あの世があって、この世との関係が「調整」されているとすれば、この世でいくら理不尽な目に会おうとも、あの世に期待することができる。逆に、我ながら、悪事を働き、この世での成功を勝ち取ったと自覚できる人は、あの世の存在があるなどとは思わないかもしれない。あの世でひどい目に会うのはまっぴらごめん、と思うことだろう。
この世で、はっきりとあの世の存在が証明できるとは思えないから、あると思っても、ないと思っても、それはこの世のことには、直接関わらないことではある。だが、あの世があると思って、他人のことを思いやり、できるだけ自己利益の追求を控えている人は、結局のところ、他者にとって、好ましい人物であり、この世での成功の可能性の高い人であるといえる。ただ、あの世の自己利益の追求ということであれば、少し寂しい気はする。
この世かぎりと、この世での戦いに全力を挙げている人は、厳しく、苛烈な自己中心主義者となるのかといえば、ただただ、あの世があろうが、なかろうが、懸命に努力し、その結果この世での成功を得たとするならば、それは、非難すべきことではない。
他者を騙し、突き落とし、あらゆる手段を講じて、自己の望みを満たそうとする人は、周辺の人々に、おおいに迷惑をかけている。この世で素晴らしい成功を収めたとしても、こういう人こそ、あの世でひどい目に会ってほしい、と誰しも思うだろう。
さて、どうなるのか。それは死んでみないとわからない。いずれにしても、あの世があろうが、なかろうが、関係なく自ら正しいと思うことを、実行することにすれば、悩むこともない。
あの世をあるとして、怪しい説に惑わされることもない。あの世があるかないかは、私にはわからない、という立場でこの世にのぞむということである。「神」が存在するかしないか、も同様である。神の存在は、わからないけれども、宗教者の言う、良いと思う点は、とりいれ、神が、いてもいなくても、自ら信ずるところを生きるのみである。
多くの騙しのテクニックは、あの世があるとして、さまざまな手練手管をこうじてくるのだから、豪華な装飾や、構築物に騙されることはなく、まっとうな暮らしを続けることができるのではないか。