「染付誕生400年」 根津美術館

根津美術館
「コレクション展 染付誕生400年」 
1/7~2/19



根津美術館で開催中の「コレクション展 染付誕生400年」を見てきました。

有田焼として知られる肥前磁器がはじまったのは、今から約400年前(1616年)、朝鮮から来た陶工、李参平が肥前で焼成に成功したことでした。


「染付鷺矢羽根文皿」 肥前 江戸時代・17世紀 根津美術館

冒頭から水色の世界が広がります。「染付鷺矢羽根文皿」はどうでしょうか。取り囲むのは矢羽根文。まるで花びらのように開いています。中央に立つのが鷺です。なぜか片足でした。可愛らしい。鷺は肥前磁器の定番模様です。最初期の作品と考えられています。

色絵が誕生したのは染付から30年経ってからのことでした。ちょうどその頃、中国では明から清へと移行します。動乱を嫌ったのでしょうか。高い技術を持った中国の陶工が、数多く日本へ渡って来たそうです。


「染付流水菊花文稜花鉢」 肥前 江戸時代 17世紀 根津美術館

そうした技巧の表れと言えるかもしれません。「染付流水菊花文稜花鉢」が魅惑的でした。中央には水が流れ、菊の花が浮いています。その周縁の表現が独特です。というのも、垣や竹、梅などが器の形に沿って斜めに傾いています。線はいずれも細い。確かに先の鷺の染付と比べると、技術として進展しているように見えました。


「染付雪柴垣文軍配形皿」 肥前 江戸時代 17世紀 根津美術館

肥前磁器の模様は次第に和様化します。一例が「染付雪柴垣文軍配形皿」です。まさしく形自体が軍配です。垣にはこんもりと雪が降り積もっています。興味深いのは放射状の文様です。大きく2つ、さも花火のような円を描いています。解説には雪の結晶と記されていましたが、まるで光を表しているかのようでした。

中国の政策転換が一つの契機でした。1654年、中国は海禁令により磁器の輸出を停止。代わって日本の肥前磁器がヨーロッパで求められます。最盛期は1660年から1680年の20年間でした。彼の地での需要に応えるためでしょう。作品は大型化します。公式の記録では8万5千もの肥前磁器が海を渡ったそうです。


「色絵寿字文独楽形鉢」 肥前 江戸時代 17-18世紀 根津美術館

水色に滲む染付の一方、金や赤をあしらった金襴手も肥前磁器の魅力の一つです。うち見事なのは「色絵牡丹花瓶文皿」でした。直径は54センチと大きい。赤絵に金彩を用いて牡丹の花を描いています。皿の四方に何やら金属の爪がありました。これはヨーロッパで吊るして飾るためのものです。

ラストは鍋島への展開でした。実のところ私も肥前で一番好きなのが鍋島です。優美な佇まいながらも、時に斬新に表現されるデザインに見惚れてしまいます。肥前磁器だけで120点超。いずれも1998年に実業家の山本正之氏から寄贈を受けたコレクションです。どちらかといえば小ぶりの作品が多いのも特徴です。おそらく多くは実際に使われていたのではないでしょうか。


「百椿図」 伝狩野山楽 江戸時代 17世紀

さて染付に次ぐコレクション展にも思いがけない優品が展示されていました。それが伝狩野山楽の「百椿図」です。さながら椿の百様態とも呼べるでしょう。全部で100種以上もの椿が描かれています。実に鮮やかです。2巻のうちかなり開いていました。

さらに「再会ー興福寺の梵天・帝釈天」も見逃せません。元は興福寺にあった2躯の仏像、梵天と帝釈天が、何と112年ぶりの邂逅を果たしました。


制作は仏師の定慶。13世紀の作品です。長らく興福寺の東宮堂に安置されていましたが、いわゆる明治の廃仏毀釈のあおりを受け、帝釈天が寺外へ流出。益田鈍翁の手を経て、根津美術館におさめられました。

梵天の顔立ちはやや険しい。口をややつぼめています。一方の帝釈天の表情は温和です。口元も緩く、僅かに笑みを浮かべているようにさえ見えました。ともに堂々たる体躯です。着衣の質感も重厚。彩色が残る様子も確認出来ました。



染付、百椿図、さらに仏像と盛りだくさんの展覧会です。あわせて楽しめました。

2月19日まで開催されています。

「コレクション展 染付誕生400年」 根津美術館@nezumuseum
会期:1月7日(土)~2月19日(日)
休館:月曜日。但し1月9日(月・祝)は開館。翌10日(火)は休館。
時間:10:00~17:00。
 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般1100円、学生800円、中学生以下無料。
住所:港区南青山6-5-1
交通:東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線表参道駅A5出口より徒歩8分。
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