氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

753 シークレットサンタ

2009-12-24 12:56:36 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

753 シークレットサンタ 

アメリカでクリスマスになると、貧しく困っている人々に現金をプレゼントする男性がいた。彼はいつしか『シークレットサンタ』と呼ばれるようになった。
「秘密のサンタクロース」として名前を明かしたのは中西部ミズーリ州のカンザスシティーの郊外に住むラリー・スチュワートさん(58)の話です。

「ほかの誰かを助けることこそが、私たちの生きる目的なのだ」
1971年11月、23歳のラリー・スチュワートは会社が倒産し路頭に迷っていた。あまりの空腹に耐えきれず、ついレストランに入って取り憑かれたように注文してしまった。
請求書を出されようやく我に返り、お金を持っていないことに気づいた。
そして、なんとかその場を取り繕おうとポケットの中を探すフリをしながらも、
警察に突き出されても仕方が無いと思っていた時だった。
一人の男性店員がラリーの横でしゃがんで、20ドル札(現在約2400円)が落ちていたと渡してくれたお陰で、彼は会計を済ませることができた。
だがこの人生最大の苦境に偶然手に入れた20ドルが、後に彼の運命を変える重大な鍵となる。

1972年、運良く拾った20ドルの残りを旅費にカンザスシティに移り住んだラリーは、警備関係の会社を起こして懸命に働いた。結婚し子供も生まれたラリーは幸せな生活を手に入れたかに見えた。

1977年12月、不況で会社が倒産しその日の食事代にも困るほど追いつめられた。貧しさのせいでラリーは我を忘れ、銃を手に銀行に入り、強盗を働きそうになった。だが、20ドル札を見てふと我に返り銀行強盗をすんでの所で思いとどまった。

改心したラリーは1978年、妻の兄からの援助を受けてセールスマンとして懸命に働いた。だが彼はまたしても試練を与えられる。

1979年12月、会社の経営が思わしくないということで、ラリーは解雇されてしまったのだ。もう助けてもらうあてがないと途方に暮れていた時だった。ふと目についた売店に立寄り、ポップコーンを注文した。店員の女性は暗い表情で、違う商品とおつりをラリーに渡した。

ラリーは彼女が困っているのだと思い、おつりの中から20ドル札をプレゼントした。彼女は受け取れないと言ったが、ラリーはクリスマスプレゼントだと言って手渡した。この日はクリスマスだった。女性は嬉しそうに礼を言った。

その笑顔がラリーを明るくし、彼は思いも寄らない行動をすることになった。
そのままラリーは銀行に行くとなけなしの貯金を引き出し、白いオーバーオールに赤い服とベレー帽という姿で町に繰り出した。そして困っているような人や貧しい人に20ドル札をクリスマスプレゼントとして手渡したのだ。
シークレットサンタが誕生した瞬間だった。

20ドルは大金ではなかったが、困っている人々にとっては大きな助けとなり喜んで受け取ってもらえた。それがラリーの人生にも思わぬ影響を及ぼすことになる。

家に戻ると、妻から銀行にお金が残っていなかったと聞かれた。ラリーは落としてしまったと答えた。すると妻は怒るどころか、
『仕方がないわね、でもあなたは幸せそうね』と微笑むだけで文句を言わなかった。

翌年の1980年、ラリーは友人と長距離電話の会社を設立し、懸命に働いた。
そしてその年のクリスマスにも道に立って人々に現金をプレゼントする活動を続けた。そしてその金額は少しずつ多くなっていった。

不思議なことにシークレットサンタとなって施しをすればするほど会社の業績が上がり、長年の切り詰めた生活から抜け出し家族のために家や新しい車を買えるまでになった。ラリーの妻も町中でシークレットサンタの噂を耳にするようになった。彼は家族にも言っていなかったのだ。

彼はそれからも一年も休むことなくシークレットサンタの活動を続けたのだが、
9年目の1987年12月、ついに妻にシークレットサンタがラリーであることがわかってしまった。

すまないと謝るラリーに、妻は「素敵なことじゃない。これからはもっと節約してたくさんの人を助けられるように協力するわ」と答えた。

以後、家族もラリーの活動を知って陰から支えることになった。1995年、地元ではすっかり有名になっていたラリーは匿名を条件に取材に応じた。

カンザスシティ・スター紙のマクガイヤー記者は、彼も家族も一切表舞台に出ようとしなかったと話す。しかし報道されてから、シークレットサンタの正体への関心はさらに高くなった。一方ラリーは多くの人に感謝されるにつれて、ある人物に会いたいという思いが募っていった。そして1999年12月、ミシシッピ州のトゥペロという小さな町のある男性宅を訪れた。

その男性とは、シークレットサンタの生みの親だった。
28年前の1971年、一文無しだったラリーが落ちていた20ドルに救われた日のこと。本当の落とし主が現れたら困るので逃げるように店を後にしたラリーは、我に返って真実に気づいた。
20ドルは、落ちていたものとして男性店員が彼にくれたものだったことに。

男性店員はテッド・ホーンといい、当時のことを思い出した。ラリーは彼がしてくれたことをいつか誰かにしようと思ったのだと話した。そして、テッドの20ドルがなかったら刑務所に入っていただろうという。

自分の人生を正しい方向に導いてくれたお礼にと、ラリーはテッドに1万ドル(約120万円)の入った封筒を渡した。受け取れないというテッドに、ラリーは自分が今あるのはあなたのおかげだと引かなかった。当時テッドは、警察に突き出すのではなく、自らの過ちに気づき、他人への優しさを知って欲しいと
思って20ドルを差し出した。それをずっと覚えていて、サンタ活動を続けたことには頭が下がるとテッドは話している。

テッドさんはラリーさんから渡された1万ドルを、近所の病気で困っている人たちや生活に苦しい人たちのために使ったという。人を思いやる気持ちは健在だった。

そしてラリーのサンタ活動は全米に広がった。
2001年には世界貿易センタービル爆破事件のあったニューヨークに行き、ホームレスや職を失った人を中心に2万5千ドルを配った。

2005年にはハリケーンで壊滅的な被害を被ったミシシッピ州を中心に7万5千ドルを配り、27年間で配った総額は150万ドル(約1億8千万円)になった。

だが昨年、シークレットサンタがついにカメラの前に現れ正体を明かした。
彼は昨年4月、食道ガンのため治療しなければ1ヶ月生きられないと宣告されたのだ。

正体を明かしたのは、自らの命の宣告を受け、身近な人への思いやりを広げて欲しいというメッセージを送りたかったからだろうと、マクガイヤー記者は話します。

その反響は大きかった。2日間で7000通もの手紙やメールが彼のもとに届いた。大半は自分もシークレットサンタになりたいというものだった。

その年のクリスマスも彼は病気を押してサンタの活動を行った。そのお陰で多くの人が笑顔でクリスマスを迎えられた。今年1月12日、ラリーは58歳で静かにこの世を去った。それでも彼の笑顔と優しさは数えきれないほどの人の胸に永遠のサンタとして刻み込まれただろう。

生前ラリーは、シークレットサンタ協会を設立、会員資格は少なくとも1回他人への親切な行為を行うこと。今でも世界中から登録の申し込みが後を絶たないそうです。


立派な人がいるものですね。ほんとうの親切というのは、飲食店の男性店員のように本人が氣がつかないように、さらりとするものかも知れませんね。

誰かシークレットサンタさんはいませんか?家の前でお待ちしていますけど・・・。


752 イチロー選手の野球信条

2009-12-21 11:58:56 | Weblog
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752 イチロー選手の野球信条 

料理評論家の山本益博さんのお話です。
イチロー選手は「普段の自分でいることが僕の支え」という。ヒットを量産するから好調、何打席もヒットが出ないから不調というのでは、自分のバッティングはできないのだという。

それはあくまでも他人の評価であって、たとえ2、3試合ノーヒットで終わっても、バッティングの「感覚」さえ残っていれば心配することはない、と言い切っている。

よくないのは、何打席もヒットが出ないことを次の打席にまで持ち込むこと。そのために、いつも平静、冷静でいられる「普段の自分」を保っておかなければならないのだと。

9年間イチロー選手の動きを逐一見て、まず感嘆するのは、すべての所作が計ったように同じであることだ。

例えば、試合開始で守備につく時、ベンチから飛び出してきた彼は必ず19歩から20歩目にファールラインの白線を越える。そして自分の守備位置のライト方向へ走るが、いつも40歩目で走りを緩め、15歩くらい歩いて定位置につく。

打撃でも、バッターボックスに入って構えるまでの一連のセレモニーはあまりにも有名である。

スポーツライターであり、かつて新体操でオリンピックに出場した山崎浩子さんは、新聞のコラムに興味深いことを書いていた。

「実は私も現役時代、出番が近づいてトレーニングウェアーからレオタードになる時には、下のウェアーの右足から脱ぐというふうに、脱ぎ方からたたみ方からいつも一緒だった。

またフロアーに入る時も決まって右足から。これはジンクスの類ではなく、いつも同じ行動をとることで、自分なりのリズムを作り出していたのである」

この話からも、オリンピックやメジャーリーグといった世界最高峰の舞台で一流の選手が鎬(しのぎ)を削る時、最も大切なのは「いつもの自分である」ということ。おそらくどの選手も自分なりの約束事があるのだろう。そしてその手順を踏むことで、「いつもの自分である」とセルフコントロールしているに違いない。
 

イチロー選手に関していえば、それはグラウンドを離れてからも徹底している。密着番組で話題になったが、イチロー選手は本拠地・シアトルで試合がある時の昼食は、必ず奥さんがつくった「カレーライス」と決めている。他の球場で試合がある時は「チーズピザ」だそうだ。

これは何もイチロー選手がただカレーやピザを好きだからではない(もちろん好きな食べ物ではあると思うが)。

曰く、「試合中に何か異変を感じた時、食事を言い訳にしたくないから」。そこまで自己管理を徹底しているのだ。

普通の人間ならそんなに毎日同じものを食べていたら飽きがこようものだが、それ以上に「ヒットを打ちたい」という思いが強いのだろう。とにかく心身ともに「普段の自分」でいることがイチロー選手の信條なのである。

「普段の自分でいることが自分の支え」・・・イチローだからいえる言葉ですね。
小生、靴下を履くときは必ず左から履きますが、それがどうしたと言われそうですね。
ごもっともでございます。

以上

751 カリスマアテンダント

2009-12-16 08:36:59 | Weblog
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751 カリスマアテンダント

齋藤さんは、山形新幹線の車内で、ワゴンサービスの仕事をしています。
少々古い言い方ですが、いわゆる「売り子さん」です。

ところがどっこい。猛烈に売るカリスマ・アテンダントなのです。普通、平均片道7万円のところ、時には四倍近くの26万円を売る。満席で400人という車内で、187個の弁当を売った記録も持っているそうです。

いくつかその秘密を紹介しましょう。

(その1)
「僕はよく新幹線に乗るんだけど、どうしても買いづらいものがあるんだ」
と、40歳くらいの男性に言われたことがあるそうです。
それはアイスクリーム。たしかに、ちょっと恥ずかしげに、「アイスクリームを下さい」とおっしゃるお客様がいる。そこで、できるだけ小さい声で

「バニラとモカをご用意しておりますが・・・」とお尋ねするようにしているそうです。その場その場で、お客様の表情の変化を見ながら、その状況にあった配慮が必要といいます。

(その2)
山形新幹線は福島駅から在来線を通ります。そのため、山形出身の方は、
「福島を過ぎた頃からほっと安心する」と言うそうです。ある時、お客様が紙袋を差し出されて、「おねえちゃん、これ、なげてけろ」と言いました。
「これ投げるのですか」と聞くと、

「おまえ、山形のもんじゃねえな。なげるというのは、東北弁で捨てるという意味だ」

と教えてくれたそうです。以来、ゴミらしきものがあると、
「お客様、これなげてもいいですか」と聞くと、お客様は満面の笑みが帰ってくるといいます。

(その3)
マニュアルでは敬語で接することになっています。しかし、それではうまく伝わらないこともあるといいます。コーヒーを頼まれたお客様に、「ミルクとお砂糖はお付けしますか」と伺っても、耳の遠い方だと車内の騒音で聞き返される。
そんな時、お客様の耳元で、「お父さん、ミルクとお砂糖どうします」
と聞くと、「ああ、入れてくれ、入れてくれ」と、すなんり通じることもあるそうです。また、マニュアルとは違っても、おじいちゃの手がおぼつかない時には、こちらでお砂糖とミルクを入れて差し上げることもあるそうです。

 
三つのエピソードに共通するのは、マニュアルを超えるサービスです。それは、思いやりの心です。仕事の中の、「プチ紳士・プチ淑女」ですね。

こんなにデキル人にもかかわらず、始めて17年も経つのに、本人の希望で二ヶ月更新のパート契約だそうです。

でも、パートだからといって、会社に遠慮はしません。次々と、商品の提案をします。その根底にあるのは、「会社のためではなく、お客様のために働いている」という思いだといいます。

正社員だからやり甲斐が持てないというのではない。正社員とかアルバイトとかいう雇用形態の問題よりも、本当にお客様に喜んでいただけるために、どれだけ自分の工夫が活かせるか。そのほかが大事だと思うからだそうです。


すごいですね、できる人は言い訳を言いませんね。
商売のコツも、仕事のコツも一杯そこらへん氣転がっているかも知れませんね。
ただ、氣がつかないだけで、というより、氣がつきたくないって言うほうが
正解かも知れませんが・・・。

みなさん、成功するには”コツは2つ”あるそうですよ。
何だと思いますか?
それは、”コツ、コツ”とやることだそうです。
いかがでした?確かにコツは2つありましたね。

以上

750 心の鈴

2009-12-08 08:06:39 | Weblog
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750 心の鈴

星野富弘氏の「鈴の鳴る道」に、車椅子に乗って生活すると、道がでこぼこだらけなのに氣がつく、という話があります。

段差に滅入ってしまうのだが、車椅子に鈴をつけてでこぼこを通るたびに、「チリーン」となるようにしたところ、心持ちが変わった、そういう話です。
引用してみます。

――― 心にしみるような澄んだ音色だった。(略) その日から、道のでこぼこ道を通るのが楽しみになったのである。(略) “人も皆、この鈴のようなものを心の中に授かっているのではないだろうか”その鈴は整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴る事がなく、人生のでこぼこ道に差し掛かったとき、ゆれて鳴る鈴である。

美しく鳴らし続ける人もいるだろうし、閉ざされた心の奥に押さえ込んでしまっている人もいるだろう。私の心の中にも小さな鈴があると思う。その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこをなるべく迂回せずに進もうと思う。


星野さんは新任のとき、学校の体育の授業で鉄棒から落ち、首の骨を折って下半身不随になり、車椅子生活を余儀なくされた方です。
あるときから、筆を口に抱え、素晴らしい草花を絵がきつづけて見えます。
彼の絵は、なにげない草花が多いのですが、なぜか見る人の目を釘づけにします。

小生なんか、絵のことはさっぱり分かりませんが、星野さんの絵を見ると、心の底からこみ上げてくるものがありますね。
やはり、大切なものを失うと、ほんとうに大切なものが分かるのでしょうか。

この鈴のように心の持ち方を変えるだけで、苦痛であったものが、楽しくて愛おしいものに変わるかも知れませんね。

ある看護士が、私が夜勤をしているときにかぎってナースコールが多いと、とても不満でした。あるとき患者さんがその訳を教えてくれました。
それは“あなたが一番優しいから、みんなあなたが夜勤になるのを待っているのですよ”ということでした。
それを聞いた看護士は、あれほど不満だったナースコールが、なんだかとてもいとおしく待ち遠しくなったそうです。

これなんかはピッタシの例ですね。起きている出来事はまったく同じでも、原因が分かったり、心の持ち方が変われば、まったく変わった結果になりますね。

いかに自分の心にすがすがしい鈴をつけるかですね。

749 ランドセル

2009-12-01 09:39:49 | Weblog
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749 ランドセル

幼くして父親を亡くした女の子が、小学校に入学するころのことでした。
周りの子はみんな、親から買ってもらった赤いランドセルを背負って通学していました。

しかし、その子の家庭は幼くして父親を亡くし母子家庭でしたから、ランドセルを買ってもらえるほどの余裕がなかったそうです。 もちろん、家に余裕の無いことがわかっていたその子は、ランドセルがほしくても母親にねだることはできません。

子どもながらに、それはお母さんを困らせてしまうことだとわかっていたからです。でも、毎日友達と通学していると、どうしても自分もあの赤いランドセルがほしくてほしくてたまらなくなります。 通学路にあるお店のショーウィンドーに飾ってある、新品でピカピカの赤いランドセルをいつも眺めていたそうです。

そんなある時、彼女は考えました。
「お母さんに迷惑をかけるわけには行かない。でも、私もあの赤いランドセルがほしい……。 そうだ、お父さんにお願いしてみよう!! きっとお父さんなら私の願いを叶えてくれるにちがいない!!」

そう思った彼女は、天国にいるお父さんに手紙を書くことにしました。
まだ、習いたてのひらがなで、一生懸命にお父さん宛にハガキをかきました。

「てんごくの おとうさんへわたしは、ことししょうがくせいになりました。
べんきょうもがんばっています。いっぱいがんばって、おかあさんをたすけようとおもいます。だから、おとうさんにおねがいがあります。わたしに、あかいランドセルをください。 いっぱい、いっぱい、べんきょうして、がんばるから。いいこにしているから。おねがいします ]

もちろん、天国へのハガキです。
宛名は“天国のお父さんへ”と書いてポストに投函したそうです。
そのハガキを集配し、郵便局の職員の方がそのハガキを見つけます。

宛名は天国……。
ハガキの表には、幼い彼女が一生懸命に書いたあの文章……。

いつものように差出人不明で送り返すわけにも行かず、このハガキを手に取った職員がどうしたらいいんだろうと仲間の職員の方に相談したそうです。
「ねぇ、見て、このハガキ……。 どうしたらいいだろうかぁ……。送り返すにはあまりにも残酷だよね」
「う~ん……。そしたら、僕たちがこの子の天国のお父さんになろうよ」
「えっ、どうやって」
「仲間みんなにお願いしてさぁ、ちょっとづつお金を出し合って、ランドセルを買ってあげようよ!」

そして、郵便局の職員のみんなで、ちょっとづつお金を出し合い、真っ赤なピカピカのランドセルを買うことにしました。そしてそのランドセルを小包にいれ、その郵便局の中で一番字の上手い人が代表して、お父さんのメッセージを書いて、その子の家に送ったそうです。

「○○ちゃん、お手紙ありがとう。 お父さん、とってもうれしかったよ。
いつも頑張っているのを天国から見ているからね。 これからも、優しい人になってね。そして、お母さんを助けてあげようね。 天国からいつも○○ちゃんのことを応援しているよ。ちょっと遅くなったけど、ランドセル贈るね!!」

数日後、ランドセルとメッセージの入った小包が女の子のところに届きます。
その女の子は飛び跳ねるように喜び、お父さんからランドセルをもらったと、はしゃいでいたそうです。
そして、数年後この話を作文に書き、全国のコンクールで入賞したそうです。


やぁ、いい話ですね。郵便局の職員のみなさん、なかなかやりますね。夢があっていいですね。

今回はいくら考えてもオチが浮かびませんでした。老化の始まり?いや、真っ最中でした!