空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

大人になる

2008年09月30日 07時27分29秒 | 思考試行
基本的には、なにをやってもよい、犯罪でなければ。

ところが、犯罪であるのに、実害がなければ、許されていることがあるようだ。それは、もともと犯罪にはならないことを、犯罪にしてきただけにすぎないということかもしれない。

だいたいにおいて、正しいとか、間違っているといっても、その本質においては、何でもありであり、決めることはできない。殺人といっても、それが、なくなることはない。

必ずどこかでそれは行なわれている。では、何が歯止めになっているのか。

それが、良識というものであろう。これがない連中とは、つきあうとひどいことになる。もともと、絶対的なものがないのであるから、本人の価値意識にそれは委ねられる。

一般的な、常識的な、良識に我々は、安心しているところがある。ところが、この良識にしばられないヤカラがいる。彼らが、その本心を隠して事に臨むときには、善人というのは、なすすべもなく、彼らの餌食になるほかない。

悔しくても、それが世の習いである。

これに勝つには、それを見抜くほかない。自らは、そうしないで、見抜くのは容易ではない。価値観がよほどしっかりしていなければ、ぶれてしまう。

安定した人生観を、確立して、何事にも対処できることが、真の大人になるということではないだろうか。

老化の中で

2008年09月29日 07時47分32秒 | 思考試行
整理をしなければならない。いつの間にか、ガラクタがたまり、みっとも悪いことになってしまっている。品物だけではなく、やるべきことの整理ができていない。事務処理であるとか、考え方とか、ソフト面にもやるべきことがあるにも関わらず、なかなかスッキリしない。

日々新しいやるべきことができてくる。それを、要領よく片付けないと、たまってしまう。その気になれないこともある。簡単にできないこともある。このようにして、人は現役をあきらめ、すべてを投げ出し、何もしないことに満足できる境地へと移行していくのであろうか。

高齢にも関わらず、意欲的で楽しく現役を続けている人を見ると、そうありたいとも思うが、なにもしないのも、いいなと思えるようになってきた。欲望のかげりというか、前ほどのコダワリがあきらかにないのである。

腹立たしいことも、その程度が、以前ほどではない。こういう傾向は、老化の自覚を促される。まあ、しかし、老化もよしなのである。こういう気分がうまれてきている。

しかし、一方では、死ぬまでには、何事か役に立つことを、しながら、またなしとげるべく生きていきたい、という気持ちもある。

政治家の皆さんも、正念場を迎えて、いろいろ、考えているようであるが、コチトラよりは、もっと元気がある。またそうあってもらわなければいけないが、さて、その方向はどうだろうか。

「省益ではなく、国益」と太郎サンは言うが、「国益ではなく、地球益」で考えてもらいたいものだ。いささか、視野が狭すぎるのが気になる。本当に生活する、人民をキチント見てもらいたいのである。

勝手な思い込み。

2008年09月28日 09時43分35秒 | 思考試行
どうも人間の生活というのは、複雑なようで、簡単なところもあるようだ。

昨日、家内と公園を散歩していたら、カップルが少し前を歩いていた。男性は、80歳ぐらいに見える。かなりの年配である。女性は、かなり年下であろう。ただ、手をとりあっているのだが、いわゆる恋人どおしの手のつなぎ方で、指を、交互に組み合わせている。それが目に入ったのである。

父親と娘ではない。それで、なんとなく、注目してしまった。っと、女性が横を向いたとき、なんとそれは、同級生であった。一瞬であるが、すぐに解った。何度か同窓会であったりしていたから、彼女のことは、詳しくはしらないけれど、離婚したことは知っていた。子供もいる。もうとっくに、成人している。まあ、知っているといっても、そのぐらいであるが、子供の頃の雰囲気や、顔など知っているからあたかも、肉親のような親しみがある。

ちょっとした、ジェラシーみたいな感情がよぎるが、一方では、寂しいのだろうなとか、パトロンだろうか、とかの思いもわいてくる。

生きていくということの、実態を見てしまった、という感覚である。彼女の生活のすべてが、全部解ったということでは全然ないけれども、男性の老人は、上品そうな人であるし、かなりの資産家でもありそうな様子であったから、なるほどと、納得したものである。

それぞれの人生である。結構スタイルがよく、元気そうだし、いいのだが、ただ、あの手のつなぎ方には、どこか無理があり、悲哀があり、と見てしまうのは、こちらの勝手な思い込みかもしれない。

「配慮」できない戦争屋

2008年09月26日 07時58分00秒 | 思考試行
昨日は、医者に診てもらう日で、久しぶりに電車にのった。以前から思っていたが昔は、結構ツメツメにみんな座っていたが、最近は少し間をおいてすわるものだから、座っている本人は、楽でいいだろうが、座りたくともツメテクレナイト座れない人がでてくる。

昼間は、席が空いているから、つめる必要がなく、その習慣があるのと、携帯電話をいじったりするのに忙しく、周りの状況を見ていないということもある。

昨日は、時間帯が、徐々に混み始めるころだったので、席は、満席でかなりの人が立っている状態であった。小生の列は、6人かけていた。向かい側は5人である。小生は、習性として、自分と隣の人の間は、一人分をみて座るようにしている。従って、少なくとも3人は、電車の設計者の思惑通りに、キチント座る状態になる。そうすると、あとの三席も、三人がけの所に、二人というと、間があきすぎるので、三人がすわる確率が高いのではないだろうか。従って、全体が、6人となったのである。

いわば、小生の意向が、反映されたことで、6人がけのシートが、カッコよく満席となったのである。

こういう「配慮」があるとないとでは、人間関係にとっても大きい。自分のことしか見えていない連中は、こういう配慮はできない、とみる。おおむね、楽にきた人は、配慮されてきたが、配慮なんぞしたことない、という連中が多いのかもしれない。「安城や、岡崎だからよかった、・・・」と無神経な発言をする人は、おそらく、配慮ということは、しないのであろう。

一国の首相が、こんなことではねえと思わされる。

戦争になれば、庶民がどんなに苦労することになるのか、環境がどれだけ破壊されるのか、配慮できなければ、国益ばかり主張する「戦争屋」になってしまう。

ヒトの評価、関係について。

2008年09月24日 09時04分35秒 | 思考試行
ヒトは一人では生きられない。山中の自給自足生活ではないのだから、頭では、解っていても、それをなんとも思っていない風潮が蔓延している。

自分さえ良ければの集合体であっても、その効果は、お互いが助け合っているのであるが、それを自覚せず、喜ばず、感謝しないところに、もっと良くなる可能性を秘めているともいえる。

感謝のあるところ、そこの人間関係は暖かく、心地よく、相互に豊かになれるのであるが、それがなければ、ギスギスしてしまう。一方的な関係では、この関係はおそらく長続きしないだろう。ギブアンドテイクは、どうしても避けられない。相互の配慮は不可欠である。

せっかくの人生である。どうせなら、しっかりとその真髄を味わい、後代にその成果を伝えて、完全に滅びるそのときまで、最善を目指してすすむのが、人間としての生きる道ではないだろうか。

不当な扱いをうけると、ヒトは悲しく思う。そうはならないように工夫しなければならない。それは、企業、家庭、およそ、ヒトの集まるところすべてに共通することではないか。

その意味では、うまくいっていないとすれば、そこには、どんな原因があるのか、本人のかたくなさのために、こういう状況をまねいてはいないのか、など、その不当性の根源的な原因を明らかにするテクニックは重要である。そこから、新しい人間関係がはじまる。

ほんもののニンゲンを求める。

2008年09月23日 09時50分20秒 | 思考試行
麻生総裁が誕生した。やはり、金持ち出身で、庶民とは無縁の人間が首相となる。早速、人物紹介の記事が新聞にでているが、なにをしようとしているのか、確たる信念があるのだろうか。

国民の生活を守るために、なにをするのか、何を大事に考えているのかわからない。「安城や岡崎でよかった、発言」は災害にあった人には、本当に腹立たしいことだったろうが、その効果は、勿論国民全体に関わる。

こういうものの考え方は、まさに、庶民の苦しみを知らないボッチャンの思考傾向なのだと思う。さびしいことである。

望郷の道は、大団円に近づいているようだ。山上親分との対面の場面は、感動的でこういう関係は、いつの時代にあっても大事にされなければ、世の中闇だと思う。

彼らの、幸せそうな様子は、本当に感動的である。政治の世界もこうあってほしいものである。真剣に国民の生活を考え、地球規模で判断して、行動する、そういう政治家が、活躍しなければ、いけない時代がきている。


仕事がある幸せ。

2008年09月22日 08時44分19秒 | 思考試行
なかなか仕事がとぎれない。雑用ともいうべきものが多いけれども、今日は何をしようかと迷うことがない。やるべきことが、次々ときている。

放置するわけにはいかないものが多く含まれる。それが期限をせまられるものと、余裕があるものが混在している。それで、なんとかこなして来たといえる。
これが、イッペンにくるとなれば、たちどころに、お手上げ状態になるのだが、まるで、計ったように適当なペースでやってくる。

新規には、仕事をやろうとしていないこともある。チャンスを探そうともしない。しかし、それでは進歩がないと思えそうだが、顧客の注文そのものが、「進歩」を要求している。背中を押されて毎日仕事をしているといえる。

それでも、最近は仕事に押され始めているようにも思う。もう少しテキパキといかねばならない。

10月に、家内の祖母の墓参りを兼ねて、久しぶりに旅行することにした。インターネットで簡単に予約がとれた。それも、仕事をしているからで、気分転換の必要性があると実感できる。まことに有難いことである。

疲れる。

2008年09月21日 15時54分26秒 | 思考試行
ほとんど進歩がない生活をしてきたことが実感される。エコキュートをいれて、これは便利だと思ったのはいいが、どうも、ほとんど世間ではもうすでに当たり前の雰囲気である。我々が取り残されていたという感じである。

家内の弟が、マンションを買い、そこで義母の49日の法要が行われたのだが、それは、便利になっていて、古い古い家にすむ我々は、何だというほどの違いがある。古い家で、義母は、あるいは、そうとう不便に思っていたのではないかと思ったりした。それしかない、と思っていたのだが、それはこちらの思い上がりであったのかもしれない。

便利だけれど、人情は希薄、ドライで礼節ゼロ、こういう人間関係は疲れる。彼らは、何を楽しみにするのか。チョットこちらも、付き合う気分が失せてしまう。教師が、モンスターペアレントに悩まされるドラマがあったが、本質的に共通のものをかんじる。何かが壊れている。こういう状況を変える新しいモラルができなければ、どうも人間社会は、自壊を始めているのではないか、とさえ思える。

便利さが違う。人間関係も違う。はたして、これからどうなっていくのか、まさに
原点から、人間の生き方について、考え、行動、していかなければならない時代を迎えているということだろう。

少なくとも、あの低レベルの状態に、あたりまえのように、落ち込んでいるのをどうあげるのか、簡単ではない。具体的な関係のなかで、自分自身の気持ちとしては、もうイヤだという気分が否めない。勝手にしやがれ、のホンネがでてくる。

冒険について

2008年09月20日 08時51分08秒 | 思考試行
冒険というのは、危険が伴うというイメージがある。通常ならそうしないのだが、思い切ってする、という感じもある。

いま、国民は、力を持っている連中にオモウサマに振り回されて、エライ目にあわされている。このオトシマエをどうつけるのかが、今度の総選挙だろう。

自民も民主も、戦争を恐れない連中であり、カルト公明、社民の裏切りグセ、共産党の独善とくると、いれるところがない、テナことになるが、それでも、投票行動で、冒険するとすれば、共産党しかないだろう。

もっとも、支配勢力にとっては、やりにくい相手であることには違いない。国民が本当に怒ったときに、キチント対決する姿勢にたたなければ、かれらは際限なく増長する。

アカ攻撃、反共宣伝、思い込み、かつての武力闘争への批判、さまざまな要因で不当に扱われてきている政党である。しかし、議席数が、相当ふえることになれば、その効果はかなりあるだろう。

支配者側は、制度問題にも、もっと真剣にならざるを得ない。国民を大事にするという姿勢を示さざるを得なくなる。

ここは、思い切って「冒険」するときだと思う。

人間は生きていく資格があるのか。

2008年09月19日 08時45分31秒 | 思考試行
多数を握った方が、すべてを決定する。話し合いをしても、多数が考える方に決めることは、既定のことである。

自民党と民主党は、そういう関係になっている。お互い問答無用で、多数決のやり方をとる。

国民は、事情の細目はわからない。どうもギクシャクして、うまくいかないな、ということだろう。どちらか多数に決めようという気運がでてくる。

政治の世界と庶民の関係を考えるとき、政治家に戦争開始の権限を与えてはいけないと思う。自民も民主も、それに関してはほとんど、同じで、議員の多数が、恐るべきことに、今の憲法9条を邪魔に思っているのは、間違いない。

自民、民主どちらも、非常に危険なのである。庶民は、戦争をしてイイワケはない。いつも、支配者側の都合なのである。戦争がなければ、庶民はそれなりに、生きていけるのである。

ヒトを殺さなければならない立場に立たされたり、家族を守ることもできない悲惨な状況にすぐ立ち至る。

絶対平和主義に、みんななるとは思えないが、血を血で洗うような状態は、経験者がしるところである。戦争はいけない、そして、それをさせない態勢を常に考えなければならない。

軍備で、平和は実現しない。治安ということと、戦争を絶対に避けるということとは矛盾なく存在できるし、そうしなくてはならない。そういう国が、つぶされるのであれば、人間は生きていく資格がない。

おそかれ早かれ、人類は、滅亡の道を歩むしかないのである。

デモはしない。騒がない。だけど・・・。

2008年09月18日 20時57分50秒 | 思考試行
もう、デモなんかしない。署名活動もしない。本質的には、選挙しかない。静かにそのときがきたらそうしようと思う。

投票行動でしか議員を落とせない。大衆はしかし、そう簡単に切り替えをしない。簡単にだまされ、ヒトがよかったりする。ために、彼らはナメキッテいる。

なめられるのも仕方ない面もある。ちょっと目先を変えられたり、かっこよかったりすれば、すぐつられてしまう。馬鹿なことをいったり、そしてする。しかし、こういう人が、多数となれば、全体はこれに引きずられるほかない。

それゆえ、そうそう簡単に、世の中変わらなかったりする。当然こうだろうと思っても、頑固に、迷信から自由にならない。それは、それは、相当に頑固であったりする。

だからといって、あきらめられない。自分も人間の一員だ。運命共同体である。そして、自分だけ特別優れているなんてとても言えない。だけど、へんなことはヘンだとは思う。そう声高に叫んでみたい。しかしながら、そう簡単ではない。

それでも、したり顔で、イケダさんを崇拝するヒトを見ると、ホントにがっくりする。夢も希望もない、という感じに襲われる。よく、こんなヒトにだまされるなあと感心してしまう。ミエミエの、手口でだましのテクニックを使っている。マスコミを買収し、世界の有名人と世間話をして、いかにも自分はエライと宣伝する。

泥舟自民党も、本質を知っていながら、彼らを利用する。憲法をかえ、「世界と互角に」と思っている連中は、戦争なんて平気の平左である。利権と名誉欲のためには、バカナ大衆など、犠牲にしてもなんとも思わない。恐れてはいない。そういう連中は、なんだって利用の対象である。


人間社会の多様性とプロセスの実感を味わう。

2008年09月18日 12時40分51秒 | 思考試行
「望郷の道」いよいよ藤の家で、正太と山上親分との対面となった。緊張のやりとり、人間と人間の勝負である。明日が楽しみである。

小説は、実学であるという文章を読んだことがある。実際の人間関係のなかでは体験できない事象が展開される。これは、立派な実学である。筋を通し、人間としてのあるべき姿が活写される。そこから、学ぶことは多い。

リーマンの破綻に至る道程、その対処、まさに人間社会の筋が検証される。おそるべき巨額の金を、カジノで賭けるような使い方をする。そんなことで、真面目に暮らしている庶民から、なけなしの貯金を奪い取る。こんなことをいつまで続けるのか。なんらかの規制が必要だろう。

今は、激動の時代である。ヨーロッパでは、宇宙の始まりの秘密に肉薄するLHC(大型ハロゲン加速装置)という装置の稼動が、いよいよ始まるという。陽子と陽子をぶつけて、そのふるまいを観察するという。

世界中から、科学者がきており、資金、人材、共に世界中の力を集めて研究がされるという。すばらしいことである。強い力、弱い力、重力、磁力の四つの力を統一する理論の説明が可能となるかもしれない。

今週の「ニューズウイーク」に詳しい記述と、物理学者の期待の声が掲載されている。

人間社会の多様性と、いままさにプロセスの真っ只中で、人類がその歴史を積み重ねている現状を実感させられる。好奇心をもって、人生を味わっていきたいものである。

リーマン破綻。・・・新しいルールを決めよう。

2008年09月17日 13時11分53秒 | 思考試行
リーマン破綻で、エライ騒ぎになっている。

お金だけを、右へ左へ動かすだけで、儲けた損したとやっているわけだが、やはり、どこかオカシイ、と思っていたが、世界中から、32兆円ものお金をつぎこんでこの事態に対処しているという。

人間、生きていくのに、そんなに多くのものを必要とはしていない。

衣食住の適当な条件があって、他に、それを支える、若干のシステムがあればそれで充分なはずで、巨額のお金を儲けることに血道をあげる連中こそが、諸悪の根源だと思う。

こういう連中の動きは、世界中を股にかけているから、一国では対処できない。地球規模で対策を講じる必要がある。

本質的に生きるとはどういうことなのか、原点から、世界中で話し合う必要がある。いつまでも、いがみあったり、つぶしあったりしていては、結局のところ全体がダメになってしまうのだから、今回のことは、まだまだ余波が続くだろうが、この機会に、具体的に動き始めるべきだ、と思う。

それは、シンプルなことだと思う。複雑にしてはいけない。ルールを真剣に考えて、作り上げなければならない。無制限の弱肉強食が、いいはずはない。そこに、
新しい動きがでることを期待したい。

嫌なヤツとはつきあわない。・・・生活について。

2008年09月16日 09時06分14秒 | 思考試行
自給自足ができると、人間として理想的とも思える精神状態が保持できるのではないか。その上で、他者との平等な付き合いができるし、協力関係もうまれる。

支配と被支配ではなく、横並びの生存関係である。これは、人間関係のもっとも健全な姿ではないだろうか。

顧問先の社長と、ちょっとしたことでケンカとなり、長年続いた顧問契約を解約したことがあった。その感情の変化の根本には、他者をどうみているかに関係していた。

相手は、自分自身を「主人」と思っていた。当方を協力者とはみていなかった。そして、それを明確にした。その瞬間に、当方のやる気は、ゼロとなった。こんな相手とつきあう理由はない。丁度、年金が出始めた頃であった。その余裕が、直ちにその決定を可能にしたともいえるのであるが、ほとんど反射的に決定したのであって、迷いはなかった。

客観的には、それでも年金の存在が大きく、このことによる収入減による影響が、ほとんど皆無であった。これは有り難いことであった。

以来、嫌なことはしない、嫌な奴ともなるべくならつきあわない、そういう傾向がはっきりしてきた。そして、それだけではなく、新しい挑戦も開始した。休学していた放送大学を再開した。本当にやりたいこと、やるべきことをやっていきたいと思うようになってきた。

始めて人生を楽しむとか、味わうとかいう気分になってきたともいえる。

敬老の日、心構えを新たに。

2008年09月15日 09時31分08秒 | 思考試行
音楽は、音楽でなければ出せない「なにか」があって、それが人を感動させる。絵画にもそのようなものがあるだろう。画家の迫力が見る人にナニモノかを与える。芸術は、それぞれ表現形態が変わっても、それを為す芸術家の「思い」が決定的な意味を持つ。

仕事もそうではないか。仕事をする人が、どのような心持で対処しているか。単純に収入を確保するためだけなのか、それともその仕事の意味を把握して、真剣に取り組んでいるのか、それは、自ずと結果にあらわれる。

しっかりと仕事をとりくんでいきたいものだ。

今日は、敬老の日である。百歳以上の方の元気な人の番組を、テレビがやっている。元気で、頑張っている人の姿をみるのは、たしかに、励ましになる。努力と手入れの成果であり、なにより、本人のやる気である。

すべての分野で、こういう心構えで、ことに臨みたいものである。戦争体験や辛いことも多かっただろう老人世代が、元気一杯に活躍している姿をみせてくれることは、それだけで、意味がある。

小生も、気付けば老年の域に近づいてきた。心して、生きていきたいと考えている。