都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
ウィーン国立歌劇場来日公演2008 「ドニゼッティ:ロベルト・デヴェリュー」 ハイダー
ウィーン国立歌劇場来日公演2008
ドニゼッティ ロベルト・デヴェリュー(演奏会方式)
キャスト
エリザベッタ エディタ・グルベローヴァ
サラ ナディア・クラステヴァ
ロベルト ホセ・ブロス
ノッティンガム公爵 ロベルト・フロンターリ
管弦楽 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
合唱 ウィーン国立歌劇場合唱団
指揮 フリードリッヒ・ハイダー
2008/11/4 18:30 東京文化会館
「全てはグルベローヴァのためにあった。」としても過言ではありません。この上ないキャストでの「ロベルト・デヴェリュー」です。ウィーン国立歌劇場の来日公演を聴いてきました。
単にはまり役としてしまうには言葉が足りません。文化会館のステージに君臨していたのは、時代を超えてやって来たエリザベッタそのものでした。グルベローヴァは、敢然たる地位にありながらも恋に揺れ、また嫉妬心と復讐心に苛まれる女王の姿を、抜群の歌唱と演技にて完全に自家薬籠中のものとしています。確かにその歌声においては、例えばかつて頻繁にこなしていた「後宮からの逃走」のコンスタンツェ役のような、宝石の煌めきをも連想させる輝かしいコロラトゥーラこそ望めませんが、歌というよりも台詞をそのまま聴くかのような凄みのある発声と、また絶妙なブレスが、もはやドニゼッティの付けた音楽を超えた部分にまで踏み込んだエリザベッタ像を作りあげていました。第一幕で逡巡する彼女は第二幕で一転、激しい怒りを露にしながら死刑判決を告げますが、その際のあまりにも恐ろしい「行け!」は、ロベルトだけではなく、客席の全てまでを呪って凍り付かせるかのような迫力に満ち溢れています。また第三幕、ロベルトの処刑の後で歌われる大アリアでは、取り乱した人間の見せる脆さと、その反面の女王としての気高さを失うまいとする、単に悲劇的な「狂乱の場」に収まらない、人間の多面的な深みを見事に表していました。演奏会方式にも関わらず、眼前に16世紀のイギリス王室の憎悪劇が本当に繰り広げられているように錯覚したのは私だけでしょうか。これほど声に役者を感じるオペラ歌手を初めて知りました。グルベローヴァがエリザベッタなのです。
(NBSより)
このまま続けるとグルベローヴァの印象だけで感想が終わってしまいますが、次点で存在感を発揮していたのは、ロベルトのホセ・ブロスでしょう。別格のグルベローヴァを除いても、他主役級3名は皆、高いレベルにある歌唱を披露していましたが、その中で最も説得力のあったのがホセに他なりません。ソフトでありながらも、張りのある強い歌が実に見事でした。またやや一本調子になってしまう嫌いはありましたが、サラのクラステヴァとノッティンガムのフロンターリも十分に務めを果たしていたと思います。もちろんグルベローヴァを含め、歌手においては今、国内で聴ける最高のドニゼッティであったことは言うまでもありません。
そのような充実極まりない歌手陣に対し、いささか分が悪かったのはオーケストラではなかったでしょうか。管弦楽は尻上がりに調子をあげ、とりわけ機動力のある弦によって、情景を浮かび上がらせる様子はさすがウィーンとしか言いようがありませんが、管をはじめとして、細かい部分においてかなり粗が目立つように思えました。このオペラの、また一回の公演でオーケストラの実力を判断するのはナンセンスですが、僅かながらもこれまでに聴いて来た海外有名歌劇場のそれに比べ、少し落ちるのではないかというのが率直な感想です。たまたまこの日は調子が悪かっただけかもしれませんが、覇気のない序曲などはどうも納得出来ませんでした。
もちろんそのようなオーケストラの問題は、指揮のハイダーに由来する部分も多分にありそうです。さすがにベルカント・オペラの巨匠ということで、歌手の呼吸に合わせた指揮は安定していますが、テンポにメリハリこそありがらも、重唱などのいくつかの聴かせどころを簡単に流してしまうのはやや物足りなく思えました。歌が全てのドニゼッティとは言え、この作品の筋はヴェルディ的なドラマテックな要素も強く、もっと腰の据えた、それこそグルベローヴァだけに重きを置かない、四隅の揃った構成感のある演奏の方がより良かったのではないでしょうか。グルベローヴァの絶大な存在感だけでも唯一無比な公演であることは間違いありませんが、ドニゼッティでもとりわけ良く出来た「劇」としての面白さだけを味わうには、ひょっとすると及第点にまで至らなかったかもしれません。
最後の合唱がカットされていたのは何か理由があるのでしょうか。エリザベッタが一人で歌う分、孤立した彼女の悲劇性を高めるには最良でしたが、やはり依然として切り離せない女王としての宿命性が影薄くなってしまいます。私はあった方が断然好きです。
Roberto Devereux Finale opera
極限のピアニッシモにも関わらず、鋼のような芯の通ったグルベローヴァの歌唱は忘れられそうもありません。そういう意味においては、まさに一期一会となるコンサートでした。
ドニゼッティ ロベルト・デヴェリュー(演奏会方式)
キャスト
エリザベッタ エディタ・グルベローヴァ
サラ ナディア・クラステヴァ
ロベルト ホセ・ブロス
ノッティンガム公爵 ロベルト・フロンターリ
管弦楽 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
合唱 ウィーン国立歌劇場合唱団
指揮 フリードリッヒ・ハイダー
2008/11/4 18:30 東京文化会館
「全てはグルベローヴァのためにあった。」としても過言ではありません。この上ないキャストでの「ロベルト・デヴェリュー」です。ウィーン国立歌劇場の来日公演を聴いてきました。
単にはまり役としてしまうには言葉が足りません。文化会館のステージに君臨していたのは、時代を超えてやって来たエリザベッタそのものでした。グルベローヴァは、敢然たる地位にありながらも恋に揺れ、また嫉妬心と復讐心に苛まれる女王の姿を、抜群の歌唱と演技にて完全に自家薬籠中のものとしています。確かにその歌声においては、例えばかつて頻繁にこなしていた「後宮からの逃走」のコンスタンツェ役のような、宝石の煌めきをも連想させる輝かしいコロラトゥーラこそ望めませんが、歌というよりも台詞をそのまま聴くかのような凄みのある発声と、また絶妙なブレスが、もはやドニゼッティの付けた音楽を超えた部分にまで踏み込んだエリザベッタ像を作りあげていました。第一幕で逡巡する彼女は第二幕で一転、激しい怒りを露にしながら死刑判決を告げますが、その際のあまりにも恐ろしい「行け!」は、ロベルトだけではなく、客席の全てまでを呪って凍り付かせるかのような迫力に満ち溢れています。また第三幕、ロベルトの処刑の後で歌われる大アリアでは、取り乱した人間の見せる脆さと、その反面の女王としての気高さを失うまいとする、単に悲劇的な「狂乱の場」に収まらない、人間の多面的な深みを見事に表していました。演奏会方式にも関わらず、眼前に16世紀のイギリス王室の憎悪劇が本当に繰り広げられているように錯覚したのは私だけでしょうか。これほど声に役者を感じるオペラ歌手を初めて知りました。グルベローヴァがエリザベッタなのです。
(NBSより)
このまま続けるとグルベローヴァの印象だけで感想が終わってしまいますが、次点で存在感を発揮していたのは、ロベルトのホセ・ブロスでしょう。別格のグルベローヴァを除いても、他主役級3名は皆、高いレベルにある歌唱を披露していましたが、その中で最も説得力のあったのがホセに他なりません。ソフトでありながらも、張りのある強い歌が実に見事でした。またやや一本調子になってしまう嫌いはありましたが、サラのクラステヴァとノッティンガムのフロンターリも十分に務めを果たしていたと思います。もちろんグルベローヴァを含め、歌手においては今、国内で聴ける最高のドニゼッティであったことは言うまでもありません。
そのような充実極まりない歌手陣に対し、いささか分が悪かったのはオーケストラではなかったでしょうか。管弦楽は尻上がりに調子をあげ、とりわけ機動力のある弦によって、情景を浮かび上がらせる様子はさすがウィーンとしか言いようがありませんが、管をはじめとして、細かい部分においてかなり粗が目立つように思えました。このオペラの、また一回の公演でオーケストラの実力を判断するのはナンセンスですが、僅かながらもこれまでに聴いて来た海外有名歌劇場のそれに比べ、少し落ちるのではないかというのが率直な感想です。たまたまこの日は調子が悪かっただけかもしれませんが、覇気のない序曲などはどうも納得出来ませんでした。
もちろんそのようなオーケストラの問題は、指揮のハイダーに由来する部分も多分にありそうです。さすがにベルカント・オペラの巨匠ということで、歌手の呼吸に合わせた指揮は安定していますが、テンポにメリハリこそありがらも、重唱などのいくつかの聴かせどころを簡単に流してしまうのはやや物足りなく思えました。歌が全てのドニゼッティとは言え、この作品の筋はヴェルディ的なドラマテックな要素も強く、もっと腰の据えた、それこそグルベローヴァだけに重きを置かない、四隅の揃った構成感のある演奏の方がより良かったのではないでしょうか。グルベローヴァの絶大な存在感だけでも唯一無比な公演であることは間違いありませんが、ドニゼッティでもとりわけ良く出来た「劇」としての面白さだけを味わうには、ひょっとすると及第点にまで至らなかったかもしれません。
最後の合唱がカットされていたのは何か理由があるのでしょうか。エリザベッタが一人で歌う分、孤立した彼女の悲劇性を高めるには最良でしたが、やはり依然として切り離せない女王としての宿命性が影薄くなってしまいます。私はあった方が断然好きです。
Roberto Devereux Finale opera
極限のピアニッシモにも関わらず、鋼のような芯の通ったグルベローヴァの歌唱は忘れられそうもありません。そういう意味においては、まさに一期一会となるコンサートでした。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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…言葉が見つかりません。
貧弱な語彙を絞り出しながら一応記事を書いてみたのですが、
どうも納得いきません。
それだけグルベローヴァはすごかったです。
終演後8時間も経つのにぼーっとしちゃいますね。
いい経験をさせてもらいました。
最後の合唱カットはやはりエリザベッタの悲劇を強調する為の演出でしょう。
わたしはなくてもOKでした。
>どうも納得いきません。
あの圧倒的な歌唱を前にすると、本当に言葉が見つかりませんよね。
感激とか感銘とかそういう部分を通り越した何かがありました。
余韻、私もまだ残っています。
極限のピアニッシモにも関わらず、ずしりと体に迫るような素晴らしい美声。
一生忘れそうもありません。