平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

馬鹿とダメには底がない~死の樹の住人

2014-07-17 03:00:39 | 古代史と聖書
 7月17日は、ノアの箱船がアララト山に漂着した記念日です。これが祇園祭に受け継がれ、浅田真央のお姉さんの舞さんの誕生日と重なっています。明日の18日は日立リヴァーレの佐藤あり紗さんの誕生日。←書くとまた女神の祟りが恐いけど、スワローズはオールスターで試合ないし(16日も負けた orz)。

 さて、予告した「馬鹿とダメには底がない」というテーマ。賢い人は薄々感じているというか、口に出すと差別と非難されるから黙っているというか、昔から底抜けの馬鹿という表現があったほどですから、やはり絶対に真実なのです。今回は、その理由を説明します。

 まず、知恵は神から来るという基本が大切です。また、正しい知識も神からもたらされる。知恵を有して正しい知識を備えた人は、神の手先となって人を導く事が要求されます。要するに羊飼いとなるわけです。

 羊飼いは羊が迷子にならないように気を遣い、また狼などに襲われないように守らなくてはなりません。この仕事をまっとうすることで、羊飼いは神の国への階段を登っているわけです。

 ところが、邪悪な知識と邪悪な知恵を持ったサタンが羊や羊飼いを誘惑します。要するに堕落させようとするわけです。このサタンの誘惑に従った者は、世の中が正反対に見えるという現象に陥ります。

 人の忠告は聞かない。努力を放棄する。言い訳をする。何事も人のせいにする。無闇に頑固。一攫千金を夢見る。神への奉仕をしない。アンチ活動をする。人を自分と同じように不幸な境遇に落とそうとする。表情が暗い。物事に対する姿勢が悪い。

 これは傍目から見た印象で、当の本人は努力しても報われないなどと思っているのです。自分では一生懸命に努力しているつもり。不遇なのは社会が悪い、親兄弟が悪い、果ては神が悪いとか神はいないなどと言い出します。

 このような正反対を説明するには、カッバーラの生命の樹と死の樹の構造の違いが打って付けです。生命の樹と死の樹の両方を1枚に描いてみました。


右クリックで画像だけ表示

 この図で分かるように、死の樹は生命の樹のでんぐり返しになっています。左右の鏡像反転でもなく、上下の鏡像反転でもない、左か右に180度も回転した状態が死の樹の特徴です。逆さまになっていても、鏡像反転なら生命の樹のままなのです。

 このように、生命の樹と死の樹の構造は極めてよく似ているので、どちらの木を登って(あるいは降りて)いるのかは自分では分からなくなることがあります。いや、大半の人は生命の樹を登っているつもりなのです。しかし、現実は生命の樹を登っている人は人類の数%だけ。実に多くの人は死の樹に安住しているのです。

 神に逆らって、生命の樹から真っ逆さまに転落すれば、死の樹の正反対側に堕ちます。生命の樹で高い所にいた人は、死の樹の正反対側の地獄の深い所に堕ちるのです。この典型がサタンで、サタンはルシフェルと讃えられた光の天使でした。しかし御父に戦いを挑み、天界から追放されて死の樹のトップ(一番下の反ケテル)に居座ることになったのです。

 人間の大半は、死の樹のヒエラルキー(階層)で一番弱小の反マルクトにいます。恨んだり、不平を言ったり、怠けたり、諦めたりする人たちの棲家です。拝金主義や物質欲は反イェソド。もう少しタチが悪くなって、反日左翼、売国、麻薬や脱法ドラッグ、軽犯罪、暴力、などは反ホドや反ネツァクで、酷いのになると反ティファレトで醜悪になります。

 自殺は神が許してないので、自殺願望は反ネツァクの逃避となります。鬱病が霊の病気だというのは、常に自殺願望や逃避が症状として現れるからです。鬱病者は反ネツァクだから、相当に努力しないと死の樹の地獄から抜け出せません。

 人の言うことを素直に聞く。怠けないで素直に実行する。その積み重ねが数年で、ようやく一つだけ上に行ける。最低二年の死に物狂いの努力が必要なのです。これは誰にも助けられないので、自分の力で這い上がるしか無い。

 僕だって生命の樹の高い所にいるわけでもないし、常に試練に曝されて、女神から逃げ出したくなるほど気が弱い。それでも何とかしようと行動しているわけで、そのための努力目標が怒らない事。相当に我慢の日々です。皆は怒られたと感じているかもしれませんが、本当に怒ったらあんなもんじゃないです。

 ここまで説明すれば分かると思いますが、馬鹿とかダメとかの評価は、生命の樹の住人から見てのものなのです。死の樹の住人にしてみれば、自分は馬鹿じゃないとかダメでもないと怒るかもしれませんが、死の樹に落ちれば全てが逆さまに見えるという現象に陥っているわけです。

 生命の樹の住人にしてみれば、地獄に堕ちた人の救いようのなさは底がないのと同じです。馬鹿とダメには底がないからこそ、人はどこまでも愚かになれるし、自分を正当化して自惚れていられるのです。だから、心の在りようを客観的に見るツールが必要となるわけで、その一つが試みのミカエルです。試みのミカエルが作る人の霊格を試すスピーカーだというのは、この理由があったからです。

 絵を描く事でも自分の霊性を客観視できます。しかし、困ったことに、死の樹にいる人は、形が崩れていても自分では分からないのです。平気で気持ちの悪い形を描く。エログロの世界が心地よい人もまた、間違いなく死の樹の住人です。性的異常やホモや獣姦は黒ずんだ色彩になります。聖書で禁じられているわけです。

    エフライム工房 平御幸
コメント (12)
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