空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

危なかった人生

2019年05月31日 00時10分36秒 | 思考試行

 なんとか高齢者の仲間入りをしたが、振り返ってみれば、危ない時期があった。鈍感だったり、自ら壊れてみせて、窮地を脱したこともあった。そのことが、次の危機をよんだりした。結果的には、なんとか、ここまで、くぐり抜けてきたといえるかもしれない。

 人の世のなかで、誤解や思い込み、考え方、無視やいじめ、などなど、さまざまな原因で辛い人生になってしまうことがある。

 自暴自棄になって、無茶苦茶な行動をおこし、そのために何の関係もない人が、犠牲になったりする。この世に生をうけることなく、終える命もある。希望を持っている若い命が奪われる。

 現在の今、理屈ですべてを、解決できるわけではないが、そこで解決不能とはしないという意志を人類は持っている、と思いたい。

 本当に困った状況に追い込まれとき、社会的に、救われる手段があるのか、ないのか、その実態もすぐにはわからなくて、その困った状況にどっぷりとつかったママになっている人もいる。

 介護問題である。同時に、親族間の事情もある。助けられる人、助ける人、周囲の親族、人間関係の濃淡があり、相性があり、制度のわかりにくさ、窓口対応の適切さも問題があるかもしれない。

 困難になったときに、どこに相談すればいいのか、その手立てを見つけることができず、困難な状況から抜け出せない。どこが、手をあげて活動しているのだろうか。わかりやすく、手を上げて欲しい。

 ネットでもいいし、張り出されたポスターでもいい。そういう困難な状況からどうやって、救い出すために活動をしているのであれば、野党であれば、政権をとってからやる、というのではなく、今の今、関係先への折衝や、制度の手続きについて、ノウハウを提供し、援助するなど具体的な行動を展開してほしい。

 それは与野党を問わない。誰だっていい。誰がやれば一番効率がいいか、誰が一番熱心か、その最も熱心な組織が、集まりが力を持つことになる。紙に書かれた方針だけではなく、具体的に、そういう行動、活動を展開してほしい。

 資本主義社会のなかで、富裕層の寄付が話題になっている。系統的な再分配がうまくなされないと今の悲劇が、解決される可能性は低い。頭のいい連中よ。力のある連中よ。うまいシステムを作って、助けることの喜びを知ってほしい。


人を尊重することができるか

2019年05月30日 08時19分48秒 | 思考試行

 政治家は、世のため、人のため、の仕事をする人になりたくて政治家を目指しそして支持を得て、そうなったのだと思いたい。そのとうりとすれば、まさに尊敬に値する生き方を選択した人々だと思う。

 だが、地盤、看板、金、が当選のための必須条件だとなると、これは単なる利益階層の代表であって、セクト代表にすぎない。

 公明党は、宗教政党といわれる。選挙活動をしているのは、創価学会員であり、異常な結束力をもち、統制力がある。選挙が近づけば、一斉に民家の壁、窓、目立つところにポスターが一斉に貼られる。見事な組織力である。

 政治的には、自分たちの組織が守れるかどうかに関心があって、世の中全体をどうするかは、二の次の感じをうける。大阪市をなくすという維新の勢力が強いとなれば、公明党は、いままで反対していたけれども、維新から、選挙区に対立候補をたてるぞと、恫喝を受けると、にわかに賛成に転じた。

 節操がないというか、柔軟だというか、政策には信念があるのだろうかと疑う。いかに少数であろうとも、信ずるところを主張し、しっかりと旗幟鮮明にすることが、政治家の役目だと思うのだが、簡単に変えられると、これは信頼に値する政党とは思えない。

 過去にも、小泉内閣の秘書だった飯島氏が、公明党があまりいうことをきかないようであれば、池田氏の国会証人喚問を検討しなければならない、と言ったら、たちまちヘナチョコになってしまったこともあった。弱みを狙ってそれが当たったのである。

 政治家は、政敵の弱みを狙い、何が弱みかを常に探っている。安倍首相が、自分のお友達のために獣医大学を上手く認可できるようにしたのではないか、ということで、問題になった。

 けっきょく、周囲の忖度ということに、なったような塩梅になったが、それもウヤムヤで、誰もつかまりはしない。逃げまくって逃げ切った風になっている。

 だが、そんな忖度は権力者の意向がなければ、はたらくはずもないことで、それでも選挙ではともかく勝ってしまえば、よしとなる。それで、非難されることはなくなる。

 反対勢力や意見の違うものに対しては、なんか弱みはないかと探しまくる。内閣調査室というのがあって、ここでは、なんでも調べられる。総理大臣直轄だという。

 文部科学省の次官であった前川氏は、事実を述べただけで、狙われた。スキャンダルめいた行動があった、などと週刊誌に暴露された。だが、それは、全然スキャンダルではなく、氏のまさに、仕事の延長上の善意の塊の行動であったことから、汚い狙い、所業が明らかとなって、いかに、政府側がすき放題に、国の組織を使い、それも、忍者的に、人の弱点をさがしまくっていることが明らかとなった。

 汚いことが、次々とあきらかになる。安倍政権も例外ではなかった。だが、選挙でそのことがなかなか反映されない。マスコミ対策も万全で、世論を操縦している。

 国民は事態とちゃんと把握しているかどうかである。人がいいから、ほとんどの人は騙されるし、疑わない。誘導されれば、その方向へと行きがちである。それは当たり前である。

 料理番組や、ゴシップ記事や、本質からそれる報道の集中で、目くらましが続く。タレントはこのなかで、どう振舞うかである。無視や諧謔や、あらゆるテクニックで、真実を見極める国民の目をどう養っていくかである。慧眼の士が、慧眼の士を作る仕事をするのである。

 良心をもっ、人を尊重する政治家を育てなければ、ならないのである。

 


4本の包丁

2019年05月29日 14時10分04秒 | 思考試行

 マスコミの報道は、事件を詳しく伝える。NHKは違っていた。しかし、みんな何か間違っているような気がしてしょうがない。何をみているのだろうか、と考えてしまう。

 なんでこの悲劇が起こったのか。今は、事件のことを伝えるのに懸命だが、事件の背景には、やはり深い事情がある。なんとかできなかっただろうかという事情である。

 犠牲になった人は、紛れもなく、ふってわいた災難であり、ここに理由などつけようもない。へんな理由をつけたり、妙な言説をする者がいたとしたら、それはまさに、この事件を起こした人と同様の罪がある。

 事件は、ごく短時間に起こったが、この悲劇の後遺症は長く続くだろうし、この痛みから癒えることは、不可能といわざるをえない悲しみをうみだした。

 事件には、背景がある。犯人がどのようにして、このような犯行を犯すに至ったか。どこにその原因があったのか。

 直後に自殺したために、犯人の口から、その動機を聞くことはできないが、やはり事情があったということの片鱗は報道されている。

 映画「轢逃げ」もそうだが、事件の根幹には、人の社会における未だ克服できない「貧しさ」がある。気付かない内に人を傷つけたりするばかりではなく、もっと意識的にそういう扱いを、人間社会はしてきた。

 相対的な学校の成績や、学歴や、ルールが人間関係を歪めたりすることもある。両親の離婚や事故によって、育つ環境が厳しくなることもある。

 現在では、儲け主義のはびこりの犠牲となって、正規雇用から外れてそこから抜け出すこともできず、苦しい生き方を押し付けられてしまったいる人もいる。

 困った状況や、展望のもてない状況に、決してならないような仕組み、考え方、人類がどうやって協力して生きていくのか、この視点がなければ、こうした悲劇は尽きることがない。

 福知山の脱線事故も、日勤教育という苛烈な労務管理が、わかい運転手を猛スピードでカーブに突っ込ませたとみる。設備のことは、本当の原因ではない。社長らの責任はこういう労務管理を容認したか、あるいは、強要したか、そこにある。反省はそこをしなければならない。

 世界を平和に推移させ、こういう悲劇の裏になにがあるかを、検証しつつ世の中の改善をすすめる視点をすえなければならない。

 


みっともない感じもあった

2019年05月28日 13時02分39秒 | 思考試行

 トランプ大統領の国賓としての待遇があまりにも良すぎて、少し違和感を持った。特に、相撲観戦では、土俵に靴のままあがったのかと見えたのだが、スリッパにしていた。なるほど、テレビでカカトの部分がスリッパであることを示すかのように、離れてみえた。これは、キチンと証拠だてしたかったのだろうか。伝統を守っているよと。スリッパであることをわざわざ報道で流していたのには、小生のように感じた人(靴であがっていると思っていた。)が多かったことをうけてのことかもしれない。

 相撲の取り組みの順序をかえ、取り組み自体も変えたという。大関同士の取り組みがなくなったり、異例だらけで、宗主国の大統領が相撲を「ご覧になる」というので、最大限に政治権力が、すべてを動かしたのだろう。

 令和初めての国賓ということで、天皇の振る舞いや皇后のことが注目された。英語が堪能ということで、会話がスムースだったようだ。基本的に平和のことが正面に出てきているのは、天皇の基本姿勢で、これは好ましいことである。ただ、この姿勢をこころよく思っていない勢力がたしかにあって、憲法9条を変えるべく、隠すところなく動いていることも忘れてはならない。

 トランプ大統領の相撲見物の際にも、「アベトモ」の桜井よしこ氏、金美齢氏、などと握手する場面が演出された。彼らは、常に「努力」しているのだ。

 うかうかと彼らのペースにのれば、いつの間にやら戦争参加の道を開かれ、ニッチもサッチも行かない状態が作り出され、それこそアメリカのポチとして、世界各国へ兵隊として参加しなければならなくなる状況も考えられる。

 農業の基盤を奪われ、自国の平和さえ守れないようでは、先の大戦から何も学ばなかったということになる。先の大戦では、天皇は最大限に利用された。日本は、はっきりと、平和を守る立場にたちきらないと、危うい。

 憲法9条をもっていることが、いよいよ重要になってきている。これがあるからこそ、韓国は日本を貶めようとし、中国も舐めているようだし、ロシアも同様であると思われる反面、だが、人類にとって、平和こそ最も大事にすべきことは明らかであり、そのためにできることを実行していくことが重要である。筋を通して、進んでいくべきである。

 

 

 

 


すべては把握できないが

2019年05月27日 22時46分40秒 | 思考試行

 アメリカの貿易赤字は、不公平で起きたことなのだろうか。日本の自動車がアメリカに輸出されて、アメリカの車は日本では、最近ではあまり見かけない。ドイツ車はみるが、韓国の車は見たことがない。

 どうしてこうなったのかといえば、あきらかに、車の性能だったり、価格だったりするのではないか。アメリカはいつの間にか、日本に追い越されてしまっただけなのだ。

 自由貿易は、こういう事態を作る。得意分野で、勢力をのばし続けると、差がついてしまって、どうしようもなくなる。製造業ではそうなるが、ソフトの分野でアメリカは、世界を牛耳っている。パソコンの世界では、大儲けをしている。独占状態である。

 そこへ中国が進撃を開始した。技術を学び、資本を投下して、急速にアメリカに追随し始めている。今や、抜き差しならない事態になっているようで、どうなっていくのか、不安である。

 中国のやり方は、技術移転にまつわる、かなりひどいやり方が横行している話を聞く。長い期間と努力を積み重ねてきた技術をあっさりと横取りし、別会社で特許をとって、もともとの開発して技術を教えた会社を、特許侵害で罰金までとったという話である。

 これが本当なら、こんなひどいやり方は、人間のやることではない。しかし、政治体制が違えば、なんだかんだと理屈をつけることは可能かもしれない。

 いつもまだ過渡的な段階であって、ひどい時代もあったね、という話になるのかもしれない。その当事者は大変である。その時代において、不都合であることを許すわけにはいかない。後代でそれが是正されたとしても、その不都合は取り消されるわけではない。

 ひどい目に会った人は、まさにやられっぱなしであり、その生涯においてとりもどすことはおそらくできないだろう。うまく、損しないように生き抜いてきた人と、騙され、横取りされ、悔しい思いをした人がいて、この不公平は、ただされることはまずない。

 人生というのは、そういうものだとすれば、どういう状況になろうと、嘆き悲しむのではなく、どうあっても幸せであったと思える人は、強いということになる。

 不満不安、嘆き悲しむことに終わってしまえば、その人生は失敗と言わざるを得ない。だが、誰がどう言おうと、本人が、なっとくの考え方で人生を眺めているとすれば、それは、勝利者といえるかもしれない。


トランプ大統領の表彰状

2019年05月26日 22時46分44秒 | 思考試行

 工夫なく、簡単な英語で表彰状を読み上げた。だが、そのために天皇賜杯と同様な大統領カップを用意していた。準備をしていたのだ。おそらく日本製だろう。重そうな立派なものだが、今後ずっと登場することになるのだろうか。そして、土俵へ上がるための、白い台も用意された。

 安倍首相が先にあがり、続いてトランプ大統領が土俵にあがった。靴のままだったようだ。特殊なスリッパのようなものを履くという話もあったようだが、結局はそうはならなかったようだ。

 おそらく、土俵へあがるための台といい、土俵へあがることについての慣例も破られたことだろう。

 その光景は、まるで、宗主国の君主を迎えた属国のようだった。まさに、アメリカにとって、日本は属国と言われても仕方がないぐらい、アメリカべったりに日本は動いている。基地を提供し、空を自由に使えない。

 それにしても、日本の伝統的な相撲をみて、トランプ大統領はどのように感じたのだろうか。アメリカではない風景だろうから、カルチャーショックをうけても不思議ではない。感想を聞きたいものだ。

 優勝セレモニーの冒頭で、君が代を整然と合唱する観衆の様子をみて、どう感じただろうか。観衆もいつもより行儀がいいように見えた。先生を迎えた生徒のような様子がみえた。先の大戦の前の日本国民の片鱗を感じたのではないだろうか。

 地球が平和であるために、トランプは重要な役どころをになっている。かれが、軍隊を動かせるわけだから、かれの動向は注視せざるを得ない。そして、その武力を背景に、世界を恫喝まがいに、自国の要求を突きつけている。

 自由貿易の原則を踏みにじることも自国の利益のためならやりかねない。理不尽なことも平気な様子がある。そんなことをしていれば、いつかは、大きな対立抵抗にあっても不思議はない。その時トランプ大統領はどうするのか。

 今の時代、人間の人となりについて、秘密にしておくことは難しい。だれもが、あるべき方向性を外してはいけないのであって、犯罪者が国のリーダーであってはいけないのだが、現実にそういうリーダーがいる世界の実態なのである。

 トランプ大統領には、そんな危険な雰囲気がある。片手で表彰状をもち、メモを読むようなスタイルは、アメリカにあるのだろうか。そんなところにも違和感を覚えた。

 だが、観衆は、へんな反応はせず、キチンとお客さんを迎えていた。礼儀正しい雰囲気が守られた。そうとうに日本的であった。

 


「轢逃げ」の感想・教訓

2019年05月25日 01時12分01秒 | 思考試行

 逃げたらアカン。映画の前半のところで、本当にそう思わされる。都合の悪いことからは、基本的に逃げたらアカンと思い知るべきだ。この教訓は大きい。

 逃げるから、余計に状況がひどくなる。まさに地獄である。では、すべてに逃げてこなかったかといえば、おそらく、あちこちで逃げてきたのではないかと思うが、逃げた方がいい場合もある。

 ただ、この種の事故(轢逃げ)を起こして逃げるのは最悪である。まさに、助けることができたかもしれない命を、奪ってしまうのだから、新たな状況を作ってしまう。

 映画をみていて、まさに適正な処置をしていたならば、この映画は、成立しないことになるが、充分にこの適正な処置をしなかったことによる加害者の地獄ぶりが、よく描かれていて、観客は本当に逃げたらダメだということを教訓として身につけることができたのではないかと思う。

 単純にそのことを知らしめるだけでもこの映画の意味がある。もっとも、逃げてしまったわけだが、そのあとこそが、この映画の主要なストーリー展開となる。人間生活の中で、人間関係のなかで、人が人を差別したり、いじめたり、傷つけたり、していることへの問題である。深いところで、人を貶めてはいないのか、人を傷つけて平然としていないか、深刻な深い闇のこころがあることを指摘する。

 その結果がもたらす悲劇、壊れてしまった人間がでてくる。

 この映画は、なかなか怖い映画であるのだが、反面、人間生活の魅力も伝えてくれる。夫婦の絆であったり、ベテラン刑事と新米刑事のやりとりのなかで、人間社会の暖かい関係がみえてくる。仕組みのなかで、健全に成長していく姿が、よく描かれている。

 こういった経験は、よくあったことである。それが、現今では、儲け主義が蔓延るなかで今廃れつつあるようにみえる。このままではよくないのは明らかで、そんな問題にも切り込んでいる。健康な人生を描く、そのタッチが柔らかくて、心和むのである。

 よって、この作品は必見の映画である。


映画「轢逃げ」をみる

2019年05月24日 00時02分56秒 | 思考試行

 水谷豊監督、脚本の映画である。さすが主演ドラマ、映画に出演しドラマ作りには自信をもってとりくんでいるのだろう。力作であった。

 暗い題材で、興行的に成功できるのかどうか心配であるが、キチンと人間生活の本質に関わるテーマであって、誰にでも起こりそうなシチュエーションである。

 ドラマであるから、道具立てに工夫があって、そこが重要なポイントになっている。浮かれていてはいけない真面目な人生が語られる。心理的な問題もある。

 この映画は、久しぶりにみた本格的な人間ドラマであった。人間が大事にしなければならないこと、夫婦関係でも、被害者の夫が、ようやく立ち直りのスタートにたち、妻に「ありがとう」というシーンには、こちらも泣かされてしまった。

 出演者が泣くシーンはよく見るが、同時的にその感情を味わうということは稀である。その感情に満たされた。小生も、妻に感謝しなければならないことを痛感した。

 とりわけ、妻役の檀ふみの涙にグッときた。母親として、夫を支え自らの悲しみをこらえこらえて、我慢を続けてきたプロセスが、夫の一言で、同志的な安堵を得たのかもしれない。見事なシーンであった。こんなシーンは、さすが水谷監督だと言いたい。

 ベテラン刑事と新米刑事のコンビも、ギスギスしていず、スマートで、人間としても魅力的である。救いとなる人物として登場している。

 弁護士の悪辣な要素がチラリとみえたり、これは職業として、依頼者の肩を持つのが仕事だから仕方がないが、そこに、正義を本当には追求しない悪い面が表現されている。

 だが、ベテラン刑事に、弁護士にもいろいろいて、正直にいいなさいという人と不利なことは言わなくてもいい、という人と二通りあると、言わせる。弁護士全般を色付けしたりしないところも、きめ細やかである。

 映画というのは、たいへんなエネルギーと多くの人の力で作られる。特にこのような興行成績をあげようとして作った映画ではなく、多分に、水谷監督が、作りたかった映画であることは明らかで、人間としての大事な問題を取り上げている。 

 まちがいなく、必見の映画である。

 小生は、エンドマークで「救われた」のだが、観客の反応をみていると、そこまで感動してはいない人もいた。

 それでいいのだが、物事をみる見方の深さ、人生に対する姿勢を、再認識させるような、内容をもっているので、話し合ったりすると、人生に対するものの見方にも影響があって、深く、広くなるのではないだろうか。非常に有益な映画であると思う。


マスコミの行方

2019年05月23日 11時22分20秒 | 思考試行

 マスコミの目指す方向はどこを向いているのだろうか。引越しして驚いたのは、この辺の方々は、どうやら新聞をとってないようなのだ。ゴミだしの際に、新聞がでていない。前に住んでいたところでは、たくさん出されていただが、この違いにおどろいた。新聞をとっているところがどんどん減っているという話を聞いたことがあったが、正に現実になっていた。 

 たしかに、スマホでは、簡単にニュースが見られるし、これなら、格別料金もかからず、手軽だし紙の処理に困ることもない。

 このままでは、新聞の役割は終わってしまうのだろうか。やはり、中味が問題なのかもしれない。読まなくとも支障なしとみられているのだろうか。

 新聞に限らず、テレビも変化してきているように見える。どうでもいいような内容ばかりではないか。売らんかなばかりではないか。

 マスコミは人間生活のためにどう役立っていこうか、という視点を外してはならないと思う。儲け主義や視聴率をあげることが主要な目的になっているようでは、本筋を外すこととなる。

 世のため人のためが、基本にドーンとなければならない。時の政権の肩をもったり、忖度したり、そういう方向が出てきたときに、マスコミは、有害なものに転化する。

 娯楽番組や料理番組、タレントの結婚離婚、不祥事、などなどあたりさわりのないテーマを延々と流しているのをみていると、騙される大衆の姿がみえる。大衆を本当に大事にする姿勢があるのだろうかと危惧する。

 国際情勢や日本との関係や歴史問題や、環境問題、公共事業のこと、官僚の人事制度、自治体の仕事ぶり、課題、コンピュータ社会における問題点、使い方についての情報、等々。必要な情報をもっと出さなければならない。

 人間としての成長をどう遂げていくか、人間として生まれたかぎり、人生の底流にはこの課題が誰にもある。考え方もさまざまにある。各国との価値観の違いや、それをどう共生するためにおりあっていくか、多様な課題がある。

 一人ひとりが、どう生きていくのか、考え方で対処できることもあるかもしれない。さまざまな知恵を集め、その成果を、どんどん出すべきだ。それができる媒体である。また、しなければならない任務を持っているといえる。悩める人が多くいる。

 マスコミが本気で、人類の向上をねがい、個々の人間のために、どう役立っていくのか真剣に考えるべきだ。世界平和のため、取り組むのだ。深いところでそう考えているべきだ。

 環境問題と異常気象との関連の研究はどうなっているのだろうか。人類の生活と何らかの関係性があるのだろうか。とすれば、くらしぶりにもメスをいれなければならない。課題は多いのである。


立川志らくさんの嘆きを考える

2019年05月22日 00時05分46秒 | 思考試行

 弟子入りの頃、師匠に対する憧憬のこころは、ホンモノだったのが、出世して二つ目になったら、徐々に、師匠に関心を持たなくなってきた、そこを、志らくさんは、インターネットで嘆いてみせ、弟子たちを前座に戻してしまった、という話は、このところ、俳句番組で特待生になり、志らくさんの人間性をみせてくれていたから、その本人が発信したということで、興味深い。

 およそ、人間というものは、自己評価が高く、他人が考えている評価よりも高いらしい。ということは、出世をすれば、師匠との差が縮まるわけで、当然ながら、前座時代とは尊敬の念の度合いも変わってくるのかもしれない。

 落語の世界がどれほどの努力を必要とするのかは知らないが、たった一人で、多勢の観客を笑わせようというのだから、その芸は、一朝一夕にはできないことは明らかである。そういう技術、芸を伝統として現在まで育ててきているのだから、落語という芸のすばらしさは、人を感動させてやまない魅力があるのはまちがいないし、そのために先達がいかに努力してきたか、の深いいきさつ積み重ねがあるに違いない。

 そこには、たんなる芸というよりも、人間としての悟りというか、人を楽しませ、慰撫する要素があるに違いない。それは、人の人に対する熱い思いがなければ、できないことである。そこには、観客に対する愛があり、信頼があり、一対多であるにもかかわらず、それを乗り越えた赤い線熱いもの、が存在している。

 そんな思いがなくて、なんの芸か。志らくさんの嘆きには、人間の悲しみがある。ある人間がある人間に惚れる、芯から感動する、その気持ちをもっているかどうか、そこに、人を感動させる源泉がある。

 そんな風に人に惚れることの出来る人が、観客に真の愛情を抱きつつ、決してそんな顔をみせずに、むしろ、つっけんどんにしながら、実は、観客の幸せをねがい、辛いこの世を共に生きるなかまとして思っているからこそ、成り立つ芸なのではないか。素人の小生がそんな予想を勝手にしている。

 師匠をないがしろにするような人間は、とうていモノにはならない。そこには、人を愛するという、この本質を知らないことを示している。芸事など何も知らない小生でも、志らくさんの嘆きは理解できる。

 落語にかぎらず、漫才、漫談(最近見ないのが寂しいが。)、芝居、演劇などなど、通底するのは、その心持ちではないだろうか。そこに感動のタネがある、というか、そこにしかないのではないか。心底人間に失望し、絶望している人間には絶対不可能な芸である。だからこそ、失望、絶望している人間を救う力を持つのである。

 ものすごい収入とか、もてるとか、そんな動機だけでは、とてもいい芸人にはなれないと思う。スタートはそれでいいのだが、どんどん変わっていき、本質に近づくものではないだろうか。


まだ少し現役にいるが

2019年05月21日 12時37分54秒 | 思考試行

 まだ、現役時代の「名残の仕事」をしているが、相手様にとっては、現役真っ最中であり、こちらが名残なんて思っているとしたら、すぐ、クビになることだろう。また、失礼なことである。どこか、うまく、本能的に、取り繕っていると思う。

 とはいいつつ、仕事の分野を減らしてきて、今は、相当楽になっているはずだが、減ったら減ったなりに、それが、仕事のすべてであるから、当人としては、完全解放ではもちろんなく、仕事のしめる気分の割合は、大きな部分を占めている。

 環境局から猫の引き取りの職員がきて、あっさりと猫との生活は終わった。家内は昨夜、夢をみた。すでに死んでいる猫と、昨日死んだ猫たちと、日常のくらしをしていたという。猫たちも誰がもっとも自分たちのことを考えてくれていたのか、世話をしてくれたのかを、知っていて、その恩返しではないか、と小生は思ったとおりを言ったのだが、夢をみる本人の思いの質や量にも関係するかもしれない。小生はそんな夢はみない。

 車は手放し、免許の更新はしたが、手続きが相当面倒になってきている。なんだかイヤ気がさしてきている。意欲的にどこかへ行こうかという気分も徐々に減退してきている。北方領土がどうのこうのとか、権力の動向がどうのこうのも、関心が薄くなってきている。

 戦争なんかダメだと言い続けているが、これとてやりたいものが権力を握ると、なんだってやってしまう。大衆を動かし、雰囲気を作り、多数決に持ち込み、自分らの言い分を実現する道具を手にいれる。戦争だってするかもしれず、大阪市だってなくなってしまうのだ。

 選挙の戦術や時期、大義名分、雰囲気、いろいろ考えて、徐々に手がうたれる。うかうかとのってしまう仕組みが山ほど用意されている。大衆は馬鹿にされていることを知っていなければならない。落とし穴におちないように、自分のくらしの原点をつかんでいなければならない。

 死ぬまで生きるのだから、生き方については、みんな真剣であると思いたい。だが、そうはいかない現実がある。なにかにつまずき、家から出られない人々が多くいる。この人たちは、まさにそうした実態が、社会が、つくりだした現実である。

 どのようにして、こうした人たちが、いきいきと生きていけるようにするか、どんな配慮が必要なのか、心理的にも、経済的にも、真剣な対策が必要である。政党は、この問題をまともにとりあげてきただろうか。社会の問題の分析ができているだろうか。政治家は本当の仕事をしなければならない。

 質的な成長、人類の共存問題を考えないと、存続そのものが危うくなっている。異常気象だって災害だって、対策は可能である。問題だと思える問題は、対処する。誤魔化しや、言い逃れや、小手先のワザに終始しているようでは、いけない。

 なんとか、この対策の一端に加わっていきたいものだが、またぞろ怠け心がもちあがってくる。

 


最後の猫とのわかれ

2019年05月20日 16時46分03秒 | 思考試行

 ついに最後の猫が死んだ。今朝6時。昨夜からほとんど動けない状態だったが、時折悲しげな弱弱しい声をあげる。頭をさすると、こすりつけるかのように反応する。まよこになって寝ているのだが、頭をこちらへ向けて、ジットこちらと目を合わせている。目の色からは、結構意志の力のようなものが感じられる。

 昨日から、どうみても回復は不可能と思われる状況になって、こちらは看取りの態勢にはいっていた。家内は、ほぼ徹夜するつもりのようだった。ふたりの寝床の間に、猫をねかせた。体をさすったり、肉球の温度を感じたり、痩せに痩せた骨だらけの体をそっとなで回していた。

 時々あげる声は、死への不安なのか、あわれであるが、声かけをすると、反応がわずかにある。目はしっかりと、こちらをみているが、涙ともみえるうるおいがある。寝たままの姿勢でいつまでも見ている。

 こちらはいつの間にか、寝入ってしまったところもあるが、猫は寝入った様子がない、が、苦しむ様子もなく、本当に楽になっていくという実感がある。

 妻が、息をしていないみたい、と声をかけてきて、目が覚めた。安堵感のようなものがわいてくる。これで終わったという感慨。

 思えば長い猫との生活があった。入れ替わり立ち替わり猫がやってきて、飼おうというこちらの意志には関わりなく、猫との生活が続いてきた。

 そのなかで、生命一般に対する認識が変わった。親の介護など、結局4人共に深い関係性があったのは、地理的な条件ももちろんあったが、それよりも命との関わり合いということで、極く自然にとった行動だったし、それほど無理でもなく、そして今、後悔はもちろんない。

 これらを可能にしたのは、猫との生活の中で培われた、ありがたい、われわれ夫婦に与えられた感性であったと思う。

 親を。ケアし、キチンと送れたという実感。誰にも言わないけれども、夫婦ふたりの誇りである。

 その当時の兄弟達のふるまいや、その後の事態から、自分たちの身の振り方についても真剣に考える動機を与えてもらった。

 猫を飼うことの、意味は大きかったのだなと実感する。

 


いよいよ別れのときが

2019年05月19日 22時47分48秒 | 思考試行

 飼い猫がもはや虫の息の状態になった。水も飲めないし、もうエサも、うけつけない。元気な猫であった。昨日あたりから前記のような状態になった。付き合いは相当長い。

 子猫の時代から、歯が抜けた今の状態まで、多くのできごとがあった。トイレは最初からできたし、なんの問題もなかったが、最近は、独特のスタイルで、徐々に所定の場所ではできなくなり、ついにオムツになったが、そんなことは、猫は全然気にしていない。

 猫の順応性には、本当に助かる。

 口臭はものすごくあり、口の中は、血だらけの状態だ。とにかく安静にしているほかなしという状態である。

 われわれ夫婦も、いずれは、このように死んでいくこととなるのだが、今はいろんな仕組みがあるようで、後期高齢者の誕生日をきっかけに、われわれのことについて、具体的に動きだすつもりでいる。

 人間生まれたら、死ぬ定めである。どのように自身の肉体を処理していくのか、誰にそれをしてもらうのか、これを決めておきたい。兄弟、親族を頼ることになるのが普通だろうが、それはしたくない。

 多くのことをよかれと思ってしてきたことが、別に文句など言うつもりはないが、深い本音のところで、ごく最近、失望を感じた。かれらに、はっきりと告げたわけではないが、あきらかに子供時代とはちがう感覚になってきていた。

 もはや、他人以上に離れた存在であり、顔をあわせれば普通に話をするかもしれないが、心底、失望してしまったのだ。可愛さ余ってにくさ百倍。文字通りそんな経験をした。

 大人になれば、そんなことはどうでもいいことで、それぞれ、自活して死ぬまで生きることである。おもえば、これだけ冷たくできるから、大人になれたということもいえる。ということは、ここまできたのだから、もう彼らを心配する必要などなく、まったく安心な状態なのである。

 ということは、われわれは、自分のことは自分でキチンとしなければならないことは当然のことであって、その事実をはっきりと知らせてくれた。これで、人生は完結する。友人の、先に逝った連中は、それぞれの事情で、それぞれ完結していった。

 猫もまた、あと数日中には、死をむかえることは確実だろう。もう半分以上、あの世に存在をうつしているかのような目つきをしている。呼吸はしっかりしているが、体温は低く、肉球に温かみがなくなってきている。

 これで30年以上続いてきた猫との生活は、全て終わりとなる。いれかわり、たちかわり、猫がいない時期はなかったが、もう、こちらの年のこともあるから、新しく猫を飼うことにはならないだろう。すべてが、整理の対象になってきたことを実感する。


評価の多様性と集中

2019年05月18日 17時19分05秒 | 思考試行

 喜んで帰ってきた家内は、少なからず自信をつけたようだ。句会メンバーに言葉をかけられ、いつもはとってはもらえない手練のメンバーの点ももらえたというので、興奮を隠せない。さらには、教室を主宰する先生からも特選をもらい、本当に喜んでいる。

 後期高齢者になって、まもないけれども、まるで青年時代のような喜びの機会を得られることは、有難いことである。今後の精進を本人も決意しているようである。

 俳句の効用を目の当たりにして、当方も刺激をうける。一応、投句は続けているけれども、身近に句をああでもない、こうでもない、と直接俳句仲間から指摘されたり、プロの先生の指導をうけているということは、力量の進歩には有利なのは確かで、そういう機会のない小生とは、昨今ははっきりと作句能力に差がついてきた。

 いずれにしても、俳句と関わりながら、真剣に人生に立ち向かうという姿勢がでてくるわけで、趣味といいながら、楽しみながら、成長していけるという、すばらしいツールである。

 同じ風景を見ていても、すこしも心を動かされることもないというのではなく、感動するときはもちろん静謐な心持ちであっても、それを表現できる手段をもち、工夫する習慣をもつことの意味は大きい。

 たんに嬉しいとか、楽しいとかいうのではなく、それをモノに託したり、いろいろ工夫次第でひろがりのある感動を呼び起こしたりできたときは、達成感がえられる。反対に、なかなかうまくいかないときもある。そのほうが多いかもしれないが、そのこと自体が、知識を増やすチャンスとなり、人間としての能力を高める努力をしている可能性がある。オーバーに言えば、人生をかえる道具である。

 他者の作品を味わい、その鑑賞をするなかで、知らなかった観点、感動を知る機会ともなる。短いということが、本質的な価値観にふれてくるところがある。隠し仰せない人間の本質がでてくるときもあるようだ。

 幅広く、上品に収まってはいないから、雅やかなムードとか雰囲気を出すことは、俳句では難しい感じがあるが、それとて不可能ではないはずである。好みのままに、どのようにでも作句できる可能性がある。

 ということで、明日に投句〆切日がせまっている。推敲を重ねて、なんとか圭句をものにしたいものである。


努力の成果が報われるとき

2019年05月17日 17時52分01秒 | 思考試行

 努力したからといって、必ず成果が得られるかどうかは解らない。だが、努力しなければ成功はありえない。

 俳句についても、努力すれば句会で評価されるようになるかどうかは、解らない。だが、基本に忠実にコツコツと努力していれば、その成果はあらわれるもののようだ。

 今日、体調の都合で句会を中座した家内の友人の方から、わざわざ電話があり、家内が句会で、相当な好成績を収めたと、知らせてくれた。

 家内は、まだ帰宅していないが、句会でこんなふうに、多数の点を獲得することはほとんどない、ことらしい。 

 小生は、句会経験はないが、句会の様子を聞いても、結構複雑なシステムで理解したとは言い難い。17音の文字で、お互いの句を発表しあい、相互に評価しあうのだが、すばらしいしくみであることは理解している。

 お互いが切磋琢磨して、人生に彩をもたらしている。家内の行動、活動ぶりを眺めていると明らかに家内の人生にすばらしい影響を与えている。

 俳句は、まさに日本文化であり、短いからこその利点と、全部は言わずに、より深い世界を作り出すという文学が、昨今大人気をなっているのは、いいことだと思う。

 人間関係を、風景を、自然の美しさを、なんでも対象とする。観察眼を養い、感動を求める。人生を変える要素に満ちている。鬱に苦しんでいた人が立ち直るきっかけになったという話もある。

 小生も家内の影響を受けつつ、少しずつ作句をしているが、確かに、常に句材を探しているようになった。少しずつではあるが、気付きが増えてきているように思う。

 自分だけで作っているだけでは、なかなか進歩は難しいようで、句会に参加して、他者の目にふれ、忌憚のない意見を聞くなかで、また、自分も意見を表明することで、お互いが成長していくようである。

 それでも、小生は、まだ、句会に参加したいとは思えないのだが、ちょっと人見知り傾向があるようで、こうなると性格的な変革にもつながることかもしれない。

 さて、家内がどんな様子で帰宅してくるか楽しみである。件の家内の友人の方は、拍手で迎えてあげてください、と言われていたが、さて、どのように迎えてやろうか。