空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

客層

2007年05月31日 18時16分12秒 | 思考試行
 月末集金で、アチコチまわった。時間調整と駐車場目当てで、大規模スーパーにはいる。本屋さんで、駐車料がわりに少し買い物をするのだが、本の置き方が変わるのはいいとして、ナカミが相当変わり、マンガとか、子供向けのものがふえ、結構難しそうな本があったのだが、すっかり消え去った。客層が、当初の予測と違ったのだろうが、ちょっと、寂しかったりする。そこらの本は、自分自身買うことがなかったにもかかわらずである。

客顔

2007年05月31日 18時05分08秒 | 思考試行
 小生が役所にいたときは、そいつに、○○サンとよばれていた。若干、許認可に関係していたものだから、下手に出ていたらしい。ところが、そのクラスの友人は、今や、小生の損保のお客になってくれているが、久しぶりに電話があって、○○と呼び捨てできた。

 こういうのは、なんとなく違和感があって、そいつの人間性を疑うような気になる。いいやつで、悪意とか、そんなことはないのであるが、いわゆる「客顔」をする、というのであろうか。契約とのバーターという感じがあって、損保会社にその分の、報酬を請求したくなる、というもんだ。

 

広い分野の読書の楽しみ。

2007年05月31日 08時55分52秒 | 思考試行
 ここのところ、読書づいていて、天童荒太さんの「家族狩り」の一部から五部までを数日かけて読みきった。最後まで、読んで作者の意図するところを把握できた。

 現代の、今問題になっていることがテーマとなっているので、世の中で、いま起こっていることを知るという意味では相当の刺激があった。

 ここまできているのか、という暗澹たる気分を、どう浮揚させるかということの課題に直面することとなる。

 結局は、個人の広い視野の獲得、社会のそうした努力に対する評価、がしっかりすることが、重要で、教養が軽視されたり、金だけが、成功のバロメーターであったりする、軽薄な価値観の蔓延が、問題の根源にあるように思う。人間としての価値とはなにか。生きがいとは、社会とは、いくつもの課題をもちつつ、生きていかなければならない。

 続いて、前から読みかけになっていた、榊原英資さんの「経済の世界勢力図」を読みすすめはじめた。これは、まさに、実務的に、現在のアジアの政治経済状況を、中心に、世界の現状をわかりやすく講義してくれていて、中味が濃い。

 歴史のながれを、具体的に豊富なデーター、人脈、ミスター円と呼ばれている筆者の、素晴らしい力で、鮮やかに、示してくれる。今朝寝床のなかで、読んでいたのだが、この本は、実生活に真正面から、関係する話であり、凝縮感がすごい。

 中国、インドの発展具合、政治状況、世界的潮流が、いながらにして把握できる。この方面は、あまり、関心がなかったのであるが、単に資産運用に必要というだけではなく、生活すべてに関わることであるから、けっして、これも無関心であってはいけない。

 よく、文系、理系という区別をするが、その意味はあまりなく、両方できなくてはならない。また天童さんのような作品の意味とは、まったく次元が違うので、比較はできないが、榊原さんのような資質が天童さんにあれば、作品はさらに、深いものになったであろうし、榊原さんが天童さんの世界を熟知していれば、経済政策や、政治政策についても、なんらかの影響があって、より、きめ細かく、なるのではないかと思う。榊原さんたちが、優秀な高校生を集めて塾をされているのだが、その生活ぶりの幼稚さにふれられ、指導の必要性をのべられているくだりは、当初予測されていなかったようで、そうした、方面に死角があることが、容易に読み取れる。

 あらゆる分野から、人間というのは、語られなくては、ならないと思う。専門は大事であるが、広範囲に興味をもち、その成果をお互い生かしあうということが、重要であると思った。

手本として、直視する。

2007年05月30日 21時50分28秒 | 思考試行
 父親のセキがひどい。通路を隔てて、同じ屋根の下にすんでいるが、少し離れているだけに、独立性は保たれているが、気配はわかるので、セキこんだりするとすぐにわかる。

 食事のときなど、とくに気道のほうに、食べたものが、いくことがあるのか、激しくせきこんだりする。

 入院中に、「コンバンカ、2、3日」といわれて、みんな覚悟したときから、ほぼ二ヶ月たつが、やはり、調子が狂ってくると、苦しそうである。

 今月25日の定期診察の際には、前回の入院前の状態にもどってきている、と医師に言われた。尿を出さないとシンドイし、あまり薬を強くすると、腎臓にダメージを与えるということで、アチラたてれば、コチラたたず、の状態になっている。

 年齢が年齢だから。もはや、思い残すことはない、と傍からみればそういうことだろうが、当事者は、そんな風ではない。いくつになっても、あまり、感覚的には、変わりがないようにみえる。

 なにしろ、生きている手本である。心理状態から、生理的なことまで、多くのことを、そばにいるもののつとめとして、きちんと直視していきたいと思う。いま、セキは、おさまっている。

競争・・・自分と相手。

2007年05月30日 19時44分08秒 | 思考試行
 なんとなく、民主主義があたりまえのことだと、思っていたら、それは、日々キチント意識していないと、すぐくずされる可能性があり、都合の悪いと思った連中は、そんなものは、無視してかかってくることを忘れてはならない。

 自分の思うままに進めることができて、初めて満足であって、相対的に譲らなければ、とか、全体の調和とかは、関心の埒外というのが、いるのでビックリする。それが、一流大学を出たといって、自慢をしている。たいしたことはないのだな。とおもったことだった。

 だいたい、世界一は、評価されるけれども、二位や、三位となると、あまり記憶されなかったりする。中味はほとんど変わらないと思うが、評価の違いが著しい。

 そんなものに、こだわってアクセクしていることが馬鹿げていることに、気がつけば、その人は幸福ではないか。アクセクするのは、おおよそ、間尺にあわないことが多いと思う。とりわけ、相対的な競争関係においては、そういえるのではないか。

 相手のことを考えている人というのは、成功の可能性が高い。それは、当然のことのようにおもうが、意外と、自分のことから離れることが難しいのである。相手中心に考えられるようになれば、一人前といえる。それで、自分も落ち着くのである。なんとも、不思議な構造であるが、どうも、世の中そういう仕組みになっているようである。


 

自分の頭で考えること。

2007年05月30日 10時56分20秒 | 思考試行
 民主主義とはなにか。

〔democracy〕人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す。

 辞書には、上記のようにあって、今、我々は、タテマエととして、こういう世界にすんでいることになっている。これを、どこまで、理解し実践できているだろうか。力関係、ウラ社会、へんな力学がはたらいて、とても、民主主義とはいえないような状況がある。

 先日も、わかい保険会社の社員と話していて、お客の利便性とか、代理店の労力とか、他者のことを考えているとは思えないセリフにであった。「会社がきめたことですから・・・」その理由の背景、には関心がない。それで、若者といえるか、と思わず説教してしまった。

 なぜか、と疑問をもたないでどうする。理由が意味あるものか、どうなのか。まずは、自分の頭でもかんがえてみよ。と。

 言われたことを、なんの思考もなく、ただただ、機械的に従っているようでは、とても、民主主義の世界で生きているとはいえない。

どうという事はないのだが。

2007年05月29日 20時25分04秒 | 思考試行
 要は、世の中を良くしようと考えているのか、いないのか、につきる。何か他の要素がからむとすれば、大抵見るにたえない醜い代物であると思う。

 利益がなんであるかと、思うものにもよるけれども、いずれにしても、それがどうした、というしかないもので、ノドがかわいているときには、コップいっぱいの水は非常に有難いのだけれど、そうでないときには、なんだ、ということになる。

 そして、何もかも、いってみれば、たいしたことはないのである。突然、命がとぎれたからといって、どうということはない。メクジラをたててもしようがないのである。

 なにを、大事に考えるかであるが、どれもこれも、大事とはいえない、といってしまえばそうなのである。本質的にはそうだと思いませんか。私はそう思える。

 本質的にそうであっても、生活レベルで考えれば、ご飯を抜けといわれれば、おなかがすいて、我慢ならないのであって、それは、ナントカしてほしいということになるのだが、そのまま、飢え死にしたからといって、どうという事はないのである。現に多くの人が、地球上で死んでいるのである。だれも、それを真剣に考えているわけでもない。そういう存在であるのだ、我々は。

 しかし、大事に思うではないか。自分や、家族は。

 でも、他人のことを、軽く考えている以上、自分たちが、どのように扱われようと、文句をいえる筋合いではない。

 腹立たしいのは、自己中心の考え方である。こういうヤカラは、なんとかしたいものである。といって、これから抜け出すのは、至難のことである。

 結局のところ、世の中捨てたものではないと、思えるのは、お人よしが、たくさんいるからなのである。

議論のスレチガイを意識的にやっている。・・・広い視野がいる。

2007年05月29日 08時43分05秒 | 思考試行
 やるべきことをやる。それは、どこから、判断するのか。カッコつけたり、利益のためだったり、するのは、本格的とはいえない。さりとて、単に、自らのローソクを、すりへらすのみ、というのも、生理的に限界がある。
 限度はどこか、そこには、多様性がある。ある人は余裕であり、ある人にはたえられない。

 権力を握るということは、多くの人のかわりとなって、その集団の、舵取りをすすめるということである。そこに、人々の意思を、どうくみとるか、ということになる。

 人は仕事をするにしても、すべての分野に通暁することは、不可能であると考えている。そんなことはないのかもしれない。その気になれば、できることであって、そこでその姿勢をみんながとりはじめると、合理性がもとめられてくる。

 どうして、そうなったのか、集団的に検討がはじめられると、いろんな人がいるから、それを納得させるには、たいへんだが、これは、きまったことである、ではなく、意味が一人ひとりに、浸透していなければ、あたらしい社会、環境はできない。一人ひとりの参加が必要である。全体方向を、権力者だけでなく、みんなが意識しないと、不可能である。

 中国の問題をみていると、その、プロセスにあることがよくわかる。著作権なんて無視、模倣はあたりまえ、猛獣に生きた牛を襲わせ、それを、娯楽として楽しむ人々、権力は、賄賂を糧にどんどんフトル。低いモラル。格差。どうしても、全体として、改善されないと、問題の解決はない。

 国会の議論にしても、結論はきめて、多数党は議論する「フリ」をしているだけで、したがって、議論によって、よりいいものにしようとする考え方ではない。議論のすれ違いをなんとも思っていない。スレチガイを目指している。それが、うまい答弁だと思っている。時間だけ費やして、だから審議時間が、何時間行ったから、充分議論したなどと、むちゃくちゃなことをいうのだ。これは、マトモにみていられない。だから、人は、興味をもてない。彼らの本音は、実は、興味をもってもらいたくないだろう。まともな、やりとりがないのであれば、議論の意味はないのである。松岡大臣の自殺は、こうした風潮の、帰結であると思う。

 かつて小泉さんは、テレビ番組で、他党の政策を読んでいるかと問われ、共産党との個別論争のときのように記憶するが、共産党は、読んで検討しているとこたえたが、小泉さんは、読んでいない、と答えた。  
 
 だれがどのように主張しているかということは、はじめから、興味はないのであって、聞くつもりもないとなれば、あとは多数決で、決まりである。選挙前のパフォーマンスで、騙しきってしまえば、当分の間大丈夫ということだろう。

 支配者は、決定権をもち、そして、利権をむさぼり、その恵まれた地位を保全しようと、努力をする。その力関係が、圧倒的になったとき、こんどは、その構造が、自壊をはじめる。  
 
 他人のことを、考えない体質では、人類社会そのものがもたなくなってきていることである。環境が破壊されつくされば、富も権力もない。全体的な、広い視野を駆使して、人類はいきていかなければならない時期を迎えたのである。

ピストル捜査に金属探知機を町においたら。

2007年05月29日 00時52分43秒 | 思考試行
 たけしのTVタックルをみた。ピストルの捜査の、詳しい情報が、大谷氏から、つぎつぎでてくる。ハマコウが、いないので、会話がまともになっている。聞きやすい。せっかく、貴重な電波を使っているのだから、マジメに、世の中をよくする方法を、提起してほしいものだ。

 ピストルを、発見するのは、たいへんなことらしいが、空港で使っているという金属探知機や、レントゲンなど、町のあちこちに、置いたらどうだろうと思う。もっては、歩けない状況を作る。場所は、不定期にどんどん変わる。スピード違反や駐禁は厳しくやっているのだから、工夫をすれば、方法はあるのではないか。

 

 

真相はどこまで明らかになるのか。

2007年05月29日 00時32分43秒 | 思考試行
 やはり、「きっこの日記」は、すごい。あまりに、詳しいから、驚く。

 真相は、どうなのかを、マスコミは、言い出し始めた。どういう風に、疑問がだされ、解決されていくのか、よくみないといけない。

 遺書が6通。国民のみなさまへ、というのもあるという。これは、発表するだろう。どういう内容なのだろうか。

 そんな覚悟の自殺であるにもかかわらず、その使ったひもが、イヌの散歩用のリードを使って、と「きっこの日記」にあるが、これは、マスコミのどこも、言っていない。

 この情報は、本当に、覚悟の自殺だろうか。とおもわさされる。ましてや、暴力団との宴会の話など、どこにもでてこない。

 恐らく、現場の取材陣や、コンパニオンの人など、裏面をしっている人は、かなりのことを知っていて、それらが、流れてきているのであろう。

 知っていて、真実をのべない解説者や、ありきたりに話をまとめようとするコメンテイターの様子をみていると、はじまったな、という感じをうける。

松岡農水大臣自殺(?)・・・なぜだ。

2007年05月28日 16時12分12秒 | 思考試行
 松岡農水大臣が、自殺した、らしい。昼のニュースできいた。事務所経費のことで、何度も国会で追求されていた。ほぼ、弁解できない状態で、法律が決めていないことだから、の一点張りで、「法律どおりにしている。」をくりかえしていた。それと、談合問題もいわれていた。

 自殺とこれらのことが、関係あるのか、あったとしても、自殺しなければならないことだろうか。この際本音を、さらけだして、辞職すればよかったのではないか。また、なにもかも隠蔽したままで、辞職してもいいし、いずれにしろ、死ぬほどのことではない、と思う。とうぜんながら、死刑になるようなことではない。むしろ、なにかを、隠すために、自らの口を封じたとするならば、政治家というのは、利権をめざして始めたのではないと思うし、途中でそうなってしまったというなら、その辺の思いを語ってほしかった。それは、世の改善にどれほど役だつことだろうか。

 今朝の日経新聞には、アベ内閣の支持率の低下がでていた。こんなことも関係ありなのだろうか。

 いのちの軽重の問題について、考えてみる。憲法9条を変えて、戦争ができるとなれば、命をなげだして、国のためにたたかわなければ、ならない人が必ずでてくる。いなければ、兵隊が不足ならば、徴兵制をひいても確保するだろう。強制的にそうすることも可能だ。国が一番ならは、そうなる。国は一番か。とんでもない話である。国は、むかしは、狭かった。広がってきた。いまや、地球規模で考えないと存続も危うい時代である。あきらかに、戦争勢力は、とんでもなく、命を軽くみている。

 松岡さんは、何のために死んだのだろう。努力し、大臣まで上り詰めて、なにに絶望したのだろうか。絶望するような理由は何だ。朝、起床してネクタイしめて、昼には死ぬつもりだったのだろうか。どんな様子だったのだろう。秘書さんとどんな具合の、話をしたのだろうか。どこかにかならずポイントがあるはずだ。

 昔、大阪出身のアライショウケイさんという代議士がいた。若かったけれども、在日ということで、ずいぶん苦労されたらしいが、自殺された。やはり、まことに残念な気がした。前日、記者会見をして、元気そうであったのにである。死ぬならもっと、やることはあったのではないか。彼も言われている問題が事実であったとしても、死刑になる話ではなかった。命がかかることではない。

 しかし、他人の命は、軽いとみるヤカラはいる。憲法9条をかえて、戦争へいかされる大衆の命は、まことに軽い。そういうことを平気で提案してくる連中は、他人のいのちのことなんぞ、なんともおもってはいない。「口封じ」なんてことも、頭にうかぶ。あるセリフをきかせたら、ガックリくるとか、なんとか、間接的な手法もあるかもしれない。庶民にはわからない。ところが、わかるかもしれない。調べるべきポイントはわかる。そうしたことが、でてこなければ、それはインチキであることはわかる。インチキであることがわかれば、構造はわかる。構造に問題があれば、必ずわかる。いままでは、まったく見えなかった。今は、繰り返して言うがわかる人には、わかるようになってきた。そして、いま私がこうして、書いているように、わかる人が書けば、真実というのは、必ずわかるはずだ。

 松岡さんは、どのように考え、どのように努力し、大臣になったのか、日頃の政治活動は、どんな具合だったのだろうか。それが、現役のいわば、頂点にあって、自殺するというのは、どういうことなのか。

 人殺しをさせることを、公に国民におしつけようという勢力が、議席を多くしめているなかでなにがおこったのか、真相の究明が、のぞまれる。
 

お寺の門脇、人生訓

2007年05月28日 14時47分22秒 | 思考試行
  苦も楽も こころ一つの 置き所

  人生に正解なし 失敗もなし

 お寺の門の脇の、掲示板でみかけたものだが、こうした、人生訓は
わりに好きだ。

 苦労とみれば、苦労だけれど、考え方さえ、かえれば、それは幸せと
いえることはある。感謝して、喜びにさえ、変えうるかもしれない。

 同じような境遇でありながら、その差異は、大きいように思う。
不平不満を感じたときに、思い返すことも、有意義と思う。

 後者は、そんなものかい、とも思うが、すんでしまったものは、とりけせないし、前へいくしかないと考えれば、過去をただ、嘆いているだけではいけない、ということだろうか。

いやなものはイヤ。

2007年05月28日 00時23分42秒 | 思考試行
 やはり、やはり、小生は狭量であります。いやなものはイヤ。でいくしかない。という風に考えることとし、できるところ、それが可能なところでは、貫徹するという線でいくこととしました。

 なんかのことで、迷惑がかかってはいけません。健康第一であります。

 本質的な、思考は続けますが、行動としては、価値観を重視して、いくということです。

 したがって、検閲は私なりに、実施することに、方針転換をします。私のブログの本体からのことでの、影響があるとすれば、それは、ココロして、私の受け取るべきことですが、そうでないものは、私の目で選ばせていただくこととします。

 今日、高校時代の同級生が、大きな病気をしたにもかかわらず、音楽のDVD作成に挑戦して、苦労しながら、試行錯誤している様子で、当方の注文に対し、真剣にとりくんでいる様子をしらせてくれました。そして、「少し時間を下さい。」とメールをくれました。そのマジメさにうたれました。私もそうしたいと思いました。彼に影響されて、方向を決めたということです。

考え中(2)

2007年05月27日 17時53分58秒 | 思考試行
自分の好みで、私のブログに、コメントするのは自由で、しかも私もそれを削除できるということは、私が、検閲をすることとなる。そして、もし、私のブログ人気がでたとして、自分の思惑とは違うもののために、宣伝の一翼を担うとしたら、馬鹿げている。そのために、文章をつづるということは、たえられない感じもある。

 しかし、価値観は明らかに違うけれども、それも、ありか、とも思うときもある。すべて、許して、読者の選択に任せばよいのかもしれない。まあ、もう少し様子をみることとする。

それほど、私のブログの人気がでるとも思えないし、自由に何でも発言できるほうがいいのかもしれないから。

考え中。

2007年05月27日 10時57分40秒 | 思考試行
 なにが正しいか。とか、間違いか、ということは、本来はむずかしいことで、不可能かもしれない。何でもあり得る。それは、集団として、社会として、適当でなければ、罰することになる。そのようにして、法ができ、きまりができ、個人的な、報復を禁じてきた。しかし、本質は何でもありなのだろう。

 ココロの平安ということでは、積み重ねられてきた規範意識が支えとなって、価値判断をしているのだろう。したがって、その育ってきた環境、保護者の価値観に影響されることが大きいと思われる。しかし、そこから、脱却することも、可能であると思う。でなけれは、生まれてきた甲斐がない。自分の人生にしなくて、この世に生を享けた喜びを満喫することは、不可能だろう。

 といいつつ、このブログにも、コメントをもらったり、トラックバックをはりつける方々の「作品」をみると、明らかに、スジ違いだな、と思われるものがあったりするけれども、それもこれも、人の世の実態であって、そのスジ違いの情報が、自分のブログ経由で流布したことによる自分の罪みたいなものも感じる。

 放置するか、改善するか、どっちでもいいか。いや、何らかの結論は出さなければとは思っている。