当りー!です。
だから反省しています。
もう少し進めてみましょう。 コメントを!
● 消費、循環、再生、なんて もそもそ唱えるながら、その存在の無駄については棚上げにしているような馬鹿。 本来馬鹿は元気なモノだけれど、この馬鹿は元気がありません。
● ダメダメダメ、とにかくダメ。ダメと言っておけばとりあえず、己の馬鹿が露呈しないと云うことを馬鹿なりに知っている馬鹿。
ときどき勘違いされて、一徹者なんて呼ばれて、ますますこの方式が固まってしまう馬鹿。
● ダブリュダブリュダブリュ、スラッシュスラッシュ、アットマーク ドットドット スラッシュ、ドットの馬鹿。 なにしろ馬鹿。
ワールドワイドウェッブな馬鹿。 他に言いようのない馬鹿スラッシュ馬鹿ドット。
いやー身に沁みますね、五味太郎さん。
● 馬鹿はときどき頭を使います。 でもその脳は借り物だったり、ローン返済中だったり、あるいは模造品だったりするので、そう思いっきり使うわけにはゆきません。
● 馬鹿はときどき憂鬱になることがあります。 でもその漢字 は、いつになっても書けません。
● 馬鹿はときどき哲学します。 馬鹿について考えます。
馬鹿が馬鹿について考えるわけです。 あまり期待が持てません。
● 「ありのままの馬鹿として、まず自己認識することから、はじめましょう」などと馬鹿な事を云う馬鹿が ときどきいます。 そんなこと本気でしたら、すべておしまいです。
この辺りでお仕舞にしましょう、というのは私の意見です。
五味太郎さんの著書は、沢山蔵書の中にあります。 いずれまたの機会に・・。
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私たちの会話の中でも、この種の話が充満しています。
先だっても、絵を学ぼうとする仲間達が集まっていて「セザンヌ」が東京の国立新美術館で「セザンヌ」だけを展示した展覧会が介されていました。
「セザンヌ」と云えば「セントビクトワール山」「カード遊びをする人々」「大水浴図」「リンゴの籠のある静物」などが話題になって、「自然は円と球、円錐で描くと好いでしょう」という有名な言葉があります。 私の記憶に残っているのは、弟子の「山の緑色はどのように塗ればいいでしょう?」との質問に「あなたはどんな色に見えますが?あなたの一番好きな緑色に塗ればいいのです」という言葉です。
そんな話を深めている間に、私の同年代のMさんが「中学生の頃に見たセザンヌの画集を買ったこと」゜「当時からその本を大切にしていること」「エミール・ゾラと友達だったこと」「ちょっと付き合いの悪い人だったこと」「私も人と上手に付き合えないこと」と始まって、自分の少女期の話になってしまい、微に入り際に亘ってその話を続けます。
そうなんです。私たちの齢になると、つい自分の土俵に話を変えてしまう「愚」あるいは「馬鹿」になってしまうのです。 注意したいと思いながら私もその「愚」の坩堝に嵌まってしまっているようです。 注意注意 !
昨日のハガキ絵にも「愚」が満ちています。 馬鹿図鑑の影響でしょうかね。