気まぐれ剣士の言いたい放題
206 あなたは私の鏡
わたしたちが感覚するものは、わがうちに宿っているものが、対象に照らし合わされてはじめて自覚となるようです。
たとえば絵を鑑賞したとします。
絵心がない人にはその絵の「美」が本当にわかりません。名画はそれ自身が「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていないと、その「美」がわからないそうです。
すべてそこに「何か」があることがわかるのは、自分のうちにあるものをその対象物に見いだしているからです。
「善」においても同じことがいえます。道徳心が養われていない人には、他の人の善き行いを見ても感心することはできません。自分に無いものを相手がいくら持っていても、それがわからないのです。
それと反対に、他人の「悪」が目につくということは、必ず自分の心情に悪がある証拠です。だから「あいつ悪いやつだ」と気づいたら、「それは自分の心に悪があるからだな」と思えば間違いないですね。
ベートーヴェンは、
「憎しみは、それをいだいた人間の上にかえってくる」と言っています。人の悪を憎むことは、自分の心にある悪を認めることになります。従って、自分の心のフィルムに悪を焼き付けることになります。そうなると間違いなく自分の上にかえってきますね。
気まぐれ剣士も芸術作品の良さはまったく分かりません。その素養がないから当たり前ですね。やはり自分にないものは、「美」でも「善」でも「悪」でも分かりません。自分の心に善しかない人は、悪という概念がないから、他人の悪を責めることがありません。
気まぐれ剣士の周りの人は皆良い人ばっかりです。言いたい放題を読んでくれる人に悪い人はいません。そう思える気まぐれ剣士もきっといい人なんでしょう(自画自賛してます)?
そういえば、気まぐれ剣士のお気に入りの鮫胴も、女房殿には単なる防具にしか見えないのでしょうね。
ごもっともです。
次回もお楽しみに
以上
206 あなたは私の鏡
わたしたちが感覚するものは、わがうちに宿っているものが、対象に照らし合わされてはじめて自覚となるようです。
たとえば絵を鑑賞したとします。
絵心がない人にはその絵の「美」が本当にわかりません。名画はそれ自身が「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていないと、その「美」がわからないそうです。
すべてそこに「何か」があることがわかるのは、自分のうちにあるものをその対象物に見いだしているからです。
「善」においても同じことがいえます。道徳心が養われていない人には、他の人の善き行いを見ても感心することはできません。自分に無いものを相手がいくら持っていても、それがわからないのです。
それと反対に、他人の「悪」が目につくということは、必ず自分の心情に悪がある証拠です。だから「あいつ悪いやつだ」と気づいたら、「それは自分の心に悪があるからだな」と思えば間違いないですね。
ベートーヴェンは、
「憎しみは、それをいだいた人間の上にかえってくる」と言っています。人の悪を憎むことは、自分の心にある悪を認めることになります。従って、自分の心のフィルムに悪を焼き付けることになります。そうなると間違いなく自分の上にかえってきますね。
気まぐれ剣士も芸術作品の良さはまったく分かりません。その素養がないから当たり前ですね。やはり自分にないものは、「美」でも「善」でも「悪」でも分かりません。自分の心に善しかない人は、悪という概念がないから、他人の悪を責めることがありません。
気まぐれ剣士の周りの人は皆良い人ばっかりです。言いたい放題を読んでくれる人に悪い人はいません。そう思える気まぐれ剣士もきっといい人なんでしょう(自画自賛してます)?
そういえば、気まぐれ剣士のお気に入りの鮫胴も、女房殿には単なる防具にしか見えないのでしょうね。
ごもっともです。
次回もお楽しみに
以上