柳家喜多八という噺家を知らなかった。柳家小三治一門の真打である。すごい人もいるものだと思わされた。伊武雅刀の師匠として、俳優の落語挑戦の指導にあたったのである。二人は、同い年で、酒を酌み交わす場面もあるが、喜多八は作業着スタイル。考えがあってのことであるのは、もちろんだが、そこからもう面白い。
小三治は、落語家といわないで、噺家という。立川談志は、落語家という。噺家なんて言われたくなかったらしい。素人目には、双方ともに、大御所という感じであるが、落語家としての考えは相当ちがうようだ。
昨日のテレビで、初めて喜多八を知ったのだが。そのなかで、この考えのちがうことを反映することばが、でてくる。喜多八は、落語のまくらのなかで、談志を名指しはしないものの、うまいと思わないと言ったりするのである。落語界にもいろんな考え方があるのだ。
さて、伊武雅刀が、喜多八に弟子入りしての落語挑戦だが、さすが、名優である。本職としてもやっていけそうな出来栄えと、感心したのだが、そのあとで、師匠の喜多八の落語を聞いて、なるほど、本職というのは違うのだな、と思わされた。
伊武雅刀の落語は、師匠の指導を受けて、ほとんど隙がないかのように思えた。いい声だし、表情も素晴らしい。みごとなものである。き真面目な、落語であった。
ところが、喜多八の落語は、力のぬけ具合がすばらしい。舞台が能舞台であったから、なにやら固い雰囲気がただよい、伊武雅刀のときは、会場にあうような感じがしたのだが、喜多八のときには、舞台の雰囲気とは関係なく、独自の世界が構築されていく。
一人で、展開していく芸であるから、人間そのものの生き方や、姿勢が、そのまま芸になる感じである。はなしのメリハリ、面白さもあるが、演者の芸から、人生をどう生きるのかも示唆された。落語はシンプルにみえて、奥深いものだなと実感した。