三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「万宁月塘村自发纪念被日军杀害的先人 那是一段 无法忘却的惨痛」  

2014年04月28日 | 月塘村
 以下は、『海南日報』(2014年4月28日号)に掲載された記事です。
 これまで、月塘村虐殺にかんして、これほどくわしく新聞で報道されたことは、ありませんでした。

                                     
                                              佐藤正人


■万宁月塘村自发纪念被日军杀害的先人 那是一段 无法忘却的惨痛■
     http://hnrb.hinews.cn/html/2014-04/28/content_19_1.htm

  1945年5月2日,农历三月廿一。万宁万城镇月塘村的村民们遭遇灭顶之灾。几十名日军对这个村子进行大肆屠杀,甚至连襁褓中的婴儿也无法幸免于难。日军惨绝人寰的屠杀,让这个600人的村子,仅在那一个上午,便失去了190个鲜活的生命。
  1994年开始,村里就有人陆续走访幸存者,记录了近60名幸存者、遇难者家属的回忆,收集成《血和泪的记录》,并于每年农历三月廿一自发纪念被杀害先人。

  暖热的风,穿街走巷,掀起高挂于月塘村村口的那条红色横幅。横幅上,用大字书写着“隆重纪念三·廿一惨案69周年”。
  这个位于万宁市万城镇的普通村庄,承载着一段不堪回首的悲痛历史。
  直到现在,这个村子的人们依然无法弄清楚,到底是什么缘由让当初村民们遭受日军如此残忍的屠杀。唯一清楚的,只是那日流尽的血和泪,以及根植于这个村庄血脉的惨痛记忆。

  ■那一天血水染红村中水塘
  79岁的朱进春,人称“八刀”。他的背上,布满了深深浅浅的刀痕。在不知情的人看来,这个称谓似是充满了江湖之气。殊不知这“八刀”的背后,却背负着怎样的沉痛记忆。
  时光倒回到69年前那个5月的早晨,10岁的朱进春还只是个无忧无虑的孩童。因为一个闯入家中的日本兵,朱进春的美好童年便彻底告终。
  “那天早上起床后,我就和我弟弟朱进二以及堂弟朱亚印在我家的新房里玩耍。”朱进春清楚地记得,大概早上7时多,一个日本兵突然闯了进来。还来不及看清这个日本兵的面容,朱进春的两个弟弟便被日本兵刺中,4岁多的朱亚印当场被刺死。
  “我当时都吓蒙了,哪里还知道哭喊。”愣在一旁的朱进春眼见着日本兵将刺刀转向了自己,便拼了命地往大厅跑。
  朱进春利用厅中的八仙桌与追来的日本兵周旋,“还好我躲得快,他刺了我八刀都没有刺中要害。”被刺伤的朱进春朝着自家的祖屋跑去,被日本兵开枪击中,子弹从背后穿过前胸,昏倒在了祖屋厨房的门口。
  “直到那天下午,我才被大雨淋醒了。”醒来的朱进春发现,自己的父母、祖父母早已倒在了血泊中。4岁的弟弟朱进二肠子流了出来,尚有气息。“我弟弟疼得受不了,叫唤了一个晚上,到深夜便死了。”
  只是一个上午的时间,朱进春便和家人从此阴阳两隔,成了孤儿。
  和朱进春一样在那天成为孤儿的,还有朱光清。
  瘦小的朱光清,踏着一条荒草丛生的小土路,来到两间已经废弃的瓦房前。
  “我妈就是在这里被日本兵杀死的。”站在过去作为家里厨房之用的瓦房边,69年前那撕心裂肺的痛,又揪扯着这位79岁老人的心,让他不由皱起眉来。
  “那天上午,我到村里找我的姐姐,回到家不久,就有两个日本兵进了我家。”朱光清清楚地记得,日本兵进屋后,自己的母亲对着他们作礼道:“先生作礼。”但话音刚落,母亲便被日本兵的尖刀刺倒在地,“我妈倒在地上后,他转刀又刺向我,我就被刺倒在这墙边,一时昏了过去。”指着瓦房的一面墙壁,朱光清的脑海中再次重现那个可怕的场景,“后来,我妈站了起来,日本兵又去刺她,就在这时,我突然醒过来并立马转身朝山坡上跑去了。”
  这个10岁的孩子将已经流出的肠子塞进肚子,逃到了山坡的林地里躲了起来。直到下午,他的两个姐姐找到了他。姐弟三个默默流着泪把可怜的母亲草草埋葬在了山坡上。  
  那个上午,月塘村有223名村民遭到日军的屠杀,190人倒在了血泊之中,再也无法醒来。“几乎家家户户都有人被杀死。”76岁的李全治也是当年的幸存者之一,“那时候大家都只能在匆忙中用草席将死去的亲人一裹,在山坡上找个地方埋了便四处逃难去了。”
  老人们回忆,那天下午,日军撤退后,突然下起了倾盆大雨,“从来没有见过那么大的雨,天全了,也许是老天都在替我们哭了。”
  死难者的鲜血,被雨水冲刷汇聚,流进村里的两口大水塘中,染红了整个水塘。

  ■那场屠杀改变村民命运
  “你看,那时候子弹就是从我的背后穿过这胸前。”撩起衣服,朱进春身上的伤疤历历在目。在他的背后,子弹打入的地方隆起了一个红色的肉瘤,腰上的刀疤依然明显。“那时候日本兵用刺刀刺穿了我的手,当时都吓傻了,竟然也不知道疼了。”李全治的右手上印着一道深深的刀疤。“我这肚子上的疤还在,那时候我的肠子都流出来了。”72岁的朱五弟当年只有3岁,却能清楚地记得当时的场景……
  当年那场大屠杀的幸存者,如今只剩下14位。在经历了半个多世纪之后,每每诉说起当年的惨状,老人们平静的脸上已经看不出太多的波澜。但在这平静之下,是永远无法忘却的痛。
  “是我害了我家里人啊!要不是我跑到祖屋,日本兵就不会跟过去,我家里人也不会被杀死了!”对于当年家人的死,朱进春总是内疚万分,神情黯然。他每次如此责怪自己时,也总会有人安慰他道:“根本不是你的错,就算你不往那边跑,日本兵还是会发现你家人的。”
  早年丧父,又在那场屠杀中失去了母亲,朱光清后来由已经出嫁的姐姐抚养了两年。由于生活困难,姐姐之后又将朱光清送回了老家。这个12岁的孩子从此开始了独居生活。“那时候我一个小孩,也不知道怎么过日子,就靠着人家分点东西吃着活下来。过去的事,不要再提了。”对于那段异常艰辛的儿时岁月,朱光清只是连连叹气摆手道。
  那场屠杀,彻底改变了这些村民的命运。在大屠杀过后,村民们外出躲藏,村子一度成为“荒村”。直到日军投降后,村民们才逐渐回迁。
  “日军在我们村进行大屠杀后的两三个月,他们就投降了。”当时已经被外婆接到县城的朱进春见到了列队游街的投降日军。这个刚刚养好伤的孩子捡起石仔用尽全身力气掷向游街的日本兵,发泄心中的怒火,“就是这些日本兵杀我父母!”

  ■那一刻不能让后代遗忘
  在一片槟榔园前,村民们修建的“三·廿一惨案”纪念牌静静地矗立着。朱学修、朱吴氏、朱哥妹、朱开世……在碑身侧面,鲜红的字迹铭记着当年遇难村民的名字。两个花圈依在碑前。这是在今年农历三月廿一刚刚举行的月塘村公祭日上,村民们为遇难者献上的。
  在大屠杀发生后的每一年,月塘村的村民都会集中在农历三月廿一这一天祭祀遇害村民,称为“亡日”。这个传统一直延续至今,每年的农历三月廿一,也成为村民们默认的公祭日。今年,村民们更是约定,除了举行祭祀活动外,今后每年的公祭日这一天,全村停止一切娱乐活动,以示对遇害者的哀思。
  那场大屠杀之后,生命不断在这个村庄延续,而那段沉痛的历史,也被代代相传,根植于这个村子的血脉之中。
  “村里的老人在树下乘凉,经常跟我们讲那些故事。”41岁的村民朱海云出生于惨案后的28年,但对于那一天的惨痛,已经从老人口中听说了无数次的他却并不陌生,“现在我的孩子们也了解那段历史。”
  “虽然村里的年轻人都知晓那段历史,但是随着幸存的老人陆续去世,对于那时候的事,大家说得是越来越少了。”村民朱振华担心随着岁月的推移,年轻人会渐渐忘却那段耻辱的历史。1994年开始,朱振华便陆续走访村里的幸存者,记录了近60名幸存者、遇难者家属的回忆,收集成册———《血和泪的记录》。
  为了给当年的惨案受害者讨回公道,1994年,在朱振华的牵头下,月塘村村民们向日本政府提出赔偿诉求,要求日本政府针对当年日军对月塘村村民犯下的滔天罪行向国际社会进行公开道歉,向幸存者、死者家属赔偿损失,并在月塘村建立一座死难者纪念馆。“当时我向日本的内务大臣、外交大臣等寄去了赔偿请愿书,但只有一个人给我回了信,答说他们并不知晓这个事情。”在这20年里,朱振华屡次向日本政府提出赔偿诉求,却一直没有回应。
  “等这本书完成后,我们就准备联名起诉日本政府,要求他们进行赔偿。”朱振华从包里掏出打印订成册的《血和泪的记录》,“当年日军对我们村造成的伤害,必须要有所道歉!那段历史,我们不能忘记!”

     文 海南日报记者 符王润 特约记者 陈循静
     相片 村民朱光清站在母亲当年被杀害的屋前。 曾觉 摄
     相片 几位幸存者在纪念碑前合影。 曾觉 摄   
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「万宁月塘村纪念“三·廿一”惨案69周年」

2014年04月22日 | 月塘村
 以下は、「万宁新聞」(2014-4-21 08:42 来源:南海网)の記事です。

                                       佐藤正人                                    

■万宁月塘村纪念“三·廿一”惨案69周年
  69年前的今天,万宁市万城镇月塘村遭到侵华日军大屠杀。为了这段不该忘却的历史,4月20日上午,万宁市万城镇月塘村村民200余人自发举行“三·廿一”惨案69周年纪念大会,经全村百姓同意,定农历三月廿一为该村公祭日,当日,该村每户一名代表参加悼念会,谨记历史,并停止所有的娱乐活动。
  月塘村是万城镇革命老区村,距离万城镇镇府所在地仅10多分钟车程。1945年5月2日(农历三月廿一)凌晨,驻万城日军在多次“剿共”无果下,悄悄潜入月塘村准备再次扫荡,正好遇到一名受伤的保安队队员被抬进民宅,以为月塘村窝藏共产党,顿时对全村进行惨绝人寰的大屠杀,历时约3个小时,杀害无辜村民223人,其中死190人,伤33人(现还健在16人)。此外,还烧毁房屋30多间,抢劫耕牛、生猪、三鸟和物资不计其数。
  今天上午10时,月塘村200余名村民,老老少少,上至80岁,下至2岁半,不约而同地来到环村道边的纪念碑前,有的拿着凳子,有的拿着花圈,只为悼念那场惨案中殉难者。
  这是一个安静凝重的悼念大会,没有任何排场,6名两鬓花白的遇难者亲属双手捧着三个大花圈,向遇难者致敬,村里老老少少默哀3分钟。椰子树下,幸存者代表、遇难者家属拿着麦克风气愤地讲述着历史,老妇少儒安静详听。
  据了解,为了铭刻这段历史,月塘村村民朱振华自1994年开始,走访村里的幸存者,记录了近60名幸存者、遇难者家属的回忆,收集成册《血和泪的记录》。2007年10月,来海南调查日军侵琼真相的日本学者佐藤正人,多次走访月塘村,并协助村里建起高5.5米、宽3米的纪念碑,以示历史真相。每年农历三月廿一,村里百姓都会自发地来到纪念碑前默哀、悼念。
  月塘村委会支部书记朱学第告诉记者,“今天,我们站在纪念碑前悼念无辜的先人,让月塘村惨案纪念活动如同警钟,时刻提醒那段不该忘却的历史,珍惜当下,为村民谋更好的未来。”据介绍,7月,该村将启动近50亩的月塘清理工作,与邻村乐山村共建“文明村庄”、“花园村庄”。

       南海网海口4月20日消息(南海网记者 陈望 特约记者 陈循静)
       http://wanning.hinews.cn/system/2014/04/20/016614218.shtml

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歴史認識・歴史叙述の客観性 2

2014年04月13日 | 個人史・地域史・世界史
 国民国家日本は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカ合州国、ドイツ、イタリア、ロシア……とともに、膨大な侵略犯罪・国家犯罪をおこなってきた(1894~95年の日朝日清戦争と1904~05年の日ロ戦争の中間期、1900~01年の義和団戦争に参戦した侵略軍は、イギリス、ロシア、日本、フランス、アメリカ合州国、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリーの8か国の連合軍であった)。
 数世紀にわたるこれらの諸国の侵略犯罪・国家犯罪は、全容はおろか、その一部も細部にいたるまではほとんど明らかにされていない。
 日本政府は、過去も現在も、国民国家日本の侵略犯罪・国家犯罪の歴史的責任をとろうとせず、謝罪も、賠償も、責任者処罰もおこなっていない。
 それどころか、日本政府は、過去も現在も、国民国家日本の侵略犯罪・国家犯罪にかんする証拠を消去・隠蔽し、事実を抹殺しようとしてきた。また、日本政府は、侵略犯罪という歴史的事実を、侵略犯罪と認めないという新たな犯罪をも重ねてきた。
 この日本政府の犯罪に、過去も現在も、日本のマスメディアは加担してきた。
 日ロ戦争のさ中、1905年1月28日に、日本政府は閣議で突然、大韓帝国の独島を「本邦所属」として「竹島」と名付けて領土とした。1877年に、日本政府は「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官指令をだし、「竹島外一島」(欝陵島と独島)は日本の領土ではないことを明示していたにもかかわらずである。
 大韓帝国の一部である独島を領土としてから5年後、1910年8月に日本政府は大韓帝国全土を領土とした。独島は、日本が最初に領土とした大韓帝国の土地である。
 しかし、日本政府は、独島を「わが国固有の領土である」と主張し、その日本政府の主張に屈服した日本の歴史教科書の執筆者・出版社は、2015年度から使用される小学校教科書にその偽りの主張を書き入れ、日本政府はその教科書の検定を通過させた。こうして、2015年4月から、すべての日本の小学校の5年生あるいは6年生が、日本帝国が大韓帝国から奪って領土とした独島を「わが国固有の領土である」と教えられることになった。
                                                 佐藤正人
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歴史認識・歴史叙述の客観性 1

2014年04月12日 | 個人史・地域史・世界史
 歴史認識・歴史叙述の客観性は、どのようにして保証されるのか。
 この問いは、社会科学としての歴史学の根本問題である。
 歴史的事実は、証拠にもとづいて記録されることによって伝達される。
 証拠は、もの、コトバ、映像、音声……などによって表現されている。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会は、これまで、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働、海南島における日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪……にかかわる諸事実を探求し、明らかにし、記録し、伝達してきた。
 その過程において、わたしたちは、絶えず、わたしたちの事実認識、文字あるいは映像による事実の報告の内容の客観性を検証してきた。
 そして、歴史認識・歴史叙述の客観性は、歴史認識・歴史叙述の方法、および認識者・叙述者の思想に規定されるということを確認してきた。また、歴史認識・歴史叙述の方法は、認識者・叙述者の思想を形成し、認識者・叙述者の思想は歴史認識・歴史叙述の内実を形成するということを確認してきた。
 事実は事実である。しかし、事実を認識することも認識した事実を叙述することも容易ではない。
 現場にいなかった者が、その現場でおこなわれた事実を認識する方法は、1:現場で事実を目撃した人の記憶を聞きとること、2:当該事実にかんする文書や映像を読みとること、3:当該事実にかんするモノ・場を検討することである。場合によっては、当該事実にかんする分析書・解説書などを点検することも必要となる。

                                         佐藤正人

 
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王徳林さん 2

2014年04月11日 | 海南島史研究
 4月1日朝、王徳林さんに会いに、沙土の欽帝村に行きました。欽帝村は福留村の隣村です。
 欽帝村の入り口に着き、王徳林さんの家を探していると、長い木の枝を何本も背負って歩いてきた王徳林さんに出会いました。
 そこから70メートルほど離れた王徳林さんの自宅で、3年前の2011年3月6日に続いて、あらためて話を聞かせてもらうことができました。
 王徳林さんは、つぎのように話しました。
   「あの日、日本軍が村に来たのは昼ころだった。
    日本軍は家からみんなを追い出し、若い男をひとりづつどこかに連れていった。
    わたしのような子ども、年寄り、女の人は、近くの祠堂のまえの広場に集められた。
    日本軍は、祠堂の横の大きな樹の下に、機関銃をすえつけた。
    わたしは、その機関銃に近づいてよく見ようとしたが、日本兵に追い払われた。
    まもなく、日本軍は、機関銃を発射しはじめた。
    機関銃を発射した日本兵は腹這いになっていた。
    はじめに前列の人たちが撃たれた。
    わたしは、一番後ろにいたので、横の林にとびこんで逃げた。
    日本軍がいなくなってから祠堂の前に行ってみると母が双子の妹二人を抱いたまま倒れていた。 
    母は、まもなく死んだ。
    妹は二人とも機関銃の弾があたって死んでいた。生まれて2か月ほどだった。
 話を聞き終えてから、祠堂のある所に案内してもらいました。王徳林さんの家から50メートルほどのところでした。
 そこから、海が見えました。その海の方向を指さして、王徳林さんは、「日本兵はあすこに15歳の娘をつれていって強姦した」と話しました。
 王徳林さんは、1941年農歴閏6月12日(8月4日)の虐殺現場で、そのときの日本軍の配置、村人たちの様子を示してくれました。
 4月1日は春節の2日前なので、このとき、近くの墓地から爆竹の音がしばしば鳴り響きました。

 別れ際に、王徳林さんは、「これから記録を書く」と言いました。それを海南島近現代史研究会の『会誌』に掲載させてほしいと頼むと、同意してくれました。
 王徳林さんの家を離れ、福留村に向かう途中、2011年3月6日に話を聞かせてもらった王世杰さんに再会しました。1人で家で読書していました。お元気そうでした。
                                       佐藤正人
                      
      
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王徳林さん 1

2014年04月10日 | 海南島史研究
 3月21日に、澄邁県橋頭鎮沙土の福留村を訪ね、2008年10月20日いらい5年半ぶりに再会した温天遠さんと温天芬さんに話を聞かせてもらってから村の入り口に歩いていたら、向こうから歩いてきた人が、声をかけてくれました。欽帝村の王徳林さんでした。王徳林さんには、3年前の2011年3月6日に、話を聞かせてもらったことがあります(このブログに2011年3月22日~28日に6回連載した「沙土の欽帝村で」をみてください)。
 3年ぶりに会う王徳林さんは、とてもお元気そうでした。この日、わたしたちは、欽帝村に行き王徳林さん訪ねようと思っていたのですが、福留村で長時間話を聞かせてもらったので、時間がなくなっており、4月1日に話を聞かせてもらう約束をして別れました。
 中共海南省委党史研究室編著『海南省抗戦時期人口傷亡和財産損失』(2011年6月)には、档案資料、文献資料のはかに口述資料が掲載されていますが、編集はかなり粗雑なものであり、証言記録も核心を示す記録になっていません。たとえば、136~137頁に「澄邁県橋頭村欽帝村王世禄的証言」(わずか9行)が掲載されていますが、内容は証言者の体験ではありません(証言を聞きとったのは、海南省党委党史研究室の呉暁紅さん、符思権さん、王寒漫さんの3人)。
 澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころに編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」(曾憲富、呉可義、雷登華整理)が掲載されていますが、そのなかに、欽帝村でのこととして、つぎのように書かれています。
   欽帝村幼儿王徳林(現県農業局幹部)母親生了一対双胎的弟弟、父母被殺后
  村人用箩筐将其吊在母親的墓傍、祈求路過的行人収留撫養、但外人哪敢行進
  鬼門関? 結果这対嬰儿活活餓死在箩筐里。

 2011年3月6日に欽帝村で王徳林さんに会ったとき、わたしたちは、この記述に触れませんでした。
 こんどその3年後の4月1日に、この記述について、ためらいつつ、王徳林さんに尋ねました。
 王徳林さんは、
   「日本軍に襲撃されたとき自分には7月か8月に生まれたばかりの双子の妹がいた
   が弟はいなかった。二人の妹は、あのとき母といっしょに日本軍に機関銃で射殺
   された。この文章が書かれたころ、たしかにわたしは農業局に勤務していたが、
   日本軍がどんなことをしたのかを直接聞かれたことはなかった」、
と話しました。「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況」の筆者は、本人に確認することなく、事実ではないことを活字にしていました。
                                      佐藤正人
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反帝村、文旭村

2014年04月09日 | 海南島史研究
 4月1日に、橋頭鎮市内で温春花さんに話を聞かせてもらったあと、再び沙土にもどり、反帝村を訪ねました。
 反帝村は、北山村と聖眼村の間の村でした。
 反帝村には、当時のことを知っている村人はいませんでした。
 日本軍が沙土にきたとき、日本兵に刺されて血を流しながら隣村の北山村の村人が反帝村に逃げてきて、日本軍が人を殺している、はやく逃げろと知らせてくれたので、反帝村の村人は全員が逃げたので助かった、とのことでした。
 1人だけ、日本軍は年寄りを殺さないと言って逃げなかった老人が殺されたそうです。
 反帝村は、かつては上帝村という名でしたが、文化大革命のときに反帝村と改名したとのことでした。

 反帝村から聖眼村を通って文旭村を訪問しました。
 村の入り口に住む温国堅さん(1948年5月生)は、小冊子「澄邁温氏族譜(文旭村)」を示しつつ、
   「ここに、同じ日に亡くなった3人の名が記されている。
    祖父の温明道、叔父(父の3番目の弟)、叔父の長男の温家章だ。
    3人とも1941年6月12日に亡くなっている。
    死んだ理由はこの「族譜」には書かれていないが、この日は、日本軍がこの村で虐殺をした日だ。
    このとき、祖母、父の妹も殺されたが、「族譜」には男しか載せないので、ここには書かれていない。
    妹は7歳だった、と父は言っていた」、
と話しました。
 
 温国堅さんは、隣に当時のことを知っている人がいると言って、温国孫さんの家に案内してくれました。
 温国堅さん(1932年生)は、つぎのように話しました。
   「日本軍がきたとき、わたしは、聖眼村の学校に行っていた。学校にた入ってきた日本軍は、聖眼村の民家に教師と生徒を入れて、銃剣で殺しはじめた。
    わたしの上に二人の生徒がかぶさっていた。銃剣は二人を突き刺したが、わたしには届かなかった。わたしは、血まみれになったが殺されなかった。
    日本軍がいなくなってから、家に戻った。家族が7人殺されていた」。      
 
 そばで話を聞いていた温国堅さんの妻の符愛蓮さん(80歳)は、
    「わたしは、那南村に生まれた。日本軍が来たとき、わたしは6歳だった。
     兄が学校から帰る途中に殺された。兄の名は符明升。14歳だった」、
と話しました。

 文旭村の犠牲者の名簿については、このブログの2013年12月2日の「国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 5(海南島で 2 沙土の犠牲者)」をみてください。
                                       佐藤正人


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沙土虐殺にかんする「文献」

2014年04月08日 | 海南島史研究
 これまで中国政府・政治協商会議・中国マスメディアによって発表された沙土虐殺にかんする「文献」は、(1)澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころに編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」(曾憲富、呉可義、雷登華整理。政協澄邁県委員会供稿、1994年8月10日于金江)、(2)2003年8月20日に新華網が配信した写真入りの記事「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」、(3)2003年9月付けで発行された『澄邁革命闘争回憶録』に掲載されている雷登華(澄邁県政協委員会文史組組長)「日軍沙土大虐殺」、(4)橋頭鎮人民政府が聖眼村の入り口に2005年8月15日付けで建てた「史証碑」の碑文の四つだけです。
 このうち(3)は、(1)の粗雑な要約であり、新しいことはなにも書かれていません。(4)にも(1)に書かれていないことは書かれていません。
 (2)の全文は、このブログの2011年3月25日の「沙土の欽帝村で 4」をみてください。
 (4)の全文は、このブログの2008年10月19日の「“沙土惨案” 1」および海南島近現代史研究会『会報』第2号(2009年2月発行)の梁昌寶「沙土惨案」をみてください。

                                      佐藤正人
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「朝鮮政治犯集中営」

2014年04月07日 | 「朝鮮報国隊」
 中国社会科学院の「中国社会科学院中日歴史研究中心文庫」の一冊として 2013年8月付けで社会科学文献出版社から出版された何天義編著『日军侵华战俘营总论』に「朝鮮政治犯集中営」という小節があります(303~305頁)。そこには、つぎのように書かれています(かなり事実と異なる非科学的な記述ですが、その一部を翻訳・紹介します)。
                                               佐藤正人


 「田独鉄砿の略奪を加速させるために、日本軍は中国各地から1万人以上の中国労工を連行しただけでなく、占領下の朝鮮の監獄から、減刑を口実にして、海南島に連行し、“朝鮮報国隊”と命名し、強度の苦役を強制した。
  後して「朝鮮犯人」数千名が三亜荔枝溝の三羅二村(現、三亜市田独鎮南丁三羅村)に設立された集中営に入れられた。
  かれらは、中国の労工と同じく、わずかなサツマイモ、とうもろこし、カボチャのスープを食べ、そまつなわらぶきの家に住み、竹の二段ベッドで眠り、麻袋やセメント袋を着た。
  戦争捕虜は毎日14時間働き、仕事を終わらなければ食事を与えられず、ひどく殴られた。殴られ殺された戦争捕虜は南丁村の北の丘に埋められた。
  1945年8月15日に日本天皇が無条件降伏を宣言したあと、海南崖県域内にいた日本軍は悲しみつつ投降の日を待っているとき、緊急に洞窟を掘り、武器や軍用物資を隠匿するという最後のあがきをおこなった。かれらは、1000人あまりの朝鮮政治犯を脅迫して南丁村付近の山麓に洞窟を掘らせ、物資を隠匿したあと、これらの朝鮮人を殺し、南丁村の丘の穴に埋めた。当事者の記憶によると、そこに埋められた1300人はすべて朝鮮人で、その後、そこは、“南丁千人坑”遺跡となっている。死難者を紀念して、当地の黎族群衆は、三羅二村を朝鮮村と改名した。
  ……………
  韓国KBSテレビは、紀州鉱山の真実を明らかにする会などの協力のもと、ドキュメンタリー《長埋在海南島的朝鮮魂》を放映し、三亜田独朝鮮村で発掘された朝鮮労工の遺骸について報道し、再び韓国を震動した。
  ……………」。
  

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沙土の福留村で 2

2014年04月06日 | 海南島史研究
 3月21日に続いて、4月1日に、ふたたび沙土の福留村を訪問し、村長の温成育さんが温天芬さん、温天遠さん、温天川さんなどと話し合いながら作成した手書きの福留村の犠牲者の名簿をもらいました。
 温成育さんは、「この名簿は、未完成なので、これからさらに聞きとりを続けて、より正確なものにしていく」と言いました。
 この名簿には、86人の記録が記されていました。名前がなく、「昌鶴家 孩子共5人」とだけ記されている場合もありました。
 これまで、海南島政府も、澄邁県政府も、橋頭政府も、犠牲者の名前や犠牲者の正確な人数を調査・記録しにきたことはないそうです。

 温成育さんが作成した名簿に、「温春花 受傷后尚生存」と書かれてあったので、訊ねると、温春花さんは橋頭鎮の市内に住んでいるとのことでした。
 すぐに、橋頭鎮に行き、温春花さんの家を訪ねました。
 突然訪問したわたしたちに、温春花さん(85歳)は、静かな口調で、つぎのように話しました。
   「父は、あのとき村長だった。日本兵は父をつかまえて、祠堂のある大きな樹の下につれていった。
    樹の下に村人が集められ、たくさんの人が日本兵に殺された。
    わたしの父、祖母、姉2人、弟2人、叔父(父の3番目党との弟)、叔父の妻、叔父の息子2人、叔父の娘2人が殺された。
    わたした母に抱かれていたが、日本兵は母の背中に銃剣を突き刺した。
    銃剣は抱かれていたわたしの脇腹に達した。
    母は、そのときは生きていたが、まもなく死んだ。
    父の名は温際達、殺された叔父の名は温際政だ。  
    生まれて1か月ほどの弟をゆりかごに入れて家にのこしていたが、家に戻ってみると日本兵に殺されていた。
    両親が殺されてしまい、たべるものもなく、苦しい生活をした。学校にも行けなかった。昔のことを思い出すと涙がとまらない」。

 温春花さんは、左脇腹に残っている傷跡を見せてくれました。6センチほどの深い傷跡でした。
                                    佐藤正人
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