平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

命をすり減らす選手達

2008-11-29 21:46:53 | Weblog
 NHK杯の女子が終わりましたが、関係者の喜びとは反対に不安がつのる結果となりました。優勝した真央ちゃんは構成に反して得点が低く、これはバンクーバーでレベルを下げた選手を優勝させるISUの方針が垣間見られたものです。バンクーバーを見据えるなら、セカンドは3ループをやめて3トゥループに変更するべきです。バンクーバーでは絶対にセカンド3ループは認定されません。これを安藤さん共々今シーズンから徹底すべきでした。連盟の先見性のなさを痛感させるものです。

 今回の結果で、韓国のファイナルに真央・安藤・中野という三人が出場する事になりました。キーワードは「死」です。三人のプログラムは死に満ちているのです。この不吉な連鎖は、選手としての命を縮めている事の暗示です。神に呪われた死の国の韓国で、韓国選手を含めた四人が死(四=ヨン~韓国選手の名前)の舞を舞うのです。何と怖ろしい事か?

 命というのは永遠のものであり、死んでも復活するのですが、それでも現世で命を燃やすのと、すり減らすのでは根本的な違いがあります。日本の三選手は命をすり減らして、悪魔の国で壮絶な戦いをする事になったのです。この血みどろの戦いを正視するのは大変です。本当を言うと、僕は逃げ出したいほどなのですが、三人が行くというのなら守るしかありません。

 昨日も、太陽の沈む方角の会場に行くのは嫌なので、方違え(かたたがえ)という方法を取りました。具体的には、一駅乗り過ごして反対側から歩いて行ったのです。会場で左(死)に座ったのが韓国から来た女性。服のセンスでそれと分かりました。出かける前に寄ったスーパーのレジが一つしか開いてなく、担当者は留学している韓国の女性。しかも注意していたのに指に触れられるし、これでは韓国を滅ぼそうとする力が湧いてきません。神様は韓国を救けたいのか?今回のファイナルもその目的の一つなのか?それならば、命をすり減らす選手だけに任せる訳には行きません。

 真央ちゃんのトリプルアクセルですが、2度目が認定されなくてホッとしています。というのも、三回転半で3.5倍罰、二度なら二倍の7倍罰です。認定されていたら、来年の9月で終わるだろうと予告している闇の支配がさらに三年半加算されるのです。できるなら国内大会だけにして欲しいところですが、もしもどこかで成功するなら、ファンの皆さんにはさらに三年半の間は耐えて頂くしかありません。政治の方でも日本が滅び掛けているのに、神は何という試練を与えるのでしょうか?

 死にかけている悪魔の国で、演じられるのは死の舞踏。確かにこれ以上相応しいものはないかも知れませんが、選手生命を縮めたくないのなら、お願いだから来年は命を燃やすプログラムにしてくれ(絶叫)!!!

       エフライム工房 平御幸
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NHK杯SP観戦記

2008-11-28 23:38:10 | Weblog
 ショートプログラム見てきました。驚きましたね!何が驚きだったかというと、フェンスの広告です。昨年までのサラ金やパチンコという、在日企業が一掃されていたのです。プラス、創価学会の三色旗に使われる、黄・赤・青の組み合わせも無かったのです。ここまで徹底されたら、ロッテを含めた関係者の努力を評価せざるを得ません。神の怒りが去ったなら、結果は推して知るべしです。

 一番印象に残ったのはワグナー。パドック(6分間練習の出番前)ですが、後ろ姿に好感を持ったと同時に、未来ちゃんと話をしている表情が生き生きして、演技前から最高のパフォーマンスは期待できました。3-3を入れなかった安全策でしたが、出来映えはゴージャスの一言に尽きます。その結果、次の未来ちゃんが力んで自滅したのは仕方ありませんが、パドックでは2番目の評価でした。まだ怪我からの回復が完全ではないのでしょう。オーラは消えていませんから怪我が治れば結果を残します。ただ、日本で練習して欲しいのが本音ですが。

 パドックで二人に劣った真央・中野の二枚看板ですが、出来は八分でスピードが無く、それぞれ一つずつミスをしました。中野さんは、本来は叩きの試合であるアメリカで無理をした反動ですね。戦後最初の三冠馬シンザンは、秋初戦はレベルの低いオープンでも負けたのです。賢い勝負師はこの割り切りが必要なのです。ドーナツスピンの形が崩れていたので、フリーも精彩を欠く可能性はあります。でも無理して頑張るだろうな…。

 真央ちゃんですが、全体的にスピードがなく、極めて慎重な演技内容に感じました。それでもワンミスなら上出来でしょう。タラソワマジックでエレガントの一言に尽きる現在、本来の生き生きしたエネルギッシュなパワーを取り戻すのは結構大変かも知れません。でも、真の芸術家はそれを可能とするのです。目標の73点からはほど遠い現在ですが、100%を発揮する近い将来が期待できます。ただし、『月の光』は実際に聴いても酷い音源でした。さっさとピアノ曲に変えましょう。

 ピアノと言えば、鈴木さんのラ・カンパネラですが、これも演奏者が合っていませんね。変に気取った演奏で、この曲の流れるようなリズムが台無しになっています。それがジャンプミスの原因だと思います。アリシア・デ・ラローチャなどの古典的な演奏の方がよいと思います。プログラム全体としてはハッカーが音源も良く、良い音に合った良い振り付けでした。ワグナーはあの退屈な音楽で惹き付けるのですから凄いですね。セカンド3Tでも習得したら化けますね。

 男子ですが、織田君が6分間練習から抜きん出ていました。背の低さを感じさせない堂々とした存在感が印象的で、ジャパン・オープンの高橋君とは比べものにならない感じです。高橋君の怪我で心配されている男子ですが、小塚・織田の二枚看板で切り抜けられるのではないでしょうか。

 審判ですが、コーラーやスペシャリストはワグナーやハッカーの時はスロー再生の確認をしていません。真央ちゃんは三回のスロー再生。第一グループの最初の方でも確認していたので、選手によるバラツキがあるようです。また、各国のジャッジも独自にモニター(パソコン)を見ているのは意外でした。!マークの時だけではないようなので、各エレメンツの判断材料にしている印象を受けました。

 なお、代々木の音響設備は脆弱の一言に尽きます。高音は8KHzまでしか出ていないのでは。低音もかぶって(ブーミー)いるし、ビオラやチェロの音域なら誤魔化せるというレベルです。もしかして、高音部を再生するトゥイーターが切れているのでは?市販のスピーカーでもトゥイーターが一番切れやすく、気が付かないで聴いている人は結構多いのです。

     エフライム工房 平御幸
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権威の失墜

2008-11-28 01:31:40 | Weblog
 末日を定義する言葉の中に、女が高ぶる、女が隠し所を曝す、偽キリストが出る、などなどありますが、分かりやすい現象として権威の失墜というのがあります。これは日本において、天皇の権威が無くなって人民革命が起こるというような、共産主義的な体勢変化を言うのではありません。ここに知恵が必要なのです。

 聖書学的に見ると、ここで言う権威とは学者などの指導者層を指すのです。難解な言葉の羅列、難解な理論、もったいぶった態度、このような尊大を美徳とする価値観の崩壊、それが末日における権威の失墜なのです。『ヨエル書』第2章28~29には次のようにあります。

"その後、私は我が霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなた方の息子、娘は預言をし、あなた方の老人たちは夢を見、あなたがたの若者は幻を見る。その日、私はまた、我が霊をしもべ、はしために注ぐ"

 この預言の言葉をもっとも怖れるのは、トップに預言者や偽キリストを置いている教会なのです。例えば、モルモン教は預言者はたった一人と決められており、トップ以外の人が預言する事は禁じられているのです。その理由は、預言者を権威付けるためですが、これに疑問を投げかけるのもタブーとされるのです。また、前回書いたように『イザヤ書』に預言される救世主は逞しい人ではありません。朝鮮カルトの統一協会では、教祖の文鮮明の巨体と精力を誇示していたのですが、自らキリストとは正反対であると公言していたに等しいのです。さて、『イザヤ書』第29章14には次のように記されています。

"それゆえ、見よ、私はこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される"

 このように、知恵が滅び、知識が隠された状態にあるのが今の時代なのです。そして、前回に書いた第52章15の「彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは、彼らがまだ伝えられなかった事を見、まだ聴かなかった事を悟るからだ」に続くのです。僕の古代史は、東大出の研究者など数万人が知ろうとしても知る事の出来なかった、隠された知識の宝庫です。日本の古代遺跡が、旧約聖書時代の神聖キュビト尺で造られていると世界で最初に発表したのが僕なのです。

 イエスの時代までは、祭司や学者などが権威主義的に知識を独占してきました。しかし、イエスが分かりやすい言葉で語ったように、末の日も祭司や学者や自称預言者の権威は捨て去られ、分かりやすい言葉で語られる真実の教会が復元されるのです。その言葉を語るのは権威を身にまとわない者であり、復元される教会の頭石となる、石造りらの捨てた石なのです。これからの世は、胡座(あぐら)をかいている権威は崩壊し、専門外の人や地位の低い人に神の霊が臨むのです。

 さて、夏から給湯器の温度が上がらず、浴室の電気も消えたりしていたのですが、両方を直す事にしました。水徳の浅田真央、火徳の長洲未来の不調(怪我)に関係するからです。でも、給湯器は死んでいた三割のガス栓を直してもらったのですが、浴室の蛍光灯は器具ごと交換が必要であり、今回は間に合いませんでした。完全復活は望めないという託宣でしょうか?真央ちゃんの伊藤ハムも水質汚染で大変でしたが、検出の毒物が、僕が梅酒で摂取して体調不良となったのと同じシアン系なのです。そして、その工場は住んでいるところに一番近いという因縁です。皆さんも台所と浴室は磨いておきましょう。風邪気味なので長時間の観戦は無理ですが、コンペの緊張感に浸ってきたいと思います。

     エフライム工房 平御幸
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落ち穂拾いの精神

2008-11-27 01:26:47 | Weblog
 日本の学校を出ていてミレーの名画『落ち穂拾い』を知らない人はいないと思いますが、落ち穂拾いの精神を知っている人は希(まれ)だと思います。『落ち穂拾い』を、貧しい農民の情景に結び付けるのは単純すぎるのです。

 旧約聖書の『ルツ記』は、エフライム人エリメレクの次男キリオンの妻で、寡婦となったルツの物語です。エリメレクの妻ナオミは、エリメレクと二人の息子が亡くなったので故郷のベツレヘムに帰ろうとしますが、寡婦となったルツは、別の嫁ぎ先を探そうとせずナオミと共に生きる事を選択します。しかし、ベツレヘムでは貧しい生活が待っており、ナオミの親戚である富農ボアズの畑の落ち穂拾いをする事になります。このボアズがわざと落ち穂を多くしてルツを救けるのですが、後にルツと結婚して、エリメレクの畑も買い戻してくれます。

 さて、落ち穂拾いというのは、旧約聖書の時代に、貧しい者のために落ち穂を残す事が半ば義務付けられていた制度なのです。イスラエルの子孫である日本人は、この精神を蜜柑の実を枝に残すという方法で現代に伝えています。蜜柑の実を全部取ってはならないという決まりはここから来ているのです。ですから、ミレーの絵を鑑賞する時に、貧しい農民の方だけに目を向けるのは片手落ちという事になります。落ち穂を残す、少しばかり豊かな者も隠れているのです。

 僕がこの絵の事を思い出したのは、秋葉原で帰りの切符を買った時でした。硬貨のお釣りを取り忘れて券売機から離れようとした瞬間、後ろにいたホームレスと目が合ったのです。目が合った時にお釣りを取り忘れた事を思い出したのですが、ホームレスのために神様がそうさせたのだと気が付き、そのままにしてきました。この些細な出来事が、落ち穂拾いの精神を思い出させてくれたのです。

 『ルツ記』の物語は、幾つかの暗喩を含んでいます。というのも、ルツは伝説の王ダビデの曾祖母に当たるのですが、落ち穂拾いをしたベツレヘムはイエス(ダビデの子孫)の出身地とされているのです。ベツレヘムの旧名はエフラタで、これは「得ふる(エ・フル)土地」という意味で、エフルは倒置されて増えるとなります。日本語の増えるはエフルが正しかったのです。英語の「一杯」を意味するFullもここから来ていますが、古里の語源であるのは言うまでもありません。

 エフラタは、ヤコブ(別名イスラエル)が愛したラケルが埋葬された土地であり、ラケルの子ヨセフからエフライムが出てイエスの雛形になります。要するに、イエスとエフライムの関係が、ベツレヘムとエフラタの関係となるのです。ベツレヘムから救世主が出るのはイスラエルのエジプト時代に預言されていたのです。

 ベツレヘムの意味は「パン(レヘム)の家(ベツ)」ですから、パン屋さんやケーキ屋さんなど、お菓子屋さんも含めてみなベツレヘムとなります。家業の手伝いでケーキやカステラを作っていた僕もベツレヘムの出身なのです。僕は先祖のエフライムがイエスの雛形だった事から、再臨するイエスの雛形という性格を少しばかり与えられているのです。『イザヤ書』53章に記される救世主の特徴は、威厳が無く、顔が損なわれ(顔に傷を持つ)、病を知って(病弱気味)、などなど当て嵌まりますが、特に52章の「彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ」という記述が僕の古代史を形容しています。求めて与えられる者は幸いである。求めない者の不幸は、落ち穂を侮るのに似ているのです。

     エフライム工房 平御幸
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横糸の必要性

2008-11-22 04:46:27 | Weblog
 僕は神の教会をネットワークにたとえますが、別の表現では良い織物となります。織物とは、縦糸(経)に横糸(緯)を編み込んだもので、これだけの作業で強靱で美しい布が出来上がります。このように素敵な織物ですが、縦糸と横糸では役割が違うのです。

 縦糸は、社会で言えば縦社会、人間で言えば個人です。個人個人が別々の色ならば、出来上がる織物も色々な色が散りばめられたものになりますが、いわゆる文様(もんよう)を獲得するには横糸の助けが必要となります。横糸は、何往復も行き来するシャトル(=杼~ひ)によって運ばれる一本の糸です。杼は、硬直した縦社会に横の繋がりをもたらす人物に似ています。実は、イエスの十字架(クルス)も縦と横の木で出来ているように、織物のクロスは十字架と同じ意味なのです。

 昭和天皇が亡くなった時に、競馬界にタマモクロスという十字架と、オグリキャップという茨の冠が出現したように、日本はイエスの奥義を伝える尊い国です。しかし、現在の日本は横糸の足りない織物に似て、個人個人がバラバラに孤立して、横の繋がりを欠く構造的な欠陥を有しています。

 例えば、フィギュアスケートで選手にプレゼントする時、ファンは自分の都合でプレゼントを決めています。これを自己愛の投影と言います。投げ込まれる花やぬいぐるみも嬉しいでしょうけど、本当に選手のためになっているのでしょうか?ファン一人一人の予算は限られていますが、何人かが結束して資金をプールすれば、少し高価なプレゼントが実現できます。勉強盛りの選手なら、遠征先でもゲーム感覚で学べるニンテンドーDSや、演技や練習のDVDを再生できるノートパソコンなどが有り難いはずです。このように、横の繋がりというのがあれば、自己満足のプレゼントから選手に必要なプレゼントに意識改革も出来るのです。

 選手に対して自己愛を投影するファンは多いですが、愛の本質は自己犠牲であり、また相手を自由にする事なのです。選手が自由に活動できる環境のために自分の資金を提供する。その精神があれば、ありきたりなものを投げ入れてゴミ袋に収容され、本当に選手の元に行くのかヤキモキする事も無くなると思います。でも、横糸の役割を買って出る人は大変だろうなとは思います。これが自己犠牲ですね。

 という事で、今回はフィギュアスケートのプレゼントをたとえとして書きましたが、僕が教会を建設しようとする理由が理解されましたでしょうか。相手を自由にする事、そのための自己犠牲、この理念こそがイエスの東方教会にあったものですが、異邦人の教会(バチカン)によって失われてしまいました。大半の教会が縦社会だという事は、横糸のない織物状態だという事を証明しているのです。教会建設に疑問を持つ読者に対する、これが解答です。

     エフライム工房 平御幸
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ステップアップするという事

2008-11-19 17:57:25 | Weblog
 モーツァルトのピアノ協奏曲は、第18番変ロ長調K.456を境に大変貌を遂げています。この1784年に作曲された一連の作品の中で、次の19番ヘ長調K.459(第2戴冠式)から深みが増しているのです。そして、翌年に傑作の第20番ニ短調K.466が誕生します。このように、第18番変ロ長調K.456はモーツァルトを変えた礎とも言える作品なのですが、出来は彼の生涯では平凡なものに過ぎません。しかし、彼の父レオポルドは涙を流して称えたそうです。ということは、現在では平凡と感じる作品でさえ、当時は傑作の部類に入っていたのです。この壁を乗り越えたモーツァルトには何が起こっていたのでしょうか?

 実は、第18番は、盲目の女性ピアニスト、マリア・テレジア・フォン・バラディスに捧げられた作品のようですが、出会いは前年の1783年です。一年後に彼女の演奏旅行のために作り上げたものらしいのですが、特に際だった音楽性も感じられない、どちらかというと退屈な部類の出来映えです。モーツァルトは果たして満足したのでしょうか。

 モーツァルトのそれまでの傑作は、ハフナー、ポストホルン、グラン・パルティータなどのセレナーデやディヴェルティメント、あるいはハフナー交響曲やピアノソナタなど、どれをとってもピュアなものです。僕も大学一年の冬に、ラジオから流れてくる交響曲第35番ハフナーの第2楽章に涙して、自分の壁を乗り越えた経験があります。これが、一念発起してオーディオを揃えようと思った動機ですが。

 しかし、この境以降、モーツァルトの作品は凄まじい進化を遂げています。たとえるなら人間の領域を離れて神の領域にあるのです。慈愛、悲しみ、怒り、希望、などというものが、単純に美しさを求めたものではない精神性を獲得して、崇高という領域に昇華されているのです。以前の美しさに感動した涙が、神の余りの尊さに涙するくらいの変化があるのです。特に最晩年のクラリネット協奏曲イ長調K.622の第2楽章は、僕が建設する教会のテーマ曲に選ぶほどの傑作です。僕はこの曲を思い出すたびに、自分に十字架を負わせるイエスに感謝できるのです。イエスがモーツァルトを通してプレゼントしてくれた最大の祝福。それがクラリネット協奏曲イ長調K.622・第2楽章なのです。

 モーツァルトが盲目の女性ピアニストに出会い、彼の中で葛藤や変化があったとしても、それをより高みに昇華できる資質は大天才のものです。バッハに比して足りないと思われていた深みに到達しているのです。まるで、イエスが御父と同格となったように…。十字架上のイエス・キリストを刻んだ磔刑像をcrucifixと言いますが、これが「苦しい」の語源なのです。茨の冠が草冠、それに十字架と口で「苦」の字が出来上がります。苦しい時は、十字架上のイエス思い出しましょう。そこに光があるはずです。

 参考 クラシック音楽とアンドレア・ロストファンのページ

     エフライム工房 平御幸
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欠けている芸術に対する敬意

2008-11-18 01:37:11 | Weblog
 舞・真央公式サイトで、使用する曲の指揮者や楽団名が昨秋(ショパン幻想)から省略されています。この芸術に対する無理解はどこから来ているのでしょうか?CDならレーベル、指揮者、楽団、などの記載は常識であり、それが芸術と版元に対する敬意となるのです。どこの馬の骨かも分からない演奏でもあるまいし、最低限のマナーは全選手に必要だと思います。このような常識を教育しないスケート連盟の怠慢でもありますが…。

 芸術というのは、極限的な状況で生み出される、たとえるなら命の精のようなものです。美という言葉は、そもそも「凝縮する」という意味を持つもので、蜂蜜のように集められたエッセンスが美なのです。ですから貴重であり、そこに美に対する敬意が育まれてきたのです。

 美や芸術に対する敬意の表し方は人によって異なりますが、資金と環境に恵まれている人は生演奏や美術館に通う。CDを聴く時は、CDに収録されている情報を欠落させないように、少し無理をしてでもオーディオセットに投資する。CDを買う余裕がある時はコピーではなくCDを購入する。もちろん、美術や音楽関係の本を購入する事で、文化の底辺を支える事になります。このような基本が出来ていない人は芸術を語るべきではありません。

 話を最初に戻しますが、以前に使用した曲は説明がちゃんとなされています。要するに、昨シーズンから突然の怠慢路線となったのです。芸術と芸術家を蔑(ないがし)ろにする、この意識の低下がサタンを呼び込み、今シーズンの裏目に繋がっているのです。神への反抗はまず、些細な事に現われる。高いところから墜ちたら、再び登るまでに以前の何倍も苦労が必要とされるのです。一年前に戻るには三年必要。それくらいの危機意識が無くては、もう跳ぶ事はできないでしょう。跳ぶとは、飛ぶ事であり、神のように自由になる事のたとえなのですから。翼を失ったら堕天使として、現世利益のためにサタンの奴隷となるのです。

     エフライム工房 平御幸
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世紀の駄プロ?

2008-11-17 02:02:17 | Weblog
 韓国は、最悪の時に最悪の選択をする国として知られていますが、人は機運が悪い時に選択を誤るのは常となっています。機運の悪いフィギュア・スケーター浅田真央も、この法則から逃れる事は出来ません。

 ショートプログラム『月の光』が、新スポンサーである花王のシンボルマークである月から採られた事は、「三日月のイメージ」というコメントからも明らかです。このスポンサーに阿(おもね)る不純さが、機運を悪くしている原因なのです。僕がモリコロでオーラが消えたと感じましたが、神の霊が去ったのだから当然ですね。

 ところで、『月の光』はピアノ盤が一般的ですが、今回はどうしてオケ盤になったのでしょうか?心理学的に言うと、自分と周囲の関係が複雑になると楽器の数は増えるのです。孤独な人はソロ、そうでない人はオケや協奏曲を選択します。日本に戻って人間関係が慌ただしくなったのならオケ盤は当然なのです。しかし、これが世紀の駄作。通常のステレオでは左から聞こえるはずのバイオリンが右から、楽器の分離も悪くてモノラルに聞こえる始末。音はササクレ立ってヒステリック。余りの音の悪さに、ヘッドフォンで聴いたのを後悔しました。

 ショートプログラム担当のニコルさんは、とても耳がよい人で名盤を集めている印象があります。ニコルさんの音楽談義を聞きたいくらいなのですが、今回は絶望的に酷い音源でした。一体何があったのでしょうか?考えられるのは、オケ盤のコレクションが無く、IMGのマネージャーなどから渡された音源をそのまま用いたという事です。コピーする時に間違ってステレオの左右を入れ替えたのでしょう。

 もしもこのような推理が成立するなら、ロッテや花王との契約を持ってきたのもこのマネージャーという疑いが生じます。ファンに愛されたネスレのエアロとの関係を破棄させ、テレビでエアロという言葉を禁句にした張本人が近くにいるのなら、真央ちゃんの今後は全く期待できません。

 また、フリーの『仮面舞踏会』も、最初から最後まで同じ感じの退屈な曲で、ほとんど拷問に近い試聴を強いられる駄作ですね。この選曲も裏に何かあるのでしょうか?音を消して観るとプログラムの濃密さに共感できますから、ノーミスの演技が収録できたら素敵な音楽を被せてみたいと思う程です。それにしても、宮崎駿のように、世紀の駄作を連発するように劣化しているようで心配です。世紀の駄作『もののけ姫』、壮大な失敗作『千と千尋の神隠し』以降の宮崎駿は評価できませんが、日テレに接近したが故に同じような不幸が待っているように思います。日テレは、NEWS ZERO でグリーンの背景(伊藤園「おーいお茶」のラベル色)を用いている、色彩学的にネガの異常な局なのです。同じ配色はフジテレビの競馬でも見られますが、人肌が汚く見える色弱の感性は気持ち悪いですね。

 なお、今年のエリック会場は「虹」がテーマでした。『創世記』に、神と人との契約を忘れないように虹が現われると書かれています。三年前にエキシで『オーバー・ザ・レインボー』を演じた真央ちゃんに、あの頃の純粋さに戻れと言う神様からのメッセージなのです。それが理解できたら笑顔で臨めるはずです。

     エフライム工房 平御幸
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テレビ朝日の誤算~真央のまばたき

2008-11-15 12:14:02 | Weblog
 真央ちゃんの今シーズン初戦、グランプリ・フランス大会で気になる事がありました。それは、フランスに入ってからのテレビ朝日のインタビューです。

 真央ちゃんは終始伏せ目がち、頻繁な瞬きも気になりました。さて、このシーンはある大物選手と重なるのです。それは、江川事件の時の江川入団会見です。この時の江川選手も頻繁に瞬きをしていました。これらは、マスコミによる心理的なプレッシャーに誘発された瞬きなのです。

 テレビ朝日は看板番組のニュースステーションでも最新映像を流す事が出来ません。出てくるのは使い古された8月頃の映像ばかり。午前中の番組で少しだけ流れた最新映像が前出の瞬き会見なのです。一体何があったのでしょうか?余程真央サイドに嫌われる事をしたとしか考えられません。テレビ朝日のスポーツ局は在日朝鮮人に支配されているので察しは付きますが。

 グランプリシリーズは05年ロシア大会まではNHKで放送されていたものです。それが05年ファイナルでテレビ朝日に強奪されたものなのです。この唐突な動きの背景にあるのが韓国選手のシニアデビュー予定なのです。要するに、韓国選手を売り込むためにグランプリシリーズを買い取り、ライバル設定の浅田真央を翌年に叩きのめすシナリオがあったのです。想定外は真央ちゃんが優勝して国民的なヒロインになった事です。真央フィーバーにより、韓国の天才少女という触れ込みが陳腐化してしまったのです。これ以来、テレビ朝日の在日朝鮮人グループは真央叩きに血眼になるのです。

 テレビ朝日にしてみれば、グランプリシリーズそのものが韓国選手のために買い取ったものなのだから、憎むべきは浅田真央と日本人なのです。それが、ここ3年間の異様な放送内容となっている理由です。テレビ朝日は元々キムチまみれで腐っていたのですから、嫌な腐敗臭がするのは当たり前です。

 さて、真央サイドは幾つかの間違いをしていますが、真央ちゃんが僕のトレードマークであるトンボを手袋にあしらっていた(ここここ)のでアドバイス。

①背中の開いたコスチュームはダメ。悪霊が狙う背中を守るものがない。
②紫のコスチュームは病人や怪我人が着るものだから、健康な人が着ると逆に弱くなる。特に心が弱くなるので改善が必要。
③コスチュームの腹回りにアクセントがないので、帯を締めない着物のように間が抜けている。預言者に帯が必需品なように、腹に神の御霊が宿るのだから、手編みの薄い腹巻きをするか、コスチュームに工夫して腹を締める事が大切。相撲取りは、まわしで腹の御霊を守っている。
④太陽の真央が月を演じるのも疑問。月は韓国選手に相応しいので、月の光を選んだ時点で負け。勝負を度外視しているのなら納得。

 とにかく、写真を見ても真央ちゃんだと分からない今のオーラでは、テレビ朝日の在日に勝つ事は困難でしょう。フリーのタラソワマジックだけが頼りです。

     エフライム工房 平御幸
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才能と霊感

2008-11-13 02:44:06 | Weblog
 ブログを始める前に書き留めていた原稿(才能論)を読み直してみたら、結構良い事を語っているのでそのまま掲載する事にしました。日付は2005年4月16日となっています。

 "大多数の人は、才能は天性のものであり、そこには後天性は存在しないように考えている。実際、そのような才能もあるが、才能の本質を語ってもいない。なぜならば、本当の才能とは、神が純粋な魂に下さる賜(たまもの)に過ぎないからである。

 才能は素質(素材)と伸びシロ(成長力)の両方において優れていなくてはならないが、仮に両方備えている者があったとしても、これでも不足である。なぜならば、霊感(インスピレーション)が無くては、独自の世界を創造することはできないからである。従って、才能論を展開するときには、霊感について語らなくてはならないし、霊感を語ることのない才能論は、最初から一番大事なテーマを放棄したことになる。このように、才能は一言では語ることができないものであるから、今回は霊感にテーマを絞って書いてみよう。


 霊感とは、自分の外からやってくるものである。人間には自分の能力的な限界というものがある。それを素質と言うが、自分でどうこうできるものではない。できることと言えば、努力して素質に見合った成長を遂げることくらいである。素質は遺伝的な要素が強く、それを伸ばすには環境の整備が不可欠である。けれど、いくら努力しても限界があり、その壁の前には無力になるしかない。だが、霊感を持つ者は、まるで壁が存在しないかのように新たな次元の世界を開拓する。いやむしろ、傍目には壁を利用して成長しているようにさえ見える。こういう人を天才と呼ぶのだが、かつては天才も凡人と同じ道を歩み、幾つかの二股道で一緒に立ち止まっているのである。天才も凡人も、同じこの世に属して生きているのだから。

 このように、ある壁を乗り越えようとするときに、人は二股道に差し掛かり道の選択を強いられる。また、この道のことをカッバーラではパス(小径)と言う。この二股道のどちらを選ぶかの判断材料は、その人の経験ではない。全く新しい未経験の道なのだから、小賢しい経験則は通用しない。では、何をもって人は道の判断材料を選るのか?実は、その人の心の奥底にある純粋さである。純粋な人は、この二股道で神の声を聞く。この声は小さいので、心を澄ましていなくては聞こえてこない。世俗の事に心を煩わせている人には聞こえてこないのである。イエスは、これをマルタとマリアの姉妹にたとえている。妹のマリアがイエスの話を熱心に聞く余り、教会の仕事を疎かにした。姉のマルタは自分だけが忙しいので不平に思い、イエスにマリアに注意してもらおうとした。ところがイエスは、マリアを褒めた。

「あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならないものは多くはない。いや一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」ルカによる福音書10章41~42

 イエスの時代に生きて、イエスの話を聞くことができた人は幸いである。だが、せっかくイエスの側にいながら、マルタはイエスの話よりも客人の世話をする自分を選んだのである。そうすることで褒められると勘違いして。マルタには、人から良く思われたい、褒められたいという、世俗の価値観が生きていた。だから、イエスは純粋なマリアを褒めたのである。

 美術大学を目指して絵を学ぶ場合、目標をどこに置くかで成長の結果が違ってしまう。芸大に入りたい、公募展に通りたい、お金を稼ぎたい、こういう俗な価値観で絵を学んでも自ずと限界がある。僕は、研究所で先生が与える課題を無視した訳ではないが、一枚一枚にテーマを与えてそれを最優先させた。それは、心の中の神の声に従った結果であり、そういう意味では僕は霊感に恵まれていたのである。だが、神の声はいつでも誰にでも語られている。人がそれに気が付かず、破鐘(われがね)のように響いてくる悪魔の声に従っているだけなのだ。そう、二股道とは、神の光の道と、悪魔の闇の道の二股を指すのである。そして、神の声は心を澄まさなくては聞こえてこない小さな声なので、大半の人には聞こえてこないだけなのである。これは、心の持ち方における自己責任なのである。

 人生の岐路とは、些細なきっかけで迫られる二股道である。だが、その道の行く末は天国と地獄であるから、決して疎かにはできない。また、この世に属す人間で神による霊感を持つ者は極端に少ない。だから彼らの心の中は空虚である。その空虚さから逃れるために、擬似的な霊感を得ようとする。それが、悪魔の誘惑の声とも知らずに。チャネリングとか、自己啓発とか、カルトや様々なセミナーの実態はこれであり、心を澄まさなくても聞こえてくる破鐘の音なのである。才能のない者は、その空しさから闇の声に従い闇の道に至る。そして、名声や高収入などのこの世的な成功によって満足するのである。その結果、魂も霊も悪魔の物になってしまうのだが。"

     エフライム工房 平御幸
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七千才の魔女の顔

2008-11-09 02:19:20 | Weblog
 最初にお断りしておきますが、今回使用する画像は極めて危険なものなので、絶対に正視しないで下さい。真っ正面から見るのではなく、焦点をずらして視線をそむける感じで見て下さい。そうしないと、心と霊が悪魔に支配される危険があります。

 また、焦点を逸らして見るのには別の理由もあります。それは、少し長く見ると(目ではなく耳の当りを凝視します)、写真の顔から魔女の皺だらけの顔がユラユラと浮き出てくるという事です。僕は先天的なエクソシストで、今まで何度も悪魔払いをしてきました。ですから、悪魔に支配されている顔は瞬時に判断できるのですが、一般の人でも判断できる方法が、焦点をずらして見るという事なのです。日本人は目を見ないで話すと批判されますが、それは悪霊に支配されない優れた方法でもあるのです。さて、↓の画像は韓国選手のキスクラ(SP)での表情ですが、低い点数に怒り心頭で、物凄く怖い顔になっています。しかし、焦点をずらして見る事で、彼女に憑依している七千才の魔女の顔が浮かび上がるのです。僕はこの魔女の顔こそが怖ろしい顔だと思います。

 

 『創世記』にあるように、天界で光と闇の戦いが起こり、父なる神に逆らったサタンと眷属は地に落とされました。彼ら闇の霊の年齢は、この時点で一千才。地に落ちてから六千年ですから今現在は七千才なのです。これが聖書に「年老いた蛇(龍)」と記される姿の見えない悪霊なのですが、霊感の強い人が見れば分かるように、韓国選手に憑依している七千才の老婆も蛇なのです。蛇身の禍(まが)神が、最も神聖なイスラエル12部族の国である日本を滅ぼすために、韓国選手に憑依して不正な点数を獲得しているのです→参考・能面『蛇(じゃ)』。マスゴミに代表される霊格の低い人は皆、この魔女の精神波に飲み込まれて従ってしまうのです。

 ところで、韓国選手は宗主国杯でフリーの後にも怖ろしい表情を見せました。それが毒蛇が舌なめずりしている次の画像です。↓

  

 この画像を見ると寒気や反吐が出ると思いますが、こんなに醜悪な表情は滅多に見られる物ではありません。魔女が油断して、狡賢(こうかつ)な本性を垣間(かいま)見せた瞬間なのです。魔女と言えども、一昨日のエラー判定はショックで、この一戦に霊力の全てを出して戦ったので、演技後に顔を作る事が出来なかったのです。韓国選手のインタビューで出てくるチェッという音も老魔女の癖なのです。

 僕は06年の春にこの選手を見た時から、フィギュア界の現状を予見し、このブログを書く事で魔女を封じ込める運動をしてきたのです。馬鹿なアンチが邪魔してますが、アンチは所詮、神の反対側にいるので魔女の味方なのです。それで、僕が本当にエクソシストをする時は、三ヶ月はそれだけに集中しなくてはなりません。残念ながら今はそのような余裕がありませんから、霊力はそこそこでも多くの人の力を結集させる事で代用としているのです。

 この魔女は基本的にバラ科の植物が苦手で、刺草(イラクサ)も同様に嫌います。血が好きで霊力の源です。一般の人が悪霊から守られるアイテムとして、鏡やお守りの他に、手編みのセーターやベストは有効です。僕の母親は、僕が上京した時に、黒地に赤のギザギザ(雷模様)の入ったロングベストを送ってきました。これをトレンチコートの下に着て魔手から逃れたのです。ミニスカート並みの丈があったものですが、イエスが着た下着のように縫い目がない衣服は神聖なのです。

     エフライム工房 平御幸
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韓国誤算の宗主国杯

2008-11-07 00:31:10 | Weblog
 グランプリの中国杯で、韓国選手にエッジエラー判定のeマークが付き騒然となったようです→プロトコル。eマークが付いたのは3F-3Tのファーストジャンプであるフリップですが、単独で跳ぶルッツにも回転不足の判定がなされています。世界中がずっと指摘してきたのに見逃されてきた二つの癖ですが、ISUは今回だけどうして取ったのでしょうか?

 今回の伏線は、スケアメの放送で韓国選手の足元を拡大スローで流したように、買収に関わっているジャッジ連中以外の、いわゆる不正で嫌な思いをしている各国のタッグが見られた事にあります。例えばイタリアは、コストナーがカナダ大会でやる気を出さずにボロボロの演技。今回はスイスのサラ・マイヤーが同じようにボロボロで、二人ともファイナルなんか行きたくないという露骨さです。白人のこういうところは好きですね。

 掲示板情報なので本当かどうかは分かりませんが、中国大会にISUのチンクアンタ会長が来ているそうです。これが本当なら、コストナー本人、あるいは関係者から事情聴取をし、トップ選手によるボイコットを問題視して、急遽の是正に乗り出した事を伺わせます。会長職にあるのなら、自国選手が失望する不正を見逃すのは長期的に見て損ですから。

 また、今回のスペシャリストはボロボロのマイヤーと同じスイス人らしいです。マイヤーは韓国で行われた韓国選手のショーで、韓国選手に転倒させられた嫌な思い出があります。ですから、韓国で行われるファイナルへは最初から行きたくないのでしょう。このようなマイヤーを目の前で見て、スペシャリストが厳しくなるのも当然です。

 さて、今回の歴史的な判定ですが、スポーツ局のクリックと彼に従う連中がどのように巻き返すのかが見物ですが、一度でもエラー判定が付いたという事が重要なのです。回転不足も見逃されてきたので画期的な出来事です。ただ、安藤さんの体調が悪そうなので、僕は無理をして欲しくないですね。ファイナルへはレピストなどの若手に行ってもらうのがよいのです。ファイナルをパスできたコストナーの次回にも期待ですね。

     エフライム工房 平御幸
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和歌とイエスの罪状書き

2008-11-05 04:54:00 | Weblog
 古代史は順調に新発見の連続ですが、アンチが増えた事だしそろそろ無料公開を止める時期に来ているかも知れません。世界で最も神聖な奥義を公開しているので、僕には神に対する責任があるのです。明日いきなり閲覧できなくなっていても悪しからずお願いします。

 僕が古代史で書いている事は大部分がオリジナルであり、そうでない部分はことわっています。これほど膨大なオリジナルは、神の霊によってもたらされる奇跡なのです。その有り難みが分からない愚か者は金も払わないのに噛み付いてきます。こういう者を地獄に堕ちた者というのです。「聖なるものを犬や豚にやると噛み付いてくる」と言うイエスの教えは正しかったのです。

 さて、古代史の方で新発見があったのでオリジナル主張のために発表します。非公開にした時に、僕の説だという事が分からなくなると困るからです。今書いているのは『万葉集』編ですが、和歌というものの性格を決定付けるのは三十一文字と首という数え方です。特に、どうして首と数えるのかの説明に出会った事はありません。

 この基本にして最も難解なテーマですが、やはりカッバーラによって隠されてきた知恵なのです。その知恵とは、イエスの罪状書きの板です。ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、という三カ国語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれた板ですが、飛鳥氏によると八咫烏は罪状書きの板を首と言うそうです。ラテン語ではIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM、略してINRIと書かれますが、数えれば分かるように26文字です。実は、このラテン語版にキリストの名前Crist(異体~通常はChrist)を追加すると31文字になるのです。

 レクイエムなどでは、しばしばクリステ・エレイソンと歌われるパートがあります。「キリストよ哀れみたまえ」という意味ですが、「主よ…」と呼びかけるキリエ=Kyrieの方でも31文字になります。英語で検索すると結構異体字のCristが氾濫しているのです。これは、ラテン語にもhを抜かした表記方法があったのではないかと思われるのです。

 さて、罪状板に書かれた文字が和歌の三十一文字の原型であるとする根拠ですが、実は和歌の数え方にあります。和歌は何故か首で数えるのですが、この不思議な数え方の論理的な説明は、首と呼ばれた罪状書きにあるとする他はないのです。だからこそ、『万葉集』には罪人として処刑された皇子達の歌が集められているのです。

 三十一文字は五七五七七と数えられますが、これも次のようになります。

 このように聖数7が777と並ぶ十字架が構成されるのです。さて、ラテン語のキリエは、実は首相などが公式会見する場での台(桐紋)でお馴染みです。というのも、桐は元々はパウロの名前が桐なのです。ここから菊の紋のイエスに従う者という意味で桐の紋は使われるのです。しかし、桐の絵でキリエとは八咫烏には脱帽です。僕たちは知らずに「主よ」と叫んでいたんですね。


     エフライム工房 平御幸
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絶対という事

2008-11-03 13:38:44 | Weblog
 聖書を読んでいて一番難解な概念は絶対という言葉です。ヤハウェ=イエスは絶対神と呼ばれていますが、そもそも絶対とは何なのでしょうか?多くの人はこれを「完全」という意味で用いていますが、そのような単純なものではありません。

 聖書、特に旧約聖書を読めば分かるのですが、神が預言者に命令する事は変な事が多いのです。山に登れ、石を積め、塩をまけ、川を上着で叩け、目に唾でこねた泥を塗れ、などなど。現代の理屈ばかりこねる人間なら、大半は「何でそうするのですか?」と質問するか、不平を言いながら渋々従うところです。神が絶対の力を持っているのなら、変な儀式など必要もない理屈です。

 では、なぜ神は変な儀式を預言者に授けているのでしょう。それは聖別するためです。選び分けるためです。神が選んだ人に権威を与えるために、普通の人間では躊躇する事を命令し、素直に従った者を預言者としているのです。神のこの命令が絶対なのです。逆らう事は許されていません。預言者が逆らえば預言者ではなくなるし、普通の人が逆らえば神の祝福は無くなるのです。実際、役目の後に禁止されている食事をしたために、帰路で獅子に殺された預言者がいるのです。

 このように神の命令は絶対であり、預言者はモーセのように尻込みする事になります。預言者も人間ですから、いかに神の命令でも王を怒らせたりするのは気が引けるものでしょう。しかも、彼は無知で愚かな民衆を何十万人も導かなくてはならなかったのです。何かと言えば権力を独占していると批判されます。苦悩に対して得る対価はほとんど無きに等しく、預言者ほど割に合わない仕事もないのです。では、預言者はどうして活動を続けたのか?それは神の言葉が絶対だからです。

 エジプト宰相ヨセフのように獄に繋がれたり、モーセのように何度も殺されそうになったり、エリシャのように子供に馬鹿にされたり、このような預言者の苦労が今の日本の下地となっているのです。もっとも、エリシャを馬鹿にした子供42人は呪われて熊に殺されましたが。子供と言えど神の人に逆らうのは許されないのです。

 神の心は計り知れず、人間の思いでは理解不能、あるいは損になる命令がたびたび預言者には下されます。預言者は神の予定調和を信じて、それを遂行するのみです。神と預言者の絆は、神と王との絆よりも強いのです。預言者もかっとなって子供を呪い殺したりの間違いもしますが、苦難をものともしない強さには敬服せざるを得ません。パンと水だけで力がみなぎるだけの信仰、それが僕の課題ですかね。パンと水はモーツァルトも真似をしたようですが…。

     エフライム工房 平御幸
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言霊の力

2008-11-01 14:00:27 | Weblog
 古代史CDの読者には一部予告したのですが、第五部の『万葉集編』は、歌聖・柿本人麻呂の正体を明らかにする段階に来ています。予定より少し遅れていますが、実は新たな発見があったために資料作りで忙しいのです。具体的には、カシミール3Dというソフトで、地図上に人麻呂が歌った地名のフラグを立てている作業中です。

 人麻呂というのはある有名人の仮の名なのですが、推理作家・島田荘司風に言えば「読者に挑戦する」というレベルの、謎解きの基本的な材料は提出済みになっています。ですから、読者は自分の力で人麻呂の正体に迫る事が出来るのです。もっとも、証明するには人麻呂の妻などの歌を分析して、彼の人脈や歴史から隠れている理由を説明する必要がありますが。

 さて、その人麻呂ですが、彼は言霊というものを極めて大事にした人かもしれません。『万葉集』巻十三の「作者未詳或は人麻呂作か」とある3254番の歌ですが、次のように歌われています。

 敷島の大和の国は言霊の助くる国ぞ国ぞ真幸くありこそ

 言霊は人を動かす力があります。いや、天に通じれば神の加護が期待できるのです。ですから、僕はマイナスになる事は絶対に書かない事にしています。不安材料を入手していても、無視していることも多いのです。もしも僕が悲観的な事を書けば、それで一度に数千人が不安になるのです。それが毎日ともなれば大変な数になります。

 神は美しく強い言葉に魂を与え、逆に悪魔というのはマイナスの言葉に増殖して活動するのです。2chのスケート板はそのマイナスの言葉の宝庫(ゴミ溜め)です。スレタイだけ見ても狂気が支配しているのが分かります。その地獄に光をもたらすのは絶望的な試みなのですが、幸いにも真っ当な人間が少数は存在しているようなのが救いです。

 ところで、僕がニダー君の事を書いたら韓国がアメリカとの300億ドルのスワップを締結させ、崩壊を来年の春に先延ばしされました。これも一種の言霊ですね。ドル建ての借金を増やしただけですが。それで縁起が悪いので、ニダー君の記事は封印する事にしました。アメリカ民主党が韓国を使って反日を強めてくるのは、米大統領選後ですからもうすぐです。オバマの側近に韓国人がいるのです。麻生・中川の最強コンビでどこまで持ちこたえられるか。日本はいよいよ正念場ですね。

     エフライム工房 平御幸
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