氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

220 大才になる方法

2005-09-30 17:14:01 | Weblog
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220 大才になる方法

柳生家の家訓

『小才は、縁に出会って、縁に氣づかず。
  中才は、縁に氣づいて、縁を活かさず。
   大才は、袖すり合うた縁をも活かす。』
           (柳生石舟斎・柳生家家訓)

 多くの成功者が成功の要因にあげていること。その一つは人脈の力だそうです。
メンター(よき助言者・師)のアドバイス、援助で成功の第一歩を踏み出したり、仲間の躍進に導かれるように成功したり・・・。 成功したメンター、友人を持つことはそれだけで夢の実現に近づいてるといえるかも知れません。

 ・いくら自分の腕を磨いても誰にも認めてもらえない
 ・いいプランがあるのにうまく実現していかない
 ・応援してくれる人がなかなか現れない・・・。
そう感じることが私たちにはありますね。でも、もしかしたら
『縁に出会って、縁に氣づいていない』のかも知れません。 

あなたの仲間に入りたい多くの人が周りに溢れているかも知れません。
ただそれに気がついていないだけかもしれません。
『縁に氣づいて、縁を活かせない』時ですね。
でも何もしないで手をこまねいているとしたら、それは
『縁に出会って、縁に氣づかず』の状態と同じかもしれません。

たとえどんな小さなことでも人と『分かち合おう』という氣持ちがあれば、ちょっとした出会いもご縁となるかも知れません。これが『袖すり合うた縁をも活かす』ことになり、「大才」というそうです。

 これに似た諺(ことわざ)で「袖すりあうも、たしょうの縁」というものがあります。「たしょう」は「多少」ではなく「他生」と書き、他のことも生まれると言う意味ですね。少しの縁と思っていた人もいるのではないでしょうか。

 でも、少しでも縁になれば良いですよね。今の世の中は少し触れただけでもセクハラになる時代ですから。女性のみなさん、気まぐれ剣士と触れても、セクハラで訴えないでくださいね。でも、それが大きな縁になったりして。
次回もお楽しみに
以上

219  天上天下唯我独尊

2005-09-29 21:27:57 | Weblog
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219  天上天下唯我独尊

 2500年ほど前のこと。生れ落ちたばかりの赤ちゃんがすぐに7歩歩み、天と地を指し『天上天下 唯我独尊』と宣言されました。お釈迦さんの誕生の逸話です(4月8日が誕生日だと言われます)。

 『天上天下 唯我独尊』の意味は
「私は宇宙に一人しかいない、かけがえのない宝物。私と同様、あなたも。そして誰もが、宇宙に一人しかいない、かけがえのない宝物」という意味ですね。もっと平たく言えば、「みんな違ってみんないい」ということでしょうか。

 こんな話があります。
 天国に行って神様の前である人が悔い改めの言葉を発しました。
(人)『すみません。私はお釈迦さんやキリストさんのようになれませんでした』
(神)『なぜあやまるのだい?』
(人)『ですからお釈迦さんやキリストさんのようになって、世の人々を救うことができなかったのです』
(神)『そんなことはあなたに望んだことではない。もしお釈迦さんのような人が必要なら、お釈迦さんを何人でも送り出しただろう。それよりも、なぜ、あなた自身にならなかったのかい? 
   それが一番私が望んだことであり、あなたにとって幸せで、しかも、あなたが多くの人に貢献することだったのだが・・・

     『私と小鳥と鈴と』

      私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
      飛べる小鳥は私のやうに、地面(じべた)を速くは走れない。

      私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
      あの鳴る鈴は私のやうに、たくさんな唄は知らないよ。

      鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。                 (金子みすヾ)

 金子みすヾのこの詩が全てを言い表していますね。
 剣道なんて弱くて良いんです。気まぐれ剣士は気まぐれ剣士なんだから。
                                  以上

218 良かった

2005-09-28 21:20:20 | Weblog
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218 良かった

いつでもどんな時でも、「あ~良かった」を口癖にすることが、ツキを呼び込む、ひとつのコツだそうです。

どんな出来事が起こっても、その出来事自体に絶対的な「良い・悪い」はないそうです。
 出来事自体は常に「ニュートラル」であって、それに意味付けしているのは、私たちひとりひとりの見方によるものです。
 出来事自体に「良い・悪い」はないのですから、その出来事をあなたが「良い」と思えば、「良い事」に、「悪い」と思えば「悪い事」になるだけですね。

その出来事に我々がどんな意味付けをしようと、それは我々の自由ですが、自分で自分の首を絞めるような「悪い」意味付けをして、自らをさらに苦しめるようなことをしているかもしれません。

起こってしまった出来事に対して、「あ~だ、こ~だ」と論評・評価してみたところで出来事自体が変わるワケではありません。我々が出来ることは、その出来事を受け入れ、次にどういう行動を起こすかだけですね。

 そこで、「最悪」「イヤだ」と言う思いを抱えていると、更なる「最悪でイヤな出来事」を引き寄せてしまうそうです。我々がその出来事を「良かった」と思えない限り、我々が本当に「良かったと思える出来事」を引き寄せることは出来ません。

 それがシンプルな宇宙の法則でだそうです。

 その出来事があなたの目にはどう映っていたとしても、「あ~良かった」と声に出して、唱えてみませんか。

 全ての存在は常に生成発展しているのですから、宇宙レベルで観れば、 確かに「良くない出来事」など起こりようがないのですね。

 まずは「良かった」と口に出すことから、ツキの流れが始まるのです。理由は後から付いて来るそうです。

 納税者日本一の斎藤一人さんも言っています。ツイてる、ツイてると言っていると自然にツイていることが起きるって。子供の遠足みたいなものですね。行く前からワクワク、ドキドキして楽しんでいるから、遠足が楽しいのですね。

 気まぐれ剣士は、剣道する前から今日のビールは美味いだろうなとワクワクしながら稽古しています。別に稽古にワクワクしているわけではないのです。
 お後がよろしいようで。
 次回もお楽しみに。                            以上

217 信実が真実をつくる

2005-09-27 22:13:48 | Weblog
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217 信実が真実をつくる

 「しんじつ」には二つあるそうです。「真実」と「信実」です。

 「真実」は皆さんご存知の通り、真(まこと)のことです。では「信実」とは?
「そんなことは無理に決まっている!」とか、「そりゃ、難しいよ」という一言で「やはり無理かなぁ?」「私には出来ない」と信じた結果、その通りの現実を体験するのが「信実」だそうです。これによってどれだけ多くのチャンスと才能が失われているか知れません。

 また、逆のケースもあります。多くの人が固定観念にとらわれていることを「そんなことは簡単だよ」と軽々とやり遂げてしまうことも。最初の一人がある壁を破ってしまうと次々と今まで不可能だと思っていた壁を突き破る人が現れてくるそうです。

 こんな事実があるそうです。
 1923年、天才ランナー、フィンランドのバーボ・ヌルミ選手が1マイル(1600m)を4分10秒3で走り、それまで37年間も破られずにいた記録を2秒更新しました。驚異的な記録と騒がれました。
 「ヌミルの記録はいつかはやぶられるかも知れないが、4分を切ることは医学的に考えられない」と専門家は断言し、新聞も書き立てました。やがてそれが世界の常識になりました。
 ところが、31年後の1954年5月6日、ロジャー・ギルバート・バニスター選手がとうとう4分の壁を切ったのです。3分59秒04の世界記録を達成したのです。
 バニスター選手は31年ぶりに世界記録を樹立したのですが、ところがその記録はその年の1マイル記録・第24位にしか過ぎなかったのです。

 31年間やぶられなかった記録の壁をたった一人が越えたことによって、同じ年に実に23人ものランナーがバニスター選手の記録を破ったのです。

 100mでも同じことが言えますね。人間が10秒切るなんて医学的に考えられないといっていたのに一人が10秒を切ると次々と10秒を切る人が現れました。

 でも本当に信じきれば実現するのでしょうか。気まぐれ剣士も8段になれると信じきっているのに。でも、やはりどこかに信じ切れない現実がありますね。剣道は段だけじゃありませんと誰かに言われそうです。ごもっともでございます。
 
 信じてもいまいち信じきれない気まぐれ剣士でした。
 次回もお楽しみに
以上               

216 我慢

2005-09-26 22:26:11 | Weblog
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216 我慢
 
  「我慢」とは、「我(われ)の慢心」。 我が慢心しなければ、「我慢」する必要もなくなります。

日本人にとって、いつの頃からか「我慢」することは、身に付けねばならない美徳のひとつになってしまいました。 私たちは「我慢」して、耐え忍んで、努力に努力を重ねて精進するこが、 成功への秘訣であり、尊いことのような価値観をいつの間にか、刷り込まれてしまったようです。

「足るを知る」ことと、「我慢」することは、「似て非なる」ものです。「足るを知る」心は、常に自分が満たされていることを知っていることであり、「我慢」する心は、自分が満たされていないことを知っていて、それに無理矢理フタをして、誤魔化そうとしていることに他なりません。

「我慢」の心は、「自分はこんなものじゃない…」と、今の自分を認めていないことに、その源があります。

つまり自分の現在地を客観的に見ようとせず、自分の価値を必要以上に高く見積もっている場合は「傲慢」に、自分の価値を不当に低く見積もっている場合は「卑下慢」というそうです。

どちらも「今、あるがままの自分」を認めておらず、「慢心」しているので、「不平・不満」や「愚痴」が多くなり、被害者意識が高まります。

「自分がこんなにやっているのに~」と思った途端、「我(われ)の慢心」が生れます。「私ばっかり…」「自分だけが…」と「我慢」する心は、実は「特別意識」の塊です。「我慢」の心は、いつかどこかで必ず、弾けるそうです。

自らの欲望を「我慢」せず、欲しいものは、欲しいと認めるといいかもしれません。
自分の欲求を素直に認めて、自分が大したものではないことを自覚することが大切です。

「大したものではない自分」を認めることが出来ると、「慢心」することもなくなるそうです。
「慢心」しなければ、「我慢」することもありません。
無理して「我慢」することなんてないのです。
あなたは、そのままで良いのです。

自分をありのままに見つめることは簡単なようで難しいかもしれません。気まぐれ剣士は、いつも自分は強いと錯覚をしているようです。
以上 

215 まねる

2005-09-25 16:30:00 | Weblog
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215 まねる
 
 全ての学びは、「まねる」ことから始まるそうです。「学び」は、「まねぶ」こと。良いと思ったことはドンドン「まねる」ことがいいかもしれません。


どんなにオリジナルの考えやアイデアを主張したとしても、それはどこかの誰かのアイデアを「まねた」ものを元に、組み合わせが新しくなったか、或いは表現方法が少し変わった程度のものに過ぎないかもしれません。

さらに「まねる」元となったアイデアにしても、そのアイデアのヒラメキはどこかからやって来たのかと言えば、元を辿れば全て「大いなるもの」からの恩恵であり、それを「自分のオリジナルのアイデアだ!」と強く主張するのは虫の良い話しで、人間の傲慢かも知れません。

最初は「ものまね」で良いのです。自分の憧れの人や目標とする人をお手本にして、その人のことを一生懸命見て、言動を覚え、同じようにやってみることです。「しっかり観察すること」と「同じようにやってみること」のふたつが、「まねる」時のポイントであり、それが学びの原点だそうです。

最初はぎこちなくても、まねを続けている内に、それはドンドン洗練され、「自分のもの」になっていきます。自分が何かを見て、「まねしたい」と思ったと言うことは、自分の中に「まねる」対象と同じものが眠っており、それが共鳴したと言う証明だそうです。

受け取ったものは、全て自分のものです。自分が、まねをしたい憧れの人を書き出してみましょう。それらを全て組み合わせることが出来れば、それがあなたならでは…のオリジナル・スタイルになるのです。

小学生がイチローや松井のマネをして自分の物にしていくのと同じですね。相手の良いところが分かるというのは、自分にもその良いところがあるという証拠です。逆に有名な絵画を見てそのよさが分からない気まぐれ剣士は、絵の素養がまったくないということのようです。

 気まぐれ剣士は、栄花選手や宮崎選手のいいところを真似しているのに、ちっとも強くならないのは、なぜでしょうか?なに、土台が違うって。ごもっともでございます。

 次回もお楽しみに
以上 

214 要求

2005-09-24 02:56:49 | Weblog
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214 要求
 
人生を幸せに生きていこうと思うのなら、これだけは覚えておくといいそうです。
      
『他人には決して「要求」しないこと』

愛する人を信頼し、尊敬したり、感謝したりすることは大切ことです。 でもそれは、あなた自身がしたいから、そうしているのであって、相手が自分のことを信頼してくれたり、尊敬してくれたり、 感謝してくれることを「要求」するものではありませんね。 

他人に期待してはいけません。その期待は必ず、裏切られるそうです。
何故なら、そこには、「自分の期待を満たしてくれるのが当然だ」という「要求」が発生するからです。
「要求」は単なる取引だそうです。
取引ですから、誰もがより自分に有利な条件で、相手に自分の「要求」を押し付けようと画策します。それはアメとムチ、裏と表を使い分け、相手を利用しようとしているだけです。

「要求」する人は、自分の都合しか考えていませんから、相手に利用価値がなくなれば、それまでです。
人を愛する理由は「私が愛したいから、愛した」だけで良いのです。愛する人は、あなたの「要求」を満たすためにそこに存在しているのではありません。

仮にあなたの愛する人が、あなたの前から去って行ったとしても、あなたが相手に何の「要求」もしていなければ、 裏切られたと傷付くこともありません。

相手があなたの前から去って行ったとしても、愛し続けることは出来ますし、あなたがその相手を確かに愛せたことに静かに感謝を捧げれば、それで良いのですね。

「あんなにしてやったのに」、「~してくれて当然」と、あなたが相手に「要求」していることはなんですか?相手は自分の「要求」を満たしてくれるものという考え方が、あなたを苦しめているのかもしれませんよ。

 気まぐれ剣士も最近はあまり女房に要求しなくなりまた。でも、これは要求しても無駄だと諦(あきら)めた?だけなんですけど。それでもずいぶん楽になりました。皆さんも諦めたほうが良いかもしれませんよ。「あきらめる」とは「明らめる」つまり明らかにすることなのです。諦めることが幸福の近道かも知れません。
 次回もお楽しみに。
以上 

213 心の投影

2005-09-23 19:13:41 | Weblog
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213 心の投影

 メルマガにのっていたお話です。信じることも、信じないことも、あなた次第です。ちなみに気まぐれ剣士は信じます。

 この世の全ての現象は、あなたの内面を 「投影」したものに過ぎません。全ての現象はあなたの中に在るものです。
この世の中であなたが見聞きするものは全て、 あなたの内面を「投影」しているものに過ぎません。あなたの中に「ない」ものが、あなたの外側に現れることはありません。
これは「宇宙の法則」です。

あなたの目の前で起きている現象は、自らのこころの映写機が「投影」されたスクリーンに映る映像のようなものです。現実というスクリーンに映し出される映像は、本物のようにリアルなものですが、それ自体には何の力もありません。その現象を作り出す力の源は、あなたの内側にあります。

目に見える現象はあなたの内面を「投影」した結果であり、 原因はあなたの内側の、こころの中にあるのです。あなたが外側の現象を変えようと、いくら頑張ってみても、それはスクリーンに映し出された映像と格闘しているようなものです。

苦手なあの人は、あなたの中にあるイヤな部分や最も見たくない部分を鏡のように忠実に「投影」してくれているだけなのです。その苦手な人が問題なのではなく、自分の中にあるネガティブな部分を見せられるからイヤなのです。 問題の原因は全てあなたの中にあると知ることが大切です。

ポジティブな現象であれ、ネガティブな出来事であれ、それらは全て、あなたのこころ映写機が「投影」した映像に過ぎません。あなた好みの映像が見たければ、こころの映写機にセットされたフィルムを変えるしかなく、それはあなたにしか出来ない作業なのです。

 たしかに目に見える現象は人によって違うふうに見えるかもしれません。同じ現象でも気分によって楽しく見えたり、悲しく見えたりするから、当然かも知れませんね。
 世の男性は奥様に弱いと思うのですが、やはり心の中のヤバイところが現実に現れてきているのかも知れませんね。でもこれは氣まぐれ剣士のことではありませんよ。否定するところがあやしいですが・・・

 次回もお楽しみに
以上 

212 空海

2005-09-22 21:13:25 | Weblog
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212 空海

記憶力と瞑想の関係について、空海の話に面白い話が残されています。
密教の伝説的超人、空海は、様々な人間離れした能力を持っていたそうです。
真言密教を、中国から持ち帰るために、留学生として中国に渡り普通ならば数十年、もしくは一生かかっても、体得できない者もいる密教の秘法を、たったの三ヶ月でマスターしたそうです。
しかも、当時の空海は、特定宗派の高僧でもなんでもなく、無名に近い、坊主にすぎません。よくありがちな、名前や肩書きで、そのような快挙を成し遂げたのではなかったのです。

空海の超人的能力には、様々な伝説が残されているそうです。
その能力は、密教の習得だけにとどまらず、語学力に関しても、天才的能力を発揮しています。カセットテープも、教科書も、教える教師すらも無かった時代、中国に渡る前から、すでに中国語をマスターしており、現地では、バラモン教の修行僧から、サンクスリット語まで習得しています。

これだけでも、十分天才ですが、空海が中国から持ち帰ったのは、密教だけではありません。
医学、工学、天文学など、当時の日本にはない、あらゆるすぐれた中国の文化や学問を学び、持ち帰っています。
ちなみに、その時代の留学生は、最低20年間は中国に滞在する規則があったのだが、空海は、その規則を破り、たったの2年で、日本に帰国することを強行します。

不思議なことに、空海が日本に強行帰国した船以後、中国から日本への船は、その後、数十年間途切れることとなるのです。
つまり、その船に乗らなければ空海は、日本に帰国し、密教を広めることなく、一生を終えたかもしれません。空海は、そのことを、あらかじめ知っていたかのように、規則を破り、帰国を強行したのでした。

空海は、19歳のとき、洞穴の中で、密教の秘法『虚空蔵菩薩求聞持法』を体得し、そのとき、光り輝く星のようなものが、空海の口に、飛び込んできたという神秘体験をしています。
この秘法は、マントラ(真言)を、100万回唱え続けることより、超人的な記憶力が、身につくといわれているそうです。

スゴイ人ですね。空海(弘法大師)は字が上手いだけではなかったのですね。気まぐれ剣士なんか英語一つマスターすることが出来ません。
 やはり空海が2年で日本に帰ったのは、その後の船がすべて難破することを知っていたのではないのでしょうか。
 控えめな気まぐれ剣士は空海の能力の一つでいいからほしいと思うのですが、それが欲張りというのでしょうね。

次回もお楽しみに。
以上 

211 植福

2005-09-21 21:06:38 | Weblog
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211 植福

 現在の自分がどんな境遇にあるにせよ、過去に自分で蒔いた種が芽を出し、今のあなた自身の環境を創り出しています。過去を書き換えることはできませんが、未来を創り上げることは誰もができることです。今から、よい種を蒔けばいいことなんですね。

 幸運の女神を呼び込むためには、女神の好むところを知って、その原因を創ることだそうです。そのためのひとつが「植福」です。

 太宰春臺の「産語」に次のようなものがあるそうです。
 中国の衛という国の君が蒲という処に出かけた時、はあはあと息を吐きながらうずくまって、松の木の苗を植えている老人を見ました。

 衛君 一服してはどうかね。お前はなぜそんなに苦労して松の苗を植えているのか。
 老人 家の棟や梁の材木を造ろうと思って植えているのでございます。
 衛君 お前はいくつかね。
 老人 八十五でございます。
 衛君 この松が立派になって、お前が役立てられると思うかね。(笑)
    (老人は植えるのをやめ、衛君を仰ぎ見て)
 老人 樹木が役に立つようになるのには百年を待たねばなりません。
    殿様あなたは、ご自分の世に用いようと思われるのですか。
    ああ、国を治める方のお言葉とは思えません。私は老いぼれて死も近づいております。
    ただ子孫の暮らしのことを思わずにはおれません。
 衛君 (衛君は大いに恥じて)私は間違っていた。お前のそのよい言葉を先生としよう。
    (心から感謝し、酒と食事をもって労ったのであります) 
 

 この爺さん、偉いですね。ツメの垢でも煎じて飲まなければいけませんね。「植福」は幸運の女神に好かれる条件なんですね。
 あなたは子孫に何を残せますか。
 
 気まぐれ剣士は、何も残せそうにありません。せいぜい残せるのは借金ぐらいなものですかね。
 次回もお楽しみに。
以上 

210 牛のけつ

2005-09-20 21:34:54 | Weblog
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210 牛のけつ

 東京の谷中に南隠という偉い禅僧がおったそうな。
 ある日、新進の仏教学者がやってきて、盛んに仏教を論じ、そうしていろいろの書物を引用して、新しい研究の材料を羅列して解釈しはじめたそうな。はじめのうちは禅僧も、ほう、そんなことがあったか、と熱心に耳を傾けている。
 
 禅僧の感心ぶりをみて、学者はどうだ、とばかり内心得意になってやっておったが、だんだん禅僧は黙り込んでしまった。
そこで学者も、これ以上やるとご機嫌が悪くなるかもしれないと思い、この辺りで、ということでおいとまを乞うことにした。
 
 禅僧は「今日は大層おもしろい話を聞かせてもらった」と玄関まで送り、あいさつをして別れぎわに、感に堪えぬような声で、「あんたは牛のけつじゃ」と言われた。
 学者は「牛のけつ?」なんのことか分からないので、へえ、とだけ言って帰って来たが、どういう意味があるのか気になってしかたがない。

 あの感に堪えぬような口振りからすると、よほどの意味があるに相違ないと思って、辞引を引っぱり出してさんざん調べてみたが分からない。もしかして十牛図、人間の悟りの境界のだんだん進化していく過程を、牛にたとえて説いた面白い物語があるが、どうせこのあたりが出典に違いないということで、はじめから終わりまで調べてみたが、「牛のけつ」らしきものはない。
 
 百計尽きて、ある日再び禅僧のところへ出かけて行き、世間話をした末に、「時にお教え願いたいことがある。先日禅師から、あなたは牛のけつじゃ、と言われましたが、どうも私、浅学にて、その意味がよく分かりません。なにとぞお教え願いたい」と言ったところが、禅師は呵々大笑して、「それだから学者は困る。牛はなんといってなくか、モウといってなくじゃろ。けつはお尻じゃ。だから、お前さんはモウのしり(物知り)じゃなと言ったのじゃ」と言われた。
 
 これを聞いてその学者は、もうがっかりしてしまって、アングリ開いた口がふさがらぬまま帰って来たという。
 
 おもしろい話ですね。けっして物知りになる必要はないようです。要は自己の生命力を養うことが肝心で、物知りだから偉いというものではないですね。
物知りでない気まぐれ剣士はひと安心です。
以上 

209 嘘と真実

2005-09-19 07:19:24 | Weblog
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209 嘘と真実

「嘘」と「真実」を厳密に区別することは出来ませんね。「嘘」の中に真実もあり、真実の中にも「嘘」があるかも知れません。

咄嗟に出る「嘘」ほど、あなたの「本音」かも知れません。
「つい、思わず口に出た」などと人は言い訳をしますが、「思ってもいないこと」が口をついて出ることはないですね。 普段、考えているからこそ、咄嗟のひと言が出るワケで、そのひと言にこそ「真実」があり、それを否定しようとするところに「嘘」がありそうです。

「事実でないこと」を「嘘」と定義すると、この世の中は、「嘘」や「建前」で塗り固められているとも言えます。まだ達成されていない「夢」や「ビジョン」を語ることは、「嘘」をついているとも言えます。でも「言霊」には力がありますから、「嘘」でも言い続けていると、それが現実化して来ます。現実化すれば、それはもう「嘘」とは言えませんね。

どんな場合でも事実を伝えることが、正しくて「良い」ことなのではないし、「嘘」を言うことが間違いで「悪い」ことなのではないようです。 問題は「嘘をつく」ことではなく、「嘘をついてしまった」ことに対して、自分を責めて裁き、罪悪感を背負うことかもしれません。自分の本音に「嘘」をついて、自分を誤魔化して生きることが、自分を最も傷付けるようです。

 自分の心の中に、「嘘」=「悪」、「真実」=「善」という図式があるから嘘をつくと苦しくなってきます。心の中の「良い、悪い」という判断基準を思い切って無くしてみたらいかがでしょうか。
 いつも自分の素直な心に従って行動することを意識すれば、 事実と「嘘」を使い分ける必要がなくなり、常に「真実」のあなたで居られるかも知れません。

そうですね、夢を語るのは決して嘘を言っているわけではないですね。けれども事実とも違います。「嘘から出た真(まこと)」という諺(ことわざ)もあるように、どこまでが嘘で、どこまでが真実かを、区別するほうがおかしいかもしれません。

夢を夢だと思わないで、心の赴くままに行動したならきっと夢がいつのまにか真実になっているかもしれません。やっぱり、夢や希望はいつまでも持ちつづけていたいものですね。
 
気まぐれ剣士の剣道が強くなる夢は、いつまでたっても夢ですね。夢が現実になるのはいつのことでしょうか。強くなるよりボケるほうが早いようなそんな気がする気まぐれ剣士でした。

次回もお楽しみに。
以上

208 斎藤一人(ひとり)

2005-09-18 17:15:52 | Weblog
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208 斎藤一人(ひとり)

 皆さん、斎藤一人さんをご存知でしょうか。毎年納税者番付ベスト10にはいる、実質納税者No。1です。
 この方がお金に関してこんなことを言っています。  

 「世の中はお金がすべてではない」 よく耳にするセリフですが、これはお金に対するいちばんの悪口です。こんなことをいえるのはよほどのお金持ちだと思いますが、では、お金以外に大切なものがあるのかということになります。
もちろんそれはあるのですが、お金の気持ちを考えたら、そんなことをいうのはひどい話です。お金の気持ちを傷つけてしまいます。あなたのことが好きだといっている女に、「女はお前だけじゃない」といっているようなものです。

 よほどのお金持ちである斎藤さんが、お金を人と同じように大切に接することが重要であるといっています。
 確かにそうですね。好きな女に、“女はおまえだけじゃない”といったらほっぺたをひっぱたかれますね。 

 「お金にも感情がある」という言葉は多くのお金持ちに共通する考えのようです。お金にも感情があると仮定すると、悪口をいう人からは遠ざかりたいと思うでしょうし、大事にしてくれる人のところに集まりたいと思いますね。

 ですから、お金がほしい人は、人と接するように大事にすることで、お金に好かれるようになるようです。特に、斎藤一人さんによると、「世の中はお金がすべてではない」という言葉は、お金に対するいちばんの悪口だそうですから、頭の片隅に入れておくといいかもしれませんね。

 気まぐれ剣士も一度で言いから、女房殿に「女はおまえだけじゃない」と言ってみたいです。とても言う勇気はありませんが。

 いかがでしたか。
 次回もお楽しみに。
 
以上

207 「つ」のつくうちに

2005-09-17 12:19:10 | Weblog
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207 「つ」のつくうちに
 
 あらゆる創造には適期というものがありますが、こと人間教育に関しての適期は、「つ」が付くうちであるとがいいそうです。
 
 年齢を一つ、二つ、三つと数えるとき、遅くとも「つ」が付く九つ(ここのつ)までに、つまり小学校3、4年生までに子供をしつけるのが大切だということです。
  
 「つ」の付くころであれば規制のワクをはめなくても、子どもたちはお父さん、お母さんの行動をまねて覚えます。だから両親がきちっとした生活をしていれば、そのまま「しつけ」につながるそうです。
 
 いかがでしょうか?ちょっと、耳の痛い話ですが、子どもに身をもって教えるのが「しつけ」というんですね。
 
 小、中学校の校長先生を歴任された綱澤昌永先生と言う方が、家庭内暴力について次のように書かれています。
 
 子どもを立派に育てようと思ったら、ご主人を大事にしてください。
 皆さんのご家庭ではないと思いますが、家庭で一緒にご飯を食べるときは必ずご主人からつぐ。まちがってもお子さんの分を先につがないようにしてください。
 子どもは見ています、お母さんの態度でね。
 「あ、お母さんは主人を軽蔑している。お父ちゃんはもうだめ」とこうなるんです。
 子どもを立派にしようと思ったら、子どもの前では、主人を立てないといけませんよ、どんな嫌いな主人でも。(笑)
 子どもを不良にしようと思ったらそれでもよろしい。主人をボロカスに言って、中学校に行くようになったら、家庭内暴力で子どもにやられますよ。
 子どもは親の言うとおりにはしないけど、親のするとおりにするんですね。
 
 綱澤先生の長年の家庭訪問などの経験によると、家庭内暴力でこまっている家庭の奥さんは、たいてい美人で、インテリ、嫁に来てやったという奥さんが多いそうです。
とくに母親の行動は大きく子どもに影響は絶大です。親の浮つきや傲慢が、そのまま子どもに反映されるんですね。
 
 気まぐれ剣士の女房は美人でなくて良かったです。これ、誉めているのです。
 次回もお楽しみに
以上

206 あなたは私の鏡

2005-09-16 21:41:34 | Weblog
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206 あなたは私の鏡
 
 わたしたちが感覚するものは、わがうちに宿っているものが、対象に照らし合わされてはじめて自覚となるようです。
 
 たとえば絵を鑑賞したとします。
 絵心がない人にはその絵の「美」が本当にわかりません。名画はそれ自身が「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていないと、その「美」がわからないそうです。
 
 すべてそこに「何か」があることがわかるのは、自分のうちにあるものをその対象物に見いだしているからです。
 「善」においても同じことがいえます。道徳心が養われていない人には、他の人の善き行いを見ても感心することはできません。自分に無いものを相手がいくら持っていても、それがわからないのです。
 
 それと反対に、他人の「悪」が目につくということは、必ず自分の心情に悪がある証拠です。だから「あいつ悪いやつだ」と気づいたら、「それは自分の心に悪があるからだな」と思えば間違いないですね。
 
 ベートーヴェンは、
 「憎しみは、それをいだいた人間の上にかえってくる」と言っています。人の悪を憎むことは、自分の心にある悪を認めることになります。従って、自分の心のフィルムに悪を焼き付けることになります。そうなると間違いなく自分の上にかえってきますね。

 気まぐれ剣士も芸術作品の良さはまったく分かりません。その素養がないから当たり前ですね。やはり自分にないものは、「美」でも「善」でも「悪」でも分かりません。自分の心に善しかない人は、悪という概念がないから、他人の悪を責めることがありません。

 気まぐれ剣士の周りの人は皆良い人ばっかりです。言いたい放題を読んでくれる人に悪い人はいません。そう思える気まぐれ剣士もきっといい人なんでしょう(自画自賛してます)? 

 そういえば、気まぐれ剣士のお気に入りの鮫胴も、女房殿には単なる防具にしか見えないのでしょうね。
 ごもっともです。
 次回もお楽しみに
以上