氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

334 エジソン

2006-04-30 13:16:00 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

334 エジソン

天才とは1パーセントの霊感と99パーセントの汗である
                        エジソン
                      
 エジソンは小学1年生のときに低能児扱いを受けていました。2+2=4というカンタンな足し算ができなかったからです。ある日、先生からクラスの子ども全員の前で、「お前の脳みそは腐っている」と、けなされます。 

 彼はそのまま泣きながら家に帰りました。母親は、先生に「息子はバカではない!」と強く抗議しましたが、彼は再び学校に行くことはなく、小学校を3ヶ月で退学しました。

 以後、彼は母親の手によって教育されることになります。母親は彼の可能性を信じ、励まし続けました。エジソンは、幸い読書で知識を得て、科学に興味を持つようになりました。自宅に実験室を作るために、12歳で列車の新聞の売り子にもなりました。
その後、電信機、蓄音機、電球など、世の中に偉大な貢献をする発明を次々と成し遂げます。

 世の人は、彼を天才だと言いました。しかし、その発明は、天から降ってきたインスピレ-ションからではなく、実際は、彼の不眠不休の実験から生まれたものです。
蓄電池ひとつ作るのにさえ、なんと二万回の実験を繰り返したといわれています。

 「汗」とは、努力のことです。
「努力にまさる天才なし」ということを、エジソンに教え、彼の可能性を信じつづけたのは、もちろん、彼の母親です。
エジソンは、後年母親について語りました。
 「私をつくりあげたのは、母である」
信じつづけてくれる人がいれば、人は可能性を切開くことができるのですね。

そうですね、子供を監視するのではなく、信じてあげればいいのですね。でも、氣まぐれ剣士は、子供を信じても信じきることはなかなかできません。“だって自分の子だから”。
 自分を信じられないのに、その子供を信じきることはなかなか難しいですね。皆さんはいかがですか?

いかがでした。
次回もお楽しみに。                           以上

333 評論

2006-04-28 12:02:36 | Weblog
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333 評論

自分の周りでどんな出来事が起こっても、我々が「論評」する必要はありません。それを観て、我々がどう生きるかだけだそうです。

世の中には理不尽と思える出来事がたくさんあります。事件や事故、犯罪や戦争、疫病、餓え、災害など…。もし我々がその当事者なら、我々には大きな役割があり、そこから学ぶこと、氣付くこともたくさんあるかもしれません。

しかし我々が当事者でないとしたら、その出来事がどんなに悲惨なものであったとしても、それに対して「論評」したり、評価したりしないことが大切そうです。それがどんなにネガティブに見える出来事であったとしても、「大いなるもの」の承認なくしては、現実に起こることはないから。

そこに「大いなるもの」のどんな計らいがあるのかは、私たちには知る由もありません。わからないことはわからないで良いそうです。それを「論評」したり、評価することによって、私たちはその出来事に対して無意識の内にエネルギーを送ってしまうことになるそうです。

私たちが正義感から「ひどい」「大変だ」「許せない」という想いを持つと、それはネガティブなパワーを持って、その出来事と同じような現象を引寄せる手助けをすることになってしまいます。

 それがどんなに正しいと思えることであっても、強い正義感や使命感から出る想いはその正義感と同じだけのネガティブなエネルギーを溜めることになってしまうので注意が必要です。あなたの正義感が次なる事件の引き金になるかもしれません。

その出来事が心地良くないと感じたら、自分だけはそんなことはしないと、自らに堅く誓えばそれで良いですね。私たちはどんな「論評」をするのかを問われているのではなく、ただそれを観て、どう生きるのかが問われているだけなのですね。

 剣道でも一緒ですね。他人の悪いところはよく目に付きます。それを、あそこが悪い、ここが悪いと一杯ケチをつける人がいますが、要は自分が直せば良いだけです。 
 でも自分の悪いところは自分の背中と一緒で自分では分からないものですね。

いかがでした。 
次回もお楽しみに。                           以上

332 感情

2006-04-25 12:29:35 | Weblog
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332 感情

 あなたの「感情」は、あなたのものです。他人の「感情」は、その人のものです。
あなたの自分の「感情」にだけ、責任を持てば良いそうです。

あなたのことを悲しませたり、怒らせたり、イライラさせたりする人が存在するワケではありません。そう想う、あなたの心があるだけのようです。

どんな「感情」も、あなたが味わいたくて、味わっているそうです。あなたは自分の「感情」に100%の責任があります。あなたの「感情」は誰のものでもなく、全てあなただけのものです。同時に他人の「感情」は、あくまでその人のものだと言うことを明確に意識することが大切ですだそうです。

「感情」は、外側の現象に対する自らの考え方や自分の解釈の仕方が現れたものです。同じ体験を味わい、同じものを見ても、その現象に対する反応は、個人個人それぞれ違いますね。

自分の外側に「感情」の原因を求めている限り、あなたは常に自分の「感情」に溺れて、流されることになるようです。ある現象に対する心の反応が、「感情」であり、それはひとつの特徴・個性だそうです。

絶対的に良い「感情」とか、悪い「感情」があるのではありません。 心の反応に対して、あなたのアタマが「心地良い」か、「心地良くない」かを判断して、区別しているだけのことです。

「感情」をコントロールしようとしたり、押さえ込もうとしても、うまくいきません。
「感情」は空に漂う雲のように、常に形を変えながら、浮かんでは消え、また勝手に湧き上がって来るものです。あなたは全ての雲をコントロール出来ると思いますか?
「感情」自体に問題はないのです。
自分の「感情」に囚われて、支配されてしまうことに問題があるようです。

 そうですね。感情はどうしようもないですね。感情をコントロールしようと思うより、その感情をじっくり味わえばいいのですね。感情を誤魔化さず、しっかり感じきれは必ず流れていくそうです。これ、お勧めです。ぜひ試されたらいかがでしょうか。

いかがでした。
次回もお楽しみに
以上

331 感激

2006-04-23 07:45:57 | Weblog
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331 感激

激しくこころが揺さぶられる時、そこに感動が生まれ、人は「感激」し、大いなるものに対する感謝が湧き上がって来ますね。

全ての人のこころのメカニズムとして、感動、「感激」、感謝がひとつの流れの中にあることに、大いなるものの意図が感じられます。
人は何かに対して、こころが激しく揺さぶられ、こころの底から感動を覚えた時、「感激」して、思わず熱いものがこみ上げて来たりしますね。

そして人は「感激」を味わうと決まって、こころから「感謝」するようになりますね。人は不思議なもので、どんなに自信過剰の人であっても、こころの底から「感激」した後では、傲慢になったりすることはないようです。

「感激」とは、こころが激しく揺さぶられるほど、感動していることだそうです。感情の状態としては最高のテンションであり、「魂のごちそう」とでも言うべき感動を味わった時に、人はこころの底から「感激」するそうです。

その最高レベルの感情を味わった後に続いて湧き上がって来る感情が、感謝だそうです。「感激」を多く味わうものほど謙虚になり、全てに自然と感謝できるようになるそうです。「感激」という最高の感情に伴われて湧き上がって来るのが、感謝なのです。

これは逆もまた真なり。
感謝から入っても結局、感動や「感激」が湧き上がって来るということの証明でもあるそうです。

 感激すると涙が自然にあふれ出て、鼓動が激しくなり、自分ではどうしようも出来なくなります。毎日ご飯をいただける事に感激できる人は素晴らしい人ですね。
 ご飯を食べる前に、みなさん、「いただきます」といいますが、これは省略した言い方だそうです。正式には
 「私はあなたの命をいただきます」だそうです。
人間は他の生き物の命をいただかないと、生きていけないのですね。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上

330 不機嫌

2006-04-22 22:26:49 | Weblog
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330 不機嫌

  人は元々、機嫌良く生きられるように出来ています。われわれの「不機嫌」は、単なる甘えの問題だそうです。この世に自分を「不機嫌」にさせる人が存在するのではありません。

われわれは誰かかのセイで「不機嫌」にさせられたと想いたいかもしれませんが、われわれを「不機嫌」にすることが出来るのは、自分自身以外にはないそうです。

人間は元々、機嫌よく生きられるように出来ているそうです。機嫌は「起源」。我々の源は常にご機嫌であり、それは「ご喜元」に通じます。人間は元々、喜びの存在であり、その「起源」を見失ってしまった時、「不機嫌」という状態に陥ることになるそうです。

厳密に言えば、「不機嫌」になるのではなく、 われわれが「不機嫌」を演じているだけなのですね。
人間関係の中でわれわれが「不機嫌」を演じる時、そこには「不機嫌」な態度を相手に見せることにより、もっと自分のことを尊重し、自分に対して気を遣って欲しいという甘えがあります。

自分に対する自信の無さや自己重要感を相手に対してアピールするための手段として「不機嫌」な態度を示しているに過ぎませんね。

われわれがイライラと「不機嫌」な態度を示すことによって、確かに相手はわれわれのことを腫れ物に触るように丁寧に扱ってくれるようになるかもしれません。
しかしそれは決して、われわれの存在に敬意払っているからではなく、 われわれの「不機嫌」な態度に巻き込まれないように警戒しているだけに過ぎなのですね。

われわれは自分の存在を認めて欲しくて「不機嫌」な態度を示しているのかもしれませんが、「不機嫌」な態度を示せば示すほど、相手からの評価はますます低下するようです。

 たしかに、不機嫌になったり怒れば相手が納得してくれると思いがちですが、実は敬意を払っているわけではなく、警戒しているだけなのですね。
 そういえば、女房殿が「はい、はい、わかりました」と“はい”を2回言うときは、納得したからではなく、もう相手にしたくなかっただけなのですね。妙に納得しました。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上

329 世界一過酷な刑

2006-04-20 19:02:42 | Weblog
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329 世界一過酷な刑

 ロシアで実際にあった『世界一過酷』と言われた刑の話です。
 囚人に、「ここに穴を掘れ!」とただ命令します。
 囚人は監視する人がいるので必死で掘ります。さもなければどんな仕打ちに遭うかわかりません。そして自分の身体が隠れ、地上が見渡せなくなるくらい深く穴を掘ったところで・・・今度は・・・
 「この穴を埋めろ!」
とその説明も何もなく、ただ命令されます。

そしてやはり身の危険が迫っていますので、必死できれいに埋めていきます。埋め終わった頃、また、命令が聞こえます。しかし、耳を疑います。頭が真っ白になって時間が止まります。
 「穴を掘れ!」
と同じ所をさして、命令されます・・・・。

 このようなことは数回繰り返すと囚人は気がおかしくなるか、もうその酷さに心身がボロボロになる、という話です。確かに過酷な刑です。

 ところで、同じことをしていながらも違う影響を与えた例があるそうです。
戦国時代の武将で兵糧攻めにしている時に、同じことを命令したそうです。それをしたところ、囚人とは違って、家来の志氣が保て、勝利に導いたというのです。
 「その一番酷い刑を敵軍の捕虜にさせたのですか?」
いいえ、違います。自軍の武士にさせたのです。ただ、ちょっと違う点がありました。

「ここに穴を掘れ、敵城に攻め入るためにとても重要な穴だ。これがこの戦いの勝敗を決するぞ!」
と言い穴を掘らせました。
家来は自分の身に危険が降りかかっています。もちろん必死です。

ところで、順調に掘るのが進んでいった頃、突如、命令します。
「この穴を埋めろ! 至急。敵軍に我々の作戦がばれてしまった。
 敵軍がこの穴を利用して我が軍に攻め込んでくるぞ。
 直ちに埋めよ。
 どれだけ早く埋められるかで勝敗の行方が決するぞ!」と

 その結果、ともすれば兵糧攻めで、ただ対峙しているだけでは手持ち無沙汰でイライラして味方同士がケンカしたりするような志氣が衰えそうな状態を脱することができた。というお話です。

 表面上は同じことをしていても、明確な目的や目標があるなしで、その行動に意味を見つけられるのと見つけられないのとでは大きな差が生まれますね。

 それと信頼関係があるのとないのとでも・・・。
 
 その通りですね。同じことをやっていても目的があるとないとでは、全然志氣が違います。

 また信頼関係もあるとないでは大違いです。不思議なもので、同じことをたのまれても、嫌いな相手から頼まれれば気が進まなくても、尊敬できる人から頼まれれば喜んで出来ますね。

  人間は目的がハッキリしないと力が湧いてこないようです。

 でも女房殿にお金の工面をお願いするときは、目的がハッキリしない方が・・・
 「いったい何に使うの?」と聞かれると、ドキッとしますね。

いかがでした。
次回もお楽しみに
以上

328 チャンスがきたら

2006-04-18 14:21:51 | Weblog
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328 チャンスがきたら

あるお話です。

ある人の口ぐせは、「チャンスが来たら」でした。彼は、今の仕事が嫌いだったし、住んでいる家も気に入りませんでした。本当にやりたい仕事は他にありました。 
 いつも今の仕事を辞め、やりたいことをはじめたいと考えていたのです。彼はまた、住みたい土地や家のことは、毎日、頭のなかに思い浮かべて楽しんでいました。

 チャンスがあったら、今、すぐにでも仕事を辞めよう。
 チャンスが来たら、新しい家を手に入れて、心地よく暮らそう。
 「チャンスが来たら……」
 
 彼は、気に入らない家に住み、嫌な仕事をしながら、毎日、そう言い続けていました。そして、何十年もの月日が流れていきました。結局、彼は、定年になるまで同じ仕事を続けました。もちろん、同じ家に住んだままです。

 その後も彼は、「チャンスが来たら」と言い続けていました。まだ、いつかは自分にも人生を変えるようなチャンスが訪れると信じていたのです。けれども、結局、70歳で亡くなるまで、彼のところにチャンスがやって来ることはありませんでした。

 ……天国にたどり着くと、彼は、あちこち探し回って、『チャンスの神様』をみつけだしました。
彼は、神様に尋ねます。
「ずっとずっと待っていたのに、どうして私のところには、チャンスを持ってきてくれなかったんです。他の人のところには、何回も何十回もチャンスを与えているのに」

 チャンスの神様は、こう答えました。
 「そんなはずはない。私は、誰にでも平等にチャンスを与えている」
彼は、顔を真っ赤にして神様に食ってかかりました。
「バカな! 私は、ただの一度もチャンスに出会ったことはないぞ!」

 神様は、困ったような顔をして答えます。
「それはお前が、ちゃんとチャンスに気づこうとしなかったからだ。私はお前に、3600万回以上、つまり、他の人と同じように、生きている時間の1秒に1回、チャンスを与えたのだ」
  
 そうです。
 彼は、「チャンスが来たら、チャンスが来たら」と考えることに忙しくて、結局、目の前にあるチャンスに氣づかなかったのでした。

 「明日」という日は、永遠にやって来くることはありません。
 「今日の夜に寝て、目が覚めたら明日じゃないか!」
と思われるかも知れませんが、目が覚めると、もうその日は「今日」になっているのです。
 「明日」は、またしても、もっと先に逃げていってしまっています。
 「明日」は、いつまで待っていてもやって来ません。
 私たちが生きることができるのは、いつでも「今日」だけなのですね。

 だから、「いつかチャンスが来たら」と思っていても、永遠にチャンスが来ることはないのですね。チャンスがあるのは、いつも「今」だけだそうです。

 人生に変化を起こし、前に進んでいくことができるのは、今、この瞬間しかありません。“夢を叶えるために”“望むものを手に入れるために”

 今やらないとしたら、いったいいつやるのだろうか?

 ほんとにそうですね。明日やれば良いわと思っていると、いつまでたっても出来ないことは、よく経験がありますね。結局今しかやるときはありません。
 頭では分かってはいるのですが、一歩前に出る勇気が無かったり、すぐ心配したりして、せっかくのチャンスを逃がしていることがあります。

 でもこの人もスゴイですね。天国へ行ってからでも、神様に因縁をつけるのですから。この執念をもっと他に向ければきっと良いことが起きたのに。

 氣まぐれ剣士もチャンスを待っていたらあっという間に50歳に手が届きそうです。もう50歳と思うか、まだ50歳と思うかによってチャンスを手に入れるかどうかが違ってきます。まだまだ人生の半分だと思えば・・・。

 ちなみに、99歳は白寿(はくじゅ:百に1本足りない)、100歳は百寿(ももじゅ)110歳は珍寿(ちんじゅ:珍しい)、120歳は大還暦(だいかんれき:還暦を2回)というそうです。
 人間は120歳まで生きられることを、昔の人は知っていたのですね。

 いかがでした。
 次回もお楽しみに。
以上


327 パートナーシップ

2006-04-15 07:01:59 | Weblog
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327 パートナーシップ

人間関係全てに言えることですが、特に身近な人は、あなたの内面を余すところなく映し出してくれる「高性能の鏡」だそうです。

私たちは生きている限り、自分の姿を自分の目で観ることは出来ません。鏡がなければ、自分の本当の姿がどうなっているのかがわかりません。鏡がなければ、自分の姿を整えたり、修正したりすることも出来ません。

わたしたちの身近なパートナーは、そうした自分の本当の姿を、特に内面の「こころの状態」を忠実に映し出してくれている、実に在り難い存在だそうです。

但し、本当の鏡に映った世界が左右反転しているように、こころの鏡に映し出されるあなたの状態も、あなたそのものの姿をストレートに映し出すのではなく、反対に映し出されているそうです。

私たちにとってのベストパートナーとは、あなたに「ない」ものが全て「あり」、 あなたに「ある」ものは何も「ない」、そんな人かもしれません。

「パートナーシップ」は、人間関係を学ぶための最高のレッスンプログラムですが、パートナーが自分の内面を映し出してくれている限り、「パートナーシップ」の真の効用は、本当の自分と出会うためのプロセスだそうです。

「パートナーシップ」は相手との関係ではなく、結局自分関係に他なりません。 相手は鏡であり、相手が映し出しているものは、自分の内面なのですから、相手にいくら働き掛けても意味がありません。変えるのは相手ではなく自分であり、自分を変えられるのは自分以外にありません。

 そうですね。鏡の中の相手をいくら変えようとしても変わるわけがないですね。女房殿にあれが悪い、これが悪い、きちんとしたらどうだと言ってもちっとも変わってくれないのは、結局は鏡の中の自分に言っていたのですね。確かに自分を変えれば確かに鏡の中の自分も変わります。

 でも、鏡の中の剣道の立ち姿だけでも格好よくなりたいなぁ。いつまでたっても見かけだけを追いつづける氣まぐれ剣士でした。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上

326 片付けなさい

2006-04-13 14:52:22 | Weblog
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326 片付けなさい

「片づけなさい!」と言うと、子どもは片づけません。片づけるのがイヤなのではないのです。全部、自分で片づけるのがイヤなのですね。
片づけてすっきりさせたいのは、むしろ親の気持ちですね。もちろんしつけも大切ですが、まずは親の気持ちを解決した方が事はうまく運ぶそうです。

「片づけなさい!」と言わずに、「一緒に片づけようか?」と提案した方がうまくいきますね。親が部屋をスッキリさせたいのだから、スッキリさせればいい。こうして親自身の気持ちをまずスッキリさせますね。

そんなスッキリした気持ちの親の姿を見て、子どもも一緒に片づけはじめます。片づけが楽しい遊びに変わります。片づけ終わったら、親子でスッキリした気持ちになります。そうしたらジュースでも飲んで、お菓子でも食べて、満足ですね。いかがでしょうか。


≪甘やかし≫

「甘え」と「甘やかし」は違うそうです。
「甘え」は気持ちがブルーになったときに、エネルギーの充電をすることだそうです。充分に甘えさせてあげればいいそうです。

「甘やかし」は、自分でできることをやってあげてしまうことや、わがままを見過ごしてしまうことです。「甘やかせ」ずに「甘え」させてあげるのです。

よく似ている言葉ですが、全く違う意味だそうです。
上手に「甘え」られて、決して「甘やかせ」ないのがいいそうですよ。

 なるほどね。似て非なるものですね。
そういえば同じ“みる”でも“見る”と“観る”では大違いですね。“見る”は外形を見る、“観る”は中身をみる、すなわち心を見るのですね。剣道でも女性をみるのも“観る”ことが大事かもね。

いかがでした。
次回もお楽しみに
                                   以上


325 いい言葉

2006-04-10 15:38:49 | Weblog
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325 いい言葉

気にいった言葉を集めてみました。

●どんなことでも、いつはじめても遅くはない(浅田次郎・作家)


●自分に打ち込めるものがあるうちは、まだまだ青春期
                   (平山郁夫・日本画家)

●生きているということは、
 その人でなければやれないことをやることだ(早乙女貢・作家)

●それぞれの分野の成功者は、桁はずれに一つのことが好きなのだ。
  若者よ、やりたいことをやりとおせ。
  好きな仕事を探し、プロを目指せ!  (中略) 
  好きなことを見つけて、たとえその分野が、今は頭打ちでも貫くこと。
  それが成功への秘訣だ。         (堺屋太一・作家)

●回り道が近道のことがある。それが人生だ。
                  (牧野昇・三菱総研会長)

●才能に恵まれなかったら、多くの才能を与えてくれなかった神様に
  感謝した方がいい。足りない部分を補うには、努力するしかないと
  いうことを教えてくれたわけだから。
                (松木安太郎・サッカー監督)

●今、あなたのうえに現れている能力は氷山の一角。
  真の能力は、水中深く深く隠されている。(宇野千代・作家)

●私はいつも、こう考えるようにしている。
 「人生今が最高」            (内藤國雄・棋士)

どれも素晴らしい言葉ですね
次回もお楽しみに。
以上


324 争いの哲学

2006-04-05 08:18:14 | Weblog
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324 争いの哲学


 争いが起きたときには、二つの対処方法がありますよね。

 ひとつは、戦う。もうひとつは、避ける。

 問題解決方法には、さまざまなものが提唱されてきていますが、納税額日本一で有名な斎藤一人さんは、このようにお考えのようです。

 「利口になるのは自分だけ」

 人間ってね、つっかかる人はつっかかることしかできない。それで精一杯。それを相手を変えよう、っていうのは、相手に利口になることを求めているんだよ。でも、それはできない。何でかって、相手は利口じゃないから。世の中ってね、利口になるのは自分だけだよ。だって、自分の学びのために出てきているんだもん。相手が利口になったって、それは自分の学びにはならないよ。
  (『斎藤一人の不思議な魅力論』(PHP研究所)より)

 斎藤一人さんは、争って相手を変えることを考えるよりも争いは避けるほうが得策だとおっしゃっています。それは、言い負かしたからといって、周りの人は「偉い」
とも思わないし、言い負かした後の怖さもあるからなのだそうです。

 ですから、常に自分を主語にして相手を変えようとせずに、自分が変わっていくことのほうが重要だといいます。自分の学びのためにも、トラブルに巻き込まれないためにも、良い意味で自分を中心に考えたいものですね。

 その通りですね。争いはどちらかが一方的に悪いというよりも、どちらも自分の方が正しいと思っているときに起きるようですね。

 孔子さんの“君子危うきに近寄らず”はこのことを言いたかったのかなぁ。争っていくら勝っても平和は来ないモンね。ブッシュさんはちっとも分かってないようです。

 いかがでした。
 次回もお楽しみに。
以上


323 本当にワクワクすること

2006-04-01 21:53:53 | Weblog
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323 本当にワクワクすること

「本当にワクワクすること」というのは、「自分は、このようなワクワクすることをやっていたら、成功できるだろうか? 金持ちになれるだろうか? 豪邸に住めるようになれるだろうか?」ということを考えない状態です。このようなことを考えているうちは、成功は難しいそうです。

子供の頃、「ワクワクして遊んでいたら、将来、金持ちになれるだろうか?」と考えながら遊んでいた人は、いないと思います。

でも、最高に幸せだったのではないですか? 子供の頃の、遊んでいた精神状態が、「本当にワクワクすること」なのです。もう、「これが、本当のワクワクだろうか?」とか、「成功するかどうか?」とか、「本当の幸せとは何か?」など、考えていない状態です。そのような精神状態になれば、成功するかどうかは、わかりませんが、確実に幸せになれそうですね。

「仕事」などを選ぶ時も、本当に自分が好きなことを仕事にするべきでしょうね。
「こんなに楽しい仕事をさせてもらって、給料までもらって、申し訳ない。」

こう思えるくらい楽しい仕事ができれば、仮に、失敗しても、どうせ最初から、成功しようなどと期待して仕事していたわけではないから、諦めもつきます。仮に運良く成功できたら、神様や周囲の人たちへの感謝の気持ちが湧いてきます。

「自分の好き勝手をさせてもらい、ワガママをさせてもらった。しかも、オマケに成功までさせてもらった。ありがたい、ありがたい」

こう思えるのです。こうやって、謙虚になると、周囲からの評価もあがり、ますます成功させてもらえる確率が高くなるという理屈です。人生の好循環に入れるのです。

これが、自分の嫌いな仕事を、給料の高さなどのお金やステータスで選んでしますと、最悪です。嫌なことを我慢するようになるからです。
「これだけ、自分は我慢したのだから、きっとよい見返りが返ってくるだろう。給料も、どんどん上がってくるだろう」

こういうふうに、「エゴ」の部分が肥大してきやすくなるのです。また、このような場合、失敗すると、世の中を恨むようになり、ひがんだり、人の悪口ばかり言うようになります。

仮に、成功しても、
「自分が、一生懸命努力したから、成功したんだ」
ど傲慢になります。オマケに、自分が我慢しているものだから、この「我慢」を同僚や部下などにも、押し付けるようになり、周囲からも嫌われるという、最悪の悪循環に入るのです。

だから、「本当にワクワクすること」をすることは、人生において、「幸福」への最高のパスポートになるのです。「ワクワク」は、神様や周囲の環境などに、「感謝」を生み、それが、成功への原動力になるということです。

ワクワクしていると、「自分」が、光輝きます。時間が飛んでいきます。そして、本当の人生を生きられるようになるのです。そして、「愛」が満ち溢れてきて、それが、本当の「自由」を感じ、「神」と一体になるという結果になるのです。

そうですね、氣まぐれ剣士は剣道やっているときが一番楽しいですね。子供の遊びと一緒で、どうでも良いから楽しいのですね。勝っても良いし負けても給料下がらないですからね。思い切って楽しめますね。

試合で負けたときはちょっぴり恥ずかしいけど、相手に勝たせてあげたと思えば立派な人助けですよね。でもこれは決して、相手や人前では言わないで下さいね。言えば“負け惜しみ”と思われますからね。

実は負け惜しみなんですが、自分の中だけで思っていれば、誰にも迷惑はかけないし、自分も納得でき、一石二鳥ですよね。

勝てば儲けモンですよね。皆からは良くやったと誉められるし、なにせ、元手が要らなくて楽しめますから、これ以上のものはありません。

そして適度な緊張感が良いですね。最近仕事以外ではあまり緊張することがないので、相手と対峙した時のなんともいえない心の葛藤がたまりません。ドラマの主人公を演じているみたいです。

打とうか守ろうか? 出端で行くか応じ技で行くか? コテをせめて面で行くか、又はその逆で行くか? コンマ何秒の一瞬に全てを判断して決断しなくてはいけません。頭で考えているのか、体が勝手に動くのか分かりませんが、意識を集中していると“今、ここ”にいることを実感できます。
 こんな風に仕事も出来たら良いですね。

いかがでした。
次回もお楽しみに
以上