氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

235 生き方

2005-10-30 17:35:12 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

235 生き方

江戸時代の儒学者・石田一鼎が、次のようなことを語っています。
 「子供の頃に、不幸を経験した人間の生き方には二通りある。
  
ひとつは、自分の不幸を呪って、世の中に復讐してやろうと思うような生き方だ。これは、不幸な経験を活かしてはいない。逆に悪用していると言えるだろう。
その動機は私心から起こり、自分が不幸な経験をしたから他の人にも不幸を味わわせてやろうという誤った考え方です。
 
 もうひとつの生き方は、自分が経験したような不幸は、できるだけ他の人たちには味わわせてはなるまいと、世の中のために正しく努力しようという生き方です。

これは自分の不幸を乗り越えて活かしていることになります。
 ときに私たちは、不条理としか思えない不幸に出会うこともあります。特に人間関係に於いて、悩んだり苦しんだりすることが多いようですね。それが一時的な関係ならば、どんなに深く傷つけられようと心の持ちようで、何とか乗り越えていくことはできるでしょう。
 
 そして、世のなかにはいろいろな人もいるし、さまざまな考え方があるものだという気づきをもらったり、他の人には、絶対こんなイヤな思いはさせないでおこうという学びを得ることにもなるのです。

 そう思える人は立派な人ですね。普通は前者のように、どうして自分だけがこんな運命に出会わなければならないんだと、世の中を呪う気持ちを持っても当然かも知れません。
 若者がグレる理由に「世の中が悪いから」「不公平だから」ということをよく聞きます。
確かに世の中は不公平ですね。美人で裕福なひともいれば、ちょっと不細工でお金のない人もいます。
美人でお金があれば幸せか?もちろん、幸せな人もたくさんいますが、幸せでない人もたくさんいます。逆に不細工でも幸せな人もたくさんいます。
幸せととか、不幸とかは条件ではないのですね。自分らしく生きること、自分の生きざまが幸せにつながるようです。
 
 気まぐれ剣士は、気まぐれ剣士らしく生きること、つまり“いい加減”に生きることを目指しています。もちろん“いい加減”とは“良い加減”のことです。

次回もお楽しみに
以上

234 あなたに必要なもの

2005-10-27 18:07:59 | Weblog
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234 あなたに必要なもの

 健康で楽しい生活を送るための「元氣」と

 心穏やかにいられる十分な「やすらぎ」と「ゆとり」

 人間性あふれる「やさしさ」と「感動」

 ちょっとしたことにも感動できる「豊かな感性」と「洞察力」

 人の痛みがわかる「思いやり」と

 熱意を持ち続ける「パワー」と「志」

 喜びを分かち合いながら道を共に歩む「友」と

 必要なものを満たしてくれる「富」と「時間的ゆとり」

 前向きに生きるための「夢」と「情熱」

 悩みや憂鬱を払いのける「信念」と「希望」

 今日を明日よりも楽しむ「決意」と

 ツキを呼び込む「運氣」と「人氣」

 運命を開き、挑戦を楽しむ「勇氣」と

 すべてにありがとうと自然に思える「感謝の心」が

 どうかあなたとご家族の皆様に、尚一層もたらされますように心よりお祈り申し上げます。


 これは気まぐれ剣士がほしい物でした。
 いかがでした。
 次回もお楽しみに。
以上

233 自由の身

2005-10-25 23:06:49 | Weblog
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233 自由の身

 
数多くの罪を犯した囚人が、とうとう処刑されることになりました。
処刑を宣告する国王の前に連れて行かれる間、囚人は、自分がどんな処刑をされるのかを想像しては、恐怖に震えていました。
 絞首刑のロープの前に引き出された囚人に向かって、国王は言います。 
 「お前の犯した罪は重く、その償いはしなくてはならないが、最後に選択の権利を与えてやろう。
通例通り、目の前のロープに首を吊されるか?……それとも、あの扉の向こう側で、罪の裁きを受けるか?どちらでも、好きな方を選ぶが良い」
  
 国王の指差す先には、黒くて大きな鉄の扉があります。
 囚人には、その扉も国王の顔も、とても恐ろしげに見えました。
 扉の向こうに行けば、どんな惨い処刑が待っているか知れたものではないと迷うことなく絞首刑を選びました。

 ロープに首をかけ、いざ処刑されようとするときになって、囚人は、国王に尋ねました。
「王様、ひとつだけ教えてください。
  あの鉄の扉の向こうには、何があったのでしょうか?」
国王は答えました。
「教えてやろうか。扉の向こうには何もないのじゃ。私はいつも、囚人には、この国を出て、自由に生きることができる選択を与えてきた。
しかし、不思議なことに、自分の未来を信頼しない奴に限って、目の前の絞首刑を選ぶ。
すぐそこに、自由が待っているというのに……」

 苦痛な状況や、やりたくない仕事、嫌な相手や、思い出したくない出来事など、できれば、すぐにでも逃げ出したいものですが、多くの人は、そんな苦痛を握りしめて、離そうとはしないようです。我々は囚人のことを笑えないかも知れません。
 あのとき、ほんの少しだけ勇気を出していれば・・・と後悔することもしばしばです。

 我々は出来ない理由を探すのが得意なようです。これがないから出来ない、時間がないからダメとか、せっかくすばらしい幸運にめぐりあうチャンスを逃がしているかも知れません。
 気まぐれ剣士はいつも勝てる理由を探しているのに、なかなか勝てないのは、やっぱり勝てる理由が見つからないからです。ごもっともです。
 次回もお楽しみに
以上

232 今日もいい日

2005-10-23 17:00:53 | Weblog
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232 今日もいい日

 
『道の一歩一歩、人生の一日一日はそれぞれが 完成されたひとときであると同時に、 人生全体のひとつの部分となっている。 なんでもない瞬間などというものはない。 ちょうど今あなたが生きているこの瞬間は、全体であって、人生全体から切りはなされた ものではない。』

 あるオリンピック選手の話です。
 以前の私はたった1日の喜び(勝利・感動・栄冠)のために残り364日を犠牲にし、我慢の日々にしてしまったこともありました。
いえ、もっとひどかったかも知れません。
4年に1度のたった1日のために1460日(4年間)泣きたい氣持ちを抑えて、頑張ってきたことも。 まるで自分だけのオリンピックのために・・・
さらには困ったことにその自分だけのオリンピックのために周りを引きずり廻そうとしたり・・・

 すると周りの人に嫉妬や怒りが湧いてくることもありました。
「俺はこんなに頑張っているのに、なんでみんな頑張らないのだ?
 わかってくれないのだ? 協力してくれないのだ?」
「彼らは遊び呆けていて、いずれ大変な思いをするに違いない!」
などと。

 オリンピック選手は大変でしょうね。たった一日のためにあとの364日を犠牲にしなくてはならないとは。愚痴も言いたくなりますね。
 
  心を込めて行動し、十分に今を楽しみ堪能し、周りにも自然に感謝でき、結果が出せれば最高ですね。
   「深刻よりは、真剣に、 努めるだけではなくて、楽しんで」
   「力をぬいて 手を抜かず、心を込めて 念入りに」 
「楽しめば、楽しみごとが、楽しんで、楽しみ連れて、楽しんで来る」

 剣道がオリンピック種目になくてよかったですね。たった一日のためにすべてを犠牲にすることは、気まぐれ剣士には出来ません。たとえオリンピック種目であっても気まぐれ剣士が出られるわけでもないのに。勘違いをしている気まぐれ剣士でした。
 
次回もお楽しみに。
以上

231 病

2005-10-21 00:34:46 | Weblog
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231 病

 あるお寺の掲示板にこんなことが書いてあるそうです。
「病気が治ることがご利益ではない。病気を無駄にしない心こそご利益である」
 
 私たちの神仏のご利益というと、私の願いが叶うことだと思っています。しかし、仏教の立場からいうと、願いが叶うこと、思い通りになることをもって幸せとする人生観こそ、逆に苦しみの源であります。自己へのとらわれから自由になることを理想としているそうです。

 本当の幸せは苦しみやマイナスの状況の中にあってもその現実を受け取る心の目を開くことのようです。

 病気を苦しむ人は「あなたは病気をしていないからそんな暢気な理屈がいえるんだ」と言います。しかし、どうしても変えることも、代わってもらうことも出来ない現実ならば、苦しみが苦しみのまま終わり、悲しみが悲しみのまま終わっていかなければならないほど、虚しく、やるせないことはありません。その苦しみや、マイナスの状況をとおして、学び、気づき、新たなるものとの出会いや成長があったとき、「苦しいことでしたが、かけがえのないことでした」と現実のうなずきが与えられます。その新しい出会いが大切なのですね。

 「われ思う。ゆえに我有り」といった哲学者カントのお話です。
 カントとは生まれつきいつ死んでもおかしくないくらい弱い体でした。あるとき一人の医者から君は体はともかく、丈夫な心のお陰でまだ生きていられる。そのことを喜びと感謝に変えていったらどうだろうかと言われました。

 そこでカント少年は今までの自分を反省したそうです。自分は今まで喜んだ事もなかったし、感謝したこともなかった。朝起きても、夢の中でも、「つらい、苦しい」が口癖だった。でもそれは止めてみよう。「ありがたい。うれしい」という言葉に変えて見ようと決心したそうです。そして80歳まで生きたそうです。

 あの大哲学者のカントでさえ病弱で、苦しいときがあったのですね。だからあの有名な言葉のように自分が思う事が出来るだけでも嬉しかったのかも知れませんね。
 気まぐれ剣士も剣道が出来るだけで幸せです。でもすぐ欲が出るのです。強くなりたいって。

いかがでした 
次回もお楽しみに
 以上

230 言葉の成り立ち

2005-10-19 12:04:01 | Weblog
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230 言葉の成り立ち

 今回は言葉の成り立ちです。よく考えてあります。

 ・癌(ガン) 口を3つも書いて山ほど食ったという字。食べ過ぎると癌になる?

 ・食     人を良くする。

 ・偽(いつわり) 人の為とかいて偽りとは、ごもっともです。

 ・儚(はかない)  人の夢とかいて儚(はかな)いとは、やはり、はかない夢?

 ・念     今の心。念ずるとは今の心をこめること?

 ・頑張る   我を張ること。頑張りすぎると良くないかも?

 ・諦める   明らかに究めること。決して悪いことではないようです。

 ・努力    努は奴隷の奴だそうです。

 ・必死    必ず死ぬこと。あまり必死にならないほうがいいかも。

 ・損得勘定  損得感情

 ・悟る    差を取ること。あなたと私に差がないことに気が付くこと。

 ・穢(けがれ) 気が枯れること。

 ・迷う    目酔う。目が酔うから迷う?

 ・命     人は一どは叩かれる。 

 ・いのち   いきるためのちえ
 

いかがでしたか。いずれもよく考えてありますね。感心するばかりです。
 次回もお楽しみに
以上

229 ありがとう

2005-10-17 15:19:51 | Weblog
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229 ありがとう
 
清水英雄さんの詩です

ありがとう

つらいことがあると感謝するのです
 これでまた強くなれると ありがとう

悲しいことがあると感謝するんです
 これで人の悲しみがよく分かると ありがとう

ピンチになると感謝するのです
 これでもっとたくましくなれると ありがとう

つらいことも 悲しいことも ピンチも乗り越えて
 生きることが人生だと言い聞かせるのです 自分自身に

そうするとふっと楽になって 楽しくなって 人生が
 とても輝いてくるのです

ピンチはチャンスだ 人生はドラマだ

人生がとても素敵に すばらしく よりいっそう
 光り輝きだすのです

ますます光輝く人生を
 ありがとうの心と共に


とってもいい詩ですね。
なんだか元気が沸いてきませんか。
気まぐれ剣士の大好きな詩です。

次回もお楽しみに
以上              

228 なんとかなる

2005-10-16 08:04:29 | Weblog
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228 なんとかなる

一休さんがなくなったときに、弟子たちに大きな長持ちを一つ残していきました。「もし、お金に困って、どうしても生きていけないということになったら、皆でこの長持ちを開けなさい」これが一休の遺言でした。

弟子たちは一年目、二年目と何とかしのいできましたが。三年目になって寺の経済状態がどうにもならなくなってきました。そこで、弟子たちは集まって相談し、一休さんが残してくれた長持ちを開けようということになりました。

ふたを開けて行くと中にもまた小さな箱があり、その中にまた小さな箱があります。また箱が・・・また箱が・・・最後に小さな箱が出てきました。みんなはそこに価値のある財産が入っているに違いないとその小さな箱を開けました。すると小さな紙が出てきました。それに何か書いてあります。広げて読んで見ると、たった6文字だけ書いてありました。

「なんとかなる」
 
まさに至言ですね。何とかなると思えば人間は自分の食いぶちくらいは自分で何とかなるかもしれません。株が下がっても、金利がつかなくても、何とかしようとすれば何とかなります。今までそうして生きてきたのだから。

 ついでにあの人は「見込みがある」とか言いますが、器が名器かどうか見分ける最後のポイントは茶碗の深さだそうです。これを「見込み」といいます。名器は実際の深さより底が深く見えます。見込みが深い茶碗を「見込みがある」というそうです。

 「見込みがある」が器からきているとは知りませんでした。やはり優れているものは実際よりも大きく見えるのですね。

 これは剣道でも言えそうです。見込みのある人は大きく見えます。特に強い人は大きく見えます。気まぐれ剣士は、相手が大きく見えます。

 気まぐれ剣士でも大きく見えるときがあります。それは相手が小学生の時です。
それは大きく見えるのではなく、ただ相手が小さいだけなんですけど。

いかがでした
次回もお楽しみに
以上              

227 浄土宗

2005-10-15 08:37:54 | Weblog
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227 浄土宗

鎌倉時代に法然というお坊さんが観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経にであいました。そこには座禅など組まなくても南無阿弥陀仏と仏の名前を唱えれば極楽往生出来ると書いてありました。それからは、何でもかんでも南無阿弥陀仏一本だそうです。

法然の弟子の親鸞は南無阿弥陀仏を何回も言うことはない。十回唱えれば十分だということになりました。それが念仏十念だそうです。

ところが心配性な人がいます。七回唱えたところで死んでしまったらどうしようといいました。そこで十遍言わなくてもいい、一遍で言いといったのが一遍上人だそうです。一遍だけ南無阿弥陀仏を唱えるだけよいから、特にお寺は必要でない。道でもどこでも修行の場です。

法然と親鸞と一遍と念仏宗で誰が一番受け入れられたでしょうか?
法然さんのように事あるごとに何回も何回もブツブツと南無阿弥陀仏と言うのは面倒です。といって一遍さんのように一回と言うのも何か物足りない。十遍くらいが適当であろうということで親鸞さんの念仏十念が最も受けいれられたそうです。

ついでにお釈迦様は5048巻の大蔵経を説い弟子たちと色々議論しています。どんな質問にも親切に答えているのですが、ある質問には決して答えませんでした。それを「釈尊無記」と言うそうです。無記というのは沈黙のことです。「死んだらどうなるのか」という質問には何も答えねいで沈黙しています。

やはり昔からしつこい人がいて、「どうしてその質問に答えないのですか」と質問した人がいます。するとお釈迦様は、「私の教えは生きているときの教えだ。だから、死んだ後のことについては答えない」といいました。「私には死んだ後のことには関心がない」とも言っています。

お釈迦様も死んだ後のことについては知らないのでしょうか。それとも、知っていても教えたくなかったのでしょうか。ひねくれ者の気まぐれ剣士は、さすがのお釈迦様も知らないからこんな言い訳を言っているのかなと思ってしまいます。

でもこの手は使えそうですね。知らないときには、「気まぐれ剣士はそんなことには関心がない」といえば良いですよね。ひとつ勉強になりました。

いかがでした
次回もお楽しみに
以上              

226 占い

2005-10-13 16:43:04 | Weblog
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226 占い

占い師の常套手段は、客が目の前に座ったら「あなた、悩みがありますね」というそうです。すると客はこの占い師は当たると思ってしまいます。だが、考えてみれば、考えなくても同じですが、当たり前ですね。悩みがあるから相を見てもらう気になったのですから。

次に、人間の悩みというのは色々あるようで、実は案外パターンは決まっているそうです。お金、健康、異性問題、この3つにたいていは収まります。後は客にしゃべらせるようにもっていくそうです。すると客のほうで全てしゃべります。こうなればご託宣を述べるのは簡単なことですね。

ある人が今まで何人もの家相家にみてもらったそうです。それぞれいろんなことを言われるので、どうゆう家を立てたらいいか分からなくなってしまいました。それで東京の家相見で日本一の名人と言われる人に見てもらいました。その料金が一回80万円だそうです。昭和40年代の80万円だから大変なものですね。

家の設計図を持ち出して色々相談したそうです。そして、その答えは何だったと思います? 「あなたの好きなように建てなさい」です。これで80万円です。これをバカバカしいと思うか、ありがたいと思うかはその人の価値観によりますね。

バカバカしいと思うならそれも良し、ありがたいと思い安心して家が建てられるのならそれも良しですね。この家相見の先生は、まさに日本一の結論をだしているかも知れません。

ついでに「鬼門」について。昔、中国の長安の北東の方からいつも蒙古などの騎馬民族の軍勢が攻め込んできました。東北から鬼のような顔をした連中が攻めてくるということで北東は鬼門となったそうです。

また、西南の方向からはチベットなどの軍勢も攻めてきました。そこでこちらは裏鬼門となったそうです。

さすが日本一の先生ですね。これなら気まぐれ剣士でも言えそうですが。でも誰も相手にしてくれないでしょうね。要するに、人は言っている内容を見ているのではなく、その人の人格を見ているのですね。

同じ「ボールを良く見て打て」でも、イチローが言えば皆がうなずきますが、気まぐれ剣士が言へば、「そんなことは言われんでも知ってるワイ」と言い返されそうです。 

皆を納得させるのは、正論を吐くことではなく、人格を磨くことだったのですね。
妙に納得した気まぐれ剣士でした。

次回もお楽しみに。
以上              

225 過去

2005-10-10 16:06:09 | Weblog
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225 過去

「過去」の事実を変えることはできませんが、「過去」の想いはいつでも、今、この瞬間にでも変えることができるそうです。

3秒で悟る方法とは、
「過去の全てを許すこと」
「未来の全てを受け容れること」
「今、この瞬間の全てに感謝すること」の三つを実行することだそうです。

ただ「過去」の全てを許すことができないから苦しいのであって、誰もが「過去」に執着したり、後悔したり、悔やんでみても仕方ないのはわかっていますよね。

我々は既にその「過去」の事実を受け容れてしまっているのです。受け容れてしまったから、既に「過去」になっているのです。「過去」の出来事だとあなたが認識した時点で、もうその事実は「過去」のことになっています。「過去」の事実に既に力はありません。今の我々が「過去」に力を与えない限り、「過去」は存在することさえ出来ないのです。

確かに「過去」の事実を変えることは出来ないかもしれませんが、 問題はその事実にあるのではなく、それに対する我々の想いが問題なのです。その想いは今ここで変えることができます。イエ、その想いを変えられるのは、今ここでしかできません。
今が「よかった。幸せ」と心から思えれば、オセロゲームのように、それまでどれだけ不幸のようなものを積み重ねて来ていたとしても、それは一瞬にして白黒が逆転しますね。

今、幸せを感じることが出来れば、「過去」の出来事は全て、今ここの幸せを感じるための、単なるプロセスに過ぎなかったことがわかるはずです。

「過去」の事実はそのままに、「過去」に対する想いを、今ここで変えてしまうには今の幸せを存分に感じることです。今ここで、自分で自分のことをしっかりと満たすことです。今が幸せならば、「過去」が変わります。自分の今が変われば、過去世さえ、変えることができるのですね。
「過去」という時間は、本当はないものです。それは自分の頭が作り出したもので、そこには既に何の力もないのです。

 確かに今幸せを感じることが出来れば、過去がどんなにつらかったとしても、許せますよね。結局、過去に問題があるのではなく、今、この瞬間をいかに過ごすかかが問題ですね。
 
次回もお楽しみに
                        以上

224 元氣

2005-10-07 17:17:15 | Weblog
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224 元氣

「元氣」とは、元の氣に戻るだけです。人間本来の状態を「元氣」と言うそうです。
 何も特別なことではありません。

宇宙に偏在する根源的なエネルギーが「氣」であり、その中の根元にあるベースのエネルギーのことを「源の氣」、つまり「元氣」と言います。

大自然の氣が「元気」であり、大自然の一部でもある人間は本来、「元氣」なものです。
人間でも赤ちゃんや子供は「元氣」です。ハツラツとしていて、明るく活氣があり、生氣がみなぎっている状態が「元氣」だそうです。

そしてそれが人間本来、元々の姿なのです。「元氣」は何も「特別な」状態ではありません。人間は「素直」に生きていれば、「元氣」になるそうです。

つまり「素(モト)」と「直」につながることで、「元(モト)」の「氣」に戻り、「元氣」が出るのです。
「元氣」でないのは、元の氣とつながっていない証拠で、それは氣の流れが止まっているからに他なりません。 それを、氣が止んで(=病んで)いるので「病氣」と言ったり、氣の流れが枯れているので「穢れ=氣枯れ」と言ったりします。

アタマを使って、難しく考えることが「問題」です。アタマで考えれば考えるほど、「元の氣」から遠ざかります。人間は元来、「元氣」に生きるように設計されているそうです。アレコレ余計なことにアタマを使わず、考え過ぎずにリラックスすることが大切です。素直に自分らしく、伸び伸びイキイキ生きていれば、放って置いても「元氣」になるのですね。

「元氣」になるには、とにかく元の氣の流れを遮断しているアタマの働きを止めることが大切です。 いろんな方法がありますが、まずは次の言霊を口に出して唱えてみると良いかもしれません。「ツイてる」 「大丈夫。大丈夫」 「あ~、良かった」 「全てはうまく行っている」「ありがとうございます」などなど。

これでアタマの暴走が止まり、元の氣とつながることが出来るそうです。下手な考え休むに似たりと言いますが、休むならまだしも、考えて気の流れを止めてしまっては何にもなりませんね。やっぱり素直でないと。みなさん、気まぐれ剣士とやるときは素直に面を打ってきてくださいね。
しっかりと胴を打たせてもらいます。
 
次回もお楽しみに
以上

223 愚痴(ぐち)

2005-10-04 17:20:44 | Weblog
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223 愚痴(ぐち)

クチが濁ると「グチ」になります。「愚痴」は言う方も、聞く方も、互いの心が濁っていきます。

言ってみても、どうしようもないことを口にするのが「愚痴」です。
日頃のウサ晴らしに「愚痴」を言いたくなる気持ちもわかりますが、残念ながら「愚痴」を言っても、根本的に気持ちが晴れることはありませんね。

「愚痴」を言えば、少しは気分が晴れたように思うかもしれませんが、それは次なる「愚痴」のタネを蒔いていることに他なりません。「愚痴」は「愚痴」を呼び寄せるだけです。口が濁ってしまった「愚痴」のタネからは、濁った現象が咲くだけです。その濁った出来事を見て、また「愚痴」を吐く、という悪循環が延々と繰り返されるだけだそうです。

「愚痴、悪口、文句、泣き言、不平不満」をまとめて「五戒」と言います。これは口にしてはならない「禁句」であり、戒めです。これらの言葉を発することは、最も良く効く「運が悪くなるコツ」だと言われています。

今の我々は、以前の我々が言った通り、思った通りの人生を生きています。それを否定したい気持ちもわかりますが、そこでまた「五戒」を口にすると、結局、人生が「愚痴」と共に「朽ちて」いくだけです。

「愚痴」は口にした本人は元より、それを聴かされている他人の運気も 同時に落としていきますが、「愚痴」を自らの口で言い、自らの耳で聴くことは、相乗効果が発揮される為、人生の下り坂を加速度付きで、ころがって行くことになるそうです。

家族や親しい友人に、お願いして「愚痴」をチェックしてもらうといいかもしれません。普段、自分ではほとんど意識していませんが、 人は案外気付かない内に「愚痴」をこぼしているようです。

どんな時に、どんな「愚痴」が口を吐いて出ているのかを知ることは、人生に奇蹟を起こすために大変重要な要素だそうです。自分の「愚痴」の傾向がわかれば、対策が打てます。あなたが「愚痴」を口にしなくなった時、人生に奇蹟が訪れるかもしれません。

 愚痴は家族や親しい人に思わず言ってしまいますね。愚痴も一種の甘えかもしれませんが誰かに聞いてほしいですね。でも気まぐれ剣士は「愚痴」の変わりに「うたし」といっています。「うれしい」「たのしい」「しあわせ」の頭文字です。この3つを言っていると愚痴を言うことも忘れてしまいます。お勧めです。
次回もお楽しみに
                               以上

222 史記

2005-10-02 06:41:06 | Weblog
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222 史記

『史記』の中の「世家」の中にこういう話があるそうです。
 
 戦国時代に名君といわれた魏の文侯は、ある時、総理大臣を決めなければならないことになりましたが、その候補者が二人あり、決めかねていました。
 一人は文侯の弟である成子、一人は家来のテキコウ(ワープロ文字なし)。
 
 文侯は、最も信頼する家来の李克を呼んで、どちらを任命すべきかを問います。
 ところが、実は李克はテキコウの世話で文侯に随身していました。
 
 李克は遠慮して、
 「私ごとき者がさような国家の大事にあえて発言するわけにはまいりませんから、それは御免こうむります」と礼儀正しくあいさつしました。文侯は「そんなに遠慮に及ばん。これも国家のためである。一つ忌憚(きたん)なくいってもらいたい」ということで、
 李克は、
 「それでは申し上げますが、さようなことがご決定になれないというのは、はなはだもって公のお考えが足りない」といって人を見る観察法を述べました。
 
 1、「居ればすなわちその親しむ所を観る」
     平生どういう人物と親しいか、だれと友達になっているかを観る。
    <類は類を呼ぶといいますからね>
 
 2、「富めばすなわちその養う所を観る」
     金があるならばどう使うかを観る。
    <たいていは金ができれば女を囲ったり、家を建てたり、高価な服をたくさん 買ったり、旨いものを食べたりするが、人の感心するような金の使い方をする人はめったにいない>

3、「達すればすなわちその挙ぐる所を観る」
出世して地位が上がれば、どういう人物を使うか。
<人格者は人格者を使うし、度量の狭い人は人徳の少ない人を使う>
  
4、「窮すればすなわちその為さざる所を観る」
  人間は窮すると何でもしてしまうが、何をしないかを観る。
  <貧窮したことがある人は分かると思いますが、本当に何でもしてしまいそうになる>
 
5、「貧すればすればその取らざる所を観る」
   貧乏しても節度をもっているかどうかを観る。
   <ついつい魔がさして、なんてことになりかねない>
 
 「この5つのことをお考えになられたなら、
  おのずから明瞭、決して私にご相談になる必要はありません」と申し上げました。
 さすが名君である文侯はこれを聴くと、わかった下がって休みたまえということで李克は下がってきた。
 
 李克は帰り道に自分を推薦してくれたテキコウのところに寄り、一部始終を説明し、「たぶん成子が任命されるでしょう」と言った。
 それを聞いて憤然としてテキコウは怒ります。
 「私のどこが成子に劣っているというのだ。多くの人材を推挙して文侯に仕えてきたし功績も挙げてきた。そういうあなたを推薦したのも、私じゃないか」
 
 そうすると李克は平然として、
 「ちょっとお待ちなさい。よく考えてご覧なさい。あなたの推挙した人物はみな文侯の家来になっている。成子は収入のほとんど九割まで投げ出して、天下の人物を引いてこれを君公に推挙しておられる。
 その中でも3人に対しては臣としないで師としておられる。あなたの推挙した人物はみな家来になっている。これだけでもあなたはとても及ばない」と直言しました。
 テキコウも偉いもので、その態度を改めて、これは実に悪かった。誠に卑しいことを申し上げて恐れ入った、と自分を恥じました。そして今日より謹んであなたの弟子にしてもらって教えを受けようと言いました。
 

 良いお話ですね。この五つの人間観察法は今でも十分に役立ちそうです。人間普段は変わらないようでも、急にお金が入ったり、地位が上がったりするとコロっと態度が変わる人がいます。そういう人はこの話を知らないでしょうね。知っていても俺のことではないと思っているのでしょう。
 「言いたい放題」の読者にはこんな人は多分?いませんね。急にお金が入ってきて心配な人は安心してください。気まぐれ剣士がいただきに参ります。
 
 いかがでしたが。
 次回もお楽しみに
                               以上

221  自信

2005-10-01 09:44:33 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

221  自信

「人生は自分の思った通りになる」と知っていることが、あなたの「自信」の源になるのそうです。本当の「自信」とは経験によって身に付けたり、体験を通じて積み上げていくものではないそうです。

もちろん経験や体験を通じて掴んだ「自信」は大きな心の財産になりますが、経験から得たものは、また経験を通して一瞬で崩れ去る「危うさ」を内包していることを理解しなければなりません。

問題や困難に直面した時、それを乗り越えるためには、過去の経験から培われた「自信」が役に立つかもしれませんが、本当の「自信」があれば、問題や困難そのものがなくなそうです。

「自分が何者であるのか」、「状況を事実として把握しているか」、「大いなる存在とは何か」などをクリアに「知っている」状態から、本当の「自信」が自然に湧き上がって来るそうです。

「成功」したから、「自信」が生まれるのではなく、「成功」すると知っていたからこそ、「自信」が「在る」のです。
「成功」から「自信」が生まれるのではなく、「自信」があるから「成功」するのです。
元々「自信」が先に「在る」のですから、「成功」するのは当たり前、当然ですね。

我々の「自信のなさ」は、経験や体験の問題ではなく、ただ「自信」の在りかを「知らない」ことが問題なのだそうです。
もし大いなる存在が、「絶対、大丈夫!」と、あなたの人生を保証してくれているとしたら、我々の「自信」はゆるぎないものなるでしょう。

実は大いなる存在に保証を求めなくても、「人生は結局、ハッピーエンドで終わるようになっている」そうです。
それが宇宙の法則だそうです。
何も心配することはありません。

我々は自らの中に「自信」が「在る」と、ただ知るだけで良いのです。

 「人生はすべてうまく行く」言われても、そう思い込もうとしても、信じきれない心がどこかにありますね。気まぐれ剣士が「俺が幸せにしてやる」といっても、女房はやっぱり信じきっていないでしょうね。
 次回もお楽しみに
                               以上