氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

322 問題が起きてくる理由

2006-03-30 21:51:15 | Weblog
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322 問題が起きてくる理由


  感情の流し忘れによって生じたエネルギーの残留物(エネルギーブロック)は、必ず解放されようとします。そのとき私たちは、「痛み」として感じるそうです。これが問題が起こってくる理由のようです。われわれは、問題を「痛み」として感じるそうです。

 では、どういう形で痛みがやってくるか。それは、あらゆる形です。病気やケガ、精神的なトラブル、心の葛藤もそうです。様々な痛みをともなって、エネルギーを放出しようとしているのだそうです。

 もちろん、表に現れてくる現実は千差万別ですが、原因はすべて自分の中にあるエネルギーブロックの作用なのです。ですから、これを取り去れば、問題のほうが消えていきます。魔法にかかったように消滅します。なざなら、その魔法をかけていたのは、自分自身なのですから。

  人はだれでも、とてもバカげた魔法使いかもしれません。魔法をかけている本人が、その原因を他人のせいにしているのですから。

 今の自分をそのまま感じるといいそうです。今の気分を感じる。自分の身体を感じる。
 ものすごく腹が立ったら、相手に意識を集中するのではなく、腹が立っている自分に意識を向けるのですね。腹が立っている自分をもう一人の自分が見るのです。そうすると本当に数分、短いときには数秒で怒りが収まります。なんだか不思議な感じがします。
 
これお勧めですよ。なんだかスーと怒りのエネルギーがなくなっていくような気がします。
怒っているのが馬鹿らしいような氣になります。

 怒りを相手に向けても、相手が変わってくれなかったらいつまでたっても怒りは収まりませんね。相手のことが憎らしくて、夜も寝れないくらい悔しくても、相手はすやすやと寝ているかも知れません。いやきっと、熟睡していますよ。あほらしいと思いませんか?

 怒りを相手に向けるより、その怒りをなくすほうに向けた方が賢明だと思いませんじか。いくら女房殿に怒りを向けても、すやすやと何もないかのように寝られると、怒るのがホント、あほらしく思います。ぜひ、自分を見つめてエネルギーを発散してみてくださいね。

いかがでした。
次回もお楽しみに                                      以上

321 自分の考え方の反映

2006-03-28 15:31:58 | Weblog
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321 自分の考え方の反映

  「この世界は、自分の考え方の反映である」だそうです。

  そこで、寓話をご紹介します。

  ある村に引っ越してきた人が、古くから、その村に住んでいるおばあさんに尋ねました。「この村は、どんな村ですか?」と

  そしたら、そのおばあさん、「あなたが今まで住んでいた所は、どんな所でした?」と聞き返しました。

  「意地悪な人ばかりで、争いが絶えなくて、住みにくかったですよ」と答えると、おばあさんは「この村も、そうですよ。いっしょですよ」。

  しばらくして、別の人が引っ越してきて、そのおばあさんに「この村は、どんな村ですか」と聞くと、いつもの如く「あなたが、これまでいた所は、どうでしたか」と逆に質問。

  「優しい人が多くて、みんな親切な村でしたよ」と新しく住民になった人が答えると、「ここも、そうですよ」とおばあさんは言うのでした。

 この話で、おわかりのように「あなたの世界は、あなた自身が醸し出している」ということですね。

ということは
   ・宇宙とは、自分の鏡。見ている世界は、自分自身。
   ・人を疑う人は、自らも疑われ、信用する人は、自らも信用される。
   ・問題は、すべて我が内にあり。
だそうです。
   
 我々は相手の人間像を勝手に想像してしまいますね。剣道でも戦ってもいない相手がとても強そうにみえて実力が発揮できないことってありませんか?氣まぐれ剣士もいつもそうなんですが、負けたときはいつも実力が発揮できなかっただけだと言い訳しています。
 でも本当は実力を発揮できることを実力があると言うのですが・・・

いかがでした。
次回もお楽しみに
以上

320 姿勢

2006-03-26 06:48:43 | Weblog
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320 姿勢

 心と身体は別物ですが、心と身体は分けることが出来ません。自分の「姿勢」は、自分の心の現われだそうです。

心と身体は別物ですが、常に密接に結び付いています。身体が偶然、不調になることはありませんし、たまたま病気になることもありません。全ての原因は心や魂と言った「目に見えない世界」にあるそうです。

だからといって身体が、「目に見えない世界」の言いなりかと言えば、そんなことはありません。実際、身体を使って、「目に見えない世界」にアプローチすることは難しいことではないそうです。

自分の『姿勢』には、自分の生き方そのものが現れます。身体の発するメッセージを最も効果的に伝える手段が、『姿勢』だと言えます。
自分が悲しくて、やる気の出ない時、身体は小さく丸くなって、エネルギーがそれ以上もれないように、守りの『姿勢』をとりますね。

自分が明るく元気な時は、自然に背筋が伸び胸を張ることによって、自分の身体からはエネルギーが溢れ出ることになるのです。元気があれば、自然に良い『姿勢』になりますが、逆もまた真なりですね。

良い『姿勢』が、自分に運気を引き寄せ、元気を運んでくれます。『姿勢』とは、「勢いのある姿」と書きます。ハツラツとした『姿勢』を保つことにより、自分のエネルギーに勢いが付くそうです。

『姿勢』は、「至誠」と書けます。何事にも一生懸命、逃げずに前向きに誠意を尽くして、やり遂げる『姿勢』に、人は「至誠」を感じます。

 そういえば剣道ではどのスポーツよりも姿勢を大切にします。姿勢や構えが美しいのは、外観だけではなく、その人の内面から醸しだされる氣やエネルギーが体から発散されているからでしょうね。

 確かに本当に強い人は構えの中に力強さよりも美しさがあります。そんな構えに憧れているのですが、いつまでたっても絵に書いた餅?仏作って魂入れず?
 構えだけ作ってもダメよと女房殿には言われておりますが、せめて構えだけでもとかすかな期待を込めている氣まぐれ剣士でした。

次回もお楽しみに                           以上

319 すべき

2006-03-24 23:11:26 | Weblog
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319 すべき

 「すべき」と言う言葉は、「間違っている」と言っているのと同じだそうです。私たちには「すべき」ことなどない?
 
「あれをしなくちゃ…」「こうするべきよ」「これだけはしなければ…」と、責任感や義務感、使命感を掲げて頑張ることは構いませんが、「すべき」という言葉を使う時、それは自ら「間違っている」と宣言しているのと同じだそうです。

私たちは義務で生まれて来たワケではありません。誰かに命令され、押し付けられて生まれて来たのではなく、自らも「生まれなければならない」という使命感を抱えて、この命を授かったのでもありません。 自らの意志で希望し、自らが望んだ上で喜びと共に、この世に生を受けたのですね。

全ての体験は自らが望んだ上で、自主的に選択したものであり、誰かにやらされているものではありません。
そう、私たちには本来「すべき」ことなど、ひとつもないのかもしれません。

「そんなこと言ったって、お金が、仕事が…」
「でも、子供が、夫が、恋人が…」
「だって、身体が、時間が…」。

そうやってあらゆる言い訳を持ち出して、自分を説得するのも構いませんが、それでも自分に「すべき」ことがあるのを証明することは出来ません。
自分が「すべき」と想っていることは、自分が「出来る」ことのリストを掲げているだけであり、それを実際に引き受けるかどうかは、全て自分の自由意志に委ねられているのですね。

 私たちは何かを「しなければならないこと」として、背負い込んでいるのかもしれません。その荷物を誰かに背負わされていると勘違いしているのですね。でも、それは自分が自ら進んで担いでいるだけなのです。

 そうですね、やらねばならないことなんか無いかも知れません。剣道なんてやってもやらなくても給料が変わる訳でも無いのに、何でこんなに一生懸命にやるのだろう?と女房殿は思っているでしょうね。

実は氣まぐれ剣士もよく分からないのです。若い頃はこんなに好きではなかったのに。やっぱり、どうでもいいことだから、やりたくなるのかなぁ。やらなければならない仕事なんて全然やりたくないのにね(ホンネです)。

次回もお楽しみに                          以上   

318 臆病

2006-03-21 06:28:46 | Weblog
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318 臆病


「臆病」な人が、気が弱くて優しいわけではありません。いつも自分を守ることしか考えていないから、「臆病」になるそうです。

いつも「私が悪い」「どうせ私なんか…」と自分を卑下し、何かを恐れてビクビクしている「臆病」な人は、結局自分を守ることばかり考えている人ですね。

「臆病」な人は他人からの攻撃に対して、最初から防御体制を敷いているだけのことで、自分のことしか考えていません。本当は「悪いのは自分ではなく、相手だ」と思っているのに、それを言い出せないでいる情けない自分を隠して、納得させるために「臆病」なフリをしているみたいです。

 本音の部分では、人一倍、自分のことを認めて欲しいのですが、それを言い出せないが為に、「臆病」を装って、その原因を他人のセイにしようとしているのですね。

「臆病」な人は、他人から嫌われたり、拒絶されたりすることを極端に恐れますが、
しかしそういう「臆病」な態度こそが、最も他人から嫌われる原因になっていることに気が付きません。

いつも本当の自分を隠して、相手の反応にビクビクしている人と、長所も短所もあっけらかんとさらけ出している人と、みなさんはどちらの人に好感を持つでしょうか?

「臆病」とは、「本当のあなたが隠れてしまっている病」と言う意味だそうです。自分が本当の自分を隠しているのに、あなた以外の誰かが、「本当のあなた」に気付いてくれると思うのは虫が良過ぎるかもしれません。

自分自身が本当の自分の存在に気付いて、認めてあげることしか、「臆病」に付ける薬はないそうです。

 気まぐれ剣士も大変臆病です。うそを付くとすぐにドキドキしてすぐに女房殿にばれてしまいます。女房殿を騙せるくらいになったら、剣道ももっと強くなれると思うのですが・・・

いかがでした。
次回もお楽しみに
以上 

317 忙しさ

2006-03-16 12:35:37 | Weblog
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317 忙しさ


  「忙しさ」は本当に大切なことから、逃れるための言い訳に過ぎないそうです。

「忙しい、忙しい」という口ぐせは、本当に大切なことと向き合うのを避けるために、「イヤだ、イヤだ」と言いながら逃げ回っているこを宣言しているようなものです。
少しでもヒマな時間が出来ると、自分の内なる声がささやきかけてくるので、 聞こえないフリをする為に「忙しさ」の中に逃げ込もうとしているだけだそうです。

「忙しい」とは、「心を亡くす」と書きますが、正確には心が亡くなるのではありません。あなたの心は亡くなることはありませんが、自分の本心や子供心を無視しようとすると、心が閉じてしまうことにななります。

「忙しさ」は、本当に自分がキチンと向き合わないといけないことから、目をそらすための行為に他なりません。

しかし、自分が忙しくすればする程、実際にやっていることと本当に向き合わないといけないことの間でズレが大きくなるばかりで、心も身体もヘトヘトに疲れ切ってしまうことになるそうです。

自分が「忙しさ」を理由に向き合うことを避けているものの正体はなんでしょう?
「お金に対する恐怖」を紛らわせたいのでしょうか? 
それとも「パートナーへの愛」を確かめるのが怖いのでしょうか?
或いは「本当の自分」を知ることに対する抵抗でしょうか?

いづれにしても、それらの問題に目を背けていても何も始まりません。
あなたが「忙しさ」の中に逃げ込もうとすればする程、その問題はあなたを影のように追いかけ、ドンドン膨らむことになるでしょう。

 そうですね、忙しいときには、嫌なことや心配ごとは一時的に忘れることが出来ますね。やはり忙しい振りして問題から逃げているかも知れません。気まぐれ剣士も土日は剣道で忙しいです。そのときは熱中していて、いいのですが、ふと一息つくとコワイ女房殿の顔を思い出します。これの繰り返しで今日まで来てしまいました。
 
 次回もおたのしみに
以上

316 みんな

2006-03-14 22:19:10 | Weblog
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316 みんな

「みんなが言うから…」と人は言いますが、その「みんな」って、一体誰のことでしょうか? 具体的に名前を挙げる事ができますか。

「みんな」の話しを持ち出す時、それは自分に自信がない時です。後ろめたい気持ちから自分を守るための言い訳として、とにかくたくさんの人を味方に付けようとして、「みんな」のことを持ち出します。

 つまり誰かが「みんな」の話を持ち出した時点で、心理的には既に自らの劣勢を認めて、白旗を揚げているようなものなのです。

「みんな、そう言ってます」とか、
「これはみんなの意見です」とか、

 自分だけでない「みんな」の力を借りて、自分を出来るだけ大きく見せることによって、相手を威嚇して、力で説き伏せようとしているわけですが、これは後退しながら、相手に宣戦布告しているようなもので、なんとも中途半端でちっとも迫力がありません。

試しに「みんな…」と言われたら、「そのみんなとは具体的に誰のことですか?」と聞いてみると、相手はほとんど返事ができないでしょう。
逆に自分が「みんな」と言う時、思い浮かべるのは誰のことでしょう? その「みんな」もあなたと全く同じ意見だと自信を持って言えますか?


 実は、「みんな」とは自分の頭が作り出した、得たいの知れない恐怖の象徴だそうです。
 そうですね。「みんな」がといえばなんだか安心できますね。赤信号、皆で渡れば怖くないと同じですね。どうも日本人は「みんな」という言葉に弱いようです。商売人は「皆さん、買われていますよ」と言うのが常套文句のようです。こういえばたいていの人は品物を買ってくれるそうです。

 でも、自分に自信のあるときには、わざわざ「みんな」を持ち出さなくても自分の思いを伝えるだけで良いですね。「氣まぐれ剣士は強いって」 誰も言ってくれないから自分だけでも言っております。

 次回もお楽しみに                        以上

315 観光

2006-03-12 07:00:03 | Weblog
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315 観光

 遠くにある名所や景勝地を見に行くことが、 「観光」なのではありません。
 「光」を「観る」ことが、「観光」の本質だそうです。

「観光」は、英語で「sight seeing」と訳されますが、これは元々の意味を考えると「似て非なる」ものですね。

 英語の「sight seeing」は、「景色を眺める」という意味で、文字通り、その土地土地の珍しい場所や名所、景勝地を見に行くことを指す言葉です。昨今の日本人の観光旅行はまさに、このスタイルであり、そういう意味では確かに「sight seeing」の訳がピッタリです。

 しかし本来の「観光」の意味は、文字通り「光を観る」ということだそうです。それも肉眼で「見る」のではなく、心の眼で「観る」のです。
珍しい場所や景色などといった外側の形ではなく、その場所や景色が放っているオーラやエネルギーとでもいうべき「光」を「観る」こと、或いはその土地が持つ「光」を「魅せてあげる」ことが、「観光」本来の意味です。そこには根本的に大きなスタンスの違いがあります。

 美しい景色を眺めにどこかに出掛けることが悪いワケではありませんが、単に「景色を見に行く」ことと、その景色の中に在る「光を観に行く」こととでは、目的意識がまるで違って来ます。目的が違えば、当然、受け取るものも違って来ます。

 景色が美しい場所は、確かにエネルギーに満ちています。その美しい場所に身を置くことは、光のエネルギーを観る感覚を養う訓練になるのです。その経験を積み重ねることで、日常の何気ない風景の中にでも、しっかりと光のエネルギーを感じ取れるような感性を磨いていくことが、「観光」旅行に出掛ける、真の目的なのです。

 そうだったのですね、観光とは文字とおり「光のエネルギー」、すなわちオーラを観ることだったのですね。そして、目で見るのではなく、心の眼で観るのですね。

 剣道でも強い先生はオーラがあるようですね。気まぐれ剣士にはオーラは見えませんが、何かバリヤーみたいなものがあり、なかなか打つことが出来ません。打っていったら返されることが分かっているから、打てないのですね。
 それだけでも分かればたいしたもんだと自分で慰めております。

次回もお楽しみに。
以上

314 でも

2006-03-09 13:19:59 | Weblog
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314 でも

「でも」は、自分の矛盾を知らせてくれるサインだそうです。

 相手の言ったことを「でも」で否定したり、反論したくなるのは、自分の中の正しさが侵される危険を感じているからだそうです。 たとえ相手があなたのことをどんなに非難し、攻撃して来たとしても、それは相手があなたに対して自己表現しているだけのことです。

 相手の自己表現に自分が付き合う必要はないのですが、そこに自分が反応し、「でも」で反論しようとするのは、相手の主張が、自分にも思い当たるフシがあるからに他なりません。自分の中に抱えている矛盾点を相手が見せてくれているからこそ、自分を守ろうとして反撃に出てしまうのです。

「でも」は、「デモ」。

 自らの権利を主張し、抗議のプラカードを掲げて、練り歩くのは、権利が侵される恐怖を感じているからだそうです。

 コミュニケーションは、どちらがより正しいかを競って勝負しているわけではありません。 相手の話を途中でさえぎり、「でも」で自説の正しさを証明しようとするのは、自らの価値観の危うさを認めようとせず、過剰防衛で宣戦布告のゴングを鳴らしていることと同じでだそうです。

あなたが「でも」で会話を始める時、それはあなたが相手の話を聞いていない証拠です。
自分の言いたいことばかり考えて、相手の本当に伝えたいことを受け入れる余裕がないことを自ら暴露しているようなものです。

 他人は全てあなたの内面を映し出してくれている鏡なのですね。相手は自分が隠していたいものを忠実に映し出してくれています。その鏡に向かって、「でも」と反論する前に自分の矛盾に気がつけば良いのですね。
 でも、やっぱり相手の言葉にムカッと来ることがありますよね。特に核心を衝かれた時は。女房殿に“今日も遅いわねえ”と言われると“たまには良いだろう”と言い返すのですが、“たまではありません”と言われると何も言い返せない氣まぐれ剣士でした。

次回もお楽しみに                           以上

313 応援

2006-03-07 08:24:37 | Weblog
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313 応援
 
人をこころから「応援」することと、人から本気で「応援」されることは同じです。全ては同じひとつのエネルギーで動いているそうです。

人は決してひとりで生きていくことは出来ません。 多くの人に迷惑をかけたり、支えてもらったりして、生きていくしかないのです。それは、自分の命があゆらる存在から「応援」され、生かされていると知ることでもありますね。

 今、幸せに成功している人は、間違いなく多くの人から「応援」されている人かもしれません。あなたが、たくさんの人から「応援」されるような人にならない限り、幸せに成功することはとても難しいでしょうね。

 逆に多くの人から、「あの人に幸せになってもらいたい…。成功してもらいたい…」と、本気で「応援」されるようになれば、成功しないでいる方が、難しいかもしれません。

 さらに、多くの人に「応援」される人がどんな人かと言えば、それは多くの人をこころから「応援」している人に他なりません。結局「応援」されることと、「応援」することは同じひとつのエネルギーで動いているのですね。「応援」は駆け引きや損得でするものではありません。

 少しでも見返りを求める心があると、それは「応援」しているように見せかけて、相手と取引しているだけになります。本当の「応援」とは単に、「応援」したいからする…。
ただ、それだけのことです。
その時、「応援」する側と、される側はひとつになり、分けることが出来なくなります。


 そうですね、「応援」することは「応援」されることだったのですね。以前に「与えるものが受け取るもの」と書いたことがありましたが、これも一緒のことですね。

 ただ、人間は浅はかなものだから、してもらったことはすぐに忘れるくせに、して上げたことはいつまでも覚えています。「してあげたのに・・・」がつくと、これは見返りを要求していますね。

 一番良いのはやっぱり応援したいから応援するのですね。理屈も何もいらないですね。理屈好きな気まぐれ剣士が言うのもへんですが・・・。

 この「言いたい放題」も皆さんに応援されているから続けることができます。みなさんが読んでくださった感想が気まぐれ剣士に勇気と自信を与えてくれます。
 今回はオチが浮かびませんでした。

次回もお楽しみに
以上

312 正解

2006-03-05 18:41:25 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

312 正解
 
何かが絶対的に間違っており、これだけが絶対に正しいという「正解」など、人生には用意されていないようです。

ただし、人が何かを競う時、優劣や順位を決めるための基準が必要となります。何が正しくて、何が間違っているのか…、予め用意された「正解」を用意しておくことで、始めて競走が成り立ちます。

「正解」が「絶対的に正しい唯一の答え」だと言うワケではありません。それは競争を促す側が用意したひとつの見方に過ぎませんね。
競争に参加する側は、出題者の意図を予想し、出題者が満足する見方を提示することが、「正解」の本当の意味だと理解しておく必要があります。

 特に人生において、誰もが納得するような「正解」など存在するワケもありません。人生で「巨万の富を得る」ことが「正解」で、ホームレスになることが「誤り」なのではないですね。

人生の「正解」とは、「正しい解答」を得ることではなく、人生をより正しく理解することかもしれません。人生を正しく理解するためには、行動し、その結果を踏まえて、反省し、それに修正を加えて、再び行動するという行為を繰り返すことですね。

それが人生をより正しく理解しようとするための積極的態度かもしれません。

 これに対して、常に絶対的な「正解」を求め、「正解」が確信出来ない限り、行動を起こさないのは慎重な生き方などではなく、単なる臆病であり、人生に対する消極的態度ですね。確信できるまで待っていては、結局何も出来ません。

 そういえば中学のとき、国語の先生は、国語の正解はいろんな表現の仕方があるから良いといい、数学の先生は、数学は答えが一つでハッキリしているから良いと言っていたことを思い出しました。でも、どちらも当たってますね。

  剣道でも、昇段試験の正解は、審査員が何を求めているかを把握し、実際に見せてやることですね。要するに審査員が正解と思っている事を見せることです。
 でも、気まぐれ剣士は、“やっと自分の剣道を審査員が評価してくれた”と心の中で思っています。とても口に出して言う勇気はありませんが・・・。

 次回もお楽しみに
以上

311 よい人

2006-03-03 08:04:43 | Weblog
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311 よい人
 
「よい人」というのは単なる役割だそうです。あなたはあなた。「よい人」を演じ続けていると、「どうでもよい人」になってしまうそうです。

「よい人」とは、自分の中にあるたくさんの役割のひとつに過ぎません。さらに「よい人」と評価するのは、自分以外の他人がすることであり、それはあくまで、他人がするひとつの自己表現に過ぎません。

自分が「よい人」を演じていると、他人にも「よい人」であることを要求し、押し付けてしまいます。しかしそれは自分の中の価値観に照らし合わせて、自分自身で「良い・悪い」を評価・判断しているだけであって、あなたが思う「よい人」の部分と、他人が評価する、あなたの「よい人」の部分とは、必ずしも一致しているわけではないそうです。

 あなたは全ての人に対して、「よい人」でいたいと思っているのかもしれませんが、そんな人がこの世に実在すると思いますか? そんな全ての人に対して「よい人」を演じている人に、あなたは魅力を感じますか?

ひょっとすると皆にとっての「よい人」とは、誰の友達でもない「どうでもよい人」になっているかもしれません。そうまでして、 あなたが「よい人」を演じ続ける理由はどこにあるのでしょうか?

それは幼い頃の、親に嫌われると生きていけなかったという根源的な不安があるからかもしれません。それ故、懸命に「よい子」を演じていた幼い頃の記憶が、 大人になった今でも、あなたに「よい人」を演じさせてしまうのかもしれませんね。


 そうですね、気まぐれ剣士も子供の頃は、おとなしくてとってもいい子でした。今でもいい人なんですが?ちょっと飲みすぎるのがいけないみたいです。

でも、やっぱり、皆さんからよく見られたい、よい人を演じてしまいますね。本当の自分はもっと違うような気がしますが・・・

 わざと嫌われる必要もありませんが、周囲の期待に応えようとして、むりして「よい人」を演じる必要はありませんね。人の評価に一喜一憂することなく自分のやりたい道を進めばいいのですね。

 気まぐれ剣士は、もちろん剣道一筋ですね。でも女房殿からは、“家族と仕事はどうなるの”ときついお言葉が返ってきそうです。

次回もお楽しみに
以上

310 偏見

2006-03-01 12:37:01 | Weblog
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310 偏見
 
偏った見方をすると、「偏見」になりますが、では偏らない見方とは、どんな見方だか、わかりますか?

「この世界は偏見と差別に満ちている」の言葉は、確かにその通りかもしれません。

人類が肉体という容れ物を持ち、「自分」というエゴを持っている限り、「偏見」や差別が完全になくなることはないかもしれません。

仮にどんなに素晴らしいメッセージが降りて来たとしても、それを三次元で表現するのは、自分と容れ物を通してしか出来ませんし、言葉や文字にしようと思えば、自らのマインドを使わざるを得ません。

そこに自分というフィルターがかかっている限り、程度の差こそあれ、偏った見方になってしまうのは、避けられない事実かもしれません。それは全ての人が、自らの偏った見方で世界を見ているということです。つまり、この世は「偏見」に満ち溢れていると言えますね。

しかし全ての人が「偏見」でこの世を見ているとすれば、それはもはや「偏見」とは呼べないかもしれません。誰もが偏っているのですから、それに「良い・悪い」と優劣をつけることに全く意味はありませんね。

全ての人が自分の見たいように、世界を見ているのですから、もしあなたの見たくない世界がそこに繰り広げられているとしたら、あなたの見方を自分で変えれば良いだけです。

あなたがどのように見方を変えたところで、それはあなたの「偏見」に過ぎないのですから、他人の見方や社会の常識など気にする必要はありません。あなたはあなたの「偏見」を元に、この世界を観て、味わい、体験すればそれで良いのです。それだけです。

 
そうだったのですね。全ての人が自らの「偏見」を通して、世界を観ているのです。他人の「偏見」を正そうとするのは、自分の「偏見」そのものなのですね。

 ゴルフでもいますよね。大して巧くもないのに、人に教えまくる人。氣まぐれ剣士もそうなんですが、自分のできることは人に教えたくなりますね。

自分の偏見だとも気がつかないで、これが一番正しいと思ってしまいます。ただ、偏見である事を自覚すればいいのですね。

次回もお楽しみに
以上