三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 3

2017年05月29日 | 海南島史研究
4、海南島に連行された朝鮮人女性・台湾人女性
 2000年3月に、わたしたちは、海南島南部の保亭に行き、朝鮮人女性朴来順さん(1912年生)の墓を訪ねた。保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていた。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移された。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬された。
 2002年10月に、わたしたちは、保亭で、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)に、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらった。
張応勇さんは、
   「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。なんども訪ねて、ようや
  くすこしづつ話しを聞かせてもらうこができた。故郷に帰りたかったら、領事館を通じて
  話してあげようといったが、ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬといった」
と話した。2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)にも案内してもらった。
 海南島に連行され、「慰安婦」とされられた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。わたしたちの調査と海南島で発行されている『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。
 1945年に日本海軍「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次氏によれば、飛行場近くの「つばさ荘」という名の「慰安所」に、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねた。
 子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
   「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入るこ
  ともできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着ていた。長いスカートだった。(チマ・チョ
  ゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が
  長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と、話した。蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれない。
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死した。おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめた。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
   「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安
  所」に入れられた。そこには30人あまりの女性が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮
  人女性や日本人女性もいた」
と証言した。
 わたしたちは、2004年2月に、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問した。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていた。
 盧満妹さんは2011年8月に亡くなった。
                                    佐藤正人
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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 2

2017年05月28日 | 国民国家日本の侵略犯...
2、海南島での朝鮮人強制労働
 日本企業は、日本占領下の海南島で、日本軍と共に、資源を略奪し、住民を虐待し、朝鮮や台湾・中国大陸各地から連行した人たちを酷使し、暴行死・事故死・病死・餓死させた。日本企業の経済侵略は、日本軍の軍事侵略とむすびついていた。
 1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、資源・労働力を掠奪していた日本窒素は、1940年4月から海南島に侵入し、海南島西部の石碌鉱山の鉄鉱石略奪を開始した。
 「朝鮮報国隊」の人たちは、日本軍用飛行場建設、港湾建設、鉄道・鉄橋建設、特攻艇格納用洞窟建設などをさせられ、石碌鉱山や石原産業が経営する田独鉱山でも働かされた。
田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されている。

3、海南島に日本軍兵士としておくられた朝鮮人
  해남도로 일본군병사로서 가게 된 조선인
 1943年7月27日に、日本政府は、「勅令」第608号として、「海軍特別志願兵令」を出した。
 その第一条には、
   「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子ニシテ海軍ノ兵役ニ服スルコトヲ志願スル
   モノハ海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ銓衡ノ上之ヲ特別志願兵ニ採用シ海軍兵籍ニ編入ス」
と書かれていた。
 「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子」とは、当時国民国家日本が植民地としていた朝鮮と台湾の「男子」 であった。「海軍特別志願兵令」は、朝鮮や台湾の知事や警察署長が、16歳~21歳の朝鮮と台湾の青年を強制的に「特別志願兵」として日本海軍の兵士とする「勅令」であった。
 朝鮮で「海軍特別志願兵令」(「勅令」第608号)が1943年8月1日に施行されてから2か月後、10月に最初(第一期)の「志願者」1000人が鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」に入所し,6か月間の「訓練」のあと、「海兵団」に入団した。
 しかし、その後、日本政府・日本軍は、長期間「訓練」する余裕がなくなり、「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」を廃止し、「訓練」ぬきで、ただちに「志願者」を「海兵団」に入団させた。
 海南島に日本海軍の兵士として入った最初の朝鮮人は、「鎮海海兵団」に入団した「海軍特別志願兵」の第1期生であった。この人たちが乗って南方に向った船は、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で沈没し、生き残った人たちは、マニラを経由してベトナムのサイゴンに行き、サイゴンから海南島に行った。
 かれらが、海南島に上陸したのは、1944年の中ごろだと思われる。
 1939年2月に海南島に奇襲上陸した日本海軍は、武力行使を集中的におこなう「Y作戦」を9回おこない、抗日反日武装部隊を制圧し抗日反日闘争の深化を阻止しようとして住民虐殺をくりかえした(「Y1作戦」:1939年2月~11月、「Y2作戦」:1940年2月~4月、「Y3作戦」:1941年2月22日~3月31日、「Y4作戦」:1941年8月9日~8月30日、「Y5作戦」:1941年11月25日~1942年1月25日、「Y6作戦」:1442年6月、「Y7作戦」:1942年11月~1943年6月、「Y8作戦」:1943年12月から1年間断続的に、「Y9作戦」:1944年12月)。
 日本海軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に海南島各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、略奪、人権侵害を重ねた。
 「海軍特別志願兵」の第1期生が海南島に日本海軍の兵士として上陸したのは、日本海軍が海南島で「Y8作戦」をおこなっているさなかであったと思われる。
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第23軍司令官田中九一代理)の名で出された第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、「海南島地区」の陸軍部隊は68人、海軍部隊は3万3475人、居留民は1万1935人、計4万5478人であり、陸軍部隊は全員が「内地籍」、海軍部隊は、「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「韓籍」733人、居留民は、「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「韓籍」1233人と書かれている。
 ここでは、当時、海南島にいた朝鮮人は、733人+1233人=1966人であったとされている。
1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、帰国後、1946年4月10日付けで日本政府に提出した「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、 “日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人の総数は1620人であり、そのうち軍人は175人、軍属は110人、「其ノ他」は1335人であった”、と書かれている。
 そこでは、第15警備隊:軍人36人・軍属2人、第16警備隊:軍人21人・軍属4人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊:軍人52人・軍属5人、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊:軍人22人・軍属1人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊:軍人44人、軍需部・運輸部:軍属31人、施設部:軍属5人、特務部:軍属9人、気象部:軍属1人、「朝鮮報國隊」:軍属52人・「其ノ他」606人、居留民:「其ノ他」729人とされている。
 日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人軍人・軍属は、「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」では733人、伍賀啓次郎の「帰還報告書」では285人(軍人175人・軍属110人)とされており、大きく違っている。
 海南島に朝鮮人が何人日本海軍兵士として送り込まれたのかは、はっきりしていない。
 瓊山の捕虜収容所には第15警備隊と舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の将兵が、三亜の捕虜収容所には第16警備隊と横須賀鎮守府第4特別陸戦隊と佐世保鎮守府第8特別陸戦の将兵が収容されていた。
伍賀啓次郎の「帰還報告書」の「朝鮮籍民ノ移管」と題する節には、
   「集中セザル居留民ヲ中心トシ朝鮮人民聯合会ヲ結成シ韓国独立光復軍ノ編成等ヲ
  標榜活溌ナル運動ヲ開始シ特ニ集中セル軍人軍属ニ働キカケタル為軍人軍属中一部
  ノ者ハ日本軍人軍属ト共ニ集結スルコトヲ潔シトセズ事毎ニ反抗的態度ヲ執リアリタル
  処一九四五年十月中旬第十五警備隊ノ特別志願兵十九名ハ朝鮮人民聯合会ノ策動
  ニ呼応遂ニ聯合会ヘ逃亡スルニ至レリ」(原文は「元号」使用)
と書かれている。
 海南警備府の名で1946年3月1日付けで出された「海南島地区局地処理要報(居留民関係)」には、
   「朝籍民ハ終戦前別ニ会ヲ組織セザリシモ終戦後独立ノ声ニ応ジ朝鮮人民会(後ニ
  韓国人民聯合会ト称ス)ヲ組織ス 彼等ハ台湾籍民ニ比シ其ノ数モ尠ク且其ノ大部分
  ハ開発会社ノ労務者ニシテ知識分子尠シ 彼等ノ一部ノ者ハ穏健ニシテ軽挙ヲ慎ミ帰
  還迄ハ従来通日本人ト行動ヲ共ニスルヲ穏当ナリトセルモ大部分ハ独立国家ノ国民ト
  シテノ自覚ニ生キ従来ノ従属的関係ヲ絶チ独立独歩ノ自己ノ生活ヲ営ムベシト主張シ
  遂ニ朝鮮人民会ノ大勢ヲ支配スルニ到レリ 従テ終戦直後ハ我方ニ対シ其ノ態度冷然
  タルモノアリタルガ十一月分迄ノ我方ノ配給物資モ消費シ尽シ生活ニ窮スルニ及ビ中
  国側の食料支給ノ措置ナキ儘食料問題ニ関シ我方ニ申入レスルノ余儀ナキニ到リ遂
  ニ昨年十二月一日海口人民会長等数名ハ海南海軍特務部溝口政務局長ト会談ノ際
  狙撃死ニ到ラセシメタル不祥事件ヲ惹起セリ」、
   「朝鮮籍居留民ニ対シ大体中国側ノ態度ハ台湾籍居留民ニ対スルモノト同一ナリ 又
  会社従業員ニ関シテモ各会社ニ於テ台湾籍居留民ニ準ジ取扱ヲ為セリ 鮮籍民ハ終戦
  後相当ノ人口移動ヲナシ目下海口地区ニ約一七〇名楡林三亜地区ニ二三七名集結セ
  リ」
と書かれている。
                                   佐藤正人
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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 1

2017年05月27日 | 海南島史研究
■海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について
 해남도에 있어서 일본의 침략범죄  특히 「朝鮮報國隊」에 대해

  1、国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史
  2、海南島での朝鮮人強制労働
  3、海南島に日本軍兵士としておくられた朝鮮人
  4、海南島に連行された朝鮮人女性・台湾人女性
  5、「朝鮮報国隊」
      ①、「報国隊」とは
      ②、「朝鮮報国隊」虐殺
      ③、いまも海南島に埋められている朝鮮人
  6、日本の国家犯罪の歴史的責任
  資料 海南島への朝鮮人連行・「朝鮮報国隊」「朝鮮村」

1、国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史
 國民國家일본의 역사는 타지역과 타국침력의 역사

 国民国家日本は1868年に形成されはじめた。国民国家形成の過程で日本は植民地と占領地を拡大した。国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であった。
 1895年4月、「日清講和条約」によって清国は、日本に台湾・澎湖列島・遼東半島、および3億円をわたした。このとき、宮古・八重山地域(宮古島、石垣島、西表島、与那国島など)も日本の植民地とされた。
 1904年2月8日に、日本陸軍(「韓国臨時派遣隊」)が朝鮮の仁川に上陸し、その翌日、日本海軍が仁川沖のロシア軍艦を奇襲攻撃した。日本は、「日清戦争」のときと同様に「宣戦布告」することなく、ロシアとの戦争を開始した(「宣戦布告」は、2月10日)。
 1905年2月に、国民国家日本は、独島を日本領土とした。日本が独島を略奪し、大韓帝国を植民地化(「乙巳保護条約」受諾強要)したのは、ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺の時期だった。日本の独島占領は、国民国家日本の領土拡大の一環であり、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、小笠原諸島領土化、台湾・澎湖島植民地化、八重山諸島植民地化、南鳥島日本領化に続くものであった。
 1905年11月に、日本政府は朝鮮に統監府を設置した。大韓帝国政府が日本正規軍の占領下で内政権、財政権、警察権を侵害され、外交権を奪われた。
 「日清戦争」前後から「日ロ戦争」前後に至る時期は、アメリカ合州国のハワイ・サモア植民地化、フランスのマダガスカル・ダホメ・サモリ帝国植民地化、ドイツの東南アフリカ・マーシャル諸島植民地化、日本・アメリカ合州国・イギリス・ロシア・ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア8か国連合軍の中国侵略(義和団戦争)の時期だった。
 東アフリカ民衆がマジマジ戦争を戦っているさ中、1906年に、朝鮮で反日義兵が中心となって独立戦争を開始した(第1次朝鮮独立戦争)。数年にわたる戦いのなかで、大量の武器と弾薬をもって襲撃してくる日本の軍警によって、日本側文書によっても1万7千人を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年、附表第二)。朝鮮民衆が第1次独立戦争を戦っている時期に、台湾民衆は1895年以降、抗日反日武装闘争を戦いつづけていた。
 1910年6月22日、日本政府は、拓務局官制を公布した。そこでは、「拓務局は……台湾、樺太、韓国に関する事項を統理す」とされており、この時点ですでに、朝鮮は台湾、樺太と同様に「統理」の対象とされていた。その2か月後、1910年8月に、大日本帝国は大韓帝国を「併合」した。
第1次世界大戦開始後まもなく、1914年8月に、日本はドイツに宣戦布告し、10月に、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、12月に軍政をしいた。
 第1次世界戦争は、日本にとっては第1次アジア太平洋戦争であった。この戦争の時期に、台湾では原住民族が日本軍と戦っていた。第1次アジア太平洋戦争と台湾戦争が同時に戦われていた。1914年に台湾戦争で戦死した日本軍兵士は66人、日本人警官は71人であった(靖国神社社務所『靖国神社忠魂史』第5巻)。
 1919年に帝国主義諸国は、国際連盟を利用して、ドイツからとりあげた土地を分配しあった。日本は、ドイツが占領していた太平洋諸島のうち赤道以北のすべての島の「統治」を国際連盟から「委任」され、海軍が軍政を続けた。1922年4月に、日本政府は、軍政を廃止し「南洋庁」を設置した。「南洋庁」はアイヌモシリ植民地機関である北海道庁と同じく内務省が管轄した(1935年に日本拓務省内に「南洋群島開発調査委員会」が設立され、1936年に朝鮮の東洋拓殖株式会社に相当する国策会社である南洋拓殖株式会社が設立された)。
 日本は、1931年7月に、沖之鳥島と名付けた2平方メートルの放置しておけば水没する岩礁を日本の領土とした。現在、日本の最南端とされている岩礁(沖之鳥島)の周囲50メートルをコンクリートで固めている。
1931年9月に、日本は中国東北部・モンゴル東南部への武力侵略を開始し、1932年3月に「満洲国」を偽造して、支配地域を拡大した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始した。
 1935年12月25日に、日本政府・日本軍は、傀儡「冀東防共自治政府」をつくり、1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。
 1939年2月10日に、日本陸海軍が、海南島侵略を開始した。
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した。
 1941年12月、日本軍は、マラヤのコタバル、フィリピンのダバオ、ハワイのパールハーバーを、ほぼ同時に奇襲攻撃し、第2次アジア太平洋戦争を開始した。太平洋の島々が戦場となり、多くの住民が日本軍とアメリカ合州国軍に殺された。
 1943年5月に、日本天皇ヒロヒトと日本政府および日本軍中枢は、オランダの植民地とされていたスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島などを「帝国ノ領土ト決定」した(「大東亜政略指導大綱」)。
 1945年1月18日に、最高戦争指導会議は「今後とるべき戦争指導の大綱」を決定し、翌19日に「帝國陸海軍作戦計画大綱」をヒロヒトが承認(裁可)した。この大綱は、「本土決戦」にそなえてオキナワをアメリカ合州国軍との戦場とすることをきめていた。その50日後の3月27日にアメリカ合州国軍がオキナワ上陸を開始し、以後3か月の間に、おおくのオキナワ民衆がアメリカ合州国軍と日本軍に殺された。
 1945年8月14日、日本政府は、ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を受諾した。この日の夜録音した「終戦の詔勅」で、ヒロヒトは、なおも、第2次アジア太平洋戦争の戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったとし、「忠良なる爾臣民」に対して「神州の不滅」を信じることを要求した。

                                        佐藤正人
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帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪 年表(抄) 2

2017年05月26日 | 海南島史研究
1939年9月1日 西からドイツ軍がポーランドに侵入。 9月17日、東からソ連軍が侵入。 分
    割占領。
1939年9月1日 朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の
    朝鮮人強制連行開始)。
1939年11月10日 朝鮮総督府、「朝鮮民事令」改悪。 → 1940年2月「創氏改名」実施。
1940年2月~4月 日本海軍海南島で「Y二作戦」(地域住民虐殺)。  1941年2月~3月 「Y
    三作戦」。
1940年7月 関東軍防疫部、関東軍防疫給水部に改編(関東軍防衛給水部本部の通称:満
    州第731部隊)。
1940年10月27日 日本軍1644部隊、寧波市でペスト蚤散布。
1941年7月28日 日本陸軍第25軍約4万人、海南島楡林港からベトナム南部・カンボジア)に
    侵入。
1941年8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)。 海南島澄邁県沙土・定安県黄
    竹鎮で住民虐殺。
1941年11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」。  1942年6月 「Y六作戦」。
1941年12月8日 海南島三亜港をでた日本軍、コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。
1942年2月 日本軍、シンガポールで華僑大虐殺。
1942年6月5日~7日 日本海軍、ハワイ西北のミッドウェーのUSA軍を攻撃。大敗。
1942年8月7日 USA軍、ガダルカナル島に上陸開始 → 日本兵2万5千人戦死・餓死・病死。
1942年11月~43年4月 日本海軍海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民虐殺)。
1943年3月30日 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」ソウル出発 → 海南島へ。
1943年4月~5月 日本海軍海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部の住民虐殺)。
1943年5月12日 USA軍、アッツ島上陸開始。 5月29日、日本軍壊滅(日本兵2千6百人あ
    まり死亡)。
1943年6月 「Y七作戦 3期」(海南島西北部の住民虐殺)。
1943年7月23 日 海軍特別志願兵令公布(「勅令」)→ 朝鮮人、海軍特別志願兵に。
1943年9月8日 イタリア、「連合軍」に全面降伏。
1943年11月21日 USA軍、現キリバス共和国のマキンとタラワに上陸。11月22日、マキン
    で日本軍壊滅(日本兵約500人死亡。朝鮮人軍属数百人のうち生存者104人)。11月
    23日、タラワで日本軍壊滅(5000人近い日本兵、軍属、朝鮮人軍属死亡。朝鮮人軍
    属生存者百数十人。マキンとタラワで朝鮮人約1200人死亡。
1943年12月から1年間断続的に  日本海軍海南島で「Y八作戦」(地域住民虐殺)。
1944年3月~7月 「インパール作戦」で日本兵約5万人死亡。
1944年4月 朝鮮人にたいする徴兵検査開始。  1945 年1月 台湾人にたいする徴兵検査
    開始。
1944年6月15日 USA軍、サイパン島への再上陸開始。 7月7日、日本軍壊滅。
1944年7月24日 USA軍、テニアン島への上陸開始。 8月3日、日本軍壊滅。
1944年10月10日 USA軍、沖縄大空襲(十・十空襲)。 1945年3月2日、沖縄本島大空襲。
1944年11月~45年8月 「松代大本営」建設工事。
1944年12月 日本海軍海南島で「Y九作戦」(地域住民虐殺)。
1945年1月4日~6月~  ルソン島戦(フィリピン人犠牲者110万人)。
1945年2月3日~3月3日 マニラ大虐殺(フィリピン人市民約10万人が死亡)。
1945年2月19日~3月17日 硫黄島戦(日本側死者2万人余、USA側死者6821人)。
1945年3月10日 東京大空襲、12日名古屋大空襲、13日大阪大空襲 、17日神戸大空襲、
    5月29日横浜大空襲。
1945年3月26日 USA軍、沖縄慶良間諸島の慶留間島・座間味島などに上陸。「沖縄戦」
    開始。
1945年3月26日 慶留間島で53人、「集団自決(強制集団死)」。 4月2日 読谷村チビチリ
    ガマで強制集団死。
1945年4月12日 佐世保第8特別陸戦隊、海南島楽会県互助郷を襲撃(被殺者777人、幸存
    者337人)。
1945年4月27日 沖縄阿嘉島で日本軍、朝鮮人軍夫約10人虐殺。
1945年4月30日 ヒトラー自殺。 5月7日 ドイツ無条件降伏。
1945年5月2日 海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊、万寧市月塘村を襲
    撃。犠牲者190人。
1945年6月13日頃 沖縄で日本海軍大田司令官自殺。6月22日頃、日本陸軍牛島司令官自
    殺。
1945年7 月30 日 海南警備府第15 警備隊舗前守備隊、文昌市秀田村を襲撃(被殺者140
    人、幸存者56 人)。
1945年6月27日~8月20日 沖縄久米島で日本軍、住民虐殺(朝鮮人谷川昇〈本名不明〉の
    家族7人を含む)。
1945年8月6日・9日:アメリカ合州国政府・軍、広島・長崎に原爆投下(14万人・7万4千人殺
    害)。
1945年夏 日本海軍海南警備府第16警備隊の兵士ら、「朝鮮報国隊」の朝鮮人を虐殺。
1945年8月14日:日本無条件降伏。 8月15日「大東亜戦争終結ノ詔書」NHK放送。
1946年4月 海南島から朝鮮へ「帰還船」出港→釜山へ。
1946 年5月~49年3月 朝鮮人23人・台湾人21人、「戦犯裁判」で処刑。
1946年11月3日 最悪の戦犯を日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」公布(1947年5月3日
    施行)。
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民衆の世界史概要 7、民衆史(とくに海南島民衆史について)

2017年05月25日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島近現代史のなかの世界近現代史
※1939年~1945年~2017年
 2017年5月:1869年9月(アイヌモシリ植民地化)から147年8月、1939年2月から78年3月。
※戦後?  日本国家の他地域他国侵略の時代は、終わっていない。
 侵略。戦争。占領。領土化。植民地化。併合。不等価交換。
※現在の侵略
 天皇制を前提とした「平和憲法」下の日本国家・日本軍の他地域・他国侵略。
 朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争に実質参戦。
 1999年8月13日、日本は、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とした。
 その12日後(8月25日)、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行。2001年12月2日、日本海軍軍艦が、アラビア海で作戦行動中のアメリカ合州国軍艦に燃料を洋上補給。アフガニスタン侵略戦争・アフガニスタン民衆殺戮に直接荷担。このとき、アジア太平洋戦争後はじめて、日本正規軍が侵略戦争に参戦。
 2004年1月から日本政府は日本軍を、アメリカ合州国のイラク侵略戦争に参戦させた(2004年1月、日本軍サマワに侵入)。日本は、ファルージャやバスラなどイラク各地でのアメリカ合州国軍の民衆虐殺に間接的に荷担。
 2011年11月から日本軍南スーダンに侵入(2015年12月から「第9次要員(基幹:第10師団)が侵入。2017年5月撤退開始)。
 2015年9月19日、自民党とそれに追随する公明党などが、「平和」をかかげる戦争法(「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」)を成立させた(9月30日公布、2016年3月29日施行)。
※連鎖 木本トンネル → 紀州鉱山の坑道 → 海南島の日本軍用洞窟 → 太平洋の島々の日本軍用洞窟 →  硫黄島の数百本のべ18キロの地下坑道(「横穴陣地」)を朝鮮人も掘らされた。
※個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
   現在の、日常のなかの世界史。 侵略の世界史⇔抵抗の世界史。
   海南島近現代史⇔世界近現代史。
※日本ナショナリズムとの対決を!
   日本民衆(労働者、農民、会社員、漁民、商人、官吏、医者、看護婦、店員、教師、
  主婦……)は、なぜ天皇制を支持し、他地域他国侵略を実行したのか。しているのか。
※他地域他国侵略をゆるさない日本民衆の歴史認識
   シオニストのパレスティナ侵略・「イスラエル国」の歴史は、USA……日本国……の歴史。
※解放のインターナショナリズム ⇔ グローバリズム、ナショナリズム

■海南島戦争(侵略と抵抗)
   アジア太平洋全域における抗日反日闘争のなかで
   1939年2月から6年半
   1939年2月、日本軍の海南島奇襲上陸直後から、日本のマスメディア、「従軍作家」などは
  事実を隠蔽して海南島侵略を美化、宣伝、扇動。
   日本民衆は領土拡大を喜び、支持(兵士……となった日本民衆は直接、犯罪を実行)。

■国民国家日本の海南島侵略と抗日反日闘争の歴史 
   Ⅰ、海南島民衆の抗日反日闘争
      国民党軍の戦い
      共産党軍の戦い
      民衆闘争
   Ⅱ、日本政府・日本軍・日本企業の海南島における犯罪
       軍事:★住民虐殺、「処刑」、村落破壊、放火、暴行、略奪。「海南部隊命令」第
         19号、「1941年海南島緊急米穀対策要綱」。★港湾、道路、橋梁、鉄道、軍事施
         設(飛行場、司令部、兵舎、要塞、望楼、砲台、トーチカ、火薬庫、給水塔、軍
         用倉庫、軍用洞窟)などを整備・新設。 農地・住宅などを破壊して建設。
       軍事・経済:★金融支配。「軍票」乱発。★新都市建設、鉱山開発、電源開発。★強
         制連行・労働強制。 暴行死・事故死・病死・餓死。 ★漁業資源・森林資源収
         奪・コメ、砂糖、ゴム、薬草……収奪。海南島農林開発委員会設置(日本企業30
         数社)。 ★土地収奪 → 熱帯産農産物事業会社が綿花、ゴム、サトウキビなど
         栽培・日本人「農業移民」。★アヘン生産。
       軍事・政治:★行政機関設置(三省〈外務省、海軍省、陸軍省〉連絡会議)。傀儡政
         府創作。★「治安維持会」・「良民証」による住民相互監視・管理。
       軍事・社会:★性的暴行・日本軍隊性奴隷化(「慰安所」設置)。
       軍事・文化:★「ヒノマル」・「キミガヨ」おしつけ、天皇賛美強制、日本語使用奨
         励・「皇民化教育」(日本語学校設置)。

■海南島史のなかの世界史・世界史における海南島史
   海南島の先住民。漢族の侵入。漢族の支配。日本人の侵入。海南島解放とは?
   地域・社会・個人:犠牲者一人ひとりの個人史。

   中華帝国。台湾。海南島。越南。ジュンガリア(ジュンガル帝国)。
   トルキスタン:西トルキスタン(トルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフス
  タン・タジキスタン)。東トルキスタン(中華人民共和国新疆ウイグル自治区)。南トルキス
  タン(アフガニスタン北部)。
   琉球王国、台湾民主国、マダガスカル(メリナ王国)、ハワイ王国。
   アヘン戦争、義和団戦争、マジマジ戦争、義兵戦争、シベリア戦争、台湾戦争、海南戦争。

■海南島史
  石器時代:三亜市吉陽区の落筆洞遺址。東方市四更镇荣村の付龍園遺址。文昌市昌洒鎮の鳳鳴村遺址など。
  BC110年:漢、海南島に珠崖郡、儋耳郡を設置?
  631年:唐、海南島を瓊州(簡稱「瓊」)とする? 
  19世紀:清、海南島に瓊州府設置。県:儋州、瓊山、澄邁、定安、文昌、會同(→瓊海)、樂會(→瓊海)、臨高。
  1905年:県:感恩(→東方)、昌化(→昌江)、陵水、万県(→万寧)。
  1912年:中華民国建国。「中華」・「五族共和」という排外主義・侵略思想。
  1931年12月:国民政府、海南島を瓊崖特別区とする。
  1939年2月:日本軍、海南島に侵入。1945年8月:投降。
  1947年8月:国民政府行政院、瓊崖特別区を海南特別行政区とする。
  1949年10月1日:中華人民共和国成立。
  1950年5月1日:中国人民解放軍、海南島全域占領。  → 中国政府、海南島を広東省に編入。
  1950年5月30日:昌江・感恩県→昌感県、1958年:昌感県・東方県・白沙県→東方県、1962年5月:昌江県再度設置、1987年11月20日:昌江県→昌江黎族自治県。
  1987年11月20日:白沙県(1935年設置)→白沙黎族自治県、楽東県(1935年設置)→楽東黎族自治県、陵水県(611年設置?)→陵水黎族自治県、瓊中県(1948年設置)→瓊中黎族苗族自治県、保亭県(1935年設置)→保亭黎族苗族自治県。
  1988年4月:中国政府、海南省設置。 → 中国本土から多数の漢族などが移住。人口急増。
  2012年6月:中国政府、海南省に三沙市(市政府駐地西沙永興島)設置。

  現在の海南省の行政区
    市:海口市、三亜市、儋州市、五指山市、瓊海市、文昌市、万寧市、東方市、三沙市。
    県:定安県、屯昌県、澄邁県、臨高県。
   自治県:白沙黎族自治県、昌江黎族自治県、楽東黎族自治県、陵水黎族自治県、保亭
       黎族苗族自治県、瓊中黎族苗族自治県。

■島、島嶼国家
   海南島(3万3572 km²)、台湾島(3万5801 km²)、ホンコン島、ルソン島、パナイ島、チモール島(3万777 km²)、パプア島、ガダルカナル島(5336km²)、マライタ島、サンタイサベル島、タスマニア島(6万637 km²)、シンガポール島(約700 km²)、スマトラ島。
   サハリン島(7万6400 km²)、クナシリ島(1498 km²)、エトロフ島(3139 km²)、ウルップ島(1450 km²)……、「北海島」(7万8073 km²)、沖縄島(1207 km²)、宮古島、石垣島、波照間島……、奄美大島、対馬(708 km²)、佐渡島(859 km²)、淡路島(593 km²)、小豆島(153 km²)、伊豆大島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、沖ノ鳥島、南鳥島、硫黄島……。
   済州島(1845 km²。耽羅王国。耽羅民族)。
   マダガスカル島(58万7041 km²)、セイロン島(6万5610 km²)。
   ハワイ島、イスパニオラ島、マルビナス島(フォークランド島)。
   シチリア島(2万5460 km²)、サルデーニャ島、キプロス島、コルシカ島、クレタ島(8261km²)。
   ジャマイカ島(1万991 km²)。
   グレートブリテン島(20万9331 km²)、アイルランド島(8万4412km²)

   小島嶼国連合(Alliance of Small Island States AOSIS)。1990年設立。
   1994年:京都議定書草案作成に参加。国際連合加盟国の5分の1(37か国)+6地域。
★小島嶼国連合参加国・地域
 アンティグア・バーブーダ(1981年11月1日独立。アンティグア島、バーブーダ島、レドンダ島)、バハマ(1973年7月10日独立)、バルバドス(1966年11月30日独立)、ベリーズ(1981年9月21日独立)、カーボベルデ共和国(1975年7月5日独立)、コモロ連合(Union des Comores、1975年7月6日独立。ンジャジジャ島〈グランドコモロ島〉、ヌズワニ島〈アンジュアン島〉、ムワリ島〈モヘリ島〉)、クック諸島(1965年8月4日、ニュージーランドと自由連合)、キューバ、キプロス、ドミニカ国(Commonwealth of Dominica。1978年11月3日独立)、フィジー共和国(1970年10月10日独立)、ミクロネシア連邦、グレナダ(1974年2月7日独立。カリアク島、プティトマルティニーク島など)、ギニアビサウ共和国(1973年9月24日独立宣言)、ガイアナ共和国(1966年5月26日独立)、ハイチ共和国(イスパニョーラ島西部。1804年1月1日独立)、ジャマイカ(1962年8月6日独立)、キリバス共和国(1979年7月12日独立。ギルバート諸島、フェニックス諸島、ライン諸島の一部)、モルディブ共和国(1965年7月26日独立)、マルタ共和国(1964年9月21日独立)、マーシャル諸島、モーリシャス共和国(1968年3月12日)、ナウル共和国(1968年1月31日独立。2011年人口9322人。国土面積21平方キロ)、ニウエ(1974年10月19日、ニュージーランドと自由連合)、パラオ共和国(1994年10月1日独立。2005年人口20303人。1943年6月末、33,960人〈パラオ人6474人、日本人25026人、朝鮮人2460人、スペイン人・ドイツ人宣教師18人〉。ペリリュー島、コロール島、バベルダオブ島、アンガウル島など。1944年9月15日~11月25日ペリリュー島で日本軍・アメリカ合州国軍戦闘〈日本兵戦死 10695人、朝鮮人「軍属」死亡2千人?、アメリカ合州国兵戦死2336人〉)、パプアニューギニア、シンガポール共和国(1965年8月9日独立)、セーシェル共和国(1976年6月29日独立。115個の島。国名は1742年当時のフランスの大臣Jean Moreau de Séchellesの姓から)、サントメ・プリンシペ民主共和国(1975年7月12日独立。サントメ島、プリンシペ島など)、サモア独立国(Mālō Sa'oloto Tuto'atasi o Samoa。Independent State of Samoa。1962年1月1日独立。ウポル島、サバイイ島など)、セントクリストファー・ネイビス(1983年9月19日独立)、セントルシア(1979年2月22日独立)、セントビンセント・グレナディーン(1979年10月27日独立)、スリナム共和国(1975年11月25日独立)、トンガ王国(1970年6月4日独立)、トニダード・トバゴ共和国( Republic of Trinidad and Tobago。1962年8月31日独立)、ツバル(1978年10月1日独立。2000年国連加盟。2015年人口9916人)、バヌアツ共和国(1980年7月30日独立)。
★小島嶼国連合オブザーバー参加地域
 アメリカ合州国領サモア、グアム、アメリカ合州国領ヴァージン諸島、オランダ領アンティル。

■「歴史を読み直す」?

■民衆の世界史
 民衆の歴史認識
   民衆の歴史、民衆の世界史のふたつの意味。
   歴史を偽造する者たちとのたたかい。権力者の歴史とのたたかい。
   侵略と開発、ポストコロニアリズムという虚偽。

■証言(ことば→文字・映像)
   日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法。
   国民国家日本の海南島における侵略犯罪を総体として認識する方法。
   海南島「現地調査」( 侵略と植民地支配の事実究明、抗日反日闘争史探求の調査)。
   証言:被害者・目撃者からの聞きとり。死者からは、聞きとりできない。
      加害者からの聞きとり。犯罪の「記憶」。
          旧日本軍兵士、朝鮮総督府行刑関係者の沈黙・証言(告白)拒否。
         沈黙のままの自然死。数人が広東裁判で死刑。ほとんどが「帰還」。
   証言を聞く者のありかたが、証言の質を決定する。
   「現地調査」・必然的な偶然の出会い。
   海南島人による聞きとり。朝鮮人による聞きとり。日本人による聞きとり……。
   聞きとって、どうするのか 。
      日本政府・日本軍の侵略犯罪の解明 → 責任追及(犯罪の責任・犯罪を隠しつづけ
     てきた責任)→ 国家謝罪・国家賠償、責任者処罰(侵略犯罪の最悪の責任者は、ヒロ
     ヒト)。
      海南島に侵入した日本企業(三井物産、日本窒素、石原産業、西松組〈現、西松
     建設〉、浅野セメント、王子製紙、武田薬品、資生堂、三越百貨店、トヨタ自動車、明
     治製糖、……)の過去と現在の侵略犯罪解明・責任追及。

■記録(文書〈報告書・記録文学・新聞〉、映像、歴史地図)
   被害の記録、加害の記録。

■モノ・「場」
   アジア太平洋戦争の「場」。 犯罪現場・抗日根拠地。交錯する「場」。
   住民虐殺はほとんど「遺跡」として残されていない。
   「戦争遺跡」というコトバには、侵略犯罪の証拠という意味が薄い。
   侵略犯罪の巨大さを隠してしまう。

■さまざまな人生・体験   被害者の人生。犠牲者の生と死。  加害者の人生

■朝鮮村発掘 →日本軍・日本政府の犯罪事実の解明 → 責任追及 → 国家謝罪・賠償。
   「朝鮮村」の遺骨=殺された人が村人とともに「証言」する。
   誰が殺されたのか。どのように殺されたのか。

■歴史を知ること。事実を知ること
   事実はひとつ。事実はひとつ。実証。ことば。文字
   事実をどのように評価するか(歴史意識。歴史観。歴史思想)。記憶は「継承」できない。
   自力で。確信をもって。

                                     佐藤正人
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帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪 年表(抄) 1

2017年05月24日 | 海南島史研究
1492年 コロンブス船団大西洋往復 → インディヘナ虐殺、資源掠奪。
1592年~93年 壬辰倭乱。 1597年~98年、丁酉倭乱。
1602年 オランダ東インド会社、ジャワ島に。オランダのインドネシア植民地化開始。
1609年 薩摩軍、奄美・琉球国に侵入 → 幕府、琉球国を薩摩藩の「所管」とする。薩摩藩、
   奄美を直接支配。
1637年12月~38年4月:島原・天草烽起。籠城した37000人死亡。
1643年 ヘナウケの戦い。 1669年 シャクシャインの戦い。
1763年~65年 ポンティアック戦争(アメリカ北西部先住民諸部族が連合して、白人侵入者
   と戦う)。
1776年7月4日 アメリカ合州国独立宣言 → 先住民織の大地にたいする大規模侵略開始。
1789年 フランス革命。クナシリ・メナシの戦い。
1828年~32年 「ブラックウォー」(タスマニア人虐殺)。 1876年5月 最後のタスマニア
   人死亡。
1840年~42年 アヘン戦争。
1857年~59年 インド大反乱(第一次インド独立戦争)。
1869年9月 日本政府、アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける。
1872年10月 「琉球藩」設置(第1次琉球処分)。 1879年4月、「琉球藩」を「沖縄県」に(第
   2次琉球処分)。
1873年3月 オランダ、アチェ王国侵略開始(1904年、アチェ王国滅亡)。
1874年5月 西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入。住民虐殺。
1875年9月 日本小型砲艦「雲揚」、朝鮮の首都に近い江華島海域に侵入。
1876年2月26日 朝日修好条規(조일수호 조약。江華島条約)調印・発効。
1884年~1885年 清フランス戦争( → 1887年 フランス領インドシナ)。
1889年2月11日 「大日本帝國憲法」発布(1890年11月施行)。1890年10月、「教育勅語」発表。
1890年12月28日 ウンデットニーの虐殺(USA軍第7騎兵隊、サウスダコタ州スー族大虐殺)。
1894年7月 USAの侵略集団が「ハワイ共和国」樹立宣言(10月に日本政府が承認)。
1894年~95年 朝鮮日本戦争(甲午農民戦争)→ 清日本戦争。 1894 年11月 旅順大虐殺。
1894年12月28日 全琫準、淳昌で日本軍に逮捕されソウルに。 1895年4月23日 全琫準ら処
   刑される。
1895年4月 「日清講和条約」締結(台湾、澎湖列島、遼東半島を日本領土とする)。
1895年5月 日本軍、台湾侵入開始。以後、長期に台湾民衆を殺害。
1896年8月 フランス、メリナ王国(マダガスカル)「併合」。 USA、ハワイ「併合」。
1898年12月 USA、スペインに2千万ドル支払い、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民
   地に。
1900年~1901年 義和団戦争(日本、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、USA、イタリア、
   オーストリア・ハンガリー〈8か国〉軍隊が連合して清国に侵入)。
1905年 日本、独島・カラフト南部・遼東半島南部(「関東州」)・「満鉄附属地」を領土とする。
1905年~08年 ドイツ軍、タンガニイカで大虐殺。
1906年 日本占領下の大韓帝国で、反日義兵が中心になって独立戦争開始。
1910年8月 日本帝国、大韓帝国を日本領土とする。1910年9月 日本政府、朝鮮総督府設置。
1915年 日本、「南洋群島」を植民地とする。
1918年~22年 シベリア侵略戦争(日本・イギリス・アメリカ合州国・フランス・イタリア・カナダ)。
1919年3月~5月 朝鮮で、3・1独立運動。  5月~6月 中国で、5・4運動。
1919年3月22日 日本軍、イワノフカ村虐殺(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)。
1919年4月 イギリス軍、アムリットサル虐殺。
1930年10月~31年5月 台湾の日本軍と警察、烽起した霧社の民衆を殺戮。
1931年9月18日 日本関東軍、中国東北部侵略開始。  1932年3月1日「満洲国建国」。
1937年7月7日 日本、中国への全面的侵略開始。
1937年12月 日本軍、南京大虐殺。 日本海軍将兵、三灶島(三竈島)に侵入(民衆虐殺)。
1938年2月22日 陸軍特別志願兵令公布(「勅令」)。 2月26日の『朝鮮総督府官報』に掲載。
1938年2月~1943年8月 日本陸海軍航空部隊、重慶・成都・蘭州……爆撃。
1938年9月 台湾総督府、「海南島処理方針」作成。
1939年2月10日 日本陸海軍海南島に奇襲上陸。 2月~11月 日本海軍海南島で「Y一作
   戦」(地域住民虐殺)。
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「リオの奴隷墓地博物館に閉鎖の危機、ブラジル」

2017年05月23日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.afpbb.com/articles/-/3128928
http://www.afpbb.com/articles/-/3128928?pid=0&page=2
「AFPBB News」2017年5月20日 14:09 発信地:リオデジャネイロ/ブラジル
■リオの奴隷墓地博物館に閉鎖の危機、ブラジル

【写真】ブラジル・リオデジャネイロの新黒人記憶・研究博物館(2017年5月5日撮影)。
     (c)AFP/YASUYOSHI CHIBA

【5月20日 AFP】ブラジル・リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)に住むメルセド・ギマラエス(Merced Guimaraes)さん(60)の家で、改装中に床下から大量の人骨が見つかった。連続殺人鬼が残した証拠だろうか。警察に言えば、自分が犯人だと疑われるのではないか──恐れをなした大工たちは仕事を放棄して逃げてしまった。
 だが、さらに恐ろしいことが分かった。彼女の家はアフリカ人奴隷数千人の遺骨の上にあったのだ。そこは米大陸で発見された最大の奴隷墓地だった。その歴史に触れた1996年の偶然の出来事が、エネルギッシュで陽気なギマラエスさんの人生を変えた。
 彼女は小さな家族経営の会社を子どもたちに譲り、快適な家を建てる代わりに、その家を博物館に変える計画に乗り出した。「人道に対する罪の生きた証拠」をつくりたかったのだ。

 2005年についにそれが実現し「新黒人記憶・研究博物館(Instituto de Pesquisa e Memoria Pretos Novos)」が開館した。まだ掘り出されていない骨が詰まった大きな穴を中心にすえた同博物館には、昨年までに7万人が訪れた。来館者の数はさらに急速に増え続けている。
 だがその成功にもかかわらず、博物館は閉鎖寸前となっている。明らかな理由は資金不足だ。厳しい不況とリオデジャネイロ五輪開催の後遺症で政府からの補助金は削られ、電気代の支払いや掃除用具の購入もままならなくなった。
 だがギマラエスさんは、究極的には問題の根はもっと深く、ブラジル人は単に「国の恥」を直視したくないのだと言う。

■隠された歴史
 ブラジルは米大陸で最後まで奴隷制があった国で、1888年に廃止されるまでに米国の10倍、計500万人近い奴隷が送り込まれた。この奴隷の大量移入が、ブラジルにアフリカ外で最大の黒人人口と、豊かな音楽的・文化的遺産をもたらした。だがその負の側面が語られることはめったになく、ましてや犠牲者の尊厳のための取り組みはさらに少ない。
 リオの旧港地区はかつて奴隷売買の中心地だった。奴隷船が到着すると「新黒人」は検疫を受けさせられ、生存者は売られていった。しかしそれを思わせるものは消えてしまったか葬り去られ、専門家の間以外では歴史は失われてしまった。
 新黒人博物館を訪れる学校や学者は多いが、一般社会にはほとんど知られておらず、リオの観光地図上の小さな一点に過ぎない。施設を3階建てに拡張する大掛かり計画は幻のように見える。
 「ブラジル政府はこうした問題に関心はなく、持とうとしたこともない。今日の金融危機など問題ではない。こちらは昔からずっと続いている問題だ」と同博物館のアントニオ・カルロス・ロドリゲス(Antonio Carlos Rodrigues)事務局長は語った。ギマラエスさんは「人種差別だ」と言う。
 ブラジル政府の財政が破綻寸前となった今年、博物館への助成金は突然カットされた。残っている資金で運営できるのはせいぜい7月までだ。明らかな解決方法の一つは入館料を徴収することだが、そんなことは考えられない、「入館料をとって犯罪行為を見せるなんて、おかしい」。
 だが、博物館がどうなろうとも、ギマラエスさんが予期していなかった同居人たちを見捨てることは絶対にない。彼らはまるで「ゴミ」のように捨てられたのだ、とギマラエスさんは頬に伝わる涙をぬぐった。彼女にとって「彼らは子どもたち、この家の子どもたちです。私たちの家の」。
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文昌市昌洒鎮東坡村で

2017年05月22日 | 海南島史研究
 5月5日、文昌市文教鎮立新村を訪ねたあと、午後5時過ぎに昌洒鎮東坡村に向かいました。
 わたしたちは、2005年9月15日朝、海南島南部の三亜からバスを乗り継いで、文昌に行き、市販の海南島地図にない東坡村を探しました(旧日本軍の地図には、第15警備隊駐屯地の一つとして記載されていました)。
 ようやく東坡村にたどり着いた時には、午後おそくなっていました。
 この日、わたしたちは、黄循桂さん(1925年生)と黄循昌さん(1931年生)から、日本侵略期当時の話を聞かせていただきました。
 このとき黄循桂さんは、
   “日本軍は、わたしたちが住んでいる家を壊して望楼を建てた。望楼の高さは25メートル
   ほどだった。東坡村には100人以上の日本兵がいた。共産ゲリラだといって、日本軍は連
   行してきた人たちをたくさん殺した。殺害場所は、いま東坡小学校が建っているところだ”
と話し、望楼の図を書いてくれました(「日本が占領した時代に生きた人たちはいま」〈『パトローネ』64号〈写真の会パトローネ刊、2006年1月〉、および写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、写真の会パトローネ刊、2007年2月)54頁の「文昌市昌洒鎮 東坡村」をみてください)。

 5月5日午後6時前に11年8か月ぶりに東坡村の入口の門をくぐりました。これまで何度か再訪しようと思いながら機会をつくることができませんでした。黄循桂さんと黄循昌さんは亡くなられていました。黄循昌さんが亡くなったのは2014年だったとのことでした。そのことを教えてくれたのは黄良波さん(1933年生)でした。
 陽が沈みかける時間だったので、黄良波さんに翌日ゆっくり話しを聞かせていただく約束をして東坡村を離れました。

 5月6日朝8時前に海口市内を出発し9時半に東坡村の黄良波さんの家に着きました。
 黄良波さんは、つぎのように話しました。
   “日本軍が来たとき、7歳だった。
    日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
    子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
    先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の
   人、林道欽先生は台湾人だった。林道欽先生は93歳のときに亡くなった。
    日本軍がいなくなってから、島津先生は3回この村を訪ねて来た。最後に来たのは2008
   年だった。
    日本語学校で日本の歌を教えられた。「クニヲデテカライクツキゾ」、「トッタタズナガチ
   ガカヨウ」、「キミガガヨウハ」。
    日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
    むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつ
   くった。わたしの家も壊されたので近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
    日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
    村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのはのはよその村の人たちだった。日本軍はすこし
   離れた村の甲長に命令してその村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍
   だった。
    日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
    日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
    近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の200人以上の遺骨がてきたことが
   あった」。

 黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話しました。
   “兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
    慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。村
   の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
    わたしは近くの昌吉村からこの村に来たが、高松先生を知っている。優しい先生だった。
    わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん
   働いていた。

 黄良波さんと何金英さんに話しを聞かせてもらったあと、黄良波さんに、日本軍の兵営があった場所に案内してもらいました。
 村の中心部にある黄良波さんの家から30~40メートル離れたところが慰安所があった場所であり、そこから50~60メートル離れたところが日本軍の入り口の門の柱があった場所でした。そこは、2005年9月15日にわたしたちが訪ねたことがあるところでした。その風景は、11年8か月前と同じでした。
 門柱があったところの角を曲がって3軒目の家が黄循桂さんの家でした。空き家になっていました。その家の正面の樹が茂っている広い土地が、兵営と望楼があった場所でした。木々の間から文東中学校の校舎の一部が見えました。
 兵営と望楼があった場所から村の中心部に戻り、さらに7~800メートルほど行ったところが、日本語学校のあったところでした。建物の跡はまったなく草地になっていました。

 黄良波さんに別れ、文東中学校に行きました。
 守衛に、この学校の敷地に埋められていた遺骨ついてたずねました。近くの村に住んでいるという40歳代のその人は、
   “はっきりしたことはわからない。学校の塀をつくるときにたくさん遺骨がでてきた
   らしい。遺骨がどうなったかは知らない。
    子どものころ、むかし日本軍は鉄の籠に人を入れ、その中の人をこの付近で殺した、と
   聞いたことがある”、
と話してくれました。 校庭に、簡単な学校の歴史を書いた文字板がありました。
 そこには、この学校が1949年に開校したこと、開校当時の校舎の多くは旧日本軍の兵舎と望楼であったことなどは書かれていましたが、敷地内で日本軍に多くの人が殺害されたことも発見された遺骨のこともまったく書かれていませんでした。

 午後12時50分ころ文東中学校を離れ、錦山鎮発山村に向かいました。

                                  佐藤正人 

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文昌市抱羅鎮石馬村で

2017年05月21日 | 海南島史研究
 5月3日朝、海口を出発し、文昌市錦山鎮に入り、鑑山村の革命烈士紀念亭を訪ね、湖塘村で韓権畴さんに話を聞かせてもらい、上東山村で韓裕豊さんに話を聞かせてもらい、日本軍の民衆虐殺現場を案内してもらったあと、午後3時半過ぎに省道203号線を南に進み抱羅鎮に向かいました。 
 4時ころ、抱羅鎮の中心部に着き、謝春梅さんの家を訪ねました。前回謝春梅さんから話を聞かせてもらったのは、2014年10月29日でした(このブログの2014年10月29日の「10月29日 文昌市抱羅鎮石馬村で」をみてください)。
 謝春梅さんは、ベッドの上でした。昨年12月に部屋のなかで転んで腰の骨を折ったとのことでした。
 居合わせた石馬村の前村長の潘巍天さん、小学校教師の潘家球さんと石馬村に向かいました。
 牛がおおい草地や刈り入れ直前の黄色の水田のなかの道を進みながら、‘日本軍はこのような村を襲撃したのだ’と考えつつ、のどかな風景を眺めていました。
 石馬村の入り口には、前回訪ねた時にはなかった「出入平安 石馬村」と赤い文字で刻まれた大きな石碑が建てられていました。
 村に入り、潘家球さんの家で、犠牲者を追悼する碑のことなどについて話し合いました。
 潘家球さんは、「石馬村一九四二年正月十六日惨案死難村民同胞名単」をつくっていました。この名簿は、は、「〇〇一家6人」、「〇〇夫婦2人」という形式で書かれており、日本軍に殺害された村民ひとりひとりの名前が書かれていませんでした。
 潘巍天さんは、ひとりひとりの名の記録を数年前にはじめているので、潘家球さんのつくった「名単」と合わせてできるだけ正確でくわしい記録を今後つくることになりました。
 潘家球さんは、2015年6月25日付けで、「石馬村正月十六日惨案簡介」を書きあげていました。

 中共海南省委党史研究室編著『海南省抗戦時期人口傷亡和財産損失』(中共党史出版社、2011年刊)の12頁には、「1942年3月2日下午,日军“扫荡”文昌县抱锦乡石马村,杀死140余人,烧毁房屋380余间」と書かれていますが、同書の年表の「1942年」の部分にはこの記述はなく、「1943年」の部分に「2月19日,日军“扫荡”文昌县抱锦乡石马村,烧毁房屋100多间,杀死140多人」と書かれています。このいいかげんな記述は、2015年に発行された同書の改訂版でもそのままくりかえされています。
 中共海南省委党史研究室編『海南省重要革命遺址通覧』(「全国革命遺址普査成果叢書」第22巻。海南出版社、2014年刊)にも、「石马惨案」が1943年のことであったと書かれています(473頁)。
 2016年1月にだされた陈贻鴻讲述・陈如徳整理「侵琼日军最后的疯狂暴行:忆述文昌秀田村惨案」(『海南文史第26辑 琼崖抗日・海南解放』〈海南出版社〉)でも、「1943年正月元宵、日军侵犯抱锦乡石马村……」と誤述されています(94頁)。
 石馬村で日本軍が虐殺を始めたのは農歴1942年1月16日(普通歴3月2日)早朝でした。
   
                                   佐藤正人  
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文昌市錦山鎮東山村で

2017年05月20日 | 海南島史研究
 5月3日12時半過ぎに韓権畴さんと雲秀花さんに別れ、いったん湖山の市街地に戻って昼食をとったあと、1時半に、399人が殺されたという東山村に向かいました。
 東山村は湖塘村の東隣にあり、上東山村と下東山村に分かれていました。
 2時半から上東山村の自宅前広場の木陰で韓裕豊さん(1926年3月生)に1時間ほど話を聞かせてもらうことができました。
 韓裕豊さんは89歳でしたが、しっかりした口調で、つぎのように話してくれました。  

 “近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
  望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこには市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
  慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人が多かった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
 慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前の人だと聞いた。
 慰安所はもとは民家をだった。新しくつくった家ではなかった。
 偽軍の建物はもとは商店だった。偽軍の軍人は近くの人が多かった。何人くらいだったか、はっきり覚えていないが多くはなかった。10人ほどだったか。
 そのなかに高秀という人がいた。もとは国民党軍の兵士だった。偽軍に入ったあとも高秀は村人を助けた。偽軍が日本軍といっしょに村を襲うとき、高秀は早めに発砲して、村人に日本軍が近づいたことを知らせた。
 日本軍は町のほうで殺した人のための儀式をしたことがある。場所は町の方だ。日本軍が敗ける前だった。
 そのときわたしはその儀式に行かなかった。儀式のとき白い鳥がたくさん空を渦をつくって長い間飛んでいたという話はなんども聞いたことがある。
 日本軍は、東山村の近くで、たくさん人を殺した。何回も何回も殺した。日本軍は殺す前に穴を掘った。殺す前に捕まえた人をその穴の前に連れてきて首を切った。殺したあと頭と身体をそこに埋めた。埋め方が浅かったので、犬などが死体を食べていた。怖かった。
 偽軍を掘ったのは偽軍の兵士だったのではないかと思うが、はっきり覚えていない。
 日本軍が人を殺す現場は見たことがないが、その穴はみた。穴はいくつもあり、大きい穴も小さな穴もあった。
 殺された人はこの村の人ではないから、遺族は殺された人が埋められている場所を知ることができない。
 だから、遺体はそのままだ。
 東山村の韓慶豊が日本軍に近くの花園村で捕まったが、いったんは逃げることができた。だが、また捕まって銃殺された。花園村では共産党軍が活動していた。韓慶豊の遺体がどこにあるか、わたしは知らない”。

 話しを聞かせてもらった後、韓裕豊さんは、半年ほど前に交通事故で腿の骨を折って1か月ほど歩けなかったが、もうかなり歩けるようになったといって、虐殺現場に案内してくれました。
 そこは、東山村から1キロあまり離れた広野でした。湖山水庫(大きな貯水池)の南で、大きな魚の養殖場がたくさんつくられていました。
 
   “以前は、ここには何もなかった。日本軍の兵舎はここから遠くなかった。
    近道をいくと、歩いて15分ほどだ。
    最近、魚の養殖場がつくられるとき、ここにまだ遺骨が埋まられていたと思うが、その
   遺骨がどうなったかは知らない”。
と韓裕豊さんは、湖山守備隊の日本軍が人を埋めた場所の方を指さしながら話しました。 

 3時半ころ韓裕豊さんと家の前で別れ、石馬村に向かいました。

                                         佐藤正人
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「韓国で復権する対日協力「学兵世代」」

2017年05月19日 | 韓国で
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/05/05/2017050500688.html
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/05/05/2017050500688_2.html 「朝鮮日報日本語版」記事入力 : 2017/05/07 06:08
■【コラム】韓国で復権する対日協力「学兵世代」
 「なぜ日本の走狗のようなことをする学兵を拒否せず、戦場に行ったのか」「カイロ宣言が出たのは1943年末ごろだった。いかに強い圧力を受けたからといって、日本軍への参加を志願できるのか」

 「学兵」出身の作家・李炳注(イ・ビョンジュ)=1920-92=は、こういう追及を受けて実に無念だったらしい。学兵に行かなければ徴用されかねず、カイロ宣言は知らなかったと答えても、受け入れられなかった。「あなたがたの世代が社会で主導権を握っているかぎり、日帝隷属は終わらない」と言い切る者までいた。李炳注は「われわれの世代は、後進に最も信用されない世代だということを知るべきだ」と残念がった。

 「学兵世代」とは、植民地時代末期に大学や専門学校へ通い、学兵として日本軍に「志願」入隊した世代のことを指す。年齢層でいえば、1917年から23年までの間に生まれた世代で、生きていれば既に90歳を超えている。43年10月、「半島人学徒特別志願兵制」が公布され、翌年1月から合計4385人が入隊した。当時入隊した張俊河(チャン・ジュンハ)や金俊燁(キム・ジュンヨプ)は、日本の敗戦前後に脱走し、光復軍に合流した。しかし大多数の学兵出身者は、最近まで「日本に協力した反逆加担者」として追われ、非難されてきた。特に60年代後半以降、4・19革命(1960年4月19日。不正選挙に端を発したデモにより、当時の李承晩〈イ・スンマン〉大統領が下野した事件)を起こした世代が知識社会で台頭し、文化面で権力を握るようになると、日本のエリート教育を受けた「学兵世代」を残酷に追い立てた。解放後に正規教育を受けた4・19世代は、自らを日本軍国主義に汚染されなかった最初の世代と自負し、先輩に当たる「学兵世代」を打倒の対象にした。

 そんな「学兵世代」の復権が静かに進んでいる。国文学者の金允植(キム・ユンシク)ソウル大学名誉教授は、割と早くから学兵世代の文に注目して研究書を出し、安京煥(アン・ギョンファン)ソウル大学名誉教授は、数年前に学兵出身の黄竜珠(ファン・ヨンジュ)元MBC社長の評伝を書いた。最近ではキム・ゴンウ大田大学教授が、こんにちの韓国を設計して作り上げた主役として「学兵世代」を取り上げた著書『大韓民国の設計者たち』を出版した。政治やメディア、教育、宗教、学術など韓国の枠組みを磨き上げたのが「学兵世代」だというのだ。学兵出身の金寿煥(キム・スファン)枢機卿や張俊河・金俊燁、作家の金声翰(キム・ソンハン)・韓雲史(ハン・ウンサ)、そして彼らと同年代で体験を共有した歴史学者の李基白(イ・キベク)、詩人の趙芝薫(チョ・ジフン)・金洙暎(キム・スヨン)、ジャーナリストの鮮于輝(ソンウ・ヒ)などの汎学兵世代にも併せて注目した。「現代史の孤児」(安京煥)から「親日の反逆加担者」に至るまで、追い立てられてきた「学兵世代」の劇的な逆転だ。

 1950年代半ば以降、知識人のアジトと呼ばれてきた雑誌『思想界』は、張俊河・金俊燁をはじめ学兵世代が主導してきた雑誌だ。キム・ゴンウ教授は、李承晩(イ・スンマン)・朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の独裁を批判した『思想界』グループの共通基盤は「国家と民族の近代化」だったと分析した。『思想界』の全盛期だった4・19前後に主幹を務めた金俊燁は、『思想界』運動について「雑誌のためではなく、近代化運動をやったと考えている」と語った。民主化も、政治的な近代化として理解したという。韓国現代史の主役を産業化勢力と民主化勢力に分けて考える慣行から抜け出し、近代化を共に夢見て実践した、イデオロギー的な同志関係としてとらえているわけだ。

 学兵世代の復権は、紆余曲折の多かった現代史を理解しようとする努力が一歩進んだことを示している。そして、夢を実現するため共に努力した記憶の資産を、どのように培っていくべきか-ということを宿題として投げかけた。

   文化部=金基哲(キム・ギチョル)部長
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民衆の世界史概要 6、個人・社会・国家

2017年05月18日 | 個人史・地域史・世界史
■社会
  世間、浮き世、Society、Société、Sociedad、Community、Gesellschaft。
  Society、Société、Sociedadの語源:ラテン語 societas humana(人間の関係)。

  原始社会。封建社会。近代社会。現代社会。市民社会。未来社会。

■共同体・コミューン・公社(人民公社)
  パリ・コミューン( Commune de Paris): 1871年3月26日に「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言(~5月20日)。
  マルセイユ・コミューン(1870年9月5日宣言)、リヨン・コミューン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ・コミューン(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ・コミューン、ナルボンヌ・コミューン(1871年3月30日宣言)、グルノーブル・コミューン、リモージュ・コミューン。

■個人、ひと

■社会主義(socialism)

■社会帝国主義(Social-imperialism)

■民族・人種
  
■ナショナリズム。民族主義。国家主義。国民主義。国粋主義。

■国家
 主権国家。
 民族国家。
 国民国家:植民地なしには国民国家はない。国民国家=帝国主義国家

■社会史・国家史・政治史・経済史・文化史・民族史

■国際連盟・国際連合
  国際連盟:国民国家群(植民地支配国家群)の連盟。加盟国:合計63か国。
  1920年1月10日(ヴェルサイユ条約発効日):発足。 1946年4月20日:解散。
  最初の加盟国:42カ国。常任理事国:イギリス・フランス・大日本帝国・イタリア王国。
  1926年:ドイツ、1934年:ソビエト社会主義共和国連邦、加盟と同時に常任理事国に。
  1933年:大日本帝国、ドイツ脱退。1937年:日独防共協定に加入したイタリア王国脱退。
  1939年:ソビエト連邦、フィンランドに侵攻し除名。
  アメリカ合州国不加盟。
  委任統治領:フランス委任統治領シリア、イギリス委任統治領メソポタミア(→1932年10月3日、イラク王国)、イギリス委任統治領パレスチナ、フランス委任統治領レバノン、イギリス委任統治領パレスチナ、イギリス委任統治領トランスヨルダン、イギリス委任統治領トーゴランド、フランス委任統治領トーゴランド、イギリス委任統治領カメルーン、フランス委任統治領カメルーン、イギリス委任統治領タンガニーカ、ベルギー委任統治領ルアンダ=ウルンディ、南アフリカ委任統治領南西アフリカ、オーストラリア委任統治領ニューギニア、イギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領ナウル、ニュージーランド委任統治領西サモア、日本委任統治領南洋群島(マリアナ諸島〈グアム島を除く〉、カロリン諸島、マーシャル諸島)→アメリカ合州国信託統治領太平洋諸島。
  常任理事国希望国:中華民国、ブラジル、スペイン共和国、トルコ、ベルギー、ポーランド。
  加盟国:アイルランド自由国、アビシニア(エチオピア帝国。1936~1941年:イタリア領東アフリカ)、アフガニスタン王国、アルゼンチン、アルバニア公国、イギリス、イタリア王国、イラク王国、インド帝国(イギリス領インド帝国)、ウルグアイ、エクアドル、エジプト王国、エストニア、エルサルバドル、オーストラリア連邦、オーストリア共和国、オランダ、カナダ、キューバ、ギリシャ王国、グアテマラ、コスタリカ、コロンビア、 シャム王国、スイス、スウェーデン、スペイン王国、ユーゴスラビア王国(セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国)、ソビエト社会主義共和国連邦、大日本帝国、チェコスロバキア、中華民国、チリ、デンマーク、ドイツ国、ドミニカ共和国、トルコ、ニカラグア、ニージーランド、ノルウェー、ハイチ、パナマ、パラグアイ、ハンガリー王国、フィンランド、ブラジル、フランス共和国(1940年ヴィシー政府脱退)、ブルガリア王国、ベネズエラ、ペルー、ベルギー、ペルシア帝国(1935年に国名を正式にペルシアからイランに変更)、ポーランド、ボリビア、ポルトガル、ホンジュラス、南アフリカ連邦、メキシコ、ラトビア、リトアニア、リベリア、ルーマニア王国、ルクセンブルク。

  国際連合(United Nations。国民国家の形式の「世界化)。
      フランス語:Organisation des Nations unies。「ONU」。
      スペイン語:Organización de las Naciones Unidas。
      イタリア語:Organizzazione delle Nazioni Unite。
  1945年10月24日発足。51か国。
  信託統治地域:西カメルーン、東カメルーン、ソマリランド、タンガニーカ、西トーゴラン  
        ド、東トーゴランド、ルアンダ=ウルンディ、ナウル、ニューギニア、西サモ  
        ア、太平洋諸島。
  2016年9月現在:193か国。南スーダン2011年7月14日加盟。
  公用語:イングランド語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語。アラビア語(1973年
 の第30回総会から)。
  主要機関:総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局。
  安全保障理事会( United Nations Security Council)。15か国で形成。   
  常任理事国(Permanent member):アメリカ合州国、イギリス、フランス、 ロシア、中華人
 民共和国。
  非常任理事国(non-Permanent members):10か国。
  非加盟国 (Non-member states):国際連合総会に参加。
     バチカン市国、ローマ教皇庁:2004年7月1日、常任オブザーバーとして投票権を
    除く全ての権利を認められた。
     パレスチナ国(パレスチナ自治政府):2012年11月29日。
  国際連合総会オブザーバー(United Nations General Assembly observers):
    関連する議題で活動をしているNGO。国際連合総会で投票権を持たない。
  イギリス領インド帝国(→インド共和国、1947年8月15日独立)加盟:1945年10月30日。
  パキスタン(1947年8月14日独立)加盟:1947年9月30日。
  「イスラエル」加盟:1949年5月11日。
  日本加盟:1956年12月18日。
  中華人民共和国加盟(中華民国脱退):1971年10月25日。
  バングラデシュ(1971年3月26日独立宣言、12月16日独立承認):1974年9月17日。
  大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・ミクロネシア連邦・マーシャル諸島・エストニア・
 ラトビア・リトアニア加盟:1991年9月17日。
  東チモール加盟(2002年5月20日独立):2002年9月27日。
  モンテネグロ加盟:2006年6月28日。
  国連軍:2014年1月現在、国連軍後方司令部構成国(8か国)、アメリカ合州国、英国、
     フランス、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、韓国、トルコ。
      在日米軍基地のうちの国連軍施設(7カ所:キャンプ座間、横須賀海軍施設、佐世
     保海軍施設、横田飛行場、嘉手納飛行場、普天間飛行場、ホワイト・ビーチ地区。
  朝鮮戦争:国連軍・大韓民国軍・(旧日本軍)・在日学徒義勇軍と朝鮮民主主義人民共和国
 軍・中華人民共和国軍」(抗美援朝義勇軍)・(ソ連軍)との戦争。
  朝鮮戦争に参戦した国連軍国家(22カ国):
    大韓民国。
    国連軍戦闘支援国(16カ国):アメリカ合州国、イギリス、フランス共和国、オランダ
   王国、ベルギー王国、カナダ、トルコ共和国、エチオピア帝国、タイ王国、フィリピン共
   和国、コロンビア共和国、ギリシャ王国、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリ
   カ共和国、ルクセンブルク大公国。
     国連軍医療支援国(5カ国):ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、インド、イタリア。

■多国籍軍(Coalition forces, Multinational force)

■パレスティナ。壁
 1948年5月15日:シオニストによるパレスティナ占領の日。ナクバ(災厄)の日
 1948年:
    ビルマ、イギリスから独立(1月)。
    マラヤ連邦、イギリスの植民地の集合体として結成(2月1日。1957年8月、イギリ
        ス連邦のひとつとして独立。1963年マレーシア連邦成立)。
    セイロン(→スリランカ)、イギリス連邦内の自治領として独立(2月)。
    朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言(2月)。
    デイル・ヤシーン虐殺(4月9日)。
    「イスラエル」建国(5月)。
    大韓民国建国(8月)。
    朝鮮民主主義共和国建国(9月)

■日本社会・日本国
  日本社会の歴史。日本国家の歴史
  建国記念の日:2月11日。1966年制定。

■生産様式。社会体制
  共産主義社会。資本主義社会。社会主義社会。

■ロシア国、アメリカ合州国
  ロシア:ロシア帝国を継承している現在のロシア国(1859年にロシア帝国、チェチェン……植
     民地化〈コーカサス戦争〉。1783年にロシア帝国、クリミア半島領土化。1853~56年に
     クリミア戦争。2014年にロシア、クリミア半島再領土化)。  
    1867年4月9日:ロシア帝国、アメリカ合州国にアラスカ(「ロシア領アメリカ。Russkaya
           Amerika」)販売。
  アメリカ合州国:1846~48年、メキシコ侵略戦争(U.S. American Invasion of Mexico)。
    1861~1865年、「南北戦争」。
    1864年11月29日、サンドクリークの大虐殺(Sand Creek Massacre)。
    1868年11月27日、ウォシタの大虐殺(Washita Massacre)。
    1890年12月29日:ウンデットニーの大虐殺(Wounded Knee Massacre)。
    1899年2月~1902年~1913年、フィリピン・アメリカ合州国戦争。
    1959年1月3日:アラスカ、アメリカ合州国の49番目の州に。

■ソロモン諸島(Solomon Islands)
  1568年:アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ(スペイン人)、ガダルカナル島に
 上陸。砂金発見。古代イスラエルのソロモン王の財宝と考え「ソロモン諸島」と命名。
  1893年:南部、イギリスの植民地に。
  1900年:北部、ドイツ領→イギリス領。
  1942年6月:ガダルカナル島、日本軍占領。
  1943年2月:日本軍、ガダルカナル島から撤退。
     ガダルカナル島(「餓島」)に上陸した日本兵3万人以上、死者・行方不明者2万人以上。
  1978年7月:独立。1978年9月19日:国際連盟加盟。
  国家元首、エリザベス2世。公用語:イングランド語。
  島嶼国家(100余の島。マライタ島:アレアレ族)。首都ホニアラ(ガダルカナル島)。
  主な通貨:ソロモン諸島ドル。

■マーシャル諸島共和国( Aolepān Aorōkin M̧ajeļ。 Republic of the Marshall Islands)
  1986年10月21日:アメリカ合州国との自由連合盟約国として独立。
  1990年:信託統治終了。
  1991年9月17日:国際連合に加盟。自由連合盟約に抵触しない範囲で外交権を行使。
  2008年:国際オリンピック委員会に加盟。北京オリンピック出場。

■ミクロネシア連邦(Federated States of Micronesia)
  1986年11月3日:アメリカ合州国との自由連合盟約国として独立。
  1990年12月:国際連合安全保障理事会、正式に信託統治の終了を宣言。
  1991年9月17日:国際連合に加盟。

■北マリアナ諸島自治連邦区(チャモロ語: Sankattan Siha Na Islas Mariånas, Commonwealth of the Northern Mariana Islands)
  1978年1月1日:アメリカ合州国の自治領に。
  1986年11月3日:信託統治終了。

■パラオ共和国(パラオ語:Beluu ęr a Belau。 Republic of Palau)
  1994年10月1日:アメリカ合州国との自由連合盟約国として独立。信託統治終了。
  1994年:国際連合に加盟。
 
                                          佐藤正人
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文昌市錦山鎮湖塘村で

2017年05月17日 | 海南島史研究
 5月3日朝10時すこし前に鑑山村の「革命烈士紀念亭」の前からパイナップルの畑の中の細い道を東に向かいました。まもなく省道203号線にでて広い道を3キロほど南に進むと湖山の市街地(文昌市錦山鎮湖山墟社)に着きました(5月3日については、このブログの2010年5月3日の「1947年5月3日」をみてください)。
 そこで出会った人に日本軍の望楼があったという近くの村に案内してもらうことができました。そこは、湖塘村でした。
 湖塘村で、10時40分ころから約2時間、韓権畴さん(1930年生)に、自宅の前の番石榴の樹の木陰で、話を聞かせてもらいました。韓権畴さんは、力強い声でつぎのように証言しました。

 “いまの湖塘村は、むかしの湖塘村から少し離れている。日本軍がいなくなってから湖山のダムが広げられ、村の一部が水没しそうになったので、移ったのだ。
  むかしの湖塘村にきた日本軍は、望楼をつくった。最初に来た日本軍の指揮官はヤマモト、つぎに来たのはスズキだった。兵隊の数ははっきり覚えていないがあまり多くはなかった。台湾人が多かった。
  兵隊が泊まったところは小学校だった。偽軍はその近くに住んでいた。監獄もその近くにあった。
  偽軍は10人あまりいた。湖塘村の人が一人いた。偽軍は、日本軍を守り日本軍の道案内などをしていた。
  日本軍は学校を新しくつくった。わたしはその日本語学校に3年ほど通った。「アカサタナ、ハマヤラワ、イモウト、オトウト、ニイサン、ネエサン、オカアサン、オジイサン」、「ヒトツ、フタツ」、「イチ、ニ、サン……」、「カッテクルゾトイサマシク……」、「トシノハジメノ……」、「ピイピイトサエズルヒバリ……」。学校に行くのはいやではなかった。
 日本語を教えたのは、はじめは台湾人だった。この先生は日本軍の通訳もしていた。その次は日本人だった。日本人の先生は「アカタノ先生」。はっきり覚えていない。その次に来た先生は朝鮮人だった。大人があの人は朝鮮人だと言っていた。
 学校の生徒は、最初は40人ほどだったがしだいにふえてきた。最初は湖塘村の子どもだけだったが、近くの村の子どもも通うようになった。生徒が多くなったので、よその村の子どもは午前中、湖塘村の子どもは午後に通うようになった。女の子どももいた。日本軍は親のところに行って子どもを学校に通わせるように命令した。
 日本軍が来るまえに湖塘村には国民党の学校があった。その学校には旗はたてられていなかった。
 日本語学校の入り口には海軍陸戦隊の旗がたてられていた”。

 このとき、韓権畴さんは、日本の旗と言わず、はっきりと海軍陸戦隊の旗と海南語で言いました。「海軍陸戦隊」というコトバを韓権畴さんは知っていました。「ヒノマル」ではなかったかと訊ねると、赤い丸から何本も線がでている旗だと言いました。
 続いて韓権畴さんは、わたしたちの質問にこたえつつ、次のように話しました。

 “もとの湖塘村には、いまは簡単には近づけない。日本軍の望楼のあった場所の近くに、偽軍の建物、治安維持会の建物、慰安所の建物があったが、いまは無くなっている。
 湖の際の道路の山側に日本軍の兵営、その右に偽軍の建物、その右に治安維持会の建物、その右に日本語学校、その右に警察所、その右に慰安所があった。湖の際の道路の湖側には、店がならんでいた。
 望楼は日本軍の兵営からすこし離れた高台につくられていた。黒い石でつくられていた。日本軍がいなくなったあと国民党の軍隊が使った。
 その場所は水没してはいないが、そこに行く道には灌木が茂っている。わたしの生まれ育った家もその近くだ。少し高いところなので、水没しないで残っているが、いまは人は住めない。
  湖塘村の近くで、日本軍は捕まえてきた人を首を切って殺した。399人殺した。
  首を切った日本兵は有名だった。殺人するまえに酒をのんでいるのを見たことがある。日本語学校のまつりの時、「キミガヨ」が歌われたが、そのときその日本兵もきていた。殺人班長といわれていた。名前は知らない。殺人班長だけが殺人したのではない。
  子どものとき日本兵と話しをしたことがある。「オハヨウゴザイマス」、「コンニチハ」、「コンバンハ」。日本軍の兵舎の前を通るときおじぎしないと殴られた。
  日本軍は、殺した人とその人たちの村の名前を記録していた。
  日本軍が敗けていなくなる前、日本軍は殺した人を弔う儀式を湖塘村の市場の近くの寺でおこなった。
  その儀式には村の人がたくさん来ていた。日本軍が敗けた年の5月か6月か7月ころだった。はっきり覚えていないが、日本軍が敗ける前だ。
  儀式のとき、僧侶が、399人の名前とその人たちの村の名前を全部ひとりづつ読みあげた。
  読んだのは海南島人の僧侶だったが、名簿をつくったのは日本軍だ。
  その名簿がいまどこにあるかは知らない。399人ということははっきり覚えている。
  その儀式のとき、大空を白い鳥がたくさん飛んできて、渦をつくってなんどもぐるぐる回った。その中心に1羽の黒い鳥がいた。白い鳥が黒い鳥を中心にして、黒い鳥のまわりをしばらくの間回って飛んでいた。儀式を見ていた人は、みんな空を見上げていた。わたしも見ていた。鳥の名はわからない。
  日本軍は399人を一度に殺したのではない。場所はこの近くの東山だ。日本軍は何度もなんども東山に人を連れて来て殺した。
  399人のなかに湖塘村の人はいなかった。
  父の仕事は農業だった。父も母も日本軍の仕事をさせられたことがある。大きな樹を切る仕事だった。わたしもしたことがある。日本軍はカネをくれなかった。
  日本軍が来る前の生活はまあまあだった。日本軍が来てからは、日本軍、国民党軍、共産党軍にコメやカネを渡さなければならなくなった。
  日本軍がいなくなってからは、すこしほっとしたが、国民党軍と共産党軍にコメやカネを渡さなければならなかった」。

 長い間そばで話をきいていた連れ合いの雲秀花さん(85歳、旧坡村の人)が、番石榴の実をもいでくれました。鶏が何羽も走り回っていました。
 韓権畴さんが子どものとき見たという白い鳥は白鷺で、黒い鳥は岩鷺(黒鷺)あるいは黑鳽だったかも知れません。http://hnrb.hinews.cn/html/2017-05/08/content_13_1.htm 
 
                                        佐藤正人
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「学校周辺で旧日本軍が残した砲弾見つかる 黒竜江」

2017年05月16日 | 国民国家日本の侵略犯...
http://j.people.com.cn/n3/2017/0515/c94475-9215809.html
「人民網日本語版」2017年5月15日15:39
■学校周辺で旧日本軍が残した砲弾見つかる 黒竜江
 黒竜江省黒河市の関連部門は、同市にある学校の校門前の緑地帯からこのほど、長さ0.5メートルの雷管が付いた砲弾が掘り出されたことを明らかにした。これは、中国侵略日本軍が残した砲弾で、爆発の危険性があったという。新華社が伝えた。
 黒河市大黒河島国境警備派出所はこのほど、同市第四中学・高校の周囲にある緑地帯から砲弾が1個掘り出されたとの通報を受け取った。警察官が駆けつけ、まず人々を安全な場所に避難させてから警戒線を張り、黒河市協力区公安支局治安大隊特殊業務中隊に連絡を取った。
 大黒河島国境警備派出所の邢凱警察官は、「掘り出された砲弾は、長さ約40センチメートル、直径15センチメートル、重さ約12.5グラムで、中国侵略日本軍が残したもののようだった。砲弾には雷管が完全に残っており、爆発する危険があった。派出所はこの砲弾を協力区公安支局治安大隊に移し、その後集中処理が行われた」と説明した。
 歴史的経緯から、黒河市内では、中国侵略日本軍が残した砲弾がこれまでに何度も見つかっている。警察は、「不審な爆発物を発見した場合は、決して近づかず、ただちに警察に通報すること」と呼びかけている。
     (編集KM)


http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170515/k10010982911000.html
「NHK」2017年5月15日23時07分
■愛知県の海岸に砲弾 旧日本軍の化学弾か
 14日、愛知県田原市の海岸で、旧日本軍の化学弾と見られる砲弾が見つかりました。周囲への化学物質の漏えいはないということで、環境省が今後、砲弾の処理を行うことにしています。
 環境省によりますと、14日、愛知県田原市の海岸で「砂浜に砲弾のようなものがある」という通報が警察に寄せられました。
 陸上自衛隊と環境省が分析したところ、砲弾は長さおよそ50センチ、直径およそ10センチ、重さ13.7キログラムで、形状やさびなどの劣化の状況から旧日本軍の化学弾と見られるということです。
 環境省は、砲弾の特徴からおう吐や呼吸困難を引き起こす有毒な化学物質が入っているおそれがあるとして現場周辺を調べましたが、周囲への漏えいはなく、爆発のおそれもないため、交通規制は行ってないということです。
 環境省によりますと、砲弾が見つかった海岸付近にはかつて旧日本軍の射撃場があり、8年前にも旧日本軍のものと見られる不発弾が見つかったということです。
 環境省は砲弾を別の場所に移し、化学物質の漏えいがないよう密閉して保管していて、今後、砲弾の処理を行うことにしています。


http://www.asahi.com/articles/ASK5H74PBK5HULBJ00T.html
「朝日新聞デジタル」2017年5月15日22時51分
■愛知の海岸に砲弾 旧日本軍の毒ガス弾の可能性
 環境省は15日、愛知県田原市の海岸で、毒ガス弾の可能性がある砲弾1個(長さ約50センチ、直径約10センチ)が見つかったと発表した。爆発の危険性や漏洩(ろうえい)の恐れはないとみられるという。
 同省によると、14日に警察に匿名で「砂浜に変なものがある」との通報があり発覚。陸上自衛隊の不発弾処理隊が確認した結果、旧日本軍の毒ガス弾の可能性があると判断した。環境省は密封して保管している。旧日本軍の毒ガス弾は、2003年に閣議決定された対応方針に基づき、環境省が処分することになっている。


http://www.asahi.com/articles/ASJCS72ZHJCSULBJ016.html?iref=pc_rellink
「朝日新聞デジタル」2016年11月24日22時27分
■旧日本軍の毒ガス弾か 千葉市で発見 環境省が密封保管
 環境省は24日、千葉市内で旧日本軍の毒ガス弾の可能性がある砲弾が見つかったと発表した。地権者が22日、工事中に長さ約40センチ、直径約10センチの砲弾を見つけた。陸上自衛隊が形状から毒ガス弾の可能性が否定できないと判断し、環境省が砲弾を密封して保管している。爆発の危険性はなく、化学物質はもれていないという。
 環境省は詳しい発見場所などについて「保安上の理由で答えられない」としている。


http://jp.xinhuanet.com/2016-04/06/c_135251896.htm
「新華網」 発表時間 2016-04-06 13:39:47
■黒竜江の中ロ国境地区で旧日本軍の砲弾1発発見
 新華網北京4月6日 黒竜江省国境警備部門は先ごろ、同省饒河県内で直径約7・5センチ、長さ約20センチの砲弾1発が発見されたと発表した。発見時はまだ爆発の可能性があったという。詳細な鑑定を経て、地元の関係官庁は中国侵略日本軍が遺棄したものと確認した。砲弾はすでに適切に処理された。
     (新華社より) 


http://wwwa.cao.go.jp/acw/jigyobetsu/jigyobetsu_kaisyu33.html
「内閣府遺棄化学兵器処理担当室」
■第33回:黒龍江省ハルビン市発掘・回収事業(2011年10月) 原文「元号」使用
概要:2010年2月に、中国側より砲弾等発見との通報があったため、2010年7月に(砲弾等が発見された)黒竜江省ハルビン市へ外務省調査団を派遣。調査団による砲弾等鑑定の結果、旧日本軍の化学兵器が19発確認された。
 2011年10月内閣府により、砲弾等が発見された現場において発掘・回収作業を実施した。 
実施期間:2011年10月13日~10月30日


http://wwwa.cao.go.jp/acw/jigyobetsu/jigyobetsu_kaisyu32.html
「内閣府遺棄化学兵器処理担当室」
■第32回:黒龍江省伊春市発掘・回収事業(2011年9月) 原文「元号」使用
概要:2011年5月に黒竜江省伊春市において発見された砲弾等について、2011年6月に中国側から正式に通報されたことを受け、同年同月、外務省調査団を現地に派遣。調査の結果、旧日本軍の化学兵器が4発確認された。
 砲弾等が発見された地点には、更に、旧日本軍の化学兵器である可能性がある砲弾等が混在していることが判明したため、同年8月より内閣府による発掘・回収作業を実施した。
実施期間:2011年8月22日~9月21日


http://www.china-embassy.or.jp/jpn/jbwzlm/xwdt/t267369.htm
「中華人民共和国駐日本国大使館」2006/08/14
■黒竜江省の中学校から砲弾206発 70%は旧日本軍が遺棄
 先月中旬、黒竜江省黒河市愛輝区西崗子鎮の西崗子中学校の校庭拡張工事中に見つかった砲弾が今月12日昼から13日午後にかけて掘り出され、処理された。掘り出された砲弾は206発に上った。同市安全生産監督管理局が明らかにした。
 専門家によると、これら砲弾の70―80%は中国侵略日本軍が遺棄したものという。西崗子鎮一帯は当時、日本軍の集結地だった。
 砲弾の掘り出し、処理作業は基本的に終わり、校庭の拡張工事も来月前までに終了する予定で、新学期の授業に影響はないとしている。
    (黒河8月13日発新華社)


http://www.china-news.co.jp/node/5230
「中国通信」2006年7月4日
■工事現場から旧日本軍の砲弾2発発掘、中国黒竜江省チチハル市
(中国通信=東京)ハルビン4日発新華社電よると、中国黒竜江省チチハル市の工事現場で先ごろ、旧日本軍が遺棄した錆びた砲弾2発が掘り出された。砲弾はただちに廃棄処理され、死傷者は出なかった。チチハル市警察が明らかにした。
 それによると、砲弾は市内の工事現場で先月28日午前11時20分、ブルドーザーで突然掘り出された。当初、作業員は砲弾の薬莢と思っていたが、その後、薬莢でないことがわかり、直ぐに警察に通報した。11時30分、警察官が現場に駆けつけ、砲弾を手際よく運び去り、指定された場所で廃棄処理を行った。鑑定の結果、この2発の砲弾は日本軍が中国を侵略した期間に遺棄したものであることが判明した。
 チチハル市では2003年8月4日に日本軍が遺棄した化学兵器の毒ガスが漏れ出て、多数の死傷者が出る事故が起きている。同市はかつて日本の関東軍が14年もの長きにわたって占領し、日本軍の化学兵器部隊である516部隊と526部隊が拠点としていた。
 敗戦後、日本軍は大量の化学兵器を埋めて隠した。近年、チチハル市では工事現場で次々と砲弾が発見されており、市民の仕事や生活を脅かしている。


http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2009-06/16/content_17959703.htm
「人民網日本語版」2009年6月16日
■牡丹江で旧日本軍の遺棄した砲弾95発を発掘
 黒竜江省牡丹江市では15日、旧日本軍が遺棄した武器の発掘作業が開始され、牡丹江市公安機関が関連部門を共に、確認済みの市内2カ所の旧日本軍の遺棄した武器の埋蔵地点を発掘した。
 牡丹江市西十一条路陶磁大市場構内からは同日95発の砲弾が発掘された。
 専門家の鑑定によると、いずれも旧日本軍の遺棄した武器だという。
 現在発掘された遺棄された武器は関連部門によって保管されている。
【写真】発掘された旧日本軍の遺棄された砲弾を検める作業員
【写真】旧日本軍が遺棄した化学弾と見られる砲弾を調べる専門家
【写真】大型機械で掘り、遺棄された武器を発掘する作業員
【写真】掘り出された砲弾を注意深く運ぶ作業員
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文昌市錦山鎮鑑山村で

2017年05月15日 | 海南島史研究
 5月3日朝、海口市内から文昌市錦山鎮湖山墟社區に向かいました。湖山は、日本侵略期に日本海軍海南警備府第15警備隊(呉鎮守府特別陸戦隊)の守備隊が駐屯していたところです。
 昨年11月8日に、近くの錦山鎮玉堂村で王会賢さん(1932年生)に話を聞かせてもらいました。そのとき、王会賢さんは、「王忠は……この地域の共産党の郷長をしていた。王忠は……村の漢奸に通報されて村のすぐ近くで日本軍に銃殺された。日本軍は王忠の首をきって湖山の日本軍基地を囲んでいた鉄条網に吊るした」と証言しました(このブログの2016年11月21日の「文昌市玉堂村で」をみてください)。
 そのときは、わたしたちは湖山に行くことができなかったので、こんど行くことにしました。
 省道212号線を北東に進むとまもなく玉堂村に着きます。そこから212号線を外れて右の細い道に入って湖山に向かいました。
 しかし、その道は悪路で分かれ道がいくつもあり、湖山への道がはっきりしません。迂回しているうちに、たまたま鑑山村に入りました。
 鑑山村のはずれに大きな「革命烈士紀念亭」が建てられていました。
 それは、2009年9月18日に中共鑑山村党支部と鑑山村民委員会によって建てられたものでした。
 紀念亭の中の壁の上部に15人の革命烈士の名と略歴が記されていました。そのうちの5人は、日本軍・偽軍に殺された人でした。その名と略歴は、つぎのとおりです(原文は簡体字ですが、日本で使われている漢字に変えました)。

  呉乾進、男、鑑山鳌頭坡村人、一九一七出生、一九三五年参加瓊崖紅軍独立師、共青団員、任文昌県共青団委委員、一九四一年在文昌鑑山敵偽殺害。
  呉乾則、男、鑑山珠路頭村人、一九一八年出生、一九三六年参加瓊崖紅軍遊撃隊、任瓊崖独立総隊副班長、中共党員、一九四二年在瓊山新坎渓紅樹林戦闘中犠牲。
  呉乾卿、男、鑑山珠路頭村人、一九一五年出生、一九三六年参加瓊崖紅軍遊撃隊、共青団員、湖山郷共青団委員、一九四二年在湖山被捕、惨遭日寇砍頭殺害。
  曽連英、女、竹堆村人、一九一九年出生、一九三七年参加瓊崖紅軍遊撃隊、瓊崖独立縦隊炊事員、一九四一年在文昌県先頭中犠牲。
  陳嘉発、男、鑑山村人、一九一九年出生、一九四一年参加瓊崖独立縦隊、第一支隊戦士、一九四四年在瓊山県戦闘中犠牲。
          
                                       佐藤正人
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