 原住民も騒いでいるようであった。その時、私は台湾の志願兵に何と伝えればよいのか、彼等は日本を信じ
ていたからである。自分が初年兵教育をし、「ここが死に場所だ、運命を共にしよう」と語り諭したのだか
らである。私は彼等に「本日戦争が終わった。終戦である。それぞれ故郷へ帰って復興再建のため若いエネ
ルギーで頑張ってほしい。諸君の健闘を祈る」それだけの言葉がやっとであった。
 我々は田独鉱山の捕虜収容所に集中(集中営) 、台湾の志願兵は中国軍第十九師団に引き渡した。その後、如何になったか不明であり、逆賊、漢奸として処刑されるかもしれぬことも考え、泣きながら「日本へ
連れて行ってください」と、嘆願する者が続出した。
 何とか納得はさせたが、その後の状況は不明である。
 私達は、武装解除され、毎日山林の伐採と道路の整備の重労働。配給食料も少なくなる。栄養失調者も出
る。いつまでここにいるのか不安である。戦犯容疑者の首実験が行われ、二人連れ去られていった。次の番
は誰であろうか、そんな不安な日も続いた。
 一九四六年四月に入り、米軍の輸送船リバティー型が入港した。「引揚船らしい。日本へ帰れるぞ」と
皆の顔に明るさが蘇る。港で最後の首実験が行われた。現地人、中国軍、米軍の将校に顔を凝視されて帰
らぬ者も出た。情けない敗戦の姿であった。船員は「リンゴの歌」を歌い、内地の状況を聞く。味噌汁と、
たくあんが、何と美味であったか忘れられない。
 ああ、これでやっと日本へ帰れる。上海にいる家族はどうなっているのか? その後三ヵ月して全員無事
引揚げ、再会、戦後生活が始まった。
 毎日、家族会議、闇屋、ブローカー、買い出し、引揚者と復員者の家族の日本での生活は、当分の間は生
きていくのに精いっぱい……。
 一九八〇年十月、台湾から手紙。「覚えていますか私達」という書き出しで「学友会(戦友会)を致し
ますから、是非参加してください。皆が待っています」と、忘れていた志願兵からの便りであった。驚き
と懐かしさで胸が高鳴り、地方新聞にも「三十六年ぶりの再会」として掲載された。
 私達関係者(当時の湯浅大尉、古屋中尉等関係者十人)と感動の再会。懐かしい青天白日旗の並んだ桃園
空港へ。会場で再会の涙涙で、皆と抱き合う。よくぞ生きていたと、別れてからの苦労話、申し訳ないと謝
るだけであった。
 彼等は、中国軍から解放され、民間人として故障した船を修理、十二日間かかって海南島より台湾に帰
り、再建のため頑張ったと、胸を張って言っていた。大和魂で頑張ったと。それ以後、毎年十一月に慶生会
を開くことに決定し、今年でもう二〇回にもなる。参加者も毎年少なくなっていくが、まだ七十人参加。日
本からは、昨年は私一人になった。「最後の一兵まで来てください」と彼等は言う。私も命ある限り出席す
る覚悟である。
 生死を共にした友情は永遠であると信じる。日本へ来れば、必ず靖国神社と護国神社に参拝する。今まで
私の家にも五人余り訪れた。嬉しい来訪者である。私も台湾へ行くと、必ず台中市宝覚寺にある「霊安故
郷」に参る。これは日本のために散華した台湾出身者三万三千柱の慰霊碑だからである。私と台湾出身者と
は、永遠の絆で結ばれている。残された人生を大切にして生きていきたいと念願している今日である。

                          原文は「元号」使用。



http://blogs.yahoo.co.jp/all_taiwan/45515567.html
2008/12/3
■戦友の絆、命の限り 元台湾志願兵と再会 学徒出陣65年、白山の湊さん
 太平洋戦争さなかの一九四三年十二月一日、学徒出陣が始まった。その直前、東京で挙行された壮行会で行進した湊健一さん(85)=白山市安田町、牛乳販売業=が、台湾での戦友会から帰国したと聞き、会いに行った。「戦争はまぎれもなくつらい記憶。それでも『戦争』と『戦友』は違うんだよ」。柔和な表情で六十五年前のあの日を湊さんは語り始めた。(北村太久磨)

【写真】戦友会懇親会で元台湾志願兵と再会を喜び合う湊さん(前列右端)=2008年11月26日、台湾・台中

 四三年十月二十一日、肌寒い小雨の降る明治神宮外苑で出陣学徒壮行会が行われた。東条英機首相らが見守る中、東京の大学で学ぶ湊さんは、学生服にゲートル(巻き脚絆(きゃはん))姿で行進した。「水たまりも何のその、足が自然に高く上がり、我を忘れた」。外苑スタンドは約二万五千人の出征学徒を見送る女子学生で埋まり、拍手の嵐が鳴り響いた。その日は湊さんが「この世に別れを告げた日」でもあった。
 徴兵猶予停止による学徒出陣は、湊さんが二十歳の誕生日を迎えた同年十二月一日、旧陸軍入隊から始まった。ふるさと松任に戻った湊さんは同月十日、旧海軍舞鶴海兵団に入団し、年が明けて中国・海南島警備隊に配属された。
 海南島では米軍爆撃機が連日飛来し、何人もが命を落とした。乗艦中に潜水艦から至近弾を浴びたこともあった。台湾人志願兵の教官を務めた湊さんは「海南島が自分の墓場と思っていた。運命を共にしようと皆で語り合った」という。多くの同期の桜が散ったように再び祖国の地を踏めるとは思っていなかった。
 「おい貴様、元気か」「おう、お前も」。十一月二十六日、湊さんは台北と台中で開かれた「海南島中之島会戦友会」の懇親会に出席した。遠慮なく、日本語で旧交を温める戦友たち。「海行かば」「艦船勤務」…。台湾人の元志願兵と肩を組んで軍歌を歌い、酒を酌み交わした。
 「主人は戦友会を本当に楽しみにしていました」。毎年、夫婦で参加していた元志願兵の姿はなく、今年は妻が遺影を抱いて来た。多い年には日台双方から約百人が集ったが、今冬は元志願兵は十一人、日本からは湊さん一人だった。
 戦後、生かされたことを亡き戦友に申し訳なく思いながら生きてきたという湊さん。今も朝五時に起き、牛乳を配達する。「雨や雪の降る朝も戦地に比べれば極楽や」と笑う。取材の最後に今の若者に言いたいことは何ですか? と聞いてみた。「自由にやりたいことができる時代に生まれた幸せを感じ、戦争中に多くの若者がなぜ死んでいったのかを学んでほしい」。胸に深く突き刺さる言葉だった。

 戦友、言葉は知っていても終戦後に生まれた私には縁の遠い言葉である。戦友と言う言葉を学友と変えてもピンとこない、やはり生死を共にした絆は特別なつながりが有るのでしょう。
お国の為と命を投げ出す気で日本の戦争に参加した人たち、この方たちは今現在の日本人よりも日本人だと思う。
 しかしこの方たちにとって戦争はまだ終わっていないのかもしれない。中国国民党軍が押し寄せ未だに不法占拠をしている国では・・・・・                     柯 宏龍 記



http://www.yomiuri.co.jp/local/ishikawa/feature/CO018292/20150812-OYTAT50006.html
『読売新聞』石川版 2015年8月9日 5時00分
■戦後70年 語り継ぐ  〈2〉台湾人志願兵と絆

   【写真】戦時中の写真を見ながら当時のことを語る湊さん(白山市安田町で)

 「どうか日本に連れて行ってほしい」。1945年9月、中国南方の海南島で台湾人志願兵に懇願され、元海軍少尉・湊健一さん(91)=白山市安田町=は、胸を締め付けられる思いだった。
 43年に海軍に入隊した湊さんは、戦争末期に海南島の防衛に派遣され、現地で募集した台湾人の新兵訓練を受け持った。「運命を共にしよう」と教えてきたが、終戦を迎え、中国軍に引き渡さざるをえなくなった。日本軍に参加したことで逆賊として扱われ、殺される可能性もあるため、志願兵の動揺は激しい。湊さんは、「それぞれの故郷に帰ったら復興に尽くそう」と諭すのが精いっぱいだった。

 父が貿易会社の副社長だったため幼少年期を中国・上海などで過ごし、41年に法政大に進学。43年10月、学生の徴兵猶予が停止され、明治神宮外苑競技場(東京)で行われた「出陣学徒壮行会」に参加した。「雨で髪をぬらした女子学生が拍手する中、我を忘れて行進した」と、戦時の高揚感に陶酔していた感覚を覚えている。
 すでに日本の旗色が悪くなっていることは感じていたが、「お国のために死ぬ。日本が負けるものか」と思い込んでいた。同年12月に海軍に入隊し、44年末か45年1月頃、海南島に派遣された。すでに日本に制海、制空権はなく、米軍機がやってきては機銃掃射を繰り返した。次第に補充兵の輸送も難しくなり、日本軍は現地の台湾人志願兵を募集し、約900人を採用した。
 教官としてジャングル戦などを指導した湊さんは、教育訓練を終えると、米軍の上陸に備えて地下壕ごうなどの陣地構築に明け暮れた。食料備蓄のため空腹に耐えながら、高射砲を水平砲に付け替え、戦車の通行を妨害するために穴を掘削。毎日のように米軍機の銃撃や爆撃を受けながら、命がけの土木工事だった。
 海岸防備は、米軍が上陸したら、真っ先に死ぬことになる。「ここが死に場所だ」と志願兵らと覚悟を決めていたが、結局、米軍の上陸はなく、終戦を迎えた。

 戦後長らく、志願兵らの行方は分からなかったが、頭の片隅には申し訳ない気持ちが残り続けていた。
 1980年10月、「覚えていますか私達」との書き出しで始まる1通の手紙が届いた。志願兵らが台湾で開く戦友会の招待状だった。志願兵の多くは戦後、中国軍から解放されて無事に台湾に戻っていたことが分かり、長年の胸のつかえが取れた気がした。
 以降は定期的に台湾に渡り、旧交を温めてきた。高齢となったため、ここ数年は会えていないが、「日本を信じ、自分を信じてくれた戦友。生死を共にしたからこそ、今は国を超えて平和への思いも共有できる」と語る。
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「九旬老党员陈芳桂:智勇双全的全国民兵英雄」

2016年07月04日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2016-07/04/content_18_1.htm
『海南日报』 2016年7月4日  文:海南日报记者 单憬岗 通讯员 冼灵芳
■九旬老党员陈芳桂:智勇双全的全国民兵英雄
     【相片】外出游玩时,陈芳桂老人不忘重温往日岁月
     【相片】陈芳桂
  从一个被日寇毁灭的村子走出的陈芳桂,16岁参加青抗会,1943年抗战最危难的时刻毅然入党,解放后剿匪有功作为全国民兵英雄参加国庆检阅,91岁依然自己种菜、卖菜,自己丰衣足食。
  他的一生是传奇的一生,是“党的功臣、人民的功臣”。
  “这么多奖章,了不起啊!”6月22日下午,海口市委慰问组专程来到琼山区龙塘镇玉里村(儒里村),看望慰问91岁老党员陈芳桂,一进门,海南省委常委、海口市委书记孙新阳就拉起了陈老的手,对这位有着70多年党龄的老党员竖起大拇指。老人珍藏的奖章和证书记录着他曾经的光辉经历:剿匪功臣、土改优秀工作者、全国民兵英雄代表、省级劳模、省级优秀共产党员……

★村子被日寇屠灭
 走上革命道路
  6月24日,记者到玉里村时,正下着雨。陈老的儿子陈春茂带着记者在村里的小集市上找到了老人,老人正在卖菜,六七个西瓜、几把豆角摆在水泥摊板上。
  “自己种的,吃不完烂掉太可惜,不如卖几个钱也可以给儿孙用。”得知记者来意后,他笑笑,然后健步走进儿子的车里。
  陈芳桂原是道昌村人,这个已消失的村子,是76年前被日本鬼子屠灭的。日寇入侵前,道昌村有将近20户人家。日寇刚占据海口,就在交通要道潭口村建了个炮楼。这让距离几公里的道昌村遭了殃。
  原来,我党在云龙镇与苍英村之间建立了地下交通线路,道昌村是一个重要联络点。1926年在龙塘镇成立党支部,道昌村就有不少人入党,始终是革命的坚强堡垒。为消灭抗日火种,1940年6月日寇烧光道昌村。年方15岁的陈芳桂和大人一起逃到了村后博南山里。这是共产党游击区,游击队让家园尽毁的陈芳桂感受到了巨大的温暖。经此劫难,道昌村只剩下陈芳桂一家,单门独户无以立足,只能迁往附近的儒里村。
  “房子都给小日本烧光了,无路可走了!当然跟着共产党走了!”1941年,他参加了“青抗会”(青年抗日联合会),主要任务就是为党放哨。
  此时党的联络点已迁至儒里村,该村也是革命老村庄,村里有一支40多人的抗日队伍,曾多次截路伏击,袭扰敌人据点,毙伤日伪军多人,后被编入琼崖抗日独立总队。
  在党开展活动的时候,青抗会小伙伴们就在村外玩耍、放牛、劳动,一旦发现日军行动,就给村里报信。比如用暗号喊:“牛吃庄稼了!快去赶牛啊!”如果日军近了,就假装小孩打架回去报信。村外有棵很高的大树,爬到树梢可看到两三里远。陈芳桂经常爬到树顶假装掏鸟窝,一见敌人来了,就赶紧回去报信。由于青抗会活动得力,日寇往往扑空,恼羞成怒的鬼子就会放火烧房泄愤。

★抗日最艰难时毅然入党
  1943年初,日寇的“扫荡”日趋疯狂,儒里村首当其冲。为把儒里村变成“无人村”,日寇施行“三光”政策,3天小扫荡,5天大扫荡。就在这最艰难时候,陈芳桂毅然加入共产党。一位化名“卿巢”的区领导是他的入党介绍人。
  当时,卿巢看到陈芳桂在青抗会很积极,就想培养考验他,派他从事一些危险的工作。如让他晚上到敌占区去发放大量抗日传单,常走的线路就是从龙塘镇到那央村,中间要经过日寇大据点潭口炮楼。机灵的陈芳桂每次都圆满完成任务。陈老还记得,就在道昌村后山上,党旗挂在一棵榕树上,他和另两位革命者一起秘密宣誓,决心为共产主义事业奋斗到底。
  陈芳桂用一辈子践行了自己的誓言。
  入党不久,党就把艰巨的任务交给了他——除去汉奸周学权。这是个非常狡猾的汉奸,他假扮成牛贩子,在龙塘、龙桥地区以买牛为名,伺机打探党的活动踪迹。不少党员及堡垒户因此遭到逮捕或者被烧房,威胁很大,党决定锄掉他。但周学权深知自己恶行太多,行动诡秘。
  于是,陈芳桂装作赶集、买牛或牛贩子,到处跟踪打听周学权的踪迹。终于获悉周学权在某天早上会赶牛去云龙“牛坡”(牛集市)卖牛,实际是向当地的日寇传递情报。但汉奸身上有枪,由于距日军据点很近,必须悄无声息地抓捕才能不惊动日寇,保证行动者的安全。
  大家商量后决定将行动地点选在一座小桥上。在周学权赶牛过桥时,一个身强力壮的人迎面假装过桥,在经过周学权身边时突然暴起按住他,埋伏的其他同志立刻上前牢牢抓住周学权。
  就这样,经过一次次“锄奸”斗争,日伪改变了战略,采取偷袭我党驻地的办法,企图消灭抗日力量。1944年夏,正在放哨的陈芳桂发现,潭口据点日伪扑向着博南山,于是赶紧报信。此时驻点山上的琼山一区即将进行领导交接,山上正在做准备,接到情报后,大家及时转移了。
  除了锄奸、放哨,陈芳桂的日常工作就是为党和游击队想方设法到处收购大米和杂粮。
  “粮食一次不能买多了,多了汉奸就会怀疑。”陈老笑着说,为此组织采取了十分谨慎的办法。那时一块银元相当于四五串铜板,每串铜板是50个。每次组织只给陈芳桂一两串铜板,走村串户去买粮。每户人家往往只买1米杯,约为半斤,五六个铜板。买齐五六斤大米后,陈芳桂就会将米放到预定的树洞、石缝等处,组织随后会派人去取。这样买米人和收米人不打照面,即使一方叛变也无法供出上下线。由于敌人封锁严厉,买粮食的办法越来越难,后来组织就带领大家种粮食、蔬菜。

★全国民兵英雄
 入京参加国庆检阅
  千辛万苦,终于迎来了解放。一解放,陈芳桂就被组织任命为冯公坊(儒里村一带)的民兵队长,参加清匪肃反。
  他带领民兵队活跃在龙塘等地,先后抓获多名潜伏的土匪,其中以抓捕匪首吴多成最为惊险。吴多成是老土匪,此时正躲在老家躲避风头,身上有两把左轮手枪。线报传来,陈芳桂立即带着民兵赶去抓捕。没想到在吴家门口迎面遇上吴多成。左轮手枪不用上膛,直接就可开枪,而陈芳桂的手枪要上膛才能开枪,其他民兵更是拿着步枪,若等上膛再开枪肯定没有吴多成快。危急时刻,机智的陈芳桂举起手中未上膛的枪,冲上前去指着吴多成大声怒喝“缴枪不杀”。后者猝不及防,忙不迭举手投降。就这样,陈芳桂每抓到一个土匪就送到府城的六区监狱,一共抓到20多人,荣获海南行政区“剿匪功臣”称号。
  1952年8月,陈芳桂和海南、湛江其他4位民兵剿匪功臣成为中南地区的民兵代表,到北京参加全国民兵英雄代表大会。这是他首次走出海南岛,整个中南军区只有他们5个人参会。他们到北京后受到毛泽东、周恩来和朱德的接见。毛主席在与海南的4位民兵英雄亲切握手时说:“你们从海南岛来是好样的,回去后还要贯彻农业合作化;继续剿匪,要除尽土匪残余。”
  随后,来自全国各地10多个民族的民兵开始了1个多月的封闭式训练。“每天早上天不亮就起床,1天至少要训练十几个小时。”陈芳桂记得,大家的军事基础不是太好,连最基本的队列训练也花了很长时间,“走正步时甩不开胳膊,有人手都被打肿了。可是大家兴致高,第二天忍痛继续训练。”
  训练虽苦,但更令他们不解的是为啥要把全国的民兵代表集中训练。直到9月28日谜底才被揭开,中央军委总政治部当天召集所有受训民兵开会,通知他们被选为3周年国庆阅兵民兵方队的队员,要接受毛主席的检阅。史载,1952年国庆阅兵,民兵英雄组成的民兵方队构成了与以往国庆节阅兵分列式不同的一道靓丽风景。
  陈老记得很清楚,1952年10月1日上午10时整,阅兵式开始,先是朱德总司令乘车检阅受阅部队。“我站在民兵方队里,总司令坐着车挥手从我面前经过时,心情非常激动。”陈芳桂说。随后,分列式开始,他们走在步兵方阵的后面和骑兵方阵的前面,大家穿着统一的黑色军棉衣,头上扎着白毛巾,身上配着老式步枪,脚上穿着解放鞋,在激昂的军乐声中,迈着统一的步伐大踏步前进。
  他们返回海口后受到了热烈欢迎。《海南省志》记载,1952年10月24日,海口市各机关团体、部队、市郊民兵等各界人民2000余人集会,欢迎海南区出席首都国庆节阅兵典礼归来的民兵英雄代表邢福成、符亚雄、廖可金、陈芳桂、王家东等。
  此后的数十年间,陈芳桂始终牢记毛主席的教导,带领全村百姓勤劳致富,继续荣立了多项功勋。在1990年11月28日的海南省第一次劳动模范和先进工作者表彰大会上,他再获海南省劳动模范称号。1991年,他又荣获省级优秀共产党员。
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「海南黎族與台灣原住民之源流與關係」

2016年06月27日 | 海南島史研究
http://big5.huaxia.com/zt/2002-37/XingQin/XueShu/GBK/121256.html
「華夏經緯網」(主辦單位:海南省人民政府台灣事務辦公室) 06/25/2016 01:56:49
■海南黎族與台灣原住民之源流與關係

壹、海南黎族之淵源
  世界海南島的少數民族黎族,至今保留著許多質樸敦厚的民風民俗和獨特的生活習慣,使海南的社會風貌顯得豐富多彩。
  黎族有自己獨特的文化傳統,是中國人口規模較大的少數民族之一。黎族數千年來漫長的歷史發展,逐步形成了本民族獨有的風俗習慣,並以其強大的生命力長期延續下來。
  黎族是頗具有特色的民族文化和風情,黎族傳統文化有獨特的紡織文化、服飾文化、紋身文化等。
  黎族也是一個尚禮民族,禮儀的黎族社會中佔有重要的地位,黎族禮儀有著豐富的內容,涉及了生產、生活的多個方面。
  海南文化,屬中華民族的區域性文化,既與傳統中原文化有著淵源和質地上的大致性,又具有自身外化的顯著特點。海南文化,是以中原文化為主調,以民族文化為特色的多元文化體系,這是海南人文社會的歷史發展所鑄造的。
  歷史上多次衝擊過來的民族遷徒浪潮開發了海南島,形成了發展了海南的社會文化,其社會人文群體,具有多民族多區域來源的歷史特點,主要由黎、漢、回、苗等民族構成,同時,也吸收了南洋群島的某些外洋人文因素。

貳、台灣原住民之淵源
  台灣原住民的淵源,本文以泰雅族為例。滿清政府治臺期間,以台灣的中心點埔裏為界,分為北部土著與南部土著埔裏以北之北部土著有泰雅族及賽夏族,以南的南部土著有布農族、魯凱族、排灣族、卑南族、阿美族、達悟族等。
  泰雅族是最早來到台灣的原住民族,據說是從東南亞諸島或半島,經中國大陸南方,于大約紀元前三千年至四千年來到台灣。
  按照中國古代的歷史文獻,可說有史以來,各宗族就不斷地向南方發展。所謂“南蠻”就是古代百越、苗、獠等族群的通稱,他們從春秋時代(西元前770至221年)就不斷南遷,輾轉移居到中南半島、南洋群島,成為南太平洋以西、印度洋以東的南洋各島,包括菲律賓、台灣等島嶼上使用南島語系的民族的祖先。
  而泰雅族會被認為是原住民族中,最早徒遷來臺原因,是他們的社會制度為我國夏代以前的原始族社會制度,其特性是沒有階級之分,更沒有私有財產。部分人類學者因而推斷泰雅族的祖先,直接由大陸遷移來到本省。
  泰雅族是我國古代古越民族之一,其祖居地可能在華南地區,可能是台灣諸族中來臺最早的民族,因為泰雅族來臺時尚不知制陶,同時泰雅族也保存較多的古越文化特質,泰雅族或許是古代中國百越民族之一。
  有些人類學研究認為泰雅族是在西元六千五百年以前,自大陸渡海到台灣的繩文陶文化的一支民族,在台灣原住民族中屬於較早移居台灣島的一支前驅者。
  台灣原住名的來由,因缺乏明確文獻佐證,致使眾說紛紜,但從各族傳說、特質與本省史前文化層的關係判斷,依據學者的研究或可歸納為由大陸或南洋群島遷徙來臺的外來民族,大約在六千五百年前至四千年前來到本省,這些結論主因于原住民與漢人接觸之前,大都不懂得稻作,而以漁獵為生,再者如泰雅族人的黥面習俗與各族的社會制度與組織,都印證他們至少在四千年前更離開母系,遷移至本省後一直沿襲著最初的傳統與生活習俗。
  又有一說,大約在七千年前,古南島語系民族開始進行橫跨大洋的大遷徙,而台灣地區很可能是遷徙的第一站。到了大約五千至兩千年前的新石器時代期間,原住民九族在不同年代裏各自從南太平洋飄海過來,而北台灣的泰雅族與賽夏族可能是最早來臺的。
  在地球上,台灣是南島語族的北界,十族當中又以泰雅族的分佈屬於最北方。在荷蘭入據台灣以前,台灣島上的原住民,便使用著南島語族的二十多個不同的語音。在不算大的台灣島裏,竟然存在著複雜的語言現象,令人難以想像,有些語言學家,認為台灣是南島語族的傳播中心。
  澳洲考古學博士彼德·貝爾伍德(Dr.Peter.Bellwood)是澳洲大學考古系主任,對於南島民族的起源與文化素有研究,為國際知名的人類考古學者。1997年6月19日應邀到“太魯閣國家公園”管理處以“台灣是南島民族的發源地”為題演講。
  彼德·貝爾伍德博士先後來台灣達五次之多,因為發現台灣是南島民族一處重要據點,特別請了四個月的長假來臺做深入的調查,在整個調查工作已告一段落,即將返澳,特別應邀至“太魯閣國家公園”,發表他有關南島民族的研究報告。
  他從南島民族的遷移、分佈、語言等等方面做精闢的演說,其中談到南島民族二千種語言,台灣就有三十三萬三千人屬於南島族群,有十四種南島語系的語言。而根據他從史跡、考古學和語言學方面的考證,推斷台灣是南島民族最初的發源地,他認為台灣是南島民族最北、也是最早的發源地,早在大約五千五百年前,南島民族的祖先從大陸華南農業帶渡海來臺,後再逐漸遷移擴散到菲律賓、馬來西亞、大洋洲等地,從而一些文化遺址的探研,以及台灣的南島語言具有最大差異性和分歧性種種方面的推斷,認為台灣是南島民族第一根源地。這項研究報告已被台灣學界所廣為接受。

參、黎族與原住民都與古代越族都有密切關係
  在中國的南部,海南島像一顆燦爛的明珠,閃爍在波濤浩瀚的南海上。自古以來,勤勞勇敢的黎族人民就勞動生息在這個美麗富饒的寶島上。
  海南島原來與華夏大陸相聯,是中國大陸向南延伸的一部分,因接近世界兩大火山地震帶的交匯處,地殼十分活躍。
  早在1億多年前,亞洲的東部發生了一系列大規模的地殼運動,國際上稱為“印支運動”或“燕山運動”,中國東部大規模褶皺隆起。
  同亞洲大陸連成一體的海南島,由於地下岩漿沿著地殼的破裂帶不斷侵入和噴出,形成了中南部高聳的五指山、黎母嶺等山地。

古代最初的海南居民與移民:
  一、1萬年前的舊石器時代末期,海南島開始有人類活動的遺跡。在三亞落筆洞發現了中國最南端的原始人類“三亞人”。
  二、3千年前,百越族的一支“駱越”(後稱“俚人”)人從大陸兩廣和越南北部遷移到海南島,形成“雕題”(紋身、繡面之意)和“離耳”(佩垂肩耳環之意)兩個氏族部落,成為黎族的祖先,也是海南最早的居民。
  黎族地區出土的新石器出土于海南黎族聚居區,其器物及其形制均具有中國南方新石器時代器物的特徵。
  傳說上古時代炎帝時代,其諸侯部落之一的蚩尤(chi you)部落是東部、南部各族部落的統稱,各族部落眾多,以後又稱南蠻、百越、九黎、三苗,是黎族、苗族、壯族等現今南方少數民族的祖先。
  蚩尤部落因為經常叛亂,被黃帝、堯、舜、禹以及以後朝代兼併、驅散,逐漸向南躲避于山嶺,以至其中一支古駱越人(後稱俚人),人口大量減少。
  早在泰漢時代部分人從大陸兩廣和越南北部一帶乘獨木舟、竹筏登上海南島,成為海南最早的居民,這就是黎族的祖先。
  到了南北朝時,大陸兩廣一帶的俚人跟隨首領冼夫人,大規模遷移海南島,並歸附冼夫人統治。
  黎族是中國的一個古老的民族,根據文獻資料、考古發現,黎族與中國南方的百越族的扣裔俚人有著密切的淵源關係。
  即黎族是由古代越人發展而來,與“百越”的關係密切,特別是和古代百越的一支駱越的關係更為密切。
  從物質文化和社會組織方面來觀察,台灣原住民族的文化是多元性的,兼受中國大陸與南方海島的雙重影響,構成獨特的“東南亞古文化”。如今學者有一些新的觀念,認為中國的南方文化,特別是東南沿海地區,並非“蠻荒”地帶,有它的文化特色,與黃河流域的中原文化互動互補,彼此影響。而台灣的古文化,和古代的淮夷、吳、越、東甄等國有所關連。

肆、黎族與原住民都是海島上最早的住民
  聚居於海南島的黎族是中國五十六個民族大家庭成員之一。黎族歷史悠久,為海南島上的最早先民,開創了海南區域人類的社會紀元,在茹毛飲血的蠻荒海島上,創造了原始文化,為海南人類文化和文明的發展,起到了歷史先導的作用。
  黎族先民移入島內,成為最早的居民。最初。黎族居住在靠近河流、港灣的山崗和臺地上,後來逐漸朝全島各地擴散,又逐漸遷到山地山陵地區。隨後在秦漢之際,臨高人遷入島北部定居至今。
  自西漢辟郡至唐朝時期,漢族主要來源於中原各地為主,主要分佈在島西北和北部沿海若干州縣治所。
  唐代以後漢族主要來源南移浙江、兩湖、福建等地。宋代因為海上絲綢之路與阿拉伯通商而產生回族,現主要聚居在三亞市羊欄鎮回新、回輝兩個村裏。
  廣西壯族移民早期的“臨高人”外,還包括了後來加入臨高人行列的宋代徵夫。明朝苗兵在海南島駐防,撤防後留下苗族。明中後期,苗族作業軍隊從廣西入居海南島。據《崖州志》記載,“又有一種白苗黎,凡數百家。……蓋前明時,剿平羅活、抱由二峒,建樂定營,調廣西苗兵防守,號為藥弩手。後營汛廢,子孫散居山谷。仍苗名”。明、清移民至海南島則主要集中于閩南和兩廣。
  自宋至明清時期移民規模最大,主要移民來源為閩、粵、桂,經元、明至清達高峰。
  泰雅族與賽夏族可能為台灣原住民族中,是最早的台灣族群,分佈于台灣中、北部山區。總之台灣的十種原住民族,在不同的時間先後到達了台灣本島。至明清以後,漢族才大量移墾台灣,主要為福建、廣東兩省人民,後來又一批大陸各省人遷徙台灣。形成台灣多族群的文化融匯的現象。

伍、黎族與原住民有相似的民族禮儀
  黎族與台灣原住民古昔氏族制經濟基礎上的生活方式,世代相襲,形成民族文化心理,產生了文化遺傳與思維的認知方式。
  在歷史發展的漫漫長河中,形成世世代代傳下來的獨有民間風俗習慣。他們共同利用這種習俗規範去約束人們的社會行為,以維持社會安定團結和進步。他們世世代代遵循著這些習俗規範。

  一、重男尊女
  父系氏族重視男子但是也很尊重女子,母系氏族社會如阿美族雖然以女子為社會的中心,但是亦很尊重男性,男性也有其一定之社會地位。
  二、團結合作互相幫助
  數千年來寬闊的亞熱帶山地生存空間,塑出黎族與台灣原住民平和溫順的情感形態;由於共同生活,產生了血緣集體、互濟互助的價值觀。
  海南、台灣兩地少數民族之居住環境,選擇緩衝山谷坡地或盆地建村落。族人非常團結講道義,一家蓋房子,全村寨都來協助,視幫助完成別人的住屋為莫大的光榮。
  村塞裏有人喪亡,全村寨同悲,紛紛前來慰問。一家有人死,全村皆來幫忙。合畝地區遇有人死便鳴槍報喪,全村或全峒的人都來弔唁,三天不吃主糧,不做重工。台灣原住民亦同,有人死,即派人報喪通知親友,親友從四面八方前來弔唁。
  三、共用與共榮
  黎族與台灣原住民男子外出參與集體圍獵或者獨自巡山狩獵,所獲獵物,回到村寨族人共同享用。
  種共用共榮的文化,是一種自然形態的民族文化,具有原始淳樸的文化特質,其集體觀念,在海南與台灣文化中,至今仍閃爍其光彩。
  四、注重禮義
  黎族與台灣原住民注重人情禮義,對內敬老愛幼,對外熱情好客,恪守諾言。向客人敬酒要雙手捧杯,客人接杯喝酒,要挾肉菜送到客人口中,以示有禮。
  五、戀愛自由
  黎族習俗,男女孩子十四、五歲後,不與父母同住,在父母居屋旁邊或村邊蓋小房子居住,黎語稱“隆閨”。
  “隆閨”是男女青年自由選擇締結良緣的場所。未婚男女在“隆閨”裏對歌、吹奏洞蕭、鼻蕭和彈口弓,相互傾慕心情。相戀情投意合後,各自向父母親告知婚事。由男方選擇吉日良辰到女方家“放檳榔”訂婚。
  黎族地區普遍存在著“放寮”的習俗,這體現了黎族未婚青年男女的社交自由。
  台灣的阿美族、排灣族與魯凱族都有戀愛自由的傾向,為自由戀愛是集體的行為。
  六、熱情待客
  黎族人好客,對於來訪客人,都會熱情地款待。會以煙、酒、茶、檳榔等招待客人。
  吸煙是用竹筒製成的水煙筒,酒是黎族人特製的山蘭糯米酒,以通孔的小竹管插進酒缸裏吸飲,人多時便圍坐在一起輪流吸飲,也有把酒倒在碗中來喝的。
  檳榔是黎家男女嗜好品,又是社會交際的禮品,黎族人奉茶為五指山特有的野生茶,濃香甘甜。
  台灣的原住民除了達悟族不會飲酒之外,大都以“酒”為招待賓客最高的敬意;招待客人吃飯則將上品菜肴,味道獨特的腌制生魚生肉酸菜等,拿出來給客人食用,以示尊敬。總之希望拿出最好吃的東西給客人吃。檳榔除了是平常招待客人之用,也是訂婚、結婚重要的聘禮之一。
  八、勤勞儉樸
  勤勞儉樸是黎族與台灣原住民勞動人民的美德,不論老年人和小孩都總是找自己力所能及的事做,很少有偷閒度日的。
  九、敬老愛幼
  黎族人扶老攜幼的風尚品質,至今仍然正直淳樸的保存著。黎族人對長輩男性尊稱“帕雅”(老父)、女性稱“拜雅”(老母),對有地位的長者稱“奧雅”(意為尊敬的老人)。
  此外,在同一個黎寨內,多數人的姓氏都相同,據說這是因為黎族在借用漢姓時,居住在共同的地域內的人都統一採用一個姓所致。
  台灣原住民稱呼比自己年長者,一概冠以“哥哥”或“姊姊”;稱呼父母輩,一概冠以“爸爸”、“媽媽”;稱呼祖父母輩,一概冠以“祖父”、“祖母”,原住民尊敬長者,亦很愛護晚輩。
  十、民風質樸敦厚
  黎族與台灣原住民民族風情質樸、敦厚,黎族與台灣原住民同胞遠古時代早就在海南及台灣這兩塊土地上刀耕火種,創造民族文化。
  十一、獨特的民族文化
  黎族與台灣原住民有著獨特的民族文化,著稱於世,例如文身文化,在中國獨龍族亦有文身文化。台灣與海南的少數民族在飲食上皆有嗜酸習俗。黎族的織錦工藝享譽全球,台灣原住民的納布工藝亦很精湛,尤其泰雅族的織布堪稱台灣第一。

陸、結論
  文化是人類群體獨特的生存模式,為人所創造,是人的外化。海南文化與台灣文化,屬於中華民族的區域性文化,既與傳統中原文化有著淵源的關係性,又具有自身外化的顯著的特點。
  海南與台灣文化的特色是多元文化體系,這是海南與台灣人文社會的歷史發展所鑄造的。
  歷史上歷經多次民族遷徙的浪潮,開發了海南島與台灣島,形成與發展了海南與台灣的社會文化,其社會人文群體,具有多民族多區域來源的歷史特點,也吸收了許多的某些人文因素。

       台灣省各姓淵源研究學會 田哲益
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「宝岛抗日记忆:台湾世居少数民族的苦难与反抗」

2016年06月26日 | 台湾
http://www.krzzjn.com/html/22488.html
「抗日战争纪念网」 添加时间:2015-11-09 16:07:23 来源:新华社 作者:陈键兴
■宝岛抗日记忆:台湾世居少数民族的苦难与反抗
  巴坎·娜威坐在家门口,面对高山幽谷,唱起赛德克古调。
  那时而低回、时而高扬的歌声曾出现在电影《赛德克·巴莱》中,演唱者就是这位年逾八旬的老人。而她如今身处的这片山林,正是85年前赛德克人在莫那·鲁道率领下,发动雾社抗日起义的“战场”。
  离娜威家不远的云龙桥边,族名叫Dakis Pawan的郭明正望着对岸崖壁上一个废弃的山洞——当年,起义者为阻断日军将吊桥砍断,他的祖父就是其中一名赛德克勇士。
  “不反抗,赛德克人就会被灭族。莫那·鲁道的信念就如影片中他说的,‘日本人比森林的树叶还繁密,比浊水溪的石头还多,可我反抗的决心比奇莱山还要坚定’。”郭明正说。
  有一半泰雅人血统的高金素梅从厚厚的资料中挑出一张,那是她13年前偶然看到的照片。画面中,一个日本军人挥下长刀,蹲坐地上的男子头颅从脖颈上被几乎砍断,血喷溅出来。
  “那男人穿的是我们族人的服饰,我被震撼了,发现自己竟对那段历史一无所知!”那一刻,这位曾经的琼瑶剧女主角许下志愿:“要把历史真相找回来,要把历史正义讨回来!”
  “有杀戮,就有反抗!”
  位于宝岛中部南投县仁爱乡的庐山温泉,是不少台湾民众假日休憩的热门景区。郭明正来到这里,却是“回家”,虽然他出生的清流部落距离这里“要走几个太阳、几个月亮”(意思是几天几夜)。
  “庐山”是1945年以后的新地名,这里曾叫“马赫坡”,是台湾世居少数民族的一支——赛德克人的一个部落生活地。
  “马赫坡”的名字已少为人知,但这个“消逝的部落”曾经的头目却是鼎鼎大名的——莫那·鲁道。
  史料记载,日本殖民者在雾社地区强令赛德克人从事劳役,支付的工资却比给平地汉族和其他少数民族还低。日本人还故意到马赫坡部落的猎场砍伐树木,而那片山林是部落祖先发源的“圣地”。日本殖民当局鼓励派驻警察与部落妇女结婚,以此加强控制,但常常出现始乱终弃的情形,还有妇女被骗到日本沦为娼妓。殖民者的种种倒行逆施,最终点燃了赛德克人的怒火。
  1930年10月,莫那·鲁道联合雾社地区几个部落,发动抗日武装起义,史称“雾社事件”。
  举事时间特别选在日本殖民当局所定的“神社祭日”,莫那·鲁道率领来自不同部落的1200余名勇士,分队攻击了12个日本警察所,杀死日寇137人,还缴获了一批枪支弹药和粮食。恼羞成怒的日本殖民当局闻讯调派军警超过6000人,对人口仅2000多人的雾社地区展开扫荡,甚至还使用毒气弹攻击、出动飞机轰炸。
  “我们的祖先是抱定了必死决心的。”郭明正告诉记者,面对数倍于自己且拥有先进装备的日寇,起义勇士毫不畏惧,付出了巨大的牺牲。据统计,起义部落共343人战死,296人自杀身亡。为了让丈夫或儿子在战斗中没有后顾之忧,也是不愿落入日寇之手,不少部落妇女将年幼的孩子溺亡,而后上吊自尽,何其惨烈,无以言表。
  莫那·鲁道事败后也饮弹自尽,其遗体被日本人寻获后送往了台北,直到1973年才被族人迎回雾社安葬。
  雾社仁爱小学的对面,矗立着一座牌坊,横匾上题:“碧血英风”。这里是英雄长眠之地,郭明正走到莫那·鲁道烈士墓前,用族语说了一段话,而后深深鞠了一躬。墓碑前,摆放着一把花束,还有几杯酒,应是最近有人来此祭拜留下的。
  殖民者的血腥镇压和残酷报复没有因为英雄的逝去而停止,他们在几个部落里捕杀了十几位首领,继而强迫幸存的数百名部落百姓迁往今天的清流部落,并设立驻在所进行长期监视。
  “有杀戮,就有反抗!”高金素梅告诉记者,根据日本殖民当局公布的记录,1896年至1920年共对台湾少数民族进行了138次武力征伐,杀死7080人,伤4123人,死伤人数相当于1920年台湾少数民族人口的十二分之一。
  她愤怒地控诉说,日本殖民者对台湾少数民族实施残酷的“三光”政策——“杀光勇士、抢光财产、烧光部落”,还推行“以蕃治蕃”,强迫或诱使台湾少数民族部落互相攻击,又强迫散居,以便分化控制。
  “日本殖民者把台湾少数民族当做‘物’”
  走进密林,郭明正拨开灌木杂草,指着青苔覆盖的一排排石板说:“这里原来是一个部落,石板围起来的本来是房子。”
  他告诉记者,日本殖民者当年修建水库,需要劳力,就强制世居深山的赛德克人向下迁移。
  巴坎·娜威如今的居住地也不是祖辈生活的部落。“日本人一直驱赶我们,我们生活很苦,一些族人过不下去,就一起吊死。”她回忆说:“日本人对我们很凶,一早就跑到部落里,拿锄头之类的东西砸到我们的房顶上,催我们起来给他们做苦役。”
  高金素梅是当选台湾少数民族民意代表后,看到那张“惊醒”她的照片的。她查到那是日军随行摄影师用以记录“战功”的照片,拍摄时间为1913年8月,文字记录如下:“在西卡要部落中,有一个极其凶猛的凶蕃,常出没于隘勇线,抵抗我军,杀人无数,还叫嚣决不能服从政府命令。”
  高金素梅的父亲是安徽人,母亲是泰雅人。“小时候,听父亲讲起南京大屠杀会觉得很遥远,而看到这张照片,才知道侵略者的杀戮就发生在离我家不远的部落,当时眼泪就不听使唤地流下来。”她说。
  关于所谓“隘勇线”,日本靖国神社社务所1933年发行的文本记录写道:讨伐曾一度反抗的台湾少数民族,占领要害之地时立刻设置“隘勇线”,以逐步缩小其领地。
  “日本殖民政府用武力征伐以及颁布法令的方式,侵占我们族人的土地。”高金素梅说:“日本人殖民台湾的目的就是掠夺资源,台湾少数民族世居的山林拥有巨大的宝藏,无以计数的珍贵木材被日寇砍伐送回日本。”
  “隘勇线”越来越长,原本由人力看守,后来又架设了通电的铁丝网,甚至埋设地雷。高金素梅告诉记者,当时台湾的樟脑产量占全球七成之多,日本殖民者杀戮、驱赶台湾山地少数民族,目的之一就是控制和占有樟树资源。
  “殖民者颁布所谓‘日令第26号’规定:‘无所有权状及其他可确定之证明券之山林原野均属官有’。”高金素梅说,台湾世居少数民族传统的生活领域约166万公顷,但因没有文字就不可能有所谓“所有权状”,日本殖民当局于是按15万人口只给了20万公顷的保留地。
  1902年,为保护自身的土地和经济权益,台湾世居少数民族中一向温顺的赛夏人,联合汉人发动武装抗日,袭击日本殖民当局设在新竹南庄的机构和附近的“隘勇监督所”,进而攻打日方军营。日军随后展开血腥镇压,又设计诱杀起义领导人。
  台湾学者研究认为,“南庄抗日事件”的起因就是樟脑产业,反映了台湾少数民族对日本殖民者强占台湾山地资源的强烈不满。史料记载,日本殖民当局镇压起义后,提出“关于蕃政问题意见书”,为制定所谓“理蕃政策”提出明确方针,即在处理台湾少数民族事务上,要以追求经济利益为最优先,且该政策须比其他对台政策更高压。
  意见书的引言中赤裸裸地暴露了殖民者的无耻:“这里只谈蕃地问题,因为在日本帝国主权的眼中,只见蕃地而不见蕃人。”
  “日本殖民当局把台湾少数民族当做‘物’,他们的‘理藩政策’就是要全然消灭‘蕃人’、夺取‘蕃地’。”高金素梅说。
  “日军对我们的族群犯下两代灭族的罪行”
  巴坎·娜威能说日语,是因为儿时曾被殖民者要求进入所谓的“蕃童教育所”。
  “日本殖民当局设立的‘蕃童教育所’隶属负责经济事务的民政局殖产课,所谓教师其实是日本警察,上课的内容就是学日语。”高金素梅说:“日本殖民教育的目的就是洗脑、驯化,他们要消灭部落的历史文化,让族人彻底忘掉‘我是谁’。”
  郭明正说:“莫那·鲁道是为了保存族群文化而牺牲的,至今仍受到族人尊崇。当年若任由殖民者肆虐,忍辱偷生的赛德克人就会从文化上被消灭。”
  “接受‘蕃童教育’的孩子长大后,又被日本人编入‘青年团’‘壮年团’,最终被送上战场。”高金素梅说。
  1941年,日本军国主义挑起太平洋战争,为解决兵源不足的问题,强征、诱骗台湾少数民族青年组成所谓“高砂义勇队”,送往东南亚战场。根据台湾学者的研究,当时台湾少数民族总人口约16万,被送上战场的部落青年就超过1万人,至少一半以上死在异乡,活着回来的也多重度伤残。
  台湾学者傅琪贻说,1944年夏季后,新几内亚战场上的日军为减少粮食消耗,将原本负责扛运物资的台湾少数民族青年编入战斗分组,其实就是让他们去送死。
  “这张照片里的年轻人是‘雾社起义’抗日部落的后裔,他们的先人被日军残杀,自己长大后又被日军送上战场当炮灰,这完全是两代灭族的行径!”高金素梅指着一页资料说。
  “男青年被送上战场,女性则被骗去当慰安妇。”高金素梅说,这些年寻找历史真相的过程中,最困难也是“找得最痛”的就是慰安妇的问题。
  “老人家认为那是不光彩的事,大都不愿意说。她们有太多的委屈和怨恨,随着她们生命的消逝,那段历史常常连后代都不知道,要为她们争取公道的机会也没有了。”她说。
  为了寻回历史真相、讨回历史公道,高金素梅十多年来努力不懈,2002年至今多次前往日本,要求东京靖国神社撤下“高砂义勇队”阵亡者的灵位,还曾到日本法院控告时任首相小泉纯一郎参拜靖国神社违反日本宪法。2009年8月,她率“还我祖灵”工作队约50人,进入靖国神社内表达抗议,引起各界关注。
  “我们的祖先不明不白被送到南洋,怎么死的都不知道,死后还不能回来台湾,回到部落。他们的灵位被放在日本靖国神社里,和侵略、殖民台湾的日本战犯同置一处,他们生前被殖民、被奴役,死后的灵魂还继续被殖民、圈禁在侵略者的神社里。”高金素梅说。
  “日本靖国神社竟称‘高砂义勇队’阵亡者是日本人,到目前为止仍拒绝将‘祖灵’还给我们,还大肆宣扬侵略,引以为傲,将对台湾少数民族发动的侵略战争雕刻在神社外的铜版上。这是我们无法容忍的!”她说。
  “我们要用行动,为死去的祖先和活着的族人找回尊严!公道不还,我们的行动绝不会停止!”高金素梅说。
  历史不应被忘却,更不容扭曲。高金素梅还痛批李登辉的媚日言论:“他说日本是台湾的祖国,还讲台湾人没有抗日,这种历史观的错乱恰恰就是日本殖民台湾推行‘皇民化’的体现。”
  她还谈到此前台湾一些高中生“反课纲”的事件:“我想对现在的孩子们说,你们是否知道自己的祖先从哪里来?日本人在台湾杀死了几十万人,你们根本弄不清楚台湾被殖民的历史。历史课纲当然应该用‘日据’,不能用‘日治’,前者代表武力占据,后者则是合法治理,如果用‘日治’,被殖民者杀害的台湾各族同胞岂不白白牺牲了。”
  高金素梅这些年通过出书、到部落举办巡回展览等方式,希望让年轻一代了解历史的真相和祖辈的痛苦。她告诉记者,未来要吸引更多部落年轻人一起来找回历史,还计划筹建一个台湾少数民族抗日史博物馆。
  “公道不见得要得回来,但我们必须牢记史实,并且警惕世人:虚构的历史、错误的史观,会让灾难重复发生。”高金素梅说。

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「台湾义勇队纪念馆暨台湾义勇队成立旧址」

2016年06月25日 | 台湾
http://www.krzzjn.com/html/12609.html
「抗日战争纪念网」添加时间:2015-06-22 09:24:04 来源:中新网
■台湾义勇队纪念馆暨台湾义勇队成立旧址
 台湾义勇队是台湾同胞中直接参加中国抗战人数最多、影响最大、持续时间最长的一支抗日队伍。1939年2月22日,在中共浙江省委的指导帮助下,台籍抗日将领李友邦将军在金华市区酒坊巷18号成立(现84号)台湾义勇队及台湾少年团。义勇队及台湾少年团以“保卫祖国,解放台湾”为宗旨,积极开展抗日活动,范围遍及各地,影响远及东南亚。1945年抗战胜利后,台湾义勇队、台湾少年团分批从厦门回到台湾,1946年2月被解散。台湾义勇队纪念馆,占地面积200平方米,建筑面积145平方米,为一层砖木结构。馆内收藏当年的老照片60多张、文物近百件。该馆是全国唯一的有关台湾人民有组织参加中国抗战的历史遗存。台湾义勇队成立旧址纪念馆于2007年被浙江省委宣传部公布为浙江省爱国主义教育基地。

   【相片】台湾义勇队成立旧址
   【相片】台湾义勇队纪念馆正门
   【相片】台湾义勇队纪念馆内景

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http://www.krzzjn.com/html/12613.html
「抗日战争纪念网」 添加时间:2015-06-22 09:43:28 来源:中新网
■台湾义勇队旧址
  台湾义勇队旧址位于中国浙江省金华市婺城区将军路酒坊巷,是台湾义勇队从1939年2月22日成立到1942年5月金华沦陷之前的活动场所,也是台湾人在大陆抗日的唯一旧址。2006年被列为金华市文物保护单位,2011年被列为浙江省文物保护单位,这里还是浙江省爱国主义教育基地。
  台湾义勇队旧址现存三组建筑,酒坊巷84号(当年为酒坊巷18号)为民国初年民居,坐北朝南,占地213平方米,为单层四开间砖木结构,是台湾义勇队、台湾少年团成立地和第一所台湾医院所在地;一墙之隔的清代天井式建筑湘岩试馆在1939年时曾作为义勇队队员的宿舍;酒坊巷103号清末民居占地198平方米,单层砖木结构,大门朝西,是李友邦将军的住所,也是朝鲜义勇队旧址。
  2006年金华市政府将酒坊巷84号修复并辟为台湾义勇队纪念馆。 马英九为该馆题写馆名,此外还有汪道涵题词“台湾义勇队在金华”,连战题词“同源同祖同文,连山连水连心”等。

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「少数民族和台湾港澳地区人民的抗日斗争」

2016年06月24日 | 台湾
http://www.krzzjn.com/html/14328.html
「抗日战争纪念网」 添加时间:2015-07-15 10:43:56 来源:网络摘编
■少数民族和台湾港澳地区人民的抗日斗争
一、蒙古族人民的抗日斗争
  蒙古族主要分布在我国北方的绥远、热河、察哈尔等省,其中主要集中在察哈尔北部和绥远地区,是中华民族大家庭中的重要成员之一。在维护中华民族团结统一的长期斗争中,蒙古族始终和汉族及其他各民族团结一致,共同奋斗。在抗日战争中,蒙古族人民继续发扬了这一传统,为反抗日本帝国主义的侵略做出了重要贡献。
  蒙古族人民的抗日斗争,是在中国共产党的领导和发动下发展起来的。
  在日军占领绥远以后,与其毗邻的中国共产党领导的陕甘宁边区就一直关注着蒙古族人民的斗争。1938年1月,陕甘宁边区首先召开了专门讨论发动蒙古族人民参加抗日斗争的会议,提出“蒙古平民王公团结一致抗日”和“蒙汉联合抗日”的口号。会后立即派出一批富有斗争经验的共产党员深入伊克昭盟,发动群众,组织抗日游击队。
  1938年4月,中共中央为加强蒙古族人民抗日斗争的领导,成立了“中共绥蒙工作委员会”,并以八路军警备骑兵第1团开进伊克昭盟地区进行游击战争。
  中国共产党派到绥远进行抗日斗争组织工作的党员,很快便在鄂托克、准格尔、乌审等地建立起党的秘密组织,在贫苦牧民和青年学生中进行抗日发动工作,以后又建立起以蒙古族为主体的“战地动员委员会”、“抗敌委员会”等抗日救亡团体。同时通过统战工作争取了乌审旗王爷特古斯·阿木古朗等上层人士共同抗日。在蒙古族上层人士的支持下,成立了蒙汉游击司令部,并在鄂尔多斯草原建立了多支就地坚持斗争的游击队。八路军警备第1团的活动也逐步地向桃力民、包头方向发展。
  在“七·七”事变到归绥、包头沦陷期间,中共党员杨植霖和蒙古族青年高凤英等,在归绥以东膝家营子地区建立了一支蒙汉人民抗日游击队,活动在大青山南麓和归(绥)武(川)公路沿线。至1938年秋,游击队的兵力有200余人,以骑兵力主。这支游击队的活动,为八路军开辟大青山抗日根据地创造了条件。
  1938年秋,八路军第120师大青山支队,进入绥远的大青山地区开展游击战争,得到蒙族人民的大力支援。
  至1939年春,大青山支队逐步将步兵改为骑兵,在改建骑兵的过程中,广大蒙族人民作出了宝贵的贡献。他们在牧民中掀起献马卖马热潮,很快解决了建立骑兵部队所需的马匹问题。牧民们还不计报酬主动献技,充任义务教官,帮助战士学会养马、驯马、骑马、医马本领,在蒙族人民的协助下,仅用两个多月的时间,一支骑兵队伍就建立起来了。除此之外,在各地区还建立了10支由蒙汉各族人民组成的地方游击队。
  在建立大青山抗日根据地的过程中,绥远地区蒙汉各族人民在物质上也给予八路军以巨大支援。据1941年绥中地区的不完全统计,一年中,武川县交公粮8万余石,军马800匹;陶林县交公粮4万余石,军马200匹;归凉县交怔款3万元,军马100匹。整个地区还征集了大批物资,折银洋约200万元,其中仅皮大衣就有4000余件,洋布100余匹。
  在抗日战争过程中,广大蒙古族人民不仅在人力、物力上支援抗战,而且不少人献出了自己的生命。据不完全统计,仅大青山地区,惨遭日军杀害或因支援抗日战争而牺牲的就在1万人以上。

二、回族人民的抗日斗争
  抗日战争爆发后,回族人民也和全国人民一样,迅速投身于抗日洪流之中。在陕甘宁边区,回族人民组织了“陕甘宁救国宣传团”、“回民战地服务团”、“伊斯兰青年学会”等抗日救亡团体。他们出版刊物,编演戏剧,开展抗日宣传活动。在河北,文安县夏村回民在日军进攻文安时,自动组织起来袭击日军船只,打死打伤日军多名。冀中地区的回民群众,在抗战开始时就建立了“回民抗日救国会”、“回教公会”、“回民公会”等救亡组织。
  1938年8月,又专门召开回民代表会议,成立了“冀中回民抗战救国联合会”和各地的分会。晋察冀、冀鲁豫等抗日根据地和延安,也先后成立了类似组织。这些回民抗日救亡团体,对于动员和组织回民群众参加抗日斗争,起了巨大的作用。
  在抗日战争中,回族人民武装抗日的斗争也十分活跃,许多地方都组织了回民支队。在河北,有活动在定县、河间一带的马本斋领导的冀中回民支队;活动在香河一带的冀东回民支队;活动在定县的7分区回民支队;活动在献县、河间一带的8分区回民支队;活动在任丘、肃宁、文安一带的9分区回民支队;活动在武清、永清、雄县、霸县一带的10分区回民支队。上述各回民支队,总兵力达3000人。此外,在山东、华中和陕甘宁边区,也有人数不等的回民支队。
  马本斋领导的回民支队,是在全国影响较大的一支回民抗日队伍,也是八路军冀中军区主力部队之一。它是在中国共产党的帮助下建立并发展起来的。抗日战争开始时,活动在定县一带的抗日义勇军第9支队,发动回族青年刘文正和白仲庆、马国忠等人,组织了两支回民抗日队伍。刘文正领导的回民抗日队伍有200多人;白仲庆、马国忠领导的回民抗日队伍有130多人。
  1938年初,河北人民自卫军主力由平汉路西返回冀中后,将活动在定县一带的回民支队加以整顿,编成河北人民自卫军干部教导队。这时,刘文正领导的回民武装发展很快,他们在河间组织了河北游击军回民教导队。活动在献县一带的回民抗日武装领导人马本斋率200余名回族青年来到河间,参加刘文正的回民教导队,马本斋任队长。1938年6月,河北人民自卫军回民干部教导队由安平迁到河间,与河北游击军回民教导队合编为冀中军区回民教导总队,约300人,马本斋任总队长。
  1939年7月,回民教导总队改称回民支队,马本斋任司令员,郭陆顺任政治委员,兵力约200人。
  从1940年春开始,日军加紧对冀中抗日根据地的封锁和围攻。回民支队奉命在深县以南开展抗日斗争。在几个月的时间里,连续作战30余次,毙伤日伪军500余人,5月,在康庄地区运用伏击手段,一举毙俘日的军80余人。
  此战受到冀中军区的表彰,授予“能征善战的回民支队”的锦旗。毛泽东还为此专门题写了“百战百胜的回民支队”的题词。
  1941年,冀中抗日根据地进入严重困难时期,回民支队继续转战于清河、交河和子牙河以东等地区,常常出敌不意地给日伪军以打击,极大地鼓舞了冀中人民克服困难、战胜日军封锁的斗志。
  回民支队的发展壮大及其斗争业绩,与马本斋的名字是紧密相联的。马本斋生于1901年,少时家境贫苦,四处流浪,后加入东北军,从战士升到团长。“九·一八”事变后,因不满东北军的不抵抗和旧军队的腐败,弃官回乡为民。抗战爆发后,马本斋在家乡组织回民武装,接受中国共产党的领导,并很快成为一名优秀的共产党员。
  1941年,马本斋指挥冀中回民支队,在极端困难的条件下,坚持冀中平原游击战争。由于他熟悉地形、民俗,善于指挥作战,常常给日军以突然打击,因而日本侵略者对他恨之人骨,采取各种手段企图消灭回民支队或逼迫马本斋投降。
  8月4日深夜,日军从河间、献县、沙河桥、淮镇、景和等据点,出动1000亲人的兵力,突然包围马本斋家乡献县东辛庄。次日清晨,日军将全村群众驱赶到清真寺门前的草坪上,用机枪和刺刀逼着群众供出谁是马本斋的母亲。群众不供,日军就灌以辣椒水、用火烧、用刺刀挑。马本斋母亲目睹惨状,不忍乡亲们为她流血牺牲,愤然高喊:“我是马本斋的母亲!”她毫无惧色地大声质问日伪军:“你们不是想抓马本斋吗,他是我的儿子,他就在河东岸,你们怎么不到那里去抓他呢?”日军把马老太太带回河间,软硬兼施。首先让叛国分子哈少符劝马母给儿子写信,要儿子为营救母亲而投降。
  马母当面痛斥哈少符是民族败类,指出他们祸国害民的罪行迟早要被人民清算。此计不成,日军的指挥官亲自出马,许诺:“你要是写信叫马本斋来河间谈判,要什么条件都可以答复”。马老太太怒目而视,指着日军指挥官说:
  “我儿子当八路军是我叫他去当的,我儿子打你们是我叫他打的,叫我写信劝他投降,万万不能。马本斋就在河东,你们去找他嘛!抓我这个手无寸铁的老大婆干什么?讲条件,就是让本斋不要管我,好好带着回民支队彻底消灭你们这群强盗”。马母在日军看押下进行绝食斗争,于9月7日从容就义,时年68岁。临终前,马老太太对被押在她身边的一个亲戚说:“告诉本斋,叫他好好打鬼子给我报仇,给乡亲们报仇”。
  马老太太凛然殉国后,朱德、彭德怀、罗瑞卿、陆定一等联名致电冀中军民,电报说:
  “冀中回民支队支队长马本斋同志的母亲,为敌人俘去,在胁迫利诱和凉水灌鼻等残酷严刑下,不仅拒绝为敌奸劝降自己的儿子,并表示决不屈服,而且严厉斥责敌人,终被折磨以死。在听到这个悲痛消息以后,我们认为象这样的大义凛然,视死如归的女子,不愧为中国人民最优秀的代表,这样惊天动地忠于中华民族的无上气节,足以愧死一切充当日寇走狗,出卖民族的衣冠禽兽,愧死一切对抗战大业表示动摇的民族败类。中国人民有这样的母亲,不仅是中国人民的光荣,回民的光荣,中国妇女的光荣,而且是中华民族绝不灭亡最具体例证。而我们八路军人中,有这样深明大义勇敢坚定的母亲,正是我们八路军的光荣。我们仅以悲愤的热忱,向马母英灵致崇敬的悼念,并向我们的马本斋同志,致以兄弟的慰问!”
  日军胁迫马母劝子投降的阴谋失败后,仍不死心,继续利用汉好特务诱骗马本斋投降。马本斋坚持中华民族爱国仇敌的高尚品格,并一一识破日军的阴谋,先后将劝降的敌特哈少符、马庆来处死。马本斋失去母亲以后,继续指挥回民支队,驰骋于大清河两岸的子牙河以东地区。在1942年冀中“五一”反“扫荡”作战中,回民支队转战于冀鲁豫和鲁西地区。马本斋也被提升为冀鲁豫军区第3军分区司令员。数年来,回民支民进行大小战斗870余次,歼日伪军3.76万余人。马本斋于1944年2月7日病逝于冀鲁豫后方医院,葬于辛县张鲁集,终年43岁。
  除冀中回民支队外,渤海回民大队也是抗日战争中较有影响的一支少数民族抗日武装,1940年8月成立,1941年秋改编为冀鲁边军区回民支队,约400人,在几年的斗争中,这支部队共攻克日伪军据点20余处,歼日伪军380余人。
  其他分散居住在全国各地的回族人民,有许多青年参加了正规军,转战于抗日战争前线,洒热血于对敌搏斗的战场。有的参加了本地的抗日斗争。他们都为抗日战争作出了自己应有的贡献。

三、东北和华南各地少数民族的抗日斗争
  东北地区的少数民族遭受日本帝国主义的压迫最早最重,尽管日本侵略者与伪“满洲国”傀儡实行最野蛮、最残酷的法西斯统治,但东北地区的各族人民一直没有停止对日本侵略者的斗争。1932年初,朝鲜族人民在长白山地区组织了抗日游击队,开始时没有武器,他们就用长矛、大刀、火枪与侵略者展开斗争。在夺取敌人的武器把自己武装起来以后,在长白山南麓建立了游击基地,转战于安图、抚松一带。朝鲜族人民对自己的游击队给予巨大的支持,无代价地给游击队提供粮食、布匹、衣被等物资,使游击队顺利地渡过一个又一个严冬。抗日英雄朴吉松,是游击区朝鲜族儿童团员,在日军放火烧毁他居往的村庄时,他与其他七八个人侥幸逃出,躲进森林里。没有吃的,就以树皮草根充讥,宁肯饿死、冻死,也不向日伪军投降。后来他终于找到东北抗日联军,当了一名游击队员。从东满转战到北满,在一次战斗中不幸被日军俘虏。日军动用了所有的酷刑,企图逼迫他说出游击队的活动情况,他宁死不屈,最百高唱抗日歌曲从容就义。朝鲜族女战士朱新玉,当了9年机枪射手。一次在取给养途中被日军包围,她为掩护6名战友突围不幸被俘。在日军的酷刑面前,朱新玉毫无惧色,愤怒揭露日军蹂躏东北人民的罪行,最后高唱《红旗歌》就义。象朴吉松、朱新玉这样的抗日勇士,在朝鲜族人民中不胜枚举。
  在东北抗日联军活动的地区,各族人民紧密团结,同甘共苦,从“九·一八”以来就一直坚持斗争。
  1937年9月,汤源县格金河各族人民为声援关内抗战,组织了数千人举行抗日反满(洲国)大暴动。参加暴动的群众割断了汤源县城至莲江口、鹤岗之间的电话线,砍倒电杆、破坏桥梁,逼使日军龟缩在据点里不敢外出。
  在东北满族人民聚居的地区,也发生过多次反对“满洲国”的斗争。
  在东北抗日联军中,有许多满族战士,他们和汉族以及其他民族兄弟一样,冒着严寒酷暑,转战于白山黑水之间,从一条山脉转战到另一条山脉,从一个村庄战斗到另一个村庄。他们的斗争,有效地支援了全国抗战。
  在全国少数民族的抗日斗争中,华南地区各少数民族的抗日斗争也十分活跃。

  1939年2月,日军占领海南岛以后,在海南岛黎、苗等少数民族地区坚持革命斗争的中国共产党领导的游击队,根据与国民党海南岛当局达成的停止内战、共同抗日的协议,以广东省第14区民众抗日自卫团独立队的番号,在琼山、文昌一带开展游击战争。独立队在中共琼崖特委的领导下,吸收了大批黎、苗等少数民族青年参军,部队迅速由改编时300多人发展到2000多人,游击战争也扩展到东方、昌感、万宁、陵水、保亭、崖县等地区,最后向五指山发展。聚居在五指山地区的苗、黎等少数民族,举行了著名的白沙起义,参加起义的人数达2万多人,沉重地打击了占领海南岛的日伪军。

  1939年11月和1944年10月,日军两次占领广西南宁。聚居在广西南宁、防城、邕宁、上思、扶绥、武鸣、宾阳、平南、蒙山等地的壮、汉、瑶族人民,组织了大批的支前队伍,为前线输送了大量的物资。在日军占领南宁、梧州期间,壮族和其他各族人民组织了自卫队与日军进行斗争。
  各少数民族通过抗日斗争,加强了同汉族人民的团结,增强了中华民族的凝聚力。这种全民族的团结,是抗日战争能够坚持并取得完全胜利的基本保证之一。

四、台湾和港澳地区人民的抗日斗争
  在全国抗战爆发前,台湾同胞对日本帝国主义步步入侵祖国大陆就予以极大的关注,经常提醒大陆人民警惕日本帝国主义的阴谋。
  1931年6月,日本侵略军制造“中村事件”,《台湾新闻报》专门就此发表社论,揭露这是”武力外交”的“惯用手段”,提醒全国人民“军阀勃勃欲动”,“国民而深警醒”。“九·一八”事变后,《台湾新闻报》从9月26日开始,连续报道事变的真相,向台湾人民传递大陆人民抗日斗争的信息。“七·七”事变后,大陆人民举国抗战的行动给台湾同胞以极大鼓舞,他们进一步采取各种形式开展斗争,用实际行动支援大陆同胞抗战。1937年11月至1938年3月间,宜兰等地数千名矿工举行暴动,袭击当地警察,焚毁日军弹药库,夺取武器,最后进入阿里山与高山族同胞联合起来,坚持抗日斗争。1938年夏天,台湾爱国者将日军久留米储油库炸毁:使可供日军使用6年的汽油全被烧掉,并炸死炸伤日军70多人。
  1939年3月,高雄地区1000多农民壮丁为抵制日军征兵举行起义,夺取日军的枪支并与之激战,牺牲600多人。同年10月,基隆地区被强征入伍的300多名壮丁领到军械后,掉转枪口当场暴动,经数天战斗杀伤日军170余人,暴动后进入丛林坚持斗争。由于当时台湾所处的环境条件的限制,上述斗争没能发展成为大规模的抗日武装斗争,但它却充分表现了台湾同胞的民族精神和斗争意志。
  为了适应台湾地区的斗争条件,台湾同胞除了愤然举行武装暴动以外,还采取了多种形式进行斗争。他们或以隐蔽的手段破坏军需生产;或故意拖延怔工、征粮、征税时间;或破坏公路、铁路、桥梁,阻碍运输。有的被强怔到达前线后还利用机会进行斗争。台胞林新夏,1939年被日军强征到海南岛当监工,他利用当监工和担任日语翻译之便,经常了解日军的动向,多次向当地抗日游击队提供情报,使日军常常遭到出其不意的伏击。
  在岛内的台湾同胞开展多种形式抗日斗争的同时,在祖国大陆的台湾台胞也积极行动,投身于抗日战争的行列。
  1937年8月,厦门的台籍同胞首先组织了“抗日复土总联盟会”,接着,在上海的台胞也先后成立了“中华台湾革命党”和“中华台湾革命大同盟”。
  1939年,上海台胞进一步联合,组织了“台湾革命党”。
  1939年春,在大陆日军占领区的台湾同胞,秘密组织了“台湾革命青年大同盟”。此外,在福建也成立了“闽台协会”等组织。1940年3月,台湾同胞部分抗日组织派代表共同组成“台湾革命同盟”。该盟先后在闽南、浙东分设“南方执行部”和“北方执行部”,创办《新台湾》和《台湾民声报》等刊物,开展抗日宣传活动。1942年初,“南方”“北方”两个执行部先后撤销,成立南方、福建、直属第1区、直属广州区、直属汕头区以及厦门、曲江、上海等8个分会,形成了遍及半个中国的台湾民众抗日团体。
  台湾革命同盟还有自己的抗日武装“台湾抗日义勇队”,这个武装组织是1938年建立的,人数最多时达300亲人,分为3个队,活动在浙江沿海一带,1942年转移至福建,在龙岩设立指挥部。义勇队成立以后,经常进行对日军的骚扰活动。
  1942年6月17日,日本侵略者在厦门举行霸占台湾47周年的纪念活动。
  这一天,义勇队深夜出动,向日军设在厦门的“兴亚院”投掷数枚炸弹,同时在全市广为散发抗日传单,引起日军的震动。6月30日,义勇队以炸药炸毁厦门虎头山日军油库,再次显示了力量。7月1日,日军举行庆祝厦门市伪政府成立3周年活动,义勇队在会场上向参加庆祝会的日军投掷炸弹,炸死炸伤日伪军数十人。义勇队的骚扰活动大大鼓舞了厦门人民的斗志。义勇队除以军事活动对日军进行骚扰外,还通过各种渠道在福建、浙江等地建立制药厂,制造了大批药品支援前线。
  台湾人民的抗日斗争,虽然未能大规模发展,但他们的斗争行动,起到了大陆人民所不能起到的作用,有效地配合了大陆人民的抗战。
  抗日战争期间,香港和澳门同胞作为中华民族的一员,始终积极参加抗战。太平洋战争爆发前,港、澳地区是祖国获取海外援助的重要国际补给线,大量的抗战物资由港、澳上陆转运内地。国民政府和中国共产党在港、澳设立了许多联络国际支援抗战的机构,均得到港、澳同胞的全力支持。未庆龄领导的“保卫中国同盟”长期以香港为基地,在港、澳同胞的配合下联络海外侨胞,募集了大量捐款支援祖国抗战。
  1941年12月8日,太平洋战争爆发。25日,日军占领香港。在香港沦陷期间,港、澳地区的广大人民,在内地人民抗日武装的支援下,与日本占领者展开多种形式的斗争,一直坚持到抗战胜利。
  在日军进攻香港时,中国共产党领导的东江抗日游击队派出武装工作队,进入沙头角、西贡、大埔、元朗、罗湖、沙田等地区,发动群众,收集英军遗弃的武器弹药,共获轻重机枪30多挺,步枪数百支以及一批其它军用物资。接着开展游击活动,首先在元朗捕捉处决一批为日军服务的罪大恶极的汉奸,迅速控制了大雾山。同时在元朗、沙田等地组织了两支自卫队和一支农民常备队;在西贡区的乌蛟腾村、王亚村,大埔区的罗湖、船湾、九龙坑一带,先后建立了农民自卫队和新兵训练队。西贡区还成立了“游击之友”小组,以小规模骚扰的方式打击日伪军。经过三四个月的工作,于1942年3月成立了广东人民抗日游击总队港九大队,下辖长枪队、短枪队、海上队和市区队。港九大队成立后,采取了隐蔽斗争为主的方针,高度灵活机动,强调打小仗、打巧仗,先后取得了击毙汉奸特务队长萧九如、生俘日军高级特务东条正之和炸毁九尤桥的胜利。以香港渔民为主要成分的海上游击队,经常袭击日军由香港到台湾、汕头的运输船只。1942年8月15日,海上游击队在大鹏湾黄竹角伏击日军为运输船护航的“海上挺进队”,激战2小时,击毁日军机帆船3艘。以后又在南澳口、大浪口等处袭击日军,缴获多艘装载军用物资的运输船。
  港澳地区人民的抗日斗争,有力地配合和支持了广东抗日游击战争的开展。

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「《赛德克·巴莱》 台湾雾社高山族抗日大起义」

2016年06月23日 | 台湾
http://www.krzzjn.com/html/24947.html
「抗日战争纪念网」 添加时间:2015-12-30 17:29:47 来源:中国青年网
■《赛德克·巴莱》 台湾雾社高山族抗日大起义

【相片】1930年10月27日,台湾雾社高山族1500人举行抗日大起义爆发,高山族起义者砍死了包括日本县长在内的134名日本殖民统治者。图为雾社事变领导者莫那·鲁道酋长(中)。

  1895年,日本强占中国台湾。为了获取原住民区的自然资源,并实现对台湾全岛的控制,日本必须实现对原住民的完全“教化”。为此,台湾总督府参事官持地六三郎和番务总长大津麟平都主张采取“抚育”和“讨伐”并重的“理番”政策。持地六三郎称,虽从社会学上看“番人”属于人类,但从国际法上看与动物没有区别。为了帝国经济和财政利益,应该对“番人”进行讨伐,甚至可以完全灭绝他们,但是由于这样做的成本太高,所以应该采取“抚育”与“讨伐”并举的策略。
  一方面,日本在原住民地区进行“和番”政策。其中,日本警察与台湾原住民头目联姻是“和番”政策的最重要手段。日本对台湾进行殖民统治期间,很少有日本人和汉人结婚,但对于剽悍的高山族“生番”而言,日本却鼓励当地的日本警察与其结婚,意在消弭他们的抗日意识。日本警察迎娶原住民做妻子的例子不胜枚举。1896年,为了争取雾社群的支持,埔里社理番官桧山铁三郎迎娶了雾社群头目巴沙欧的女儿;熟知“番语”的日本警察近藤胜三郎也先后娶了巴兰社头目的女儿以及荷歌社头目的妹妹为妻;1910年,随着马赫坡社头目莫那·鲁道的崛起,近藤胜三郎又安排自己的弟弟近藤仪三郎娶了莫那·鲁道的妹妹狄娃思·鲁道。
  原住民女子嫁给日本警察后,并没有成为真正意义上的妻子,而仅仅是政治联姻,结果多数是始乱终弃。桧山铁三郎因为垄断埔里社所有的商业活动,从中谋取巨额暴利,引发“埔里社支厅舞弊案”。桧山因此返日接受审判,其妻被遗弃在台湾,成为第一个被日本人抛弃的赛德克女子。近藤仪三郎在一次外出活动后未归,日本人称其坠落山谷失踪,但马赫坡社的族人却认为这是日本人在故意抛弃其原住民妻子,狄娃思·鲁道被迫只身回到马赫坡社。狄娃思·鲁道的悲惨遭遇让身为兄长的莫那·鲁道愤恨不已,也为他以后起义反抗日本的殖民统治埋下了种子。

★日本浪人任警察
  日本“和番”的另一项重要举措就是邀请原住民首领赴日本“观光”,宣扬日本的国威,使其不敢再有反叛之心。1897年,第一批由平地原住民组成的访问团参访了日本的长崎、大阪、东京等地。据称,日本人评估效果良好,赴日首领皆对日本产生了“敬畏之心”。1911年,日本再次组织赴日“观光团”,此次主要由山地区的原住民参加,赛德克族群的巴兰社、荷歌社和马赫坡社等部落的首领都被安排前往,时年30岁的莫那·鲁道亦在此列。
  在进行“安抚”的同时,日本人并未放弃对原住民的掠夺和镇压。为了获取木材和樟脑,日本殖民当局设置各种各样的徭役,逼迫原住民到深山砍伐被他们视为图腾的神木,而且要求他们必须肩扛出来,因为这样才不至于划伤树木。在对待原住民文化习俗方面,日本按照所谓的现代化的标准对原住民进行改造。1913年,日本殖民当局正式下令禁止被原住民视为祖训的文面、断齿等习俗,甚至禁止原住民种植用以编织布匹的棉花。日本警察执掌原住民区包括安全、卫生、贸易、教育等所有事务,对原住民有生杀大权。而且,驻扎在原住民区的警察多为日本的浪人与恶徒,本身品质不端,对原住民的残害更加肆无忌惮。原住民稍有不慎,便可能招来杀身之祸。
  面对日本人的欺压,赛德克人与日本殖民当局进行了反复的较量。1897年3月,深堀大尉一行14人组成探险队,前往雾社地区调查,“番通”近藤胜三郎担任向导。由于近藤在途中疟疾发作返回埔里治疗,失去向导的探险队很快失踪。后来,深堀等人的尸体在雾社区被发现,日本人因此认为是雾社群干的。为了报复雾社群,日本进行了为期5年的“生计大封锁”,禁止食盐、铁器等进入雾社群,对其生产生活造成巨大影响。经过一段时间的封锁后,日本于1902年4月对雾社群进行军事围剿,然而雾社群依靠人止关(地名)的地利之便,用巨石、木头等猛击日军,致使18名日军不同程度轻重伤。
  总之,在日本的苦心经营下,雾社地区成为日本殖民台湾的“番地管理模范”。雾社不仅建有媲美日本本土城镇的市街,而且雾社地区原住民也大多能讲日语(相较之下,同期平地汉人的日语普及率仅达25%),对日本的归化程度较高。即使是素来具有反日情绪的莫那·鲁道,也多次参与到协助日本人剿灭其他“番社”的行动中。1920年12月,莫那·鲁道即率众参与了对泰雅族萨拉茅群的镇压行动。

★敬酒成为导火索
  “出草”原是指赛德克族为了向祖先表达敬意以及显示本族群的实力,击杀其他族群成员,并将其头颅割下。这本是一种残忍的野蛮行为,一直为文明社会所不齿。然而,1930年赛德克人再次针对日本人集体“出草”,爆发了著名的雾社事件。
  两次敬酒事件是雾社事件的导火索。第一次敬酒事件让荷歌社与日本的关系高度紧张。荷歌社头目阿威·诺干外出打猎返家的路上,被日本警察邀至驻在所(相当于派出所)喝酒。因阿威·诺干酒量不济,希望早点回家。面对日本警察的频繁敬酒,以原住民语baga(够了)婉谢。然而在日语中,baga音同“禽兽”一词。日本警察大怒,而且找来其他警察将阿威·诺干打死,荷歌社与日本警察的梁子从此结下。
  第二次敬酒事件让马赫坡社与日本的关系也紧张起来。1930年10月7日,马赫坡社的一对青年结婚,日本警察吉村克己恰巧路过,莫那·鲁道的长子塔达欧·莫那热情邀其共同参加婚礼。塔达欧·莫那本想以部落的最高礼仪“兄弟饮”(赛德克族习俗中,两人并肩贴脸对嘴共饮一杯酒,以表示友好同心)招待吉村克己,然而吉村克己嫌弃塔达欧·莫那刚杀过山猪的手上染有血渍,认为非常肮脏而加以拒绝,并用警棍殴打他。此举激怒了塔达欧·莫那和其弟巴沙欧·莫那,二人对吉村一顿暴打。事后,莫那·鲁道意识到问题的严重性,两次带着两个儿子到驻在所道歉。然而,吉村拒不接受道歉,声称要向台中州呈报惩处莫那父子。
  在两次敬酒事件之后,赛德克人开始秘密筹划抗日行动。荷歌社和马赫坡社是此次起义的主要力量,荷歌社因其头目被日本警察殴死而仇视日本人,马赫坡社因为惧怕日本人的报复而终日惊慌不安。因此,双方的反日想法一拍即合。在筹划和联络过程中,荷歌社的比荷·瓦里斯与比荷·沙波扮演了重要角色,二人为堂兄弟关系,均为日本警察登记在案的“不良番丁”,有家人被日本人杀害的经历(例如比荷·瓦里斯的父亲擅自“出草”而全家七口被害),二人经常煽动荷歌社仇恨日本人的情绪。

★赛德克大“出草”
  10月24日,荷歌社借筹备年轻人婚礼的机会,秘密商议起义计划。25日和26日两天,比荷·沙波等人奉莫那·鲁道之命,秘密到德克塔雅群各部落联络,游说共举反日大事。最终,莫那·鲁道共获得包括马赫坡社、荷歌社、塔罗湾社、波阿仑社、斯库社及罗多夫社等6部落的支持。人口最多的巴兰社因为头目瓦力斯·布尼的反对而未参与起义,但有3名男子以个人身份加入。据统计,最后参加起义的赛德克人共有1236人,其中具战斗力的青壮年男性仅300余人。
  27日凌晨3点半,巴沙欧·莫那以父亲重病需要药物为由哄骗日本警察打开马赫波驻在所大门,起义群众乘机攻入并杀死日本警察。同时,塔达欧·莫那率人袭击了日本的制材所,杀死了吉村克己和冈田两位日本警察。此后,起义群众先后攻占了荷歌社、塔罗湾社、波阿仑社等地的日本警察驻在所,并缴获了一批武器。
  上午7点左右,莫那·鲁道在荷歌社集结人马,将起义群众分为青年组和老年组,青年组有100多人,由塔达欧·莫那指挥,负责袭击即将举行运动会的雾社公学校;老年组有70余人,由莫那·鲁道指挥,负责袭击雾社分室(日本警察驻雾社分局)及日本警察宿舍、邮局等地。任务布置完毕后,两队人马分别悄悄隐蔽到攻击目标附近。由于起义群众在攻占驻在所时都把日本警察的电话线切断了,所以日本人对起义一事一无所知。
  上午8点,日本人在雾社公学举行神社祭,并举行联合运动会。当日本的太阳旗升起时,塔达欧·莫那率领青年组杀入公学校,开始与日本警察进行搏斗。由于日本人事前并未做好准备,很多警察甚至没有携带武器,因此很快演变成一场赛德克人对日本人的杀戮。而且,赛德克人一改“出草”不杀戮妇孺的习规,在场内的日本人,无论是成年男子还是老幼妇孺,全数被杀无一幸免。
  据统计,赛德克人在第一天的袭击中共捣毁1个警察分室(相当于警察分局)、12个警察驻在所,杀死134名、击伤215名日本人,缴获180支枪、23037发弹药以及炮弹2000多发。

★日本人的残酷镇压
  27日上午8点50分,日本当局接获雾社起义的消息,立即决定调集军队、警察和亲日“番社”进行镇压。下午4点,首先出动两架飞机对雾社地区进行侦察,并威慑尚未决定参加起义的社群。此外,台北州、台中州、台南州和花莲港厅的驻军及警察2000多人也紧急赶往雾社地区。
  28日,日本军警抵达雾社周边地区。傍晚,在雾社近郊河畔遭到莫那·鲁道的狙击,致使军夫1死5伤,日军遂暂停推进。29日,日军在未遭抵抗的状况下进入雾社市街,并开始搜救日本人的工作。
  起义的赛德克人深知无法与日军进行正面对抗,因此分成“塔罗湾”及“马赫坡”两条战线,分别利用天险对日军进行袭扰。塔罗湾战线由荷歌社头目塔达欧·诺干率领,马赫坡战线由莫那·鲁道率领。10月31日,日军发起总攻。11月1日,除马赫坡社外其他各社均被日军占领,塔达欧·诺干亦战死。2日,马赫坡社亦被日军占领,起义原住民被迫完全退入山中。
  11月5日,日军在马赫坡社东南方与赛德克人爆发激战,15名日军被杀,10人负伤。赛德克人也遭到重创,巴沙欧·莫那受重伤,最后由族人将其斩首。此役过后,赛德克人退至素有天险之称的马赫坡绝壁,日军遂改以防线封锁、炮兵炮击及以飞机投掷炸弹的方式进行围攻。其间,日军甚至向赛德克人投掷化学武器,致使赛德克人伤亡惨重。
  11月下旬,赛德克人终因缺乏粮草和寡不敌众,逐渐失去战斗力。赛德克人在抗击日本围剿的过程中,表现出了其特有的勇敢和文化。很多起义战士的妻小为不拖累他们,纷纷在巨木下自缢,包括莫那·鲁道之妻巴干·瓦利斯,由于上吊的人太多,曾一度压弯了树枝。此外,莫那·鲁道还枪杀两名孙子,并将他们与妻子的尸体一同焚烧,后独自进入深山断崖间自戕。塔达欧·莫那在与被迫前来招降的妹妹诀别后亦自杀身亡。
  据统计,赛德克人在雾社事件中死伤惨重,其中343人战死、296名自缢身亡,另有700多人被俘或投降;日本方面,28人被杀,26人受伤,台湾总督石英藏、总务长人见次郎和台中州警务部长石井保被迫下台;协助日本的“味方番”22人战死,19人受伤。

★不该发生的悲剧
  由于赛德克人占据地利之便,加之其剽悍勇猛,因此日本人与赛德克人进行硬碰硬的对决,很难占到便宜。然而,赛德克人也有自身难以克服的弱点,就是彼此之间的猜忌和攻占。日本人正是利用这一点,通过“以番制番”的方式实现了其殖民统治。
  早在1902年人止关战役后,日本人就使用“以番制番”的策略。1903年,日本唆使与赛德克人素有世仇的布农族干卓万社,要求其以向赛德克人提供食盐和铁器的名义,引诱赛德克青壮年到双方边界姊妹原前来交易,待其全数喝醉后悉数将其杀害。参与交易的赛德克100多名青壮年中最后仅有六七人侥幸逃生,从此赛德克群实力大幅下降。
  雾社事件发生后,日人沿袭其阴险的“以番制番”策略,以提供赏金和枪支弹药为条件,利用各部落之间的嫌隙组成“味方番”袭击队,协助日军警部队作战。例如,立场亲日的道泽群头目铁木·瓦力斯便加入了所谓的“味方番”,协助日军从事侦查、劝降和破坏活动。部分道泽群族人贪图奖赏而对妇孺一律残杀,赛德克对“味方番”的仇恨更甚于日军。11月11日,铁木·瓦力斯率领56名族人追杀赛德克族12名战士,然赛德克早已设下埋伏,致使铁木·瓦力斯等十余人被杀。29日,道泽群又被莫那·鲁道等杀死5人,重伤7人。道泽群死伤人数居于各“味方番”之冠,铁木·瓦力斯之死更被视为奇耻大辱。这进一步加深了道泽群与德克塔雅群的仇恨。
  雾社事件平息后,马赫坡等六社原有的1236名德克塔雅人仅剩514人。为了惩治剩下的德克塔雅群人,日本人再次使出阴险的“以番制番”策略。当时的台中州警务部长三轮幸助、警察课长宝藏寺虎一共谋利用道泽群对德克塔雅群进行清算。日本人的居中煽动很快起到效果,1931年4月25日深夜,道泽群200余壮丁夜袭四处德克塔雅群收容所,杀死216名德克塔雅群人,致使马赫坡等六社的赛德克族仅剩298人,从而造成所谓的第二次雾社事件。
  即使经历了第二次雾社事件,日本人对马赫坡等六社仍不放心。1931年5月6日,日本人强行将298名赛德克人整体迁往北港溪与眉原溪汇合点的中川岛,并对其严加管制。10月,经过秘密侦查和讯问,日本人又逮捕并虐杀了38名据称参与雾社事件的赛德克人。
  此后,日本一方面保持对原住民的强力镇压态势,另一方面也逐步强化对原住民文化意识的塑造,至二战时原住民已经基本上完全丧失了抗日的斗志和行动。更可悲的是,在日本侵华及侵入东南亚的战争中,也活跃着一支“高砂义勇队”,他们都是由台湾原住民所组成。在参与雾社事件的六社仅剩的几百人中,就有33名青壮年写下血书参加“义勇队”,为屠杀他们祖先的日本人战斗。由于其忠诚度高、战斗力强,而一度成为日本人所倚重的一支力量。为了表彰“高砂义勇队”的“杰出表现”,战死者皆进入靖国神社。
  日本战败后,国民党接收台湾,开始对赛德克人进行统治。国民党在雾社地区设仁爱乡,废除“高砂族”的称号,改称“山地同胞”,废除原来的社群头目制度,赛德克精英也纷纷加入国民党参与对家乡的治理。
  2006年,仁爱乡的赛德克人举行大集会,以传统祭典“埋石立约”的方式进行各部落之间的历史大和解。2008年4月,赛德克族正式脱离泰雅族,成为台湾第14个高山族群。目前,赛德克族有7000多人,在汉人占主体的台湾社会仍然是边缘群体。

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