氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

774 切実なお話

2010-03-18 08:16:20 | Weblog
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774 切実なお話

小生の知人から一枚のチラシを受け取りました。
よろしかったらご協力をお願いします。


浅野さんに肝臓移植を

岐阜県各務原市鵜沼第一小学校教諭の浅野彰さん(42歳)は、現在「原発性胆汁性肝硬変(PBC)」という難病と闘っています。
10年前に医師の診断を受けて以来、検査と投薬によって体調を管理してきましたが、近年になって病状が急速に悪化し、平成21年7月には医師から肝臓移植なくしては長く生きられないことを告げられました。

通常、肝臓の移植には生体肝移植と脳死肝移植の2種類があります。生体肝移植のドナー(提供者)検査をしましたが、親族に適合者はいませんでした。残された脳死肝移植の可能性にかけて「日本臓器移植ネットワーク」に登録していますが、日本全国でドナーが現れ移植が実現する可能性はきわめて低いのが現状です(移植希望登録者数およそ300名に対し、2009年の脳死肝移植はわずかに7例です)。

命のタイムリミットが近づくのを感じながら、タダ待つより他に方法はないのか。希望を失っていた浅野さんのために、アメリカ合衆国での脳死肝移植を実現させようと、同僚や友人らが中心となって立ち上げたのが、この「浅野先生を救う会」です。海外での移植は国内に比べ実現の可能性が高いのですが、これには莫大な費用がかかります。そこで多くの皆様からご支援をいただきたく、7,500万円を目標に募金活動を始めた次第です。

命が尽きるのが先か、移植の実現が先か、時間との闘いです。
皆様のお力で浅野先生をもう一度教室で待つ子供たちのもとへ返してあげてください。

<浅野彰さんからのメッセージ>
肝硬変が進行し移植しなければ助からないと聞いて、一度は「死」を覚悟しました。しかし、海外移植の道があることを知り、一緒に闘おうという仲間にも恵まれました。
妻のため、娘たちのために生き続けるチャンスをください。
教師としても鵜一度教壇に立つチャンスをください。
皆様のご理解、ご支援の程、よろしくお願いいたします。
 浅野さんの闘病生活をブログにて公開しています。
http://backtoschool-again.net/sukuukai.html

振込先
三菱東京UFJ銀行  岐阜支店  普通0072600
十六銀行       本状支店  普通1316755
大垣共立銀行     県庁前支店 普通264896
ゆうちょ銀行 振替口座  00890-0-92019
口座名(各行共通)  浅野彰先生を救う会

目標金額  7,500万円

「浅野先生を救う会」事務局
代表 丹野憲一
TEL/FAX 058-337-3330

以上

773 モテルール

2010-03-11 16:24:52 | Weblog
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773 モテルール

天才コピーライター ひすいこうたろう さんのお話です。
バカバカしいけど、ちょっと面白いです。

小学校1年のうちの息子はモテる。すごくモテる。例えば、七夕。
タンザクにうちの息子と結婚できますようにと願いを書いた女の子がクラスにふたりもいた。

20名もいない女子の中からふたりからも結婚したいと言わせるなんて、これはかなりのモテ男です。

なぜ、息子がモテるのか。ヤツ(息子)がモテる理由、それは5つあるんです。
では、それをこれから明かしていきましょう。

●モテルールその1
ヤツは算数が苦手です。ありえないくらい苦手です。
3+7=7 宿題のノートにこう書かれていたんです。

7に3を足してるのに答えは7のまま。足し算の概念を根本からわかってないことがわかる致命的なミスです。しかし、僕はこれがヤツのモテの秘密のひとつだと気づいたんです。

モテルールその1
細かいことは気にしない(笑)

●モテルールその2
3+7=7の宿題を目の当たりにしたとき、僕はヤツに質問しました。
「お前、算数のテスト、ぜんぜんわかんないだろ?」
すると、ヤツはこう答えました。
「大丈夫だよ。テストのときは後ろの子の答えを見てるから」
普通、席が横の子のを見るのがカンニングの鉄則です。
それなのに、ヤツは後ろの子のを見るというのです!

「道が二つになったときに、あえてあきらかに損だという道を選ぶのが芸術家だ」

これは岡本太郎の言葉ですが、ヤツはあえて葛藤の道を歩むために後ろの子のを見るんです。ヤツは真の勇者です。

モテルールその2
いつだって道はひとつ。
困難な方へ。

●モテルールその3
「でも、カンニングしてるわりに算数の点数低いじゃないか?」僕はヤツにそう問うた。ヤツはこう答えた。
「うん。後ろの子が間違ってるからしょうがないんだよ」

モテルールその3
誰にだって間違いはある。いつだって相手のミスは許す。

●モテルールその4
食事中、食卓に置かれた「しょうゆ漬けいくら」のパッケージに貼られた999円の値段にヤツは驚いた。
「とおちゃん、これってこんなに高いの?」
「うん。高いよ。お前、999円なんてもってないだろ?」
「もってるよ。999円って9円が3つでしょ?」違うつーの。

モテルールその4
9円を3つもってれば人は大富豪!どんなルールだっつーの(笑)

●モテルールその5
ヤツは僕が疲れてる時にマッサージをしてくれる。お金をちゃんと自分で稼ぐという感覚が身につくかもしれないと思い僕はマサージのお礼にお金をあげようかなと考えた。

100円?いや。小学校1年生に100円は早いだろ。10円にしよう。そう考えて僕は息子に10円を渡した。

「お礼に10円あげるから貯金箱に入れておいてね」僕はそう伝えると、ヤツは自分の机の貯金箱に走っていき、お釣りだよって僕にお釣りを手渡した。

10円を渡したのにお釣りは……100円でした。算数が苦手って素晴らしい!

モテルールその5
恩は10倍にして返す!

素晴らしいですね。恩は10倍にして返すか。なかなか出来ないですよね。


すごいですね、10倍返しですか。倍返しは聞いたことはありますが、10倍とは・・・。。


772  Canta! Timor

2010-03-09 09:20:46 | Weblog
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772  Canta! Timor

てんつくマンという人のお話です。どういう人かよく知りませんが、NPOで色々な活動をして見えるようです。

絶対に観てほしいのが広田奈津子監督のドキュメンタリー映画
「Canta! Timor」

なんという、素晴らしい映画がまたこの世に誕生したことか。ほんまに監督の優しさや思いが見事に愛という形になっている。

舞台は東南アジアの東ティモール.。16世紀にティモール島はポルトガルの植民地だった。いわば、侵略されていた。その後、オランダが攻めてきて、1859年、西ティモールはオランダ領になり、ティモールは東と西に二つに分断された。

第二次世界大戦の時には日本が占領。しかし、日本敗戦後、1949年にインドネシアの一部としてポルトガルに支配される。昔ってほんまにこんなことが当たり前に行われてたんやね。侵略ってなんと愚かなことを。

今から35年前の1975年、インドネシア軍が西ティモールから進行を開始、11月東ティモールは独立宣言を行う。しかし、直後にインドネシア軍は東ティモールを武力で制圧。1976年、インドネシアは東ティモールは国ではなく、27番目の州とした。

しかし、国連はこれは侵略と不法占領として避難する決議を採択したが、米、
豪、そして、日本がインドネシア政府との関係を重視し反対。
それは、東ティモールの近くに油田が見つかったため、その利権を欲しいがためと言われている。

日本は東ティモールの人の犠牲や悲しみに目をそむけ、自分の国のエネルギーをとった。それによって、インドネシア政府は東ティモールの人々を鎮圧し続けた。東ティモールの人は沢山、殺された。

悲しみ色に染まる東ティモール。いつものように仲間や家族が殺される。
なんの為にこんなにも人を殺すのか?殺されるんだ!
悲しみと怒りの中、独立を訴える東ティモールの人は一つの作戦をとった。
インドネシア軍の兵隊を捕まえると殺さず、自分達の思いを伝えた。
「オレたちはあなた達と戦いたいんじゃない。あなた達に家族も仲間もいっぱい殺されたよ。でも、オレたちはあなた達を恨んでいない、殺したいとも思っていない。俺たちはね、ただただ、平和に暮らしたいだけなんだよ、それをみんなに伝えてほしいんだ」

そう、捕まえた捕虜達にただただ伝えて逃がした。そこから流れは変わった。
結果、2002年5月20日、東ティモールは独立した。

映画の中にこんなメッセージがある。
※※※※※※※※
戦争はいつだって起きるさ
でも今の戦争は卑怯だよ
金がすべてを支配してるのさ
一体なぜなんだ なぜ そんなに懸命に働いてる?
農場でも会社でも何でもだ
一体 何のためなんだ

金持ちになりたいのかい?
現在のツケはみな 
自分のこどもらに回るというのに

今、僕らは満腹で笑っていられる
だけど、僕らがあやまちを犯せば

次の世代は水、食料、すべてを巡って殺しあうはめになる
それでも続けたいなら子どもを産まなきゃいい
自分で最後だ
子や孫を愛してなけえれば
彼らの未来を破壊できるさ

だから、治すんだ
この、世界を治すんだ
やるしかない
この世界を治すんだ
今、すぐにだ

※※※※※※※※
さらに1人の笑顔の爺ちゃんが言った。
※※※※※※※※
昔、日本軍もここへ来たよ
こどもも駆り出された
日本軍は厳しくてね
俺たちを殴るのさ

これまでのティモールは良くない時代だった
外国人が来ては叩き 来ては叩き
友達を嫌というほど亡くしたよ
家族も死んだよ

でも、もういいのさ
ティモールは独立したんだ
多くが死ななくては果たせなかった
死が代償だ
怒りなどない
もう、怒りなど。

日本、インドネシア、ティモール、みな同じなんだよ
人類は一つの兄弟なのさ
父もひとり 母もひとり
大地のこども
憎んじゃだめさ
叩いちゃだめ
戦争はあやまちだ
大地が怒るよ

※※※※※※※※
そう言って笑うお爺ちゃん。
この映画を世界中に届けたい!
傷つけられても怒りではなく許すこと。
本当に大切なことを教えてくれる映画。

ぜひ、この映画を観て広めて。
必ず世界は優しくなるから。
優しい音楽に包まれたこの映画をぜひ、観てね~。



東ティモールって、かすかに聞いたことがありますが、いろんな国の植民地にされていたなんで、ほとんど知りませんでしたね。ましてや戦時中に日本の植民地だったとは?

武力をもっている国が何も悪いこともしていない国を勝手に植民地にしていいものでしょうか。子供でも分かることですよね。いや、純粋な子供しか分からないかも知れませんね。

大人は、ついつい目先の利益、いや欲に惑わされてしまいますね。心の底では、良くないと思いつつも・・・。

小生も、今日は禁酒しようと思っても、ついつい目先の誘惑に負けて飲んでしまいますね。根っこは同じ?

以上

771 書の道を行く

2010-03-05 13:49:08 | Weblog
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771 書の道を行く

人気書道家、武田双雲さんのお話です。

双雲さんが書道家として独立したのは25歳のときです。
大企業での安定した生活を捨ててまでも、大好きな書道で生きるという冒険をしたかったそうです。

双雲さんの運命を変えた出来事は、ストリートミュージシャンとの出会い。
双雲さんはその場から動けなくなり、涙を流すほど感動しました。
そして、自らも路上で書のパフォーマンスをすることにしたのです。

しかし、現実は甘くありませんでした。
自分が一所懸命書いた傑作を並べても、誰も立ち止まってくれないという状態が続き、彼の自尊心は大きく砕かれます。

そこで、双雲さんは発想を転換します。
最初は、お客さんに「すごい」と言われたいという思いから、自分がうまく書けたものを置いていただけでした。が、それではお客さんは感動してくれません。
そこで、「あなたの言葉を書きます」という看板を立てて、その人の話を聴き、その人の書いてほしい言葉を書いてあげるようにしたのです。

すると、だんだんお客さんが集まり始め、感動して涙を流してくれるようにもなりました。

「相手の立場に立ち、相手の話を聞き、自分の心が動いた状態で書く。
そうするとことで、感動してもらえる書が生まれる」このことを、双雲さんは路上(ストリート)で学び、書道家として前進していったのです。


武田双雲さんは、NHKの大河ドラもの「天・地・人」の表題を書いた書道家ですね。小生も彼の書本を持ってます。
なかなかユニークな書体ですね。

そうですね、ストリートで活躍するのは、見た目より大変でしょうね。どんなときも、自分から見た目と、相手から見た目の両方を持つことが必要かも知れませんね。


770 愛で奇跡を起そう

2010-03-03 14:33:41 | Weblog
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770 愛で奇跡を起そう

~愛で奇跡を起こそう~

福岡の高倉さんという方のメルマガです。
小生もどうゆう人かよく知らないんですが.



昨年の10月10日ハタチから25まで、付き合っていた女の子から、突然メールがありました。

メールの内容は…
『私、あとわずかの命になりました。これまでお世話になった方に今、感謝を述べてます』といったようなものでした。

翌朝、その子に電話をし、詳しいことを聞きました。ショックと悲しみが僕の胸に突き刺さりました。

その痛みを、僕のメルマガのおもしろ授業の読者に訴えました。
読者の方の中には一緒に泣いて下さった方が何人もいらっしゃっいました。
『泣いてる場合じゃないです!なんとかしなきゃ!』と言って下さった方もありました。

その夜、ひとりの仲間が
『元彼女のために、今出来ること、一緒にやりましょうよ』と肩を叩いてくれました。

僕はスイッチが入り、胸の痛みも消え、“やってやるぞ”という強い想いが体中に走りました。

翌朝12日のおもしろ授業にて、僕は全国の読者に呼びかけました。
『元彼女“由実さん”癌で余命宣告を受けてます。
どうか皆様由実さんにエールを送っていただけないでしょうか?
皆様、応援ハガキを僕まで送って下さい。それを持って、僕、由実さんにお見舞いに行きます。“本気のお見舞い”に』

わずか3~4日で100通以上の手紙や本やお守りやCD、沢山の品物が由実さん宛てに届きました。

“こんなに沢山の方が応援して下さるだなんて…日本って本当~に素晴らしい国だ”

10月末、僕はこのプロジェクトを一緒に考えてくれた心友ファミリー(5人家族)と全国から届いた愛を手に、“本気のお見舞い”に向かいました。
(11月に届いた物は心友ファミリーだけで行って頂きました。)

熊本赤十字病院。23年ぶりに由実さんに会いました。会って由実さんに全国から寄せられた愛の品々を手渡しました。
心底感動される由実さん…
ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう…ありがとうが連発します。

由実さん、癌のことを受け入れてましたが、余命宣告通り、迎えがくれば仕方ないそう思っていたようですが、全国から届いた愛のメッセージを読んでるうちに、
“生きなきゃ!なんとしても生きなきゃ!何年かけてでも、全国の皆様に「ありがとう」を伝えなきゃ!”そう生きる決意をされました。

そして由実さんは行動に出ました。退院して社会復帰しよう、少々苦しくても、痛くても仕事をしよう

私自身が輝く場所へ戻ろう
病院は病気を作るところ
病棟は病気を育てるところ

自分で作った癌だから、自分で癌を無くせばいい…

そう由実さんにスイッチを入れて下さった全国からの愛のメッセージ。
そして・・・奇跡は起きました。

退院後一ヶ月、全身をむしばんでいた肉腫は全て消えました。
皆様の愛が奇跡を起こして下さったのです。
“ありがとう”って言葉に癌は弱いんです。

由実さん、毎日何十回も何百回も“ありがとう”を声に出したとか。

12月20日、僕の講演会に由実さん、元気な姿で皆さんの前に立たれました。

全国から寄せられた手紙や品物、また本気のお見舞いの様子のフォトムービーを流した後、由実さんから感謝のご挨拶が。

~奇跡は連鎖する~

12月20日、一番前の席に腰掛けられ由実さんの話を聞く男性。
林一郎さん
林さんは脳腫瘍が脳に五つ

この日
由実さんからのお話や杉浦貴之さん、森源太さん、さときちさん、ケン4ロックさんの唄に感動感激され
わずか二週間後五つあった腫瘍が二つ消えたそうです。



嘘みたいなお話ですね。ちょっと信じれないような氣きがしますが、実際にあったお話ですから、信じないわけにはいきませんね。

そうだったのですね。癌は“ありがとう”って言葉に弱かったんですね。
小生は、女性には弱いです。家内にはもっと弱いです。ついでに剣道も・・・。

以上

769 百三歳、なお学び続ける

2010-03-03 14:27:23 | Weblog
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769 百三歳、なお学び続ける

佐藤文悟(さとう・ぶんご=元歯科医)さんと言う人のお話です。 

今年、齢百三になる私を、一人の歯科医が訪ねてきた。娘が今度、歯医者になりました、と言う。私はそれはめでたいと言いながら、こんなことを述べた。

「お嬢さんをあなたより一段高いレベルの歯科に勤めさせ、親のことを批判しつつ彼女が正しい道を歩めるよう、そして本人には悟られぬよう遠くからそっと見守ってあげてください」

すると後日、そのお嬢さんが挨拶に見えた。私は「あなたはよい職業を選ばれた。職場へ入ったなら、自分の師と仰ぐ先生の生活態度を問うのではなく、仕事に臨まれる姿勢、それを精一杯学んでください」と言い、餞の言葉とした。

人の仕事ぶりというものは、上の人も見ていれば、下の人も見ている。一人でしているような物事でも必ず誰かが見ている。時には喜びに頬を緩めることもあるだろう。ただし、仕事の手だけは決して決して最後まで緩めてはいけない。私はそう自分に言い聞かせてきた。

明治三十七年、新潟の田舎に生まれた私は、生来学問好きな性質で、勉強はいくらしても倦むことがなかった。しかし家は貧しい農家で、中学へ進学できる望みなどない。

担任の教師が、この子を進学させてやってくれと頼みにいらしたこともあるが、父は「我が家より格式のある御宅でさえ中学へはやっていない。うちの息子だけやるのでは筋が通らない」と聞く耳を持たなかった。
それでも学問に対する欲求はやみ難く、ほぼ家出同然の状態で故郷を後に上京した。

母はそんな私のために上等な着物を織り、出掛ける前にそっと渡してくれた。
私が実業家の家へ書生に入ることができたのはこのためである。後になって奥様から「まだ幼くて暮らしも豊かには見えないのに、着物だけはずいぶんと良い物を着ている。きっと愛情深く育てられたのだろう、と思った」という話を聞いた。

入学した開成中学では学費を自分で稼ぎながら、懸命に学業に励んだ。進学したのは日本大学歯学部の夜学で、昼間は仕事をしながら深夜まで黙々と勉強を続けた。

貧乏であっても学問に食らいつき、どうしても一人前にならねばならぬと覚悟をすれば、それなりにモノにはなるものらしい。

尊敬する川合渉校長から「日大で最高の勉強家だ」とお褒めの言葉をいただいたほど、夜も寝ずに勉強した。

わき目も振らず一心に学問に取り組んだのが良かったのだろう。治術の実習では、私の元へ診察を申し出る患者と同級生が後を絶たず、やがて日大の総代を務めることになった。

卒業時には褒美として、大の大人が三人がかりでも動かせないような立派な診療台をいただき、生涯をこの仕事に捧げようと決意した。

家が貧しくなかったなら、私はあれほどまで熱心に勉強に励んだだろうか。それを思う時、貧乏であったことが、あるいは私の人生を幸せへと導いてくれたのではないかという気がするのである。

卒業後、縁あって東京の南千住に開業し、戦後は疎開先の横浜でそのまま開業することにした。その後、横浜にあるアメリカの陸軍病院で隊長より直接単独で臨床学とそれに伴う学問を教わった。

そのために中学時代の英語の教科書を引っ張り出してきて一から英語を勉強し直した。その後、川崎でもう一度始めた診療は七年前、九十六の歳になるまで休むことなく続いた。

学校で教わる学問は頭だけのこと、患者の皆様が私を歯科医として、また一人の人間として今日まで育ててくださったように思う。

いまから数十年前のことである。親しくさせていただいた尊敬する先生方と歯科医の国際学会を結成した。私は結成当初から長く事務局長を務めていたが、
ある時周囲から会長に推されたことがあった。大変有り難いことだと思ったが、私はいくら言われても決して首を縦には振らなかった。

家内はそんな私の行動を訝しく思っていたようだが、私は博士号もない一介の町医者で、学校も夜学しか出ていない。

周りの面々は代々続く歯科医の生まれで、大学などで教鞭を執っている者ばかり。そんな中で私が会長職を務めて誰が快く思うだろう。

だがこれを引き受けなかったがために、私は諸先生方から支持を受けることになり、もめ事や争い事は一切起こしたためしがなく、また先輩方からもずいぶん可愛がっていただけたように思う。

出過ぎず、引っ込まずというのは、世渡りをしていく上で大切な心得の一つではなかろうか。

歯科医を志すからといって、何も特別な学問をする必要はない。技術も特別に人より優れていなければならぬということはない。

ただし、学ぶべきことは当然怠りなくやるべきであるし、その知識や技術を身につけたなら、どこまでも忠実に守り通していくことが必要である。

引退後、私は東大で物理学を専攻する孫に触発され、量子力学の勉強を始めた。
「九十六の手習い」など聞いたこともないが、学ぶ喜びや知る喜びに年齢は無関係だと思う。私には、若い人に偉ぶったことなど一切言う術がない。できるのはただ、若い人から学び続けることだけである。


立派な人がいるもんですね。96歳から量子力学ですか、すごいですね。50そこそそこでもう歳だなんで言おうものなら、ぶっ飛ばされそうですね。やはり、何歳からでも勉強、一生勉強なんですね(机上の勉強とは限りませんが)。もう、言い訳は止めましょうね。歳だからって・・・。

以上