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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

文字・絵・音・声・映像 10

2008年06月30日 | ドキュメンタリー
朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」と言いました。
 その数日後、11月6日、わたしは、朱学平と「坡」に向かいました。その道は、以前にも歩いたことのある道でした。
 しかし、朱学平さんといっしょに歩いていると、違った道のように感じました。
 まえに行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに100メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まりました。すぐそばを太陽河が流れていました。
 そこで、朱学平さんは、つぎのように話しました。

     「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人につ
    いて、逃げた。
     妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るよ
    うにして逃げた。
     雨が降りそうになったので急いだ。
     ここまで逃げてきて隠れた。
     あの日、午後3時ころだったと思うが、大雨が降った。夜に
    は止んだ。
     ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつま
    いもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人
    に借りた。水は太陽河から汲んできた。
     3日後、妹は、静かに目を閉じて死んだ。なにも食べようとし
    ないで、水だけ飲んで死んでしまった。
     妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
     妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いま
    では、どこなのかはっきりしない。
     叔父(朱洪昆)が日本兵に10か所あまり刺された。からだに
    虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行きました。
 そして、とつぜん泣き出しました。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で戻りました。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていました。
 太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていました。
 すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでました。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行きました。朱学平さんは不在でした。連れ合いさんが、「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、と話しました。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 9

2008年06月29日 | ドキュメンタリー
 わたしたちたが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った、2007年1月17日でした。その後、5月に再会し、10月に月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会いました。約束しているわけではないのに、月塘村で、なんどとなく、会いました。
 わたしたちには、1月には、月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はありませんでした。
 5月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになりました。
 数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めました。月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきました。その人が近づいてくるのを撮影しつづけました。その人は、朱学平さんでした。畑から帰る途中だとことでした。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となく、ありました。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがありませんでした。その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしは、1926年1月に、4歳のとき、三重県木本町(現、熊野市)で父相度さんを虐殺された敬洪さんのことを思い出しました。
 敬洪さんは、「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」と言っていました(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』〈2002年11月〉を見てください)。

 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えました。
 もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできません。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできます。
 昨年10月末、わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日、朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言いました。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 8

2008年06月28日 | ドキュメンタリー
 わたしたちは、1998年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下(1995年8月)と続(1996年8月)を精読し、はじめて月塘村虐殺のことを知りました。
 2002年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会いました。蔡徳佳さんは、「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった、侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、と言いました。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話し合いました。
 そのとき、蔡徳佳さんは、わたしたちに、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』5、1995年7月)を寄贈してくれました。そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末―-製造“四大惨案”紀実」と楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」とが掲載されていました。
 2005年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらいました。月塘村に侵入してきた日本兵は、当時8歳だった朱進春さんに銃剣を向けたそうです。朱進春さんは8か所傷つけられ、その後、村人に「八刀」と呼ばれたそうです。
 わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、2007年1月17日でした。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんを蔡徳佳さんに紹介してもらい、朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらいまいした。
この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせてもらいました。
 その4か月後、5月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねました。
 6月から、わたしたちは、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の制作をはじめました。
 10月はじめから11月上旬にかけて、連日、月塘村を訪ねました。

 朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれました。

 朱学平(Zhu-Xueping)さんは、
    「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入
   ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生
   き残った。母、兄の朱学温(Zhu-Xuewen)と朱学敬(Zhu-
   Xuejing)、姉の朱彩和(Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、
   そして6歳だった妹の朱彩蓮(Zhu-Cailian)が殺された。
    わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹
   は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
    血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしてい
   るかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。
    半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火に
   あっていたが、骨になりきっておらず、くさっていた。
    まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(Wanning)
   から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
    その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(Zhu-Kailian)
   が、近くの東澳(Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃
   で撃たれて殺されていた」
  と話しました。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 7

2008年06月27日 | ドキュメンタリー
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』で、わたしたちは、1945年5月2日に日本兵によって命を奪われた月塘村の人びとの生と死の軌跡をたどろうとしました。60年を越す歳月のまえのある日に突然いのちを奪われた、いまは不在の人たちの生と死を、どのように映像で表現するのか、どうしたら、映像で表現できるのかを考えつづけながら。
 殺害現場、墓地の映像では、殺された人たちのそれまでの生を表現できません。あの時まで、殺された人びとが呼吸していた月塘村の大気や、浴びていた月塘村の光を撮影する方法を、わたしたちは模索しました。殺された人びとのそれまでの生を表現できなければ、その死の重さを、意味を表現できないと思ったからです。
 その模索の過程で、わたしたちは、ドキュメンタリーで表現できるのは、表現しなければならないのは、対象そのものではなく、対象と自己の関係ではないかと考えはじめました。
 おそらく、対象と向き合う者のありかたによって、映像としての対象が規定されるのでしょう。
 死者の生と死の軌跡を映像化しようとするとき、対象は直接的な映像としては実在せず、ただ関係においてのみ「実在」するのかもしれません。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 6

2008年06月26日 | ドキュメンタリー
 ナレーションをいれず、証言者の声以外の現地音を絞りきって、映像によって証言内容を伝達することを、わたしたちは試みてきました。
 それは、映像が伝達しうる内容を表現する究極の方法なのだと思いますが、そのためには、その原映像が、そのような試みに耐えうる質をもつものでなければなりません。
 しかし、そのような映像を記録することは、撮影技術とは無関係のことであって、それが可能な「場」に撮影者(記録者)がいることが決定的な条件です。
                                   佐藤正人
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日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 7(最終回)

2008年06月25日 | 会議
■付記
 教科書引用文中の地名・国名・人名のうしろの( )内は、原文にルビとして付けられている読み方である。たとえば高句麗という文字の上に“コグリョ”という朝鮮語読みのルビが付けられている場合には、高句麗(コグリョ)とした。
 ただし、日本読みのルビがつけられている場合は無視した。たとえば高句麗という文字に“こうくり”というルビが付けられている場合には、高句麗(こうくり)とせず、たんに高句麗とした。
 国家と民族と言語の問題を生徒とともに考えようとする歴史教科書において、地名や国名の読み方をどのように表記するかは、重大な問題である。

■検討した教科書
 新版『世界史』A(著者、木畑洋一ほか6人)、実教出版。
 『世界史』A(著者、加藤晴康ほか8人)、東京書籍。
 高等学校『世界史』B改定版(著者、鶴間和幸ほか12人)、清水書院。
 新詳『世界史』B(著者、川北稔ほか8人)、帝国書院。
 新『世界史』B改定版(著者、弓削達ほか10人)、山川出版社。
 『新日本史』B改定版(著者、久留島典子ほか3人)、山川出版社。
 『高校日本史』B改定版(著者、石井進ほか12人)、山川出版社。
 『日本史』B改定版(著者、脇田修ほか14人)、実教出版社。
 『高校日本史』B新訂版(著者、宮原武夫ほか15人)、実教出版。
 『日本史』B改定版(著者、青木美智男ほか12人)、三省堂。
 『日本史』B改定版(著者、加藤友康ほか10人)、清水書院。

■参考文献
 唐澤富太郎『教科書の歴史』創文社、1963年。
 家永三郎『教科書検定 教育をゆがめる教育行政』日本評論社、1965年。
 家永三郎『教育裁判と抵抗の思想』三省堂、1969年。
 五十嵐顕・伊ヶ崎暁生編著『戦後教育の歴史』青木書店、1970年。
 鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』校倉書房、1976年。
 大田尭編著『戦後日本教育史』岩波書店、1978年。
 学校制度を考える会編『教科書はもういらない 』三一書房、1982年。
 出版労連教科書対策委員会編『 「日本史」「世界史」検定資料集  復活する日本軍国主義と歴史教科書』日本出版労働組合連合会、1982年。
 遠山茂樹編『教科書検定の思想と歴史教育 : 歴史家は証言する』あゆみ出版、1983年。
 安川寿之輔『十五年戦争と教育』新日本出版社、1986年。
 中村紀久二『教科書の社会史』岩波書店、1992年。
 嵯峨敞全『皇国史観と国定教科書』かもがわ出版、1993年。
 俵義文,・石山久男『高校教科書検定と今日の教科書問題の焦点』 学習の友社、1995年。
 徳武敏夫『教科書の戦後史』新日本出版社、1995年。
 金静美『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』現代企画室、1996年。
 網野善彦『日本社会の歴史』上、岩波書店、1997年。
 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年。
 王智新ほか編『批判植民地教育史認識』社会評論社、2000年。
 佐野通夫『近代日本の教育と朝鮮』社会評論社、2000年。
 石出法太『まちがいだらけの検定合格歴史教科書』青木書店、2001年。
 永原慶二『歴史教科書をどうつくるか』岩波書店、2001年。
 和仁廉夫『歴史教科書とナショナリズム 歪曲の系譜』社会評論社、2001年。
 和仁廉夫『歴史教科書とアジア 歪曲への反駁』社会評論社 、2001年。
 小森陽一・坂本義和・安丸良夫編『歴史教科書何が問題か』岩波書店、2001年。
 久保井規夫『消され、ゆがめられた歴史教科書  現場教師からの告発と検証 』明石書店、2004年。
 中村哲編著『東アジアの歴史教科書はどう書かれているか』日本評論社、2004年。
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日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 6

2008年06月24日 | 会議
六、東アジア共通のインターナショナルな歴史教科書叙述をめざして
 1960年に、上原專禄編『日本国民の世界史』(岩波書店)が出版された。本書の原本は、1956年から日本の高校社会科の世界史教科書として使用されていたものであるが、1956年の学習指導要領の改定にともない、1959年度以後は継続使用できなくなった。
 筆者(上原專禄ほか6人)は、その原本を全面的に改稿し、その新稿を1957年の検定に提出したが、不合格になった。筆者はさらに誤記・誤植を訂正して1958年7月にふたたび検定に提出したが、これも同年11月に不合格とされた。
 筆者は、書物全体の構造と内容の根本にふれる検定をこれ以上は容認できないとして、本書を教科書として出版する試みをやめ、独自に本書を出版した。
 本書は、検定を拒否し、筆者の歴史思想・歴史観の表現を、日本国家権力をふくむ他者に妨害されることなく、独自に出版されたものである。
 だが、『日本国民の世界史』と名づけられた本書の叙述は、根深い日本ナショナリズムに貫かれている。
 本書の筆者は、ヨーロッパ中心史観を克服できておらず、民衆を歴史の主体とする歴史意識も希薄である。世界史的な東アジア史の民衆運動にかんする叙述はきわめて少ない。 
 日本植民地支配下の朝鮮における最大規模の民衆運動である三・一独立運動にかんする記述がない(同じ1919年の中国での五・四運動についての記述はある)。イスラエルのパレスチナ侵略にかんしても、「国連の決定に基いて、1948年5月、パレスチナにはユダヤ人のイスラエル共和国が建設された」という、シオニストによるパレスチナ占領支配を肯定する虚偽が書かれている。
 また、本書には、敗戦後の日本について、「日本では降伏後、1946年11月、あらたに“日本国憲法”が公布され、戦争を放棄することが明示された」と書かれているが、日本国民が天皇ヒロヒトの侵略責任(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任・現在責任)を追究せず、天皇制を維持し続けてきていることが書かれていない。
 この『日本国民の世界史』が示しているように、検定とは別の次元で、日本の歴史教科書に内在している日本ナショナリズムは、いまも、克服されていない。

 歴史教育は、生徒に史実を教える教育ではない。
 史実は教えることはできない。
 教えることができるのは、史実をいかに認識するかという歴史認識の方法である。
 史実認識の方法と内容は、認識者の歴史思想・歴史観によって規定される。
 きのう起こったこと、すなわち、きのうの史実をいかに認識するかということも、認識者の社会意識・社会思想に規定される。
 70年まえの史実認識においても同じである。
 日本政府の首相や一部の国会議員などが、日本軍隊性奴隷制にかんして日本政府や日本軍に直接責任はないと強弁しているが、かれらの歴史認識は、かれらの利害、かれらの思想に規定されている。
 歴史教育の場においては、このような無恥であやまった歴史認識をもつ者を育てない教育をおこなわなければならない。
 1910年、「韓国併合」に反対する思想・歴史意識をもつ日本人はほとんどいなかった。
 国民国家日本の教育は、他地域・他国侵略を肯定し支持し加担する日本人をつくりだす教育であった。そのような教育の中心は歴史教育であった。
 
 歴史教育の場で、教師は、生徒に史実を教えるのではなく、史実を認識する方法を生徒とともに考えなければならない。歴史教科書は、そのための道具である。歴史教科書の叙述を史実であると誤解してはならない。
 歴史教育の場において、教師は、歴史の真実に到達するための方法を生徒とともに語りあわなければならない。日本の歴史教科書に示されている日本ナショナリズムを克服することは簡単ではない。
 日本では、在日朝鮮人の子どもたちの多くも、日本の学校で、日本の歴史教科書を使わされている。日本の歴史教科書を変革していくことは、在日朝鮮人の課題でもある。
 この課題は、東アジアにおける共通のインターナショナルな歴史教科書叙述をめざす民衆運動のなかで達成されるだろう。
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日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 5

2008年06月23日 | 会議
五、日本の歴史教科書が東アジア古代全史を叙述しようとしないのはなぜか

 日本の歴史教科書の東アジア古代史叙述は、中国古代史を中心におこなわれており、東アジア全体の統一的な歴史を生徒が把握しにくくなっている。
 また、王朝史が中心となっており、歴史の主体である民衆の歴史が書かれていない。
 このような叙述は、日本の教科書にたいする検定制度によるためでなく、歴史教科書の執筆者が、権力者の動向によって歴史がつくられるという非民衆的な歴史思想、政治思想を克服していないからである。日本の歴史教科書執筆者のほとんどが、歴史を総体とし把握する思想と方法を確立できていないからである。
 この問題は、かれらが自己の内部のナショナリズムを点検し克服しようとしていない問題とむすびついている。
 東アジアの古代史は、東アジア地域における諸民族の複雑な関係の歴史である。漢や唐の王朝史と、高句麗、新羅、百済や渤海や大和国家の関係のみで叙述できる歴史ではない。
 たとえば、『高校日本史』B新訂版(宮原武夫ほか著、実教出版)には、
    「907年、唐がほろぶと東アジアは大変動期に入り、渤海
   もほろび、朝鮮半島では高麗がおこり新羅がほろんだ」(54頁)
と書かれているが、渤海の崩壊(926年)も新羅の崩壊(935年)も、唐帝国の崩壊のみに基づくものではない。渤海地域、新羅地域の複雑な社会関係に触れることのない歴史教科書の叙述は、生徒の歴史意識形成にとって有害である。

 東アジア古代史を総体として叙述しようとするならば、王朝史を機軸とする歴史叙述を根本的に方法的に否定しなければならず、王朝史叙述に内包されているナショナリズムを克服しなければならない。
 王朝史を克服するということは、王朝の崩壊は、その政権下で抑圧されていたさまざまな民族の民衆の解放を意味するという歴史思想・政治思想を鍛えるということを意味する。  
 これは、歴史研究方法の問題でもある。
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日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 4

2008年06月22日 | 会議
四、東アジア古代史記述の根本問題――国家・民族・領土――
 近現代史の時代は、国民国家の形成の時代であり、古代は、国家と民族の形成の時代である。原始時代には、国家も民族も形成されていなかった。
 科学的に歴史を叙述するためには、国家・民族・国家権力・領土にかんする基本理論を構築していなければならない。
 この基本理論を確立しようとせず、国家概念や民族規定をあいまいにしたまま、恣意的におこなわれる国家史や民族史についての歴史叙述は、無意味であるだけでなく、誤ったものとならざるを得ない。
 たとえば、日本のナショナリストが執筆した中学社会教科書『新しい歴史教科書』(2005年3月30日検定通過、扶桑社)では、「神話」を根拠にして太古に日本国家が形成されていたかのような叙述がなされている。
 
 近現代における国民国家と古代の国家とは、国家の概念が異なる。近現代における国民国家概念を古代の国家概念とを同一化し、近現代の国民国家の領土を古代国家の領土と重ね合わせて一国史を叙述することは、ナショナリズムを扇動することであり、歴史家がおこなってはならないことである。
 国家概念、民族規定を明確にしておかなければ、近現代史はもちろん、古代史を科学的に客観的に叙述することはできない。
 たとえば、高句麗史を叙述する場合には、その前提として、この時代の東アジア全地域における諸国家・諸民族の実態とともに、国家概念と民族規定を明確にしておかなければならない。
 国家も民族も歴史的に形成されてきたものであって、東アジアにおいても、古代から一貫して、現在の中国国家、モンゴル国家、朝鮮国家、日本国家が実在していたのではない。また、近現代のすべての国家は、多民族国家なのであって、近現代のすべての国家の歴史は、単一の民族の歴史とは同一ではない。

 国民国家における自国史教育は、ナショナリズムと無縁ではありえない。
 特に、国民国家形成を他地域・他国侵略によって開始し、継続的な他地域・他国侵略によって国家建設をすすめてきた侵略国家日本においては、自国史教育は、他地域・他国侵略の歴史事実を明らかにし、それを否定するものでない限り、日本ナショナリズムを扇動する教育となる。
 国民国家中国の一国史もまた、その前史である明・清時代の他地域・他国侵略の歴史を肯定するイデオロギーと無縁ではない。東北工程は、そのようなイデオロギーを前提としている。

 東アジア古代史は、東アジアにおける国家と民族の形成期の歴史であるが、その国家と民族は、国民国家形成期である近現代史における国家と民族とは、同質ではない。また、東アジア古代における諸国家の領土は、近現代における諸国家の領土とは同一ではない。
 東アジア古代における諸国家で生活する人びとの人種も多様であり、言語も多様であった。東アジア古代の諸国家も多民族国家であった。
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日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 3

2008年06月21日 | 会議
三、日本の高校日本史教科書における朝鮮古代史叙述
     現在、日本の高等学校日本史教科書は、AとBの2種あり、
    Aの記述はほとんど近現代史に限られている。したがって、
    ここでは2007年3月22日に日本文部科学省が検定を通過さ
    せた日本の高等学校日本史教科書のうちBについてのみ論
    じる。Bにおいても三国時代以前の朝鮮(扶余、東扶余な
    ど)にかんする記述はまったくない。
■『新日本史』B改定版(著者、久留島典子ほか3人)、山川出版社。
 本書の年表には、「391年 倭軍、百済・新羅を破る」と書かれているが(397頁)、本文にはこのことに関する記述はない。
 同書には、古朝鮮にかんする記述はまったくなく、4世紀以後の朝鮮史にかんしては、つぎのように書かれている。
    「朝鮮半島の3国のうち、北にあった強国の高句麗は、313
   年に晋の朝鮮半島支配の拠点である楽浪郡と帯方郡を滅ぼ
   し、さらに旧楽浪郡の平壌を拠点として南下策をとり始めた。
   一方、朝鮮半島南部では、4世紀前半に馬韓から百済が、辰韓
   から新羅が建国し、百済は高句麗の南下を受けて、倭に近づい
   て同盟を結んだ」(29~30頁)、
    「倭は、4世紀には朝鮮半島南部の弁韓地域にあった伽耶諸
   国(加羅)と密接な関係を持ち、鉄資源を確保した。そこは生
   産技術を輸入する半島の拠点であり、倭人も集団的に移住し
   ていたらしい」(30頁)、
    「高句麗は、4世紀後半に南下を続け、広開土王の一代の功
   業を記した広開土王碑(広太王碑、中国吉林省集安市)には、
   高句麗が倭に通じた百済を討ち、倭に侵入を受けた新羅を救
   い、400年、404年に倭軍と交戦して勝利を得たことが記され
   ている。鉄や文物の供与を受けていた倭は、伽耶や百済の要
   請で派兵し、軍事援助をしたらしい」(30頁)、
    「朝鮮半島では、6世紀に入ると、百済・新羅とも勢力を強め
   たが、百済は強国高句麗の南下を受けて南遷し、512年、ヤマ
   ト政権は朝鮮半島南部の伽耶諸国のうち、西部の4つの国
   (「任那四県」と称した)を百済が支配することを承認した。さ
   らに新羅も強大化し、562年までに伽耶諸国は百済と新羅の
   支配下にはいって滅亡し、ヤマト政権も半島における拠点を
   失った。
    伽耶西部に対する支配の承認と引きかえに、百済から513年
   に五経博士が渡来し、さらに易博士・歴博士・医博士も渡来
   し、儒教やその他の学術が伝えられた。また、538年(一説に
   552年)に、百済聖明王から仏教も伝えられた」(33頁)。
 この教科書の筆者は、「らしい」というあいまいな表現をくりかえして、いいかげんな史実記述をしているだけでなく、民衆が歴史を動かすという歴史観と対立する歴史観によって書かれている。この教科書に従って授業がなされるならば、生徒は、いつわりの歴史を宣伝されるだけでなく、権力者が歴史を動かすというあやまった歴史観をおしつけられてしまう。
■『高校日本史』B改定版(著者、石井進ほか12人)、山川出版社。
 本書は、『新日本史』Bと同じ出版社からだされている教科書だが、『新日本史』Bの記述のように悪質ではない。
  『高校日本史』Bの年表には、『新日本史』Bにあるような「391年 倭軍、百済・新羅を破る」という史実と異なる記述はなく、4世紀の部分には、「このころヤマト政権、統一進む」と書かれている。
 朝鮮古代史にかんして、同書には、つぎのように書かれている。
    「中国東北地方から朝鮮半島北部に国家をつくった高句麗
   の王、広開土王の碑には、倭の兵が辛卯の年(391年)以降、
   朝鮮半島にわたり、高句麗軍とたたかったことが刻まれてい
   る」(20頁)。
    「4世紀の朝鮮半島 半島南部の加耶は加羅とも表記され、
   それ以前に弁韓よばれていた国ぐにを総称したものである。
   一方馬韓の国ぐにから百済が建国されたが、半島南西部は
   百済に属するの加耶に属するのかまだよくわかっていない」
   (21頁)。
    「ヤマト政権はあたらしい文化や鉄資源を求めてはやくから
   朝鮮半島南部と深いつながりを持っていたが、4世紀後半に北
   方の高句麗が南へ進出してきたため、百済などとともに高句麗
   とたたかうことになったのである」(20頁)。
    「6世紀をむかえると、朝鮮半島では高句麗がいちだんと
   勢力を強めて南下した。これにおされた百済・新羅は、国
   内の支配体制をかためるとともに、ヤマト政権とも結びつ
   きの強い加耶諸国へ進出するようになった」(26頁)。
    「6世紀前半の朝鮮半島 高句麗の南下と新羅の西進を受
   けて、百済は南に勢力を広げ、加耶西部を支配におさめた」
   (26頁)。
    「562年、新羅はついに加耶諸国を支配下におさめ、ヤマト
   政権は朝鮮半島への足がかりを失ったのである」(27頁)。
    「〔倭(日本)は〕国内では豪族の力がまだ強かった。国外
   では唐と結んだ新羅にほろぼされた百済をたすけるために軍を
   おくったが、663年の白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、半
   島からしりぞくことになった」(31頁)。
    「907年、唐がほろぶと東アジアは大変動期に入り、渤海も
   ほろび、朝鮮半島では高麗がおこり新羅がほろんだ」(54頁)。
■『日本史』B改定版(著者、脇田修ほか14人)、実教出版社。
 本書では、年表の4世紀の部分に、「このころ大和政権の形成すすむ 4世紀末ごろ、倭軍朝鮮半島に侵出。百済とむすび、新羅・高句麗とたたかう」と書かれており、6世紀の部分に「562 新羅、加羅を滅ぼす」と書かれている。
 本文には、
    「6世紀には朝鮮との交流がいっそう密接になり、中国の
   宗教や学問も流入・受容された。百済から五経博士や易・
   歴・医の諸博士が渡来して、儒教その他の知識を伝えた」
   (52~53頁)
と書かれている。
■『高校日本史』B新訂版(著者、宮原武夫ほか15人)、実教出版。
 本書の年表には、「4世紀末ごろ、倭軍朝鮮半島に侵出。百済とむすび、新羅・高句麗とたたかう」と書かれている。
 本文には、つぎのように書かれている。
    「奴国王・邪馬台国王・倭の五王、高句麗・百済・新羅の
   国王は、いずれも冊封体制のなかで、その地位を中国皇帝か
   ら公認されていた」(22頁)、
    「中国の朝鮮半島に対する支配力が衰えると、中国東北部
   に本拠地をもつ高句麗が、中国が設置した楽浪郡、帯方郡を
   滅ぼして朝鮮半島北部に勢力をのばし、南下政策をすすめ
   た。南部には馬韓・辰韓・弁韓の3つの小国による連合が
   形成っされていたが、4世紀には馬韓から百済が、辰韓から
   は新羅がうまれた。朝鮮のすぐれた生産技術や鉄資源を求め
   た大和政権は、弁韓の地域に成立した加羅諸国(伽耶、任那)
   に4世紀後半、百済とむすんで出兵した。さあらに新羅を圧
   迫し、北方の高句麗とたたかった。これに対して高句麗は、
   新羅を救援し、百済を攻めて、倭の軍隊とたたかった。この
   間の事情は高句麗の好太王の碑文に記されている。
    5世紀にはいり、百済・新羅の国力が充実してくると、朝
   鮮半島における大和政権の勢力はしだいに弱まった」(23頁)。
 本書には、「歴史のまど 三韓の調」と題して、つぎのような根拠の不確かな、わけのわからないことが書かれている。
    「645年(大化元)年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足
   (のちの藤原鎌足)らは、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を殺し、
   大化の改新がはじまった。なぜこの日が暗殺に選ばれたの
   だろうか。それは、この日に三韓の使者が調を献上するこ
   とになっていたからであった。三韓とは高句麗・百済・新
   羅の3国のことで、調とは服属を表す献上品を意味する。
   つまり、朝鮮3国が大和政権に服属していることを確認する
   重要な儀式の日にあたったため、天皇(大王)をはじめ群
   臣は必ず出席しなければならなかったのである。
    しかし、実際には、3国とも倭国に統合されておらず、
   使者を送る義務はなかった」(30頁)。
 ここで、筆者は、「服属」と「統合」を同義語として使い、「朝鮮3国が大和政権に服属していることを確認する重要な儀式の日にあたったため」などという虚偽を書いている。このような記述は、ほかの教科書にはない。
■『日本史』B改定版(著者、青木美智男ほか12人)、三省堂。
 本書には、つぎのように書かれている。
    「313年、中国東北地方から朝鮮半島北部へ勢力を広
   げていた高句麗が中国の直轄地である楽浪郡を滅ぼした。
   馬韓・辰韓・弁韓という三つの小国連合体が分立してい
   た半島南部では、4世紀なかごろ、馬韓と辰韓はそれぞれ
   百済・新羅に統一され、南端の弁韓はいぜん伽耶(加羅)
   とよばれる小国家連合体がつづいていた。4世紀後半には
   高句麗が南下して百済や伽耶との間で対立を深めた。中
   国の直接支配からはなれて戦乱をくりかえす朝鮮半島の
   動きは、伽耶や百済を足がかりにして、鉄などの資源や
   農業・土木・建築、各手工業の技術を手に入れようとす
   るヤマト王権(倭)にとって大きなできごとであった」
   (19頁)。
    「朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、新羅
   や高句麗が領土拡大につとめ、百済や伽耶に侵入しはじ
   めた。
    527年、ヤマト王権はつながりの深かった伽耶へ援軍
   を派遣しようとしたが、新羅とむすんだとされる筑紫の
   国造磐井によってこれをはばまれた(磐井の乱)。さら
   に、外交を担当していた大連の大伴金村が百済に伽耶の
   領土への拡大をみとめたこともあって、新羅と百済の伽
   耶への侵入は強まり、562年、伽耶は新羅に滅ぼされた」
   (24頁)。
    「朝鮮半島では、高句麗や新羅が唐の律令を摂取して、
   国力の充実につとめたが。唐が高句麗に遠征すると、新
   羅は唐に急接近し、百済は倭とのつながりを深めようと
   した」(28頁)。
    「7世紀前半、朝鮮半島では新羅が勢力を増し、660
   年、百済を滅亡させた。孝徳天皇にかわった斉明天皇
   のころ、朝廷は復興をはかる百済の遺臣の要請にこた
   えて大軍を派遣したが、663年、朝鮮半島南部の白村江
   で新羅・唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。さ
   らに新羅は高句麗も滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一し
   た」(29頁~30頁)。
■『日本史』B改定版(著者、加藤友康ほか10人)、清水書院。
 本書には、つぎのように書かれている。
    「朝鮮半島北部には、中国東北部からおこった高句麗が
   侵入し、313年、楽浪郡を滅ぼし、強力な統治機構を形成
   した。南部においてもそれまで韓族が馬韓・辰韓・弁韓
   (弁辰)などの部族的小国を形成していたが、馬韓地方
   では百済、辰韓地方では新羅が国家形成へと向かいはじ
   めた」(26頁)。
    「4世紀後半から5世紀にかけて、朝鮮半島では、高句
   麗・百済・新羅の3国が対立抗争をくり返した。とくに
   高句麗の勢力は強大でたびたび南下し、百済と新羅は滅
   亡の危機を迎えている。そこで新羅は高句麗の支配下に
   はいり、百済は倭国と同盟関係を結んで、これに対抗し
   た。……4世紀末に倭国は百済の求めに応じて、海を渡
   って高句麗と戦っている。倭国と百済の交流は、ヤマト
   政権に先進的な文化や知識をもたらした。これによりヤ
   マト政権は外交権や先進技術を独占することになり、倭
   国内におけるより優位な立場を得ることになった」(27
   頁)。
    「朝鮮半島では、中国王朝の影響力の低下もあって、
   高句麗・百済・新羅の抗争がいっそうはげしくなった。
   高句麗の軍事的圧迫に苦しむ百済と新羅は、倭国と友好
   関係にあった伽耶諸国に進出し、560年代にこれら諸国
   を併合した」(31頁)。
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