氣まぐれ剣士の言いたい放題

氣まぐれ剣士が剣道その他を思うままに書いています。
一度のぞいてください。

760 客家の法則

2010-01-28 09:20:50 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

760 客家の法則

「プチ紳士・プチ淑女探せ!」のメルマガを発行されている志賀内泰弘山さんのお話です。

高野山真言宗管長の松永有慶さんの、こんな話に魅かれました。若い頃、インドに留学した時のことだそうです。しばらくその土地の家庭でお世話になった。

なにくれとなく細かい配慮をしてもらい、無事に留学期間を終えていよいよ帰国することになった。家族全員でお別れパーティを開いてくれた。お礼の挨拶の時、
「日本に帰ったら、なにかこの家の人たちが欲しいものを送りたい」
と付け加えた。
日本の電化製品がインドでは高嶺の花と言われていた時代のことだ。

ところが、この家の主人から、やんわりとではあるが、丁重に断られた。
「われわれがあなたのお世話をしたので、ありがたいと思ってくれるだけで充分である。あなたから何かを贈ってもらうと、それでわれわれの友情は終わってしまうような気がする。
 あなたとわれわれの家族の間の心の交流は、ずっと永遠に続けていきたい。また、われわれのうちの誰かが日本に行ったとき、はじめてあなたはお返しを考えればよいのだ」

この話からもパッと思い浮かんだことがありました。
いつも、講演を頼まれると、どんな演題でも必ずさせていただく話です。
それは、「客家の法則」。

拙著や「プチ紳士・プチ淑女探せ!」運動の理念を綴った小冊子「ギブアンドギブで上手くゆく」にも収めているのでご存じの方も多いことでしょうが、今一度ここに紹介させていただきます。

中国南部に客家(はっか)という民族がいます。元々は中国全土を支配していた漢民族の末裔らしいのです。

しかし、北方民族が攻めて来た際に、難を逃れて今の地にやってきました。彼らは特殊な建築様式の家に住んでいます。

イタリアのコロッセオのように、円型の外周部分が三、四階建てになっていて、
各階に何軒もの家族が住んでいます。

ちょうど中庭の見下ろせる高層筒型アパートといったイメージです。入口を閉じると、外敵も侵入できません。中には、長期に篭城できるために、ブタやニワトリなどの家畜を飼っています。

遠い祖先たちが、多民族との戦いに追われて南下したという歴史が、こうした強固な閉鎖社会を作り出したのです。

しかし、その反面、?ケ小平や孫文、世界中の華僑の大富豪など有能な多くの人材を輩出したことでも知られています。中国でも有名な優れた民族なのです。

ここの長老が、テレビ番組のインタビューに答えていました。
「なぜ、この小さな村から優れた人物が生まれたのですか」
長老いわく、
「隣の人に親切にしてもらっても、その人にお返しをしてはならない、という教えが伝わっているのだ。右隣の家に人に親切にされたら、反対の左隣の家に人に親切をしなければならないのだ」と。

なるほど。まさしく眼から鱗。円型ドームなので、それを続ければ、いつの日か回りまわって自分に還ってくるというわけです。そういう「生き方」を実践して、多くの偉人を輩出してきたのです。

さて、冒頭のインドの家の主人の話。
「日本に行ったときに」と言いつつ、「そんなことは実際にはないだろが」ということが前提になっています。

「われわれのうちの誰かが」というのは、家族に限らず「インド人の誰かが」という意味に思えました。親切をされたら、その人にお礼をしたくなるのは当然のことです。それを形にしたいから物を贈る。それも自然な気持ちです。

でも、右隣の人に親切をされて、すぐに右隣の人に返したら、その親切は二人の間で「完結」して終わってしまいます。その親切を左へ左へとグルグル回す。
そうしているうちに世の中がよくなる。ましてや、右隣の人は、
「親切を返してもらおうと期待して親切をした」
わけではないはずです。
 親切の輪を次へ次へと回していく。そうすることで、右隣の人、つまりインド人の家族の厚意は、無限につながってどんどん大きくなっていくわけです。
そこに、「プチ紳士・プチ淑女探せ!」運動が目指す世の中があります。


賢いですね、恩返しではなく、恩送りですね。恩返しは返した時点で終わりますが、この恩送りだといつまでも続きますからいいですね。要するに幸せの「ドミノ倒」しですね。

以上

759 中村文昭

2010-01-26 11:22:23 | Weblog
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759 中村文昭

「中村文昭氏が師匠に教わった4つの行動哲学」(雑誌『致知』に掲載)
         中村文昭(クロフネカンパニー社長)

(師匠の田端さんとの生活の中で)
大切なのは、日々の行動なんだなということを教えられました。それを突き詰めれば4つに集約されるんですが、非常に分かりやすくて、小学生にもできる簡単なことなんです。

まず、僕らは田端さんに対してノーはなかったんです(笑)。何を言われても、返事は0・2秒でハイ。普通は、返事をする前にいったん考えてしまうんですね。

でも、そこで考えることって、要は損か得かなんです。損得で返事を迷うんですよ。そうすると、
「おまえみたいな勉強もできんあほうが、考えたらいかん。損得考えずにすぐハイだ。まずは素直に受け入れ、やってみることだ」と叱られました。

2つ目は、
「頼まれごとは、試されごと」だというんです。
ものを頼まれるのは、面倒くさいことだと考えがちです。だけど、頼まれるということは、その人から試されているということだ。
だから、頼んだ相手を驚かすくらいのことをやれ。徹夜してでも「おまえ、すごいな」と相手をビックリさせろと。

だけど、この2つを理解しても、いざ体を動かそうとするとブレーキがかかるんです。そのブレーキになるのが、できない理由なんです。

何か大きなチャンスが巡ってきても、でも俺は人前でしゃべるのは苦手だからとか、でも俺はやったことがないしとか、できない理由をあれこれ並べて逃げる。

だけど田端さんは、僕たちができない理由を言おうものなら、
「やってもいないうちから何がムリだ!」と叱られるんです。

「本で学ぶこともできれば、人に聞くこともできる。やってダメならやり直せばいいだろう!」って。

だから3つ目は「できない理由を言わない」。

4つ目は、「いまできることは山ほどある」
と言うんです。だから、
「『そのうち』という言葉を吐いて先送りするな。いますぐやれ」と。

簡単でしょう。これを皆で毎日続けていたら、目の前の景色がどんどん変わっていったんです。だって、親分がああせい、こうせいと言うと、全員揃って0・2秒で返事をし、あなたの予測を上回りまっせと体を動かし、誰もできない理由を言わず、先送りせずすぐやるわけでしょう。

これを続けていたら、協力してくれる人がどんどん増えて、1年で六本木にショットバーを出すことができたんですよ。僕は小学生の前でも講演を頼まれることがあるので、この体験談をおもしろおかしく一所懸命に話すと、みんなハイハイ手を挙げて、


「きょうからお母さんにお使いを頼まれたら0・2秒で返事をします」
「お母さんの予測を上回る速さで行ってきて、お母さんからまず味方につけます」
「両親を味方につけて、大きくなったら夢を叶えます」
ってやる気満々で宣言するんです。

だけど、大人ができないんですよね。
「でも」っていう悪魔のひと言をつぶやいて諦めてしまうんです。

僕は結構意地悪なところがあって、以前は講演した後、参加者の帰り道の脇に隠れて、ひそかに反応を確かめていたんです(笑)。そうすると、
「おもしろい話だった」
「元気をもらえた」
「きてよかった」
と拍手してくれていた人たちが、大概言うんです。

「でも」って(笑)。
「でも、あの人は特別なんだろう」
「でも、私の立場は違うし」

と聞いた直後に言っている。残念ですが、そういう人は変われないんですね。


ほんと、中村さんの話を聞くと、すぐにやる氣になるんです。
でも、ここでも言われてるように、すぐに悪魔の言葉「でも」を
つぶやいてしまうのですね。凡人は。
0.2秒で「はい」と返事されたら依頼したほうも氣持ちがいいでしょうね。

そして依頼者の予測を上回るというのも面白いですね。
目一杯やって相手を驚かせてやろうと思うときは
なぜだかワクワクしますよね。

でも、やらされていると思うと、ゴミ一つ拾うのもイヤですよね。
人間って心の持ち方で、どんな風にも変わるものですね。

以上


758 中村久子

2010-01-22 14:58:25 | Weblog
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758 中村久子

今回は、両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、人生を力強く生き抜き、ヘレンケラーにも称賛された中村久子女史の次女・富子さんのお話をお届けします(月刊『致知』より)。

母の72年の生涯というのは、辛いことのほうが多かったと思うんですよね。でも母はそれを語らずに、自分を取り巻いてくださったいい方がいろいろなことを教えてくださったと、人のご縁の大切さ、一期一会をすごく大事にしましたね。

だから母のいただいたご縁というものを一つひとつ振り返ってみると、本当にその一つひとつの出会いから、母はすごいものを与えていただいてきたんですよね。

だからそれだけ母は幸せだったと思います。その中にはクリスチャンの人もいる、いろいろな宗教の方もいるけど、そういうものを全部含めて、一つのものになっているような気がするんですね。

母が子どもの時、一所懸命口で縫ったお人形の着物をお友達にあげたら、
その子のお母さんに
「こんな唾で濡れた着物なんか汚くて」って川へ捨てられて、ものすごくショックを受けたという話があるんです。

母は私に言ったんですが、あの時は、悔しいよりも、捨てられたことよりも、そんなものしか縫えない自分が情けなかった。

それからまた一所懸命に練習をして、濡れないように縫えるようになるまで13年半かかったって言うんですよ。

私はその話を初めて叔母から聞いた時、母に
「13年半もかかったの?」って言ったら、母が「そうよ、富子。濡れなくなるまでに、13年半かかっちゃった。フフッ」って笑ったんですよ。

その時に母は私に言ったんです。人間ていうものは、悲しいもんですって。

その人の一言がなければ、母さんはいまだに濡れたまんまのお裁縫をしていたかもしれない。

「濡れて汚い」と言われたので、なんとかして濡れないように縫いたいと思って、縫えるようになったんだから、感謝しなければいけないのに、なかなかその感謝ができない。言われたことを、自分は決して忘れられない。人間って悲しいものねって。

その人とはその後も何度も会って、向こうは自分の言ったことは完全に忘れていて、「富子ちゃんが大きくなりましたね。よかったですね、久さんは」なんて言ってくれる。
でも自分の胸の内では、グーッと込み上げる悲しさがあるんですって。

そして私に言いましたよ。
「富子は言葉が悪いから、人に言葉を掛ける時は気をつけなさいね」って。

あなたが何気なく言ったことが、相手を傷つけて一生心に残ることもあるからって。

すごいですね、涙が出てきます。13年か、すごい執念ですね。「・・・とかの一念、岩をも通す」ですね。昔だから今よりもっと偏見があり、生き辛かったでしょうね。



757 独創性

2010-01-20 11:11:04 | Weblog
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757 独創性

今回は、「日本宇宙開発の父」といわれた糸川英夫博士の薫陶を受けた的川泰宣さんのお話より──。

糸川英夫先生はよく「独創力」の大切さについて話されていましたが、一般向けに行われた講演会でこんなことがありました。

先生は、幼い男の子を抱いて前の席で座っているお母さんに
「その子を独創力のある子に育てたいと思いますか?」と聞かれました。

「もちろん」と答えたお母さんに、「そのためにあなたはどう育てるつもりですか?」と聞くと、そのお母さんは

「独創力を発揮するには自由でなければいけないから、この子がやりたいと思ったことは自由にやらせます」と答えました。

先生は天井を見てしばらく考えていましたが
「あなたは数年すると、絶望するでしょうな」と言われたんです(笑)。

「何でも好きにやって独創力がつくのならチンパンジーには皆、独創力がある」と。先生が続けて言われるには「人間には意志というものがあって、自分はこれをやりたい、という思いに固執しなければいけない」と。一旦やりたいと思ったことは、絶対にやり遂げるという気持ちがなければ、やっぱり何もできません。

第一には、一度決心したことは、石にしがみついてでもやり遂げる強い意志が必要だ、と第一に言われました。

第二には、過去にどんな人がいて、何をやったかを徹底的に学習しないとダメだ、と。

アインシュタインは、ニュートンのことを徹底的に学習して、ニュートンが考えることはすべて分かるという状態にまでなった。そうやって初めて、ニュートンの分からないことが分かるようになったんです。

だから過去の人がやったことを決して馬鹿にしてはいけない。これまで先人が残した考えの上に乗っかって、初めて新しいことが生まれる。だから、徹底的に勉強しなきゃいけないと言われました。

第三は、少し意外だったんですが、自分が何か独創力のある凄い仕事をしたと思っていても、世の中が認めなければそのまま埋もれてしまうことになる。

世に認められるためには、他の人とのネットワークをしっかり築いてよい関係をつくっておくことが大事ですと。

先生はその後、

「私は独創力と縁のないことを言ってるように聞こえるかもしれないけれど、世の中の独創力はそうやってできてるんですよ」と話された。
先生はまさしくそれを貫かれたと思うんですね。

同時代の人がやっていることを真似るようなことは決してしないけれども、過去のことは非常によく勉強されていますよ。

糸川先生は、誰も考えなかったことを考えるのが大好きなんですよね。でもその基盤には、自分が正当に継がなきゃいけないものを、物凄くしっかり勉強しているということがあるわけです。

その上に立って、初めて独創力が生まれてくるんだなということは、先生を見ていてよく感じました。


なるほど、目から鱗です。好きなことをやって独創性が身につくなら、チンパンジーはみな独創性がありますね。やっぱりしっかりとした土台がないところには、独創性は身につかないのでしょうね。

以上

756 ダム式経営

2010-01-14 10:04:00 | Weblog
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756 ダム式経営

1960年代半ば、京都で松下幸之助さんの講演会がありました。
講演のテーマは「ダム式経営」

「経営と言うのはダムがいつも一定の水量で満たされているように、不況に備えお金も人も充分な蓄えを持って事業を経営していなければならない」

質疑応答の際、聴衆の1人が
「自分には、余分な資金がない。どうやってダム(蓄え)を作れば良いでしょうか?」と尋ねたのです。

すると幸之助さんは
「まず、蓄えがいると思わなあきまへんなダムはどうしたらできるのか私もよう知りませんのや。
知りませんけども、≪まずはダムを作ろうと強く願うことですわ≫」

あまりにも抽象的な発言に聴衆の人達から失笑が起こり失望し帰る人までいたのですがその失笑が沸き起こる会場の中でたった一人だけこの幸之助さんの発言に「脳天を打ち砕かれるほどの衝撃を受けた!」人がいるのです、この人こそが誰あろう

京セラを創業したばかりの稲盛和夫さんだったのです。
このとき稲盛さんは、そうか!まずは思うことなのかと、脊髄の奥に火が点いたと言っています。

まずは強く思い、行動に移す。これこそが成功への第一歩となりこの後、京セラの快進撃が始まるのです。

「やろうと思ったってできませんのや何か簡単な方法を教えてくれというふうなそういうなまはんかな考えでは事業経営はできない。創造的なアイディアは何かを求めてただ漠然と探している状態では出てこないのです。

問題に直面し悩み苦しんで潜在意識の中にまで浸透し寝ても覚めてもそのことが頭から離れないくらいになってようやくひらめくのです」

  松下 幸之助

同じ話を聞いているのにもかかわらずに成功する人、失敗する人、批判する人、何もしない人、その差は何でしょうか。まずは出来ると肯定的に勘違いし未来の成功した自分の目線で行動してみる。奇跡を起こす為にはまずは強く思うことかもしれませんね。

さすが京セラの稲盛さんですね。一を聞いて百を聞くとはこのことでしょうか。
同じことを聞いても、聞く人によって、なんでこんなにも差が出るのでしょうか。
凡人は百を聞いて一を知るですね。でも、たった一でも前に進めばいいですね。
小生、なんだか氣持ちは進めども、いつも後退しているような?

でも松下幸之助さんも、人が悪いですね。最初からきちんと説明してくれればいいのにねぇ。でも結局いくら説明しても、分かる人にしか分からないのでしょうね。そのことを幸之助さんは、しっかり分かったいたのでしょうね。

以上

755 理想のリーダ

2010-01-12 10:21:41 | Weblog
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755 理想のリーダ 

「本当に大切なものは何かを知る人」
世界の「HONDA」本田技研の創業者本田宗一郎さんのお話です。

1953年、宗一郎さんは最新鋭の機械を海外からいくつか輸入します。
当時のお金で4億円という大金だったそうです。周りから見たら信じられないような額の投資だったそうです。

だから購入する時に、ある人に「会社がつぶれてもいいのか?」と聞かれたそうですが、それに対して宗一郎さんは、「会社はつぶれるかもしれないが、機械そのものは日本に残る。それは必ず日本の産業界に役立つはずだ」と答えます。会社の利益よりも日本の成長を考えているのです。

ところがある日、社員が一番高い機械を壊してしまったんです。その社員は真っ青になり、「あの機会を壊してしまいました・・・」と言ったそうです。

そこで宗一郎さんが言った一言は「ケガはなかったか?」だったそうです。社員は最初、意味がわからなくて、「いや、だから、あの機械を壊してしまったんですよ・・・」と繰り返したところ、宗一郎さんは「仕方がないじゃないか。機械は直せばいい。でも、人は手や足を切り落としてしまったら元には戻らない。人にケガがなかったのが一番だ」

それを聞いて社員は涙を流しながら、こう誓ったそうです。
「この人の元で働けて本当に良かった。この人に一生ついていこう」と・・・

また宗一郎さんは、66歳で退職し、会長職にも就かずに仕事からは一気に離れたそうです。そして何をしたかというと、日本中にあるホンダの事業所700箇所全部、2人しか働いてないような販売店から工場まですべてを回り、すべての従業員と握手して「ありがとう、ありがとう、いつもありがとう!」と言い続けたそうです。

ある時、田舎の販売店で、整備士さんが「宗一郎さんが来た!」と言って喜んでかけよっていき、握手をしようと手を出した時に「あっ!」といって、自分の手が油まみれなのに気づきました。「今、洗ってきます!」と手を洗いに行こうとすると、宗一郎さんは「その油まみれの手がいいんだ」と言って両手で握手し、嬉しそうにその手をながめて、その手の油のにおいをかいだんですって、その整備士さんは感動して涙を流します。そしてそれを見て宗一郎さんも涙を流したそうです。

このように本物のリーダーというのは、多くのことを知っている人ではなく、本当に大切なものは何かを知っている人なのですね。

でもすごいですね、700ヶ所すべて、従業員全員と握手ですか。出来そうでなかなかできないことですね。1日1箇所でも2年間かかりますからね。でも従業員もうれしかったでしょうね。世界のホンダの社長がわざわざ自分に会いに来てくれたなんで。



754 ハンディキャップ

2010-01-06 09:26:48 | Weblog
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754 ハンディキャップ 

NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の最長FG(フィールドゴール)63ヤードの記録を持っているのは、トム・デンプシーとジェイソン・イーラム(デンバー・ブロンコス)という選手です。

1970年まで、当時の最長FGの記録は56ヤードでした。その記録を破ったのはトム・デンプシー(ニュ-オリンズ・セインツに所属)1970年11月8日、セインツの本拠地・テュレーン・スタジアム。相手は強豪・デトロイト・ライオンズ。実際に、この年は10勝4敗でプレーオフに進出したチームです。

この日のセインツは強豪相手に善戦も劣勢。TD(タッチダウン)はなく得点は3FGの12点のみ。試合時間はのこりわずか、最後の1プレーを残し16-17で負けていました。ボールは自陣45ヤード、チームは最後の1プレーをキッカーのデンプシーに賭けたのです。

その地点は自陣37ヤード。センターからロングスナップがされる、ボールはまっすぐホルダーの手に、ホルダーもしっかりボールをセット。デンプシーの【右足】は力強くボールを蹴る。蹴られたボールはまっすぐにゴールポストに向かう。ボールはクロスバーのわずか上を通過、審判の両手が上に上がる。

“Kick is good!” 63ヤードの最長FG記録が出た瞬間であり、19-17のスコアでタイムアップ寸前に逆転勝利を収めた瞬間でもあったのです。

ところで、ここでお伝えしたいことはこれから書くことです。
トム・デンプシーはこのように語っている。
「私は素晴らしい両親に恵まれて幸運だった。両親はハンディキャップを理由に私の行動に制限を加えることはなかった」

実はトムにはハンディキャップがあったのです。
そうです。
トムはうまれつき左手の肘から先と右足(利き足)のつま先の部分がなかったのです。そのため右足には特別のシューズを履いてキックしたのです。

来る日も来る日も。そもそもスポーツには向かない、と諦めてしまうのが普通でしょう。ところが、大学時代はキッカーだけでなくディフェンスのラインマンでもあったというから驚きですね。

そして大学時代は大活躍するのですが、やはりハンディキャップを背負っています。そのためプロを目指しますが、実力はあるにも関わらず

どこも取り合ってくれません。それでも彼は諦めません。ハンディキャップを理由にはしなかったのです。ついに新設チームに所属することとなり、大記録を打ち立てるまでになったのです。

彼は不運やできない理由・言い訳を上げればいくらでも上げられたことでしょう。一生、言い訳もできたでしょう。

でも
私は素晴らしい両親に恵まれて幸運だった。
両親はハンディキャップを理由に私の行動に制限を加えることはなかった。
学校で体力測定が行われたときも、『お前には無理だ』とは決して言わなかった。
ハンディキャップとは、挑戦の対象であり、絶対に言いわけの理由にしてはいけないと教えてくれた。

だから、私は、子供の頃からやりたいと思ったすべての事に対し、決してあきらめることなく挑戦してこれたのだ

誰しも何らかのハンディキャップを抱えていると言えるでしょう。人からとても羨ましく思われる方であっても何かしら、、、でもそれを挑戦の対象として捉えられる時、ハンディキャップさえ福音に変えることも可能なのですね。

何か挑戦しようとする時に言い訳や諦めがでてきた時、また不運だな、と思うことが起こった時、、、、トムの話を思い出したいものです。

すごいですね、小生、条件の悪いこと(もちろん、条件のいいときは黙っています)を言い訳にするのは得意なんですが・・・。
ハンディキャップを言い訳じゃなくて、挑戦の対象にするとは・・・。
なかなか出来ないことですよね・・・。