氣まぐれ剣士の言いたい放題
637 東大野球部
東京六大学野球で東大といえば10人が10人とも毎年ビリだと思っています。イメージとしてはその通りですが、しかし、万年というのは少しオーバーのようです。
戦争で中断した六大学リーグ戦が3年ぶりに復活した昭和21年(1946年)に、東大は堂々第2位、しかも優勝した慶応に1―0の惜敗だった(この年は1回制)そうです。
もっと歴史を逆上れば、日本に野球が導入された創世期、特に明治20、30年代は、東大教養学部の前進である、第一高等学校が、日本野球界の王座に君臨していた。
一高「べーすぼーる部」のキャッチャーとして正岡子規が鳴らしたのはまさにこの頃で、「野球」という日本語の名称が定着したのも、明治28年(1895年)発行の「一高野球部史」からだそうです。
むかうところ敵なしの感があった一高は、明治24年本格的な相手を求めて、ヨコハマ・アスレティック・クラブ(YAC)のアメリカ人チームに試合を申し入れた。
YACチームは専用球場も持ち、強豪として鳴り響いていた。彼らは一高チームごとき者の挑戦は歯牙にもかけず、取り合おうともしなかった。さまざまな経緯を経て、両者間で史上最初の日米野球が実現したのは、5年後の明治29年だった。
さて、結果はどうなったか。大方の予想とはまったく逆に、一高チームは何と29-4の大差でYACチームを完膚なきまでに打ちのめし、さらに、翌月行われたリターンマッチのも32-9と連勝して、大いに溜飲を下げたものであったそうな。
さすが、一高ですね。頭だけでなく、野球も強いとは知りませんでした。正岡子規が野球が好きだとは知ってましたが、一高のしかも絶頂期の野球部だったとは知りませんでした。
明治時代の野球部の先輩たちが今の現状を見たら、何と思うでしょうか。何事もマイナーなうちに頑張っておけば、楽して勝てるかも知れませんね。一高がいち早く野球を取り入れたのは、やはり先見の明があったかも知れませんね。
いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上。
637 東大野球部
東京六大学野球で東大といえば10人が10人とも毎年ビリだと思っています。イメージとしてはその通りですが、しかし、万年というのは少しオーバーのようです。
戦争で中断した六大学リーグ戦が3年ぶりに復活した昭和21年(1946年)に、東大は堂々第2位、しかも優勝した慶応に1―0の惜敗だった(この年は1回制)そうです。
もっと歴史を逆上れば、日本に野球が導入された創世期、特に明治20、30年代は、東大教養学部の前進である、第一高等学校が、日本野球界の王座に君臨していた。
一高「べーすぼーる部」のキャッチャーとして正岡子規が鳴らしたのはまさにこの頃で、「野球」という日本語の名称が定着したのも、明治28年(1895年)発行の「一高野球部史」からだそうです。
むかうところ敵なしの感があった一高は、明治24年本格的な相手を求めて、ヨコハマ・アスレティック・クラブ(YAC)のアメリカ人チームに試合を申し入れた。
YACチームは専用球場も持ち、強豪として鳴り響いていた。彼らは一高チームごとき者の挑戦は歯牙にもかけず、取り合おうともしなかった。さまざまな経緯を経て、両者間で史上最初の日米野球が実現したのは、5年後の明治29年だった。
さて、結果はどうなったか。大方の予想とはまったく逆に、一高チームは何と29-4の大差でYACチームを完膚なきまでに打ちのめし、さらに、翌月行われたリターンマッチのも32-9と連勝して、大いに溜飲を下げたものであったそうな。
さすが、一高ですね。頭だけでなく、野球も強いとは知りませんでした。正岡子規が野球が好きだとは知ってましたが、一高のしかも絶頂期の野球部だったとは知りませんでした。
明治時代の野球部の先輩たちが今の現状を見たら、何と思うでしょうか。何事もマイナーなうちに頑張っておけば、楽して勝てるかも知れませんね。一高がいち早く野球を取り入れたのは、やはり先見の明があったかも知れませんね。
いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上。