氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

246 六然(りくぜん)

2005-11-29 17:52:18 | Weblog
気まぐれ剣士の言いたい放題

246 六然(りくぜん)

 明の崔後渠(さいこうきょ)という先哲に六然という物があります。
 
 ◆自ら処すること超然
   (自分自身を取り扱うのには一向物に捕らわれないようにする)
   これは難しいですね。忙しい現代に生きる人はたいてい紛然としているものです。 
 
 ◆人に処すること藹然(あいぜん)
   (人に対してなごやかに、のびのび感じさせる)
   春のほのぼのとした野原を吹きそよぐ風のような人。思わず深呼吸したくなる。
 
 ◆有事斬然(ざんぜん)
   (事があるときはグズグズしないで活き活きと)
   そのためにはターゲットを明確にすること。
 
 ◆無事澄然(ちょうぜん)
   (事なき時は水のように澄んだ気でいる)
   たいていの人は事なき時には漫然ダラダラしてしまいがちです。
 
 ◆得意澹然(たんぜん)
   (得意なときにはあっさりしている。まだ足りなく思う謙虚な気持ち)
   調子のよいときは、傲慢になってしまいがち。気をつけなくては。
 
 ◆失意泰然(たいぜん)
   (失意のときは泰然自若としている)
   菜っ葉に塩をかけたように、くしゅんとならないように。
   下腹に力をこめて、肛門をきゅっとしめておく。
 
 崔後渠はこの時、劉瑾(りゅうきん)という非道(ひど)い役人を諌(いさ)めたのが原因で、投獄されていました。その時にこの名言を言ったそうです。
 私たちもいついかなるときに、思いがけない境遇に立たされるか知れません。そうしたときにこそ、真の自由人としての自分を見失わないためにも、「六然」はありがたい処方箋として心を照らしてくれるかもしれません。

 気まぐれ剣士は呆然(ぼうぜん)とするのは得意です。 
 次回もお楽しみに                            以上

245 性格

2005-11-26 06:59:21 | Weblog
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245 性格

営業マンについて興味深い話があります。
「営業マンに、一番大切な資格や、能力、性格などは、何だと思いますか?」皆が、口々に、答えました。皆からでてきた答えは、「明るさ」、「粘り強さ」、「おもいやり」、「まめさ」、「オープンマインド」、「礼儀」、「時間厳守」、「記憶力」などでした。
反対の、「暗さ」、「飽きっぽさ」、「無神経」、「ずぼら」、「人見知り」、「無礼」、「ルーズ」、「忘れっぽい」などを答える人は、一人もいませんでした。

ところが、この講師の人は、この反対の、「暗さ」や「ルーズ」、「人見知り」、「無神経」なども、十分、「優秀な営業マン」の資格になると言いました。

講師によると、その講師が、昔、ある会社で営業の仕事をやっていた時、とっても「暗い性格の奴」がいたそうです。あまりにも「暗い性格」だったので、会社内で友人もいなく、最初に会った時、「こいつは、社内で、最低の成績の営業マンだろうな?」と確信したそうです。ところがドッコイ、トップとはいわないまでも、かなり上位の営業成績を、毎月上げていたそうです。彼の周りにいるだけで、陰気になってしまうぐらい「暗い奴」なのに、どうして、成績がいいのか、不思議だったそうです。ある日、不思議に思った、その講師は、その「暗い奴」の後をつけて、その取引先の会社に行って、彼の営業ぶりを、遠くから観察したそうです。すると、謎が解けたそうです。取引先の会社の担当者も、なんと、「暗い性格の奴」だったそうです。

二人が、楽しそうに会話をしているのを見て、その講師は、「そうか! 営業マンにとって、いい性格なんてものはないんだ! 大切なのは、相性なのだ。暗い人には、暗い人が話しやすいし、明るい人には、明るい人、ヤクザには、気合の入った奴、元気のない人には、元気のない人、学者タイプには、頭のいい人、おとなしい人には、やさしい人、それぞれ、人によって好みが違うんだ。明るければ、いいという問題ではないんだ!」

暗い性格を、明るい性格に変えるとか、オッチョコチョイを、几帳面に変えるとかする必要はない。人間の性格に、良い性格、悪い性格などはないのですね。ちょっと気が楽になりました。性格を無理に変えるより、自分のよいと思う長所を伸ばせばいいのですね。

飲んべえな気まぐれ剣士は飲むことにより磨きをかけようと思います。
以上

244 和を以って貴(たっと)しと為(な)す

2005-11-23 16:39:26 | Weblog
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244 和を以って貴(たっと)しと為(な)す

「和を以(もっ)て貴(たっと)しと為(な)す」は、推古天皇の十二年(604)、聖徳太子が十七条憲法を定めて、その第一の冒頭に宣言された言葉です。
 
 この「和」には、本当に深い意味が含まれているようです。たとえば私たちの体。私たちが健康でいられるのは、体内の各機能が和(調和)して、バランスよく働いているからです。そのための立役者がホルモンだそうです。

 人間の身体の無数の細胞の中には、萎縮するものや増長するものがあり、その増長するものをおさえて、萎縮するものを保護して、全体の統一、調和をとっているのが内分泌腺であり、その分泌物がすなわちホルモンと呼ばれるものです。ホルモンは私たちの体が健康であるために非常に強いエネルギーをもって、調和を保ちながら活動してくれているんですね。
 
つまり細胞も「和を以て貴しと為す」ということになります。昔の人は今のように科学が発達していなかったのに、こうした働きを直感的に知っていたようです。たとえば「和気あいあい」なんて言葉があると思えば、その反対に「毒気を吐く」なんて言葉もあります。

 冷却したガラス管の中に息を吹き込むと、息の中の揮発性物質が液化して滓(かす)が残るそうです。その滓の色は、その人が怒っていると「栗色」、苦痛や悲哀のときは「灰色」、後悔のときは「淡い紅色」になるそうです。
 
 この中で怒っているときの栗色の滓をネズミに注射すると、たちまち興奮して、憤怒の激しいときは、その息の滓は数分でネズミを殺してしまうそうです。なんと1時間の怒りの息の滓は80人を殺すに足る毒素を出し、この毒素は従来の科学の知る最強の猛毒だそうです。
 
 いかがでしょうか。恐ろしいことですね。
 怒ってばかりいる人というのは、体内で大量の毒素を作り出し、自らの自殺行為または、猛毒を吐き散らす殺人者ということになります。
 
 正義のために戦い、憤ることも大切かも知れませんが、それにより怒りが爆発し体をダメにしては何にもなりませんね。
 正しいことよりも、楽しいこと。気まぐれ剣士はひたすら楽しいことを追いつづけています。

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上

243 お陰様

2005-11-20 06:51:13 | Weblog
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243 お陰様

私たちを生かして下さっているのは何者でしょうか。

「お陰様」という言葉は、他の言語にはない日本語独特の表現です。「お陰で…」という場合、誰のお陰なのかは特定しません。基本的に「鈴木さんのお陰様で…」という言い回しは日本語にはありません。

もちろん直接的には「鈴木さん」のお陰なのかもしれませんが、その「鈴木さん」を生かして下さっている、背後にある「大いなる何ものか」に対する尊敬と感謝の念が「お陰様」という言葉には込められているのです。 私たちは誰一人として、完全な自力で生きている人は存在しません。

心臓を自力で動かせる人はいるでしょうか?
水を自力で作り出すことができるでしょうか?
完全に自力で生れて来た人が存在するでしょうか?
突き詰めると、どんな現象であっても完全な自力など有り得ませんね。

全ての存在は「大いなる何ものか」の恩恵の元に成り立っているのです。 この私たちの存在を目に見えない陰のレベルで支えてくれている何ものかを総称して「お陰様」と日本語では表現しているのです。

自ら努力することは大切です。
周囲の協力に感謝することも大事なことです。
しかしそれら全ての存在は、「大いなる何ものか」の「お陰様」で成り立っています。その根源に対する敬意と感謝をいつも忘れないでいたいですね。
「お陰様」は素晴らしい日本の智慧を象徴する言葉です。

 お陰様という言葉はなんと奥ゆかしい言葉でしょうか。日本人だけが持つ感覚ですね。自分がいくら努力しても、決して自分だけでは成し得る事が出来ないことを遺伝子は知っているのですね。
 気まぐれ剣士は、お陰様で剣道仲間からいっぱいパワーをもらっています。みなさんのお陰で今日があるのだけれども、心のどこかに自分のお陰だと思っています。
 なかなか悟りきれない氣まぐれ剣士でした。

次回もお楽しみに
以上

242 しなやかさ

2005-11-17 17:07:59 | Weblog
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242 しなやかさ

メルマガのお話です。
 幸せな人生を送りたいと思うのなら、強さを追い求めるのではなく、「しなやかさ」を身に付けることだそうです。

勝ち負けや競争の果てに幸せや成功というものがあるとしたら、幸せを手にするためには、勝ち続けないといけないことになります。そして勝ち続けるためには、どんどん強くならないといけなくなります。

でも強くなることで、本当の幸せを手にすることは出来るのでしょうか?
勝ち残ることで、あなたの幸せは保証されるでしょうか?
人生を生きていくのに必要な才能は、強さではなく、「しなやかさ」かもしれません。
「しなやかさ」の中にこそ、本当の強さがあるのかもしれません。

本当の幸せとは、勝ち負けを超えたところにあるものです。いくら強さを追い求めてみても、その先に安らぎや幸せはありません。 あなたが本当の幸せを目指すのであれば、強さを追い求めるのではなく、「しなやかさ」を身に付けることです。

勝つか、負けるかの二者択一ではなく、全てを包み込んだり、第三の方法を探したり、柔軟に受け流したりすることの出来る「しなやかさ」を身に付けることが、とても重要になってきます。
強さは見た目は派手ですが、常にモロさを内在しています。強さとは硬いだけに一旦、壊れてしまうと粉々になってしまって、修復することが不可能になってしまいます。

「しなやかさ」は一見、弱々しく派手さはありませんが、叩かれて落とされても、傷付くことも壊れることはありません。

「こうでなければ…」と頑張って、困難に打ち勝とうと強さを磨くことよりも、何が起こっても「いろいろあっていいじゃない…」と「しなやか」に受け流すこころの余裕が、人生を豊かなものに変えてくれるのです。

 まるで、氣まぐれ剣士の目指す生き方のようですね。何があっても「まぁ、いいじゃん」と許してしまえれば気楽なもんです。
 試合に勝つこともいいけれども、それよりもおいしくお酒が飲めるかですね。
 勝てば祝勝会、負ければ残念会、どちらにしても飲むことばかりを考えている氣まぐれ剣士でした。
次回もお楽しみに
以上                                          

241 ウイルス

2005-11-14 12:53:56 | Weblog
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241 ウイルス

 春日大社の葉室頼昭(はむろ よりあき)宮司のお話です。
 葉室宮司はもともと形成外科の医師でしたが、50歳を過ぎて神主の資格をとり、
 異例ともいうべき経歴で宮司となられた方です。
 
 インフルエンザの究極の予防法は、インフルエンザウイルスの存在そのものを認識するところから始まります。
 インフルエンザウイルスといのは、インフルエンザを起こすためのウイルスとは違い、
 ウイルスは遺伝子を破壊するのが目的だそうです。そのために地球上にいるというわけです。ウイルスにも使命があるんですね。
 
 人間や動物はかならず死んで、体はなくなりますが、遺伝子は残って、次の遺伝子をつくり、新しい生物に受け継がれていきます。
 私たちが一生を通じて経験した情報が遺伝子にインプットされて、それがまた新しい生命に伝わっていく。
 これらの遺伝子を破壊して、組み立てて、ほかの生まれてくる生物に遺伝子を入れるのがウイルスの役目だそうです。何も病気を起こすためにあるんじゃないんですね。
 
 ウイルスには面白い特徴があります。病気を起こすウイルスは、遺伝子の中の「不自然な情報」を好んで破壊する作用があるようです。だから私たちの中に不自然な情報があるからウイルスが寄ってくる。不自然な情報をもった人がウイルスを呼び寄せているというわけです。
 
 不自然な情報をもった人というのは、人間でありながら人間らしからぬ考えをもっている人、たとえば傲慢であったり、不親切であったり。
 インフルエンザにかかるというのは、自覚はなくてもそういう情報をもっているよ、という信号でもあります。
 私たちが思っている以上に自然の摂理は絶妙にできています。
 インフルエンザにかからない究極の対処法は「感謝」することだそうです。

 面白いですね。対処法が良いですね。お金も要らず、場所もとらず、時間もかかりません。ただ感謝すればいいのですから。だが、これが難しい。インフルエンザにかかった人に言ってあげましょう。感謝が足らないって。
 でも、気まぐれ剣士が最初にかかりそうです。

 次回もお楽しみに。
以上

240 学ぶということ

2005-11-11 17:43:45 | Weblog
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240 学ぶということ

ある儒者(儒学者)が商人に向かって、
「あなたも少しは学問をしたらよいでしょう。何と言っても無学だから」と言ったのに対して、
商人は答えました。
「それではあなたが私にかわって一日商売をしてみなさい。商売のことは知らないのですから、私に替わることはできないでしょう。私は自分の職分を知れば事は足ります」。

ここに登場する儒学者はたぶん頭でっかちのコチコチ、理屈をこねるのが好きな人だったに違いありません。まるで「理論武装した経済学者」と「たたきあげの実業家」との会話のようです。

 さて、ここで質問です。
「学ぶとはどういうことでしょうか?」
「どういうことかって? 新しい知識をどんどん取り込んでいって、かしこくなることじゃないですか」

しかし、本当に学ぶということは「思い出す」ということらしいです。
ピンとこられましたか?

私たちの遺伝子の中には、あらゆる情報が組み込まれていることはご存じのとおりです。
本当はすでに必要な情報は私たちの中にあるのです。その情報を、いろいろな知識を学ぶことによって「思い出している」という訳です。

新しいことを知ったときに「あっ、そうか!」という言葉が飛び出したことがありませんか。これはまさに遺伝子の情報を思い出した瞬間なのです。

「無学」というのは、これは正確には「思い出していない」だけのようです。

現代の学問は、脳みそに詰め込むばかりで、この肝心な「思い出す」ための学問ではないのですね。思い出すためには、深く潜在意識にまで到達するような、深い思索が必要だそうです。数年後には、こうしたことが遺伝子レベルで解明されるようですよ。
 
 そうなんですね。知らないのではなく、思い出せないだけなんですね。物忘れのひどい氣まぐれ剣士の遺伝子は、思い出すことも忘れてしまっているのかも知れません。

次回もお楽しみに                            以上

239 氣を込める

2005-11-08 16:42:47 | Weblog
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239 氣を込める

ある二人のお話です。
友「この間、北海道へ旅行に行ってきたんや。そこである一人旅の大学生に出会うたんやけど、南から北へ、ヒッチハイクの旅の途中らしくてね」
 
私「学生っていうのはええな。自由な時間がとれるし、うらやましいよ。ところでその青年とどんな話したん」
 
友「それがとてもええことを教えてくれたんや。その青年、初めてヒッチハイクというのを経験したらしくて、行き先を紙に書いて少々おどおどしながら、運転手にアピールしたらしいんやけど、なかなか止まってくれないらしくて、困り果てた」
 
私「そら、運転手の方も見ず知らずの人を乗っけるのは躊躇するわな」
 
友「ところが、ある時から止まってもらうこつを掴んだらしいんやな。まず、堂々と自信をもって意思表示をすること。自分はどこどこへ行きたいんだ、だから乗せてください。という思いを体で表現することが大事やと。それから運転手の目をじっと見据える。そうしたら目の合った運転手は必ず止まってくれるそうや」

私「う~ん、なるほどなあ。最近自分も気を込めるということの大切さをしみじみ感じていたから、よくわかるよ。商売にもつながるもんな。仕事はもちろん、ささいな事にも気がこもっているかどうか、見る人が見れば一目瞭然やからな。絵にしろ、音楽にしろ、残るものは必ず気がこもっているもんや。運転手の目を見据えて、というところがええな」
「この間、NHKである大手企業をリストラされた50代の人の再就職の姿をドキュメントしとったけどな、この人はなかなか就職でけへんやろうと感じたんや」

友「なんで?」

私「あのな、お辞儀に氣がこもっていなかったから。中途半端なお辞儀をしてたんやな。それも面接の別れ際に。以前ある人に教わったんやけど、お辞儀は深すぎても浅すぎてもあかん。浅いのは氣持ちがこもってなくて横柄に見えるし、深すぎるのは媚(こ)びているように見える。だからちょうど良いくらいのお辞儀で氣を込めるといいそうや」
 
剣道の礼と同じですね。 
次回もお楽しみに  
以上

238 言葉の置き換え

2005-11-06 17:49:07 | Weblog
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238 言葉の置き換え

言葉の置き換えでよくやるパターンは因果関係を逆にする方法です。
逆も真なりのパターンですね。

 例えば
    『「○○だから□□である」と言うが、
        実は「□□だから○○なのだ」』
という感じのものですね。

・「幸せだから感謝するのではない。感謝しているから幸せなのだ」

・「心に描くから夢が叶うのではない、実は 叶う夢だから心に宿るだ」
  
・「噂をすれば影と言うが、
   実は影が近づいてきたのを察知して噂をするのかも知れない」

・「Seeing is Believing」(見ることは信じること)
    なのではない。
  本当は「Believing is Seeinng」
  (信じることが<現象として>見ることになるのだ)なのだ。
 
・「インプットするからアウトプットできる」と考えるが
  実は「アウトプットするからインプットがカンタンにできる」
 
最後に一つ
・「大才だから袖触れ合う縁を活かす」のではない。
      「袖触れ合うた縁を活かすからこそ大才」なのだ。

気まぐれ剣士も一つ
・ 「言いたい放題を書くから、読んでくれる」のではなく、 
     「言いたい放題を読んでくれるから、書くのです」

 これ、本当です。
 いかがでした。
 次回もお楽しみに
以上

237 他人は鏡

2005-11-04 22:08:45 | Weblog
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237 他人は鏡

他人は鏡。ただ、あなたを映しているだけだそうです。 

 あなたが人を変えようとして拒否されるのは、あなたが人から変えられることを拒んでいることの証だそうです。

 あなたが他人からの否定のエネルギーを、肯定のエネルギーと同じように受け入れられるようになったとき、あなたの周りにいる人たちも、あなたからの「こう変わればいいのに」という思いを受け取るようになるそうです。

 あなたが、他人からの「変わってほしい」という思いを素直に受け入れられるようになったとき、あなたの「人に変わってほしい」という思いは相手の心に素直に届くでしょう。

 あなたが相手の言うことを信用しないのに、相手の人があなたの言うことを信用するはずもありません。自分が疑う人は、人からも疑われます。

 自分が「疑っていい」と思っている人は、宇宙からも「疑っていいよ」というメッセージを引っ張ります。宇宙とはあなたの鏡であるからです。

 それが自他一体ということです。

 ・他人とは、実は、もう一つの「自分の目」です。
  その目をとおして自分自身を観察することができるように、他人が存在するのです。

 ・すべてが「自分」だとしたら、ただそうなっているだけであり、否定すべきことは何もないのです。何かが何かよりいい、ということはない。すべては自分なのですから。

  確かに相手を変えようとしてもなかなか変わりませんね。鏡に映った自分を変えようとするようなものです。変わるわけがないですね。
 気まぐれ剣士のまわりに悪い人はいません。みんな良い人ばっかりです。
ということは気まぐれ剣士が良い人だから?
 ということにしておきましょう。

いかがでした。 
次回もお楽しみに
以上

236 心と体

2005-11-01 16:55:07 | Weblog
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236 心と体

 「私たちの《肉体》も《心》もただの道具である」だそうです。
 
 この「体」も「心」も本当の自分自身ではないそうです。
 この世で生きるために与えられた「道具」に過ぎないということ。

 コンピュータで考えてみましょうか。
 コンピュータを使うためにはハード(体)とソフト(心)が必要です。

しかし、コンピュータを作動させるためには、電気という「気」がなければ動きません。電気がなければただの箱、置物にほかなりません。
  
だから、今まで自分だと思っていた肉体は、自分ではない。
自分という「気」が生きるための必要な仕事を行う道具ということです。
心もまたしかり。
 
 だから与えられた道具(肉体と心)を十分に使いこなすには、いかにすれば気を多く取り入れられるかなんですね。昔の人たちがあらゆる修行を重ねてきたのも、根底には多く気を取り込むための修行だったという解釈もできます。その気が流れる状態というのは宇宙と一体のとき。この状態が無念無想の状態というわけで、多くの宗教家が説くところです。
 
 「天の意志にかなった状態を作り上げれば、おのずから気は流れ込み、病気も不運もこない人生を与えられる」
 これが天風哲学の真髄だそうです。
 
 「あなたのおなかが痛いときは、道具の一部が故障していると信号を送っているだけで、あなた自身が痛いわけじゃない。となりのおばちゃんのおなかが痛いのといっしょだと思え」と天風さんは言います。

 さすが天風さんですね。気まぐれ剣士のおなかが痛いときは隣のおばちゃんのおなかが痛いと思えばいいのですね。でも、隣のおばあちゃんのおなかが痛いときは、気まぐれ剣士のおなかが痛くなるのでしょうか?

いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上