氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

368 瓦職人

2006-06-29 17:54:26 | Weblog
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368 瓦職人

瓦職人の話です。

瓦職人(ここでは、屋根の上で瓦を施工する人のことです。)も、熟練の域に達しますと、瓦を持っただけでその性格がわかります。

 瓦の性格とは、瓦は焼き物なのでどうしても「ひねり」があります。その「ひねり」が、色々な方向に出るのです。
 熟練された職人は、この瓦一枚一枚の「ひねり」を持っただけで識別するらしいのです。(私はまだ、その域に達した職人に会ったことはないのですが・・・笑)
 
ただ、持っただけで識別することが出来なくても、見て識別することは出来ます。
 そして、「プロ」と呼ばれる域までくると、この一枚一枚の性格の違う瓦をうまくあわせて施工していきます。
 
一枚一枚の瓦の性格を見て感じ、そして、その性格を認めたうえで、あるべき場所に施工する。下手な職人が施工すると、瓦と瓦の合口に隙間がでたり、瓦が大量に余ります。

 
なるほど私たち、人間も瓦と同じなのかもしれませんね。
一人一人は、性格が違っているけど、一人一人が、違っているから全体が出来上がる。
みんなおんなじ人間より、みんな違っていたほうが変化があって楽しいですね。

 以前宮大工の話をしましたが、真っ直ぐな木だけを組あわせるより、ねじれた木を上手に組み合わせた方が、強くて頑丈にできるそうです。
 
要は使い方なんですね。その人に合ったやり方、生き方があるはずです。生き方に個性があるだけで、いい生き方、悪い生き方があるわけではないですね。個性に合った生き方が、無理なくて楽しそうですね。

剣道でも、そうですね。面が好きな人もいれば、胴が好きな人もいます。面が良くて胴が悪いわけではないですね。比べることなんか出来ないのです。

でも、氣まぐれ剣士は、面ばっかり打ちます。なぜって、それは胴が打てないからです。阿部先生、胴の打ち方教えて!

次回もお楽しみに
以上

367 深刻

2006-06-28 08:19:28 | Weblog
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367 深刻


この世に「深刻」な出来事などありません。あなたが心に「深く刻んだ」時、その出来事が「深刻」になるそうです。

眉間にシワを寄せて、「深刻」な表情でいくら悩んでみたところで、その問題が解決し、悩みが解消出来るワケではありませんね。そこには「深刻」に悩んでいることを周りにアピールすることで、周囲の同情を引き、他人をコントロールしたいと言う意図が隠されていかもしれません。

万人に共通の「深刻」な状況というものがあるワケではありません。今日の食べ物に何のアテがなくても、「深刻」に悩んでいない人たちは、世界中にたくさんいます。

われわれがどんなに「深刻」な状況だと主張しても、それはわれわれがその状況を「深刻」に捉えたいだけだと言えます。同じ出来事を経験しても、人それぞれで捉え方が違って来ます。

その傷を深く付けるのも、浅く済ますのも、自分次第です。物事を「深刻」に考えて、悩んでみるもの悪くはありませんが、心に「深く傷を刻む」と、その傷を癒すのに、時間がかかってしまうのは避けられませんね。

 自分が「深刻」になっていると言うことは、その出来事に対して、自分が真剣に捉えていることの証しです。まずはその出来事が、自分が真剣にエネルギーを注ぐ価値のあるものかどうかを見極めることですね。

 どうも我々は真剣と深刻を間違えているようですね。深刻な顔をしていれば、誰かが心配して助けてくれるような気がします。そして、無視されれば“人がこんなに苦しんでいるのに、なんて薄情な人だ”と思ってしまいます。
 けれども、これは人を頼っているだけで、実は自分では何にもしていないのですね。そんな人には誰も助けようとはしません。

 氣まぐれ剣士も助ける人は、美人か金持ちに決めています。だって下心があるから・・・。
でも残念ながら、美人や金持ちは相手にしてくれそうにないですね。

次回もお楽しみに
以上 

366 悪への対処法

2006-06-23 17:20:57 | Weblog
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366 悪への対処法



 人間の悪に対する態度は、およそ5つの型にわかれるそうです。
 
 1、弱肉強食型
  泣き寝入り型ともいいます。長いものには巻かれろというわけで、あきらめて泣    
き寝入りしてしまう態度。けんかや闘争はまず気力、活力の旺盛な方が勝ちます
からね。
 
 2、復讐(ふくしゅう)型
  殴られたら殴り返す、蹴られたら蹴り返す、という暴力的態度。野蛮で低級では 
あるが、1の意気地のない態度に比べると、まだ元気があります。
 
 3、偽善型
  蹴られても蹴り返すことができない人間が、負け惜しみで、立派な理由をつけて 
その意気地のなさをごまかそうとする態度。今日、こういう偽善者が多いかもしれません。平和主義者だのなんだのといって、平和平和で、戦争はいけない、暴力はいけない、武力を捨てよといいつつも、根底には卑怯な偽善者の寝言に過ぎないかもしれません。
 
4、宗教型
俗世間の一切を超越して、すべてを平等に慈愛の目で視るという態度。これは人間として最も尊い在り方ですが、しかし人間の中の極めて少ない勝れた人達にしてはじめて到達し得る境地で、というて私たち凡人にはできることではありません。ガンディーや、刀を捨ててまるごしになった宮本武蔵がこの境地の人達だそうです。
 
5、神武型
 人間の道を重んずるがゆえに、悪を憎んで断固としてこれを封ずるという態度。
 『論語』にも「仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む」とありますが、仁徳ある人だけが本当に人を愛することができ、人をにくむことができる、と言っています。この態度こそ「武士道」の神髄ともいえます。
  
みなさんは、どれにあたりますか? 氣まぐれ剣士はやっぱり“偽善型”ですね。
 “君子危うきに近寄らず”かな? 

次回もお楽しみに                         以上

365 スポーツ選手の一言

2006-06-21 18:08:58 | Weblog
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365 スポーツ選手の一言

ヘイトレターを捨てずに取っておきました。
壁に貼って、ことあるごとに読み返し、
なにくそ、こんなことに負けるもんかと、
逆にゴルフのエネルギーへ転化したのです。
                  タイガー・ウッズ

 ヘイトレターとは、ラブレターの逆です。ジュニア時代からタイガーのもとには、
「黒人が白人のまねをしてゴルフをするな。殺すぞ」というような手紙が多く届きました。人種差別やパッシングは、いまも続いているそうです。タイガー・ウッズはそれを負けたときの言い訳にしないで、逆に、戦うための原動力としているのですね。


毎日毎日の試合を全力でプレーして、
それを積み重ねていくしかない。
そのためには一打席一打席、
一球一球集中してプレーするしかない

   松井秀喜 著『僕のメジャー日記』

毎日、毎日、常に全力でプレー。誰もが考えることですが、口に出して言える人は少ない。実践できる人はさらに少ない。一日一日、一時間一時間を大切に、一分一秒を意識して、勉強やスポーツをしたいですね。氣まぐれ剣士は飲む時間だけは大切にします。


吾事において後悔せず
            宮本武蔵「独行道」

後悔するということは、過去をクヨクヨ思い悩むことです。反省するということは、過去から何かを学びとることです。事において後悔をすれば、今も、未来も暗い気持ちで過ごすことになります。反省をすれば、明るい未来をより良く切り開いていくための知恵が生まれます。
 氣まぐれ剣士は酒を飲んで後悔することばっかりです。でもやっぱり飲むんです。
小生の場合は“後悔先に立たず”でしょうか?
 
次回もお楽しみに
以上

364 賢者の演奏

2006-06-19 13:01:02 | Weblog
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364 賢者の演奏
 
「演奏にまつわる」素敵な寓話です。「時空を超えた賢者の光」(近井昭博著、星雲社)のなかから引用です。

 お抱えの奏者に皇帝はこう言った。
 「奏者でおまえに優る者はいない。世界で一番だ。しかし、おまえも誰かの弟子だったに違いない。おまえを教えた師の演奏を聴いたみたいものだ」。

 奏者は言った。
「師はまだ生きております。しかし、招くことは不可能です。
師は、空に流れる白い雲のようなもの。気の向くままに動き、流れて生きています。歌いたいときに歌い、踊りたいときに踊ります。ですから、皇帝ご自分で師の所に行き、チャンスを待つしかありません」。
 
 皇帝はどうしても会いたくなって、奏者と一緒に出掛け、師が住んでいる小屋の近くでこっそり待つことに。どれだけの時間が経ったことだろう。師が歌いだした。そして、踊り出した。

 その歌と踊りは、この世のものとは思われなかった。それは、どんな表現も賛辞も役に立たないほどのもので、皇帝は、ただただ涙を流した。
 
 帰り道、まだ涙を流しながら、皇帝は奏者に言った。
「おまえが一番だと思っていた。おまえにかなう者などこの世に存在しないと思っていた。それなのに、あの師に比べたら、おまえは無に等しい。この違いはいったい何なのだ」。

 奏者は言った。
 「それは簡単なことです。私の演奏や歌は、生活するための金、権威、名声、人々の賛辞のためです。私は何かを得るために歌い奏でます。
 しかし、師は、何かを得ているから歌い踊るのです。師の内側が何かで満ちあふれてきたとき、それは歌や踊りとなって流れ出します。
 喜びに満ちた何かが広がるだけです。師はただ祝福しているだけなのです」。

 やっぱり自分の中から何かを表現したいときに、自然と相手に伝わるのですね。氣まぐれ剣士は如何に格好良く勝つかだけを考えています。

次回もお楽しみに
以上

363 新米の神様

2006-06-15 08:36:48 | Weblog
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363 新米の神様
 
ある寓話です。

 あるところに新米の神さまがいて、ついに創造主として、自分の世界を創りだすことができることになりました。この神さまは、神さまになる前に、さまざまな世界に生まれたことがあり、
何度も深い悲しみや苦しさを経験していました。

 また、またお互いに傷つけあう辛さや争いや天災が巻き起こす惨状も、いやというほど味わってきましたので、自分が創る世界は悲しみや苦しみのない平和な世界にしたいと常々思って、その通りの世界を創造したのです。

 そこでは、死も病気も飢えもなく、人々も争う心を持たず、とても穏やかなところになりました。神さまは、たいそう満足されて、人々の前に現われ尋ねられました。
 「この世界は平和に満ち溢れ、お前たちもさぞかし幸せだろう?」

 ところが人々は首を傾げるばかりでした。
 「神さま、私たちは、生まれてから今までずっと毎日同じように暮らしています。 どのような状態が平和なのか、幸せとはどういうことなのかがよくわからないのです」

 神さまは、なるほど他の世界と比べて、いかに平和で幸せに見えても、それ以外の状況を知らなければ、今が平和なのか幸せなのかを分かるはずもないと氣づかれ、人々に死や病を与えてみることにしました。

 しばらくして再び神さまが尋ねると、人々は、こう答えます。「死があることで、大切な人を失う悲しみを知り、今を生きられる喜びも感じたり、病に冒され健康であることの大事さを知ることができました。それだから私たちは、限られた命を大切にしていきたいと思うようになりました。ただ、今のままでは何のために生きるのかが、よくわからないのです」

本当の成功とは何かを知るために失敗、何が正しいのかが分かるために過ち、正義とは何かに氣づくための悪。神さまは、心のなかで涙を流しながら、人々に失敗や間違いを与えました。本当に大切なことに氣づくきっかけをつかんで欲しかったのです。

 やっぱり神様にも新米がいるとは思いませんでした。神様も間違いながら成長するのですね。チョッと安心した氣まぐれ剣士でした。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上

362 豊かさ

2006-06-13 08:18:35 | Weblog
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362 豊かさ
 
  
  「真の豊かさとは、何ひとつ必要としないことだ」
           -- ゲーリー・スナイダー(アメリカの詩人)--

 ・いつもがんばっていなければならない。
 ・苦しくても弱音を吐いてはならない。
 ・いつも楽しそうに振舞っていること。
 ・人に弱みを見せてはならない。
 ・困難はひとりで解決し、けっして他人の手を煩わせるな。
 ・清く正しく、正直に生きよ。
 ・すべての人を愛し、誰からも好かれなくてはならない。
 ・完璧な社員、完璧な夫、完璧な妻、完璧な親、完璧な人間でいなければならない。
 ・何事にもこだわらず、すべてのことには絶対に柔軟であるべきだ。
 ・疲れているところを人に見せたり、病気で仕事を休んではいけない。
 ・いつも強くなくてはならない。

 毎日、そんな指令を受けて、一生懸命に守ろうとしている人がいます。そのため常に緊張していなければならないので、とても苦しいのです。ときには、身も心も疲れ果ててしまい、休んだり誰かに助けを求めたくなるときもあります。

 でも、疲れたところを人に見せることはできないのです。どんなときでも強くなくてならないのです。そう、そんな人は、いつもがんばっていたり強くいる自分でなくては、自分が存在する意味がないと思っているようです。

 自分の本当の姿は、欠けているところだらけの、不完全で醜いものだと思っています。だから、そんな厳しい指令を一生懸命に守ることで、立派な鎧を作り上げて、本来の自分の姿を隠そうとしているのです。

 でも、一回鎧を外して見たらいかがでしょうか。それは、見れば見るほど不完全で頼りなく思えるかも知れません。それでも、鎧を着て立っているときよりは、温かく思えるようですね。何よりも、そのままの姿で立っている自分を見ていると、心に安らぎを感じるかも知れません。

 人が転んだら笑えばよい。自分が転んだらもっと笑え!
この精神でいきましょう。

次回もお楽しみに                            以上

361 青いメガネ

2006-06-11 17:21:37 | Weblog
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361 青いメガネ
 
  
 世界を青い色に変えたいと思ったとしても、何も町中を青いペンキで塗ってまわることはありません。ただ、青い色のサングラスをかけてみればいいのです。これで、すべては青く見えてきますよね。

 もっと楽しく生きたいと思ったとしても、まわりを変えようと一生懸命になることはありません。今の環境に問題があるから、生きることを楽しめないというわけではないのです。

 ただ、自分のなかの楽しいことに意識を向けましょう。そんな楽しい色のサングラスをかけてみましょう。
 すべては、楽しく見えてきますよね。

 自分が歩こうとしている道に、大きな岩がいくつも転がっています。それは、ただそこに転がっているというだけで、それ以外の意味はありません。少々歩きにくいかも知れませんが、うまく避けていけば、進んでいくことはできるでしょう。

 でも、ときに私たちは、「この岩は、私の行く手を邪魔しようとしている」と思ってしまうことがあります。そうなると何とかこの岩を取り除いてやろう、とかぶち壊してやろう、などという気になってきて、岩に立ち向かいます。

 必死になって岩を押してみますが、なかなか動きません。
 「これは、本当に重い障害物だ」と思ったりしますが、実は、その岩に、自分を邪魔する力を与えているのは自分なのですね。
 
 そうですね。なにも、リキんで周りを変える必要なんかないです。青い世界を見たかったら、自分が青いめがねをかければ、それで済むことなんですね。
 でも、楽しいメガネをかけないで、辛いメガネや悲しいメガネばっかりかけている人いませんか。

 氣まぐれ剣士は、剣道の時は相手が弱く見えるメガネをかけます。でも時々、相手が強く見えるメガネをかけ間違えてしまいます。
 今度は自分が強くなるメガネを開発しようと思っています。
 
おあとがよろしいようで。
次回もお楽しみに。
以上

360 松井選手の生き方

2006-06-09 13:03:35 | Weblog
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360 松井選手の生き方
 
 テレビでの放送です。作家の伊集院さんが「僕の好きな松井選手の写真がある」と言うのです。それは、バッターボックスに入るときに、松井選手が、キャッチャーや審判の人に笑顔で挨拶をしている写真だと。松井選手はいつだって、敵であるはずのキャッチャーにも、審判員にも挨拶をして、バッターボックスに入ると言うのです。
 
松井選手の地元の小学校にも中学校にも、松井文庫と呼ばれている本棚があるそうです。そこには、名前が書いてあるわけでないのだけれど、「松井選手からのプレゼントなんだよ」と子どもたちは言います。「いつからあるの?」「うーんと昔から。今、大学生のおにいちゃんの時からあったんだって」
 松井選手はそのことを公表されてるわけではないのだそうです。それでも、みんなはそのことを知っているそうです。

 テレビの中では、松井選手が書いた手記についても放送されていました。「今、いじめられている子どもたちへ」というような題で、(しっかりと覚えていなくてごめんなさい)松井選手は、死を選ぶことは絶対にしてほしくないということを書き、「どうしようもなくなったら、僕に手紙をほしい」と書いてあって、実際に、松井選手のところに手紙も届き、そしてまもなく松井選手から、返事が届けられたというのです。
 
 それから、あまりあきらかにすることを松井選手は望んでいないけれど、10人もの子どもたちの里親をしているのだということでした。松井選手はその10人の子どもたちにも、きっと、生活を金銭的な面から助けるということだけでなく、どんなにたくさんの優しい気持ちを持って接していることだろうと思うのです。
 
伊集院さんが、インタビューの中でとても心に残ったことがあったのだそうです。
「君は、人の悪口を言ったことがないと聞いたけれど、それは本当かい?」
松井選手は「はい、そうです。中学2年生から、人の悪口は言っていません」ときっぱりと言ったのだそうです。もう一度、「本当に悪口は言わないの?」と尋ねられた松井選手は重ねて、まっすぐに前を向いて「はい、言いません」と話したということでした。

 やっぱり一流になる選手は違いますね。松井選手は決して弱音を吐きません。どんなスランプでもグチや悪口を聞いたことがありません。松井選手の成績よりも生き方に皆さん感動し、心を動かされるのでしょうね。

氣まぐれ剣士は、相手の攻めに心を動かされるのは得意です。

次回もお楽しみに                           以上

359 拡大

2006-06-08 17:36:49 | Weblog
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359 拡大
 

  私たちの意識は常に「拡大」し続けているそうです。わからないことがあるのは、「拡大」の途中にあるということのようです。

「見つめたものが拡大する」という「宇宙の法則」があります。私たちは同じ世界を見、同じ世界を体験していると想っていますが、それは大きな勘違いかもしれません。

自分の見ている世界は、自分だけの世界であり、自分の注目するものだけが「拡大」しています。それぞれが自分の意識の「拡大」レンズを持ち、レンズの焦点が合ったものだけを大きく「拡大」しているようです。自分の見ている世界は、自分という「拡大」レンズを通して見た、
かなりゆがんだ世界です。

全ての人はその時、その時で自分が考えうる最善の選択をし続けています。自分の今の選択は過去の自分の集大成としての選択であり、それ以上のものは今の自分には考えられないのです。

でも、自分にとっては最善の選択であっても、それが周囲の人に対して最善の結果をもたらすとは限りません。自分の最善の選択が、周囲の、そして全体の最善となるためには、自分自身が「拡大」し続けるしかないそうです。

全ての人はそれぞれのスピードで「拡大」し続けています。宇宙が常に「拡大」し続けているように、宇宙の一部であるあなたも「拡大」し続けていることは、疑いのない事実です。

但し、それぞれの人によって、意識の焦点を合わすポイントと「拡大」のスピードが違うので、足並みが揃わないだけです。

自分も自分の苦手なあの人も、それぞれのスピードで「拡大」し続けているのです。自分の「拡大」のスピードが速ければ、全体のことがよりはっきりと理解出来るようになる。ただそれだけのことだそうです。

  確かに見つめたものが拡大することはありますよね。テレビに集中しているとほかの雑音は聞こえません。逆に勉強に集中するとテレビの音が聞こえません。
氣まぐれ剣士は剣道に集中すると借金のこと忘れます。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上

358 人工から自然へ

2006-06-06 21:04:03 | Weblog
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358 人工から自然へ
 

 生命とよばれているものは、どこまでも人工的なものを含んでいません。それはどのようにしても天然、自然の範囲でサイクルされ、リクリエイトされています。ですから、心の状態は人工的に作り出すことができないんですね。ウン。だからできるだけ人工的なものは外すといいかもしれません。

 人工的なものは、安価であったり便利であったりいろいろ生活するためにはとても良いところがいっぱいあります。でもちょっと考えてみると、そのために食べ過ぎたり、運動不足になったり、etc・・・

 生きていくためには不都合なところがいっぱいあります。ですから「生活するのに良い点」と「生きていくのに不都合な点」をバランスをとってみて、できるだけ「生命の様子-心-」に快適なところを見付け出すと良いですね。

 人工的なものが多くなればなるほど、人工的ではない「生命」それ自体がこまってしまって、純粋に怖がって、生命の様子そのものが「怖い」ことになって心の状態も「怖い」となって、コワクなり、硬くなります。

 そうすると、関係各位のささやきも聞こえず、楽しみのエッセンスも染み込まず・・・。ネ、だから、思い切りよく、人工から天然自然へ移れる戸いいですね。太陽とともに起き、月とともに眠る-。光の中で活動し、影の下で休息する-。どうですか?

 夏の暑い日、太陽の中で遊んだ子は、木の下の陰で昼寝をします。ソヨソヨと涼しい風まで吹いてきて、スヤスヤとスコヤカに眠る子の姿は、何とも幸福そうで、満足そうではアリマセンカ・・・。サア、みなさん、良い眠りとともに快適な毎日を過ごしましょう。

 昔こんな日本人とインド人の笑話を読んだことがあります。
 日本人 「どうして働かないで昼寝なんかしているの」
 インド人「どうして日本人は働いてばっかりいるの」
 日本人 「金をためて、家を建てて、ゆっくり昼寝でもできる身分になるようにさ」
 インド人「それなら、僕はもうなってるよ」

氣まぐれ剣士はこの話好きなんです。

次回もお楽しみに
以上

357 意識から無意識へ

2006-06-01 19:32:00 | Weblog
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357 意識から無意識へ

 「記録から記憶へ」の続きです。
人間の心はいつもどこか興味のあるところへと移動しています。つまり、同じところにとどまっていないわけです。常にフラフラと風のように動いています。ですから、どこかに安定したところがないと心はどこにいるのかわからなくなって「不安になる」という現象がおこってしまいます。せっかく記憶してもそれをどこに持っていってよいのかわからないと消化不良をおこすわけです。

 それで、この心の居場所をちゃんと決めてあるわけですね。それを「意識」と呼ぶそうです。心は「意識」という居場所で安定します。そうして、この意識は大きく二つ、「顕在意識(意識レベル)と潜在意識(無意識レベル)」に分けられるそうです。心は昼間活動しているときには、ほとんど顕在意識(形に表れてくるところ)にその居場所を決めてその範囲でアッチコッチと活動しながら具体的な体験、情報を見ています。

 そして「自分らしさ」でそれを味わっています。五感覚を使いながら味わって喜怒哀楽などを楽しんでいます。ところが、夜、眠りの中で昼間「自分らしさ」で楽しんで想念を記録したものを記憶に変換すると、心は顕在意識から潜在意識(内にかくれているところ)へとその居場所を移します。そして、この潜在意識の中で、形には表れてこない内側のところまで心はすべてを見通してゆくわけです。

 この「見通す」というところに、関係各位のささやきのエッセンスが染み込んで行くのです。そうして、心は、自然界から宇宙から神々(と呼ばれているところ)から、いろいろなエッセンスを受け取って、染み込ませて「自分らしさ」を拡大していきます。この「自分らしさの拡大」によって、次の日「楽しみの拡大」ができるわけですね。

 こんなふうにして、「自分らしさの拡大」は智恵を拡大し、知らないうちに何でもできることになってしまって「能力アップした」ナンテことになるそうです。

 つまりね、昼間の活動中に知らず知らずのうちに「ただ、見ている」ということが、「見通す」ことになって無意識に潜在能力が出たことになっちゃうわけです。気づくことが多くなって、「アッ、ソウダ」と自然に何でもやれてしまうのです。
 
 考えることも必要ですが、気づくことの方がもっと大切かも知れませんね。

 いかがでした。
 次回も続きます。
 お楽しみに
以上