空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

危ない現状

2009年04月30日 07時10分56秒 | 思考試行
「きっこの日記」を久しぶりにみた。相変わらずの、気持ちのいい流れの文章である。小生のみたのは、自殺について書かれていた日の分である。毎年、3万人を越える日本の現状について、データにも触れながら、政治と自殺の関係を述べられている。

介護の問題、医療、雇用、補助金のバラマキ、相続税の優遇策など・・・自公政権の政策が富裕層のために、となっているのは、きっこ氏の言うとおりであると思う。

そこで、選挙民はどうするのか。次回総選挙は、民主小沢氏の辞任がなければ、勝てないような様相になっている。検察のネライは見事に、的中したのだろうか。そして、官房副長官の言った通り、自民党には、西松ガラミの話は、サタヤミである。

日本の現状を、どう変えていくのかということになると、国民の資質によって決まるという感じになってきた。カルト集団が跋扈して、これに対して、手がうてていない。石井議員の言うように、国会での喚問など、やるべきことをやって、健全な価値観を、あたりまえのものにしなければならない。

「信仰」を中心にすえた、同志的結合を政治の世界に持ち込むのは、危険である。シンプル理論で、「信念」をもつ人びと。マスコミもこれに乗り、買収されているようでは、危なくてしょうがない現状である。

北野誠の記者会見・・・その背景、なんと、なんと。

2009年04月29日 07時37分45秒 | 思考試行
人気タレント北野誠が、意味不明の記者会見をしていた。中味に触れずに、事実に基づかない発言をしたといい、社長が側にいて、しばらくというか、芸能活動を停止するようだ。なんのために、となるのは当然である。

さっそく、検索をする。「バーニング」というキーワード。そして、創価学会。マスコミの現状。関連して、さまざまな情報が展開される。そして、大体の流れは、把握できた。芸能界のみならず、この日本の現状が、浮かび上がってくる。

タレントの起用のされ方。異常な、特定タレントの登場ぶり。ハシャギ方。広告塔といわれる存在。計算された、支配体制。「バーニング」は、本体は小さいようにみえるが、その実態は日本の芸能界のプロダクションの9割にも影響力があるのだという事情。

それにしても、画像、音声、過去のフイルム、などなど、どんどん出てくる。ガチャガチャと組み合わさって、「構造」が見えてくる。何が隠されているか。誰がコントロールしているのか。権威あるとされている新聞の裏面。そのだらしのない実態。広告収入、輪転機を貸しての収入。流れに流され、買収され、暗躍する裏権力の手中におちている実態。

そんなものが、形をなしてくる。矢野公明党元委員長の事件。創価学会から脅迫、イハクされ、100冊をこえる手帳をとられて、取り返す裁判となった。で、なんと一審では敗訴となる。二審の高裁では、勝っているが、この報道の小さいこと。さらに、家土地を売って、創価学会に寄付を要求されたとも言っている。本人どころか、家族まで、尾行され監視され、生命の危険も感じたという。それが、継続的にやられていたという。

とんでも集団の創価学会。なんで、マスコミはきちんと報道しないのか。すごい事件である。これをキチント報道できないようでは、報道機関とはいえない。その理由、事情がつぶさにわかる。なんだか、昨日ですべての疑問が氷解したような気分である。

そして、予想される総選挙。また、創価学会は全力をあげるのだろう。公然と政教一致で頑張るのも、マスコミでは、問題にしようとしない。権力と結びついたカルト集団のドラマが始まる。民主党の石井一議員の国会質問は、本質をつく。確かに、サムライはいる。ガス抜きにならないように、政界の粘り強い展開を望みたい。



介護と老後の展望

2009年04月28日 08時26分39秒 | 思考試行
チョットした旅行を計画している。しかし、介護の必要な人が家族にいる場合は、不可能だ。我が家の場合、母は元気であり、身の回りのことは、援助があれば自力でなんとかやれるので、それは可能だ。有り難いことである。

清水由貴子さんの自殺は、介護の問題に、あらためて、注目する機会となった。まったく、自由のない生活、さぞやたいへんなことだったろう。

介護したことのある人と、まったくその経験のない人では、話はかみ合わないだろう。経験のない人は、たまたまそういう環境だったのだろうか、それとも、そのオハチをどこかに、まわして、タッチしないようにしてきた、ということだろうか。

どちらもあると思うが、介護の経験をして、逃げずに、介護にあたり、充分にやることをやった、という自負をもてるということは、まことに幸せなことである。

家内の場合は、嫁ぎ先の家で、自分の母親の最後を看取ったのだが、当の母親共々、遠慮があったり、抵抗感があったことは否めない。

そこから、制度を使える条件もあり、なんとかリズムもできて、長期戦も可能な状態になっていった。その経過は、我々夫婦の財産になっている。

内面的な満足感と、そして、自分達の将来に対する展望である。具体的な設計、イメージを描けるようになってきた。条件を見る目が、具体的になったことである。それは、実物と生活を共にしたことによる生理的な本物を見せてもらったことが大きい。

カッコウをつけたり、余計な修飾は意味がない。老いのマイナス面は、当然あるが、そればかりではないことを与えられた。

自然であれ、ということだろう。力を抜いて、やるべきことをやっていく。その中で、楽しみを見つけていく。それができれば、人生楽しいではないか。

変化すること

2009年04月27日 09時07分13秒 | 思考試行
連休に入った。16連休の人もいるという。不況のせいで、お金を使わないで、楽しむ方法をテレビは番組にしている。

それで良いと思う。必要に応じて、変化すればいい。アイスランドが金融大国としてもてはやされたのも束の間、たいへんなことになっている。社会民主系の政党が政権をとった。いいじゃないか。変化することで、新しい事態は作られていく。

頑張らないことかもしれない。自然の流れにのって、嫌なものはいや、として、率直な行動をとることが、変化を呼ぶ。

諦めるなといいながら、諦めることがあってもよいといえるし、頑張れといいながら、頑張らなくてもよいという、どういってもいいのだが、要は変化するということだ。

本質

2009年04月26日 05時26分03秒 | 思考試行
結局、人間社会というのは、いずれ滅びる。長い年月を懸けて、営みを続け、争い愛しあい、しながら、最後の最後は、滅びるほかない。太陽も地球も、その他惑星もその形を変え、宇宙へと離散する。

そんなことが、現実の生活には、影響する。争いを防ぐ効果があるかもしれない。生きていることについて、新たな感想を持つことになるかもしれない。刹那的になる可能性もなしとしない。そのなかで、人間は、遥か先をみながら、今を生きる。そのためのアクションを続けている。

今までの地球の歴史を振り返って、その変化が止まった事はない。地球のみならずすべての存在は、その変化をやめることはない。どこにも、安住する場所はない。変化の中に、すべては生きている。

日常生活の流れは、朝がきて、夜になって、朝がきて・・・の単純な繰り返しにみえる。街の風景も、一挙に変わることは、ほとんどない。継続の感覚が、常態である。だが、それは、事実ではない。変化の中で、浮遊しているにすぎない。

さまざまな対決の理由を持ち出して、抱えて、人間は争い続けてきた。今もそうしている。これは、止まらないのだろうか。一瞬にして、止まるような気もする。その気になれば直ちに実行できるとも思う。

植物、動物、・・・、ありとあらゆるものは、関連して生きている。その場その場で、利己的に生きていけば、必ず、その影響がでる。相互に関連している以上、そこから逃れることはできない。

何事かを誇り、優越に浸り、他者を突き落としてでも、ということは、破滅を早める効果をうむ。すべての事象から、学び、本質を見据えた生活でありたいものだ。

草剛の事件に思う

2009年04月25日 10時39分27秒 | 思考試行
草剛の事件は、マスコミの対応、警察の振る舞い、政治家の言動と、いろんな要素が見られて、興味深い様相が随所に生まれた。

総務大臣が、最低の人間と言い放ったものの、抗議が殺到して、発言を取り消し、けっこう、芸能界ではあたりまえ、みたいな現状の話がでたり、フラストレーションがあったのでないか、麻薬の疑い、などなど、また、彼がいい人で、そのためにストレスが多いのでは、とか、政治家が酔っ払って、記者会見に臨んだ事件が蒸し返されたりした。

お詫びの記者会見は、誠実な彼を充分示しえたし、健康な若者のイメージが損なわれることはなかった。酒を飲みすぎて、羽目を外しただけということだろう。ただ、今後のことにこの経験を生かして、さらなる成長の糧にするのではないかと思う。

すでに、普通の人間では、望み得ない環境にあり、そのなかでの、今回の事件は、必ずしもマイナスにはならないと思う。今後に生かせる貴重な体験ではないか。謹慎期間中に、まとまったスキルを身につけるのもよし、将来に生かす時間を与えられたと解釈していけばいいのではないかと思う。

それにしても、マスコミの対応ぶりは、どうだ。もっと、大事なテーマがあるにも関わらず、取材しやすい今回のようなものには、飛びつく。その軽薄さは、みるにたえない。政治家も馬脚をあらわし、警察のバランス感覚の悪さも出た。本当にいい世の中にするべく、ことにのぞんだ草薙君のような、真面目な姿勢を見習いたいものだ。彼の今後の動向を注視していきたい。



笑顔の報酬

2009年04月24日 06時47分32秒 | 思考試行
植物園の中で、大男の若い外国人に笑いかけられた。車椅子で、母親を園内に入れて、坂道、砂利道を、押しながら、あるいは、方向転換しながら、まだ、開ききらない藤棚の下をすすんでいるときであった。外人に笑いかけられたのは、始めてである。「報酬」の印象をもった。チョットした笑顔が、報酬となることを知った。

叔父達が、声をかけてくれて、実現した集まりである。方向や道順を探してくれる。叔父や叔母は、若くても70歳代、大半は80歳代である。子供世代は、全員60歳代以上の集まり。叔父叔母達の10人いた兄弟姉妹は、いまや、半数となっている。

園内は、車椅子で来る人のことを、ほとんど配慮していない。ところどころに、階段があり、砂利道は、車椅子にとって難敵である。母親は、当初から入りたいけれど、口では「もういい。」と弱く言う。こちらも、いけるかどうかの危惧はあるけれども、それなりに、観察しながら、ティケット係のオバサンに車椅子で可能かどうかを聞く。首をひねりながらも、行けます、てな具合で、こちらは、相手に、入場者を増やしたい、の影を読み取りながらも入ることにしたのだった。

最近はどこも、車椅子のことを考えた設計となっているから、こういうケースは少ないのだが、思うに、古くからの由緒ある施設ほど、こういうことがあることが多い。日本庭園などは、車椅子は、不可能であろう。

車椅子ではなく、歩行椅子が欲しいところだ。段差をモノともしない椅子があれば障害者のみならず、足に自信のない健常者も重宝するのだが、ロボット業界の動向をみると、そのうち実現するかもしれない。

そうなると、「笑顔の報酬」はなくなるか。何かを得れば何かを失うのである。



黙秘について

2009年04月23日 07時22分24秒 | 思考試行
黙秘を何故認めるかと言えば、言質をとられないことを選択できるということである。すなわち、なにも語っていないという事実が、いろんな工作、人為的な策略に陥ることがないある種の保険の役割を果たしているのだと思う。

それと、誰もが知らない自分に不利な状況を、言わなくてもよいとするのは、証明可能な、客観的な証拠がなければ、人を罰することはできないとすることで、人が人を裁くことに、慎重に対処しようとしているのであろう。

わざわざ自分を貶めるような、作り話をする人も、実際いるのである。そんな話にのって、その人を罰したりすれば、まったくおかしいことであり、これを避ける効果もある。本人が言ったからといって、鵜呑みにはしないのが原則としている。あたり前だろう。

そういう仕組みのなかで、被告人は、裁判の場でも黙秘した。その真意はどこにあるのだろうか。裁判制度自体を認めないという意思表示なのか、やっていない、ということすら言わないというのは、何故なのか。

言えないとすれば、どうなのか。鍋の見張りをしたのは確かである。そして、実際の事件の起きたとき、現場にはいなかった。その騒ぎの実際を見ていないのである。カラオケに行っていたという。見たくなかった、のだろうか。

祭りの食事のカレーを、住民が交代で番をしている。それは、住民の意識として、事故を防ぐという考えが、当然あったからで、誰もいないという状況を作らないようにしている。そのなかで、事件が起きた。いわば、密室である。

誰かが、間違いなくやったのである。誰ができるのか、という特定が、可能かどうかの問題でもある。彼女は目立って疑わしかった。マスコミも、そのように報道した。周辺事情も調べられた。保険金詐欺の実績、生い立ち、住民とのあつれき、報道陣とのやりとり。画像で流れ、声が聞こえた。感触が生まれる。

そのなかで、裁判が始まり、公式に彼女が語るべき場所に立たされた。そこで、やっていないということをいうことさえ、言わない、というのは、取調べ段階はともかく、裁判の場での沈黙は、言えないのではなかったか。何か言えば、不利となると判断したのだろう。言えないと言わないとは、外見は同じでも、中味が違う。
砒素を扱う仕事をしている人は多くはない。保険金詐欺をする人も滅多にはいない。

死刑制度を認めないという観点から、ありとあらゆる抵抗をするというのは、理解できる。事実を捻じ曲げても、死刑をやめさせるためには、なんでもするという考え方は、理解できる。弁護団の真意は、そこにあるのではないか。それは、しかし別の問題である。

和歌山カレー事件に思う

2009年04月22日 07時11分09秒 | 思考試行
和歌山カレー事件は、最高裁でも死刑となった。証拠が客観状況の積み重ねで、動機がハッキリしないという。本人は冤罪だという。最初からそう主張してきたという。一度も自白したことがないらしい。

来月から、裁判員制度が始まる。まさに、このような事件こそ素人の常識が生かされるような事件ではないかとも思う。

人間とは何か。事件は、それを示す。カッとなって、なんであんなことをしたのだろうか、とか、デキゴコロだった、とか、本人も後になって説明できないような事もある。

昔の冤罪というのは、事件の解決をあせった、警察の思い込みで、あるいは、恣意的に犯人とされて自白を強要され、その苦しさから虚偽の自白をしたという例が多い。

その後、粘り強い努力で、新証拠を発見し、再審請求が認められて、自白の矛盾が明らかとなり無罪となった例が、相次いだ。

捜査段階では、否認から自白、そして裁判では否認するも認められない、という流れである。

新しい証拠が生まれなければ、まず、再審は受け付けられない。そして、再審で無罪になった人は、関係者の粘り強い調査などの努力が、必ずその背景にある。

警察権力のいい加減さ、支配者側の論理、目橋をつけた者を、犯人に仕立て上げるぐらいは、容易なことであったのだろう。検挙率を誇りたいという動機もあっただろう。冤罪事件が、数多く生まれていた。

今回の事件をみるとき、一度も自白していない。警察のゴリ押しがなかったことを証明する。動機も不明としている。本人が自白しないかぎり、それは推測にすぎないのだから、立証などできるはずもない。

そして、一審では、裁判の場でも、完全黙秘であったという。

政治弾圧のふきあれる時代に、口を開けば、捻じ曲げられる時代にあっては、一切の黙秘は戦う手段であった。そこには、ひどい拷問が背景にあって、その拷問に対しても黙秘で戦うという意思を示すことは、裁判制度を認めない政治犯の権力に対する姿勢であった。

黙秘権を認めたのは、取調べで、あるいは、裁判で、拷問ができないようにする、あるいは、言いたくない権利も認めるということである。彼女は、何のために、黙秘したのか。単に権利であるからというのは、解答にはならない。

町内会の祭りで、カレーに砒素が混ぜられた。事件の背景は、どこにあるのか。
なぜ、一審で裁判の場においても、黙秘したのか。一切自白はない。だが、周辺の客観状況は、方向を指し示す。だれかがやったのは間違いない。

夫の下に届いた、封筒に「HELP ME」とピンク色の大きな文字で書かれた手紙を、夫が、報道のカメラに示していた。夫も静かに、犯人でないと否定する。かつて、砒素中毒があったという夫は、すこぶる健康そうであるのが印象的である。

静かに否定してみせる、そういう姿勢が、唯一平静を保てる手段にみえる。ピンクの大きな文字が、これも何事かを語っている。人間とはなにか。

政治の動向と生活

2009年04月21日 15時43分44秒 | 思考試行
何をするのかで、人生は大きく変わる。儲けだけを追求して、なるほどお金はたまったが、寂しい人生だった、という人もいるだろう。

しかし、今の状況は、金持ちの家庭に生まれたら、それなりに教育環境が整い、有利な条件となっていることは否定できない。公立では、とても対抗できない状況もうまれているという。

相対的に、優れているとか、劣っているとか、が尺度となって、人が分類され、生活のレベルが決まる。これがあたりまえとするか、それとも、他に何か方法があるか。恐らくは、さまざまなテクニックの可能性があるのだろう。

そういう意味で、政治の果たす役割は大きい。若者に政治的無関心が多いといわれているが、これでは、老人達の良いように政治がすすむ。世代間抗争を勧めるわけではないが、世代間のバランスも重要である。

それと、マタゾロ、大連立の話が生まれようとしている。9月までの間に、必ず総選挙が行なわれるが、今の与党が三分の二の議席がとれないとすると、政治の進め方に、混乱を生ずるとして、自民、民主の連立の話がでているのだという。

連立が成立すると、たちまち、憲法9条の改悪の話がでてくる。これは、政治家側からいえば、戦争のできる一人前の国になるためには、必須と思っているフシがある。北朝鮮になめられ、周辺諸国からも、存在を軽視されているのは、憲法上の制約のせいであると考えているのだろう。

国民は命をなげだして、彼らの望みをかなえてやる必要があるだろうか。こんな偏狭な望みのために、家族を犠牲にする必要はない。世界の指導者たりうる平和憲法を持つ国として、誇りをもって、正論を展開し、世界に役立つ実力を発揮して、平和の思想を、堂々と押し出していくべきである。

平和こそ、未来へと人類社会が継続できる唯一の道である。

対人関係

2009年04月20日 09時49分34秒 | 思考試行
ゴールデンウイークを控えて、仕事を早く進めたい気分がもりあがってくる。ただし、やる項目がたくさんあって、はたして出来るかどうか。

郵送関係、連絡関係、相手からの返答がなく、再度の連絡を要するもの、ともかく相手があるから、こちらの都合だけでは事がすすまない。自分の都合だけで、仕事を進められる人が、少し羨ましかったりする。

ただ、自分の都合のみで、完遂できる、そういう仕事だと、人と人との関係に希薄になって、また、テクニックが稚拙となり、それも人生を味わうのに、相当なハンデになりそうである。

対人関係に苦労してきた分、人生豊かになっている側面があることは否めない。

同窓会などで、人に会うと、それがよく解るときがある。関係がなんとなくスムースに行かない人がいる。なにかが足りない。

人と人との関係で、豊かな気分になれるのは、相互の関係が不可欠であるが、そこに、対人関係でもまれてきている者は、味がある。

苦労は無駄ではない、という感じがするのである。そうあって欲しいという希望的な見方も多分に作用しているだろうが。

きれいな花がいっぱいの公園、その背景

2009年04月19日 15時52分29秒 | 思考試行
近くの公園に行った。好天気とあって、家族連れが多く、そこここで、弁当を広げている。チューリップやボタン、沢山の花が、色とりどりに咲いている。和やかな風景。

まさに、この世の天国である。写真を撮っている人。散策する人、ごろ寝をしている人、写生組みも、いくつかのグループがある。

これも、平和だからできることである。アフガンやイラクは如何ばかりかと思う。日本だって、先の大戦の最中は、とても望むべくもない状況だった。大空襲を幾度も受け、原爆を2度まで体験して、そして、今がある。

平和の意味を、しっかりと捉えなければならない。油断すれば、憲法9条が変えられて、またまた戦争への道を歩みかねない動きがある。国家主義的な、考え方がいつの時代にも、頭をもたげようとしている。

しっかりと地に足をつけた考え方、生活をしなければ、儲けのためには、何でもやりかねない連中が、画策していることに、巻き込まれてしまう。油断できない。

ディズニーの本の新聞広告にやられた!

2009年04月18日 09時17分53秒 | 思考試行
悲しいときに、人に慰められた、そして、癒されたと、そんな話を聞くと、それは当人以外の第三者の心も揺さぶる。

そこには、悲しみに打ちひしがれている人に対する全面的な優しさがある。ルールも、柔軟に破られる。当然のようにそうする。

子供を亡くした両親に、ルールをこえた対処をする。その話は聞くだけで、感動的である。ディズニーの心温まる話が、本になっていて、新聞広告で出ていた。立ち読みをすると、それだけで、ウルウルとなるから、しないでください、とある。

新聞広告の小さな活字で書かれていた上記の話があって、一発でやられた。いつのまにか、涙もろくなっている。探偵ナイトスクープで、西田局長がすぐ涙ぐむが、小生もほぼ、同様の感じとなる。

彼が涙して、不思議と感じたことはない。探偵がなんで!と連発するとき、彼らは本当にその気持ちがわからないのだろうか、と思う。本当は解っているが、それを抑えているということだろうか。真意は聞いてみないと解らない。

探偵ナイトスクープと言えば、昨日、怪獣の着ぐるみを作成する話があった。中年のオッサン連中が、童心にかえって、怪獣づくりにキキトシテ取り組む。これには世代の違いを痛感した。

これは、わからない。なんでそんなに魅力を感じるのだろうか。世代の差というしかない。こういう風に、時代は変遷するということなのだろう。

何に感動するのか、その方向が、弱者を優しく扱う方向へとすすむように望みたい。



為政者の姿勢はこれでいいのか。

2009年04月17日 08時59分16秒 | 思考試行
景気対策をみると、やはり弱者に対する思いやりがない。金持ち優遇である。雇用についても、今の格差を作り出した原因たる非正規雇用は、継続される。

強者は、さまざまなツールを持っているから、彼らをみていれば、世の中うまく回っているように見える。為政者の目は強者に向いている。

本当に、弱者の側の実態を為政者はどれほど知っているのだろうか。そのイタミ、悩み、苦しみ、生活の実態。知ろうとしているのだろうか。

自殺者が、日本では、年間3万人を越える。それが、為政者の仕事の結果である。これについて、どれだけの調査がされているのだろうか。新聞、マスコミの仕事もみられない。彼らも強者の味方である。

今朝の新聞では、人口減少が各都道府県について、数値がでている。人口の推移には、そのくらしぶりが、表現されている。高齢化がすすみ、若者は夢を持てずに、もはや可塑性はなくなろうとしているかもしれない。

為政者の政策の根幹に、生活する人びとの実態をよく知り、それに対応する的確なものでなくては、その成果は得られない。

貧しくとも、健康で健全で楽しく暮らせるような社会を人びとは求めている。そこには、お互い蹴落としあいをしなければ、よき社会をキヅケナイとする考えはない。基本がそこにあれば、方針も変わる。

なるほど、自然界は、競争すべきはする。努力しないものは、淘汰されてしまう。だが、それは、程度問題であり、みんながつぶれてしまうような競争はしない。そこには、バランスがある。

人間社会のなかに、バランス感覚がなければ、生存の継続は不可能である。生き残ることが可能かどうか、為政者の姿勢にかかっている時代がきている。

テレビのなかの人間魅力

2009年04月16日 11時23分00秒 | 思考試行
八光の魅力は、大阪人らしい率直さと、明るさ、屈託のない笑顔である。「よーいドン」に登場して、街を歩いて行く。円広志もいい。

この番組が始まって、すっかり、我が家の定番になってしまった。「街の人間国宝さん」の選定を楽しみにしている。

それにしても、いろんな人がいて、面白い。すばらしい番組の企画である。生きる力、楽しみを示してくれる。

NHKの「喉自慢」もすばらしい。元気な、人びとがその生き様を見せてくれる。歌がどうのというより、生活者の健康さが魅力である。

こういう人びとのために、心血をそそいで、仕事をしている人びともいる。それもすばらしい。だが、無理をさせているとすれば、なんとか改善してほしいものだ。

とかく、この世だけでは、バランスが取りにくい。あの世の存在も動員して、辻褄あわせをしてほしいと思う。

そうでなければ、公平ではないよな、漢字検定の理事長さん。