氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

525 競争から共創へ

2007-05-30 12:32:07 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

525 競争から共創へ

実話だそうです。

あるところにさびれた温泉町がありました。
旅館のオーナーたちは、少しでも自分の旅館に呼びこもうとたまに訪れる旅人の取り合いになります。
町から離れたところにも競って看板を出し始めました。
街道には看板が並び景観を損なうようになりました。

すると、いっそう旅人は減りしまいには、1ヵ月の売り上げが3万円代にまでなってしまう旅館もでてきたそうです。

そんななか、唯一、顧客に受け入れられていた旅館のオーナーが
「今まで私がやってきたノウハウを全部公開するから、
助け合って町を活性化させよう。だからもう、競争はやめよう。
看板を外そう。
景観を良くするために木を植えよう。
そして露天風呂をつくろう」とみんなに呼びかけました。

そんななかででてきたアイデアが入場手形というシステムです。

どこの宿に泊まったとしても
他の宿の露天風呂に自由に入れるという
相互支援システムです。

その結果、現在、
3ヵ月以上先まで全館が満室なのだそう。

そうですね。自分だけが良くても、周りがだめっだたら、やっぱり駄目ですね。ずっと昔はテイク&テイク(取れるだけ取る)、今はギブ&テイクです。でもこれからはギブ&ギブだそうです。周りが幸せなら、自分も幸せというスタンスですね。
 だって、与えるものが受け取るものですから。

小生、野菜を差し上げて、幸せをいただいています。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上         

524 友だち

2007-05-28 07:55:12 | Weblog
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524 友だち

心理学博士の小林正観先生のお話です。

例えば、もし、あなたが無職になったとしたら、どうやって次の仕事を見つけます?
普通だったら求人雑誌を探しますよね。

小林正観さんがお薦めする方法は、友人たち20人ほどに頼んでおくことなのだそうです。
そして、そこから来た仕事は皿洗いだろうが何だろうが、笑顔でひたすら誠実にやり続ける。
すると、必ず道が開けるのだそうです。

ここで、これは好きな仕事じゃないからなどと、より好みをしている人は「着手」がないので、何も始まらないそうです。

小林先生の解説はこうです。
「『運は動より生ず』なのです。この言葉が『運動』の元ですがとにかく『着手』し、頼まれた(与えられた、宇宙からやってきた)ことをやり続けること。
初めから『理想の仕事』に出会う人などほとんどいません。まずは『動』を始めることです」

また、弁護士や税理士などの専門家が必要になったときは、やはり電話帳などで探さずに
「いい弁護士知らない?」と友人10人に電話してみるのがいいのだそう。

良い友人を持っている人には良い弁護士が紹介されるのだそうです。

「結局は、どれほど良い友人を持っているか、ということ。それには自分の日常生活が大きくかかわってきます。目の前のすべての人を大事にし、誠実に生きることは、生き方の王道です。

 一度約束をしたことは絶対に守る。できそうもないことは引き受けない。成績を上げなくてもいいから誠実にこなしていく。そのように生きていれば、自然に良い友人たちに囲まれることになります」by小林正観


なるほどねぇ。やっぱり持つべきものは友達ですね。まず友達が20人いるかどうかが問題です。その点氣まぐれ剣士は、皆様のおかげでたくさんのお友達が出来ました。本当にありがたいことですね。

いかがでした。
次回もお楽しみに。 
以上          

523 和菓子屋

2007-05-25 07:47:30 | Weblog
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523 和菓子屋
 
なにやら得体の知れない、異様な雰囲気を察知してフッと目覚めました。
周囲には焦げくさい臭いがたちこめ、階下からパチパチという音が聞こえてきます。
火事?

すぐに隣で寝ている妻を揺り起しました。「火事かもしれないから、ちょっと下を見てくる。子供たちを起してくれ」私はそういい残して寝室を後にしました。
それがよもや、妻子との今生の別れになろうとは思いもせずに。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
いま、140年以上続いてる老舗の和菓子屋「和た与」の5代目店主・小川与志和さんの出来事だそうです。

140年続いていた自ら経営する和菓子店が全焼。そして、妻と子供3人を激しい炎によって失うのです。3番目の子供は、2ヵ月前に生まれたばかりの赤ちゃんです。

小川さんは自分の身に起こったことはいったい何なのか、夢なのか、現実なのか意識が混濁し、このときの記憶は断片的にしか残っていないそうです。聞けば、錯乱状態に陥り、暴れるところを看護師たちに押さえ込まれて鎮静剤を打たれたようです。

もう生きていてもしょうがない。早く妻と子供のあとを追いかけようと小川さんは病院のベットで考えていると、消防署に勤めていた親友が病室に入ってきたそうです。

親友は「よう、どうだ調子は?」と普段と変わらぬ調子で声をかけベットの隅に腰掛けました。
「ここから飛び降りたら、死ねるかな」そう小川さんがたずねると親友は「そら、死ねるわな」。

小川さんは言います。「彼は『死ぬな』とはいいませんでした。後で、おまえは決してそんなことはしないと信じていた、と言っていましたが、逆にとめられなかったことで、私はそこでの自殺を思いとどまったように思います。もし彼が来てくれていなければ、私は恐らくその晩を乗り切ることはできなかったでしょう」

日にちが経っても、耳の奥には奥様の最後の苦しそうな声が染み付いたままで、近所にある遊園地の観覧車が目に入る度に最後に一緒に遊びに行ったときの子供たちの楽しそうな姿を思い出し、涙があふれたそうです。


気力をなくし、悶々と日を送っていると、小川さんのお父さんは「仕事はすぐに再開しなけければならない」と、早々に焼け跡から使える什器の搬出を始めたのだそうです。

「大事な家族を失ったばかりなのに父は何を考えているんだ」と小川さんはお父さんの気持が理解できず憤りすら覚えたそうです。

しかし来る日も来る日も黙々と作業を続けるお父さんの姿を見ているうちに、先祖が100年以上も守ってきたお店ののれんを自分の預かっている時代にたたんではならないんだろうな、という思いが湧いてきたのだそうです。

「父にしても大切な嫁やかわいい孫、将来の跡取りを失ったショックは相当なものに違いない。その悲しみと一生懸命に闘いながら、黙々と老いた体を動かしている。そう思い直して眺めた父の後ろ姿からは、どうか息子の私に立ち直ってもらいたい、という親心がひしひしと伝わってきて、私の目頭は思わず熱くなるのでした」

月日は流れ、「和た与」は再開の日を迎えることになります。
「その日、私は午前2時に目を覚ましました。身支度を調えて仏壇に向かい、
 にっこり微笑みかけている妻と子供たちの写真に手を合わせました。(いよいよきょうから営業再開や。がんばるから、どうか見守っててや)

 写真を手にとって仕事場に飾り、深夜の静まり返った厨房で一人作業を開始しました」

ところが、先代から受け継いだ味を奥様と2人で4年かけて改良した「うゐろ餅」を作っているときに米粉を入れるタイミングが微妙にずれ、生地のとろみが強くなり過ぎてしまったのです。

ここで失敗すれば50枚もの「うゐろ餅」がダメになり開店の時間に間に合わなくなる。どうすべきか―。というとき「水を足して」一瞬、奥様の声を聞いたような気がしたのだそうです。すぐさま水を足したところ、見事な練り具合に仕上がりました。

「あれが本当に妻の声だったのか定かではありませんが、彼女が確かに見守ってくれていることを感じ俄然、力が湧いてきました」

小川与志和さんは言います。
「あの一件で、それまで持っていたこざかしい考えやつまらないこだわりは吹き飛び、人間がいかに無力な存在であるかを実感しました。そして、自分がいまこうして生かしていただいてることに感謝して、一日一日を大切に生きようという心が芽生えました。

 
私は妻と3人の子供たちという、かけがえのないものを失いました。
しかしいつまでもないものを嘆くのではなく、あるものに目を向けていった時、自分がいかに多くのものに恵まれているかが見えてきました。

 立派なお店にたくさんのお客様、両親をはじめ自分を支えてくれる人々。

 火事を通じてそのありがたさを知り、また、何事もない平凡な日常、ただ元気に働ける毎日がいかにかけがえのないものであるかが実感できるようになりました。
 それが、悲しみの底から私が見出した光と言っていいでしょう。

 私がなすべきことはお店の看板をしっかりと守り、亡くなった妻と3人の子に恥じない生き方をしていくこと。その覚悟のもと、きょうもお客様に喜んでいただけるお菓子作りに精を出しています」
 

 
 すごい体験ですね。妻子をいっぺんに失う悲しみは、体験した人にしか分からないでしょうね。交通事故でもそうでしょうが、晴天の霹靂に“なんで俺だけがこんな目に”と思うのは当然だと思います。

 この体験を乗り切るのは、並大抵ではないですね。お父さんも偉い。悲しみを乗り越えて、店のため、息子のため、そして自分のために、黙々と作業をすることは、つらいでしょうね。

 最後に小川さんが言ってましたが、悲しみの底から見つけ出した光は、本当の真実の光でしょうね。人間はこんなにも強く生きることが出来るのですね。

 氣まぐれ剣士もつめの垢でも煎じてのみたい氣持ちです。


いかがでした。
次回もお楽しみに
以上




          

522 脳を発達させる方法

2007-05-23 08:02:59 | Weblog
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522 脳を発達させる方法
 

  イメージトレーニングについて、面白い事例があります。
バスケットのシュートの練習を、 同じくらいの実力の人を二つのグループに分けます。
  一つのグループは普通に練習をして、もう一つのグループは同じ時間イメトレだけを行いました。すると、二つのグループのシュートの上達具合は同じだったそうです。
 イメージすることで実際に行動したときと同じように脳は発達し、能力をアップさせてくれるそうです。

 剣道でも使えそうですね。確かにうまいことイメージできたことは、うまく行くような氣がします。

● 記憶力を高める 脳力開発 読書術...☆*:.☆*:

  ある調査によると講演会や人の話を聞いた後、そこで聞いたことは2日後には8割を忘れてしまうそうです。 つまり、せっかく時間とお金を費やして学んだことの8割を失くしてしまうのです。
  では、失くさないようにするにはどうしたらよいのでしょうか?
聞いたことや学んだことを、その日のうちに人に話したり、紙にまとめて書いたりする”とその学んだことを失わずに自分の脳に刻むことができるそうです。

 これは実感しますね。小生の「言いたい放題」はまさにこれです。小生なんか2日どころか聞いた端から忘れてしまいます。情けないですが・・・。だから忘れないようにと、せっせと書いています。

● 天才の育て方 
  ですから、頭の良い子を育てるには、一日学校で会った出来事を時間をかけて、楽しく聞いてあげることだそうです。
その日の出来事をしっかりとイメージさせて、楽しい気持ちでワクワクと話をすることで、才能を育てることができるようです。

 そういえば、近所のおじさんは会うたびに、昔のことをいろいろ話してくれました。きっと会う人会う人に同じことを話しているので、決して忘れないのでしょうね。天災は忘れたころにやってきますが、天才はいつも忘れないから天才なのですね。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上                

521 失うものより

2007-05-21 08:25:47 | Weblog
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521 失うものより


失ったものを数えるのではなく、
得たものを数えていく人間になりたい

パラリンピックで多くの金メダルを獲得した成田真由美さんの言葉です。

成田さんは、十三歳のとき交通事故で脊髄炎を起こし入院。
足がまったく動かなくなり、車椅子での生活となりました。

車椅子のまま、家に閉じこもっていても失ったものを悲しんで、自分の悲運を呪って、他人に八つ当たりしていても、仕方なかった状況だったと思います。

でも、彼女はそうしなかった。
もっと自分の人生を前向きに生きようとしたのです。

子どもの頃は怖くてできなかった水泳に、二十三歳のときチャレンジしたことで、彼女のスポーツ人生が花開きます。

何かの大会で、たまたまリレーの選手が足りないから、「あなた出てくれない」と言われて、引き受けました。そして、優勝。

その後は、ひたむきに泳いで泳いで、どんどん記録を伸ばしました。

アトランタ・パラリンピックで金メダル2個を含む5個のメダル、
シドニーでは金メダル6個と銀メダル1個、
アテネでは7個の金メダル(世界新記録6個)を獲得するという大活躍。

「障害によって失ったものより得たもののほうが大きいと思えるの」


小生もテレビで見てよく覚えています。すごいですね。実際にやり抜いてきた彼女だからこそいえる言葉ですね。小生も、つめの垢でもせんじて飲みたい気持ちです。
 でも、どうせ飲むなら、お酒か焼酎がいいですなぁ。いつまでたっても飲兵衛な氣まぐれ剣士でした。

いかがでした。
次回もお楽しみに。                                         以上                      

520 極楽

2007-05-18 08:17:16 | Weblog
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520 極楽


「極楽」とは、読んで字のごとく、「楽しさを極める」ことですね。 トコトンまで楽しさを追求すると、その時その場所が「極楽」になるそうです。

決して、あの世に行くことや、酒池肉林の快楽の世界に溺れることが、「極楽」なのではないそうです。

「楽」と「楽しい」は、似て非なるものです。「楽」をすることを「楽しい」と勘違いしてしまうと、どんどん「楽」な方に流されていきます。

一方、「楽しい」ことを選び続けていると、時には辛いことも苦しいことはあるかもしれませんが、 自らの意志で流れに乗っていることがわかるかもしれません。

勝手に「流されている」のか、それとも自ら積極的に「流れに乗っている」のかが、「楽」と「楽しい」の違いだそうです。

自らを監獄に閉じ込めてしまうことを「地獄」と呼ぶそうです。

「楽」な方に流されていく先のことを、人は「地獄」と呼び、「楽しい」方向の流れに乗っていく先のことを、人は「極楽」と呼ぶのかも知れません。

「迷ったら、迷わず楽しい道へ行け」という言葉があります。
迷ったら、立ち止まって、どちらの道を選択すれば、自分が心の底から楽しくなるのかを考えると良いかも知れません。

周りが喜ぶ方ではありません。もちろん楽な方でも、得する方向でもありません。 自分の中の「楽しさ」を基準にして、それを選択し続けていくと、その先には「極楽」が待っているのです。

 そうですね。楽しさを極めるのが「極楽」。ならば道を極めるのが「極道」ですね。でも「極道」というとヤクザ屋産みたいで、あまりいい印象はありませんね。小生、楽しさも、道も極めたいと思いますので「極楽道」と名づけたいのですがいかがでしょうか。“極楽への道”とも読めますが、“道楽を極める”とも読めますね。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上                      

519 自尊心

2007-05-16 08:24:02 | Weblog
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519 自尊心


タンポポ(ハンドルネーム)さんのお話です。

習慣に生かされているのではなく、現象に振り回されるのでもなく、
価値観や概念を人生の主役にするのでもなく、
常にこころをみつめて正直に、素直に、
自分だけ(エゴ)ではなく、自他共に喜べる表現の中で生きることが、
こころを満たしてくれる生き方だと感じます。

人間のこころは、自尊心が張り付いています。
だから人間なのですね。

自尊心に囚われると、たちまち嫉妬や、怒りや、傲慢さや、卑屈、なげやり・・・
こころは、これらの感情に支配されてしまいます。
常にこころを満たしていたいのは、自尊心があるからです。
自尊心が満たせないと、自尊心に囚われ、自他を否定し始めます。

自尊心に囚われて、自他を否定、批判して苦しむのではなく、
今、ここにいて、本性の目で、すべてをありのままに感じながら、
喜びの選択をし続けることが、人間としてほんとうの自分であり続ける方法です。

自尊心に囚われるのではなく、自尊心を満たす生き方を選ぶ。
こころは、もともと幸せ(自尊心。。自分を尊んでいる)で満ちています。

そのことに気づかせてくれるために、あらゆる感情が生まれ、悲しみが生まれます。
人のこころは、悲しみでさえは、喜びにつながっているのです。

ありのままに、正直に、こころをみつめ続けると、誰のこころにも感じてくるはずです。
こころを深く感じることができるほどに、こころの世界は、悲しみから解放されていくことに氣づきます。
真の意味で、自尊心が満たされるからです。

本当の自尊心って難しそうですね・・・。

いかがでした。
次回もお楽しみに。                          以上                       

518 問題

2007-05-14 08:22:41 | Weblog
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518 問題


われわれが今、なんらかの「問題」を抱えているのなら、その「問題」はどこからか、自分の元に降って湧いて来たものではなく、たくさんの「問題」の中から、自分が自ら選んで、 拾って来たものかもしれません。

「誰も好き好んで『問題』をワザワザ抱え込むような、愚かなことをするハズがない」と、反論したくなるかもしれませんが、残念ながら、自分の抱えている「問題」は、自分だけの「問題」であり、自分のアタマが意識的に選んでいるものかも知れません。

私たちの意識や思考が、常に「問題」を求めているのそうです。アタマが「問題」を愛していると言っても良いかもしれません。何故なら、「問題」があることが…、その「問題」を解決しようとすることが、 アタマの存在意義そのものになっているからだそうです。

そう、「問題」がないと、アタマの出番がなくなってしまうので、アタマは麻薬のように「問題」に依存しているそうです。 私たちの目の前にあるのは、「問題」などではないそうです。

単なる環境や状況という事実に過ぎないそうです。その事実に色を付け、「問題」に仕立ててしまっているのは他ならぬ、自分自身かもしれません。

自分が「問題」を抱えることは、痛みをとらえて離さないということだそうです。「問題を抱えている私」に対して、自ら「痛み」という罰を与えることによって、「頑張っている私」をアピールしているだけのことらしいです。

今を生きていると「問題」を抱えることは出来ないそうです。「今」と「問題」とは共存することは出来ないのです。「問題」がなくなると、「痛み」も同時に消えることになります。

それが今に生きると言うことでもあるそうです。

 本当は問題など無いのですね。それはただ、環境や状況が変わっただけですね。それを問題とするから問題になるだけなのですね。

そういえば、学生のころ、問題の意味が分からなくて、“問題の意味が分からないのが問題だ“と思ったことがありますが、やっぱり自分で問題を作り出しているのでしょうか?

いかがでした。
次回もお楽しみに
以上                         

517 間違い

2007-05-10 07:58:47 | Weblog
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517 間違い


人生には本当の意味で失敗がないように、生きていく上で、「間違い」などないそうです。

「うまくいかなかったこと」を「間違い」だとすれば、人生は「間違い」だらけであり、まさに間違えることが、人生そのものかもしれません。

人生とは「間違い」から、学ぶためにあるのですね。

「間違い」=「ダメ」「価値がない」と言うことではなく、ただ、タイミング(=間)が合わなかっただけのことかもしれません。

「間違い」の反対は、「正解」ではなく、「間に合う」だそうです。つまり、ぴったりとタイミング(=間)が合うかどうかが、人生における最重要事項のひとつですね。

じぶんが自らの「間違い」に気付けば、もう一度、タイミングを計って、チャレンジすれば良いだけです。 しかし一度の「間違い」で、二度とチャレンジすることを止めてしまえば、それ以降、あなたは間違えたままの人生を送ることになってしまいます。

それこそ、人生における唯一の「間違い」と言えるのかも知れませんね。

「間」という字には、「門」の中に、「日」が隠されています。 間は「真」に通じます。
間に合って、あなたが真実の扉を開くことが出来れば、そこには「日」つまり太陽が、「大いなる存在」が隠れていると言うことだそうです。

同時に間は、「魔」にも通じています。 魔が差して、違う扉を開いてしまうと、そこには「鬼」が隠れていると言うことだそうです。

しかしそこで「間違い」を恐れる必要はないそうです。間違えたと思えば、また違う扉を開けば、それで良いことですからね。

 “間違い”とは間が合わないだけとは知りませんでした。決してダメなわけではなかったのですね。ちょっと安心しました。剣道でも“間”が大切ですね。“間”を間違えると勝てません。でも、逆に相手の”間(タイミング)“が合わなくて勝ったりすることもありますから、間違いも捨てたもんじゃありませんね。

いかがでした。
次回もお楽しみに。                                         以上                             

516 小話

2007-05-08 17:28:42 | Weblog
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516 小話

 ……こんな小話があります。
 あるところに、ちょっと間の抜けた男がいました。近所の人が「お金を拾った」と、とてもうれしそうにしているのを見て、この男は、そんなにうれしいのなら、自分もお金を拾ってみようと考えました。

 男は、道を歩きながら、どこかにお金は落ちていないかと、あちこち探してみますが、そう簡単には見つかりません。そこで、男は、自分の財布から小銭を取り出し、わざと道に落としてみました。そのお金を何気ない振りをして、拾い上げてみたのです。 「あれ? おかしいな」男は、首を傾げました。

 お金を拾ってみたのに、ちっともうれしくないのです。近所の人は、あんなにうれしそうにニコニコしていたのに……こんなはずはないと何度も、小銭を落としてみては、拾ってみますが、やっぱりうれしくも何ともないのです。

 そんなことを何度も繰り返しているうちに、男が落としたお金が、転がっていって道端のどぶのなかに入ってしまいました。男は、あわててどぶのなかに手を突っ込んで、小銭を探しますが、どこへ行ってしまったのか、なかなか見つかりません。

 何時間もかけて探し続けて、全身泥だらけになりながら、やっとの思いで小銭を見つけだした男は、ニッコリ笑ってこう言いました。 「なるほど、こういうことだったのか。やっぱりお金を拾うのは、本当に、うれしいものだな」

 私たちは、悩んでいたり苦しいときにこそ、今まで気づかなかった自分の力を見つけたり、本当に大切なことを知ったりすることがあります。また、不幸な出来事や失敗が、自分を大きくしてくれることもありますね。不思議なことに、人生では、その人が準備ができたときに、最適なタイミングで、本当に大事でその時に必要な「気づき」が与えられることになっているそうです。

 火事場の馬鹿力というように、切羽詰ったときにとんでもない力を発揮することがありますね。やっぱり困ったことは本人の氣づかない能力を発揮する為に起きるかもしれませんね。お母さん方は子供の為なら何でもできるようです。
 
でも、氣まぐれ剣士の女房殿は小生には何をしてくれるかあまり期待で着ないようです。日頃のおこないがおこないだけに、仕方ないですね。

いかがでした。
次回もお楽しみに。                                        以上                                

515 失っているとき

2007-05-02 08:06:47 | Weblog
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515 失っているとき

 失っているときが、一番たくさん持っていることになって、たくさん持っているときが、一番持っていないことになるものって何でしょうか。

 ……答えは、『自分』かもしれませんね。

 自分自身、自分らしさ、自分が輝いているとき……
 どういうことかと言いますと、仕事でも趣味でもスポーツでも、何かに夢中になっていて、我をも忘れているときってありますね。そんなふうに自分を失っている瞬間の自分が、どんなときよりも、一番自分らしくて充実しているように思えます。

 人からどう思われるか考えることもないし、過去や未来の心配に振り回されることもありません。思いっきり、今を楽しんでいる自分がいます。
つまり、自分を失っているときが、自分自身を、一番たくさん持っていることになります。

 逆に、悩みがあったり、不安や心配に心を奪われているときには、自分のことで頭が一杯になってしまいます。自分はどうしていつもダメなんだろうと思ったり、わが身の不運を呪ったりして、ため息をついてしまうようなとき。自分自身のことばかりを考えてしまいますよね。

 普段、存在に気づかないような足の小指だって、柱にぶつけて痛みを感じれば、突然、その存在が大きくなってきます。小指の痛みのことで頭が一杯になります。
それと同じで、悩めば悩むほど、苦しめば苦しむほど、自分自身をより意識しているかも知れません。

 もちろん、そんなときには、生き生きとした自分らしさとは、一番かけ離れているときでしょう。だから、自分をたくさん持っているときには、一番、自分を持っていないということにもなってしまうのです。

 だから、幸せになんかなれなくても良いやと幸せを手放したときに、幸せが手に入るかも知れませんね。これをパラドクスというそうです。

 皆さんも経験ありませんか。もうどうなってもいいやと開き直ったときに、いい方向に向かったことが・・・。開き直っても良いそうです。いけないのは、強盗のように居直ることだそうです。小生、試合に負けたとき、相手のせいと、開き直ることは得意なんですが・・・。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上