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「室戸へ」 お遍路記 1日目 霊仙寺(1番札所)から

2020-09-30 15:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【1日目】 曇り
 【札所】霊仙寺(1番札所) → 極楽寺(2番札所)
 【地域】徳島県鳴門市大麻町
 【宿】 極楽寺宿坊


 還暦を過ぎて1年、臨時の仕事の期限が切れ、さて何をしようか、次の仕事を探さねば、と思う気持ちもありながら、「やっぱり四国のお遍路に出てみよう」という気持ちがふつふつと沸いてきて、午後1時5分、JR高徳線の板東駅に降り立ちました。令和元年(2019年)10月半ばの曇り空です。
 ここは徳島県鳴門市です。初めて四国の地に足を踏み入れました。歩いてすぐのところに四国八十八ヵ所巡りの1番札所である霊山寺(りょうぜんじ)があります。


▼ 板東駅




 無人駅でした。山が近くに見える小さな駅です。
 新幹線で岡山まで行き、そこで徳島行きの特急に乗り換えました。座席に着くとすぐに、隣の男性から「この列車は高知に行くんですか」と尋ねられ、私は「エッ、徳島行きでは?」と答えたところ、間違っていたのは私のほうで、徳島行きは同じ列車の後ろの車両だということが分かりました。この特急は途中で高知行きと徳島行きに分かれるようです。急いで後ろの車両に移動しました。
 瀬戸大橋を通って瀬戸内海を渡り、香川県の高松を過ぎ、山を越えて徳島県の板野駅に着きました。そこで高徳線の各駅停車に乗り換え、2駅ほどで目的地の板東駅に到着しました。板野町の東にあるから板東駅というようです。板野駅で各駅停車のローカル線に乗り換えたのは私と男子高校生の2人だけでした。
 列車が板東駅に着くと、電車の車掌さんも降りて「切符はこちらでいただきます」と回収します。駅には私以外は誰もいません。小雨がぱらついています。雨が降るとの予報でしたがまだ小雨です。
 無人駅の中で背中に担いだザックを下ろして、持ってきた白衣(びゃくえ)に着替えます。背中には「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と墨書してあります。「オレは本当に歩くのだろうか」、自分でもまだ半信半疑です。40年近く、毎日毎日、自宅と職場の往復を繰り返してきました。それ以外のところを歩くことなど、考えられない日々でした。何か板につかないことをやってるな、自分でもそう思います。現実感がなく、宙に浮いているような感じです。とにかく歩こう。
 今から1番札所の霊山寺に向かいます。霊山寺までは歩いてすぐです。


▼ 霊山寺の石門と街並み




▼ 霊山寺の山門



 午後1時50分、1番札所の霊山寺に着きました。途中で小雨が気になり、カッパを着ましたが、着てみると蒸し暑くて脱ぎました。脱ぐと今度はザックに入らなくなり、きれいに折りたたむのに時間がかかりました。そんなことにけっこう時間をとられました。まだ気持ちが落ち着きません。
 霊山寺に行く途中の板東の町は静かで、途中で私とは逆に板東駅に向かう女性のお遍路さんに一人会っただけでした。白衣を着て、菅笠(すげがさ)をかぶり、金剛杖(こんごうづえ)を着いて、ザックを背負いながら歩かれていました。40代ぐらいの女性でした。私も早く遍路用品をそろえなければなりません。持ってきたのは白衣と数珠と首にかける輪袈裟(わげさ)だけです。
 一礼をして霊山寺の山門を入ると、まず売店に向かい、そこで必要な遍路用品を買いました。売店では新聞記者らしい人が、売店のご主人と店のテーブルに座りながら話をしていました。金剛杖と菅笠、それに納経帳と納め札、お経の経本を買いました。ロウソクとお線香は買いませんでした。
 
 境内の参拝者は5~6名と少なく、静かな境内でした。私はもっと多くの人が参拝しているのか思っていましたが、静かな落ち着いた雰囲気でした。


▼ 霊山寺本堂



 本堂で般若心経を唱えてお参りをしていると、さっき売店で取材をしていた新聞記者がいつの間にか私の後ろにいて、「いま何を唱えていたんですか」と聞かれたので、「売店で買ったお経の経本です」と言うと、ピンとこなかったようでした。「般若心経ですよ」と言ったら、「ああ、そうですか」と頷かれました。まだピンと来ていない様子でした。全国紙のM新聞の記者だそうです。本当は般若心経だけではありませんが、簡単にそう答えました。


▼ 霊山寺太子堂



 そのあと太子堂に回り、同じお経を唱えました。ロウソクとお線香は供えませんでした。不信心かもしれませんが、私の気持ちとしては般若心経と御真言を一生懸命に唱えればそれで十分満足でした。それに背中のザックにもこれ以上のものは入りません。


▼ 霊山寺境内



 お寺からの出がけに、スマホで霊山寺の山門の写真を撮っていたら、売店の人がたまたま歩いていて、「写真を撮りましょうか」と言ってくれたので、山門を背景に私の写真を撮ってもらいました。
 午後2時40分、山門で一礼して、霊山寺を出ました。霊山寺のすぐ西の南北の通りを北に歩き、大麻比古(おおあさひこ)神社に向かいます。ここから1キロほど北に阿波一の宮の大麻比古神社があります。ここは札所ではありませんが、行ってみたい神社でした。


▼ 大麻比古神社の赤い大鳥居

天井は高速道路の高架です。

 午後2時50分、霊山寺から10分ほど歩いて、高速道路の高架をくぐり抜けたところに、朱塗りの大鳥居がありました。そこをくぐって大麻比古神社の参道をまっすぐ北に向かいます。かなり長い参道で、道の両脇には灯籠が延々と並んでいます。両脇は並木に囲まれたきれいな参道でした。さすが阿波国の一の宮です。10分ほど歩いて大麻比古神社に着きました。小雨がぱらついています。傘は持って来ませんでした。


▼ 大麻比古神社の参道と灯籠



 午後3時20分、阿波一宮の大麻比古神社に参拝したちょうどその時に、強い雨が降り出して神社の社務所の軒下でカッパに着替えました。境内には車で参拝した夫婦連れが一組、あと親子連れが一組です。立派な社務所がある大きな神社でした。


 大麻比古神社を出ると、今日の宿である2番札所の極楽寺(ごくらくじ)に向かいました。雨が本降りになりました。約3キロほどの道を激しい雨に打たれながら歩きました。初日から雨に降られました。
 実は初日の宿をどこに取るか、ちょっと悩みました。1番札所の霊山寺の近くに宿を取り、明日の朝から歩き始めてもよかったのですが、数日前に今向かっている2番札所の極楽寺の宿坊に電話したところ、「いいですよ」ということだったので極楽寺の宿坊にお世話になることにしました。ただ今日は団体客がなく、「食事は出せないので素泊まりでよければ」と言うことでした。極楽寺に向かう途中にあるコンビニで今日の夕食を買わなければなりません。さっき打った(お遍路では札所にお参りすることを「打つ」と言います)霊山寺も今向かっている極楽寺も交通量の多い県道12号線沿いにありました。交通量の多い道を慣れない格好で一人で歩くのは、気恥ずかしい気持ちでした。しかもひどい雨のなか、カッパを着て、ザックを担いで、菅笠をかぶり、金剛杖をつきながら歩くのは、今までの自分の日常からみると何か別世界のように見えます。


コンビニは今向かっている極楽寺への途中にあります。この格好でコンビニで弁当を買うのも初心者の私にはためらわれました。でもコンビニに入ると、誰も驚いた様子はなく、さも当然のような対応でした。自分の格好を気にしていたのは自分だけのようです。私はこの土地の風景の一部になっていて、誰も気にしていないのです。
 コンビニを出ると、まだひどい雨は降り続いています。右手に金剛杖をつき、左手に弁当の入ったレジ袋を持ち、背中には重たいザックを担いで極楽寺まで歩きました。両手が塞がってしまい、その上、頭には菅笠、体には着慣れないカッパを着て極楽寺に向かうのは、慣れないこととはいえ、コンビニから1キロの道が妙に長く感じました。しかし身につけている物どれ一つ取っても不要なものはありません。お遍路の必需品を身にまといながら歩くということがどういうことなのか、初日の雨が体に浸みるにつれ分かりました。



▼板東駅と吉野川

右下に板東駅。左の川が吉野川。右の川は旧吉野川。ここから奥のほうに西へ西へと吉野川の北側(右側)の山すそを歩いていきます。


▼ 極楽寺山門




 午後4時、2番札所の極楽寺に着きました。予定よりも遅くなったので、まず納経所に行きました。納経は5時までと決まっています。納経帳に納経の印をもらいながら八十八ヵ所をめぐる人が多いので、私もそれに習うことにしました。この納経帳はさっきの霊山寺の売店で買った物です。係の女性が筆をもち、慣れた手つきで、納経帳に墨書されました。何と書いてあるのか読めませんが、たぶん仏様の名前を書かれたようです。左隅の「極楽寺」というのは読めました。そして3つの朱印を押されます。300円納めました。
 納経帳は自分が札所でお経を唱えたことの証拠のようなものです。昔は本当に写経をして札所に納めていたようです。今でも写経所を設けているお寺もあります。
 納経所では私を待っていたらしく、すぐに若いお坊さんから宿泊所に案内をされました。その案内を聞いてから、「まだお参りを済ませていないので」と言って、カッパ姿で本堂と太子堂にお参りをしました。本堂の横には長命杉という巨木がありました。見事な大木でしたが、激しい雨でしたので、その木をゆっくり眺める余裕はありませんでした。


▼ 極楽寺の長命杉




 私の世話をしてくれた若いお坊さんに聞いてみたところ、最近はお遍路の数がめっきり減っているそうで、その日は団体客が無いそうです。その日は極楽寺の宿坊を1人貸し切りで泊まりました。「明日だったら、檀家さんの団体があるから食事も出せますけど」ということでしたが、今日は宿泊は私1人だけなので素泊まりになりました。1泊5000円で泊まることにしました。
 ただ風呂は入れるし、洗濯機もあります。乾燥機もあります。洗剤も横にあります。素泊まりで1泊5000円というのが高いのかどうか。別の宿では、素泊まりで6600円のところ、4500円のところ、4800円のところ、7600円のところなど、いろいろでした。市内の駅近くのホテルなどは立地がいい分、やはり高いようです。
 朝晩二食付き宿泊の場合には、7000円、6700円、7400円、6800円、7500円、8100円、7200円、6900円、6500円、8100円など、中間をとって7500円ぐらいかなあという感じでした。
 途中からカッパを着て歩きましたが、背中のザックにザックカバーをするのを忘れていました。途中でそのことに気づきましたが、大したことは無かろうとタカをくくっていたら、部屋でザックを開けてみると、荷物の大半が濡れていました。しまった、と思いました。急いで取り出して畳の上に干します。衣類などは乾燥機の中に入れて乾かしたものもありますが、困ったのは地図帳などの紙類が濡れたことでした。
 特に「へんろ道保存協力会」編の地図は、お遍路をはじめたばかりの私にとって、これがないと生きていけません。これは命綱です。これがないと明日からどこをどう歩いてよいのか分かりません。
 乾かそうとしても地図帳はなかなか乾きません。完全に乾くのに2~3日かかりました。おかげで紙がふやけて、新品の地図帳が1日で使い古しの地図帳のようになりました。
 そのあと洗濯と風呂を済ませて、コンビニの弁当を食べ、缶ビールを1本飲みました。「南無大師遍照金剛」と書かれた白衣は大切にハンガーに掛けました。金剛杖は宿に入るときにまず洗い、玄関の杖立に置きました。金剛杖は弘法大師の分身だと言われています。


▼ 極楽寺の部屋の中の白衣(びゃくえ)



 午後7時頃にやっと一息つきました。まだ7時だったのですが、感覚としては9時を過ぎているような気がします。お遍路の夜は早いです。その代わり明日の朝も5時50分から朝のお勤めです。
 まだ外は雨が降っています。夕方からますますひどく降っています。それにさっきの若いお坊さんが奥にはいってしまうと、広い宿坊に一人で泊まるのは寂しいものです。暗い廊下を一人で歩くとちょっと恐い気がします。10畳ほどもある広い部屋ですが、私には広すぎてよけい人恋しくなりました。
 天気予報では雨は明日の午前中まで降るようです。

「室戸へ」 お遍路記 2日目 金泉寺(3番札所)から

2020-09-30 14:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【2日目】 曇りときどき晴れ
 【札所】金泉寺(3番札所) → 大日寺(4番札所) → 地蔵寺(5番札所)
 【地域】徳島県鳴門市大麻町 → 板野町(羅漢) → 上板町(神宅)
 【宿】 極楽寺宿坊 → 民宿寿食堂


 朝5時に起きて、5時50分から極楽寺本堂での朝のお勤めをしました。檀家の方で87歳のお爺さんが毎日参拝されに来られているということで、その日もお参りされていました。檀家さんといってもお寺のどこに墓地があるのか分かりませんでした。昨日と同じその若いお坊さんにそのお爺さんのことを聞いたところ、「毎日約1時間かけて歩いてここまで来られている」ということでした。
 本堂での約20分ぐらいのお経のあと、若いお坊さんに遍路の心得などを話してもらいました。この宿坊に泊まるお遍路の最初の1日であることが多いので、これからの注意を兼ねてお話しになりました。そこでお勤めを終わりました。
 この本堂は階段を何十段も上がったところで、当たり前のことですが、昨日私が着いたあとにお参りしたところでした。普段は参拝者として外からお参りするだけですが、自分がお寺の内部にいて、お寺のお勤めの一つとして自分もそれに参加しているということがちょっと不思議な感じがしました。それだけで本当にお遍路の世界に入り込んだ気になります。

 午前7時20分、極楽寺を出発しました。天気予報に反して、雨が上がっていたのでホッとしました。境内にはすでに4~5名の方がお参りをされています。若い男性もおられます。互いに「おはようございます」と挨拶をしながら極楽寺を出ました。

 次の3番札所の金泉寺(こんせんじ)は、極楽寺から約3キロほど西にあります。ここから10番札所の切幡寺までは西へ西へと向かいます。直線にすれば約20キロ程度ですが、南北にジグザクに行きますので、それ以上はあります。
県道12号線をはずれ、街中の一つ北側の道を歩きました。すぐに鳴門市から板野町に入りました。

▼ 板野町のもと理髪店とタバコ屋



▼ 草ボウボウの遍路道


 3番札所の金泉寺にいたる、その近くのあぜ道は草ボウボウとなっていて、しかも前日の雨で草が濡れていました。これだと靴が濡れてしまいますので、遠回りしてそのままアスファルトの道を歩きました。靴はゴアテックスの防水靴を履いてますが、それでも十分ではなく水は浸みてきます。昨日の雨で濡れましたが、今朝はどうにか乾いていました。靴には気を遣います。靴が濡れると足がふやけてマメが出来やすくなります。私はマメが出来やすいタチで、靴には気を遣います。
 遍路道の管理は行政の管理ではなく、ボランティアの人たちの善意によって成り立っているようです。お遍路が遍路道を歩けるのは、遍路道を維持している人たちの活動があるからです。

 午前8時10分、金泉寺に着きました。山門で一礼して入りましたが、手水場(ちょうずば)で手を洗うのを忘れました。お寺の鐘をつくのも忘れました。本堂と太師堂でお参りをしたあと、お寺の中で平和運動の署名をされてる方がいて、請われるままにそれに署名をしましたが、お寺の中でそういう署名をすることに、ちょっとした違和感を覚えました。
 3番札所の金泉寺への参拝者は三々五々、ほとんどは車での参拝です。夫婦連れ、家族連れ、若い人もいました。今日は土曜日なので、昨日よりも参拝者が多いようです。

▼ 金泉寺山門


 午前8時20分、3番札所の金泉寺を打ち終わりました。次の4番札所の大日寺に向かいます。
 今日は曇り空、時々小雨、しかし今は雲の切れ間から晴れ間が見えるという微妙な天気です。午後からは雨になる予報です。今のうちに歩いておかなければなりません。


▼ 岡上神社


午前8時40分、岡上神社を通りました。ちょうど10月の秋祭りの季節で、神輿の準備が行われていました。


▼ 宝国寺


 午前8時50分、4番の大日寺に行く途中で、その道沿いに番外霊場の宝国寺(ほうこくじ)がありました。ここは札所ではなく、墓地の隣にある小さなお寺です。住職さんがいない無住のお寺でした。ここはいつ建てられたのか分かりません。もともとは地元の遍路接待所として利用されたようですが、鍵がかかっていて中には入れませんでした。なるほど1番札所の霊山寺から歩き始めた人にとっては、一息入れるのに格好の場所です。そこに納め札とお賽銭をあげてお参りをしました。
 今このあたりを歩いているのは私一人です。歩きのお遍路さんとは誰も会いません。車でお参りしている人はいるのですが、歩いているお遍路さんをまだ誰も見かけません。2番札所から歩き始めたからでしょう。1番札所を朝から歩いてくる人が多いのではないでしょうか。


▼ 振袖地蔵


 午前9時、その約500m西に振袖地蔵がありました。先々の時間が気になったので、そこにはお賽銭をあげて「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」だけ唱えました。
 4番札所の大日寺に行く途中には、番外霊場の愛染院(あいぜんいん)があります。
 途中からアスファルトの道路をはずれ、山の裾野の小さな遍路道に入ります。人がめったに通らない道です。昔のままの遍路道を歩きます。


▼ 荒れ果てた無住のお寺


 午前9時20分、愛染院へ向かう途中に誰も住まない荒れ果てた廃寺があり、そこでお参りをしました。人が住まなくなったお寺というのは独特の雰囲気があります。何が出てきてもおかしくない気がします。こんな山裾にポツンとある誰も住まない廃寺に比べると、さっきの番外霊場の宝国寺は同じ無住の寺とは言っても町中にあって、人の手が行き届いていました。人の手の加わらない建物というのは、なにか恐い感じがします。
 最初は、「これが愛染院だろうか」と驚きましたが、その草深い遍路道を抜けたところに愛染院はありました。


▼ 愛染院


 午前9時40分、愛染院に着きました。「般若心経」を唱え、「オン アボギャー ベイロシャノー………」という御真言を唱えます。時間はまだ10時前なのに、感覚としては昼過ぎのような気がします。時間感覚が世間一般とはズレて動いているのを感じます。
 愛染院では納経所がありましたが、誰もおられないようでした。まだ時間は10時前です。納経の記帳をしようと思ってザックから納経帳を取り出すと、納経帳には番外霊場の納経の記帳をするページがないことに気づきました。納経はしませんでした。
 愛染院を出て納経のことを考えているうちに、さっきの3番札所の金泉寺で何か忘れたことがあるような気がしていましたが、納経するのを忘れていました。お参りのあと納経所に行くことを忘れていました。たぶん平和運動の署名を頼まれて、それに気を取られているうちに忘れてしまったようです。まだまったくお遍路が板についていません。
 金泉寺での納経を忘れていました。しかし3番札所の納経が白紙のまま飛んでいても、自分がお経を唱えてお参りしたことには変わりないのだから、それでもいいかと考え直しました。

次は4番札所の大日寺(だいにちじ)に向かいます。今日打つ札所ではこの大日寺だけが山を登らなければなりません。といっても標高75mです。これから登る予定の他の札所に比べれば大したことはありません。しかし登ってみると、お遍路の荷物を背負って登る最初の札所の坂道は、私の足にはけっこうきついものでした。自分が健脚ではないことは分かっていましたが、これでは先々が思いやられます。
 それに私には体質というか持病があって、日常では健康を装っていますが、体温調節がうまくいきません。汗がやたらに出たり、かと思うと急に悪寒が走ったりします。40代からこういうことが起こり始め、病院に行っても自律神経失調症などという訳の分からない病名だけがつくだけで、薬を飲んでもいっこうに効き目がありません。これは自分で調節するしかありません。これは人に言ってもなかなか分かってもらえないので、ときどき私は人のいない場所を見つけては、背中にタオルを入れたり、シャツを着替えたりしています。これは人には分からない私の持病です。ですから私は、汗の管理には人一倍、気を遣わなくてはなりません。


▼ 昔ながらの遍路道


途中、昔ながらの遍路道を歩きました。


▼ 農作業のおじさん(右隅)


 午前10時頃、大日寺へのアスファルトの坂道を登っていると、横の畑で農作業をしていたおじさんから、「そっち、そっち」と大日寺の遍路道への入り口を教えてもらいました。私は違う道を行こうとしたようです。御礼を言って、少し立ち話をすると、「歩き遍路はけっこういるけど、最近は外国人が多いな」ということでした。


▼ 山神社


 午前10時20分、途中の道沿いには、山神社という立派な神社がありました。


▼ 大日寺山門


 午前10時30分、4番札所の大日寺に着きました。大日寺は最近新しく改築されたようで、新しいお寺でした。天気は、これも予想に反して急に晴れてきました。暑いくらいです。境内には一人、若い外国人男性のお遍路さんがいました。ここではお参りをしたあと、忘れずに納経所に行きました。
 境内には日陰がなくトイレの横にわずかな日陰を見つけ、そこで靴と靴下を脱いでしばらく休憩しました。歩いたあと靴を脱ぐのは気持ちが良いものです。裸足で直に土を踏むと足の裏が生き返るようです。小石の上も歩きました。めったに素足で土を踏んだりしないので小石の上はかなり痛いです。

 境内の自動販売機でコーヒー500ミリのペットボトルを買い、喫煙所でタバコを吸いながらそれを飲んでいると、咽が渇いているせいかあっという間に飲み干しました。人一倍汗が出る分、とても咽が渇きます。修行のなかには水分を控え、汗をかかない体質にするものもあるようですが、最近は熱中症対策として絶えず水分を補給するように言われます。水分を取らずに歩くというのは初心者の私にはむずかしいように思えて、熱中症になるより水分を取った方が良いだろうと思い、水の補給をしました。でもそれでいいのかどうか、本当の所は分かりません。
 水分を取ったほうが良いのか、取らない方が良いのかは、かなり大きな問題です。特に女性の場合には、トイレの問題があります。男ならそこらあたりで簡単に済ますことができますが、女性の場合にはそういうわけにはいきません。

 午前10時50分、4番札所の大日寺を出発しました。
 今登ってきた同じ道を下って、この山の南にある5番札所の地蔵寺(じぞうじ)に向かいます。


▼ 別格大山寺の案内板


 12時、地蔵寺に向かう途中で、別格霊場の大山寺(たいさんじ)の案内板がありました。大山寺は標高450mの山の中にあります。山の中のかなり奥まったところです。実はこの日、大山寺を打つかどうかずっと迷っていました。大山寺はこの遍路道から北に外れて、片道約5キロの山道を登ります。往復約10ギロ、しかも標高差450mを行き来することになります。ここから今日の宿の民宿寿食堂まではあと約5キロ、大山寺に登れば合計であと約15キロ。それプラス450mの標高差です。今の時間は12時。「これは無理だな」と思いました。お遍路の夜は早く、大方は午後4時前後には宿に着いています。5時を過ぎると遅いほうです。6時を過ぎると宿の人は本当に来るかどうか心配になります。

実は私は、きのう板東駅に降り立つまで、昨日泊まった極楽寺の宿坊と今日泊まる宿以外、なにも宿の手配をしないでここまでやって来ました。それは「どうにかなるだろう」という安易な気持ちからではなく、自分が1日ではたしてどれくらい歩けるのか見当がつかなかったからです。1日40キロ歩く人もいれば、30キロ歩く人もいる。20キロの人もいる。自分がどれくらい歩けるのか分かりません。だから、どこに宿をとっていいか分からなかったのです。
 決まっているのは今日の宿の民宿寿食堂までです。明日の宿は決まっていません。それをどうしようか。そのことも気になっていました。しかしそのことを今ここで決める気になりません。歩くのに精一杯で、頭を働かす余裕がないのです。「宿に着いてから考えよう」、あす大山寺に登るかどうかで、宿をどこに取るかが変わってきます。精神的にも体力的にもここで地図を取り出す余裕がありません。私は別格霊場の大山寺には登らず、そのまま次の5番札所の地蔵寺に向けて歩き出しました。

 12時過ぎ、5番札所の地蔵寺の入り口付近で道を渡ろうとした時、反対車線から2人乗りの大型オートバイが凄いスピードで爆音を立てながら走って来ました。怖いお兄さんが乗っているのかと思い、じっと立ったままバイクが通り過ぎるのを待っていました。するとすれ違いざまに、バイクに乗ったその若いお兄さんが私を見て頭を下げました。「アレッ」と思いました。怖いお兄さんだと思っていたのに、私を見る目が違うことを感じました。昨日歩き始めたばかりの私ですが、白衣を着て、菅笠をかぶり、金剛杖をついてバイクが通りすぎのを見ている私の姿は、彼らには本物のお遍路さんに写っているのです。私は、自分がだんだんと周囲とは違った世界に入っていっているのを感じました。


▼ 地蔵寺山門



▼ 地蔵寺の駐車場で休憩


 12時40分、5番札所の地蔵寺を打ち終えて、そこの駐車場で一休みしました。大日寺と同じように、ザックを下ろして靴を脱ぎ、靴下も脱いで、駐車場の木陰に座りこみました。左足の小指が腫れ始めています。小さなマメができていました。小指が熱を持っていて、指で押すとかなり痛いです。こうなった後のマメの成長は速いです。
 駐車場に車が2台入ってきました。難波ナンバーと大阪ナンバー、県外からの参拝者のようです。家族連れでした。
 横の自動販売機で、今日2本目のペットボトルを飲みました。1本目は大日寺の境内で飲みました。汗が吹き出して喉が渇きます。甘いものが欲しくなります。水筒はありますが、甘い飲み物が欲しくなります。その飲み物で、ザックの中にあったカロリーメイトを胃に流し込んで昼食にしました。


▼ 五百羅漢


 そのあと地蔵寺の隣の五百羅漢にお参りしました。ここは地蔵寺の一部ですが200円の有料でした。堂内の回廊に木造の五百羅漢がずらりと並んでいます。羅漢とは仏の弟子のことで、最高の境地に達した人のことを言うようです。ちなみに札所で唱える般若心経に出てくる舎利子(しゃりし)ことシャーリプトラも五百羅漢の一人です。地蔵寺はこの五百羅漢で有名です。この一帯の地名は「羅漢」というようです。この五百羅漢から来ているのでしょう。
 ここはもともとはこの地蔵寺の奥の院だったようです。奥の院とは簡単にいうと修行する場所です。お寺はもともと近くに修行する場所を持っていて、それが今は奥の院となっているようです。ですから奥の院は修業のための大切な場所です。お寺をまわるお遍路には修行の意味があります。しかし私の場合は作法も知らない、信心も深くない、かなりいい加減な修行です。なぜこんな私が四国までお遍路にやって来たのでしょうか。そのはっきりとした理由は私にも分かりません。ただ何となくそんな気分なのです。

 私は61才、還暦を過ぎました。半年前に父が亡くなり、その供養のためにという思いが発端だったような気がします。同時に、定年を迎え、何かをリセットしたいという思いもありました。さらに生きることの大半の時間をすでに使ってしまったという焦りのようなものもあります。残された時間で何をするか、そしてどうやって老いを迎え、死におもむくか。頭で考えれば、そのような言葉が並びますが、しかしそのどれもが当たっているようで当たっていない、もっとあやふやなものです。そういう年齢、そういう気分なのです。

 地蔵寺を出ると、そこから南に下って、午後2時頃、予備にカロリーメイトを買おうとコンビニに入りました。そこは店員さんが1人だけで対応していて、レジに行列ができて15分ぐらい待たされました。ただそこのコンビニにはお遍路用品が売ってありました。お遍路がこの地域の日常に入り込んでいるのが分かりました。
 お寺にお参りする際、本来唱えるべきものに「十善戒」(十の戒め)というのがあります。その中に「不悪口」があります。「他人を悪くいわない」、そんなおおらかな気持ちでお遍路をしなさいということです。
 私は般若心経と御真言は唱えても、この十善戒はよく覚えていないので、お参りするときには省略しています。しかしレジで長々と待たされてイライラしていると、ふと何か戒めがあったことを思い出しました。
 あとで見てみると、「十善戒」とは次のことでした。
   1.不殺生(ふせっしょう)…… 殺生をしてはいけない。
   2.不偸盗(ふちゅうとう)…… 盗みをしてはならない。
   3.不邪淫(ふじゃいん) …… 淫らなことをしてはならない。
   4.不妄語(ふもうご)  …… 嘘を言ってはならない。
   5.不綺語(ふきご)   …… 言葉に虚飾があってはならない。
   6.不悪口(ふあっく)  …… 悪口を言ってはならない。
   7.不両舌(ふりょうぜつ)…… 二枚舌を使ってはならない。
   8.不慳貪(ふけんどん) …… 強欲であってはならない。
   9.不瞋恚(ふしんに)  …… 怒ってはならない。
   10.不邪見(ふじゃけん) …… よこしまな考えを起こしてはならない。

 6番目に「不悪口(ふあっく)」、悪口を言ってはならない、とあります。コンビニも人手不足で大変なのでしょう。ずらりと並んだお客を1人でさばくのは大変です。そう思うことにしました。巷ではコンビニの夜間営業のことが話題になっていますが、たぶん夜間営業をやめる店が多くなるだろうなどと、またいらぬ俗世のことを考えてしまいました。

 そのコンビニを出て西に向かいます。宿の民宿寿食堂まであと約4キロほどです。あと1時間ぐらいで着くはずです。
 コンビニを出ると10分ほどで板野町から上板町(かみいたちょう)に入りました。八坂神社という神社の前を通過しました。ここの地域名は神宅(かんやけ)というようです。「神のお宅」という意味でしょう。変わった地名というか、神々しい地名だと思いました。
 私はいまお寺をまわっていますが、村々は秋祭りの季節ということもあって、歩きながらいたる所に神社のお祭りのにおいを感じます。季節がら、村の中には仏様よりも神様の雰囲気が強いようです。神社のノボリもよく見かけます。
 上板町に入ると、北に山を見ながらその山のふもとの集落を、そこを流れる川沿いに西に向かって歩きました。のどかな農村です。左手、南の方にはなだらかな畑が広がっています。
 しかしそういうのどかさとは別に、私の足はかなり重くなりました。朝とは違って午後は歩きが重くなりました。左足の小指のマメも痛み出しました。やはり今日、別格霊場の大山寺に登らなくてよかったです。


▼ 上板町の街並み


農村から町並みに入りました


▼ 民宿寿食堂と食堂


 午後3時、今日の宿の民宿寿食堂に着きました。予報に反して雨が降らなかったのはラッキーでした。
 食堂と民宿が隣どおしで建っています。目の前は県道12号線が走っています。でも交通量はそれほど多くはなく、民宿の裏は林に囲まれたけっこう静かなところです。

 まず金剛杖を洗います。金剛杖は御大師様の代わりですから、真っ先に洗わなければならないと教わりました。それを玄関の杖立に立てました。宿によっては、金剛杖は御大師様と同じだから、部屋の床の間に置くようにしているところもあります。いま私の自宅には、このお遍路で使った金剛杖と菅笠が、家の床の間に置かれています。
 70年配のご主人から2階の部屋に通されました。廊下にはこれまで泊まった有名人の写真が何枚か掛けてありました。有名な俳優や政治家の写真がありました。翌朝、宿の奥さんが教えてくれたところでは、私が泊まった部屋は俳優のショーケン(萩原健一・故人)が泊まった部屋だそうです。でも彼も特別扱いではなく、みんなと同じ部屋に寝泊まりしたそうです。ここの泊まった某政治家もそのようにしたようです。


萩原健一がゆく!四国お遍路旅



 お遍路はみな平等です。俗界での地位や名誉はここでは何の役にも立ちません。ここでは理屈ぬきでそうなのです。そのことに何の説明も要りません。説明を越えた雰囲気がこのお遍路にはあります。昔は行き倒れも多かったようです。命を落とすかも知れないときに、地位や名誉が役に立つはずがありません。命を懸けるというと大げさですが、「歩き」でお遍路をしている人の思いは、どこかみな似ています。
 でもお遍路は「歩き」だけとは限りません。バスに乗っても、列車に乗っても、自家用車でまわってもオーケーです。なにも決まりはありません。昔ながらの「歩き」が好きな人が、歩き遍路をやっているだけです。ただこれには時間がかかります。この時間が取れない人が圧倒的に多いのが今の現状です。


▼ 民宿寿食堂と県道12号線


 宿について、洗濯しようとして洗濯機のところに行くと、洗濯機の中から女性もののパンツが一枚でてきました。たぶん昨日使った人の忘れ物でしょうが、誰のものか分からない女性もののパンツをおどおど取り出して洗濯機を回しました。昨日泊まった女性は、自分のパンツが一枚足りないことに気づいたのでしょうか。「オレ何やってるんだろう」と思いました。
 お遍路では、男も女もあまり関係ないようです。洗濯機だけではなく、お風呂も共用です。もちろん入るときは別です。トイレも共用のところもあります。それでも意外と平気なものです。そんなことに構っていると、お遍路などやってられないようです。
 すぐに洗濯機を回し、それと同時に風呂に入りました。風呂から上がったあと、洗濯が終わるのを待って乾燥機を回しました。お遍路が宿に着いてまずしなければならないことはこれです。これをしないと明日につながりません。
 私はザックの中にパンツを2枚と、汗かきなのでシャツを4枚入れていましたが、そのうち使ったのは結局パンツ1枚とシャツ1枚だけでした。宿に着くとまず着ていたパンツとシャツを脱いで新しいものに着替え、着ていたものはすべてその日に洗濯します。すると毎日がパンツ2枚とシャツ2枚の使い回しになって、あとのパンツとシャツは結局使いませんでした。しかしそれはトラブルがなかったからで、何が起こるか分からないのがお遍路ですから、予備の下着を自宅に送り返すことはしませんでした。

 午後7時、下に降りて別棟の食堂で夕食を食べました。宿を切り盛りされているのはこの宿の娘さんのようで、2人のお子さんのお母さんです。子ども2人は食堂の畳敷きでテレビを見ながら遊んでいます。
 その娘さんの話によると、今は最盛期の10分の1の客足しかないようです。一番のピークは平成14年から15年、2002年から2003年にかけての頃だそうです。多くの人が貸し切りバスでやって来て、その頃はてんてこ舞いに忙しかったそうです。その時に隣で食事をしていた70歳前後の歩き遍路の男性が、「その頃はNHKでやってたからね」と言われました。
 その男性は私より30分遅れで宿に到着されました。3年がかりで八十八カ所を打ち終え、今日はお礼参りに来られたそうです。先週から香川県の66番の雲辺寺を打ち始めて、今日はお礼参りで大山寺までを打たれたそうです。大山寺とは今日私が登れなかったあの別格霊場の大山寺のことです。
 私はとっさに「明日、私も大山寺を打とうかと思っています」と言いました。そう言ったことで、迷っていた大山寺参りが、私の中ですんなり決まりました。
 宿の娘さんが小学生の頃には大山寺の近くにキャンプ場があって、小学校5年の時にそこまで歩いていって一泊キャンプして帰ってくる学校の行事があったそうです。
 大山寺はこの宿から北に向かって高速道路の高架を越えた山の中にありますが、それまで猿とイノシシはその高速道路付近までしか降りてきていなかったのに、今年はこの宿の近くまで下りてきて、驚いているということでした。ということは、明日私は猿もイノシシもいる山に一人登るということになります。
 食事を終わって部屋に戻るとすぐにスマホで、明日の宿の手配をしました。明日は大山寺の山を往復したあと、7番札所の十楽寺(じゅうらくじ)まで行くことにしました。宿はそこの宿坊に決めました。1泊2食付きの宿泊の予約を入れました。これでどうにか明日の宿が確保できました。ホッとしました。

 この宿から大山寺までは約6キロ、往復で12キロ、さらに7番札所の十楽寺までは約3キロ、合計約15キロを明日歩くことになりますが、大山寺の標高が450mですので、その上り下りを考えると、20キロ前後の道を歩くのとあまり変わらないと思います。今日は15キロしか歩いていませんが、今日の疲れ方をみると、健脚でない私にはそのくらいがちょうどいいようです。
 実はこのお遍路に来る前に、2~3度試しに自宅から片道10キロの道を往復しましたが、1日20キロでも大変でした。その時の感触で「1日20キロ前後が妥当かな」という思いがありました。実際に昨日と今日歩いてみて、それは当たっているようです。
 昼頃気づいたマメは、宿に着くとかなり大きくなっていました。まだまだ大きくなりそうです。マメは歩くのをやめたあとも、しばらくは大きくなって、ますます痛くなります。マメの膨らみ方が落ち着いたころ、寝る前にそれを針で刺して水を抜きました。マメが出来ることは予想していましたので、安全ピンを準備していました。それを刺しました。この方法が正しいかどうかは知りませんが、私はずっとこれを続けました。ポイントはマメが出来てすぐ潰すのではなく、マメが出来てしばらく待ち、少し落ち着いたところで潰すのがポイントのようです。あまり早く潰すと、潰したあとにまた水が溜まってしまいます。

「室戸へ」 お遍路記 3日目 大山寺(別格霊場)から

2020-09-30 13:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【3日目】 天気晴れ
 【札所】大山寺(別格霊場) → 安楽寺(6番札所) → 十楽寺(7番札所)
 【地域】徳島県上板町 → 阿波市(旧土成町)
 【宿】 民宿寿食堂 → 十楽寺宿坊


 午前6時半から朝食だったので、まとめた荷物を持って食堂に向かいました。昨日隣の席にいた70才前後の男性は、列車の時間があるからと、6時に朝食を済ませてすでに出発されたようです。今日は1番札所の霊山寺までお礼参りをされて、帰路につかれるようです。


 午前6時45分、私も朝食をとるとすぐ荷物を持って出発しました。
 今日は昨日登れなかった別格霊場1番札所の大山寺を登ります。大山寺はこの宿の北の山にあります。宿から約6キロの距離で、お参りを済ませたあとは、それと同じ道をまたこの宿の近くまで降りてきます。宿の娘さんが「それなら荷物はここに置いて登られたらどうですか。預かっときますよ」と言ってくれましたが、私は降りる途中で横道にそれる予定だったので、そのまま荷物を持って別格霊場の大山寺へと登りました。でも登ってみて、娘さんのご厚意に甘えたほうが良かったと後悔しました。
そのあと西の6番札所の安楽寺、さらに7番札所の十楽寺を打って、そのまま十楽寺の宿坊に泊まります。宿坊のないお寺が多いですが、十楽寺には宿坊がありました。


▼ 大山寺の山を望む

北側を望む



▼ 大山寺に向かう途中

南側を望む


 宿を出て7時40分、大山寺に登る2つの道が1本に合流するところで、近くを散歩されていた70歳前後の男性に会いました。「大山寺は向こうの山の中腹だが、どの山かはよくわからない」ということでした。本当に山というのは麓から見るとどうなっているのかよく分からないものです。
 この大山寺は別格霊場なので、八十八ヵ所巡りのお遍路さんはあまり見かけない様子でした。最初、四国八十八ヵ所巡りではなくて「西国めぐりですか」と聞かれました。別格霊場の大山寺まで登るお遍路さんはあまり多くないようです。また大山寺は別格霊場二十ヵ所の1番札所でもあり、また四国三十六不動巡りの第1番札所でもあります。四国八十八ヵ所巡りが最も有名ですが、他にも色々な霊場巡りがあるようです。

 大山寺のある山には昔の遍路道がありましたので、その道を登ると、そこはけっこうきつい斜面で足場も悪く、登るのが大変でした。私は登りに弱いようです。舗装された歩道に出るとホッとして、そのあとはもとに戻る気になれず、舗装道路の緩やかな勾配の道をゆっくり歩きました。めったに車は通らないのですが、日曜日だからか時々、といっても10分に1台くらいの割で、車が通ります。


▼ 大山寺途中の休憩所


 午前8時30分、山の中腹に遍路休憩所がありました。疲れて山道を登っていると腰をおろす場所は本当にありがたいものです。
 10月も下旬になったというのに気温は下がらず、昼間の最高気温は25度を超えています。白衣の下には半袖シャツ一枚しか着ていませんが、それでも急勾配の遍路道を歩いていると汗が噴き出してきます。私は大変な汗かきで、しかも体温調節がうまくできず、汗が冷えると急にゾクゾクします。
 その対策に背中には汗取り用のタオルを一枚入れています。汗が冷えないうちに、すぐにそのタオルを交換しました。こうするとシャツを脱がずに、背中のタオルを交換するだけで済みます。汗で体が冷えるのを防ぐことができます。私にとって非常に大切な体温調節のための作業です。交換したタオルは首に掛けて汗ふき用にします。するとそのうちに乾きます。


▼ 大山寺まであと1キロの標識


 午前9時10分、「大山寺まであと1キロ」の標識を通過しました。「やっと」という思いです。思っていたよりも疲れました。昨日登らずによかったです。


▼ 大山寺山門


 午前9時半ごろ、別格霊場1番札所の大山寺の山門に着きました。一礼して山門をくぐります。ホッとしたのも束の間、ここから本堂まで急な石段を10分ほど上らなければなりませんでした。これが応えました。ときどきこの手のフェイントがあります。


▼ 大山寺山門からの石段



▼ 大山寺の本堂


 午前9時40分、別格霊場1番札所の大山寺の本堂に着きました。
大山寺の境内に着くと、またすぐに背中のタオルを交換し体が冷えるのを防ぎました。タバコを取り出して一服しました。なかなかタバコはやめることができません。境内には喫煙所がありました。これが私にとってはご褒美のようにありがたく感じます。喫煙に関しては、神社ほど厳しくありません。

 宿を出てから大山寺までの道には、コンビニもなく自動販売機もなかったのですが、やっと大山寺の境内に自動販売機がありました。そこでやっとジュースを飲みました。それ以外は水筒の水が頼りでした。
 私はこの歳になるまで、甘い飲み物が大好きで、家内から健康に悪いと注意されながらも、やめることができません。タバコも吸うし、お酒も飲む。甘いジュースは大好きで、このことはお遍路に来てもいつもと変わりません。本当にいい加減なお遍路だと思います。
 ただ自分の足でどこまで歩けるか、それだけを自分に課したお遍路です。それで何かが変わればそれで良し、変わらなくても仕方がない、という感じです。

 しばらく休憩してからお参りをしました。数珠を手に持ち、輪袈裟を首に掛けて、手水場で手を洗い、口をすすぎます。
 そして覚え立ての「色即是空……」の般若心経と、「オン アボギャー ベーロシャノー・・・・・・」の御真言、そして「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)を唱えます。ロウソクとお線香は持っていないため、省略しています。でもお賽銭はちゃんと賽銭箱に入れます。「納め札」も自分の名前を書いていたものを納め札入れの中に入れます。この納め札は、お遍路の道すがら近所の人から果物やジュースなどのお接待を受けたときにも渡します。

 四国八十八ヵ所のほとんどのお寺は真言宗のお寺ですが、中にはそうでないお寺もあります。でも唱えるのは宗派に関係なく、すべて「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)です。これがいってみれば浄土宗系の「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の代わりです。
 般若心経は一つのお経ですので、当然どの宗派でも同じですが、この「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)は真言宗独自のものです。でもこれさえ言えれば、お遍路さんになれるのではないかと思うほど便利なものです。ちなみにこの文言は白衣(びゃくえ)の背中にも書かれていて、お遍路さんのキャッチフレーズのようになっています。

 私の家は真言宗です。といっても私の家がたまたま真言宗であったというだけで、そのことを今まであまり意識したことはありません。このお遍路に来るまで、「南無大師遍照金剛」を唱えることしか知りませんでした。それも気が向けば家の仏壇に向かって唱える程度で、とても敬虔な真言宗門徒とは言えません。
 「色即是空」の般若心経と、「オン アボギャー ベーロシャノー・・・・・・」の御真言は、半年前に父が亡くなって、その供養のために覚えたばかりです。ですから私のお遍路作法はにわか仕立てで、このお遍路も見よう見まねでやってます。正式な作法もよく分かりません。ただ覚えたてではありますが、「般若心経」と「御真言」だけはちゃんと唱えようと思ってお遍路に出て来ました。しかし般若心経を唱えなくても、「南無大師遍照金剛」さえ唱えれば、お遍路として傍目には十分かも知れません。
 ただ私自身としては、何語か知らない外国語で唱える御真言


「オン アボギャー ベーロシャノー マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」

このほうがなんだか気に入ってます。意味は「神々に栄えあれ、皆に栄えあれ」みたいな感じです。
本当はインドかどこかの言葉で、

「オン アボガー バイローシャナ マハームドラ マニ パードマ ジバーラ プラバリタヤ ウン」

というみたいです。日本語流に訛ってもどこか似ています。詳しい意味は分かりませんが、3番目のバイローシャナというのは日本ではビルシャナ仏のことで、それが盧舎那仏(ルシャナブツ)となり、奈良の東大寺の大仏となっています。

 午前10時半、天気は曇ったり、時々晴れたり、小雨が降ったりと、微妙なところです。9時半に山門をくぐってから、1時間近く大山寺にいました。
 日曜日ですがまだ午前中ということもあって、参拝者は三々五々です。車で来られている方が多くて、駐車場には10台ばかりの車が止まっています。当地徳島ナンバーの他には、広島、神戸、そういった県外ナンバーの車も目につきます。午後からはもっと多くなるのでしょう。

 下山途中、大山寺から下ってきた車が私の前で止まり、運転していた60代の男性から「下まで乗っていきませんか」と声を掛けてもらいました。「ありがとうございます。でも歩きでお遍路してますので」と丁重にお断りしました。歩き遍路に対して、皆さん親切です。


▼ 大山寺の中腹から下界を見下ろす

南側を望む



▼ 大山寺から下山道


▼ 山の麓の集落 宮ヶ谷川に架かる梅木橋


 午後12時半ごろ、大山寺から2時間ほど歩いて上板町の泉谷川に架かる川原田橋を渡り、その近くの木陰で休憩しました。やっと道が平坦になりました。でも足がかなり疲れています。靴を脱いでまた裸足になりました。左足の小指のマメがまた膨らみ始めています。水筒の水を飲み、15分ほど休憩してまた歩きます。


▼ 泉谷川に架かる泉谷橋横の休憩所


 午後1時10分、約30分歩いて上板町の泉谷川に架かる泉谷橋横の遍路休憩所で再度休憩しました。そこでカロリーメイトで昼食をとり、近くの自動販売機で買ったペットボトルのジュースを飲みました。近くにうどん屋もありましたが、うどんよりも咽が渇いて水分が欲しかったのです。ここは昨日も通りました。お遍路さんが歩くルート上の道です。この近くで今日はじめて2~3人の日本人の歩き遍路の男性とすれ違いました。互いに軽く会釈しました。


▼ 板野十六地蔵五番札所



 上板町の町中にお地蔵さんがありました。この上板町は昨日通った板野町の西にあり、その板野町を中心にして板野十六地蔵を巡る札所があるようです。


▼ 安楽寺近くの風景


北側を望む

 安楽寺にだいぶ近づきました。北側の山との幅がだいぶ狭まっている場所です。


▼ 安楽寺近くのサトウキビ畑



 この上板町ではサトウキビの生産が行われているようです。サトウキビから作る砂糖の特産品がこの上板町にはあるようです。

 午後2時半、6番札所の安楽寺に着きました。


▼ 安楽寺の山門



▼ 安楽寺の塔



▼ 安楽寺内の神社の鳥居。


 お寺なのに境内に神社の鳥居があります。「神仏習合」のなごりなのでしょう。私にとっては神様も仏様も同じようなものです。自宅の座敷には、仏壇と神棚の双方があります。ずっと前からそうです。私はそういうものだと思っています。でも外国人は、日本人が「神様、仏様」と拝んでいるのを見ると、「あなたは何教徒なのか」と不思議がるそうです。キリスト教から見るとそう見えるかも知れませんが、日本人にとっては何が不思議なのかよく分かりません。家では、仏壇に手を合わせて合掌したあと、神棚に柏手を打ちます。私の祖父も私の父もそうしてきました。私も物心ついてから、そうするものだと思って育ってきました。
 学校では明治の「廃仏毀釈」を習います。「神仏分離」という一種の仏教つぶしですが、よくそんなことをしたものだと思います。日本の歴史の中で、あれだけは「狂気」を感じます。宗教は強制力を持ったとたんに、ある種の「狂気」をはらむようです。宗教はもっとおおらかで、ちょっといい加減なくらいでいいような気がします。信心深くない私が言ってもあまり説得力はありませんが。


▼ 安楽寺から北の山を望む



▼ 安楽寺近くの上板町の家の門構え



▼ 真念しるべ石




 午後3時5分、真念しるべ石を見ました。しるべ石の左下に「真念」の文字が見えます。真念は江戸時代のお坊さんで、お遍路の道案内のために尽力した人です。

 午後3時10分、上板町を過ぎ、阿波市に入りました。


▼ 熊野神社


 阿波市に入ってすぐ、熊野神社を通りました。地元の人たちはお祭りに熱心です。ここではお遍路のほかに、こういう神社の信仰も強く根づいているようです。でもお遍路さんには親切です。


▼ 「へんろ道」の石柱


こういう古いへんろ道の石柱がいたるところにあります。

 午後3時20分、7番札所の十楽寺に着き、お参りをしました。今日はこの十楽寺の宿坊に泊まります。


▼ 十楽寺の山門

右側の白い建物が今日の宿坊です。



▼ 十楽寺本堂



▼ 十楽寺内の目病に効くお地蔵さま



▼ 十楽寺宿坊からの眺め(西を望む)

明日はこの道をまっすぐ西へ歩きます。

 宿坊といっても、ここの宿坊は鉄筋3階建てで普通のホテルと変わりません。初日の極楽寺の宿坊は木造でした。どちらがいいかは、それぞれ人の好みでしょう。
 洗濯を済ませて、4時半から風呂に入りました。風呂にはすでに初老の人が1人湯船に浸かっていました。そのあとに、また別の客が「扇風機がないなあ」と言いながら風呂に入ってきました。よくしゃべる人で「私はこれでも坊さんですよ」と言われました。「年をとってから得度をした」とも言われました。「定年後10年が経つ」と言われたので、「70歳には見えませんね」と私が言うと、「55歳で定年でした」と言われました。65歳のようでした。

 風呂を上がって部屋に戻ると、まず明日の宿の手配です。明後日に最大の遍路ころがしの焼山寺越えが待ってますので、明日はなるべく焼山寺の山の近くに宿を取る必要があります。遍路ころがしとは難所のことです。焼山寺は標高700m。今日登った大山寺が450mですから、かなり高い山です。
 明日は11番札所の藤井寺まで打ち、その近くの旅館吉野に宿を取ることにしました。スマホで宿の予約をするときは部屋が空いているかどうか不安ですが、今のところ1回の電話で予約が取れています。

 6時から夕食に食堂に行くと、私の隣の席に座ったのはまた風呂であったそのお坊さんでした。田代(仮名)さんという方でした。
 田代さんは、八十八ヵ所巡りは、もう区切り打ちで10回以上来ていて、すでに3回か4回、四国を回ったそうです。かなり手慣れた様子でした。
 「この十楽寺に泊まるのは初めてです」と言われてましたが、ビールがこの食堂にあるという案内を見て、「さっき風呂上がりに一杯飲んだ」と言いつつ、いっしょにビールを飲みました。よくしゃべられる、にぎやかな方でした。
 田代さんは九州の福岡県の生まれで10歳まで福岡にいて、その後、大阪に引っ越して自衛官になり、若い時から年を取れば坊さんになって得度をする、と決めていたそうです。
 奥さんは61歳で、今も現役で看護師をされているということです。スマホを取り出して写真を見せてもらいました。「うちの嫁さんは美人ですよ」と笑いながら見せてくれましたが、確かに美人の奥さんでした。田代さんがお坊さんになったのをきっかけに、奥さんは看護師に復帰され、今も働かれているようでした。
 「自分が出家して得度をすることには家族みんな大賛成だった」ということです。「嫁さんへの罪滅ぼしも兼ねて得度をした」と言っておられました。「罪滅ぼし」とは何なのだろうと思いましたが、田代さんはそれ以上は言われませんでしたので、私も聞きませんでした。明日奥さんもお遍路に来られて合流されるそうです。
 お坊さんといってもお寺に住んでいるのではなく、普段住んでいるのは大阪の自宅だそうです。「奥さんは看護師なので夜勤も多く、すれ違いが多くて、家のこと炊事・洗濯等は自分でやっている、ただ奥さんが食事を作ってくれるので助かる」と言っておられました。

 得度の修行のために四国を一周したのが、お遍路の最初だと言っておられました。その修行中はアルコールもダメで、スマホもとりあげられたそうです。泣きながら回っていたと言われました。自分は本山所属のお坊さんであって、お坊さんに教える教師の資格を持っていると言われていました。仕事があって呼び出しがかかると、本山に出て行くそうです。宗派は言われませんでした。私はそういうお坊さんの形があることを初めて知りました。

 次に京都の祇園の飲み屋の話になって、祇園では3万円、一杯飲み屋で3000円だったら大体2倍の7000円、そんな話をしていました。愉快な方で、京都の本山での修行の話はせずに、その近くの祇園の話で盛り上がりました。酒を飲みだすと止まらないから、飲む量は飲む前に決めていると言われていました。
 「遍路は面白くはないが、クセになる。不思議だ」と言われていました。自分でもよく分からないが、何回も何回もお遍路に来てしまう、と言われてました。

 他の宿泊者は、中国人の団体客で、主に20代の客が20名ばかりでした。その他に日本人の個人が4~5名がおられました。

 明日は11番札所の藤井寺(ふじいでら)まで行って、明後日に最大の難所である12番札所の焼山寺(しょうさんじ)を越えます。明日から雨模様ですが、乗り切るしかありません。雨が降って靴が濡れると足がふやけてマメができやすくなります。防水機能のあるゴアテックスのウォーキングシューズを履いてますが、本降りになると雨が靴に浸みてきます。今日も左足の小指が熱を帯びて、マメができ始めているのが分かります。昨日針で潰したマメは今朝は固まっていましたが、宿に着く頃にはまた熱を持ち始めているのが分かります。でもまだマメは小さくてそれほど大きくはならなかったので、今日はつぶさずにそのまま寝ようと思います。

「室戸へ」 お遍路記 4日目 熊谷寺(8番)から

2020-09-30 12:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【4日目】 曇りのち雨
 【札所】熊谷寺(8番) → 法輪寺(9番) → 切幡寺(10番) → 藤井寺(11番)
 【地域】徳島県阿波市(旧土成町・旧市場町) → 吉野川市(旧川島町・鴨島町)
 【宿】 十楽寺宿坊 → 旅館吉野


 昨夜は夜10時頃に寝て、朝の4時に目が覚めました。1階の喫煙室で一人タバコを吸っていると、ちょうどそこに昨夜の田代さんが「ねむれないなぁ」と独り言を言いながらやって来ました。
 「朝のお勤めに出られるでしょう」と私が言うと、「いやいや、私は宗派が違うから出ませんよ」と言われました。「あぁ、そういうことなのか」と思いました。
 本堂での朝のお勤めに出てお坊さんの話を聞いていると、この十楽寺はもともとはもっと北側の山中にあったそうですが、のちに引っ越してこの平野部に下りてきたのだそうです。この近くにはそういう札所が多いようです。

 7時から朝食でした。
 午前7時45分、7番札所の十楽寺の宿坊を出発しました。台風20号の影響で曇りです。午後から雨が降り出すようです。
 予報では、雨は今日の午後2時頃から明日の朝6時か7時ぐらいまで降り続き、その後は曇りの予定です。山の麓の集落を東から西へと歩きます。
 これから8番札所の熊谷寺へ向かいます。


▼ もと民宿天然温泉いしだ


売りに出されていました。


 十楽寺を出て信号機のない交差点をトラックが来たために待っていると、トラックが横断歩道の前で止まってくれて、先に私を通してくれました。信号機もないところなので車優先のはずなのに、トラックがわざわざ私のために止まってくれるなど、初めての経験です。自分が白衣を着ていることがよく分かりました。

しばらく行くと御所小学校の校舎が見えました。阿波市土成町です。


▼ 「四国のみち」の石柱



▼ 阿波市土成町の丸みがかった家の屋根



▼ 板野十六地蔵の札所がまたありました。



▼ 観光案内所



 熊谷寺に向かう途中の観光案内所で休憩中、外国人の女性2人連れに追い抜かれました。


▼ 阿波市土成町の御所神社



 御所という地名は、鎌倉時代の承久の乱で後鳥羽上皇に連座してこの地に流された土御門上皇の住まいがあったところだということを後で知りました。この鳥居の2キロ南には土御門上皇が住まれたという行宮跡があります。御所神社はこの鳥居の約500m北にあり、そこでは土御門上皇が祭られています。ここは1970年代の総理大臣である三木武夫の出身地です。


▼ 秋祭りの鳥居と提灯

祭りが近づいているようです。


▼ 熊谷寺の参道と高速の高架



 8時40分、8番札所の熊谷寺(くまだにじ)の山門が見えました。熊谷寺は高速道路の下を通ってすぐです。


▼ 熊谷寺の山門



 午前8時45分、熊谷寺の山門をくぐりました。
 熊谷寺に着くと納経所の前の休憩所で、宿でいっしょだった田代さんとまた会いました。そこで休憩していたお遍路さんの中には、「へんろみち保存協力会」編発行の地図をもたない人もいて、それがどこに売ってあるのかを聞かれていました。
 この地図は普通の書店には売ってないので、私はネットで「へんろみち保存協力会」に注文し直接取り寄せました。1番札所の霊山寺の売店では売っていたようですが、すべての札所で売られているわけではありません。私が持っているのは第11版ですが、私がお遍路をしている最中の2019年10月に最新版の第12版が発行されたことを後で知りました。
 自動販売機のところでジュースを飲みました。最初から飲み過ぎかなと思いましたが、約4キロ休まずに歩きましたのでたいそう汗をかきました。シャツ一枚と白衣だけでも暑いです。1時間続けて歩くと汗をかき、咽も渇きます。
 熊谷寺に向かう途中の休憩所で追い抜かれた外国人女性2人連れも、境内で見かけました。


▼ 熊谷寺の本堂



▼ 熊谷寺横の池にある神社



▼ 熊谷寺の風景



 午前9時40分、8番札所の熊谷寺を打ち終わりました。
 これから9番札所の法輪寺に向かいます。


▼ 熊谷寺から法輪寺に降りる南側の下界の阿波市土成町の風景



▼ 阿波市土成町の鳥居と参道



▼ 法輪寺(ほうりんじ)へ向かう道と標識 西を見る



▼ 法輪寺へ向かう道と標識 西南を見る

明日はあの山のどこかに登ります。


▼ 法輪寺へ向かう道と標識 西北を見る



▼ 法輪寺の遠景 南を見る

木々に囲まれたところが法輪寺です。


▼ 法輪寺の山門



 午前10時14分、9番札所の法輪寺に着きました。


▼ 法輪寺の山門と門付けする人





 奥の角っこに托鉢(たくはつ)する人が小さく見えます。境内に入って托鉢(たくはつ)することは禁止されているようです。しかし昔は、托鉢は遍路にとって最後の修行だといわれていました。
 そう言えば、昭和40年(1965年)前後までは、私の家にも托鉢のお坊さんが門付けにやって来て、私のお袋が米一皿をお坊さんの米袋に入れていたことを思い出しました。


▼ 法輪寺付近から下りてきた北の山を望む



 9番札所の法輪寺から10番札所の切幡寺(きりはたじ)に向かう途中で、道を一本南のほうに下ってコンビニに立ち寄ろうと思いました。お金の引き出し、カロリーメイトの購入、たばこの購入などです。しかし行ってみたらそのコンビニははなくなって空き地になっていました。私が持っている「へんろみち保存協力会」編の地図は11版で、この時には最新版ですが3年前のものです。その3年の間にも世の中は少しずつ変わっています。予定どおりには行かないものです。
 そのあと遍路道ではない田舎道を通って切幡寺へ向かいました。結局その日は一軒もコンビニがありませんでした。やはりここは日常の世界とは違うようです。コンビニに行くために何十分も掛けて遠回りをし、やっとその場所にたどり着いたと思っても、あるはずのコンビニがないという世界です。結局その日の昼飯は食べられませんでした。
 こういう不確かな世界を歩いていると、日常の世界が確かだと思うのは錯覚で、本当は日常の世界もあやふやなものの上に乗っかっているような気がします。


▼ 木の鳥居と神社

木の鳥居というのを初めて見ました。


▼ 丸みのある屋根の民家

丸みを帯びた屋根というのは私には珍しいですが、このあたりではよく見かけます。


▼ 民家の遠景 東を見る



▼ 西を見る



▼ 親族で建てた森家の神社





 「森家の先祖を祀ってあり、この北の山麓にありましたが、老朽したのでここへ移転した。平成二年 移転費六十五万円」とあります。
 お墓を建てることがご先祖を祀ることだとばかり思っていましたが、親戚で神社を建ててご先祖を祀るというスタイルを初めて見ました。仏教が日本に伝わるまではみんなこうしていたのでしょうか。
 お墓でも200万円前後かかるのを考えると、65万円の移転費というのは安いなと、また俗っぽいことを考えました。


▼ 切幡寺(きりはたじ)の参道と家並み



▼ 切幡寺の山門



 午前11時半、10番札所の切幡寺の山門に着きました。切幡寺の山門は高速の下をくぐり抜けて、それを山のほうに登ったところにありました。一礼をして入ります。ただここから本堂までがきついものでした。


▼ 切幡寺の山門から本堂への道



▼ 切幡寺の階段「是より333段」



 山門を入ったあとも本堂まで333段の階段があり、かなり時間が掛かりました。境内に入るとホッとするだけに、その後の階段は疲れます。


▼ 切幡寺の階段



 その石段を登る途中で、また田代さんと会いました。田代さんはもうお参りを済まされて、女性と一緒に降りてこられていました。どこかで奥さんと落ち合うといわれていたのでとっさに「奥さんですか」というと、「そんなこと言うと怒られるで」と大阪弁で言われました。私たちから見るとまだ若い40歳前後の女性でした。
 そこで田代さんは「もう会うことはないと思うけれども」と言って手を上げ、その女性と話しながら階段を下っていかれました。たぶんこの境内で知り合われたのだと思います。田代さんは私よりも年上ですけど健脚で、私の先をずっと歩かれてました。本当に会うことはありませんでした。


▼ 切幡寺の本堂



 本堂に着いたのは12時頃です。そこの境内で20~30分休憩をしました。境内にあった自販機でまた缶コーヒーを飲みました。山門から本堂までが長かったです。
 途中で団体さんがやってきたので、急いで納経所に向かいました。しかしすでにバスの添乗員さんが団体さん全員の納経帳を何十冊と手に持って納経所に並ばれていました。「しまった」と思いました。団体さんが来ると、添乗員さんが団体さん全員分の納経帳をかかえて並ばれるので、待たされてしまうことがあります。親切にもその添乗員さんは「お先にどうぞ」と言ってもらいましたので、「すみません」と言って先に納経をさせてもらいました。


▼ 切幡寺の境内



▼ 切幡寺の塔



▼ 切幡寺本堂からの下り



 12時50分、10番の切幡寺を打ち終えました。
 今から11番の藤井寺(ふじいでら)に向かいます。ここから約10キロと、かなり遠い道のりです。今までは3~4キロごとに札所がありました。八十八ヵ所のうち10番までは近い距離に固まっています。でも場所によっては次の札所が何十キロも先で、1日ではたどり着けないところもあります。次の藤井寺に向かう途中で、四国の暴れ川の吉野川を渡ります。



▼切幡寺~藤井寺 南を望む

右下の切幡寺から南に向かい、吉野川を越えて、藤井寺に向かいます。明日は藤井寺から山を登り焼山寺へ向かいます。


▼ 切幡寺から降りて平野部に入ったところ、市場町あたり

南を望む。あの山のどこかに明日登る焼山寺があります。


▼ 市場町の民家の休憩所

個人の善意で設置されています。お接待の一つです。


▼ 切幡寺から県道12号線へ向かう景色

南を望む

▼ 切幡寺から県道12号線へ向かう景色

北を望む。

 ここは北の山と南の山に囲まれた細長い平野地帯です。その平野の中を吉野川が東西に流れ、徳島市で海に注いでいます。初日からここまで、私はずっと吉野川の北側を歩いてきたことになります。
 しかしもう少し歩くと、吉野川を北から南に渡ります。そして明日は南の山を登ります。その山奥に明日めざす焼山寺があります。今までは山の麓でしたが、明日は山奥に入ります。

 このあたりでさっきの外国人女性2人連れにまた追い越されました。私は遅いとばかり思っていましたが、いつの間にか追い越していたようです。たぶん切幡寺で休憩していたのでしょう。


▼ ヘンロ小屋、空海庵(切幡)



▼写真 13時16分 ヘンロ小屋、空海庵(切幡)



▼ ヘンロ小屋、空海庵(切幡)の1階



▼ ヘンロ小屋、空海庵(切幡)の2階



▼ ヘンロ小屋、空海庵(切幡)の1階


このような遍路休憩所が所々にあります。行政によるものではありません。民間の支援団体によるものです。ここは「ヘンロ小屋プロジェクトを支援する会」による遍路休憩所です。この会は大阪市にあるようです。
ここはあくまでも休憩所で会って、宿泊所ではありません。善意の無料宿泊所は、通夜堂または善根宿といってまた別にあるようですが、それほど多くはありません。いずれも善意による「お接待」です。


▼ 県道12号線とうどん亭八幡



▼ 阿波市市場町の廃業したタバコ屋さん

やはり地方の町は廃業した店と空き家が目立ちます。


 町中にあった郵便局でやっとお金を引き出すことができました。でもコンビニがありません。町中の雑貨店や駄店はほとんど廃業して姿を消しています。コンビニがないと本当に困ります。


▼ 阿波市市場町の八幡宮

お寺ばかりでなく神社も各所に目立ちます。


▼ 民家設置の遍路休憩所(正面のプレハブ小屋がそれです)



▼ 民家設置の遍路休憩所(道左側のプレハブ小屋)

ここも個人の善意による休憩所です。


後ろからさっきの外国人女性2人連れが歩いて来ていました。いつの間にかまた追い越していたようです。


▼ 遍路休憩所

すぐ先にも休憩所がありました。


午後2時ごろから小雨が降り出して、この遍路休憩所でカッパを着ました。ここで後ろにいた外国人女性2人連れにまた追い抜かれました。


▼ 遍路休憩所横での農作業風景

見えにくいですが、農家の人が横一列に並んで座り、刈り取り作業をしています。生姜の収穫かと思います。


▼ 吉野川(支流)の堤防からの景色

林の奥は吉野川の支流です。その奥に吉野川の本流がありました。


▼ 吉野川支流の河川敷の景色

この道路も沈下橋の構造でつくられています。


▼ 吉野川無住地帯のトイレ表示

支流を渡ると一面の畑でした。何もない一面の畑にお遍路用のトイレだけがありました。そのトイレ表示です。


 ここは一見すると平野に見えますが、暴れ川である吉野川の川中島か河川敷だったところのようです。水害を恐れて誰も住まないのでしょう。本当に見渡す限り一軒の家もありません。一面の畑があるだけです。平野の中で一軒の家も見当たらない風景というのを初めて見ました。私は地元で水田と畑は見慣れていますが、そこに一軒の家も見あたらない風景を初めて見ました。人家のない平野の風景というのは荒涼としていて恐いものです。そこを雨のなか歩きました。


▼ 吉野川の無住地帯がどこまでも続く

本当に広い無人の土地です。


▼ 吉野川の堤防から沈下橋を見る

沈下橋は幅が狭くて車の離合ができません。前の車は、向こうからやってくる車が通り過ぎるまで待っています。雨が強く降り出しました。


▼ 吉野川の橋から下流を見る。この川の下流は徳島市です。



▼ 吉野川の橋から上流を見る

この奥の山に行くのは、四国をグルッと回って、八十八ヵ所巡りの終盤に入ってからです。


▼ 吉野川の橋から南の対岸を見る。対岸は吉野川市です。



▼ 吉野川を渡ったところで今渡ってきた北側を見る

向こうの林の奥がいま歩いてきた人家の見えない一面の畑です。沈下橋とは、川が氾濫することを予想して作られた橋で、洪水の時は水面下に潜ります。その水圧に耐えられるように作られた橋です。この吉野川も暴れ川で、梅雨時には氾濫するのでしょう。


 午後2時40分、吉野川を越えたところで、車を降りた初老の男性に、「オーイ」と呼び止められ、「道はこっちだよ」と教えてもらいました。北に見える山を指さして、「あの山がいま歩いてきた切幡寺ですよ」と教えてもらいました。「さっきもフランス人2人が通っていった」と教えてくれました。追い抜かれた外国人女性はフランス人のようです。

 あとは雨のなかを黙々と歩きました。メガネに水滴がつかないように、うつむき加減になります。約3キロほどで藤井寺に着きましたが、雨の中を歩くのは辛いものでした。写真を撮る余裕もありません。前の失敗に懲りて、ザックにも防水カバーをかぶせました。しかし宿で開けてみると、肩のところから雨が浸みて中がけっこう濡れていました。

 4時頃、11番札所の藤井寺に着くと、そのフランス人女性2人が遅れてやって来ました。またどこかで追い越していたようです。
 納経所でいっしょになり「私が雨がひどかったですね」と年配の女性にカタコトの英語で言うと、うまく伝わりませんでした。「ヘビー レイン(ひどい雨)」と言っても分かりませんでした。私の発音がおかしいのかとも思いましたが、フランス人ということだから英語は分からないのかも知れません。もう一人の若い女性に「ウェアー ホテル(宿はどこ)」とカタコトの英語で聞くと、私と同じ旅館の「ヨシノ」といったので、私も「セイム ホテル(同じホテル)」と言って、私は先に旅館吉野に向かいました。


▼ 藤井寺の本堂



 11番札所の藤井寺を打ったあと、旅館吉野に向かう途中でメダカ直売の看板のある民家の庭にいたおじさんに呼びかけられてお接待を受け、柿をごちそうになりました。そこに遅れてフランス人の女性2人連れもやってきました。
 その方は遍路のためのホームページを立ち上げられているようで、その案内と友人が経営しているペンションのパンフレットをもらいました。納め札を渡そうとすると「いいよ、いいよ」と言われましたが、受け取ってもらいました。納め札には簡単な住所と名前を書いています。御礼を言って宿に向かいました。


▼ 昨日お接待を受けためだか直売店



 午後4時半ごろ、旅館吉野に着きました。フランス人女性2人も10分ほど遅れて到着しました。今日は約20キロ歩きました。途中コンビニに寄ろうと遠回りをしましたからそれ以上歩いたでしょう。さらに午後から雨に打たれたことで、疲労は昨日以上でした。
 明日は最初で最大の難所と言われる焼山寺に登ります。吉野川の南の山です。今日までは吉野川の北側を歩いていました。「大丈夫だろうか」とちょっと不安がよぎります。大まかに言うと、徳島を南下して室戸岬に向かい、そこからは西に向かって土佐をめざすことになります。「どこまで行けるだろうか」。私はそれを決めていません。ただ11月中旬には自宅に戻らなければならない用があるため、全部回るのは諦めています。そのことよりも心配なのは、健脚でない私の足が持つかどうかです。最初で最大の遍路ころがしが明日に控えています。そこでリタイアするお遍路さんも多いと聞きます。自分もその1人になるのではないか。私は足には自信がありません。

 旅館吉野の食堂では、岡山から来た69歳の男性と、札幌から来たお医者さんで71歳の男性、それにフランス人の女性が2人、それと私の全部で5人でいっしょに食事のテーブルを囲みました。
 岡山からの男性は、過去にすでに八十八ヵ所を一周回られたらしく、今回は23番札所の薬王寺まで行くということでした。
札幌からの71才の男性は、現役のお医者さんで2週間の休みを取るのがやっとだったと言っておられました。高知市の手前まで行くということでした。
 フランス人女性2人連れは母親とその娘さんでした。娘さんが言い出したお遍路に、母親もいっしょに着いて来たようでした。娘さんはむかし台湾にいたことがあるらしく、アジアのことに興味があると言ってました。学生のような感じでした。娘さんが2週間ほど前に日本に来て、4~5日前にそれを追って母親が日本に来たようでした。明日は2人とも焼山寺に登ると言っていました。
 今日はコンビニがなくてタバコを買うことができませんでした。タバコが切れそうだったので、明日の朝に宿の自転車を借りて駅前のコンビニまでタバコを買いに行こうと思っていましたが、もしかしたらと下に降りて宿のご主人に「タバコはありませんか」というと、ちょっと困ったような顔で「うちにはありませんけど、何を吸いますか」と言われるので「何でもいいです」というと、ご主人の個人用のタバコを一箱売ってくれました。とても助かりました。
 明日は6時の朝食です。明日の昼飯のおにぎりを宿のご主人に頼んで、6時半に出発する予定です。焼山寺のような遍路ころがしで雨にあうとますます大変です。明日の天気が気になりましたが、明日は台風が東にそれて雨は降らないようです。助かりました。しかし他の地域では台風の被害が出ているようです。もし明日、台風の雨がひどいようであれば、明日は歩くのを止め、この宿に連泊することも考えていました。

 さて明日の宿をどうするか。明日は1日中、山の中です。焼山寺までの途中に宿はありません。いつものように「へんろみち保存協力会編」の地図をたよりに宿を探します。この地図の後ろには宿泊施設の一覧表もあり、そこに宿の住所と電話番号も載っています。これが一番の頼りです。
焼山寺を降りて3キロのところに「なべいわ荘」がありました。そこが一番近い宿です。そこに電話をしてみるとオーケーでした。ホッとしました。歩き遍路には宿が命綱です。毎日毎日が綱渡りのような日々です。その日の体調を見て、明日歩く距離と宿を決める、今はそれしか方法がありません。2日後の体調など自分にも分からないのです。

「室戸へ」 お遍路記 5日目 焼山寺(12番)

2020-09-30 11:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【5日目】 晴れ
 【札所】焼山寺(12番)
 【地域】吉野川市(鴨島町) → 神山町(鍋岩)
 【宿】 旅館吉野 → なべいわ荘


 今日は祝日です。私はそのことをその日の午後まで忘れていました。歩き遍路をしていると、世の中のことが遠いことのように思えてきます。朝が早いのでゆっくり新聞を読む時間もありません。そう言えば歩き遍路の人が朝、新聞を読んでいるのを見たことがありません。関心がわかないのです。やはりここは世間とはちょっと違った異界です。

 毎日ヘトヘトになりながら歩いていると、日付の感覚さえなくなってきます。今日が何日なのか、何曜日なのか、そんなことは歩くこととは何の関係もないのです。世の中で何が起こっているか、それはお遍路の日常からはほど遠いことです。そんなことよりもっと大事なことが目の前にあります。とにかく歩いて次の宿にたどり着けるかどうか、それがもっとも大事なことで、それ以外のことは小さなことです。

 トイレは男女共用のところも多く、この宿もそうでした。私が小用を足していると、同じトイレの二つ並んだ後ろから隣同士でフランス語の話し声が聞こえてきました。何と言っているのかは分かりません。しかしトイレの壁を挟んで話している親子の声がはっきり聞こえてきます。こういう光景は経験したことがないですが、さほど気になりません。お遍路をやっていると小さなことは気にならなくなります。それよりも身支度を調えて出発することです。今日、最大の難所といわれる焼山寺の山を越えられるかどうか、それが最も大事なことです。

 6時45分に、旅館吉野を出発しました。出発前に、昨日注文していた昼食用のおにぎりを包んでもらいました。いつもより早い出発です。でも宿泊している5人の中では私がいちばん遅い出発のようです。今から12番札所の焼山寺に登ります。

 ここから焼山寺まで約13キロですが、問題はその距離よりも山のアップダウンです。焼山寺は標高700mですが、1つの山を登るのではなく、3つの山を登ります。2つの山を越え、3つ目の山の中腹に焼山寺はあります。
 しかも2つ目の山は焼山寺よりも高く約750mです。そこから350m下って山間の集落に出たあと、また300m登って標高700mの焼山寺にいたります。ですから、実際には1000m以上の標高差を登ることになります。
 さらに標高600mの1つ目の山を登ったあとも100m下りますから、その分も入れるとさらに登り坂は長くなります。

 登りに弱い私は、「とにかく無理をしないことだ」と思い、ゆっくり登りはじめることにしました。登山口は昨日打った藤井寺の敷地内にあります。藤井寺に入り、大師像の横にある小さな登山口を登り始めました。


▼ 7時 藤井寺境内の焼山寺への登り口

7時、大師像の左側のこんな獣道のようなところから上りはじめます。ちょっと恐いです。


▼ 焼山寺を登りはじめてすぐ

祠が祀ってあります。


▼ 7時10分 最初の遍路ころがし



 登りはじめてすぐに「遍路ころがし」があって、かなりきつい道です。遍路ころがしとは「お遍路さんを坂道からころがす」という意味でしょう。それをしているのは仏様なのでしょう。この言葉には「ころがされても、仏様に遊ばれてるだけで必ず助けてもらえる」という遊びのニュアンスがあります。そこにお遍路の救いがあります。人間は「ころがされる」ものなのです。山を征服するなどという気はサラサラありません。


▼ 7時半 端山休憩所



 登山口から約20分ぐらい登って、標高225mの端山休憩所で休みました。ここまで来るだけで汗びっしょりです。濡れた背中のタオルを取り替えました。20分ぐらい休みます。いま7時50分です。また出発します。


▼ 7時50分 端山休憩所からの道



▼ 8時 端山休憩所からの道



▼ 8時10分 端山休憩所からの道

右側は谷です。


▼ 8時半 端山休憩所からの道

水飲み場です。先に祠もあります。


▼ 8時40分 長戸庵が見えてきました。



▼ 長戸庵



 8時50分頃、標高440mの長戸庵に着きました。般若心経を唱えました。途中の端山休憩所で休憩を20分ほど取りましたが、登山口からここまで約2時間弱かかりました。1つ目の山の頂上まであと160m登ります。


▼ 9時10分 山からの眺め 昨日歩いた無住の地の畑が見える





 このあとしばらく、登りがきつくて写真を撮る余裕がありません。



▼藤井寺~長戸庵



▼ 10時 長戸庵からの道

標高600mまで上ったあとの道です。100mほど下ります。


 登りはきつくて写真を撮る余裕がありません。下りに入ってやっと一枚撮りました。1つ目の山をやっと登ったところです。
 それから20分下って、柳水庵が見えてきました。


▼ 10時20分 柳水庵が見えてきました



▼ 柳水庵



 午前10時半、標高500メーターの柳水庵で休憩しました。ここは1つ目の山と2つ目の山の間の谷間にあります。お堂で般若心経を唱えました。以前はここに宿泊できたようですが、今は誰も住んでいないようです。社務所の前のベンチで休憩しました。休憩していると2人の男性がやって来て、休憩もそこそこにまた歩いて行かれました。みなさん健脚です。


▼ 11時 柳水庵下の休憩所

ここだけ日が当たっていました。山の中には日は届きません。


▼ 柳水庵下の休憩所の室内



▼ 柳水庵下の休憩所

宿泊禁止の張り紙がありました。


▼長戸庵~柳水庵



ここから250mほど登ります。登り始めると写真を撮る余裕がありません。
約50分登って浄蓮庵に着きました。


▼ 11時50分 浄蓮庵に着きました



 ほぼ12時に、標高745mの浄蓮庵に到着しました。ここが今日の最高峰地点です。やっと2つ目の山に登りました。


▼ 後ろからみた浄蓮庵の一本杉



▼ 浄蓮庵



 浄蓮庵で休憩しました。そこにはさっき柳水庵で追い越していった男性がおられました。「京都の嵐山から来た」と言うことでした。
 もう一人の男性は、この浄蓮庵に上る途中で、反対側から降りてこられるところですれ違いました。「もう少しですから頑張って下さいね」と声を掛けられました。その方は地元の人だそうです。
 京都の男性は山に登る途中でいっしょになり、いろいろ説明を受けながら登られていたようです。
 浄蓮庵で会ったその内山(仮名)さんという人に、おやつのスルメをもらいました。年齢は70才ですでに八十八ヵ所の結願を果たして、今回は2回目だということです。今回は区切り打ちで「明日には帰る」ということでした。前回の巡礼の時のことを楽しそうに話されました。
 「ここを降りたあと最後の焼山寺への登りがきついですよ」と言われました。内山さんは「ではお先に」と言って出発されました。
 この浄蓮庵が今日の山の最も高い地点ですが、このあとはここから350m下り、その後また300m登って焼山寺に着きます。

 休憩しているときは、靴を脱ぎ、靴下を脱いで裸足になります。こうすると足が解放されて、解き放たれたような気になります。次に汗に濡れた背中のタオルを交換して汗が冷えるのを防ぎます。それから水を飲み、やっと昼食のおにぎりを食べます。宿でつくってもらったおにぎりです。ここにはコンビニどころか人家もありません。タバコを吸い、裸足で土を踏みながら周りを歩きながら足裏の回復を待ちます。足裏のマメの状態を見て、手持ちの電動ツボ押し機で足の裏をマッサージしながら少しでも疲労をとろうとします。30分や1時間はアッという間です。でもまだまだ歩かねばなりません。

 マメができると痛いだけではなく、疲労が倍増します。これは気分の問題ではなく、本当に疲労が倍増します。ほとんどのお遍路はマメの痛みと闘いながら歩いています。たかがマメではありません。長時間の歩きにマメは大敵なのです。そこに雨が降って靴が濡れるとマメの状態はさらに悪化します。疲労はピークに達します。
 マメは歩いているときだけではなく、宿に着いてからもしばらくは大きくなります。1日だけの歩きならそのままにしておいてもいいのでしょうが、毎日の歩きとなると、どうにか手を打たないと、マメはさらに悪化します。いかにマメを作らないように歩くか、いかにできたマメを治療するか、そんなことをいつも考えながら歩いています。針とテーピングは必須です。



▼柳水庵~焼山寺



▼浄蓮庵~焼山寺



 12時50分、浄蓮庵を出発しました。


▼ 13時 浄蓮庵からの道

下り道です。浄蓮庵から300mほど下ります。


▼ 13時半 左右内(そうち)集落が見えました



▼ 13時40分 左右内谷川(下流方向)



 350m下った左右内(そうち)集落の裏を抜けて、この標高400mの谷を流れる左右内谷川を渡りました。村の裏側に遍路道があるため左右内集落のなかを通ることはありませんでした。遠回りして村の様子を見る余力はありません。早く今日の宿に着きたい一心です。


▼ 左右内谷川(上流方向)



 清流を見て、川の音を聞くとホッとします。でも川は谷を流れますから、ここでは川は登りの合図です。天気は晴れですが、山の中は鬱蒼と木が茂っています。快適なハイキングとはだいぶ様子が違います。
 山登りがスポーツになったのはいつからでしょうか。歩いている感覚として、これはスポーツではありません。スポーツだったら止めていたかも知れません。やはりこれは修業です。修業の感覚です。何の修業かは分かりませんが、私がやっていることは決してスポーツではありません。その感覚が、どこかで自分を支えています。


▼ 13時40分 最後の遍路ころがし



 左右内谷川を渡るとすぐに最後の遍路ころがしがありました。あと約1時間です。いつの間にか、周りの樹木はすでに杉の植生に変わっています。


▼ 13時50分 最後の遍路ころがし



 そのあと1時間10分歩いて、3つ目の山の焼山寺に着きました。
 2つ目の山の浄蓮庵から2時間10分かかりました。谷にある左右内集落からは1時間半かかりました。
 やはり写真を撮る余裕がありません。


 人間きついときには、何も考えないものですね。何も覚えていません。何も降りて来ず、何も浮かんで来ません。まだか、まだかと思いつつ、ひたすら歩きました。私を追い抜く人もいなかったので、ここで倒れたら誰も助けに来ないだろうな、などと自分の都合だけ考えながら歩いていました。悟りは遠いと思いました。
 凡人が異界にいても、考えることは凡人のままです。


▼ 15時 焼山寺の山門



 午後3時、やっとの思いで12番札所の焼山寺につきました。ここにたどり着いたときには、多少フラフラしていました。


▼ 焼山寺の境内



 境内では今朝まで宿でいっしょだったフランス人親子が日なたに座って休んでいました。娘さんはジャンパーを着ていました。座っていると寒いのでしょう。着いてからかなり時間が経っているようです。私はまだ汗が噴き出しています。2人のそばに行って挨拶をしました。今日のホテルはどこかと聞くと、「3キロほど」と言って地図を見せました。「なべいわ荘」でした。今日も私と同じでした。フランス人親子2人は先にお寺を下っていきました。
 境内には、歩き遍路をしている若い外国人男性の姿もありました。彼らの歩きは早いようです。私が歩くペースとはだいぶ違うようです。

 昨日、宿でいっしょだったあと二人の男性の姿はありません。たぶん先に行かれたのでしょう。やはり私の足は遅いようです。昨日からフランス人親子の2人組と、抜きつ抜かれつを繰り返しています。女性の足と同じぐらいのスピードなのでしょう。フランス人のお母さんのほうは50才前後に見えます。娘さんはそのお母さんの足に合わせているようです。どうも私の足のペースは50才前後のフランス人の女性の足と同じぐらいではないでしょうか。とくに登りでは私のペースはガクンと落ちるようです。

 私が境内でいつものように、汗でびっしょりになった背中のタオルを交換していると、そこに昼に浄蓮庵で会った京都嵐山の内山さんが本堂から降りて来て、「焼山寺の最後の登りはきつかったでしょう」と声を掛けられました。「自分はこれから神山(かみやま)町の温泉に入って、それから夜行バスで神戸まで行き、そこからJRで京都に帰ります」と言って、山を下って行かれました。神山町というのは、今日私が泊まる「なべいわ荘」からさらに4キロぐらい先にある町です。息が上がっている私に比べ、すごい体力と持久力です。

 しばらくそこで休んでいると、本堂から降りてきた別の男性(70歳前後)から「今日はどこから歩いてきたんですか」と尋ねられたので、「旅館吉野からです」と答えると、「私は明日そこに泊まりますよ。旅館のご主人に無事に焼山寺に登られたことを伝えておきますね」と言われました。その方はすでに八十八ヵ所巡りを一度されているようで、今回は車で回られているようでした。歩き遍路を経験された方は、歩き遍路を見るとどうも他人事とは思えないようで、気さくに話しかけてこられます。
 こうやって、ちょくちょくと初対面の人が、歩き遍路の私にまるで昔からの知り合いのように話しかけてこられます。歩き遍路には、歩き遍路同士の仲間意識が生まれるようです。重い荷物を背負いながら辛い遍路道を歩いていると、自然とそういう仲間意識が生まれます。さっきの人は今回は車でも、それ以前に歩き遍路で八十八ヵ所を巡ったときのことを思い出されているのでしょう。他人事には思えないようです。

 境内にはカロリーメイトの自動販売機がありました。カロリーメイトの自動販売機などめったに見かけませんが、それがこんな山奥のお寺にあるということが、このお寺がどんなところかを表しています。私もやっとここで昨日から探していたカロリーメイトが買えました。昨日と今日のまる2日、コンビニはありません。人によってはこのカローメイトで命をつなぐ人がいるかもしれません。本当に笑い事ではありません。


▼ 焼山寺の本堂



 しばらく休憩したあと、お寺の鐘に一礼して手を合わせ、ゴーンと鐘を鳴らしてから、本堂とその横の太師堂にお参りをしました。

 納経所で奥の院に行けるかと聞いてみました。奥の院とは修行する場所のことです。「もう今日は行けない」ということでした。行くためには、「焼山寺に届け出をしなければならないが、時間的にもう遅い。戻ってこないと捜索隊を出すこともある」ということでした。行き戻り自分で行くようですが、「山の稜線を行くので右左両脇は崖になっていて、かなり危険で崩落の危険がある」ということでした。どういう道か想像がつきませんが、思いつきで行くような場所ではないようです。もう4時近かったので時間的にも、そして何よりも体力的に「無理だな」と思い、奥の院へ行くのはあきらめました。奥の院への道の入り口は、焼山寺の境内にあるということでした。



●焼山寺奥の院



 宿への道を急ぎました。ここから宿の「なべいわ荘」まで下り道です。もう登り道がないと思うとホッとします。

 3時50分、焼山寺を出発しました。


▼ 16時10分 杖杉庵



 急勾配の遍路道を下ると、杖杉庵がありました。お遍路をはじめたという衛門三郎の言い伝えのあるところです。


▼ 杖杉庵



▼ 杖杉庵近くの民家のお墓

家の横にこういったお墓が所々にあります。町中でも見かけました。


▼ 16時50分 鍋岩を流れる渓流

下流を望む


 鍋岩の集落が見えてきました。


▼ 鍋岩の家並み



▼ 鍋岩の風景

後ろの山中を焼山寺から降りてきました。


▼ 鍋岩の風景




▼ 17時 なべいわ荘



 5時に宿の「なべいわ荘」に着きました。標高700mの焼山寺から一気に500mほど下って、ここは標高200mのところです。
 フランス人の親子2人はすでに宿についていて、風呂から出て来るところでした。
 宿に着くと早速、いつもの手順で選択と風呂を済ませました。

夕食は、フランス人女性2人と、香川県高松市から来られたという70才の男性、それに私の4人でテーブルを囲みました。
 フランス人の娘さんは、以前自宅に日本からの交換留学生を1年間にホームステイさせていたようで、その関係で16才の時に交換留学生として台湾に住んでいたことがあるらしく、そこで東洋文化に触れて興味を持ったそうです。それで四国のお遍路に出てきているということでした。娘さんは20代に見えます。彼女たちとの会話はカタコトの英語で、所々分かり、所々分からないといったもので、分からないところはこちらで勝手に想像しながら話しました。遍路用の地図は、日本語のほかにも英語の地図が出ているようで、その英語の地図を頼りに四国を回っているようでした。

 70才の男性は、八十八ヵ所を1度回ったあと、時々こうやってお遍路を回っているということで、今回はバスなどの乗り物で回っておられるようです。
 その70才の男性は、「最近外国人のお遍路が多いね」と言われました。「多いのは日本人お遍路が減ったということですか、それとも外国人お遍路が増えたということでしょうか」と私が尋ねると、「その両方ですよ」と言われました。多いときは宿の客の大半が外国人で埋まることもあるそうです。
 男性はお遍路事情にかなり詳しく、また私の心配のタネの宿についても、「自分が作ったものではないけれども」と言いながら、お遍路の宿の一覧を私に見せてくれました。「よかったらやるよ」と言われましたので、ありがたく頂きました。「へんろみち保存協力会編」の地図に載っていない宿もいくつかありました。

 特に20番の鶴林寺と21番の太龍寺に登る山の登山口には宿が一軒しかありませんが、その西隣の町の坂本町に登山口までの約7キロを送り迎えしてくれる宿があって、町の人たちが総出で輪番で役割を担っていることを教えてもらいました。そのことは私も気になっていて、もしその登山口の宿が取れなかったらどこに泊まろうかと考えているところでした。予定では3日後にそこに泊まる予定です。

 「四国の人は車で来ることが多く、しかも日帰りで来ることが多いから、四国の人の歩き遍路にはなかなか会わないでしょうね。札所が身近にあるから日帰りでも札所にお参りに行ったりするから、なかなか歩かないんだ」と言われていました。

 徳島には住友という名前の家がチラホラあります。昨日お参りした藤井寺のある吉野川市でも何軒か見ました。実は今日泊まっている「なべいわ荘」は、もともと住友産業という企業の保養所だったようですが、私はてっきり住友財閥の保養所だと思っていたら、その70才の男性が、「同じ名前の財閥の住友とよく間違うけれども、実は財閥の住友ではなくて、大阪かどこかにある企業ですよ」と教えてくれました。
 その住友という名前は四国一帯にあるのか、この徳島だけなのか。住友財閥というのは、もともと徳島の出身なのか。てっきり私は大阪とばかり思っていましたが、もとは四国の出なのかも知れません。

 食事をしたあと部屋に戻って、スマホで電話し明日の宿を決めました。大日寺のすぐ横の「かどや旅館」に泊まることにしました。約20キロの道のりですが、途中に標高450mの玉ヶ峠があります。250mほど登らなければなりません。

 山の空気は何度か低いようで、部屋に戻ると急に寒けがして体が震え出しました。そのまま浴衣をズボンに替えて布団に潜りこみながらスマートフォンで自宅へメールを打っていたら、いつの間にか寝てしまいました。夜の8時からウトウトして、気づいたら11時でした。「しまった」と思いました。頭痛がします。
 手持ちの睡眠剤を飲んで、お灸もして(家でも時々します)、「寝れるかな、風邪を引いたのかな」と多少不安を覚えながら、どうにか眠ることができました。一度5時に目覚まし時計で起きましたが、気づいたら6時になっていました。3時間のうたた寝のあと、7時間寝たことになります。合わせて10時間寝ました。ここ数日の疲れが一気に出てきたようです。しかしどうにか眠ることができて、今日の体調はまずまずというところです。一安心しました。

「室戸へ」 お遍路記 6日目 大日寺(13番)

2020-09-30 10:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【6日目】 晴れ
 【札所】大日寺(13番)
 【地域】神山町(鍋岩 → 玉ヶ峠 → 広野) → 徳島市(一宮町)
 【宿】 なべいわ荘 → かどや旅館


 午前7時半、なべいわ荘を出発しました。山の空気はちょっと冷たかったですが、いつものように半袖シャツ一枚とその上に白衣を着ただけで出発しました。もちろん背中には汗取り用にタオルを入れています。足のマメはまだテーピングするほどではありません。肩にはタオルを掛けています。頭には菅笠です。いつものように金剛杖をついて歩きます。

 宿の出入口の橋を渡ると、同宿した70歳の男性がちょうど町営のバスに乗りかけているところでした。道路横から出ている玉ヶ峠への遍路道を「あっち、あっち」と教えてくれました。バスを見送りながら頭を下げて別れました。フランス人親子は、まだ出発はしていないようです。
 今日は13番札所の大日寺を目指して歩きます。約20キロの道のりですが、まず玉ヶ峠を越えなければなりません。これには2つのルートがあり、一つは遠回りして神山町の中心部を通っていくコース、もう一つは鮎喰川(あくいがわ)に沿った近道です。しかしこの近道コースは険しいコースで、まず標高450mの玉ヶ峠を越えなければなりません。なべいわ荘との標高差は250mあります。私は玉ヶ峠のコースを選びました。


●写真 7時58分 迷った先の民家


 午前8時15分、30分ほど歩くと道に迷ってしまいました。ポツンとあった一軒家の敷地に入ってしまいました。


●写真 8時7分 大日寺への標示


 戻って道路標示を探しました。わかりにくい遍路標示でしたが、その標識を見落としていたようです。


●写真 8時20分 玉ヶ峠への遍路道


 玉ヶ峠は標高455mで、宿のなべいわ荘の標高が200mですから、標高差は250m程度なのですが、登ってみるとこれがかなり険しい道でした。昨日の焼山寺への遍路ころがしと同じようなところを登っていかなければなりませんでした。息が切れ、汗が噴き出してきます。何度も小休止をしました。


●写真 8時33分 車道との合流地点 右の小道が玉ヶ峠の遍路道


 玉ヶ峠の遍路道とアスファルトの車道とが合流したところで、また背中のタオルを取り替えて休憩しました。するとそこへフランス人親子の2人連れが同じ遍路道を登ってきました。母親は「足を石で滑らせて痛かった」と言ってました。彼女たちはその近くで休憩を取り始めましたので、私は先に出発しました。


●写真 8時49分 玉ヶ峠付近から下界を見下ろす



●写真 8時50分 玉ヶ峠付近の集落



●写真 8時50分 玉ヶ峠付近の風景



●写真 9時1分 玉ヶ峠を過ぎて下界の集落を見下ろす


 30分ぐらい歩いて、私が休憩所で休んでいるところで逆にフランス人の2人に抜かれました。


●写真 9時56分 風景 フランス人親子2人が先を行く


 しばらく歩いていくと、通行止めの標示があったため彼女たちは立ち止まっていました。「歩行者は可」と書かれてある文字が分からなかったようです。それを彼女たちに伝えると「オーケー」と安心したようでした。そこからは一緒に歩いて行きました。
 途中で母親が「足が痛い」と言って立ち止まりました。玉ヶ峠で転んだとき足をくじいたようです。母親は靴を脱ぐと足の腫れを見ていました。私はザックの中の冷感湿布を取り出して母親の左足首に当てました。母親は湿布に慣れていないのかちょっと心配そうでしたが、「サンキュー」と言って、また歩き出しました。

 娘の名はジャンヌ(仮名)と言うそうです。母親の名は難しい名前で何度聞いても覚えられませんでした。仮にナンシーとしておきます。ジャンヌは27歳のようです。それにしては若く見えます。学校を卒業して来年1月から働くようです。今はその間のバケーションだと言っていました。フランスは9月卒業なのかな、と思いましたが、よく分かりません。
 しばらく行くと石柱があって、もしかしたらそれが鏡大師かなと思いましたが、3人で何か話していたこともあって通り過ぎました。娘のジャンヌは英語が話せるようですが、私の英語は単語を並べるだけのブロークン英語なのでうまく伝わりません。母親も少しは英語を話せるようですが、娘のジャンヌと比べるとフランス語訛りが強いのか、私には聞き取りにくいものでした。私の英語力では、彼女たちと話すのにかなり骨が折れます。日本に来たばかりなので日本語はほとんど通じません。
 そのあと交通止めのところの作業員さんに「鏡大師はもう過ぎましたか」と聞いたところ、その作業員さんも「わからない」と言われました。そのあとも鏡大師はありませんでしたので、通り過ぎたところが鏡大師だったようです。

 2日目から3日目に板野町から上板町にかけていくつかの神社の前を通ったときも、村々の人々は神社の秋の大祭の準備に非常に忙しく、神輿の飾り付けやノボリを立てたりして、家々にはお灯明の提灯を飾り付けてありました。地域の人々は村々の神社のことに忙しいのであって、八十八ヶ所の札所はいわば私みたいな他所の人間がそれを尋ねている、という構図があるようです。地元の人たちは正式な札所はともかくとして、ゆかりのある小さなお堂や祠のことまでは知らないことが多いようです。神社が日常の信仰だとすれば、山中にある霊場はやはり異界のようで、そこに神と仏の住み分けがなされているような気がしました。
 私は明確な目標があってこのお遍路にやって来たわけではないのですが、でもどこかにそういう異界に誘われているところを感じます。

 橋を渡ったところで自動販売機でジュースを買ってタバコを一服したあと、遍路道の分岐点がありました。地図を見ると植村旅館の近くでした。ここから車道と遍路道に分かれます。「私は遍路道を行くけど、お母さんの足には遍路道はきついから、ちょっつと遠回りになるけれども、アスファルトの道を行ったほうがいい、そんなに時間は変わらないから」という意味のことをなんとか伝えて、フランス人親子と別れました。それだけでもカタコトの英語で伝えるのには、かなりの苦労が必要でした。
 するとジャンヌが、地図の合流地点を指さして「ハロー、ハロー」と言いましたので、ここで合流するつもりかなと思って軽く「オーケー」と答えて、別々の道を歩きました。この遍路道は大したことはなかったのですが、途中で写真を撮ったりしてゆっくり歩いたので30分ぐらいかかりました。


●写真 10時40分 川を渡る(下流)



(上流)



●写真 10時45分 遍路道の人形



●写真 10時45分 遍路道の人形



●写真 11時2分 沈下橋を渡る



●写真 11時5分 渡ってきた沈下橋



 11時すぎに、例のフランス人二人と落ち合う予定の場所に着きましたが、誰もいませんでした。1キロぐらいさかのぼって探しに行きましたが姿が見えないので、待ちながら昼食を済ませました。昼食は昨日焼山寺の自販機で買ったカロリーメイトと水筒の水です。まわりには店も食堂もありません。
 それを食べ終わっても二人は来ないので、意味を取り違えたのかな、と思いました。母親が左足の足首を痛めていたので、通りがかりの誰かの車に拾ってもらったのかも知れません。もう先に行ったのだろうと思いました。しかし、何かあったのかも知れない、と気になります。でも連絡のとりようがありません。


●写真 11時23分 駒坂東のバス停



●写真 駒坂東バス停横の民家

家の横に墓がある


 ここにも家の横に墓がありました。よく見る風景で、私にはこれが非常に珍しいものです。墓は檀家寺にあるか、村の共同墓地にあるとばかり思っていたからです。檀家寺はないのでしょうか。それとも家の横と檀家寺の両方にお墓があるのでしょうか。
 もっともお寺にお墓が建てられるようになるのは、江戸時代の檀家制度ができてからだと言われます。それ以前にはお寺にお墓はありませんでした。そういえば、今めぐっている札所のお寺にも境内にお墓はありません。お寺はもともと信仰の場所か、そのための勉強するところで、祖先崇拝のお墓とは関係のないものだからです。
 でも考えてみれは家の横でご先祖様を供養するというのは、そのほうが自然といえば自然であるような気がします。


●写真 12時48分 街並み



街並み



 2時間近く歩いて、午後1時半、神山町の広野というところで休憩しました。自動販売機でペットボトルを買い、一口飲むとそのまま自動販売機の横に座り込んでしまいました。足はかなり疲れています。まわりには、JA平野出張所、ガソリンスタンド、広野郵便局があります。
 その自動販売機の横で、目立たないように壁にもたれて座り込み、ペットボトルを飲み、いつものように汗に濡れた背中のタオルを取り替えました。電動のツボ押しマッサージ機で足の裏のツボをほぐします。休憩を取らずに歩くとそのあとの反動が来そうです。少しずつ歩くことにしました。
 いくら目立たないようにしているとは言え、自動販売機の横に座り込んでジュースを飲むなど普段はできませんが、白衣を着ているとあまり気にならなくなります。周囲の人も、あまり気にせずに通り過ぎていきます。約30分ぐらい休憩を取ったあとまた出発しました。

 この広野から宿まであと約7キロです。今までと同じく鮎喰川(あくいがわ)の北側の道を下流に向かって歩きます。川向こうの南側の対岸に小学校と中学校が見えました。その後も、鮎喰川の北岸をずっと歩きました。


●写真 13時39分 鮎喰川の橋(上流)



 午後2時、徳島バスの下地というバス停の近くで休憩しました。ここは県道20号線です。この道は1日5本のバスが通ります。これでも増えました。カロリーメイトで昼食を取ったところでは、1日2本でした。ここは1日5本です。ここもまだ神山町です。焼山寺からずっと神山町を歩いています。
 神山町の鮎喰川の北側の道は非常になだらかな下り坂で交通量も少なく、アスファルトの歩きやすい道です。道の左側には家が道路沿いに点在しています。右側の川岸には竹林がありその先に鮎喰川が流れています。川の対岸には小高い山が迫ってきています。ここは山と山に挟まれた一種の谷の状態です。その谷筋を鮎喰川が流れています。
 この道の北側にも山は迫ってますが、対岸の南側に比べると迫り方は急ではなく、その斜面に家々が並んでいます。一つの集落をなしているようです。

 ここから車で焼山寺に上るとすれば、この道をさかのぼって、今朝出発した鍋岩を経由して焼山寺まで行くのでしょう。それに連れて、だんだん人家はまばらになって細い山道になります。そこは里人にとっては異界のはずです。
 しかし私は昨日の朝から2日間ずっと山の中にいたせいか、今の頭の中の地図は、いつの間にか焼山寺が中心になっています。焼山寺から降りていくに従って下界が賑やかになっていきます。次にはもっと賑やかな道に出るでしょう。そこは待ちに待った便利なコンビニがあり、必要なものを何でも買うことができます。しかし焼山寺の景色からだんだんと遠ざかるのは、何か後ろ髪を引かれる思いがします。もう下界に降りて来ている。山の上から下界を見ると、下界が異界に見えてきます。

 下り道のせいか歩きながらだんだん調子がでてきました。30分前に平野の自動販売機の横で休憩を取り、ツボマッサージャーで足をマッサージしたのがかなり効いたようです。休む前に比べると足取りが軽やかに感じます。

 行く手の右側は綺麗な鮎喰川です。1車線の道を歩いています。左側は山がせり出してきて、木が道のほうに垂れ掛かっています。右手には綺麗な青い鮎喰川が流れています。鮎喰川の水は青いです。

 午後2時10分、公衆トイレがありました。ここは徳島バスの名西高瀬のバス停です。ここで急に、さっきジュースを飲んだせいか、急に差し込んでくる腹痛に襲われました。急いでトイレに駆け込みました。まるで示し合わせたような、ちょうどいいタイミングでした。こんなことが私にはよくあります。これも私の持病の一種です。もしこの公衆トイレがなければ、どこか林の中に分け入って用を足すしかなかったでしょう。男の私でも、草むらに分け入って用を足すのは抵抗があります。まして女性の場合は大変でしょう。そういうリスクが私にはあります。これも自律神経失調症の一種でしょう。旅の途中ではいろいろな体調の変化が現れます。
 もし体調を崩して高熱でも出した場合には、そこら辺にうずくまるしかなかったでしょう。昔はそんな行き倒れも多かったようです。行政の管理も行き届かない当時、そういう人を葬るのは地元の人の仕事でした。

 とにかくたまたまトイレがあって事なきを得ました。10年ばかり前に「トイレの神様」という歌が流行りましたが、このお遍路の世界には本当にトイレの神様がいます。札所の売店にはそのシールが売ってあるところもあります。なんとか大明王という神様です。この世界にはいろいろな神様がいます。そしていろいろなお仕事を分担しています。その分担によりこの世が成り立っているのです。この点がキリスト教のような天地創造神とは違います。絶対的な神様が1人いると、他の神様はすべて死んでいきます。
 トイレがちゃんとできるというのはありがたいことです。お陰で便秘気味だった体調もよくなりました。キリスト教の神様も便通をよくしてくれるのだろうか、とまた余計なことを考えました。


●写真 14時45分 鮎喰川の景色(下流をみる)



 3時ごろ、神山町から徳島市に入りました。山をぬけて平野に下りてきた感じがします。


●写真 15時13分 鮎喰川の景色(上流を見る)


午後3時10分、入田春日橋を渡って、鮎喰川の対岸(南側)の道に出ました。


●写真 15時23分 おやすみなし亭


午後3時20分、遍路休憩所のおやすみなし亭が見えてきました。


●写真 15時25分 おやすみなし亭



●写真 15時26分 おやすみなし亭



●写真 15時37分 おやすみなし亭



●写真 15時37分 おやすみなし亭



 私は以前、地元の恵比寿さんの祠を見てまわったことがあります。恵比寿さんは遠くからやって来た神様です。今の私は地元の人にとってはその恵比寿さんのようなものだろうと思いました。そういう異界からやったきた神様に対する信仰は、八十八ヶ所の信仰とどこか似ています。恵比寿さんは神様で、八十八ヶ所は仏様です。それぞれ違うものと受け止められていますが、土地の人たちから見れば、どちらも同じではないかと思います。どちらも、どこか遠くからやってきた見知らぬ人たちです。
 恵比寿信仰はどこか遠くからやって来た神様を、地元の人間が祭って信仰したものですが、私のようなお遍路も
地元の人にとってはどこか遠くからやって来た異界の人間です。でも土地の人たちは普通に接してくれます。時にはこうやって歓迎さえしてくれます。それがお接待の風習です。四国にはこんな風習が根づいています。

 でも他の土地では、なかなかそこまでの風習にはならないのです。逆に漂泊者は差別の対象にさえなります。そのことを一番分かりやすく強烈に描いたのは、松本清張の「砂の器」ではないでしょうか。でももう若い人は知らないかもしれません。あの映画を見ると、お接待の風習が決して当たり前のものではないことが分かります。お接待の風習がなぜ四国にだけ根づいているのか。四国には何か別のものがあるのかも知れません。四国はちょっと不思議なところです。感謝してありがたく頂戴します。


●写真 15時38分 おやすみなし亭を後にする



●写真 15時52分 三日ぶりに見たコンビニの看板



●写真 16時2分 かどや旅館近くの鮎喰川(南岸から)



 午後4時10分、大日寺の山門に着きました。大日寺は県道21号線の道沿いにありました。後ろを振り向くと、その道の反対側には「阿波一宮」と書かれた立派な神社がありす。さらにその神社の入り口近くには、「一宮城跡」の案内板があります。神社の横の山に大きな中世の山城があったようで、もともとここはその城下町のようです。「大日寺」と「阿波一宮」それに「一宮城跡」、その3つが一ヵ所に集中しています。その目の前に「かどや旅館」がありました。

 中世の山城跡は全国にいっぱいありますが、その多くは跡形もなく消え去っています。私が住んでいる地域にも中世の山城跡はありますが、そこに行ってみても、今は一面の田んぼです。どこに町の跡があったのかと思うほどです。わずかに地名に、それらしきものが残るのみです。


 ここの裏手の山にあった一宮城は1338年の築城で、その250年後、1585年の豊臣秀吉の四国攻めでは、ここが主戦場になったようです。ということは、ここは古戦場でもあるわけです。その翌年にお城がここから徳島に移って、今の徳島城ができます。そして江戸初期の1638年に廃城となった、と案内板に書いてありました。
 でもこの一宮町は、お城が滅んだ跡も、この阿波国一宮の神社とそれに隣接する大日寺の町として残ったのでしょう。私の地域の何も残っていない一面が田んぼの山城跡と比べて、神社や仏閣の力はすごいものだと思いました。政治的な力を失っても、信仰が町を機能させる力をもっていたのです。


●写真 16時11分 大日寺の山門



●写真 16時25分 大日寺の本堂



●写真 16時25分 大日寺の太師堂



●写真 16時12分 道向かいの阿波国一の宮の門



●写真 16時26分 阿波国一の宮の鳥居



●写真 16時26分 阿波国一の宮の拝殿



●写真 16時29分 一宮城跡



 しかし考えてみると、ここは阿波の徳島県です。1番札所の霊山寺の近くにも阿波一宮がありました。初日に訪れた大麻比古神社です。すると一の宮が二つあることになります。地図を見ると確かにここは「一宮町」です。でも一の宮が二つあっても誰も気にしないようです。二ノ宮、三ノ宮はどうなっているのでしょうか。それこそ気にしなくてもいいみたいです。
 そんなことを言い出せば、一昨日の最後に打った11番札所の藤井寺は真言宗の寺院ではなく臨済宗の寺院ですが、私はそこで平気で「南無大師遍照金剛」と唱えました。本来「南無大師遍照金剛」は真言宗だけの御宝号ですが、そんなことは誰も気にしません。お遍路ではどこの札所も「南無大師遍照金剛」でいいのです。
 また今お参りしたお寺は13番札所の大日寺ですが、2日目にお参りしたお寺も同じ名前でした。4番札所の大日寺です。13番の大日寺と4番の大日寺、どっちが本物の大日寺なのか、どういうつながりがあるのか。でもそんなことを気にする人もまたいません。それはここでは些細なことです。

 確かに八十八ヵ所巡りは歩き遍路にとって厳しいものですが、誰も細かいことは言いません。ここでは現世の細かさなどどうでもいいことなのです。八十八ヵ所巡りは、ある種の厳しさと、ある種のあいまいさで成り立っています。

 しかしここはインスピレーションの宝庫です。「お四国病」もそのことに関係しているのでしょう。7番札所の十楽寺で会った田代さんも「遍路はおもしろくないけど、クセになる。なぜか何度も来てしまう。不思議だ。」と言われました。ここでは、良いものも、悪いものも同時に顔を出しそうです。何が出てくるか歩いてみないと分かりません。いつもの自分と違うことは、私もうすうす感じています。


●写真 16時27分 かどや旅館



●写真 16時28分 隣の名西旅館



 4時半過ぎ、かどや旅館に入りました。かどや旅館では各部屋での夕食でしたので、同宿の人とは会いませんでした。フスマ一枚隔てた隣の部屋には歩き遍路の外国人男性が泊まるようですが、まだ到着していません。
 宿の女将さんが心配していました。それは安否の心配と同時に、キャンセルの心配でもあります。「遍路宿はいつもキャンセルのリスクと隣り合わせですよ」と女将さんはサラリと本音を話してくれました。気さくな女将さんです。この時間にキャンセルされても、準備した夕食はどうにもなりません。それですべてがパーになります。

 宿に着いていつものように洗濯と風呂を済ませると、昼間別れたフランス人親子が気になって、この近くの宿に泊まるといっていたので、試しに一番近い宿に電話しました。事情を言って宿の主人にそのことを尋ねると、「そのフランス人ならもう来てますよ」ということでした。それだけ聞くと安心して、すぐに次の電話をしました。
 明日の宿の予約です。電話をしてみると、おかしなことに次々に満室で断られます。こういうことは初めてです。明日は木曜日です。日曜日でもないのになぜなのか。明日は徳島市中心部の徳島駅近くに泊まろうと思いましたが、5~6軒電話してすべて満室でした。理由を聞いてみると、何かイベントがあっていて、駅周辺のホテルはすべてふさがっているようです。
 徳島駅から3キロほど手前にある「歩き遍路宿びざん」に予約しました。ただそこは夕食がなく、朝食のみということでした。明日の夕食は自分で調達しなければなりません。しかし近くにコンビニがあるのでどうにかなりそうです。

 午後7時頃、やっと隣の外国人男性が到着したようです。お遍路としてはかなり遅い時刻です。
 午後8時頃、家内から「近所で不幸があった」という連絡を受けました。今朝亡くなったそうです。私と同年代で子供のころからの知り合いです。明日がお通夜、明後日が葬儀だということです。家内に代理で出席するように頼みました。

「室戸へ」 お遍路記 7日目 常楽寺(14番)から

2020-09-30 09:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【7日目】 雨
 【札所】常楽寺(14番) 安楽寺(15番) 観音寺(16番) 井戸寺(17番)
 【地域】徳島市(一宮町 → 国府町 → 佐古)
 【宿】 かどや旅館 → 歩き遍路宿びざん


 朝は6時半から朝食でした。まだ雨は降っていませんが、これから降る予定です。今日の午後から明日の夜中まで大雨になる予報です。
 昨日の夕食は各部屋でとりましたが、朝食は玄関横の応接間でとりました。そこではじめて隣の部屋の外国人男性に会いました。宿泊客は私とその外国人の2人です。41歳の2mを超える大柄な男性ですが、優しそうな顔をしていました。1日40キロぐらい歩いてるそうです。今日の宿もまだ決めていないようです。外国人お遍路はたいがいそんな宿の取り方です。
 彼は、お遍路は今度で3度目だと言っていました。3度ともオランダからわざわざ日本にやってきたようです。2回目は3年前の2016年だそうです。その時は別格霊場も含めて回ったそうです。別格霊場はかなりの山奥にあるところが多いので、歩きのお遍路としてはかなりハイレベルな回り方です。昨日も鮎喰川の南の山中にある番外霊場の建治寺(こんじじ)を打ってきたと言ってました。自分で撮った、建治寺近くの滝の動画をスマホで見せてくれました。私は建治寺近くにそういう滝があることを知りませんでした。外国人だと思っていたら、私よりも詳しいようです。
 「どこから来たのですか」というと「オランダ」といいました。

 7時半頃、出発しました。薄日がさしてますが、これから雨になる予定です。
 今日は4つの札所がかたまっていて、
宿から2キロ先に14番札所の常楽寺、
その1キロ先に15番札所の国分寺、
その2キロ先に16番札所の観音寺、
その3キロ先に17番札所の井戸寺、と連続して打ちます。
 そして徳島駅の3キロほど手前の「歩き遍路宿びざん」に泊まる予定です。

 宿を出て歩いていると、途中で一の宮城の山の写真を撮ろうと思って横道に逸れたところで、出勤しようとアパートから出て車を運転していたおばさんが、ピピッと警笛を鳴らして「遍路道はそっちじゃないですよ」と教えてくれました。「ありがとうございます。でもちょっと寄り道をしますので」と答えました。みんなけっこう親切に教えてくれます。ちょっと道を逸れて一宮城の山の写真を撮りました。一の宮城は徳島、阿波の拠点です。山上の一宮城跡まで登る余裕はありませんが、せめてその周辺の景色を見ようと思いました。


●写真 7時44分 一宮城の山城遠景



 14番札所の常楽寺にいく途中で雨がパラつきだしたので、民家の車庫の軒下に入り雨宿りをしながらカッパに着替えました。カッパを着ると急に蒸し暑くなります。
 14番札所の常楽寺の近くに来たところで、今朝のかどや旅館の奥さんが車で追いかけて来て、私が宿に忘れていた洗面用具をわざわざ届けてもらいました。風呂場にあったそうです。中には歯ブラシと歯磨き粉と髭剃りの三つが入っているだけですが、これがないと困ります。「このためにわざわざ届けに来てもらったのか」とありがたい限りでした。
 8時半頃、14番札所の常楽寺に着きました。雨の中でカッパに着替えたものの、蒸し暑くて、汗が体にこもり、サウナの中を歩いているようでした。
 14番札所の常楽寺の境内に入ると、宿でいっしょだったオランダ人男性もそこにいました。
 本堂に行くと赤いジャンバーを着た男性がお参りをされていました。その赤いジャンパーの男性と喫煙所のところでまたいっしょになりました。タバコを吸いながら話していると、彼はバイクで回っているということでした。年齢は52歳、「昨日12番札所の焼山寺に行く途中で、道に迷ってしまい、12番は打てなかった」ということでした。


●写真 8時40分 常楽寺



●写真 9時00分 常楽寺の納経所の入り口にいた猫



9時10分、14番の常楽寺を出発しました。


●写真 9時17分 常楽寺の奥の院入り口

ここは通り過ぎました。今日は終日雨の予報で、かなり苦戦すると思いましたので先を急ぎました。


 午前9時30分、15番の国分寺に着きました。国分寺は修復中でした。でも奈良時代の国分寺が今もお寺として生きているということが分かりました。それだけでもすごいことです。私の地元の国分寺は、荒れた果てた敷地が残っているだけで、建物は何もありません。千年以上、こんな田舎でどうやって生き残るのだろうかと、それが不思議でした。現在は曹洞宗のお寺となっているようです。曹洞宗といえば禅宗です。奈良時代の宗派でもなく、お遍路にゆかりの真言宗でもありません。千数百年の間には色々な紆余曲折があったのだと思います。
 四国にはよく国分寺が残っていて、4つの県すべてに国分寺があり、それがすべてこのお遍路の札所になっています。その4つのなかで「真言」の名のつかない宗派は、この阿波の国分寺だけです。(ただ59番札所の愛媛の国分寺は真言宗ではなく真言律宗です)
 真言宗を日本にもたらした弘法大師(空海)は四国の香川県の人で、その住居跡には75番札所の善通寺が建っています。四国は空海ゆかりの地ということもあって、真言宗人口の比率が高い地域です。札所の多くは真言宗のお寺です。でも我々お遍路にとって、それは気にしなくても良いことです。そうでないと、外国人お遍路などはありえないことになります。


●写真 9時25分 国分寺の参道

正面が国分寺


●写真 9時26分 国分寺の山門



●写真 9時28分 国分寺の修復中の本堂



●写真 9時38分 国分寺の仮本堂



 このあたりは国府町といいます。国府があったところのようです。国分寺から北に約2キロ行くと、尼寺(にじ)という地名もあります。国分尼寺があったところでしょう。国府、国分寺、国分尼寺、このあたりが奈良時代の阿波国の中心だったところのようです。その構図は私の住む地域と同じです。昨日打った大日寺は、この南側の山手にありますから、そこに城下町があったということは、戦国期には国の中心が平野部から山側に移ったわけです。確かに一宮城下町は山に囲まれた盆地のような所にあります。それが豊臣秀吉の四国攻めのあと、今の徳島城に移ったようです。

 午前9時40分頃、国分寺にお参りを済ませて出ようとしたところで、昨日別れたフランス人親子と会いました。昨日は途中で車に乗って宿に向かったようで、「ホスピタル(病院)?」と聞いたら、「ノー、ドラックストア-」という答えが返ってきました。ドラッグストアーで薬を買ったようです。どうやってそこに行ったのかは分かりませんでした。母親はどうにか歩けそうな感じです。「ゆっくりがいい(スローリー)」と私が言うと「オーケー」と応えました。
 彼女たちは国分寺へ入っていきました。私は国分寺を出発しました。


●写真 10時00分 国分寺方面遠景

左隅に修復中の国分寺が見える


 16番札所の観音寺は分かりにくくて、一度通り過ぎてしまい、近くのスーパーまで行ったところでそのことに気づいてまた戻ってきました。観音寺の近くに来たところで、反対側からフランス人親子が観音寺に向かって歩いているのが見えました。


●写真 10時24分 観音寺の山門



●写真 10時28分 観音寺の本堂



 10時半、16番札所の観音寺(かんおんじ)に着きました。こんな分かりにくいところになぜ札所があるのか分かりませんが、あとで調べると、この地は阿波国府のあったところのようです。国府のあとは何も見当たりません。町があり、家々が続いています。この町が古代から続いているのかどうかは知りませんが、ここは畑にならずに町があります。町の人たちの信仰が続いているのでしょう。

 フランス人親子もすぐに来ました。今日はどこまで行くか聞いたところ、ジャンヌが「ビザン」と答えました。私と同じ「歩き遍路宿びざん」」でした。また同じ宿に泊まることになりそうです。

 ジャンヌはもっと速く歩きたがっているようでしたが、母親が足を痛めているため母親のペースに合わせているようでした。私は健脚ではなく1日20キロの歩くのがやっとですから、自然と彼女たちと同じペースになるようです。
 遍路宿は各所に点在はしていますが、札所の近くとか、登山口の近くとかのポイント、ポイントにある程度集中していて、そのことに合わせて1日の歩く距離を考えると、1日で歩く距離はおおまかに20キロのパターンと30キロのパターンに分かれるようです。
 もちろん宿の場所次第で、どうしても1日に30キロ歩かなければならないこともあります。20キロ以内にこだわっていると、宿の場所次第で翌日に10キロしか歩けないこともありますので、その宿の事情次第で多少きつくても30キロ近く歩くことになります。
 若い健脚の人は、1日に40キロ歩く人もいますが、私は足に自信がなく、室戸岬まで行けるかどうかさえ半信半疑ですから、無理をせずゆっくり歩きたいと思っています。そのほうが寄り道もできそうだと思います。と言っても今まで寄り道をしたのは3日目の別格霊場の大山寺ぐらいで、それでも十分きついものでした。

 しかし一昨日は最大の難所である12番札所の焼山寺を越え、昨日は13番札所の大日寺まで歩けたことで、最初の難関は突破できたような気がしています。
 歩き遍路の半分以上は、焼山寺を打ったあたりで、足を痛めたり体調を崩したりして、徳島駅から自宅に帰ることが多いようです。焼山寺を越えたことで「どうにか室戸まで行けるかな」という望みが出てきました。いつとはなく空海が修行したといわれる室戸岬が私のなかの第一目標になっていました。

 しかし明後日には、1日で二つの山を越えなければなりません。一つ目の山に21番札所の鶴林寺(かくりんじ)があり、二つ目の山に22番札所の太龍寺(たいりゅうじ)があります。その間に宿はありません。野宿するなら別ですが、そうでないなら1日で二山を越えて、そこを下りて宿のある山の麓までたどり着くしかありません。疲れたからといって、近くの宿に泊まろうにも宿がないのです。焼山寺越えの辛さをまた味わうのかと思うと、気持ちがちょっとブルーになります。こんなことをなぜやっているのでしょうか。それがよく分かりません。
 3日目の宿の十楽寺宿坊で会った田中さんが、「お遍路はぜんぜん楽しくないがクセになる。また来てしまう。不思議だ」と言っていたのを思い出します。私はまだ焼山寺を越えただけですが、少し分かるような気がします。
 今まで会った人の中でも、お遍路2回目、3回目の人が多いのには驚きました。聞くところによると、「不思議だ、不思議だ」と思いながら何回もお遍路にやってくる人のことを「お四国病」というそうです。そういうことはあるかも知れません。

 11時ごろ、観音寺をジャンヌ親子と一緒に出て、雨の中を3人で井戸寺へ向かいました。駅近くの町中で道が分からなくなりました。その駅は府中駅と書いて、「こう」駅といいます。府中を「こう」と読むようです。これは読めません。誰かが、「府中」は「不忠」だから、親孝行の「孝」の意味で「こう」にしたと言っていましたが、本当かどうかは知りません。


 そこに緑色のカッパを着た男性のお遍路さんが通りかがったので道を尋ねると、「私はちょっと寄り道して別の道を行きますが、井戸寺は向こうですよ」と教えてもらいました。
 その男性が着ていた緑色のカッパは、ポンチョと違って袖は通っていましたが、背中のザックをまるごと包み込むもので効率的に見えました。私は「ワークマン」で買った普通の雨ガッパを着ていて、ザックにはザックカバーをしています。しかしこれでは、背中のところから雨がザックの中に浸みてきます。
 今まで私は、カッパがザックまで包み込むポンチョ式のカッパでは、雨のなかでザックの荷物を取り出そうとするとき、カッパまで脱がないとザックの中の荷物が取り出せなくなるので不便だろうと思っていました。でも実際に雨のなかを歩いてみると、ザックの中の物を取り出すことはまずありません。多少のことは我慢しても歩き続けるものです。
 緑色のカッパを着て、颯爽と歩いている男性の姿を見て、カッパでザックを包んだほうがかえって便利だと思いました。しかしこの種のカッパはあまり出回っていません。

 雨の中では地図を出すことさえ面倒で、遍路道の標示を頼りに歩いていました。すると途中で通りがかりのおじさんに「違う、違う」と呼び止められて、また道に迷っていたことが分かりました。私たちの後ろを歩いていた60代の女性のお遍路さんも交じって、「どこで間違ったんだろう」とみんなで言いながら、そのおじさんに教えられた道を歩いて井戸寺に向かいました。後ろにいた60代の女性のお遍路さんはさっき観音寺で会った人で、傘をさしながら歩いて、かなり疲れた様子でした。神奈川から来たということでした。
 道すがら、ジャンヌに「今日は昼過ぎから雨で、午後3時以降は大雨になる、明日の朝まで大雨になる」と言うと、ジャンヌは困った顔で頷いてました。
 ジャンヌはパリに、お母さんはドイツ国境近くのフランスの町に、別々に暮らしているそうです。

 12時ごろ、16番札所の井戸寺に着きました。


●写真 12時21分 井戸寺の山門



●写真 12時20分 井戸寺の本堂と太師堂



●写真 12時51分 井戸寺横のおんやど松本屋



●写真 12時53分 井戸寺横の八幡神社



 午後12時45分、井戸寺を打ちおわりました。カッパは着たままです。今日はこれが最後の札所です。井戸寺の納経所のところで例のジャンヌが「ランチ?」と聞いたので、「カロリーメイト」と答えると、彼女たちは「コンビニ」と言いましたので、そこで別れました。

 彼女たちはなぜお遍路をしているのでしょうか。彼女たちの場合、何らかの信仰というよりも、一種の観光なのかも知れません。彼女たちは納経帳の記帳はしてもらってますが、お参りはしないようです。ただ境内を散策しています。日本の文化が珍しいのかもしれません。「東洋の文化に興味がある」と簡単にジャンヌは言いました。「なぜ興味があるの」とさらに聞きたいとも思いましたが、これは日本人が「西洋の文化に興味がある」と言った場合、「なぜ興味があるの」と聞かれても答えられないのと同じだと思って、聞くのをやめました。でも彼女たちの目に、日本の文化がどう写っているのかは気になります。

 井戸寺の横にある民家の小屋の軒先で、蒸気で湿った背中のタオルを交換し、ついでにそこでカロリーメイトを立ったまま頬張りました。
 ザックカバーもかぶせていましたが、ザックにはやはり水が浸みていました。雨の日のことを考えると、ザックの荷物は一度大きなビニール袋に入れ、それをまるごとザックに詰め込んだ方がいいと思いました。ザックカバーだけでは中の荷物が濡れます。それに私のザックカバーは大き過ぎました。ハイカラなお遍路さんも多いですが、私のように不格好なお遍路姿でも誰も気にしません。人それぞれです。
 30分ぐらい休憩を取って、1時過ぎに井戸寺を出発しました。ここから宿の「びざん」までは約5キロですから、2時半過ぎには宿に着くと思います。雨がだんだん激しくなってきました。

 井戸寺を出ると、すぐ近くのバス停にさっきの60代の神奈川から来た女性のお遍路さんが傘をさしながら立っておられました。「今日は今から家に帰ります。また出直してきます」と言われました。体調も悪そうでした。雨は大敵です。バスはあと30分待たないと来ないようです。雨のなか傘をさしてバスを待つのは大変だろうと思いました。「お気をつけて」と言って別れました。

 その後、雨のなかをずっと歩き続けました。カッパを着ているので、汗が発散できずに蒸気が体中にたまります。かといって立ち止まると雨の冷たさで体が冷えそうです。着替えれば良いのですが、着替える場所も見当たりません。県道30号線を東に歩いていますが、軒先を借りるような所がないのです。ザックの中にも水が浸みています。
 立ち止まるきっかけもなく、歩き続けることしかできません。写真を撮ろうとする気さえ起こりません。マラソン選手が一度止まると走れなくなると言いますが、そんな感じです。途中、般若心経を唱えながら歩きました。命の危険を感じるというと大げさですが、歩き続けるしかないというのはある意味で危険なことです。これが山のなかだったらなおさら危険です。
 さいわい私は徳島市の中心部に向かって歩いていて、周りには人通りがあります。助けを求めることはできます。でもそうでなかったらと思うと、やはり命の危険が頭をかすめます。雨のなかは、とにかく歩くしかありません。予報ではこの雨は明日の朝までやむことはありませんから、雨宿りしていても雨は降り止みません。
 歩きながら、自分だけ宙に浮いて、まわりの世界とは別の空間を歩いているような気になりました。

 今日、最初の札所の常楽寺で赤いジャンパーの52歳の男性と会ったときに、私が自律神経失調症だというと、「自分にもそういうところがある」と言っていました。彼はなぜバイクでお遍路をしているのでしょうか。彼は何をしたいんだろうか、オレは何をしたいんだろうか、そんな雲をつかむようなことが頭をよぎります。
 赤いジャンパーのバイクに乗った男性にも日常があります。数日後にはまたハードな仕事に戻るのでしょう。「四国一周旅行のついでに、どうせなら遍路をして四国一周しようと思いました。般若心経もまだ言えませんけど」と言っていました。
 彼は四国一周のついでにお遍路に出たのではなく、本当はその逆だろう、と思いました。お遍路を四国一周のついでのように言ったのは彼独特のカモフラージュでしょう。52歳の男性は少し悲しそうでした。そして控えめに言葉を発していました。メガネは尖っていてジャンパーは真っ赤でしたが、何か胸に抱えているものを感じました。彼はそれ以上何も言いませんでした。

 午後からはますますひどい雨です。昨日から見ている鮎喰川の橋を越えたあたりで宿への見通しがつきました。国道30号線を進み、道を右に曲がり国道192号線に入りました。
 汗がひどくて、雨が背中に浸みているような気がします。体温が吸い取られています。動かないと死んでしまいそうな感覚に襲われましす。必死で黙々と歩きました。立ち止まっていつもの悪寒がくれば死んでしまいそうな気がしました。雨をしのげる屋根がどれだけありがたいのか、これほど思ったことはありません。

 宿の近くのコンビニで今日の夕食を買いました。非常食としてカロリーメイトも買いました。コンビニの中は外からはいると蒸し暑く、よけいに汗が噴き出してきて、支払いを済ませるまでの2~3分間が妙に長く感じられました。体温調節が苦手な体には、急な温度変化は応えます。

 2時半過ぎに歩き遍路宿びざんに着く予定であったのが、必死で歩いて2時過ぎに宿のびざんに着きました。体は汗なのか雨なのか分からない湿気がたまっていて、暑いのか寒いのかよく分からないような状態でした。
 民宿びざんに着いた時は、本当にホッとしました。1回インターホンを押して返事がなかったので不安になりました。2回押すと宿のご主人が出てきました。1階はガレージで、2階と3階が宿です。

 ご主人はもともとお遍路をしていた人で、それがきっかけで他県からここに移住してこられた人だそうです。そのことはご主人には聞きませんでしたが、遍路の途中で別の人からそう聞いていました。
 「びざん」のご主人は入口のガレージで、親切に世話をしてくれました。カッパの脱ぎ方、拭き方、干し方、靴の乾かし方、洗濯の仕方、至れり尽くせりといった感じです。部屋に入り着替えを済ますと、やっと雨から解放された気になりました。コンビニで買ったビールを一口飲んでやっと一息つきました。
 主人が好意で4時からの予定の風呂を3時からにしてもらいました。風呂に入ると思わず「アアァ」と声が出ました。体の奥底から沸いて出てくるような太い声でした。本当に生き返るようでした。極楽のようでした。極楽とはこういうのを言うのかも知れません。このお遍路には、地獄と極楽が隣同士であるような気がします。
 しかしそれは現代のお遍路の環境の中でのことであって、野宿したり善根宿に泊まったりすればお風呂にはありつけません。それでも夜露がしのげれば、どんなにありがたいか知れません。還暦すぎた私にはもうそんな泊まり方はできませんが、「橋の上で杖をつかない」というお遍路のルールも、橋の下でお遍路(弘法大師)が寝ているかも知れないからだと言います。それはまんざらウソではなさそうです。

 風呂からあがると、井戸寺で分かれたジャンヌ親子が到着していて、食堂にいました。「お風呂あがりました」と告げて、自分の部屋に戻りました。
 妻にメールを打たなければなりません。毎日必ずメールを打つというのが、このお遍路の条件でした。それが日課になりつつあります。


●写真 歩き遍路宿びざんガレージと入口



●写真 歩き遍路宿びざん外観



 夕食はない宿でしたが、代わりに「お接待」でコーヒータイムがあって、宿泊者全員がご主人と奥さんをまじえてテーブルを囲みました。
 ここに泊まっているのは、ジャンヌ親子2人、それから70歳前後の男性で茨城県から来たという人、それに私の4人でした。70歳前後の男性は、お遍路は3回目ということでした。今回は、高知の先の足摺岬まで行くそうです。
 ジャンヌは司法試験の発表が今日あって合格したということで、とても喜んでいました。来年の1月から仕事が始まると言ってました。私が「司法試験は難しい、すごいな」と言おうとして、サプライズという単語がでてこなかったので、手を上げてビックリだ、と言ったら通じました。私はもっと色々なことを尋ねてみたくなりましたが、日常会話以外は単語が出てこずに会話にならなかったので諦めました。
 ジャンヌは、会話が分からなくなると、持ってきたタブレット端末でフランス語を日本語に翻訳して話していましたが、便利なようで、タブレットでの会話は意外と白けるようです。結局、当たり障りのない日常会話が一番いいようです。
 ジャンヌはシャープな目をしています。弁護士に意外と向いているのかも知れません。

 明日は20番札所の鶴林寺の登山口まで歩きます。そこに一軒宿があります。途中、徳島城周辺を迂回し、18番の恩山寺(おんざんじ)、19番の立江寺(たつえじ)を打ちます。約27キロの道のりです。私にとってはかなり長い距離です。
 明後日は、20番の鶴林寺(かくりんじ)の山を登り、そこを下ってさらに次の21番の太龍寺(たいりゅうじ)の山を登ります。1つ目の山の鶴林寺を打ち、2つ目の太龍寺の山を降りるまで宿がありません。1日で鶴林寺の山と太龍寺の山の2つの山を越えなければなりません。ここが2つ目の遍路ころがしです。そのためには明日、どうしても鶴林寺の登り口までたどり着いておかないといけません。
 27キロと明日は長い道のりですが、かといって20キロあたりに宿を取ると、次の日が中途半端になります。私にはちょっときついですが27キロ歩くことにしました。

 今日は晩方、徳島市中心部や、徳島城、阿波踊りが行われる通りなども歩いてみたいと思っていました。予定では今日、徳島市中心部に宿をとる予定でしたが、あいにく宿が満室で取れませんでした。明日は多少無理でも30キロ近くを歩くことにしました。平坦な道なのでどうにかなるだろうと思います。
 食堂のテーブルでコーヒーを飲みながら、その場で登山口近くの金子やに電話し、明日の予約をしました。ジャンヌ親子もいっしょに予約して欲しいと言うことでしたので、そこに3人いっしょに予約を入れました。予約ができてホッとしました。でも「6時に到着しないと夕食は出せない」ということでした。彼女たちにもそのことを伝えました。もう一人の70歳ぐらいの男性は、すでに別の宿を予約されていました。

 何かあったときの連絡のために、ジャンヌのスマホの番号を聞いて試しに電話してみましたが、つながりませんでした。国際電話の仕組みがよく分かりませんが、ジャンヌがフランスから持ってきたスマホに、日本から電話を掛けることはできないようです。国番号を入れてもダメでした。ジャンヌがフランスから持ってきたタブレットはネットにつながるのに、電話回線はつながらないというのがよく分かりませんが、どうもそうなっているようです。

「室戸へ」 お遍路記 8日目 恩山寺(18番) 立江寺(19番)

2020-09-30 08:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【8日目】 雨のち曇り
 【札所】恩山寺(18番) 立江寺(19番)
 【地域】徳島市(佐古 → 徳島城) → 小松島市 → 勝浦町
 【宿】 歩き遍路宿びざん → 金子や


 朝食は2階の食堂で4人でテーブルを囲んでとりました。ジャンヌ親子2人は、昨日買ったコンビニの朝食を食べていました。朝食の生卵とか、食べられないものがあるようで、好みのコンビニの弁当を買っていたようです。
 7時10分に民宿びざんを出発しました。出発する前に4人で記念写真を撮りました。

 写真を撮ったあと、「さあ出発しよう」というときにちょうどひどい雨が降ってきて、急きょカッパに着替えて出発しました。70歳前後の男性は「自分のペースで行くから、お先に」ということで先に行かれました。
 私とジャンヌ親子は徳島市の眉山(びざん)の手前あたりまで約30分ほどいっしょに歩いたあと、私は「見たいところがあるから、ちょっと寄り道していく」ということで別れました。
 川沿いの公園を歩き、眉山ロープウェイが見えたところで、左折して徳島駅方面に向かい、それからその裏の徳島城に入ってお城の公園をしばらく歩きました。雨はずっと降り続いていました。


●写真 7時55分 徳島市中央公園沿いの川(南方向)



 川の左側は公園で、ここに「阿波おどり」の桟敷が設けられるようです。阿波おどりは盆踊りの一種で、どうも神様よりも仏様に近いようですが、お遍路との関係はあまりないようです。というより、別種の文化のようです。異界のお遍路、地元民の阿波おどり、といった感じです。阿波踊りはきれいです。一度見てみたいものです。でも昨日も駅周辺に宿が取れなかったことを考えると、宿を取れるかどうかが一番の問題のようです。


阿波おどりファン必見!徳島市阿波おどり2017総踊り!!踊り子さんの笑顔がすてき! Awaodori in Tokushima Japan



●写真 7時55分 徳島市中央公園沿いの川(北方向)



●写真 7時58分 眉山(びざん)を望む(西方向)

眉山に登るにはロープウェイがありますが、時間がありませんでした。今日泊まった「びざん」はこの山の名を取ったものでした。この先に「阿波おどり会館」もあるようです。


●写真 7時58分 徳島駅前大通り



●写真 8時00分 徳島駅前大通り



●写真 8時2分 徳島駅前大通り



●写真 8時3分 徳島駅前大通り そごう



●写真 8時13分 徳島城

徳島駅の裏手が徳島城でした。一昨日泊まった一宮城の城下町がここに移ったようです。鮎喰川の山手から吉野川の河口近くに、お城が下りてきています。


●写真 8時13分 徳島城



●写真 8時15分 徳島城



●写真 8時17分 徳島城の門



●写真 8時17分 徳島城のお堀



今日は27キロ、先を急ぎます。


●写真 8時30分 徳島県庁前の通り



●写真 8時31分 徳島県庁前の川

川岸には船が停泊していました。


●写真 9時10分 川の鴨



●写真 9時47分 徳島市内の遍路用品店



●徳島市と眉山(海側から西を見る)

徳島市中心部は川に囲まれて川中島のようになっていますね。左上が眉山(びざん)。その手前の小さな山が徳島城。その隣が徳島駅。眉山の先の平野部が阿波国府のあった国府町(国分寺一帯)。そこを南に山に向かうと山城の城下町があった一宮町(大日寺付近)。西の焼山寺からここまで下りてきました。ちなみに県庁は川中島の対岸。右上に吉野川が流れる。吉野川の北と南で、同じ徳島県でも何か雰囲気が違うような。


 午前10時15分、まだ雨が降っています。9時にいったん雨が上がったと思いましたが、目に見えないほどの小雨が降り続いて、10時頃からまた雨が降り出しました。雨宿りするところを探すのも一苦労で、国道55号線沿いを歩いていても、雨宿りに適当な場所がなかなか見当たりません。勝浦川の橋を渡ったところでお遍路用の休憩所がありました。
 やっと腰を下ろして休憩できました。雨をしのげる遍路休憩所は本当にありがたいことです。この遍路休憩所は徳島中央ロータリークラブによるもののようです。そこで一息入れました。
 雨のなかを歩くことがこんなに大変なことだとは思いませんでした。自分が天気にいかに無頓着だったか、本当に身にしみて分かります。お遍路で野宿する人にとって、雨が降るかどうかは死活問題です。
 橋の下には弘法大師が寝ているという言い伝えがあって、お遍路は橋の上で杖をつかないというルールがあります。雨宿りする場所を探すのが大変です。昔は橋の下でも雨をしのげるありがたい場所だったと思います。橋の下には誰かが寝ていると思うと杖はつけないのです。昔の橋は木造で小さいですから、なおのことです。


●写真 10時10分 勝浦川橋を渡ってすぐの遍路休憩所



 10時20分、まだ雨です。あと1時間ばかりで3キロ先の18番札所の恩山寺に着く予定です。


●写真 10時54分 弘法大師御杖の水

やっと雨が上がりました。


●写真 11時15分 恩山寺近くの民宿ちば



●写真 11時19分 恩山寺の入り口



●写真 11時21分 恩山寺の山門



 11時半ごろ、18番札所の恩山寺に着きました。そこで休憩していると、約15分ぐらい遅れてジャンヌたちが来ました。私は遠回りしたので、先に行っているとばかり思っていましたが意外でした。
 私はそこで昼食を取るつもりでしたが、彼女たちは昼食を持ってなかったので、カロリーメイト2人分を彼女たちに渡しました。彼女たちも「アリガトウ」と言って食べ始めました。ジャンヌからは手持ちのミカンをもらいました。私はいつものように、靴を脱いだり、足のマッサージをしたりしたあと、3人いっしょに歩き出しました。こういう時に言葉が通じないというのは、お互い諦めているためかムダな会話をする必要がなく、かえって気楽な面もあります。

 でも境内の写真を撮り忘れていたことに後で気づきました。

 次の立江寺に向かう途中の釈迦庵に行こうとして、通りがかったおばさんにその場所を聞いてみたところ、「台風で倒れてしまって、今は何もなくなっている」ということでした。草しか生えてないということでしたので釈迦庵には行きませんでした。ジュリアンは札所の途中にある祠にはあまり興味を示しませんが、この釈迦庵には行きたかったらしく残念がっていました。
 私はこの日、宿の到着時間が気になっていました。金子屋の宿の主人からは「遅くとも6時までには着くように。そうでないと夕食は出せません」といわれていたことが気にかかりました。



●写真 13時41分 お京塚



●写真 13時42分 お京塚のお地蔵さん



 お京塚は大阪の芸者お京が夫を殺して、浮気相手とともに逃げてきたところだそうです。こういう所も番外霊場として組み入れられています。

 真言宗には他の宗派に見られない特徴として、男女の性的な交わりを煩悩としてみるのではなく、悟りの一種として捉えようとするところがあります。男女の豊かな交わりは人生を豊かにすると。空海が最澄から「お経を貸してくれ」と言われて唯一貸さなかったお経がその「理趣経」です。「あなたにはまだ早い」と。確かに誤解される恐れのある教えです。私も最近そのことを知ってビックリしました。妙に生々しいのです。でも生身の人間にとっては大事なことです。
 お京は、愛欲の果てに懺悔し、一心に地蔵尊を念じるようになったと言います。何か恐ろしいような話ですが、誰もが避けたくても避けて通れないものがそこにはあります。

 午後2時、赤い橋を渡って立江寺に着きました。


●写真 13時52分 立江寺入り口の赤い橋



●写真 13時52分 立江寺付近



●写真 14時19分 立江寺の塔



●写真 14時19分 立江寺の本堂



●写真 14時26分 立江寺奥の院入り口

行きたかったのですが、ここには立ち寄りませんでした。



 午後2時20分頃、立江寺を出発しました。
 立江寺のある立江町から山の裾野の旧道を西へ向かいます。その南には平行して新しい県道28号線が走っていますが、旧道を歩きました。山裾の田舎道です。立江中学校横を通り、農協を過ぎ、櫛渕小学校前を通り過ぎます。下校途中の小学生とすれ違います。
 途中、法泉寺前のバス停のところでジュリアンがトイレを借りたいと言ったので、すぐ横の小さな工場で作業していた人にお願いしたところ、工場横のトイレを貸してもらいました。女性のお遍路はトイレが大変です。私はその10分前に、何も告げずに草むらにはいり、立ったまま済ましていました。

 尾籠な話ですが、日本の失われた風俗に、女性の立ちオシッコ姿を見なくなったことがあります。私が子供のころまでは、地元の農作業風景でよく見る姿でした。女性は農作業の合間に、立ったまま後ろ向きで用を足していました。前から出して後ろから垂らすのです。これは私の地元だけの風習かと思っていたら、私の友人が、若いころ観た今村昌平監督の映画「ええじゃないか」のなかで、桃井かおりが後ろ向きに立ったままオシッコするシーンがあった、と言ってましたので、かなり全国的に広まっていたことだったと思います。
 昔は女性は腰巻きでパンツをはいてなかったから、こういうこともしやすかったのだと思いますが、女性がパンツをはくようになって次第に失われていったようです。女性のお遍路さんがこの技術を体得したら、かなり便利になるのは間違いないことのように思えます。
 そんなことでも考えていないと、立江寺から金子屋まで約10キロの道のりは長すぎます。


●写真 14時33分 立江寺過ぎの農村風景(南) 北側は山が迫っています



●写真 14時39分 立江寺過ぎの農村風景(南)



●写真 14時43分 立江寺過ぎの農村風景(西) 前にジャンヌ親子



●写真 14時46分 立江寺過ぎの農村風景(南)



●写真 15時18分 峠の車道

立江町のある小松島市と金子屋のある勝浦町との町境には峠があって、そこを越えて勝浦町に入りました。


●写真 15時44分 えびっさんの生まれた神社(道路南)



 途中に「えびっさんの生まれた神社」というのがありました。「えびっさん」というのは恵比寿さんのことです。私の地元でも「えべっさん」というのですぐ分かりました。四国で「えびっさん」、九州で「えべっさん」、どちらも同じようなものです。遠くから来た異国の神様ですが、それがどうしてここで生まれたのか由来は分かりません。こういう外来の神様が「ここで生まれた」とする発想がおもしろいと思いました。でも時間が気になり、足もヘタってましたので、立ち寄らずに先を急ぎました。ちょっと残念でした。

 ローソンのある三叉路で、今まで歩いてきた県道22号線が終わり、勝浦川沿いに走る県道16号線と合流しました。そこを左に曲がり、勝浦川沿いの県道16号線を歩きました。ここから約4キロの道のりです。勝浦川は美しい川でした。しかし、それに沿って走る1本道はとても長く感じました。足もかなり疲れてきました。「まだか、まだか」という気持ちで歩きました。「あとどれくらいか」と、ジャンヌたちとそればかり話していました。いつも最後の2~3キロはとても長く感じます。
 ジャンヌ親子は時折フランス語で話していますが、私には何のことか分かりません。何か聞かれないかぎりは、構わないことにしています。言葉が分からないと、逆に気楽なところがあります。言葉というのは、無ければ無いほうが良いのかも知れません。そのほうが便利なのです。


●写真 15時44分 勝浦町に入りました(西)



●写真 15時54分 北側の勝浦川と道(北東)



●写真 15時54分 北側の勝浦川と道(西)



●写真 15時54分 南側の山と平野(南西 奥に勝浦の町)



●写真 15時54分 南側の田んぼの花(南西)



 勝浦町の町中に入ってきました。もう宿はすぐそこです。


●写真 16時34分 金子屋近くのコンビニ(南西)



 金子屋の近くのコンビニでカロリーメイトとビールを買いました。ジャンヌたちはお菓子を買っていました。ビールは宿に着いてから飲もうと思っていましたが、ジュリアンたちがコンビニの前に座り込んで、「ハングリー」と言いながら買ったお菓子をムシャムシャと食べ始めたので、私も買ったビールを待ちきれずに飲みました。こういう飲み方が本当は一番おいしいのです。


●写真 16時35分 コンビニの南うしろの山(南)

宿はこの山の麓の村



●写真 16時52分 金子や近くの民宿



 金子やの他にも民宿がありました。
 ここから7キロ西奥へ行った山手の坂本には「ふれあいの里さかもと」という宿があり、ここまで送迎してくれるそうです。


●写真 16時54分 金子や






 午後5時に金子やに着きました。6時前に着けたことにホッとしました。でも私には長い行程でした。

 宿の金子やは鶴林寺の登山口にあります。宿の泊まり客は全部で6人です。ジャンヌ親子2人と私、それからオーストラリア人の年配の男女2人、それに茨城県から来たという71歳の男性、その男性は2回目の遍路だということです。1回目は3年前の68歳のときに打って、今回2回目ということでした。
 オーストラリア人の男性は異形の格好をしていて、上半身刺青、ブロックカットの髪型、両耳に大きなピアスの穴、芸能人なのか、ちょっと何をしているのかわからない人でした。もう一人はその奥さんのようです。やはり60歳前後に見えます。彼らもお遍路は2回目ということでした。私が九州から来たというと、12月には九州に行く予定だと言ってました。どういうことなのか、よく分かりません。外国人が多くて、日本であって日本ではないみたいです。一昨日は2mを越えるオランダ人男性と2人でしたし、いつもとは違う世界です。

 ジャンヌの母親は仮にナンシーと言ってますが、本当は覚えにくい名前です。何度聞いても覚えられませんでしたが、やっと覚えました。
 母親のナンシーの家はパリではなく、聞き取れませんでしたが、ドイツに近い町だそうです。彼女の英語は半分フランス語がはいっているようで分かりにくいのです。私の英語もロクなものではないのですから、お互いよけいに分かりません。2人で話すのは苦労します。母親のナンシーと比べてジャンヌの英語が聞き取りやすいのは、たぶんジャンヌがちゃんとした英語教育を受けているからでしょう。


●写真 20時2分 部屋の様子

洗濯物は乾燥機で乾かしてますが、あと少しというところなので、しばらく畳の上に広げています。



 部屋に戻るとまず明日の宿の予約をしました。明日は二つの山を越えて、一番最初にあるのが一軒宿の山茶花(さざんか)です。そこに予約しました。廊下ですれ違いざま、ジャンヌにそのことを伝えました。一種の情報交換です。ジャンヌは「オーケー」と言いました。ジャンヌたちもそこにしたようです。


 本当はもっと勝浦川の上流を西にさかのぼっていくと坂本という町があり、その坂本の山の奥に慈眼寺(じげんじ)という別格霊場があるので、そこまで行ってみたい気もしましたが、宿の主人にそのことを聞くと、「そうなると連泊になる」ということでした。その慈眼寺の近くには空海が修行したという鍾乳洞の穴禅定があり、また高さ140mの潅頂の瀧があります。興味をそそられる場所でした。
 あとで調べてみると、焼山寺からこの勝浦町まで、いったん平野に下りて、徳島市の中心部を通ってここまでやって来ましたが、地図で見てみると直線距離ではそんなに遠くはありません。ただその間には高く大きな山脈がさえぎっていて、そこを直接乗り越えてここまで来るのは並大抵のことではないようです。しかし空海のような修行者たちはその山を直接乗り越えて、明日向かう鶴林寺や太龍寺の山に向かったようです。坂本の町の奥にある慈眼寺はその中間地点にあり、焼山寺、慈眼寺、太龍寺はほぼ一直線上に並びます。別格霊場慈眼寺は断念しました。


●焼山寺~勝浦町~太龍寺


左下の焼山寺から右下の太龍寺の中間地点に慈眼寺があり、そこも修行の場所でした。ふつうのお遍路がその間の山を越えるのはムリだから、焼山寺からいったん神山町を流れる鮎喰川に沿って山を下り、地図の上方にグルッと遠回りして、徳島市を通り、また山に向かって勝浦川の流れる山すそを歩いて、勝浦町まで来たわけです。


 ジャンヌ親子とはたまたま歩くペースが同じようで、付かず離れず毎日同じようなところを歩いています。
 明日はいよいよ二山越えの遍路ころがしです。

「室戸へ」 お遍路記 9日目 鶴林寺(20番) 太龍寺(21番)

2020-09-30 07:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【9日目】 曇りのち晴れ
 【札所】鶴林寺(20番) 太龍寺(21番)
 【地域】勝浦町 → 那賀川 → 阿南市(阿瀬比 → 大根峠 → 新野)
 【宿】 金子や → 山茶花


 宿の金子やを7時半ごろ発ちました。出発時に、金子やの玄関でジャンヌ親子が「先に行く」と英語で言いましたので、私も英語で「オーケー、あとから行く」と言いました。宿のすぐ横に登山道がありました。


●写真 7時42分 登りはじめの山から見た勝浦町の様子



●写真 7時43分 登りはじめの山の花



●写真 7時46分 茅葺きの遍路休憩所



●写真 7時46分 茅葺きの遍路休憩所の中の様子



 20番の鶴林寺への山道は思ったよりも険しく、急こう配が続きました。途中に水呑み大師がありましたが水は枯れていました。しかしあとで鶴林寺の納経所の女性が言うには、そのすぐ下に水がちょろちょろと流れていて、その水が非常においしい、ということでした。惜しいことをしました。


●写真 8時7分 水呑み大師



●写真 8時40分 鶴林寺の山の中腹から見た太龍寺の山と、そこに架かる橋

この山を登ったあと、川を渡って、むこうの山に登ります。



●鶴林寺~太龍寺



鶴林寺に9時過ぎに着きました。


●写真 9時9分 鶴林寺の山門



●写真 9時15分 改修中の鶴林寺の本堂

鶴林寺は改修中でした。木造の寺院は、こうやってときどき人の手を加えながら、何百年もの風雪に耐えてきたのでしょう。両脇に二羽の鶴がいます。鶴林寺の名前の由来です。



●写真 9時19分 鶴林寺の塔



 鶴林寺に着くと、ちょうどジャンヌ親子が、鶴林寺を打ち終えて出発しようとしているところでした。私は「きつくて、ゆっくり歩いてきた」と言うと、ジャンヌは「母もゆっくり行きたがっている」と言いました。鶴林寺の山は思った以上にきつく、私はしばらく休まないと動けそうにありませんでしたので、彼女たちを待たせるのは悪いと思い、「私は今着いたばかりだし、ここでゆっくり休んでいくから、先に行ってていいよ」と言いました。
 その後、すぐお経を唱えてお参りしたあと、例によって靴を脱いでしばらく休んでいると、宿で一緒だったオーストラリア人夫婦二人が登ってきて、男性が「お接待」と言ってミカンを一つくれました。その場で食べました。咽が渇いていて、非常に美味しかったです。
 そのオーストリア人夫婦と一緒に登ってきた別の男性がいたので、「途中からご一緒されたんですか」と聞くと、「私、日本語わかりません」という言葉が返ってきました。てっきり日本人だと思っていたら、韓国人のお遍路さんでした。

 その韓国人のキム(仮名)さんとしばらく話をしあと、いっしょにトイレの場所を探したりしていると、自然とそのまま鶴林寺の山を二人で降り始めました。お互い言葉が分からず、共通語はお互いのカタコトの英語になりました。日本人と韓国人が英語で話すというのも変なものだと思いました。英語はヨーロッパ人とだけ話すものだと思っていましたが、こうやって日本人がヨーロッパ系以外の人と話すときもやはり自然と英語になるようです。

 日本語と韓国語はかなり似た言葉ですが、英語とフランス語よりは遠い言葉のようで、意思の疎通はできません。だからお互い学校で習ったカタコトの英語で話します。でもキムさんの顔を見ると日本人と変わらないので、つい話しながら日本語が出てきます。ジャンヌたちと話すときはそうはならないのですが、相手の顔つきというのは無意識のうちに言葉まで変えてしまうようです。相づちもジャンヌたちとは「イエス」というところを、思わず「そうですね」と日本語になってしまいます。何となくキムさんが日本語がしゃべれるという錯覚に捕らわれてしまうのです。キムさんは覚えたての日本語を少ししか話せませんでした。

 キムさんは外科医だそうです。キムさんはソウルに住まれているようで、ソウル市内の大きな総合病院に勤めたあと、そこを定年退職で辞められたようです。私よりも若いと思っていたら、64才ということで私よりも年上でした。かなり若く見えます。
 キムさんは昨日、徳島駅に着いたばかりだそうですが、お遍路はこれで3回目だそうです。数年前から区切り打ちをされていて、すでにかなりの札所を回られているようです。あそこは良かった、ここは良かったと、前回のお遍路のことをよく話されました。
 いっしょに鶴林寺の山を下っていると、キムさんは途中で「ちょっと休憩します。下り坂はもっとゆっくり行きますので、お先にどうぞ」と言われたので、私は「私もゆっくり歩きましょうか」というと、「いえいえ、あなたは自分のペースで歩いてください」と言われたので「それではお先に」と言って、私は鶴林寺の山を先に下っていきました。私は登りがダメなのに対して、下りは早いようです。


●写真 11時4分 鶴林寺から下る道



 鶴林寺の山を下ると、前回の焼山寺の山と違って、ここははっきりと鶴林寺の山と太龍寺の山が分かれていて、その間には那賀(なか)川というかなり大きな川が流れています。山と山の間を流れるその川のそばに休憩所がありました。そこが標高40mです。標高500mの鶴林寺から一気に460m下ってきたわけです。このあとまた標高520mの太龍寺に登らなければなりません。下ってきたのが何だかもったいない気がします。

 二山越えるのですから当然ですが、歩いてはじめて「二山越えるとはこういうことだったんだ」と思い当たりました。「分かっているようで、本当は分かっていない」とはこういうことを言うのでしょう。頭で分かっていても、体で理解できていなかったのです。これは予想以上にきついです。

 これからその那賀川の橋を渡り、次の太龍寺の山に向かいます。その川のそばの休憩所で休んでいると、キムさんが山から降りてきて「お先に」と手を上げて歩いて行かれました。私も軽く手を上げて挨拶をしました。若い外国人男性も通り過ぎていきました。


●写真 11時9分 鶴林寺から降りたところの遍路休憩所



●写真 11時19分 橋方面の景色

あの山を越えます。



●写真 11時20分 太龍寺の山への橋 前方にキムさん



●写真 11時21分 太龍寺への山への橋



●写真 11時22分 太龍寺への山への橋から見た那賀川(上流)



●写真 11時22分 太龍寺への山への橋から見た那賀川(下流)



●写真 11時22分 太龍寺への山への橋を渡って後ろを振り向いたところ

あの山を降りてきました。



 那賀川に架かる橋を渡って太龍寺の山を登り始めるとすぐに休憩所があって、そこでキムさんが休んでいました。私は登りでヘトヘトですが、キムさんは「下りよりも上りがいい」と言っていました。私よりも年齢は上なのに元気です。先にキムさんが出発して、私は15分ほど遅れて12時に出発しました。
 メドにしていた1時に太龍寺に着くのは無理です。


●写真 11時47分 太龍寺への山の遍路道



●写真 11時59分 太龍寺への山の途中の遍路休憩所



 21番の太龍寺への山道は、さっきの鶴林寺への山道に比べて緩やかです。登りやすい道です。

 12時50分、21番の太龍寺へ向かう途中、誰もいない山の中で、1人昼飯を食べました。ちょっと前に見た標示に太龍寺まであと2キロと書かれてあったのを見てガックリときました。あと2キロもあります。

 休憩している登り坂のちょっと上方にベンチが設けられてありました。今日は何度も背中のタオルを取り替えていて、ザックの中のタオルしか余りがなかったので荷物を取り出そうとしたところ、もう1時近くになってるので、このベンチで昼飯を食べました。回りは鬱蒼と木が茂っています。昼飯は金子屋にお願いしていたおにぎり2個です。太龍寺で食べる予定のおにぎりを、山のなかのベンチに座りながら1人食べました。

 背中のタオル交換はもう6度目か7度目か、数え切れないぐらい替えました。使わないはずの奥にしまったタオル2枚のうちの1枚をいま取り替えたところです。これで使ったタオルは5枚目になります。残り一枚はこの先何が起こるか分からないので、使わずに取って置きます。途中で2~3回タオルを使いまわしました。使ったタオルは4枚まとめて首に掛けて歩いていますが十分に乾きません。でも汗で濡れた背中のタオルよりも良いので、そうやって使い回しをしています。
 ここは2番目の遍路ころがしといわれています。つらさの質が、焼山寺の遍路ころがしとは違いますが、やっぱりきついです。

 ふと「こんなところで道に迷えば大変だ」と思いました。周りに人がいないので心細い気もします。
 宿を一歩出ると、大海原を1人で歩いているような気になります。自分の足だけが頼りです。自分が大海に浮かぶ小舟のようです。それは町中であろうと、こんな山中であろうとたいして変わりません。宿を一歩出ればそこはもう異界です。見た目には、町中も山の中もふだんの世界と変わりませんが、お遍路をしていると、自分がいつもの世界とは違って世界にいることを感じます。日常の世界が恋しく思えます。しかしここでは日常に住む人たちが、自分とは違った遠い世界に住んでいるように感じます。

 そういう世界を歩いているからこそ、トラックの運転手さんが信号機もない交差点でわざわざ止まって私を先に通してくれたり、2人乗りをしながら爆音を立てて猛スピードで走ってきた大型バイクのお兄さんが私の姿を見て頭を下げたりしてくれるのでしょう。
 それは私への尊敬というよりも、私が彼らとは違う異界の人間だからです。身にまとっている白衣(びゃくえ)は死に装束です。「どこで死んでも仕方がありません。亡骸はご迷惑ですが近くに葬って下さい」。それが白衣(びゃくえ)の意味です。
 不思議と死が遠いものではなく、身近に感じられます。でもそれは「死にたい」という感覚とはまったく別で、日常が自分とは遠い存在であり、むしろ異界である死の世界がいつも隣にあるような感覚です。「死んでしまいたい」というのではなく、「もともと自分は死の近くで生かされているにすぎない」ような感覚です。死が身近に感じられるとはそういう意味です。「死にたい」とは思いませんが、たとえ死んでも今とそれほど変わらないのではないかという感覚です。それほど死の近くにいるからみんな必死で生きているのでしょう。色即是空の「空」とはこんな感覚かも知れません。身体感覚がいつもとちょっと違います。

 私がホッとできるのは宿にいるときだけです。そこから一歩外に出ればそこは異界です。異界のなかでは、宿にたどり着くことだけを考えています。あとどれくらい歩けば宿に着けるか、そればかり考えています。お遍路にとって宿はホッとできる唯一の場所です。洗濯をし、風呂に入って、夕食を食べる。そういう世界にたどり着くことだけが1日の唯一の目標になります。そこだけが別天地です。

 まだまだ歩かなければなりません。太龍寺に着いたとしても、そこから宿までまた10キロ歩かなければなりません。その途中に宿はありません。次の宿までこの道を歩き続けるしかありません。


●写真 13時31分 太龍寺の山門



●写真 13時49分 太龍寺の山門



 2時ちょっと前に太龍寺の山門に着きました。しかし、その山門から本堂に行くまでに長い階段があり、これが非常に長く感じました。10番の切幡寺もそうでした。これが予想外にきついのです。知らないと余計きついのです。山門を見ると反射的にホッとします。ホッと気を緩めたあとに、また急な坂道を登らねばならない。これがきついのです。もうヘトヘトになって本堂のある境内に着きました。


●写真 13時53分 太龍寺の境内



 ここは標高520mです。本堂の下には太龍寺ロープウェイの乗り場がありましたが、そんなロープウェイも今の私にとっては無関係な世界のことです。
 太龍寺から山を下りるには、舎心ヶ嶽を登って標高590mの「ふだらく峠」を越える遍路道があります。その道のことを納経所の女性に尋ねたところ、「その遍路道はロープウェー乗り場の先にありますが、その道はめったに人が通らないし、この時間ではおすすめしません。何かあったとき携帯の電波も届きませんし」ということでした。人がめったに通らないというのは今までと同じですが、いろいろ遠回りや寄り道をしながら遍路道を歩くことは、今日の私の体力では無理なようです。残念ながら、お寺を出て車道を下ることにしました。



●太龍寺~舎心ヶ嶽

白く薄い線はロープウェー


 午後2時35分、太龍寺の山門を出ました。ここから平等寺までまだ10キロあります。
 途中で平等寺まで約11.3キロという表示が出ていました。10キロより短くならずに逆に長くなっています。これは国道を行った場合の距離でしょう。5~6キロ先の阿瀬比というところで国道195号線と遍路道に別れます。距離的にはその遍路道が近いのですが、途中に標高200mの大根峠があります。大したことはないと思いますが、どっちの道を行こうか、悩みつつ歩きました。国道を行くと楽ですが、かなり遠回りになります。


●写真 14時56分 太龍寺の山を下る



●写真 14時57分 太龍寺の山を下る



●写真 15時11分 太龍寺の山を下る



 午後3時10分です。まだ3時過ぎですが、21番の太龍寺を下る山道は、ほとんど光がささず、もう夕方のような感じがします。急いで歩きつづけてもなかなか民家が見えません。夕暮れのような景色のなかを、ひたすら歩きました。


●写真 15時20分 太龍寺の山を下る途中の川(下流)



●写真 15時20分 太龍寺の山を下る途中の川(上流)



いまやっと家が見えてきました。


●写真 15時21分 太龍寺の山を下る途中の家



●写真 15時23分 太龍寺の山を下る途中の水田と農作業する人



●写真 15時26分 太龍寺の山を下る途中にあった廃業した民宿坂口屋



 阿瀬比からは国道195号線には入らずに、国道を渡ってその奥の小さな遍路道に入りました。人の通らない寂しい山道です。阿瀬比の村の標高が140mぐらい。その先に大根峠があります。標高200mと地図に出ていたので、そんなにきついことはないだろうと思っていましたが、これが登ってみるとかなりきつい山道でした。たった60mの標高差がこんなに辛いとは思いませんでした。山の形状と道の造りによって、体に感じるきつさはかなり違います。最後の最後でかなりきつい遍路ころがしに遭いました。写真を撮る余裕もありません。



●太龍寺~阿瀬比~平等寺



 やっとの思いでその峠を越えると下りもまた急な坂道で、かなり汗をかきました。今日は手持ちの6枚のタオルのうちの1枚を残すのみです。1枚は残しておかないと何かあった時に困ると思ったので残しましたが、残りの5枚のタオルを使い、繰り返し使ったのも含めて7回か8回、背中のタオルを取り替えました。最初の遍路ころがしが12番の焼山寺で、二番目の遍路ころがしが今日の20番の鶴林寺と21番の太龍寺の遍路ころがしです。どちらも変わらないぐらいきついです。特に、大したことはないと思っていたこの小さな大根峠が、疲れた体には応えました。


●写真 16時40分 大根峠を下り民家が見えてきた



午後4時50分、やっと麓に下りてきました。


●写真 16時58分 大根峠を下った集落



●写真 17時6分 平等寺近くの桑野川のほとりを歩く



●写真 17時14分 平等寺が見えた



 午後5時、ここは山の麓ののどかな農村です。22番札所の平等寺のすぐ裏には山が迫っています。前には桑野川が流れています。その川のほとりの道を歩いてきました。日が暮れかけています。
 22番の平等寺の前を通ったのは午後5時20分頃で、5時を過ぎていたので今日は打てません。納経所は5時までです。明日最初に打ちます。平等寺のすぐ横に民宿山茶花(さざんか)がありました。そこに泊まります。


●写真 17時15分 宿の山茶花



 ジャンヌ親子はすでに着いていました。彼女たちは15分ぐらい前に宿に着いたと言ってました、横の平等寺は打たずにそのまま宿に入ったようです。私と同じように、明日の朝一番に打つようです。
 今日途中で出会った韓国人のキムさんもいました。
 一昨日、民宿びざんでいっしょに泊まっていた男性もいました。茨城県から来た70歳ぐらいの男性です。大石(仮名)さんと言われるようです。昨日の宿は別でしたが、今日またいっしょになりました。
 それからもう1人は3日前の17番の井戸寺のところで道を教えてもらった男性がいました。背中からザックをそのまま包める緑のカッパを着ていた70歳前後の男性です。名前はわかりませんが、滋賀県から来られてるそうです。この男性は明日帰ると言われていました。

 キムさんは3回目の遍路なので、今回はあちこち回り残したところを、徳島とか香川とか、いろんな所を回って帰るということでした。韓国では四国遍路はかなり有名だとも言ってました。キムさんは、アメリカにも住んでいたことがあるということで、英語がかなり上手です。そして自分は仏教徒ではなくてカトリックのクリスチャンだけれども、四国のお遍路が大好きだと言われていました。「韓国人の7割は仏教徒だから、お寺巡りのお遍路には抵抗感はない」と言われてました。残り3割がクリスチャンだそうです。韓国は儒教の国だと思っていましたが、キムさんの話だと儒教は宗教のジャンルとは別のようです。儒教は宗教ではなく、生活文化の一部なのかもしれません。それは儒教の力が弱まっているということなのか、逆に気づかないほど強く生活の中に入り込んでいるということなのか、よく分かりませんでした。


 ジャンヌと話していると、日本人とはもともとが違うなかで何か共通点を見つけて話しているという感じですが、韓国人のキムさんと接していると、日本人と基本的に同じだけど、どこか違うという感じがします。日本人との違いはジャンヌたちとのほうが大きいのですが、感覚的にはキムさんとの違いがより目につきます。もともと違うと思っていると違いが気にならないけど、同じだと思っていると小さな違いがよけい気になる、そんな感じです。

 キムさんはけっこう周りに気を遣う人で小回りがききます。そういう点でも日本人に近いのですが、意外とストレートです。顔立ちが日本人と同じなだけに、よけいそのストレートさを感じるのでしょう。

 夕食のあとで談笑している時に、明日の宿のことが気になって、宿の女将さんに明日の宿のことを聞いてみました。その場で女将さんが紹介してくれた宿に電話を入れました。明日は23番札所の薬王寺(やくおうじ)のある日和佐町の「きよ美旅館」に泊まることにしました。それを聞いていた茨城県の大石さんが「私もそこですよ」と言われました。ジャンヌ親子とキムさんは、同じ日和佐町の別の旅館に泊まるようです。


 大石さんとはそのあと納め札を交換しました。それを見ると大石さんの名前の横に女性の名前が書いてあったので「奥さんですか」と思わず聞いてしまいました。「妻は亡くなりました。いっしょにお遍路に行きたいといってましたので、供養にと思って回っています」と言われました

「室戸へ」 お遍路記 10日目 平等寺(22番) 薬王寺(23番)

2020-09-30 06:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【10日目】 晴れ
 【札所】平等寺(22番) 薬王寺(23番)
 【地域】阿南市(新野 → 鉦打) → 美波町(由岐 → 田井の浜 → 木岐 → 日和佐)
 【宿】 山茶花 → きよ美旅館


 朝7時半頃、22番の平等寺横の民宿山茶花を出て、すぐ横の平等寺を打ちました。ここは徳島県阿南市の新野(あらたの)というらしいです。

 朝、宿の泊まり客で平等寺を打ったのは私とジャンヌ親子の3人でした。他の人たちは前日に平等寺を打ち終わっていたので、次の札所に向かわれました。平等寺から彼女たち2人と歩き始めました。


●写真 7時26分 平等寺の山門



●写真 7時54分 平等寺の本堂



●写真 8時6分 平等寺を歩きはじめたところ



●写真 8時21分 遍路道の標示



●写真 8時21分 四国のみちの標示



●写真 8時22分 遍路道の標示



●写真 8時23分 カーブミラーと私



途中、月夜御水庵を通りました。


●写真 8時40分 月夜御水庵



●写真 9時7分 月夜御水庵のあとの遍路道



 そのあと、遠回りして弥谷(いやだに)観音にお参りしようと思い、ジャンヌにそのことを告げると「母親が足が痛いから、遠回りはしない」ということでしたので、私だけ弥谷観音に回りました。
 「この先の郵便局の前で落ち合いましょう」とジャンヌが言いました。

 弥谷観音はダムの周辺にありました。ダムを巡る道路から階段を50段ぐらい上がったところにありました。道の下にも祠のようなものがありました。
 弥谷観音の御本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)で、個人的な興味をそそりました。うちの檀家寺のご本尊と同じだったからです。でもどういう仏様なのか自分が知らないことに、そのとき気づきました。

 このすぐ近くに鉦打(かねうち)という地名があります。鉦打とは鐘を叩きながら念仏を唱えた者のことで、そういう人たちがいたのかも知れません。


●(参考)空也上人像



●鉦打付近

 

●写真 9時37分 弥谷観音(いやだに)への橋からボートを見る

川を堰きとめたダム湖です。このダムの下に集落があったのでしょうか。


●写真 9時41分 弥谷観音の標示



●写真 9時51分 弥谷観音の人のいない納経所

現在、納経は慈眼山真光寺(阿南市福井町土佐谷4)が行っていて、寺に出向くか観音堂での納経を依頼するようです。


●写真 9時53分 弥谷観音への階段



●写真 9時55分 弥谷観音の境内



●写真 9時56分 弥谷観音のお堂

ダムがつくられたときに観音堂を再興して、この地に移設したようです。


●写真 10時32分 弥谷観音を出て合流地点を探した道

待合わせの郵便局は、この1本右の細い道にあって分かりませんでした。


 弥谷観音を出ると、そのあとの道が山道コースと海沿いコースの二つに分かれますが、ジャンヌたちと同じ海沿いコースを行くことにして、郵便局のところで落ち合う手はずでした。ところが私の地図上の郵便局の場所がずれていて、郵便局を見つけることができず、行きすぎてしまいました。

 それに気づいて引き返す時に、畑で農作業していたおばさんに「フランス人の女性2人が通らなかったですか」と聞きましたが、「さあ分からないねー」ということでした。
 道を戻っていると、そのあと後ろから来られていた男性のお遍路さんと会って尋ねてみると、「郵便局はもっと後ろにある」と教えてもらい、急いで戻ると、その郵便局の横で待っていたジャンヌ親子に会いました。かなり彼女たちは待っていたようです。弥谷観音も思ったより時間がかかりました。10時半頃に落ち合う予定が、11時ぐらいになっていました。地図は彼女たちがもっている英語版の地図のほうが詳しいようです。

 詫びを入れて、それからまた3人で歩きはじめて、標高120mの由岐(ゆき)坂峠(ここは遍路道ではなくアスファルトでしたけれども)、そこを3人で歩きました。坂道の苦手な私には50~60mの坂でもきついです。

 その由岐坂峠を越えて下り道に入ると、やっと海に面した由岐(ゆき)漁港に出ました。そこは県道25号線沿いですが、由岐の町中には下らずに、そのまま町外れにある県道を南進します。あとでその日同宿した大石さんに聞いたところ、その日、由岐の町では何かお祭があっていたそうです。「見れば良かった」と思いましたが、でもそうすると今日も4時過ぎにしか着かなくなるので、結構きつかったと思います。

 歩き遍路は自由気ままにゆっくりと歩けるようですが、常に時間を気にしています。朝7時に宿を出て夕方5時に宿に着くのはかなりハードな行程で、10時間歩くことになります。3時か、4時には宿に入ります。そんなに早く着いて何をするかというと、洗濯やお風呂など結構することはあります。それに歩き疲れているためか、余った時間に休憩しているだけでもアッという間に時間は過ぎていきます。時間を持て余すということはありません。
 5時に着くとなると、すぐ洗濯し風呂に入って、6時から夕食です。息つく暇がありません。5時の夕食のところもあります。夕食を食べると疲れて何もする気が起こりません。そのあと同じ宿の人と話をして宿の手配をしたり、家族に連絡したりしていると、意外と時間は早く過ぎます。そして9時には寝ます。だから足の遅い私には、ゆっくり寄り道をする時間がなかなかありません。

 由岐の町を過ぎた踏切で、交通指導のお巡りさんに蛍光帯をもらいました。「トンネル内は危ないから、この蛍光帯をつけてください」とのことでした。どうもお遍路さん用に配られているようです。外国人女性二人連れのお遍路さんはお巡りさんにとっても珍しいのか、ジャンヌたちといっしょに記念写真を一枚撮られてしまいました。個人的な写真なのか、それとも警察業務の一環なのか、よく分かりませんでした。

 田井(たい)の浜駅で、ジャンヌ親子が休んでいるところで、私はこっそりJR牟岐(むぎ)線の線路脇にはいり小用を足しました。男はこういうとき便利です。でもこういうことができない女性は大変です。彼女たちは気づいているのか、いないのか、知らんふりです。


●写真 12時6分 田井の浜



●写真 12時8分 田井の浜



 それから20分ぐらい歩くと木岐(きき)という漁港にでました。そこの防波堤沿いの道に遍路休憩所がありましたので、そこで昼食をとりました。
 木岐(きき)というのは変わった地名です。さっきは由岐(ゆき)という漁港でした。近くにはJR牟岐(むぎ)線が通っています。この先に牟岐(むぎ)町があります。由岐(ゆき)、木岐(きき)、牟岐(むぎ)とつづく「き」とは何でしょうか。意味は分かりませんが、とにかくこのあたりは、「き」にゆかりのある場所らしいです。

 すぐ近くに住むおばあさんが出てきて、ポカリスエットを1本お接待してくれました。それをジャンヌたちと分けあって飲みました。
 おばあさんは80歳で、私が「九州から来ました」というと、「妹が福岡にいて、自分も長崎に住んでいた」ということでした。しばらく九州の話をしました。「昼食のゴミもここに置いていていいよ」と言ってもらい、水筒の水も入れさせてもらって非常にありがたいものでした。いくら四国にお接待の風習があるといっても、皆がみな優しくしてくれるわけではありません。ありがたくポカリスエットを頂戴しました。


●写真 13時13分 木岐の遍路休憩所



●写真 13時23分 木岐の漁港



●写真 13時29分 木岐の浜辺



●由岐~田井の浜~木岐



 その木岐の漁港を出て、今度は山座峠への遍路道を登りました。
 その山座峠を越えると一度アスファルトの道にでたあと、また細い下りの遍路道に入りました。


●写真 14時33分 山座峠を降りた日和佐湾の入江



●写真 14時35分 山座峠を降りた日和佐湾の入江



●写真 14時35分 山座峠を降りた日和佐湾の入江

正面に休憩所が見えます。そこで休憩しました。


 1時間ほど遍路道を歩いて、日和佐湾の入江に出ました。その入江の周囲を半分回ったところにまた遍路休憩所があって、小休止を取りました。そこにさっき追い抜いた歩き遍路の男性が通りかかって、「何が釣れるんでしょうか。見に行ってきます」と言いながら波止場の方へ歩いていかれました。
 私がタバコを取り出して少し離れたところで吸っていると、ジャンヌが「お遍路をきっかけにタバコをやめたら」と英語で言いました。「それができたら苦労はしない」と言おうとしましたが、英語で何と言っていいか分からず、ただ「ディフィカルト(難しい)」とだけ言いました。母親が「タバコは高いでしょう」とまた言いました。「イエス」だけ応えました。
 喫煙者はどこの国でも不利のようです。でも「ちゃんと外で携帯灰皿を持って、人と離れて、迷惑がかからないように吸っているのだから良いでしょう」と言おうとしましたが英語が分からず、笑ってごまかすしかありませんでした。

 日常の簡単なことは身振り手振りをまじえたカタコト英語でも通じるのですが、こういう微妙な問題になると、なかなかうまく伝えられません。フランスからわざわざ日本までお遍路に来た理由も、もう少し聞いてみたかったのですが、答えは分かっていて「日本の文化に触れたかった」という答えが返ってくるでしょう。それ以上のことをどうやって尋ねたら良いのか、やはり私のカタコト英語ではなかなか聞けませんでした。それにそういうことに労力を使う余裕がないのです。休憩に専念したいだけです。

 ジャンヌの生まれはパリではなく、ドイツとの国境に近い町のようで、大学生の時からパリで1人住まいをしているようです。母親も働いているようですが、このお遍路のために長期の休暇を取ったようでした。さらに11月の下旬には父親も日本にやって来て2人と合流するようです。そういう家族がいっしょになっての休暇の取り方が日本人離れしていて、どういう休みの取り方をすればそんなことができるのだろうと少し不思議でした。

 ジャンヌは英語は堪能でしたが、日本語はほんの少しだけしゃべれる程度で、ほとんどは英語で話さなければなりませんでした。でも母親の英語と比べるとかなり分かりやすい英語でした。たぶんこれは彼女の学力によるものなのでしょう。普通のフランス人は英語が苦手なようです。
 ジャンヌが不思議がっていたのは、毎日お寺を巡っている中で、「寺」の読み方が「てら」と読んだり、「じ」と読んだりするのはなぜなのかということでした。我々は慣れてしまってとくに不思議に感じませんが、表音文字のアルファベットの世界に生きる人たちにとっては同じ文字に二つの発音があるというのは不思議なことなのでしょう。「日本の漢字には音読みと訓読みがある」と言おうとしたのですが、「音読み」を何というか、「訓読み」を何というか、さらに「音読み」とは何なのか、「訓読み」とは何なのか、そういうことを考えていると面倒くさくなって、これも「ディフィカルト(むずかしい)」と笑ってごまかすしかありませんでした。
 でも後になって、「てらはジャパニーズハツオン、じはチャイニーズハツオン」といったら分かってくれました。ジャンヌはその後も何か聞こうとしましたが、やはり会話の困難さを感じたのでしょう、言うのを途中でやめて歩き出しました。私も聞き返しませんでした。

 その日3人で歩いているときに、木岐の町で道ですれ違ったおばあさんが、私たちに向かって「お気をつけて」と挨拶をされました。ジュリアンが「ホワット(なに)?」と尋ねたので、その挨拶の意味を教えました。するとジュリアンは「オキオツケテ、オキオツケテ」としばらく口の中で繰り返していました。彼女の中に「オキオツケテ」という語感に敏感に反応するものがあったのでしょう。
 そのおばあさんは「お気をつけて」と言いながら、立ち止まり、両手を前にそろえて、丁寧にお辞儀をされました。美しい所作でした。そういう仕草はふだん身につけていなければ、とっさにはできないものです。ジャンヌは聡明な女性です。「オキオツケテ、オキオツケテ」と繰り返しながら、そのおばあさんの所作を脳裏に焼き付けているようでした。

 私にもジャンヌたち親子にはいろいろ聞きたいことがあったのですが、歩くのに精一杯だったことと、そして何よりも私の英語力不足のため、多くは聞くことができませんでした。
 毎日毎日ヘトヘトになるまで歩いているなかで、言葉の通じない外国人とコアな話をすることは難しいものです。天気と、時間と、峠の標高と、足のマメのことばかり話してました。それはお遍路に共通した関心事です。他のことも忘れてしまったわけではないのですが、しだいに頭の奥に沈み込みます。でも深く沈み込んだものはいつもと違った仕方で頭の奥で発酵しているようです。それがどういう形で現れるかは分かりません。

 県道25号線を南に進み、途中にえびす洞というものがありましたが立ち寄る時間がありませんでした。内部が波濤で浸蝕洞となっている海に浮かぶ岩山があるそうです。「えびす」という名前の由来は分かりませんが、興味を引かれます。えびすさんとお遍路さんは地元の人にとっては同じようなものだと思います。


●写真 15時00分 えびす洞付近の海



●写真 15時02分 えびす洞を振り返る



●写真 15時03分 えびす洞付近の海

母親のナンシーが「光がきれい」と言いました。


●写真 15時10分 ホテル白い燈台

ホテルの白い灯台というホテルを見ました。


 国民の宿うみがめ荘というのもありました。このあたりはウミガメの産卵地だということです。
 美波町役場の前を通りました。薬王寺のある日和佐はこの美波町にあります。宿はその薬王寺の近くです。


●写真 15時25分 美波町役場



 日和佐の町に入ると、23番札所の薬王寺の大きな赤い塔が見えました。川を渡る赤い欄干のある橋で昨日宿で一緒だった韓国人のキムさんと会いました。キムさんは薬王寺から戻ってくるところでした。宿はこの近くのようです。


●写真 15時31分 日和佐の赤い橋から薬王寺を望む



●写真 15時31分 日和佐の赤い橋から日和佐城を望む



●写真 15時38分 薬王寺の山門



●写真 薬王寺を望む



 午後4時前、参道を通って薬王寺に着きました。薬王寺の大きな赤い塔は、瑜祇(ゆぎ)塔というそうです。長い階段を上って、その薬王寺の本堂にたどり着きました。

 薬王寺を打ったあと、ジャンヌたちと別れました。ジャンヌたちは韓国人のキムさんが紹介したフランス人のご主人が経営する民宿にいっしょに泊まるようです。


●写真 16時14分 きよ美旅館



 宿のきよ美旅館に着きました。薬王寺の参道沿いにありました。大石さんはすでに到着されていました。宿泊客は大石さんと私の2人でした。洗濯物はそこの女将さんが洗って干してくれました。

 風呂に入ると気持ちの良さに思わず「アアッ」と声が出ました。疲れ切った体をお風呂に沈めると本当に極楽のようです。小さいお風呂でしたが、これで十分です。体の節々が痛く、特に足の裏は熱を帯びているようです。私の場合、足の小指にかなり負担がかかっているようで、押すと痛みがあります。体の先端部分というのは小さい部位ですが、痛みはきついです。いつまたマメができてもおかしくない状態です。

 風呂を上がると、浴衣に下駄を履いて、近くを散歩しました。


●写真 17時19分 きよ美旅館の通りから薬王寺を望む



●写真 17時24分 薬王寺を望む



●写真 17時26分 きよ美旅館の裏を流れる北河内谷川



●日和佐



 大石さんと2人、畳部屋でビールを飲みながら夕食を取りました。明日は鯖(さば)大師の宿坊に泊まろうかと悩んでいたところ、大石さんもそこに泊まる予定だと言われました。大石さんは若い頃から登山をしていたそうで、とても健脚です。私にはきつい遍路道でも、大石さんには余裕があるようです。
 ここの23番の薬王寺から、室戸岬にある次の24番の最御崎寺(ほつみさきじ)まで約80キロの距離がありますが、その間には一つも札所(お寺)がありません。明日からは数日、黙々と歩くだけです。約10キロつづく無人の海岸道路もあります。お遍路の間では有名な所です。
 この札所のない区間をどう越えるか、ずっと考えていました。2日間で80キロを行くなど、私にはとてもできません。普通は3日で越えるようです。私は「3日で行くか、4日で行くか」、迷っていました。
 「とりあえず明日は鯖大師に泊まろうと思います。そのあとのことはまだ決めていません」と大石さんに言うと、「そんな泊まり方をする人を初めて見ましたよ」と大石さんは言いました。「でも昨日のジャンヌたちもそうでしたよ」というと、「外国人はそうですが、日本人では珍しいですよ」と言われました。
 そのことは私も薄々感じていて、多くの日本人は2~3日か10日前後の区切り打ちが多く、それも2回目、3回目の人が多いため、出発の前に日程を決めて宿を手配してから出発される人が多いようです。大石さんも約2週間のお遍路中の宿をすべて予約してから出発されているようです。
「大石さんは、自分で歩ける距離を分かられているんですね。私は、明日どれくらい歩けるか、前日の体調を見てみないと分かりませんから」と言うと、「あっそうか、初めての人はまだ分からないかも知れませんね」と言われました。
 その言葉から多くのことが分かってきました。たぶんそれは本当なのでしょう。歩き遍路にはそれだけベテランが多いのです。私のような初めての歩き遍路はかえって少ないのです。日本人は、自家用車か公的交通機関でお遍路をされている方が多いようです。
 ただそれは私が何冊か読んだ歩き遍路の案内書に書かれていることとは、だいぶ違います。多くの本には「飛び込みで宿に泊まろうとしても宿も困りますから、遅くとも当日の午前中までには予約をしましょう」と書かれてあります。それに従って、私は前日の夜には予約を入れてます。ほとんどの宿は前日でもオーケーでした。実際には当日の朝でも、いけるのではないでしょうか。ただ宿はバタバタするでしょうけど。

 室戸岬までの80キロを「3日で行くか、4日で行くか」、ちょっと悩みました。それに室戸岬あたりはゆっくりと歩きたいという思いもありました。室戸岬はいつの間にか私の目標になってました。最初はそこまでたどり着けるかどうか不安でしたが、焼山寺の遍路ころがしを越え、鶴林寺と太龍寺の二山つづきの遍路ころがしを越えて、やっと室戸岬へたどり着ける道が見えてきました。「室戸まで行けそうだ」、そういう希望がわいてきました。
 室戸岬は空海が修行をしたところです。他にも修行した場所はあるでしょうが、やはりメインは室戸岬です。「そこまでたどり着けるだろうか」という不安が、出発したときにはありました。室戸岬にある24番の最御崎寺の宿坊と、26番の金剛頂寺の宿坊には泊まりたいと思っていました。二つのお寺は近いですし、いろいろ見所があるようです。地元ではこの二つの寺は、東寺と西寺としてセットで呼ばれているようです。

 問題はそこまであと何日で行くかです。「室戸岬までの海岸を一人で歩いてみたい」、そういう思いもあります。私は空海が通ったであろう海を見てみたい、という思いが強くなっています。まだ見ぬ室戸岬への海岸が見に浮かびます。

 部屋に戻って4日で行こうと決めました。ただ「宿は2日後までの予約にしておこう、どうなるか先は分からないから」と思いました。
 明日は大石さんと同じ別格霊場の鯖(さば)大師の宿坊に予約を入れました。「夕食が5時からですから、5時までに来てください」ということでした。
 明後日の宿も取りました。鯖大師の20キロ先の民宿いくみに予約しました。この日から2日後までは宿の予約をすることにしました。心配なのは足の調子ですが、20キロなら行けそうです。足の裏が熱を持ちつつあるのが分かります。足の裏に湿布をしました。

 夜、妻にラインでメールしました。「おかあちゃんが恋しくなってきた」とメールを打つと、妻はあまり本気にしていなかったようで、再度同じことを打って送ると、にべもなく「わかったよ」の一言でした。なかなかお遍路の一人寝の寂しさが伝わらないようです。なかなか眠れません。

 足引きの 山鳥の尾の しだりおの ながながし夜を ひとりかもねん(柿本人麻呂)

「室戸へ」 お遍路記 11日目 鯖大師(別格霊場)

2020-09-30 05:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【11日目】 晴れ
 【札所】鯖大師(別格霊場)
 【地域】美波町(日和佐) → 牟岐町 → 海陽町(鯖瀬)
 【宿】 きよ美旅館 → 鯖大師へんろ会館


 昨夜は、なぜかよく眠れませんでした。
 午前7時ちょうど、今朝飯を食べ終わったところで、宿の女将さんと話しをしていました。
 女将さんの話しでは、この旅館は築後100年以上経っているそうで、女将さんが三代目の所有者だそうです。もともとは林業関係の山師さんが建てたらしいということです。いかにも昭和の雰囲気が残った木造で、密閉されたホテルの個室よりも私には居心地のいい旅館でした。
 ここには日和佐城というお城がありますが、それはコンクリート造りで、もともとお城はあったらしい、ということでした。しかし日和佐はその城下町というより、薬王寺の門前町として栄えた町のようで、いま泊まってるきよ美旅館の前の通りが薬王寺の参道で、「昔は皆がこの通りを通ってかなり賑わっていたけれども、薬王寺の前に南北のバイパスできてから、すっかり流れが変わってしまった」と言われてました。
 昔はこの地に県庁の支所があって、そこの職員がよく宴会を開いていたけれども、今はめっきり少なくなった、と言われてました。小学校も統合されて、昔は1学年140~150人がいたものが、今は1学年30人程度になっていて、山の奥から来ている生徒たちは、小学校からバスを出して送り迎えをしている、ということでした。
 昨日、ダムのそばの弥谷観音を出たあと、海へ向かう道を通らずに、右に折れて山道を南に行っていれば、この日和佐の町の山手の村を通ってきたはずです。この宿の横を流れる川は北河内谷川といいますが、その上流には北河内(きたがわうち)という地域があります。そこを通ってこの町に下りてきたはずです。
 この日和佐から牟岐町までは山道を通っていきます。海は意外と近くにあるのですが、海岸沿いの道はないようです。山がそのまま海に落ち込んでいる地形のようです。

 午前7時半に宿を出て、薬王寺横のコンビニで現金を7万円をおろしました。今から数日かかって室戸岬に向かい、そこの24番の最御崎寺を目指して歩きます。そこまで約80キロの道のりです。今日は20キロ先にある別格霊場の鯖大師まで行きます。そしてその鯖大師の宿坊に泊まります。
 今日は薬王寺を出ると、この美波(みなみ)町と次の牟岐(むぎ)町との町境に標高130mの寒葉坂の峠があります。そこを下ると小松大師があります。11キロ先です。

 そのあと牟岐(むぎ)の町に入って、そこに草鞋(わらじ)大師があります。そこから八坂八浜(やさかやはま)です。
 町を越えて次の海陽町に入るとすぐに鯖大師があります。その鯖大師の宿坊に泊まります。今から出発すれば、約20キロ先ですから、午後3時には着くと思います。


●写真 8時11分 日和佐トンネル手前の田園景色



 9時頃、700mぐらいの日和佐トンネルに入る直前の遍路休憩所で休んでだいぶ経ったところで、韓国人のキムさんが休憩所に入ってきました。キムさんは、これからしばらく休憩するようなので、私は「お先に」と言って出発しました。


●写真 8時52分 日和佐トンネル入り口



●写真 9時20分 山河内駅の標識



●写真 9時39分 寒葉峠にいたる国道



 午前10時頃、寒葉坂の峠を越えて牟岐(むぎ)町に入りました。今まで歩いてきた薬王寺のある日和佐は美波町でした。
 登り坂をやっと登り切り、寒葉峠で休んでいるところでキムさんに抜かれました。キムさんは「今日はゆっくり行く」と言っていましたが、ここでは休まずに行くようです。「昨日はハッスルしすぎて、体中が痛くて大変だった」と言っていました。キムさんは今日で3日目です。ジャンヌ親子はまだ後ろにいるようです。ここから約2.5キロで小松大師があります。そこに向かって歩いて行きます。


●写真 9時58分 寒葉峠の町境 牟岐町に入る



 午前11時30分、牟岐町に入って国道55号線から右に折れて遍路道に入りました。その遍路道が再度国道55号線と合流する地点に小松大師がありました。そこの小さな木陰で休憩しました。休憩しているところで、ジャンヌ親子が通りかかりました。私は、「もう20分ぐらいここで休憩していて、いま昼食もカロリーメイトですませた」というと、彼女たちは「もう少し先に遍路休憩所があるから、そこに行く」と言いました。その休憩所は私の地図には載っていません。やはり彼女たちの持っている英語版の地図が詳しいようです。私は「もうちょっと休んで行く」と言いました。
 ここの小松大師の小松というのは地名のようです。ここには集落があります。小松という集落にある弘法大師の祠という意味のようです。祠の横には公民館があって集落の集会場所になっていました。


●写真 11時10分 小松大師



●写真 12時4分 小松大師



 1時間近く休憩して、小松大師を出発するとすぐに売店があり、その横に遍路休憩所がありました。ジャンヌたちはそこで休憩していました。トイレもありました。女性にはトイレ情報は特に大切なようです。男が見過ごしがちな所です。
母親のナンシーは室戸岬まで何日で行くかを気にしていました。地図を見せながら、自分たちが泊まる宿を教えてくれました。彼女たちもやはり4日かけて室戸岬まで行くようです。「あなたは?」と聞かれたので、「私も4日かけていく」と答えました。「ホテルは」と言うので、昨日予約した明日の宿の民宿いくみまでを伝え、「あとはまだ決めていない」と言いました。私が「室戸岬は見たい所も多く、私はそこでゆっくりするつもり」と言うと、どうにか伝わったようでした。
 そこからまた3人いっしょに歩き始めました。


●写真 13時7分 牟岐町の旅館あずまの交差点



 牟岐(むぎ)警察署前で、女性のお巡りさんから蛍光の腕章をもらいました。昨日会ったお巡りさんもちょうど出て来て、ジャンヌたち二人に挨拶をされました。
 警察署を過ぎると、ジャンヌが「ドラッグストア」と指さしました。「湿布がなくなったので買いたい」ということを途中の道すがら話していました。ジャンヌはそれを覚えていて、目ざとく見つけてくれました。そこは道の奥の病院の薬局で、私は気づかずに通り過ぎるところでした。彼女は注意深く周りをよく見ています。
 そのあと牟岐の町中には入らずに、国道55号線沿いに八坂八浜(やさかやはま)を歩きました。山が海に迫って、山と浜が交互に現れます。


●写真 13時48分 内妻荘とトンネル



●写真 13時48分 そのトンネル前の海



●写真 14時4分 トンネルを抜けて



●写真 14時4分 鯖大師へ向かう国道55号線

この国道55号線は、徳島県徳島市から室戸市を経由して高知県高知市に至るまで続きます。山が海の近くまで切り立っています。



 徳島県海陽町に入りました。海陽町に入るとすぐ鯖瀬(さばせ)があります。そこにJR牟岐線の鯖瀬駅があります。鯖瀬駅の近くに鯖大師がありました。
 午後2時20分、鯖大師の入り口の橋を通過しました。


●写真 14時18分 鯖大師前の橋



●写真 鯖大師の入り口



●写真 14時27分 鯖大師の本堂



●写真 14時27分 鯖大師の太師堂



●写真 鯖大師の塔



 2時半ごろ鯖大師に着きました。少し遅れて大石さんも到着されました。といっても大石さんはこの鯖大師の7~8キロ先の海南町まで行かれて、そこからまた電車でここまで戻ってこられたそうです。大石さんの足は速く、常に私の先を歩かれるので、歩きながらいっしょになることはありません。明日は今日歩いた海南町までは電車で行って、そこからまた歩くそうです。「この鯖大師にぜひ泊まりたかった」と言われました。
 お参りを済ませた後、鯖大師の宿坊に入りました。事務所の女性に二階の部屋に案内された後、3時からお風呂でした。ジェットバブル付きのいいお風呂でした。それと同時に洗濯と乾燥を済ませました。
 4時から、住職さんが「護摩(ごま)焚き」をするということで、洗濯して乾燥機で乾いたばかりの白衣に着替え、数珠を持って下に行きました。地下道が通じており、仏様の並ぶ立派で幻想的な通路をとおって護摩(ごま)堂に入りました。ここも新しい立派なお堂で、ここで護摩焚きがありました。
 大石さんと2人で護摩焚きの法要を受けました。その際に大石さんは亡くなられた奥様の法要、それから私は半年前に亡くなった親父の法要をしてもらいました。御布施として3000円ほど包みました。


●写真 鯖大師の護摩堂へ向かう地下通路



●写真 16時26分 鯖大師の護摩焚き



●写真 16時27分 鯖大師の護摩焚き



 それが終わって、夜5時から夕食です。早い夕食です。夕食には遅れて到着された40才前後の女性が一人加わりました。「護摩の法要に間に合わなかったのが残念だ」と言っていました。

 夜は早く床につきましたが、眠れませんでした。昨日、今日となかなか眠れません。鶴林寺と太龍寺の二山越えの遍路ころがしを終えてから、どうも眠りが変です。ホッとしたのでしょうか。妙にいろいろな世間の雑事が浮かんで来ます。そのことを妻にメールすると、「そういう時期じゃないの。せっかくだから気が済むまで悩んだら」と突き放されました。何か頭の芯が冴えています。疲れているのに眠れません。
 電気をつけたままウトウトしていると、襖一枚隔てて隣の部屋で寝ている大石さんから「今何してますか」という声が襖越しに聞こえました。「ちょっとウトウトしてました」と答えると、「じゃあ、電気を消してもらえませんか」と大石さん。この部屋は襖の上がガラス張りで部屋の明かりが隣の部屋に漏れているのでした。「アッすみません。部屋の明かりが漏れてますね。すぐ消しますから」というと、「あなたも眠れないんですか」と大石さんは言われました。

 浅い眠りの中で、すこしウトウトしたあと夜中にトイレに立つと、そこでまた大石さんとばったり会って、やはり「眠れないんですよ」と言われていました。「私もですよ」と答えました。
 大石さんは奥さんを亡くされてから、どういう生活をされているのだろうか、とふと気になりました。男が2人が、夜中眠れずに宿坊のトイレでかち会う姿は、なぜか身に応えます。お遍路の眠れない夜は辛いものです。眠りに変調をきたしています。これも私の持病です。歩き疲れてヘトヘトなのに眠れません。頭の芯が冴えて眠くなりません。体力が心配です。妙に家が恋しくなります。

 朝の4時に眠るのを諦めて、また妻にメールを打ち始めました。暇つぶしでやっているのか、本気でやっているか分かりませんでしたが、家が恋しい気持ちがなかなか伝わりませんでした。妻からは「気が済むまで歩いたら」というメールが7時すぎに届きました。妻は、パートの仕事と同居する私の母の世話で、それどころではないようです。娘たちはすでに家を出て、今は三人家族です。

「室戸へ」 お遍路記 12日目 札所なし(鯖瀬 → 生見)

2020-09-30 04:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【12日目】 雨のち曇り
 【札所】なし
 【地域】徳島県海陽町〔鯖瀬(さばせ) → 海南町 → 海部 → 宍喰(ししくい)〕 → 
     高知県東洋町〔甲浦(かんのうら) → 生見〕
 【宿】 鯖大師へんろ会館 → 民宿いくみ


 朝6時からお勤めがあって、3人で参加しました。
 7時から朝食です。大石さんはすでに出発されて、昨日行かれた駅まで電車で行かれたようです。


●写真 6時14分 鯖大師の朝のお勤め



 住職さんによると、護摩(ごま)とはサンスクリット語(インドの古代語)の「フォーマー」のことだそうです。「炎」のことです。この炎で不用な煩悩を焼き切るのだそうです。「フォーマー」が「ゴマ」になり「護摩」になったようです。
 般若心経の意味も教えてもらいました。「いくらお金を貯めてもあの世までは持っていけない。でも世をはかなむのではなくて、与えられた時を精一杯使わせていただきましょう」ということでした。

 朝食の前に住職さんと40前後の女性と私の3人で、般若心経と食前の言葉を唱えました。その途中で40歳前後の女性は、何かを思い出されたらしく突然大粒の涙をボロボロとこぼしだしました。住職さんが食堂を出られたあとは女性と2人になりました。その女性は「すみません、いろんな感情が一気に込み上げてきました」と言って、そのあとは元気に朝食を食べはじめました。そのことには触れずに2人でしばらく話をしました。楽しい朝食でした。その女性も明日まで3日間の区切り打ちをしているそうです。

 午前8時、女性も出発して、私が一番後になったようです。外は雨です。カッパを着ました。これから約20キロ歩きます。途中でコンビニにも寄ります。カロリーメイトはありますが、靴下が破れたためコンビニで買わなければなりません。5本指のまだ新しい靴下なのにどうして破けたんでしょうか。立て続けに3枚破れました。私は足の形が標準型とは違うらしく、靴選びにはかなり苦労します。メーカーによって合ったり合わなかったりして、なかなか合うのがありません。今のところ大丈夫ですが、靴下がすぐ破れたのが気になります。足に負担がかかっているのかも知れません。

 宿を出たのが8時、それから阿波海南駅に向かう途中の山を越える坂道で、ひどい雨にあいました。午前中はひどい雨でした。


●写真 9時16分 雨の遍路休憩所から国道55号線を望む



 9時過ぎ、この遍路休憩所で休憩がてら妻とラインしているときに、近所の人がまた亡くなられたという知らせを受けました。70代の知り合いの男性です。今日がお通夜です。妻に参列するよう頼みました。

 それから途中のコンビニに立ち寄って、靴下を買い、カロリーメイトも買い、たばこを買いました。まだ雨は降り続いています。


●写真 10時11分 靴下を買ったコンビニ



 妻から、近所の人が亡くなられたという知らせを近所の家々に連絡し、今日のお通夜に行くという連絡が入りました。今年、私の家は近隣5~6軒のまとめ役になっているのです。これは輪番で回ってくるものです。


●写真 10時41分 海部(かいふ)駅前近くの様子



●写真 10時55分 海部駅を望む



 海部駅近くの旅館の前で、自動販売機でジュースを買っていると、中から旅館のご主人が出てこられて、「お茶でもいっぱいどうですか」とお接待されました。私はカッパも着ていましたし、もう少しこのあたりをウロウロしたかったので「ありがとうございます。でももう出発しますので」と丁重にお断りして、町の周辺を散策しました。


●写真 10時41分 海部駅前の遍路休憩所で野宿するお遍路さん(右隅)



 遍路休憩所に入るとそこに寝ている中年男性のお遍路さんがいました。昨夜からの雨で行き場がなくなったのでしょう。熟睡されてはいないようで、時々目を開けられます。かなり疲れた表情でした。歩くだけでも大変なのに、雨に降られると大変さは倍増します。まして野宿している人にとっては雨は大敵です。昔のお遍路さんは農家の小屋を借りたり、村はずれのお堂の軒下を借りたりして雨をしのいだと聞きますが、今でも野宿のお遍路さんはそれと同じです。
 かなり体力を消耗するはずです。宿がないとなると体力は倍以上消耗するはずです。体は大丈夫なのでしょうか。


●写真 11時16分 那佐湾(北)

(南)



●那佐湾



 山を下ると那佐湾に出てました。川のように細長い入り江がありました。しばらく歩き、船着場の桟橋の横で、道脇の民家の小屋の軒下を借りて立ったまま休憩します。無性に人が恋しくなります。人とつながっている感覚が欲しくなります。


●写真 11時30分 廃業したホテル那佐



●写真 11時52分 雨宿りした名もなき太子堂



 11時50分頃、国道55号線沿いに名もない小さな太子堂があったので、その軒下で少し雨宿りをしました。一度荷物を置いて腰を下ろすと、なかなか立ち上がれません。靴を脱ぐと内側まで濡れていました。靴下もぐっしょりと濡れています。さっきコンビニで新しい靴下を買って良かったです。お遍路には新品の靴下を持ってきましたが、なぜか次々に破れて予備の靴下がなくなっていました。
 濡れた靴下を脱いで、裸足になって回りの土を踏みます。土を踏むと生き返るようです。国道から私の様子は丸見えですが、それを気にする余裕もありません。疲れると人目を気にする余裕はなくなるものです。
 逆に言うと、普段我々が人目を気にするのは、まだ余裕があるからだと思います。その余裕があるために、今度は人目を気にしすぎて、精神的に追い詰められ、死んでいったりするのは何かが逆転してくるからです。
 今はただ雨カッパを脱ぎ、汗で濡れた背中のタオルも交換するのが先決です。遍路をやっていると、考えることは「人生とは」とか、「生きるとは」とか、そんな抽象的なことが浮かんでくるのかと思っていましたが、浮かんでくるのはもっと具体的なことばかりです。
 天気はどうか、雨は降るか、いつまで降るか、昼飯はどこで食うか、何キロ歩いたか、足のマメは大丈夫か、道は間違ってはいないか、次の札所まで何キロか、宿には何時に着くか、明日の宿をどこにするか、どんな宿か、宿代はいくらか、洗濯はできるか、コンビニはどこか、足りないものはないか、今日眠れるか、体調はいいか、、、、、いろんなことが浮かんで来ます。どれも目の前の具体的なことばかりです。「人生とは」「生きるとは」、そんなことは二の次です。これは考えることではないようです。何も感じなければそれで終わりです。

 もう12時です。その小さな太師堂で昼飯にカロリーメイトを食べ、雨が上がるのを待ちました。靴の水をタオルで吸い取らせます。そのタオルは今日洗濯したら、明日は体をふくタオルになります。ここではタオルと雑巾を兼ねています。汚れれば雑巾、洗えばタオルです。でもそれは同じものです。雨が上がるのを待ちながら、約1時間休息を取り、コンビニで買ったばかりの新しい靴下をはきました。

 1時10分頃、雨も上がったようなので、脱いだカッパを折りたたんでザッグにつめ、その太子堂を出発しました。
 手持ちの地図にも載っていない名もない太子堂で、ただ太子堂とだけ書いてありました。それでも雨をしのげることが、こんなにありがたいとは思いませんでした。
 「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の歌を思い出します。太師堂ですから、弘法大師が祭られているのは分かりますが、そうでなくても、ありがたいものはありがたいのです。スッカラカンの人間は我が身一つの心細さに、多くのものに感謝できるようです。頭ではなく、体で感謝しています。あとで調べると那佐大師庵と言うそうです。


●写真 12時13分 太師堂での靴を脱いだ足



●写真 13時7分 太子堂前の国道 左に雨宿りした大師堂の屋根が見える



歩き始めると、予報どおり雨は上がって曇りになりました。


●写真 13時15分 無人有料販売の遍路休憩所



●写真 13時15分 無人有料販売の遍路休憩所

飲み物は有料でも疲れたお遍路にはありがたいものです。まず無料の屋根がありますから。


●写真 13時15分 無人有料販売の遍路休憩所



●写真 13時30分 宍喰に向かう国道



 午後1時半、宍喰(ししくい)駅まであと3キロと表示がありました。宿まであと9キロというところです。いま国道55号線の左側の歩道を歩いているところです。右側には阿佐海岸鉄道の路線が高架になって続いています。JRとしては前の海部駅で終わっていて、その先は阿佐海岸鉄道という名称になります。第三セクターなのでしょう。
 ちょうど右には2軒ほどドライブインがあり、ラーメン・餃子と書かれている店が1軒ありました。そして自動販売機もあります。あと100mほどで国道55号線が阿佐海岸鉄道の線路と交差するところです。国道55号線が、線路の左側から右側に抜ける地点です。一人で歩くと、人と話さなくて言い分、景色がよく見えます。


●写真 13時47分 宍喰に向かう国道と海



●写真 13時56分 宍喰の町



 午後1時40分、いま国道55号線がさっきとは逆に、西の方から東の方の海側に向かって、阿佐海岸鉄道を抜けたところです。阿佐海岸鉄道の下を国道が潜り抜けました。
 もうすぐ宍喰(ししくい)の町です。それにしてもシシクイとは変な名前です。イノシシの肉でも食うのでしょうか。あとで調べると、シシとは稲のことかもしれないようです。このシシクイの町は他所に先駆けて稲作が始まったのでしょう。それを見て、周りの住民は「あいつらコメの飯(シシ)を食っている」とでも言ったのでしょう。それはたぶん蔑みよりも、羨望だったのかもしれません。でもこれが本当かどうかは知りません。
 このあたりは本当に平野がありません。川が流れてその河口付近に平野ができれば、この付近では値千金の土地だったのではないでしようか。でもそれは小さな平野です。ここには穴喰川が流れています。

 今日はジャンヌ親子とも韓国人のキムさんとも会いません。ただ今日の宿の民宿いくみでは、またいっしょになると思います。彼らもそこに泊まると言ってました。


●写真 14時00分 古目大師が見えた



●写真 14時2分 古目大師のお堂



 午後2時15分、雨が上がって曇りです。いまちょっと薄日が差してきました。宍喰の町の入り口には、温泉施設のある道の駅がありました。その前を右に折れて国道55号線をはずれ、宍喰の町中を通り、そのはずれにある古目大師に向かいました。そこにお参りし、般若心経を唱えました。

 古目大師から国道55号線に戻ったところで、水床トンネルが見えてきました。このトンネルを抜ければ、高知県になります。12日目にして徳島県を抜け出して、やっと高知県に入ります。
 徳島は発心の道場、
 高知は修行の道場、
 愛媛は菩提の道場、
 香川は涅槃の道場、
 といわれます。

 私は何を発心したのでしょうか。よく分かりません。ただ目に浮かぶのはだんだん近づいてくる室戸岬の姿です。車で行けば誰でも行ける室戸岬が、今の私には何か別の意味を持ちはじめています。毎日毎日歩いていると、何か目標がなければ歩けないものだと感じます。焼山寺の遍路ころがしや、鶴林寺と太龍寺の二山越えの遍路ころがしの時は何も考える余裕もなく、ただただ必死でした。それを越えると比較的なだらかな道が続いています。このあとも海岸沿いの道をひたすら歩いて行くだけです。
 発心といっても、若いころの発心と違って、何を発心していいのかがよく分かりません。定年は迎えたけど、このあとどう生きていこうか。あと何年生きるかなど誰にも分かりませんが、仮にあと10年、20年、生きながらえることができるなら、どうやって生きながらえさせてもらえるだろうか。

 年齢を考えると、生きる時間の大半は過ぎました。別に死に急ぐ必要もないですが、今までと同じように生きたいとも思いません。今までの生き方に悔いなし、とは言えません。でも不思議と未練はありません。
 知恵があれば、もう少し上手な生き方もできたでしょうが、いかんせん私にはその知恵がありません。そのことは仕方のないことで、悔いとはちょっと違います。仮に知恵があって、もうちょっと上手な生き方ができたとして、果たしてそれで本当に自分が満足できたのだろうか。悔いがないと言えば、そう言えそうな気もします。不十分だったことは、悔いとは違った感情です。もし自分のやってきたことが間違いだったら、不十分だったことはかえって良かったかもしれません。まだ多くのことが、あやふやなのです。
 人生の大義を求めるなど恐れ多くてできませんが、「一寸の虫にも五分の魂」です。そんなものは無ければ無いで済むのでしょうが、欲しがる人がいれば、与える人もいるかもしれません。それは商売と同じです。でも骨董品と同じで、貴重なモノほど偽物が多いのです。

 最初の日に書いたように「次の仕事をどうしようかと思う気持ちもありながら」、とりあえず出てきた四国お遍路です。下世話なことを言えば、若いころ、私の頭のなかには還暦すぎて働くという発想がまったくありませんでした。当時は55才定年のところもありました。でも社会の構造がそれを許さなくなりました。でも私に残された時間はそう多くはないことも感じています。私が働いている間に、世の中は大きく変わりました。私はそういう世のなかの動きと逆の方向に行こうとしているのではないかという不安もあります。

 生まれてこの方、こんな長旅をしたことはありません。大昔の新婚旅行の1週間を超えました。2週間も、3週間も仕事の休みを取るなど、現役の時には考えられないことです。
 このお遍路の旅も、それまで考えてきたことではありません。定年を迎え、働くことに何か吹っ切れないものが残ったまま、思い立ったようにこの旅にやってきたのです。何が吹っ切れないのか、考えることはあまりにも茫漠としていて、とても手に負えません。今日、徳島県を去ろうとしているのに、何を発心したか、モヤモヤした状態が続いています。

 以前、坐禅の修行で未熟な者が急に坐禅に深入りすると、かえって精神を病むということを聞いたことがあります。このモヤモヤはそう簡単には解けそうにありません。このまま放っておいたほうがいいかも知れません。
 お遍路はけっこう苛酷で、必要なこと以外は考えないのです。癒やしを求める旅とは違います。そういえばあるお坊さんが書いた「考えない練習」みたいな本が新聞広告に載っていたような気がします。パスカルの考える葦以来、考えることが人間本来の姿のように思われてきましたが、東洋ではむしろ考えないことが尊重されてきたようなところがあります。でも考えないことは難しいのです。忙しいのはきついことですが、忙しいから楽だということもあります。みんな考えなくていいように忙しくしているところもあります。

 県境の水床トンネルを抜けて徳島県から高知県に入りました。やっと高知県まで来ました。トンネルを抜けるとすぐに出口付近の道脇で腰を下ろしました。さっきの太師堂で靴下は替えたものの、靴が濡れているため靴下に水が浸みてきます。足がふやけて、やはり足先の小指にマメができていました。さらに右足の親指のつけ根にも大きなマメができました。ちょっと予想してなかった場所です。かなり痛いマメでした。靴を脱いで足を乾かし、足をマッサージしていたら、そこにジャンヌ親子が後ろの水床トンネルから出て来ました。
 「ヤア」と片手を上げて、一言二言話したあと、彼女たちといっしょに甲浦(かんのうら)へ向かって歩き出しました。彼女たちは、さっき通った宍喰の道の駅で2時間ほど休憩していたそうです。
 足のマメが痛くて歩くのが大変でしたが、マメは痛くても歩けるものです。


●写真 14時27分 水床トンネルを抜けて高知県に出ました



●写真 14時41分 甲浦の町遠景



●写真 14時41分 甲浦の海近くの海



●写真 14時47分 甲浦の町に近づく



●宍喰~甲浦


宍喰と甲浦の間の山が、徳島県と高知県の県境です。水床トンネルがあります。


 高知県甲浦(かんのうら)は鉄道のある最後の町です。ここから先は鉄道がありません。めざす室戸岬は鉄道の駅がない岬なのです。
 甲浦には海の駅があり、そこで休憩しました。足のマメの痛みがひどくて、いつとはなくそのことをジャンヌたちに話していました。最初、マメのことを英語で何と言うのか分からずにかなり苦労しました。マメのことを「ブリスター」と言うそうです。英語なのかフランス語なのか分かりません。その海の駅での休憩中に、ジャンヌがザックの中からマメに貼るパッドのようなものを取りだして私にくれました。足のマメの上からこれを貼ったらいい、ということのようです。そして「一度貼ったら3~4日は剥がれないから、自分で剥がそうとしてはダメだ」と言いました。そのことは母親のナンシーも同じで、「毎日続けて歩く場合にはマメは潰したらダメだ」とジャンヌといっしょになって力説していました。
 しかし昨日同宿した大石さんは「マメができたら潰した方がいい」と言ってました。それがたぶん日本では一般的なマメの治療法だと思いますが、フランスでは違うようです。
 私は「ありがとう」といいながらもちょっと迷って「マメは寝る前にハリで潰すからいいよ」と言いました。彼女たちは「それはダメだ」と口をそろえて言うので、私も「マメはすぐに潰すのは良くないけれど、ある程度時間が経って落ち着いたあとに潰すのが1番いい」と言いました。すると彼女たちはそろって首をひねり、両方の手のひらを上にあげるポーズを取り、「しかたないなぁ」という表情をしました。明らかに自分たちが正しいと思っています。
 みんなそれぞれマメには一家言あるようです。日本人もフランス人もマメに苦しむのは同じようです。このマメ治療に対する発想の違いも文化の差なのでしょうか。

 水床トンネルからジャンヌ親子と3人で歩いて、甲浦を過ぎ、海を見ながら河内川に架かる橋を渡り、坂道を登って海岸沿いの峠を越えました。
 山を下りかかると生見海岸が見えてきました。サーフィンをしている人たちがいます。坂を下りると宿が見えてきました。宿の近くにセレモニーホールやすらぎという小さな葬儀場がありました。「こんなこじんまりとしたホールで葬式をしてもらうのもいいかも知れない」と思いました。

 3時半ごろ民宿いくみに着きました。いくみというのはここの地名です。ここは高知県東洋町の生見です。宿の裏手の海岸は生見海岸です。民宿いくみにはサーフィン客の車が何台か止まっていました。サーフィンを終えて洗濯機を回している若い男性客もいます。サーフィンとお遍路というのは変な取り合わせですが、それが当たり前のように同居しています。ミスマッチはミスマッチなのですが、うまく棲み分けているという感じです。あとで聞くと、宿のご主人はサーフィンをされている方で、もともとはサーファー向けの宿のようです。


●写真 15時26分 生見海岸



●写真 小さなセレモニーホール



●写真 民宿いくみの通り(南)

(北)


 宿に着くと、まず濡れた靴に水取り用の新聞紙を入れました。
 宿にはすでに韓国のキムさんもいました。途中で宍喰の道の駅の温泉でお風呂に入ってきたと言っていました。それにしては早いです。
 いつものようにまず風呂に入りました。風呂は男女別の二つの湯船がありました。小さな民宿ですが、男女別の風呂があるのは珍しいです。今までほとんどの宿は男女共用の風呂でした。
 それと同時に洗濯機を回します。洗濯機が1台しかなかったので、私が先にジャンヌに「メイ・アイ・ウォッシュ」(洗濯していいか)と聞くと、「オーケー、ただ終わったら声をかけて」と言いました。ちょっと申しわけなかったけれども、私が先に洗濯をしました。ただ乾燥機がないのが気になりました。
 それから別棟の食堂に行って缶ビールを買い、そのまま外のベンチに腰をかけて飲みました。そこが喫煙場所でもあったからです。

 ちょうどそこに母親のナンシーが洗濯しにやってきましたが、洗濯機が使用中だったので、それが終わるのを待ちながらしばらくベンチに腰をかけて話をしました。
 「ジャンヌは優秀な娘さんですね」と私が言うと、「イエス」とうなずいたあと「オー、ノーノー」と謙遜されました。こういう反応は万国共通なんだと思いました。彼女たちと接していると、西洋人は個人主義で自己主張が強いという日本で流布しているイメージがピンときません。意外と遠慮がちだし、さらに相手の気持ちを読むのがうまくて、かなり気を遣ってくれます。
 「来年1月から自分の法律事務所をかまえるのですか」と私が聞くと、「いずれそうしたいけど」と言いながら、「最初は法律事務所で働く予定です」と言われました。でも英語が半分ぐらいしか分からず、あとの半分は私の想像で理解しました。母親のナンシーの英語は娘のジャンヌに比べるとかなりフランス語が混じっているようで、やはりうまく聞き取れません。それに私の英語力もデタラメなので、二人で会話するのはかなり時間がかかります。
 ジャンヌはフランス東部のドイツに近い地方都市で生まれ、自宅ではむかし日本からの交換留学生をしばらく迎えていたようです。それから16歳の時に台湾で1年間勉強し、それで彼女は東洋文化に興味を持ったようです。しかし大学で勉強したのは法律のようです。そして弁護士に来年からなるわけです。うらやましいぐらい優秀な女性です。

 夕食は離れの食堂で、ジャンヌ親子、キムさん、それと私の4人でした。「この宿は歩き遍路客半分、サーフィン客半分です」と宿のご主人が言ってましたが、今日は平日ということもありサーフィン客は日帰りで帰られたようです。
 キムさんは外科医なので、マメの治療法を聞いてみました。すると「分からない」ということでした。難しい手術をするお医者さんなのに、なぜ簡単なマメのことが分からないのかと、冗談交じりで聞いてみると、マメの治療で自分の勤める総合病院に来る人はいなかったから、治療したことがないということでした。たかがマメ、されどマメ。マメの治療法はいまだ確立されていないことをそのとき悟りました。

 部屋に戻ると、妻にメールしました。ここはちょっと電波状況が悪いようですが、ラインのメールは通じました。いると腹が立つけど、いないともっと腹が立つ、夫婦とはそんなものだ、と義母(妻の母)がいつか言ってました。暇つぶしにでも話し相手がいるということはありがたいことです。

 ジャンヌたちから明日と明後日の宿を聞いていましたので、私もそこに宿を取ることにしました。
 明日は民宿徳増、明後日は24番札所の最御崎寺(ほつみさきじ)の宿坊に宿泊の予約を入れました。さらにその次の日の予約まで入れました。26番札所の金剛頂寺(こんごうちょうじ)の宿坊です。すべて予約オーケーでした。これで明日から3日間の宿は確保したことになります。24番の最御崎寺と26番の金剛頂寺は約10キロの距離しかなく近いのですが、私は室戸岬周辺をゆっくり歩いてみたいと思いました。最初どっちに泊まろうかと考えていましたが、結局両方に泊まることにしました。

 右足の親指の付け根にも大きなマメができています。やはり今日足が雨に濡れて、足がふやけたのが原因だと思います。ジャンヌたちの言うこともちょっと考えましたが、慣れた方法がいいと思って、寝る前にハリでマメを潰し中の水を出して寝ました。夜中の2時過ぎには目が覚めたので、もう1度ハリで水を出して、そして5時過ぎにある程度固まったところでテーピングをしました。朝の足裏の感触はまずまずで、どうにか歩けるかな、という感じになりました。ジャンヌからもらったマメ用パッドはザックの一番奥にしまい込みました。
 夜がなかなか眠れません。

考える葦のパスカルは、考え続けた末にこう言っています。
「この虚無の空間の永遠の沈黙は、私を戦慄させる」
でも空海が見たものは、どうもそれとは違うようです。
明日は、コンビニもない、人家もない、自動販売機もない、そんな何もない道を歩きます。

「室戸へ」 お遍路記 13日目 札所なし(生見 → 佐喜浜)

2020-09-30 03:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【13日目】 晴れ
 【札所】なし
 【地域】高知県東洋町(生見 → 野根) → ゴロゴロ海岸 → 室戸市佐喜浜町
 【宿】 民宿いくみ → 民宿徳増


 朝2時過ぎから目が覚めて、それからうつらうつらとしていました。昨日もそうでしたが、なかなか眠れません。することもなく妻にメールを打ったりしていました。
 ここには乾燥機がなかったので、部屋に干した洗濯物が乾かず、朝の5時頃から水気をおびたズボンを外で30分ぐらいグルグル振り回して乾かしました。それでどうにか乾きました。
 午前6時、散歩に行きペットボトルを買いました。昨日高知県に入りましたが、本格的に高知県を歩くのは今日が初日です。横はサーフィンができる生見海岸です。今日はゴロゴロ海岸を通り、民宿徳増まで約20キロ歩きます。

 7時40分に民宿いくみを出発しました。キムさんが先に歩いているのが見えました。ジャンヌたちはまだ宿にいるようです。


●写真 7時47分 東洋町役場前

生見は高知県東洋町です。その東洋町の役場がありました。


●写真 7時55分 生見の村はずれの通り



 20分ほど歩くと、隣の野根の町の入り口に来ました。


●写真 8時17分 野根の町中の通り

国道を逸れて野根の町中の道を歩きました。


●写真 8時19分 野根の町中の神社



●写真 8時21分 野根の町中の神社

神社のあるところ、それを祭る人たちがいます。


●写真 8時23分 野根の東洋大師の門

その神社のすぐ先に東洋大師がありました。ここは正式には明徳寺というそうです。もとは野根大師と言っていましたが、野根と甲浦が合併して東洋町になったときに、東洋大師に名前が変わったようです。


●写真 8時25分 野根の東洋大師の本堂

ここで般若心経を唱え、お参りをしました。


●写真 8時25分 野根の東洋大師の通夜堂(善根宿、無料宿泊所)

東洋大師の境内に通夜堂がありました。


●写真 8時30分 野根の東洋大師の境内



●写真 8時25分 野根の東洋大師の通夜堂の内部



●写真 8時25分 野根の東洋大師の通夜堂の内部



●写真 8時25分 野根の東洋大師の通夜堂の内部



 通夜堂というのは善意で設置されたお遍路のための無料宿泊所で、善根宿ともいいます。野宿で歩かれる人にとっては屋根があるだけでもありがたいことです。風呂などはもちろんありません。ここはかなり立派な通夜堂ですが、私にはこういう通夜堂は体力的に無理なようです。泊まるにしても1泊で、連泊するのは甘えすぎのようです。連泊すると、2泊が3泊になり、過去には常宿とする人もいたようで、そうなると閉鎖せざるをえなくなります。ただこの問題は貧困の問題と結びついていて、根深い問題です。


●写真 8時34分 野根の通り



●写真 8時44分 野根の通り

野根の集落には空き家も目立ちました。まだ使えそうな空き家が多く、最近空き家が増えていることが分かります。


●写真 8時49分 野根のはずれの田んぼ風景

地図で見ると、野根の集落の奥には山と山に挟まれた平野がかなり奥まで続いています。


●写真 8時54分 野根川

野根の町は、野根川によってできた平野にありました。


●写真 8時58分 野根橋

この野根橋を渡ると急に人家が少なくなりました。


●写真 野根の平野

野根の平野はそんなに広くないですが、この海岸線沿いでは広いほうです。


●写真 野根~奈半利間の県道493号線

野根から土佐に行くには、室戸岬を通らず、山を越えて奈半利(なはり)町に行くのが一般的だったようです。国道55号線ができるまでは、野根から先は、やはり交通の難所だったようです。奈半利町から県道493号線を下って、海に出たところが野根の平野。


●写真 9時6分 野根の町を振り返る



 9時ごろ、野根の町を過ぎました。野根橋を渡ったところです。ここから先は本格的に無人地帯になります。この後は約10キロ無人地帯が続くようです。


●写真 9時9分 野根のはずれの最後の自動販売機



「ここが最後の自動販売機です」という表示を初めて見ました。ここからは自動販売機はないようです。当然売店もありません。人の住まない道が続きます。話には聞いていましたが、ちょっと身構えてしまいます。


●写真 9時19分 野根のはずれの伏越ノ鼻で見た猿

猿が道に下りてきました。人里離れた感じがします。人はいないけど猿がいます。いや人がいないから猿がいます。


●写真 9時19分 野根のはずれの伏越ノ鼻の標示



●写真 9時20分 野根のはずれの伏越ノ鼻のバス停

この先には電車は通っていません。室戸岬まではバスが1日に数本あるだけです。


●写真 9時25分 野根のはずれの伏越ノ鼻で見た海



●写真 9時29分 野根の先の海岸



●写真 9時37分 野根の先の海岸



●写真 9時37分 野根の先の海岸

山がそのまま海に落ち込んでいます。ここに鉄道が走っていない理由が分かりました。海岸線にはこれ以上の幅がありません。国道を通すだけでも大変でだったでしょう。道がなかったころ、ここをどうやって室戸岬まで行ったのでしょうか。国道がなければ、この海岸線を伝って室戸岬まで行くのは大変です。


●写真 9時38分 野根の先の海岸

国道下の海岸は石が多く歩くには適していません。


●写真 9時38分 野根の先の国道と遍路休憩所



●写真 9時40分 野根の先の遍路休憩所から見た海

このあとは人家どころか、日差しをよけるものさえありませんでした。


●写真 9時42分 野根の先のゴロゴロ海岸



●写真 9時51分 野根の先のゴロゴロ海岸の国道



●写真 9時54分 野根の先のゴロゴロ海岸(前方)



●写真 9時54分 野根の先のゴロゴロ海岸(後方)

ゴロゴロと、「永遠の沈黙」ならぬ「永遠のざわめき」が聞こえます。


 午前9時45分、今ゴロゴロ海岸です。確かにゴロゴロという音が聞こえるようです。国道55号線の真下には丸い石がゴロゴロと転がっています。石のゴロゴロというかち合う音は、大きな波が打ち寄せる時にも聞こえますが、どうも波の引き際によく聞こえるようです。


●写真 10時2分 無住地帯の遍路用トイレ

これがないと女性のお遍路さんは困ると思います。男はどこででも用を足せますが。


●写真 10時9分 工事中の国道

道路工事でも、人がいるとホッとします。ほかには何もありません。


●写真 10時10分 海岸



●写真 10時37分 国道から見た海岸



●写真 10時45分 法海上人堂



●写真 10時49分 法海上人堂の本堂



●写真 11時2分 法海上人堂の本堂



●写真 11時2分 法海上人堂を流れる水



 法海上人堂で休憩しました。ここの山の岩には水が流れています。この水で救われる人もいるでしょう。
 休んでいると、ジャンヌ親子があとからやって来ましたが、他愛もない話を2~3分したあと、彼女たちは休まずに先に行きました。祠にお参りし、般若心経を唱えました。


● 法海上人堂




●写真 11時28分 海岸



●写真 11時45分 海岸

こんな岩場を乗り越えて、海岸を何十キロも歩くのは大変です。室戸岬に行くには、時には海に迫る山に分け入って、その上を歩くしかないときもあったでしょう。


●写真 11時50分 海岸



 そのあとも延々と太平洋沿いの道を、左手に海を、右手に山を見ながら1人歩きました。
 この国道55号線は明治以降にできた道で、それ以前はこのような道はなかったようです。道をつくることさえ難しい地形です。海のぎりぎりまで山が迫っていて、とても道をつくれるような余裕がありません。
 室戸岬に行くとすれば海岸を歩いていくしかないようですが、その海岸には岩や石が多くてとても歩けません。私も海岸に降りて行こうとしましたが、足も痛いしマメも痛いので、こんな大きな岩や小さな岩を乗り越えて、ゴツゴツした場所を歩く気になれませんでした。たまに砂浜があってもまたすぐ岩場があったりで、そんな岩の海岸を歩いて行くとよけい足に負担がかかって、そのうち歩けなくなると思い、海岸を歩くことは諦めました。
 昔の人はこんな海岸をどうやって歩いたのでしょうか。歩くのはとても難しい場所だと思います。ところによっては巨大な岩をよじ登らないと先に行けないところもあって、ここをどうやって歩いて行ったのかが、とても不思議でした。ここは人の手が加わらないと、並の人間では歩けないところです。

 法海上人堂から1キロで室戸市に入りました。途中ジャンヌたちが道脇で休憩していたところを、「この先の仏海庵で休憩する」と言って先に行きました。競争する気はないのですが、ペースが同じだと自然と抜きつ抜かれつになります。


●写真 12時6分 入木川を渡ります

川のあるところ平野があります。この小さな平野に仏海庵があります。


 人家が見えたところでその集落に入り、12時10分にやっと集落の中の仏海庵に到着しました。


●写真 12時42分 仏海庵

昔は住職さんが居られたようですが、今は無住のお寺で、カギがかかってました。


 仏海庵で少し遅れてきたジャンヌ親子といっしょになりました。ここには民家があります。無人地帯は過ぎたようです。仏海庵に着くとジャンヌだけがそのまま通り過ぎ、しばらくするとペットボトルを3本手に持って戻ってきました。そのうち1本を私にくれました。どこに自動販売機があるのか不思議でした。彼女たちの地図にはそんなことまで載っているのでしょうか。彼女はよく調べているようです。
 そこでいつものように靴を脱いで、裸足で土を踏みました。昨日マメができた足にはテーピングをしているので、それほどひどくはなりませんでしたが、やはり足は痛いです。
 そこでカロリーメイトの昼食を取り、それから私は仏海庵にお参りをして般若心経を唱えました。
 私が電動の足ツボマッサージャーで足裏の痛いところをマッサージをしていると、母親のナンシーも足を痛がっているようだったので、「これで痛いところを押していると少しは楽になりますよ」と言って貸しました。でも伝わったかどうかは分かりません。本当はツボ押しということを言いたかったのですが、伝えることができませんでした。彼女はしばらくそれを使っていましたが、ちょっと首をかしげながら「アリガトウ」と言って返しに来ました。うまく使えなかったようでした。

 仏海庵の横に小さな小屋のようなトイレがあって、彼女たちはそれが分からないようでしたので、余計なことかとも思いましたがそのことを教えると、彼女は「アリガトウ」と言ってトイレに行きました。女性お遍路は男性以上に大変だと思います。外国から言葉も分からない日本にやって来ているのですから、なおのこと大変だと思います。でも彼女はよく調べていて、動きにソツがありません。日本人の私よりよほど調べています。
 彼女は東京のような都会はあまり興味がないと言っていましたが、日本の観光の中でなぜ四国のお遍路を選んだのかは、よく分かりません。私が「フランスでは四国のお遍路のことが有名なのか」と聞くと、「そんなことはない」と答えました。ではなぜお遍路に来たのか。
 しかしよく考えてみると、私だってそう聞かれると何と答えて良いか分からないのです。前々から興味があったわけではないし、父が亡くなったのをきっかけにして、急に思い立ったとしか言いようがないのです。でも本当に「急に」なのか、そうでもないような気もします。しかしそれはうまく言えません。


●写真 12時42分 仏海庵の横のトイレ

右側に小さなトイレがありました。


●写真 12時43分 仏海庵の横の平野



 この仏海庵の横に出てみると、そこには奥に小さな平野が広がっていて、奥に集落がありました。ここは前の野根よりも小さな平野です。入木川がつくった平野です。奥の山を越える道があるかどうか分かりません。国道がない時代には、ここまでどうやって来たのでしょうか。
 仏海庵の仏海という人は実在の人物で、1700年代の中頃に、霊場巡礼の途中で、「淀ヶ磯浦の難所に来て入木に留った」とあります。淀ヶ磯というのはさっき通った法海上人堂あたりの磯をいうようです。やはりこのあたりは難所だったのでしょう。仏海はこの地に住みつき、近所住民の信仰を集めた、と「へんろみち保存協力会」編の「解説版」にあります。仏海の時代と空海の時代にはすでに1000年の隔たりがあります。空海はどうやって室戸岬まで行ったのでしょうか。
 空海が室戸岬で修行したことは確かなようで、彼はそのことを自らの本の中で書いています。実際に彼が修行した洞窟もあります。明日はそこに行きます。
 遍路とは辺路のことで、もともとは海と山の境界線を修行のために回ることだったようです。そういう修行者は空海以前から居たらしく、起源は分からないぐらい古いもののようです。空海はそういう日本古来の伝統にしたがって修行を始め、やがて唐におもむき密教を身につけて帰国し朝廷に認められるようになります。そういうお大師様への信仰とお遍路修行が結びついて、現在の四国八十八ヵ所巡りが形を整えていきます。
 彼の修行は人間離れしているように感じます。


●仏海庵のある小さな平野



 仏海庵で1時間ぐらい休息を取り、1時20分頃、出発しました。
 人家はまばらに見えますが、道は相変わらず海岸道路です。このあと室戸岬を通過しても、高知市の手前あたりまで、ずっとこういう海岸沿いの道が続いているはずです。


●写真 14時5分 佐喜浜の町が見えてきました



●写真 14時7分 佐喜浜川を渡る

ジャンヌたちはもう一つ海側の道を行きました。私は平野の様子を見たかったので、一つ山側の道を行きました。写真では小さくて見えませんが、橋の途中でジャンヌが金剛杖を振って合図しています。


●写真 14時7分 佐喜浜川を渡る

佐喜浜橋から山側(西)を写しました。


●写真 14時8分 佐喜浜の平野

ここは佐喜浜川がつくった平野です。地図で見ると、この平野は佐喜浜川の両脇に、この奥まで続いています。


●写真 14時16分 佐喜浜港



●写真 14時22分 佐喜浜港

国道から佐喜浜の町中に入り佐喜浜港に出ました。


●写真 14時29分 佐喜浜港を振り返る



●写真 14時31分 佐喜浜の防波堤道路

佐喜浜の町を過ぎると、防波堤の上の道に上がり、海を見ながら歩きました。ここは歩いていいようです。


●写真 14時55分 佐喜浜の防波堤道路から見た国道と海岸



●写真 佐喜浜の平野



●写真 14時58分 ロッジおざき



●写真 15時1分 尾崎川と集落

小さな尾崎川が流れていて、そこに小さな平野があり、右手に集落がありました。あと5~6分で民宿徳増です。


●写真 15時4分 民宿徳増近くのサーフィン

民宿徳増近くの海では、サーフィンをしている人たちがいました。


●写真 15時6分 民宿徳増

逆光で見えませんが、右側が民宿徳増


●写真 16時59分 民宿徳増から見た海岸



●写真 尾崎川の流れる小さな平野



 午後3時ごろ民宿徳増に着きました。宿の女将さんに聞いたら、韓国人のキムさんはすでに1時間前に着いていました。風呂に入っているということでした。20分ぐらい遅れてジャンヌ親子が到着しました。
 
 風呂に入った後、キムさんに呼ばれて、宿のベランダでジャンヌ親子とともに椅子に座りながら話をしました。キムさんは医者に似合わず小回りが利く人で、簡単に4人の椅子を並べ、私用の灰皿まで持ってきてくれました。私のビールのつまみにサキイカまで用意して、自分はパック入りの日本酒を飲み始めました。
 ジャンヌ親子は母親のナンシーが足を痛めてリタイアするから、ここからはバスで行くということになりました。ここからはジャンヌ1人で歩くようになるようです。キムさんは24番の最御崎寺と25番の津照寺は前回のお遍路ですでに行ったので、ここから26番の金剛頂寺に直接行くということでした。

 夕食もその4人が一つの食卓を囲みました。食事部屋も畳敷きでした。椅子掛けの食堂が多いなかで、やはり畳に座ると落ち着きます。他に4人の客がおられました。
 ジャンヌはその日、宿の浴衣を着ていました。畳部屋名はそのほうが、不思議となじみます。ジャンヌがビールのグラスを落として、グラスが割れて手に怪我をしました。彼女にしては珍しいことです。少し疲れているのかも知れません。

 宿のおばあさんが98歳で、まだ元気に厨房で働いていました。私たちの周りにやって来て話をしてくれました。もともとここは自宅の畑であったらしく、戦後大阪から引き上げてきたあと、自宅の畑であったこのは所で、40年ぐらい前といいますから昭和50年代にサーファー用の民宿としておばあさんが始めたそうです。でも今ではお遍路さんが大半のようです。
 「昔のお遍路さんは、みんな門付けして歩いていましたがな」と言われました。前にも言いましたが、私が子供のころ、昭和40年代までは私の住む地域にも、門付けのお遍路さんが時々やって来て自宅の玄関先でお経を唱えていました。私のお袋がお坊さんの前掛け袋に米を一皿入れていたのを思い出します。そのことをおばあさんに言うと、「あんた年は」と聞かれて「61です」というと、「そんならわかるな」と言って肩を叩かれました。

 門付けのお遍路さんを見る時の、あの独特の雰囲気を何と言ったらいいのでしょうか。「そんならわかるな」とおばあさんは言われました。「そうじゃなかったらわからない」独特の雰囲気がありました。今の私たちのお遍路とは違う世界でした。お遍路の途中で会った誰かもそういうことを言っていて、「子供心にお遍路さんは恐かった」と言っていました。悪いことはしないのに、子供心には恐かったのです。古い記憶ですが、昭和30年代までは、それとは別に、物もらいの人もまれにやって来て、ボロボロの服を身にまといながら、家々を回り施しを受けていました。それもまた恐いものでした。
 リヤカーに荷物を積みながら物もらいをしている夫婦が近くの神社の舞台(昔は神社に芝居や踊りを舞う舞台がありました)に何日も寝泊まりし、村の問題になったこともありました。子供心にそういう情景は、自分で見たり、大人が話しているのを聞いたりして、いつまでも心から消えることはありません。私が今やっているお遍路は目的は違っても、やっていることはそれと紙一重なわけです。
 そういう世界に自分が足を一歩踏み入れていることが不思議でもあり、奇妙でもありました。昨年まで働いているときは、自分がこうやってお遍路をしているなどとは夢にも思いませんでした。

 民宿のおばあさんは、「主人は別に仕事を持っていたから生活には困っていなかったけれど、自分がやりたかったので始めた」と言われてました。息子さんはすでに亡くなられて、今は息子さんの奥さんとお孫さん・・・・・・といってももう30歳ぐらいでこの民宿の若主人ですが・・・・・・その二人で宿を切り盛りされているようです。
 若主人の奥さんは、お遍路でこの宿に泊まったところをご主人が見染めて結婚されたようです。今日はたまたま若奥さんは、生まれたばかりの子供さんを連れて、九州の実家まで初の里帰りをされているようです。

 ジャンヌがビールを一本頼んで我々4人に振る舞ってくれたので、私もビール1本追加してみんなで飲みました。にぎやかでした。
 そこに隣にいた70前後の男性が隣の30前後の女性といっしょに、「このテーブルは何語で話したらいいのかな」と冗談を言いながら加わられました。確かにこのテーブルは3カ国語が飛び交ってました。
 男性は岡山から、若い女性は神奈川の川崎から来たということでした。30前後の女性は、今日は鯖大師からここまで来たそうです。我々の2倍の約40キロを1日で歩いてこられたようです。その女性は初めてのお遍路だということですが、坂本龍馬が大好きで、四国には何回か来ていると言われてました。

 私は初めて、日本人の歩き遍路で「これが初めてです」という人に会いました。しかも彼女は「通し打ち」つまり1回で八十八ヵ所をすべて巡る予定だそうです。私はどこまで行くかまだ決めてはいませんが、「通し打ち」はとてもできそうにありません。何回かに分けて全部回れれば良いな、と思っています。こういうのを「区切り打ち」と言うそうです。でも明日の室戸岬のあと、どこまで行くか、次はいつ来るか、全くの未定です。来れるかどうかさえ分かりません。このお遍路をやめたあと、自分がどういう気持ちになるのかさえ想像がつきません。

 そこに民宿の若主人も加わって、「四国では真言宗が一番多いが、県によっては浄土真宗が多いところもあって、県によって宗派が違う」と話され、また県民性もかなり違っているそうです。
 例えば200円もらってその県の人がどうするか。愛媛県は200円もらうと貯金する。香川県は200円もらうと商売を始める。徳島県は200円もらうと何かを買う。高知県は200円で酒飲みに行って、持ち金を全部使ってしまう、と言ってみんなを笑わせてくれました。正確ではないですがそんな話でした。高知県人の気質は開放的で、金の使いっぷりがいいのでしょう。
 この民宿徳増は高知県の中でも徳島県寄りにありますが、徳島県と高知県は県境一つで雰囲気がかなり違うそうです。隣の徳島県は高知県人から見ると堅実だ、とこういうことを経験譚をとおして言われてました。徳島県には阿波踊りがあってかなり開放的に見えますが、土佐から見ると堅実だそうです。徳島ではこういうことを聞く機会がありませんでした。
 確かにこの日の夕食がワイワイと一番和んだ夕食でした。高知県に入って2日目になりますが、初めてここで自分が徳島県ではなく高知県にいることを自覚しました。
 昨日、水床トンネルを抜けて高知県に入ったところで疲れ果てて座り込んでいると、そこにジャンヌたちがやって来て流れに任せてしまってからは、ここがどこなのか忘れてしまっていた感があります。確かにそこから先は高知県です。宍喰(ししくい)までが徳島県で、甲浦(かんのうら)からは高知県です。明日はいよいよ高知県の室戸岬です。また異界に一歩近づいた気がします。

 11時頃まで妻とメールのやりとりをしました。私はもう少ししたかったのですが、「もう寝る」と返事が来ました。

「室戸へ」 お遍路記 14日目 最御崎寺(ほつみさきじ)(24番)

2020-09-30 02:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【14日目】 晴れ
 【札所】最御崎寺(ほつみさきじ)(24番)
 【地域】室戸市(佐喜浜町 → 椎名 → 三津 → 室戸岬)
 【宿】 民宿徳増 → 室戸岬最御崎寺へんろセンター


 昨夜は11時から4時まで寝ました。よく寝れたほうです。

 朝5時半、まだ太平洋は真っ暗です。民宿徳増の玄関先で、太平洋の波の音を聞きました。トラックが通り抜けました。あと30分ほどで朝日が見えるかな、というところです。


●写真 6時7分 民宿徳増の日の出

ここからは太平洋に昇る朝日が見えますが、今日は雲が一つかかっていて残念です。


 午前6時20分、6時半から朝食ですが、ベランダでたたずんでいたところ、そこに神奈川から来た女性がやって来ました。神奈川からきている女性は近藤(仮名)さんと言われるようで32歳だそうです。まだ20代で独身かと思っていたら、すでに結婚されていて、仕事を辞めたのをきっかけにお遍路にきたということです。川崎には夫婦で住まれているようで、ご主人からは「いつ帰ってくるんだ」とさかんに言われているそうですが、やはり八十八ヵ所をすべて歩きで「通し打ち」する予定だそうです。
 「どこまで行かれるんですか」と聞かれたので、「決めてないけど、全部は回れそうにありません」と答えました。本当に自分でもどこまで行くつもりなのか分かりません。ただ「室戸岬まではたどり着きたい」、その一心です。
 「どこまでいこうかな」とぼやくと、「一周されないんですか」とまた尋ねられました。「一周すると悟りをひらかないといけないから。私にはまだ悟りは遠いですよ。まだまだ未熟だから」というと通し打ちする予定の近藤さんは困った顔をしました。
 「いや何周してもいいんだから、本当は通しで歩いた方が一番いいですよ。今のは家に帰るための言い訳ですよ」と、それはとっさに話をフォローするために言ったのですが、実はそれが一番当たっているような気がします。
 今まで認めたくなかったのですが、室戸岬が近づくにつれ、室戸までたどり着けるという嬉しさと同時に、「これで家に帰れる」という気持ちがふつふつと頭をもたげていました。誰に言われてお遍路をしているわけでもないですが、「今日で室戸岬に着く」と思うと、今まで自分に課していたものから開放されるような気がします。「どこまで行けるだろうか」から「どこまで行くのだろうか」に変化しているようです。さらに「どこに行きたいのだろうか」という気持ちに変化しています。
 「オレは家にたどり着きたいんだ」という思いが強くなっています。

 7時半頃、民宿徳増を出ました。玄関でちょうどジャンヌ親子と一緒になりました。もう少し早く出ようと思っていましたが、出る寸前になって右足にテーピングするのを忘れていたことに気づいて出発が遅れました。朝は痛みはありませんが、歩いているうちに足裏が熱を持ってきて腫れてきます。テーピングは効果があるようです。何日かしていてそう思いました。
 玄関でジャンヌたちと会うと、昨日は「足が痛くてバスで行く」と言っていた母親のナンシーは思ったより足が回復したらしく、「今日は歩けそう」ということでした。それから20分ぐらいいっしょに歩きました。
 しかし夫婦岩のところで、「私はここでちょっとしたいことがあるからお先にどうぞ」ということで、そこで別れました。


●写真 7時42分 夫婦岩



●写真 7時54分 夫婦岩



●写真 7時55分 夫婦岩の道路



●写真 8時2分 夫婦岩から室戸岬を望む



●写真 8時4分 夫婦岩を振り返る



●写真 8時8分 夫婦岩を振り返る



 夫婦岩から10分ばかり行くと、国道沿いにポツンポツンと民家があります。もう無人地帯というわけではありません。民宿浦島という民宿も通り過ぎました。
 いま朝の8時40分、目の前には民宿椎名という民宿があります。ここは椎名という地名のようです。国道55号線は、やはりトラックの往来は頻繁です。海岸は砂浜ではなくやっぱり岩場が多いです。ただ昨日と違って山と海岸との間にはやや余裕があって、家が立ち並ぶ余裕があります。


●写真 8時43分 道路沿いの景色



●写真 8時50分 道路沿いの景色



●写真 8時58分 椎名の廃校跡 むろと水族館



●写真 9時3分 海岸



●写真 9時10分 昔ながらの遍路休憩所



●写真 9時28分 遍路休憩所から海を見る



●写真 9時49分 海岸



●写真 9時54分 海岸



 先程10時40分頃、三津町の遍路休憩所の2階で休んでいると、ジャンヌ親子と会いました。ジャンヌたちはその奥の建物の休憩所みたいなところで休んでいたようです。
 私が遍路休憩所の2階から降りてくると、手を振っていました。私は飲み物が欲しかったので、「ドリンクを買いに行く」と言って、自動販売機に向かいました。それを呑んでしまった時にはもう彼女たちは先に行ってました。その遍路休憩所で、妻に今日何回目かのラインをして、今の気分を伝えました。
 11時頃、その遍路休憩所を出発しました。


●写真 10時21分 三津の遍路休憩所



●写真 10時32分 三津の遍路休憩所



●写真 10時39分 三津の分岐

キムさんはこの道を右に折れたはずです。


●写真 10時43分 三津漁港



●写真 10時43分 三津漁港



●写真 10時53分 集落と神社の鳥居

中央に小さく鳥居があります。


●写真 10時59分 廃校の三高小学校

過疎が進んでいるようです。


 11時10分、このあと御蔵洞(みくろど)という空海が悟りを開いたという室戸岬の洞窟とか、観音窟とかに、あと1時間ぐらいで着きますが、悟りよりもここに来て世間のいろいろな煩悩が噴き出してきて煩悩まみれで歩いている、という感じです。
 妻はなかなかメールの返事をくれませんが、お遍路の最初に「思いっきり煩悩にまみれて煩悩のことを考えて歩きなさいよ、せっかくのいいチャンスなんだから」と妻が言ったので、本当に頭に思い浮かぶかぎりの煩悩だらけです。妻は多少迷惑顔ながらもどうにかつきあってくれています。

 妻は日常の中にいます。それに比べると私はここ2週間ずっと非日常の世界にいます。どこかに宙に浮かんでいるような気がしています。かといって「悟り」に近づいているわけでもなく、次から次に煩悩が浮かんでは消え、浮かんでは消え、際限もなくいろいろな雑念が脳裏を去来していきます。

 さいわい今のお遍路は、民宿とか旅館とかに泊まれますが、一昔前のお遍路は、昨日民宿徳増のおばあさんも言っていたように、門付けをして歩いていたわけで、今日泊まる宿とてなく、一人門付けをしながら家から家を歩いて行く。それに比べたら夜露をしのげる家があって、布団があって、そこで寝られるということが、どんなに恵まれたことかを感じます。
 いろいろまだ思いは尽きませんし、自分の感情を言い表せないところがあります。ふだん妻に言えないことでも、お遍路に来たらメールで言えるということは、実は非常にたのしいことです。
 これが何なのか、どこから来るのか、どこに向かうのか分かりません。何か自分が宙に浮いたまま異界をさまよい歩いているという感じ、異界に連れて行かれているという感じがあります。しかし異界は恐いものではなくて、何か非常に身近な存在です。
 妻は「なに言ってるの」という感じです。
 室戸岬まであと1時間ぐらいで到着することになります。前にジャンヌ親子が歩いているのが見えました。


●写真 11時20分 道路沿い様子



●写真 11時28分 道路沿いの様子



●写真 11時40分 白い大師像

室戸岬までもうすぐです。


●写真 11時42分 白い大師像



●写真 11時46分 海岸



●写真 11時47分 御蔵洞(みくろど)前

道の右側に御蔵洞があります。


 「ここが室戸岬か」。12時に室戸岬に着きました。足のマメがひどくなって、ここまで足を引きずるように歩いてきました。周りは岩だらけです。砂浜はありません。かといって漁港もありません。
 「なるほど、ここには人は住めないな」。今と違ってここは人の住めないところです。江戸時代どころか1200年も昔、空海はこんな所に来て修行したという。自分でそう言っていますから、多くの人は間違いないだろうと言っています。焼山寺を越え、鶴林寺と太龍寺の二山を越え、山を歩き、海を歩き、また山を越えて、道もない時代にここまでたどり着くのは命がけです。それはきっと「探検」に近いものだったと思います。空海は誰も行かない場所に行く必要があったのです。
 命を懸けてというよりも、命を越えるためだったような気がします。


●写真 11時48分 御蔵洞



 御蔵洞は国道の海側ではなく、山側にありました。今では陸地化していますが、国道がなかった時代には、ここは一面の岩場だったのでしょう。落石除けの白い屋根のあるところが御蔵洞です。もともとは御厨人窟(みくりやどうくつ)と言われたそうですが、いつの間にか御蔵洞(みくろど)と言われるようになったようです。


●写真 11時58分 御蔵洞内部



 空海はこの御蔵洞に坐って悟りをえたと言われます。ここで空と海を見つめつづけたから、空海と名乗ったと言われます。いつもの作法で般若心経と御真言を唱えました。
 

●写真 12時21分 観音窟



●写真 12時22分 観音窟



●写真 12時23分 観音窟内部



 国道から24番札所の最御崎寺(ほつみさきじ)へ登ろうとしたところに観音窟がありました。ここも国道がない時代には岩だらけのところだったと思います。ここは最御崎寺の奥の院になっているようです。そういう標示がありました。この観音窟の中でも般若心経を唱えました。
 観音様というのはどういう仏様なのか知りませんが、カンノンサマには隠微な響きがあります。全国的な隠語なのかどうかは知りませんが、私は子供のころからカンノンサマという言葉で、大人たちが何か別のものを表現していることを知っていました。この室戸岬の、しかも最御崎寺の奥の院の洞窟にそのカンノンサマが祀られていました。

 こんな厳しい岩だらけのところに坐って、空と海を見ながら、カンノンサマを思い浮かべる。そんな想像が正しいかどうかは知りません。しかし仮にそうだとしたら、それは明らかにパスカルの見た「永遠の沈黙」とは違うものです。そこにあるのは永遠の波のざわめきとカンノンサマの慈悲です。マオという少年が空海になるまでに、目の前に見たものが、空と海と母親のようなカンノンサマであったというのは、私には不思議ではなく、とても自然なことです。
 男女の豊かな交合を説いた理趣経も、そう考えるとすんなりと理解できます。
しかしそれを最澄がどう捉えるか、空海にも予測できなかった。だから最澄には理趣経を見せなかったのです。エリートコースの道を自らはずれ、地面を這いずり回ってきた空海には、空と海とカンノンサマとの三位一体を、都のエリートコースを歩く最澄がどう理解するか、予測がつかなかったのだと思います。

 私は一心に、カンノンサマに般若心経と御真言を唱えました。いつまでも元気でいられますように、と願いました。そしてこの小さな洞窟の横で昼食を取りました。民宿徳増で作ってもらったおにぎり2個です。そのあとまた国道を横切って岩だらけの海岸に下りていきました。


●写真 13時16分 室戸岬の海岸



●写真 13時16分 室戸岬の海岸



●写真 13時19分 目洗池



●写真 13時22分 室戸岬の海岸



●写真 13時24分 室戸岬の海岸



●写真 13時26分 海岸から山を見る

上に燈台があります。まん中に小さく中岡慎太郎の像が見えます。山が大きすぎて近いように見えますが、かなり距離があります。この岬の上に最御崎寺があります。


●写真 13時32分 室戸岬の海岸



●写真 13時32分 室戸岬の海岸



●写真 13時33分 室戸岬の海岸



●写真 13時34分 室戸岬の道路

中岡慎太郎の像が見えます。中岡慎太郎は坂本龍馬の朋友で、坂本龍馬とともに暗殺された人物です。ここから約30キロ西に行った北川村という山間部の出身です。


●室戸岬



 観音窟横の登山口から最御崎寺の山を登り始めました。ここの遍路道も急斜面でした。山が急角度に海に落ち込んでいるのが分かります。思った以上に登るのは大変でした。着いたときには汗びっしょりでした。すぐに背中のタオルを取り替えました。


●写真 最御崎寺の灯台



 最御崎寺(ほつみさきじ)は、「火(ほ)つ御崎寺」で、燈台の役目も果たしていました。海からの目印にされていたのです。お遍路巡りは、山の信仰とも、海の信仰とも関係しています。


●写真 14時10分 最御崎寺の山門



●写真 最御崎寺の宿坊



●写真 最御崎寺の本堂



●写真 最御崎寺の塔



●写真 最御崎寺の境内



 2時すぎに24番札所の最御崎寺に着きました。境内のベンチで休んでいると、そこには昨日民宿徳増でいっしょだった岡山からの70代の男性と会いました。ベンチに座って、私が靴を脱いで痛い足の裏を押さえ始めると、「マメができるのは靴下の滑りが悪いからじゃないか」と言われました。私が「靴下は滑らない方がいいんじゃないですか」というと、「いや逆ですよ。靴下が靴の中で滑ってくれるから足に負担がかからずにマメを防いでくれるんですよ。私はそれに気づいてからマメができなくなりました」と言われました。靴下の滑りが足裏のマメに関係しているとは初めて聞きました。みんなマメについては自分にあった見解を持たれているようです。「マメを制す者はお遍路を制す」です。マメを制す、それだけでも並大抵の苦労ではありません。悟りをえるためには、まず足のマメが立ちふさがっています。

 最御崎寺の宿坊に入ると、いつものように洗濯をし、乾燥機をかけ、5時から風呂に入り、6時から夕食を食べました。
 ジャンヌ親子はすでに到着していました。彼女たちは、ここが太平洋に沈む夕日が有名だということを知っていて、私はそのことを風呂で一緒になった75歳の男性から聞いて初めて知りましたが、私が風呂に入りにいく時に入り口で彼女たちとすれ違って、母親のナンシーから「サンセ、いっしょに行かない?」と言われたことを思い出しました。「サンセ」の意味が分からず、売店かどこかに行くのだろうと思い、すでに浴衣に着替えていましたので「アイ アム フロ(私は、風呂です)」と訳の分からない英語で答えて、それでも通じたのでそのまま風呂に入りましたが、ジャンヌたちは沈む夕日を見に行ったのだと、そのとき気づきました。「サンセ」ではなく「サンセット」だったのです。ナンシーの発音が悪かったのか、私の英語力が悪いのか、惜しいことをしました。と思いながらも、私は湯舟を優先したかも知れません。とにかくお風呂が待ち遠しかったのです。

 いっしょに湯舟に浸かった男性は75歳で、東京の八王子近くの多摩市から夫婦連れで来ているということで、もう3周目のお遍路だということでした。1周目と2周目は歩きでお遍路をして、今回は夫婦連れで車で回っているということでした。3回目は車と歩きを併用して歩いておられるようです。車を道の駅とか、お寺の駐車場とか、停められるところに停めて、それから歩いて札所を巡り、早めに切り上げてまた車に戻ってくるという旅をしておられました。
 私が九州だと言うと、自分も九州に何度か行ったことがある、村田英雄の「王将」という歌が好きで、彼の生まれ故郷の町に3回ぐらい行った、ということでした。唐津の近くの町です。
 「吹けば飛ぶような将棋のコマに♪ 懸けた命を♪・・・・・・」、このフレーズが浮かんで来ました。
 男性はそれ以上何も言いませんでしたが、「将棋のコマ」が自分のことのように思えてきました。そんな自分でも、お遍路しながらどうにかここまで来れたことは、ありがたいことです。
 「サンセット」も見たかったですが、「将棋のコマ」も捨てがたい気がしました。「沈む夕日」がきれいなのは、「吹かれて飛んでいく将棋のコマ」のようなものだ、とちょっと説明しづらい気分になりました。「沈む夕日」と「吹かれて飛んでいく将棋のコマ」はどこか似ている。うまく言えませんが、最御崎寺の湯舟に浸かりながら浮かんだその思いは、ぼんやりとして心地よいものでした。男性は、10年前の65歳からお遍路を始めたそうです。

 夕食はジャンヌ親子と隣同士になりました。宿泊客は14~15人というところでしょうか。ジャンヌ親子は明日は30キロ歩いて奈半利(なはり)という町まで行くそうです。私は10キロ先の26番の金剛頂寺の宿坊に予約を入れていますから、ここでジャンヌ親子とはお別れになります。
 母親のナンシーはやはりバスで行くらしいです。1ヶ月後にはフランスに帰るということなので、それまでに頑張って四国一周をするということでした。その途中でフランスから父親が来日するようです。
 私は1日遅れて明後日に奈半利に行くことになると思います。宿の予約を入れないといけません。

 ジャンヌは魚料理に飽きたみたいで、「日本人はいつも魚を食べるのか、いつも肉を食べるのか」ということを聞いてきました。私は、3日に1度は魚を食い、3日に1度は肉を食うと言いましたけれども、今考えると肉はそれ以上に食べています。ただ旅館に泊まる時は、「肉よりも魚の方が高級なイメージがする」と答えました。彼女は「魚は骨があって食べにくいから私は肉がいい」といいました、彼女たちも魚は苦手なようです。「最高の魚はやっぱり日本では新鮮な刺身だよ」と伝えました。


 テレビのニュースでフランスのルノーと日産のことが出ていたので、ルノーの社長のカルロスゴーンのことを、「彼はフランス人だけど顔が違うね」とジュリアンに聞いたら、彼女は「彼はもともとブラジルから来た人だ」と言いました。

 私が「もうすぐハロウィンだね」と言うと、ジャンヌは「あれはアメリカ人がやっているだけよ、フランス人はそんなことしないの」と言いました。アメリカ人とは違うのよ、とでも言いたげでした。「へー、そうなんだ」と思いました。私はヨーロッパもそうだとばかり思っていました。彼女たちのアメリカを見る目は、日本人とは違うようです。彼女たちからすれば、なんで仏教徒の日本人がハロウィン、ハロウィンと騒いでいるのか、それが不思議なようです。
 「沈む夕日は綺麗だった」と言ってました。これは万国共通のようです。

 明日は6時半から朝食だということで、「グッバイ」と言って部屋に戻りました。ここはホテル形式です。それが本当に最後の「グッバイ」になりました。
 今日、韓国人のリーさんは、この「最御崎寺には1度行ったから」と、近道して直接26番の金剛頂寺へ行きました。ジャンヌも明日は30キロ先の奈半利まで行きます。母親のナンシーはバスです。私も、あとどこまで行けるのか、どこまで行きたいのか、どこへ行きたいのか、決めなければなりません。

 午後7時、妻は今日は仕事が遅出で、帰りが遅いのであと1時間以上は返事がないと思います。「室戸岬に着いたよ。おかあちゃん、ありがとね」とラインで送りました。
 父の菩提を弔う、そういう気持ちから出発しましたが、妻のこととか、娘のこととか、そんなことが頭に浮かびます。それに家に同居している私の母と妻が、家で今どんな話をしているのか、そんなことが気になります。

「室戸へ」 お遍路記 15日目 津照寺(25番) 金剛頂寺(26番)

2020-09-30 01:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【15日目】 晴れ
 【札所】津照寺(しんしょうじ)(25番) 金剛頂寺(26番)
 【地域】室戸市(室戸岬町 → 室津) → 行当岬
 【宿】 室戸岬最御崎寺へんろセンター → 金剛頂寺宿坊


 5時前に起きました。足のマメは痛いですが、室戸岬まで来たという安堵感があります。
 6時半から朝食をとりました。ジャンヌたちはいませんでした。

 今日は25番の津照寺を打って、26番の金剛頂寺まで行き、そこの宿坊に泊まります。金剛頂寺の岬の不動岩にも、ちょっと遠回りですけれども行きたいと思います。

 午前7時35分、朝、玄関前でタバコを吸っていると、昨日お風呂で会った75歳の八王子から来られた男性が、宿坊前の駐車場に停めてあった車のリフトバックを開けられるところが見えたのですが、バン型の車の後方には奥さんと2人で車で遍路をされているその道具がいっぱい積まれていました。かなり車遍路に手慣れた方のようで、ワゴン車の屋根には、上に荷物を載せるような荷台も取り付けてありました。

 8時ちょっと前に宿坊をチェックアウトしようとしたところ、カウンターの女性が自転車で遍路をしている若い男性を見送られていました。話を聞くと、その男性は自転車で1日120キロを行っているようです。約10日で四国一周の自転車遍路をする予定のようです。若い20代の男性で、多分大学生ではないかと思います。若い人たちは自転車での遍路も多いです。歩いている途中で何人かの自転車のお遍路さんを見かけました。自転車だと荷物も多く積めるので野宿されているのか、宿でいっしょになることはありません。自転車だと坂道はきついでしょう。それに昔ながらの山中の遍路道も無理です。でも10日で八十八ヵ所巡りができるのは魅力的です。かなりハードな日程でしょうけど、若い人には向いているのかも知れません。
 そのカウンターの女性は70歳近くで、私が玄関前の喫煙所で出発前のタバコを吸っていると、タバコのことに話が及んで、「1日に1箱というのは今めったにいませんよ、今せいぜい10本くらいですよ」と言われたので「病気をしたらやめます」と言うと、「それでは遅いですよ」と言われました。「自分の父も病気をしても酒を飲み続けて、それで死んでいいと言いながら、本当に亡くなった」という話をされました。「そんな気分ですね、私も」と言いました。
 おばさんは、「還暦をむかえ60代になると死ぬまでにどうしようかと考えますね。体が動かなくなってから100歳までも生きたくはないし、体が動くうちにと思っても仕事はなくなるし、どうやって仕事をしようか、生きていこうかと考えますね」と言われました。そういうまったく宿泊客と従業員らしくない話をしながら宿坊を後にしました。


●写真 8時15分 最御崎寺から下る道




●写真 8時19分 最御崎寺から下る道



●写真 8時25分 最御崎寺から下る道



●写真 8時29分 最御崎寺から下る道



●写真 8時32分 最御崎寺から下る道



 この町並みを奥に進んでいきます。国道を行くか、海側の歩道を行くか、町中の旧道を行くか、その時の気分で歩こうと思います。


●写真 8時38分 最御崎寺から下ってきた道を見上げる



●写真 8時41分 最御崎寺から下ってきた道を見上げる

見上げるとけっこう高い山でした。


●写真 8時38分 防波堤の歩道

向こうの岬の先端に目指す金剛頂寺があります。



●写真 8時58分 防波堤歩道の外側の海岸

海の様子が昨日までと違います。急に穏やかになったようです。


●写真 9時12分 室戸岬の漁港



●写真 9時13分 室戸岬の漁港

漁港の様子も穏やかです。


●写真 9時17分 室戸岬小学校



●写真 9時18分 室戸岬町の遍路道



●写真 9時25分 室戸岬の漁港



●写真 9時27分 室戸岬の漁港



●写真 9時32分 室戸岬町の診療所

医療体制の確保も、なかなか難しいようです。



●写真 9時33分 赤いだるまのポスト

赤いダルマのポストがまだ残っています。


●写真 9時46分 廃校になった中学校



 廃校が目立ちます。室戸岬の手前でも2校見かけました。人口減少は着々と地方で進んでいます。私の住む地域でも小学生の数はめっきり少なくなりました。多いときから見ると3分の1以下です。平成の30年間は地方が寂れた30年間でした。空き家も目立つようになりました。

 午前10時、天気は晴れ、快晴です。先ほど室戸岬町の街道を歩いていると、後ろから自転車に乗ったご婦人が「こんにちは」と、わざわざこちらを振り向いて声をかけてくれました。50メーター先の床屋さんに入られましたので、床屋の奥さんかと思います。日傘帽をかぶられていたので農家の奥さんかなと思っていたら、床屋さんの奥さんのようでした。その20mぐらい先で、70歳ぐらいの男性がまた「こんにちわ」と声をかけてくれました。
 民宿徳増のおばあさんが、昔のお遍路さんは門付けして歩いていた、と言わました。そう言えば私が子供の頃には自分が住んでいる地域にも、そういう方が門付けしに来られて、私のお袋が米一皿を前袋に入れていました。宿のおばあさんとそういう話をしたのを思い出します。
 それに比べれば四国の人々のお遍路さんを見る目はやさしい。お遍路を見る目がなぜこんなにやさしいのか。
 漂白に暮らすお遍路は、地域に住む人々にとっては、ちょっとありがた迷惑なところがあって微妙に敬遠されがちなものですが、この室戸岬町の人々にはお遍路を敬遠するところがなく、親しみをこめて挨拶をしてもらえます。
 この地域では24番の最御崎寺は「東寺」、26番の金剛頂寺は「西寺」と、セットで呼ばれているようです。地域の人々から別名で呼ばれるということは、この二つの札所がそれだけ地域に溶け込んでいるということでしょう。信仰心が根づいているようです。


●写真 10時19分 津照寺前の漁港



 11時頃に24番の津照寺を打ちました。


●写真 10時23分 津照寺の参道

正面奥、階段を登った高台にあります。


●写真 10時25分 津照寺の入り口



●写真 10時30分 津照寺の本堂



 12時ちょうどです。24番の津照寺の裏手の漁港の近くにある漁業協同組合の裏の日陰で休息しました。そこで昼食、そして靴を脱いでマッサージをしました。足のマメの具合がよくありません。右足の小指の先と、右足の親指の付け根にマメができています。押すとかなり痛みます。なぜ右足に負担がかかっているのかが分かりません。


●写真 10時56分 津照寺前の漁港



●写真 11時9分 津照寺前の漁港



●写真 11時44分 津照寺前の漁協の横で休憩



●写真 11時55分 とんびが舞う

休憩中、鳶が空を舞いました。


●写真 12時2分 津照寺横の漁港の作業

漁港では魚の水揚げが行われていました。


 休息中、和歌山県から来たという白衣を着た老夫婦に「歩いて回られてますか」と声をかけられました。ご夫婦は「和歌山県から初めて来て車で回っている」ということでした。

 休憩しながら、足のマメの具合も良くないので今日は早く宿に着こうと思いました。たぶん金剛頂寺の宿坊は、早く着けば中に入れてくれると思いますので、今日は不動岩を見ずに、明日見るということにして、12時過ぎに25番の金剛頂寺に向かいました。2時間ぐらいで着くと思います。


●写真 12時9分 津照寺を過ぎた街並



●写真 12時10分 津照寺過ぎの街並みで自撮り



●写真 12時30分 金剛頂寺の標示



●写真 12時38分 神社の鳥居



●写真 12時45分 小さな駄店



●写真 12時47分 金剛頂寺の標示

右に折れていくことが多いようですが、私は直進し行当岬に向かいます。


●写真 12時47分 金剛頂寺の岬の山



 右に折れて金剛頂寺へ直接向かう予定でしたが、不思議なことに歩き始めると足のマメはさほど気にならなくなって歩けるものです。「このぶんだと大丈夫かな」、そう思って当初の予定どおり遠回りをして行当岬の不動岩に向かいました。マメの傷みを別にすれば、この岬は歩いていて気持ちよかったです。でもここは弘法大師、空海の時代には道もなく歩きにくい所だったと思います。行当岬の「行当」は「行道」が訛ったもので、行道とは歩いて修行をすることのようです。その道が海岸沿いの「辺路」なのです。その字が変わっての「遍路」なのです。空海は、今日出発した最御崎寺と今向かっている金剛頂寺を何回も往復しながら修行をしたのでしょう。毎日往復していたとも言われています。


●写真 12時52分 行当岬へ向かう



●写真 13時4分 行当岬の海岸

対岸の先端が室戸岬。そこから歩いてきました。


 1時半ごろ、不動岩のお堂に着きました。


●写真 13時19分 不動岩の岩場へ



●写真 13時19分 不動岩の海岸



●写真 13時22分 不動岩の海岸



●写真 13時24分 不動岩の本堂が見えた



●写真 13時26分 不動岩の本堂



 そこで私が案内板を見ていると、そこにお坊さんらしき人が車を降りてきて、この不動岩について、「ここは空海の修行の場だったんですよ。岩を登ると奥に畳2畳ほどの修行した洞窟がありますから、見てこられたらいいですよ」と教えてもらいました。もしかしたら金剛頂寺の住職さんかなと思いましたが、よく分かりません。そこに登ってみました。

 その洞窟でお経を唱え、お堂に戻ってみると、近隣の人らしい人2人が来ていて、座りながらテーブルを囲んで話をしていました。どうもこの不動岩の再建計画のことを話し合っているようですが、よく分かりませんでした。


●写真 13時29分 岩陰の祠



●写真 13時31分 畳二畳の洞窟



●写真 13時31分 洞窟の内部




●写真 13時32分 洞窟の遠景



●写真 13時34分 不動岩からの海の眺め



 岸壁の途中に空海が修行した岩というのがあって、そこにやっと人が座れるぐらいの突き出た岩があって、そんな信じられないようなところにじっと座って修行したらしいです。足を滑らせれば間違いなく海に落ちます。命は助かるのだろうかと、疲れてぼんやりとした頭で考えました。しっかり見たはずなのに、なぜかそのイメージがぼんやりとしか浮かびません。岩の下は海だったような気がしますが、もし岩であれば助かりません。やはり「吹けば飛ぶような将棋のコマ」の気持ちでないとできません。「人の命は泰山より重く、鴻毛より軽し」というのは当たっていると思いました。しかし私は高い所から下を見ると、目がクラクラします。美を感じるよりも、その手前のところで、たじろいでしまいました。


●写真 13時42分 道路側から見た不動岩

不動岩は立派なお堂でした。ここはこれから向かう金剛頂寺が管理しているお堂です。


●写真 13時44分 金剛頂寺への登り口

まん中から左上に登る小さな坂道がそれ。こんな所から登ります。


 それから横の国道55号線をまたいでその脇の遍路道に入り、金剛頂寺の山を登り始めました。20分ほど汗だくになって遍路道の坂道を登りやっと林道にでました。坂道はかなりきついものでしたが、登ってみると山の上は思ったよりも平坦で、山の頂上に集落がありました。畑があり、一軒家があり、そして何軒かの集落があり、共同体が存在しています。


●写真 13時59分 金剛頂寺への急斜面を登ると



●写真 14時00分 畑が広がる



●写真 14時5分 山頂の遍路道

ここには意外にも集落がありました。山の上は平地になっています。こういう地形を初めて見ました。


グーグルで見るとこんな感じです。岬の上は平べったいです。

ついでに言うと、あとで知ったのですが、この行当岬から5~6キロ西の吉良川町にも似たような地形があって、

こんな感じです。海岸段丘です。知らずに下の海岸道路を歩いていると、まったく分かりませんでした。ここは、たぶん海岸段丘の上に人が住みついたのが早いのではないかと思います。段丘の上には行きませんでした。



●写真 14時21分 室戸岬が見えた



 向こうの室戸岬の先端からこの行当(行道)岬まで約10キロ。往復で20キロ。この海岸べたを毎日往復する行(行道)を空海はしていたとも言われます。ここは室戸岬に向かう東側の海岸に比べると湾状になっている穏やかな海で、歩きやすいと思います。
 つまり室戸岬と行当岬の厳しい行場とをこの海岸を通って行き来しながら、空海は修行を積んでいたのではないでしょうか。このような行道は空海が始めたものではなく、それ以前からあったものです。それにどういう意味があったのかは分かりませんが、陸と海の境という日常生活の境をきよめて浄化する意味があったのかも知れません。さらにそれは外部から来訪する異形の神様である「エビス」を迎える信仰とも結びついているような感じがします。数日前、日和佐の近くには「えびす洞」があったり、その前にはエビスさんが生まれた神社と称する神社があったりしました。私がやっているこのお遍路も、もとをたどればそういう所にまで行き着くものかも知れません。
 さらにそれは松尾芭蕉の「奥の細道」のような漂泊の感情にまで行き着くのかも知れません。俳句に信仰の匂いがするのは、私だけの感情でしょうか。

 お寺の裏から登ったので、金剛頂寺の山門の場所がわかりにくく、10分ほど周囲をウロウロしました。大回りして山門を見つけ、それからお参りをしました。ウロウロしているところで、何日か前、焼山寺を降りた次の日に大日寺の隣のかどや旅館で同じ宿に泊まったオランダ人男性とすれ違いました。彼は1日40キロ歩けるのに、なぜここにいるのか分かりませんでしたが、すれ違いざま私が「こんにちは」と声をかけると、「こんにちは」と返してくれました。彼は私の顔を見ながら「誰かな」という感じでした。

 2時半頃に26番の金剛頂寺に着いて、お参りをしたあと、3時に宿坊に入りました。ここは、昨日の最御崎寺が「東寺」、この金剛頂寺が「西寺」、この二つでセットです。お風呂のタオルも昨日の最御崎寺と同じ柄のタオルだったのが、おもしろかったです。


●写真 14時25分 金剛頂寺を裏から入る



●写真 14時27分 金剛頂寺の山門



●写真 14時44分 金剛頂寺の本堂



 部屋に入ると窓から海と山が見えます。昨日泊まった最御崎寺の半島も見えます。部屋の前は畑で、その向こうには海、その左手に山が連なり、今日歩いてきた街並みもその山の麓に見えます。防波堤も見えます。


●写真 15時3分 金剛頂寺の宿坊からの景色



●写真 16時38分 金剛頂寺の宿坊からの景色



●写真 21時7分 金剛頂寺宿坊の部屋



 やっとここまで来た、という感じです。家に帰りたいという気持ちと、今までの60年間がどこか遠い世界の出来事のように思える気持ちとが入り交じって、不思議な感じです。矛盾しているかというと、そうでもないような。


世間虚仮。色即是空。盛者必衰。諸法無我。しかし諸法実相。一切衆生悉有仏性。


なんとなく浮かんだ言葉で、合っているのか、間違っているのか自分でも自信がないので、一応ウィキペディアで調べてみます。

世間虚仮・・・・・・世間は仮うつろなものであるということ。
色即是空・・・・・・この世のすべてのものは恒常な実体はなく縁起によって存在するということ。
盛者必衰・・・・・・この世は無常であり、勢いの盛んな者もついには衰え滅びるということ。
諸法無我・・・・・・全てのものは縁起によって生じたものであって自分という実体はないということ。縁起というのは、「縁起が悪い」の縁起ではなくて、すべてのものの関係性を示す言葉です。「縁あって結ばれた」の縁です。
しかし
諸法実相・・・・・・全ての存在にはありのままの真実の姿があるということ。
一切衆生悉有仏性・・・・・・生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており、すべて悟りうるということ。

その他諸説あるようです。
分かったような、分からないような感じです。
たぶん分かっていないのでしょう。




                               「室戸へ」 終