空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

空をみながら(33)

2007年10月31日 09時42分43秒 | 思考試行
 泰吉と朋子夫婦は、結婚して34年になる。この間、2泊3日の旅行は、2度経験があるが、いずれも、何らかの仕事の前に、これから困難な仕事に向かうからとか、その最中の気分転換といった理由で、旅行中も、本当には楽しめるという状況にはなかった。それ以外は、すべて、1泊2日の近場に限られていた。父母を連れて行くのが普通であったから、二人だけで行くのは、滅多にない。今回、泰吉の父の納骨の行事も終えて、諸手続きも、大体目安がたったので、思い切って二人だけで、出かけることにした。八ヶ岳に朋子の友人がオーナーとなっているソサエティがあって、そこへ2泊して、周辺を探訪しようというのである。大阪からだと流石に遠い。しかし、その分旅行気分はもりあがる。中央道にはいって、遠くに白い雲とおぼしき小さな三角形が、徐々に大きくなり、それが山であることが解ってから、異次元の世界へすすむ感覚が生まれてくる。朋子の歓声が、大きくなる。信州の旅が始まった。昨日までの台風一過で、すばらしい好天気である。

空をみながら(32)

2007年10月27日 08時58分45秒 | 思考試行
 泰吉は、古本屋に、一時よく通った。その頃、手当たり次第に本を買い漁った。といっても、この古本屋は、格安で一冊30円とか、そんな価格で店頭に並べていた。お陰で、少しでも気に入ったものは、気兼ねなく買うのである。店番のオヤジが、すごい読書家のようにみえるのか、感心したようにみていた。そして、ある時、泰吉の選ぶ本の、センスの良さを褒めた。泰吉は、分野は様々であったが、いわゆるエロとか、グロ系統の本は、一切買わなかったから、そのことに注目していたようだった。単純にそのような本は、なんとなく買いにくいだけだったのだが、興味を示さない人とみたようであった。その当時、買った本のなかに、加賀乙彦さんの「宣告」があった。死刑囚に取材した重いテーマであるが、以前、書評か何かでみたことがあった本で、見つけたときは、嬉しかったことをおぼえている。泰吉は、池波さんとは、対極になるようなテーマの、この本に最近、ようやく取り掛かり始めた。読みかけると、これも、すごい本である。長年積んでおくだけだった本が、ようやく陽の目をみようとしている。書く作業に比べて、読むほうは、相当早い。読み方にもよるのだろうが、書かれた題材から、何事かをくみとる作業は、能率からいっても、効率的である。人生において、読書をする、しないでは、大きな違いが生ずるのではないか、と泰吉は実感しつつあった。人生の豊かさを感じるのである。いま、新しい境地に進みつつある。そんな、確信が生まれてきている。泰吉は、こうした変化は、朋子の母との同居から始まったことに半ば驚いている。肺をわずらい、片肺で、歩くのもやっとという人であるが、本が好きで、映画もすきだから、DVDを借りてきたり、本の話をしたりするうちに、泰吉にも影響が現れたのである。以前から、放送大学に通ったり、本は読むほうではあったが、こうしたことが、実際の生活感に影響があるような感覚は、実感としては、あまりなかったのである。それが、違ってきた。

空をみながら(31)

2007年10月26日 08時48分23秒 | 思考試行
 「男の作法」は、いい本である。これで、2冊池波さんの本を読んだわけだが、キチンとした日常生活を過ごそうと思う気持ちにさせてもらった。泰吉の年齢とは、21歳違うが、感性というか、その価値観に共鳴するところが多い。無理がない。泰吉は、彼の著作を、これから、すべてを、渉猟するつもりである。勤勉な作家だけに、その量が多い。読み応えがありそうである。楽しみができた。泰吉は、本気でものごとに取り組んだことがあるだろうか、と考えてみた。この年齢まで何とかやってこれたこと、それだけでも、ほぼ満足というところがあったが、実は、生を享けた以上、何らかのお役に立ちたいという、望みがある。それは、わずかなことでいい。このブログもそういう気持ちで始めた。そのためには、習練も必要である。今、素振りなり、トレーニングの段階であると、泰吉は思っている。破綻したり、辻褄があわなかったり、碌なものではないが、修行しながら、慌てることはない。今までの、得たものと、これからの努力、姿勢をもって、何らかの仕事ができたらと思う。泰吉の方向性ができつつある。

空をみながら(30)

2007年10月25日 08時38分57秒 | 思考試行
 池波正太郎さんの本を、1冊読んだだけで、かなりの影響を受けた。それは、日常生活をどう生きるのかと言う点で、人が集まって暮らしている、いい意味で都会のセンスを教えてくれる。泰吉も、大阪育ちで、田舎ではないから、近所の人との付き合い、それも、庶民の付き合いだから、子供の頃の大人から、なにやかやと、教わったことを思い出す。さらに、「男の作法」を読みかけている。これもすばらしい。こういう本を読みたかった。親切で、現代版もほしいものだが、作家は、もう17年も前に亡くなっている。しかし、本になっているから、あとのものは、これを読めば、その真髄を知ることはできる。応用も可能である。いろいろな科学技術の発展に対する姿勢にも通ずるものがそこにはある。とりわけ、段取りであるとか、心構えとか、やはり、キチンとしている。そして、人というのは、いろんな人間がいて、みんな違うのだということも抑えている。粋とか、野暮とか、いうけれどもそこに、粋な人間の具体例をみせてくれている。

空をみながら(29)

2007年10月24日 08時30分18秒 | 思考試行
 本というのは、著者がいろいろ考えて、工夫して、苦労して書いたものを、あっさりと読ませてくれるので、本当に贅沢な感じがする。泰吉は義母に影響されて、池波正太郎さんのエッセー「日曜日の万年筆」を、読み出したが、わずか、二日ほどで、寝る前とか、寝起きとか、ちょっとした時間を使ってもう読んでしまった。まことに、得るものが多かった。泰吉は、読書のうまみを、これほど明確に体験したことはなかったように思う。なんとなく、考えていたことを、文章にしてくれて、はっきりさせてくれたと思った。エッセーの中で、池波さんは、小説より、苦労することを書いている。さもありなんと思う。読む方は、生身の筆者に触れる感じで、エッセーの方が親しみがもてる。筆者が苦しんでいるということは、うそや誇張を禁じられて、思うさまに書けないということであろうが、それは、読者として、そういうところは、見せて欲しいところである。ホラ話は、面白くても真面目にとらえられないから、まともに受け取るわけにはいかない。役にはたたない気がするのである。しかし、エッセーの中で、作家としての仕事の仕方、考え方を書いていて、それが、包み隠さずという姿勢であり、泰吉は、今度彼の小説を読むときには、その中に、池波さんの真実をみることが出来ると思った。単なるフィクションという見方はしないと思った。彼は、小学校をでたきりで、上級の学校にはいっていない。そのことは、人間の原点を表現するためには、実は、有利なことのように思った。生活の本当の苦労、真実、生きる意味を教えてくれる真に得がたい先生の条件を備えているのである。泰吉は、いい出会いを得たと確信した。泰吉は、ヨボヨボの義母に、大きなプレゼントをもらったのである。世話をしているつもりが、きっちり、世話をしてもらっている。だから、人生は面白いといえる。泰吉は、人生に広がりを実感しつつあった。

空をみながら(28)

2007年10月23日 08時45分37秒 | 思考試行
 今週から、朋子の母が、泰吉宅へ来ている。週単位で、自宅に一人住まいしている朋子の母を、朋子は訪問して、介護してきたが、道中にかかる時間や経費、労力がかなり負担となってきた。しかも、充分にケアされていないと思うのか、朋子に対する態度にも変化があり、不満をもらすこともでてきた。そこで、婚家先で、気兼ねもあり、言い出しかねていたのだが、泰吉の父親が亡くなったのをしおに、引き取ることとし、毎日では朋子自身も辛いというので、週毎に暮らすこととなったのである。いろいろ変化が生ずる。猫たちが、まず、徐々に近寄り、いつのまにか側へはべるようになり、猫と暮らしたことがない朋子の母であったが、すっかり、なじむようになった。また、娘時代から、映画や本が好きで、いまも池波正太郎の本を楽しみにしている。あまり、面白い、楽しみだというので、どれほど面白いのだろうかと、泰吉も池波正太郎の本に始めてふれた。「日曜日の万年筆」というエッセー集だったが、いっぺんにファンとなってしまった。作家の姿勢、価値観が泰吉の好みにあう。なぜ、今まで、ふれなかったのか、不思議なぐらいである。生い立ちや、道理の立て方、進み方どれも自然で、正直で、泰吉は、すばらしい出会いを実感した。これは、大きな変化である。人生の宝物を得たかもしれない。泰吉はそう思った。

空を見ながら(27)

2007年10月22日 23時28分34秒 | 思考試行
 パーティーの案内に、病名も入っており、本人は、個別の立ち話のなかでは、医師に、余命をきいたら140日と言われたと明言する。普通の話をするように言う。医者からも、そんなことを聞いた人は始めてだといわれたという。それにしても、深刻な様子は、本人にも周囲にも、一切感じられない。些か異様である。泰吉は、パーティが、どのような雰囲気になるのか予想がつかない思いで参加したのであったが、何事にも動じない、本人の態度で、全体の雰囲気が決まっていると思った。気の強さ、逞しさ、そして、本質的には、鈍感さも感じる。自分ならどうするだろう。まず、パーティーを開くなどということは考えられない。いわば、スターの座にすわっているわけで、そのこと自体落ち着かない。そんな立場に自分を置くことは、考えられない。人種の違いを感じる。目の表情など、見たことのない、色をしている。棲む世界が違うという皮膚感覚に襲われる。真面目な表情で、話をしたりすることがあるのだろうか、とまで、思ってしまう。みんな、歌がうまい。プロだから、というより、表現することが楽しく、快感をむさぼりながら、という境地に至っているようである。生き物としての、喜びの世界を知っている人々の群れの中に、まだ、その世界を知らない人間として、露になって、放り込まれたような気分になっていた。

空をみながら(26)

2007年10月20日 08時50分57秒 | 思考試行
 中学時代の同級生Hから、南で店をやっている同じクラスのM子が、肺がんになって、店を閉めるという知らせがあり、常連の人々が中心になって、パーティを開くという。泰吉は、M子の店の何周年だかのパーティに一度参加したことがあり、そのときは、ちょっとした違和感があった。常連でもないのに、単なる同級生というポジションでは、なじめないところがあった。何度か彼女の店で、同窓会があったが、それは、会場提供ということで、客として、日頃、そのような店に行くことは、ほとんどない泰吉にとっては、なじみのない世界ではあったが、理由が深刻なだけに、ともかく参加することにした。同じクラスの、小学校時代からの友人Kにも、声をかけた。同窓会と、常連の人々とのドッキングであるが、といっても、中学同窓のメンバーは、7人位で、あとは、常連の人々とみられる。それでも、違和感のない、パーティであった。本人が医師に問いただし、余命140日と言われたという。頭は以前の髪型のままだが、カツラという。前にあったときと、あまり、変らないM子の様子は、とても、余命何日という感じではない。医師も患者本人からそんな風に、迫られたことはないと言っていたと、M子は、あっさりと言う。娘さんが一人、すでに結婚している。店の常連客は、スピーチで、自分が何故こんなに通いつめたのか、よく解らないといい、実際、淡交という感じで、この雰囲気も、変らない。もと従業員の、今はプロの歌手指導をしているという青年の司会で、パーティがはじまった。

空をみながら(25)

2007年10月19日 08時23分53秒 | 思考試行
 散髪屋の、老婦人がどのように立ち直ったのか。事故のあと以来、彼女はふさぎこんだ。自分を責めた。解決への糸口がみつからない。夫の日記、あらゆる物を調べてみたという。そして、日記の中に、たった一箇所、彼女への感謝の言葉があった。彼女は、号泣したという。それが、彼女を救ったという。口はよくまわるが、世話焼きさんで、面倒見がよくて、いいおばさんなのだが、それでも、生前夫から小言は言われたけれども、評価してもらったことがなく、自信がもてなかったのだという。日記のたった一言が、彼女を立ち直らせることになったのである。精神科にも、知人に勧められて通ったことがある。いろいろのことが、相乗的に効果があったのだろうが、彼女にとって、決定的だったのは、夫の感謝の言葉だったのである。泰吉も朋子に、感謝すべきことが多い。このとき以来、感謝ということの意味を真剣に思うようになった。有難いと思える心がなければ、言葉だけでは、それは、本末転倒である。言葉だけ連発しても、それは、ウソツキになるだけであり、そんなものは、人を救うことにはならないのかもしれない。大事なのは、心だろうが、しかし、言わなくては伝わらない。まずは、少しでも思うところがあれば、感謝の気持ちを表現しておくことから、始めようと泰吉は思った。

空をみながら(24)

2007年10月18日 08時12分55秒 | 思考試行
 一人ひとり、小説になるような人生を過ごしてきている。これは、泰吉のいままでの人生を経験しての、感想である。具体的に、たちいって、聞くことは、すべての人に、可能なことではない。ただ、聞こうとする気持ちがあれば、機会があれば、そういう話を聞くことができる。昨日、行った散髪屋の、老婦人は、おしゃべり好きで、のべつまくなしに、喋っている。話しは、多岐にわたるけれども、ときに、自分の身の上話を、することもある。山場があって、その部分は日によって、飛ばしたりする。そこが大事だから、誰にでも話すことではない、と思っている風情で、話すべきかどうかを、その日の気分で変えているようである。何度も聞いているから、最近の話でないかぎりは、重要なポイントを把握したつもりの泰吉にとっては、ほとんど聞いた話ばかりであるから、話しの道中で、泰吉の反応が、彼女の気分に、どのように影響しているかが、みえるのである。ちょっと素っ気無く相槌をうっていると、その山場にはふれない。泰吉の相槌の打ち方の勤務評定になっている。彼女の主人も、理容師であった。思いもかけない突然の事故によって、亡くなった事が、彼女を苦しませた。自分をせめた。ノイローゼとなった。そこから、どのようにして、立ち直ることができたのか、それが彼女の話のメインなのである。はじめて聞いたときには、泰吉は感動した。そこに生きていくマナーを見た思いがした。

空をみながら(23)

2007年10月17日 04時58分27秒 | 思考試行
 人間には煩悩が108個あって、それは、凡人に付きまとう。仏教の教えるところである。そう言われれば、泰吉も、そのように思う。つまらないことに立腹してみたり、自分だけが、不利な扱いを受けていると、悲しんでみたり、もっと辛い立場の人も大勢いて、そのことを知っているにもかかわらず、見えない。自分のことばかり、という水準である。これは、かなり、辛い世界である。煩悩は、そのようにして、製造され、形成されるのかもしれない。世間がある程度みえて、判断できれば、自分の恵まれた位置というのは、すぐ解ることだし、感謝しなければ、罰があたるというものだ。つまらない宗教もあるから、あまり、はまり込むのは、意味がないし、害が多いけれども、祖先の人々、先達のおかげを、相当受けていることを知って、日々をすごすという風でないといけないと思うようになってきた。その意味で、仏教には、親近感を持つようになってきている。そして、自分もまた、少しでも世間様のお役に立つように、心がけるということになる。自分の行動の細部について、検証しながら、暮らすというようにすることを、課さなければと、泰吉は考えるようになってきた。反面、迷いがあって、それが、時折顔を出してくる。それもまた、真実であり、これも無視することなく、真正面から捕らえて、逃げることなく対処することも、必要なことだと思う。そこに、また、味わいの根源があるように思う。迷いや、不満も貴重な、彩りであり、人生の材料である。チェックのための試験薬ともいえる。

空をみながら(22)

2007年10月16日 08時21分23秒 | 思考試行
 泰吉も、初老の域に達した。仕事をはかしていくスピードが若い頃に比べるとどうしても、劣る感じがある。ミスも多い。やる気に欠けるところがある。目が弱り、もう長い間、男女のことについても、ご無沙汰であったりする。関心がなくなったわけではない。いつの間にか、ないことが当たり前となり、だからと言って、条件がそろったりすると、まだ、迷う可能性はあると思っている。しかし、諸般の状況を思うと、自制するのがベターであると考えるし、抑えきれないほど欲望が強いわけではないから、無事に過ごしているというところであろうか。ネコを飼っていて感じることだが、明らかに個体差があって、元気のいいのは、サカリのときはものすごい迫力で、あらゆる対象にせまっていく。本能の強さ、エネルギーを全力で出してくる。それは、善悪をこえて、自然ということであり、どうしても、我慢できないという人は明らかにいるのだろう、と思う。それは、それでいいので、少し羨ましい気がするけれども、泰吉の場合は、ゴタゴタするのを思うと、足が前へすすまない。それでは、人生のもっとも味わうべき部分を、経験していないのかもしれない、やむにやまれぬ衝動、爆発、達成感、喜び、そうしたものから、逃げて、平穏無事の人生を願ってなにが人生か、とも思うときもある。おそらくは、社会秩序の観点から、仕組まれた教育形態にドップリと影響され、その網にとらえられているにすぎないのだろう。そこから、はみださなければ、真の喜怒哀楽を体験できないようにも思う。

空をみながら(21)

2007年10月15日 09時24分58秒 | 思考試行
 数学の世界は、実際にどのように役立つのかよくは解らないから、大抵の人にとっては、神秘のベールにつつまれている。「フェルマーの最終定理」を読んでいると、おおくの数学者が、これに関わっている。それも、時代をこえて、おおくの数学者の仕事の成果を生かして、この形としては、簡単な問題を解決するために、ものすごいエネルギーが、注入されてきた。細部にわたって、この証明が点検されていくのだが、小さい綻びと思われていたものが、大変な意味をもったりして、大まかな考え方しかしない泰吉にとっては、苦手な分野である。それでも、谷山-志村予想という仕事によって、数学の分野で、本来別々のものとされているところに、「架け橋」がかけられて、数学界に大きな前進がもたらされたという。そして、この谷山-志村予想が証明されることは、「フェルマーの最終定理」が証明されることになるということなのだが、泰吉にとっても、こういう考え方は、持論である、多分野の成果を人生に活かすという考えにつながるものであり、これは、何をするにしても、才能がないと思っている我々凡人にとっても、学問や、科学技術の先端の細部まではわからなくとも、大きな枠として、大筋として、解ると言うことの重要性を、主張したい泰吉としては、おおいに力づけられることなのである。それは、世の中の、リーダーと目される、人々、政治家や、全世界の指導者といわれる連中にもわかってもらいたいことなのである。それは、世界が健康になる必須のことだと思っている。

空をみながら(20)

2007年10月14日 08時45分17秒 | 思考試行
 世の中、一筋縄ではいかない。「フェルマーの最終定理」新潮文庫・という文庫本を見つけて、読み出すと、そこに、数学の天才たちが多く登場する。(19)のように、行けばそれで良い様なものだが、実際はそうはならない。そういう枠には、簡単にはあてはまってくれない人々の集まりである。やはり、多様なのである。泰吉は、どちらかといえば、ステレオタイプではない、と自覚しているが、それは自己認識であって、事実と一致するとは限らない。気付くという作業が、頻繁にできるようになれば、それは、それで良しとしておくぐらいで良いのではないか、と考えることにした。数学の本は、他にも読みさしのものが、何冊もあるのだが、じっくりと読み直し、完全理解をしたいと思っているのだが、なかなかそれは果たせない。しかし、刺激があって、また、謙虚にならざるをえない状況を与えてくれることについて、充分意味があると思っている。そして、ときどき新しい見地を与えてくれるのである。

空をみながら(19)

2007年10月13日 08時47分52秒 | 思考試行
 人と人との付き合いというのは、その成否は、おおきく感性や価値観にかかっている。無用な諍いや、反目をさけるためには、いろいろと方法はあると思うが、豊かな感性、豊富な知恵、そういうものが背景にあれば、スマートな解決が可能であると、泰吉は考えていた。あらゆることに関心を持とうとしたし、努力もしてきた。そこから得てきたことは、どうやら、自分に閉じこもって、自己利益を行動の中心におくと、人間間違えるということだ。そこには、真の生きる喜びはなく、もし、喜びを得たと、本人が思ったとしても、それは、病的なものであり、そんなものはなんの価値もなく、魂の、こころの、亡びへの道でしかない。とはいえ、そこへは、いわば、本能的な誘惑の手が伸びていて、しっかりしていないと、いつの間にかその真っ只中にいるという事態になる。その意味では、泰吉にとって、楽しみであり、教科書でもあるのは、雑誌「文藝春秋」であった。主義主張のさまざまな人が登場し、価値観の多様なことに、本当に豊かな気持ちになることができる。日本のすばらしい文化的財産である。泰吉は、そう考えていた。