風の樹人日記

写真付きで日記や趣味を書く

可愛いネジ花。

2012年06月25日 | アート・文化

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  ねじ花が美術館の芝のあちこちで咲き始めました。

  芝の間から茎をのばし、ピンクの花を茎の捻じれに合わせて付けて行きます。

  小さな花ですが、何となく勢いを感じて、雑草とは言え捨て難い花です。

  庭などにも移植して見たことが何度かあるのですが、根付きません。

  もちろん酸性度とか、土質の違いで、適地かどうかが決まるのでしょうね。

      そう云えば、人間だって、今住んでいる土地に住み続けているのですか2012623_001ら。

   何代も同じ所に近隣の人たちも同じように住み続けている私の家のある付近は、町の形が昔のまま残っています。

   きっと、昔は住みやすかってのでしょうね。

   長屋や、路地を縫った突き当たりに駐在所と今でも読んでいる交番があったり、土塀が所々に残っていたりします。

   家族工業として営まれていた織物工場のノコギリ屋根もたくさん残っています。

   梅雨の合間の露地に、光が差し込んできます。

   子供たちの声も珍しくなっています。あの喧噪の満ちていた家並は、すっかり静かな昔を蓄えています。

   「住んで良かったこの町」が、市が提唱した、コミュニティを大切にした町づくりのコンセプトでしたが、グローバル化が浸透した今では、単なる「キャッチフレーズ」になってしまいました。

      でも、私は、このgemeinschaft社会で暮らし続けてきました。 この風情を自分の棲み処としてじっくり生活を続けて行こうと、今更ながら心しているのです。

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 atelierの100号カンバスは、大きく変化してしまいました。

      これで好いか   と思っていながらどんどん変わっていく画面が、私の心の居場所の推移なのです。

 


60回記念「市展」のためのポスター原画。

2012年06月24日 | アート・文化

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 市役所からposter design の指示がありました。

思えば、私も随分想いを込めて、何年も関わって来た「市展」です。

 市制制定と同時に立ち上がった「市展」です。  その頃は先人たちの感度が良かったのでしょうか? 他市が、市制定時には立ちあがれなかった中で、寸刻の感激もなく、その必要性を主張した方があった筈なのです。

 私なども、まだ中学生だった筈なのです。  横尾忠則さんだって、出品した年は高校生になったばかりだった筈ですから・・。

 でも2-3年後には受賞者名簿に残っています。

 かって、津高和一、ハナヤ勘兵衛、中西勝、榎倉香邨、貝原六一、大橋良一など著名な審査員を迎えて審査に加わって戴いているのを見ても伝統を感じます。

 その「市展」が今年60回を迎えるのです。

  今年は、殆どの部門で、新しく審査に関わって戴くことに、実行委員会から審査員の内諾を戴いたようです。

  そのポスターですから、楽しみながらdesignすることにしました。

  インフォメーションもさることながら、「市展」の開催に寄せた関係者の思いが、幾層にも重なって今日までやって来たんだとの思いが伝わるポスターにしたいと思うのです。

  今回は、町の人々のこの「展」への想い入れを、平明なコピーで刷り込もうと思っています。

昨日の子供のatelier」は、共同制作でした。  相変わらず、奔放なグループをリーダーが指示しながら纏めています。

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  ただ、子供たちは、グループ制作よりも、自分の世界にのめり込むのが好きなようです。  グループ制作も慣れっこになってしまって、やや冗漫な側面が見えてきました。2012623_013_3

  来月から、少しグループ制作の回数を少なくすることにしようかと思うほど・・。


atelierは、作業の現場です。

2012年06月23日 | アート・文化

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 作業の現場とは、「やりたいこと」を充分出来るように環境を整えることが必要です。

 「あれも要るこれもいる」と準備をしている内に、どんどんモノが増えて行きます。

   足の踏み場もないような事になって、少し片付けると、今度は必要なものが見つかりません。片付け過ぎたのでしょう。  あるいは、意識しないで片付けているものですから、なんの気なしに物を移動しているだけのような事になっているのです。

   これでは「片付けたこと」には成っていないのです。

   つまり、片付けることを「怠けている」のです。

 五味太郎絵本作家の言葉を借りると、「怠けている」のです。

彼の本で「怠けるということ」の項を掲示して見ましょう。

  ★怠けると云うこと

 「昼間からソファで、ゴロゴロしているのや、机の前でポーとしているのは、ゴロゴロするとかポートするのをしているのですから、特に怠けているのではありません。

     例えば、夏→夏休み→プール、としか考えないような事、TVで話題のラーメン屋に並ぶこと、真面目に会社に通うこと、上司に言われたことをそのままやること、折り合いを付けて結婚すること、などを怠けると云うのです。 」  と。

 解説f

は明快です。  昨日は、この空間でポーとしていました。怠けていないのですから安心したのです。

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    atelierの玄関へ、先だって作った大きな「居そうで居ない動物」を運んで見ました。

  意外にいい雰囲気で、環境に馴染んでいます。

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   ボートして居る間に、ほんの一寸塗り込みを進めました。

   何となく具体的な形が出て来たようです。  描こうとしているのは「空間」ですのに。

 進化」しているのか「後退」しているのか・・・。

      でも、間違いなく「変化」しているのです。

          「動的平衡」そのものなのです。  「言葉遊び」になりました。

 

 

 


「動的な平衡状態にあるシステムを生命」と呼ぶのです。

2012年06月22日 | アート・文化

シェーンハイマーと言う科学者が名付けたのです。

愛読している福岡伸一の著書で、私は知ったのですが、「分子的な身体は≪流れ≫でしかなく、その流れの中で、私たちの身体は変化しつつもかろうじて一定の状態を保っている。」それを「生きている」と言うと定義しています。

 解り易い話だと、私はこの解説に、痛く感銘を受けたのでした。 

可変的な生命と言うシステムは、物質的な分子と言う構造基盤にではなく、≪流れ≫に寄りかかっているのだと云う説明です。

  そんな考え方に納得しながら、村山斉の「宇宙論」、笹山英俊の「素粒子の解説」、小柴ノーベル賞科学者の「ニュートリノ」、ひいては故戸塚東大教授の「ニュートリノに質量がある」という発見。  だから新井満の「千の風」への怒りの言葉に繋がって、大衆紙「文芸春秋」で

長文の論評に発展したのでした。

  途方もない大きな話「宇宙」が、「宇宙は本当にひとつなのか」と言う新書が出て、「モノやことが、あるかないか」や、「時間論」などに展開します。  難しいようですが、読んでみると意外に読めるものです。  何か考えが広がっていくようで、このところ、夢のような実感の伴わないことばかり考えているのです。

  そんなある日、いつも世話になっている役所の課長の机の上に「センス・オブ・ワンダーを探して」と言う、福岡伸一の対談書が置かれているのに目が止まりました。 やっぱり出来る人なんだと、再確認したのです。 余談ですが・・。

  atelierのM100号も、少しは進んでいますが、随分想いと異なった方向へ進んでいます。

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       ここまで進んだところへ、信頼をしている若いA君がやって来ました。 と言っても、もう壮年ですが・・。

   「うつ病に罹って、療養休職しています。」「漸く来ることが出来ました。もう1カ月だけ延長して貰おうと思うほど平常に近づきました。」と言うのです。

   この有能と思っていた人が、何故?と、じっくり話を聞き続けたのです。

   現代と言う時代が、「うつ」と診断されるほどの精神を病む人たちを、周辺にもたくさん産んでいくのでしょうね。   「しょっちゅう立ち寄って下さいよ」と声をかけると「病んで以来、今日が初めての外出でした」「必ず立ち寄らせて戴きます」と、もう何か月も出会っていない前の状態に戻っているようでした。   一緒に寛快の日を待ちたいと思います。

     今日も、変なブログになりました。


直木賞作家を読み繋いでいます。

2012年06月21日 | アート・文化

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  今日も朝方まで、未明から直木賞作家の小説を読んでいました。

   読書にも時間がかかるようになってしまっています。  しかも、現代社会の生活の中での悩みと楽しみとでも云える生き方のあれこれをテーマに、主人公たちが変化して行く物語です。

   随分文学も変わって来たのは承知の上とはいえ、やはり人の心の葛藤のあり方が私たち世代とは随分違うのです。

   atelierでの制作の間「江藤淳の夏目漱石論」を流していたものですから、明治から大正期の文豪が沢山出た時代とは「文学」の位置づけすら全く変わって来たのでしょうね。

 あれれれ。 コンポのCD再生が不調です。

  こんな機器まで、老齢化してしまったようです。

   何冊か読み続けている女流作家YMなどは、男女の心の絡みや歪みを、心理描写を緻密にする妙が「売り」なのです。   

   この頃は、私にとっては、今まで読んだことの無かったような領域の、意外な小説も思いがけなく読んでいます。  廉価古書店で、書架に沢山並んでいる現代作家の本を、抜き買いして読んでいるのです。  つまり人気作家なのでしょうね。

 

 

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  F10号の「花」が進んでいます。

  油が上手く馴染みません。 長い間アクリルで描き続けていたものですから、油の扱いの「勘」が戻って来ないのです。

  やはり使い慣れたアクリルの方が思うように描けそうです。 とはいえ「油絵具」の味が一番です。  もう何枚か「油絵具」で続けてみましょう。

      パレットに絞り出した絵の具が、そのままでも美しいのですもの。

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    M100号も、メチエづくりが進んでいます。  今回のパターンは、かなり鮮明にイメージ出来ているのです。

    どんな仕上がりになるのでしょうね。