ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

安倍の非常識 なぜマスクをしないのか

2020-03-30 12:20:37 | 自民党政策

国内が、これだけ新型コロナで騒動しているときに、
首相の安倍晋三はなぜマスクをしないのか。

国民に外出を控えるよう呼びかけておきながら、
自らは会議でマスクもしないで話し続けている。

いま一般の人はどんな会議でも、人が集まるところではマスクをしている。
なぜ首相だけがマスクをしないのか。
その結果、テレビに映る政府関係者は全員マスクをしていない。
そこには強い「忖度」があるのだろう。
唯一の例外は、防衛大臣の河野太郎ぐらいのものか。
あとの政府関係者はまったくマスクをしていない。
首相がマスクをしなければ、そのまわりの者はマスクをできないのだろう。
政府関係者による「忖度」内閣は、それほどひどいのである。
自分の判断ではマスク一つできない、それが安倍政権の雰囲気なのである。

首相には誰も「注意」できないのだろう。
これは異常だな。

国民に不用な外出を控えるよう求める前に、政府関係者にマスクをさせたらどうだ。まずそこからはじめたらどうだ。
やってることの、ピントがずれているのだ。

これで国民に感染症対策を徹底できるのだろうか。
これだけ感染が広がっているなかで、政府の中枢機関ではマスクもつけずに会議が行われている。それを見て国民は国の非常事態を感じることができるのだろうか。
マスクもつけずに、感染予防のための非常事態宣言をだすことができると思っているところが、この内閣の素性を示している。


新「授業でいえない世界史」 1話の1 人類の誕生

2020-03-28 11:12:26 | 新世界史1 人類の誕生

【はじめに】
 いま高校で教えられている「世界史」は何かもの足りません。
 高校世界史を、高校生に実際に授業しているつもりで書いてみました。

 
 ※の小さい文字は、出典や補足です。面倒であれば、読み飛ばしてもらって結構です。
 
 補足や修正は、折にふれ行っています。

 ちなみにカテゴリー(旧世界史1~14)の「授業でいえない世界史」(新がついてないもの)は、旧バージョンですが、こちらの作業上の都合で、削除せずにそのまま置いています。




【旧石器時代】
【直立歩行】 700万年前、猿が直立歩行をし始めました。
 それまでは木の上に住んでいた猿がなぜ、地上に降りてきて直立したのか。木が枯れて森がなくなったから、仕方なく地上に降りたとも言われます。でもよく分かりません。しかしなぜ直立したのでしょうか。そのまま四つん這いで歩いてもよかったはずなのに。
 きっと外敵に襲われるのが怖かったのでしょう。だから四つん這いで歩くよりも、敵がいないかどうか確かめるために直立せざるをえなかった。直立した方が、遠くの敵がよく見えますからね。

 我々の直立姿勢はそういう不安の表れなのです。どこに敵が隠れているか、怖くて怖くて仕方がない。だから遠くの敵を素早く見つけるために、立たざるをえなかったのです。そうした方が生存する確率が高くなり、直立した猿たちの子孫だけが生き延びることができたのです。


【人類誕生CG】440万年前の人類は愛妻家でイクメンだった!?【NHKスペシャル×NHK1.5ch】



 我々人間は弱いものです。足も遅いし、ライオンと比べたらキバもない。大した取り柄もなかったはずなのです。だから、どうやったら敵に襲われないか、そればかり考えて逃げ延びてきた。それが直立姿勢なのです。



 【脳の発達】 でも直立というのは、鉛筆の芯を横にすればすぐ折れますが、まっすぐ立てれば折れないし、どうかすると指を貫きます。そのくらい強いものです。
 直立の重みの負担と、動物のように頭を横から支えているのでは、頭の重みの負担が全然違います。だからいくらでも頭は大きくなっていく。それが頭の脳味噌の発達、知能の発達をもたらします。



【手】 頭が発達すると同時に手が発生しました。前足が手になりました。前足がものをつくるためのになります。動くためではありません。それで道具の使用ができます。
 指の動き、ロボット工学でも人間のような複雑な指は作れません。ミカンの皮をむける指のロボットはまだできません。リンゴの皮をナイフでむくのはもっと複雑です。それほど複雑な動きを、我々の指はほとんど自覚なしにやっています。そういう知能ができます。



猿人】
 最初の人類は猿の人と書いて、猿人といいます。約700万年前です。人類の進化は「アフリカのオラウ一タンがアフリカ人になり、ニホンザルが日本人になった」などと考えると訳がわからなくなります。
 オランウータンとニホンザルは別種で、かけ合わせても子供できません。それは犬と猫をかけ合わせても、子どもが生まれないのと同じです。オランウータンとニホンザルという別種から、アフリカ人と日本人が別々に進化し、同種になることは理屈上ありえません。



【一地点発生】 ということは、アフリカ人と日本人はご先祖が一緒であって、同じ種から発生したということになります。人類はどこかの1地点で発生したのです。
 どこから発生したのか。日本ではありません。ヨーロッパでもありません。それがアフリカです。すべての動植物には原産地があります。人間もそうです。我々はホモ・サピエンスという動物学上の分類にはいります。小学生に聞くと「人間は動物じゃない」と思ってる人がたまにいるみたいですけど、我々は紛れもなく動物です。ホモ・サピエンスという動物種です。

 700万年の間には、人類は何種類かいたらしい。でもそのたびに滅んだんです。最終的に我々1種類が生き残っています。ということは、2度あることは3度ある。我々もいつ滅びるか分かりません。我々の先輩の人類がたどったあとを見ると、そういうことも考えられます。



【原人】
 次が240万年前原人です。原人になると、アフリカを脱出するようになります。アフリカのどこから脱出するか。いまのスエズ運河のある地峡帯だと言われますが、異説としてはもっと南、紅海が最も狭くなっているところからだとも言われます。
 前者であれば脱出するときは、道幅の狭いところを通ります。難題はここに行くには世界最大のサハラ砂漠を渡らなければならないということです。アフリカの北部一帯は世界最大のサハラ砂漠です。ここは人間は越えられません。



【言語】 まず原人段階になると火の使用が始まります。言葉もこの原人段階からあったとされています。しかしこれには、もっと社会的能力が高まらなければ無理だったのではないかという説もあります。
 この言葉の複雑さは、ノドの声帯を微妙に何百通りにも変化させていくことによって生まれます。そして我々はその複雑な発音を聞き取ることができます。

 言語学者は、言語はそもそも物理的対象のことをいうのに使われ、そうした概念が「比喩による拡充」によって社会的・精神的世界についての発話へと変化していったと考えている。しかし、反対にして見た方がわかりやすい。つまり、言語構造は社会的世界について話された時に生まれ、それが比喩によって拡充されたことで物理的な対象についても話されるようになったのだ。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P247)


 例えば日本人が英語を聞いても分からないのを見ても、この聞き取りの難しさが分かります。我々は生まれてながらに日本語に慣れ親しんで、それをほぼ完壁に身につけていますが、いったん我々の言葉ではない英語にふれると、なかなか分からない。
 英語の勉強で悩んでいる人は多いのです。それくらい複雑なことです。そういう難しい言語を判別できる能力が自然に備わっているということは大変な能力です。



【火の使用】 もう一つはです。動物は火を使わないどころか火を見ると逃げていきます。
 オオカミがいるようなところで野宿するとき、野宿の方法として最低限しなければならないことは何か。
 必ず火を焚かなければいけません。火を見てオオカミは逃げますから。火を焚かずに寝ると、我々はオオカミの餌食になって、食いちぎられてボロボロにされます。一昼夜で骨と皮だけになる。しかし火を焚いておくとオオカミは恐がって逃げていく。

 でも人間は火を恐がりません。代わりにお化けや幽霊を恐がります。オオカミはお化けや幽霊は恐がりません。代わりに火を恐がります。これが人間とオオカミの大きな差です。このことには深い意味がありそうです。
 人間は子供の頃から「子供の火遊び」で、楽しそうに火で遊びます。だからときどき火事が起こる。しかしこんなことは絶体に動物にはおこりません。おまけに人間は自分で火をおこしたりします。これによって煮炊きができるようになります。生で食えないものでも、火を通せば食えるようになります。
 これによって、食料として食えるものの範囲が飛躍的に広がったのです。魚を生で食うには、刺身のようにしてその日しか食べられませんが、火があれば2~3日後でも煮たり焼いたりして食べられます。こうやって、か弱かった人間の生存能力が高まります。



【出アフリカ】 砂漠に迷ったら人間は死にます。どうやって砂漠を越えたか。そしてどうやってアフリカを脱出してどこまで行ったか。 ジャワ原人は少なくともジャワ島まで行きました。北京原人は北京あたりまで行きました。でも猿人も原人も絶滅します。絶滅したということは我々の祖先ではないということです。
 我々新人はというと、また振り出しに戻って、同じようにアフリカから発生しました。そして、アフリカを脱出し、ユーラシア大陸を移動し、北のベーリング海峡を渡って、北アメリカへ行き、それから南アメリカまで達しました。つまり全世界に広がったのです。



【旧人】
 原人も、それ以前の猿人も、残念ながら絶滅しました。我々に一番近い人は、ネアンデルタール人といいますが、ネアンデルタール人はヨーロッパまで行って絶滅しました。そのネアンデルタール人の誕生は60万年前です。彼らを旧人といいます。それに対して我々は新人といいます。
 この四段階、猿人、原人、旧人、新人。化石が見つかっていないだけで、この他にもいたかも知れませんが、われわれ新人以外はすべて絶滅しました。

続く。


新「授業でいえない世界史」 1話の2 新人の発生

2020-03-28 11:00:17 | 新世界史1 人類の誕生

【新人】
 20万年前になると、新人、つまりクロマニョン人が誕生します。この時代になるとアメリカ大陸にまで広がります。世界に1種類の人間が満遍なく地球上に分布する。こんな動物は他にありません。ニホンザルはヨーロッパにいませんし、オランウータンは日本にいません。ライオンだって、キリンだって生息地は限られています。世界中にまんべんなく生息している哺乳類って、ほかにいますか。
 そういう動物はそのものすごい進化をしている。いろんな環境に適応しなければならないから。1種類の人間が全世界にいるというのは動物界では異常なことです。

 普通は、動物種には原産地というのがあって、一定の環境の狭い地域でしか生息できないです。その条件に合った場所でしか暮らせません。
 アフリカという熱帯から発生したのが人間です。なぜ氷に閉ざされた寒い北極圏にイヌイットといわれる人たちが住んでいるのか。オーストラリア大陸という、アフリカとはまったく別の大陸に、アボリジニーという人が住んでいるのか。そういう自分の原産地とは異なった地域に、人間が移り住んで適応できたのはなぜなのか。そういう意味ではかなり大変なことが起こっていたのです。


【人類誕生CG】4万3000年前 進化したホモ・サピエンスの狩り【NHKスペシャル×1.5ch】Homo sapiens’ advanced hunting




【死者の埋葬】 一説によると、旧人、つまりネアンデルタール人になると死者を埋葬するようになります。ただ埋葬は新人からだという説もあります。我々は死んだ人間をなぜ手厚く葬るのか。
 ここで多分、彼らは目に見えないものを頭の中で見ている。この世で自分が生きていることはみんな知っています。しかし彼らはもう「あの世」を考えている。

 このことと、人間がお化けや幽霊を恐がることとは、どうも関係しているようです。人の死を見て、「どこにいくんだろうか」と思う。「あの世があるのかどうか」・・・・・・それを見た人は1人もいませんが・・・・・・しかしほとんどの人間はそれを想定しています。  
 そうでないと葬式などできません。ホントに無宗教な人間は人が死んだって葬式なんかしないのです。葬式をすること自体、死後の世界を想定しています。これは宗教の発生です。

 シャニダール洞窟では、土壌から大量の花粉が検出されて亡骸に花輪が載せられたことを示すように見えたところから、死者に「花をたむけ」ていたのだと考えられたこともあった。しかし今では、この花粉は洞窟に風で流されてきたか、調査のための作業員の靴について運ばれてきたなどとも考えられている。ネアンデルタール人の埋葬がどんな意味をもつものだったかは依然としてはっきりしていない。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社  P179)

 死後存続の信仰は、なおさら埋葬によって確証されるのである。さもなければ、死体を埋めるために傾けられる努力は理解しがたいであろう。この死後の生はまったく「霊的なもの」、すなわち魂の死後の存続として考えられるが、これは、夢に死者が現れることによって強められた信仰であろう。・・・・・・屈葬が「生ける屍」への恐怖(一部の民族のあいだにみられる恐怖)をあらわすどころか、逆に「再生」の願望を意味しているということを、否定するものは何もない。というのは、意図的に胎児の姿勢をとらせた埋葬の例は、多数知られているからである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P31)




【見えないもの】 目に見えないもの、誰も見たことがないもの、死を想定すること、さらに死後の世界を想定すること、これが何の役に立つのかわからないですが、人間はずっとそうしてきました。
 宗教を信じない人、自分で「宗教を信じない」と言う人はいますが、人の死を見て悲しまない人はいません。そして葬式をやっていく。墓をつくって祀っていく。

 これは宗教の発生です。日本人は自分が宗教的であることを、あまり自覚していませんが、宗教を信じていないわけではないです。日本にも宗教は根づいています。このことを勘違いすると大変なことになります。
 宗教を信じないという人はいますけど、宗教のない社会はありません。人間のいるところ、必ず宗教があります。宗教のあるところ必ずお化けや幽霊がいます。神様もいれば悪魔もいます。人間はそのようなものといつもいっしょに住んでいる生き物です。



【認識する力】 もう一つ、我々は新人ですが、20万年前のネアンデルタール人と比べると、さぞかし今の人間がネアンデルタール人よりも、頭の脳味噌は大きかっただろうと思いがちですが、それは違うんです。
 ネアンデルタール人と我々は、脳味噌の重さ自体は変わりません。ではなぜネアンデルタール人は滅んで、なぜ我々新人は世界的に分布するほど繁栄しているのか。

 これは脳の容量ではなくて構造が違うのです。脳の構造が変わってくる。どう変わったのか。まだ半分以上は謎ですが、ネアンデルタール人は我々と比べると、どうも目に見えるものだけで生きていたようなんです。
 しかし我々は目に見えないものを見ている生き物です。宗教はその最たるものでしょう。宗教的想像力が一体何を生み出していくか、ということはものすごく大きな問題です。
 良いことも悪いことも生み出していきます。



【似たものの類推】 我々はいろんな似たものを集めて、「これとこれは同じ、これとこれは違う」とか、まとめる力や総合する力、さらにそれを統一する力を持っています。
 こういうことと、ああいうことがあって、それを経験していくにつれて、この経験をもとに別の結論を導いたりする。
 人間は若いときこそ価値があるという若者文化もいいですが、ふつう人間は経験を重ねるに従って賢くなる。過去のことを覚えていて、その経験をもとに新たな結論を導いていく。これは総合する力なんです。この総合する力というのは、別の言い方をすれば抽象力です。

 ネアンデルタール人は目に見えるものだけを考えています。具体的なモノに対する対応力だけが発達しています。ネズミがいると、それをどうやって捕まえるか、その能力はわれわれの能力を超えていたでしょう。しかし、われわれ新人はその能力よりも、何かをまとめる抽象力に長けています。
 この能力があると、まず騙されにくくなります。世の中には非常に似たものがありますが、一見似ているけれども違うもの、つまり偽物だというものもある。逆に一見非常に違うように見えるけれども、実は同じだというものもある。

 例えば「山」というのがあって、これをこういうふうに「山」(くずれた草書体)と書く人がいる。経験すれば、これは同じものを表現していることが、日本の高校生ぐらいだとわかる。しかし、それが同じものか違うものかというのは、文字を知らない人間にはわからない。違うと言えば違う。しかし似ているといえば似てる。
 では逆に、ひらがなの「り」と、カタカナの「ソ」。これも似てるといえば似てる。でも我々はこれを読み分けられる。このひらがなの「り」と、カタカナの「ソ」の判別。機械の能力ではものすごく微妙なプログラムを組まないとわかりませんし、ほとんど同じに見えても文脈の中で読み分けたりします。

 人間は無意識のうちに、「これは同じ、これは違う」と見分けている。そういう能力があって、文字を書けるし読める。「違っても同じ、似ていても違う」、それを識別する能力をもっています。
 これは悪い例ですけど、詐欺師はこういう能力に長けていて、違うんだけど似たものを同じに見せかけて人をだましたりする。しかしまともな人間は、「それは嘘だ」と見抜く能力をもっている。「これはどうもおかしいぞ」と疑う力、これがわれわれの脳味噌です。




【笑い】 「似ていても違うもの」を見分けられずに、同じものだとしてしまうと、困ったことになります。時々それが起こります。実害がおよべば大変ですが、実害がおよばない論理上の勘違いには、「笑い」が起こります。「笑い」は違った思考を重ね合わせたときのズレなのです。

 例えば、ハトと遊んでいる幼い子供を見たら、誰でもほほえましいと思いますね。その子供がハトをつかまえようとして、「おいでニワトリさん」と言ったら、君たちはその間違いに怒りますか、笑うでしょう。子供は、ハトとニワトリの区別がつかないのです。羽根をもつものは全部ニワトリだと思っている。それがおかしいのです。これが「おいでトリさん」だったら、おかしくない。ハトはトリだから。でもハトはニワトリではない。「似ていても違うもの」を見分けられないことがおかしいのです。トリ、ハト、ニワトリ、その概念形成が進んでいない。そして実害がない、だから笑えるのです。

 これがライオンに子供が近づきながら「おいでネコさん」と言ったら、大人は真っ青になって子供を止めるでしょう。ハトとニワトリを間違ってもいいけど、ライオンとネコを間違ったらとんでもないことになります。それは危険なことです。

 さらに人は危険でない間違いをわざとやることもあります。笑いも高度な思考力の表れです。知的な人ほど笑うし、笑わせるのです。それは多くの似た概念を重ね合わせて、わざと少しずらしてみせることです。これはかなり頭を使うことです。だから簡単に「お笑い芸人」になろうなどとは思わないほうがいいです。笑いが暮らしのなかで自然に出てくるのはいいけど、それを職業として24時間考え続けなければならないのは、とんでもなく神経をすり減らす仕事だと思いますね。しかも、その苦労を表に出した瞬間に、笑いは消えてしまいます。


 旧人はネアンデルタール人です。我々はホモサピエンスです。その一種がクロマニョン人です。この二つの人間は脳の容量は1500ccと変わらない。でも構造が違う。
 この違いは多分、前頭葉だと言われています。総合する力というのは前頭葉あたりにある。脳の容量は60万年前から1500ccで変わらないけど、どこか構造が変化しています。

【流動的知性】
 科学も芸術や宗教と同じく認知的流動性の産物である。科学は、もとは特化した認知領域群の中で進化した心理学的過程群に依存し、それらの過程がいっしょに動くようになって初めて出現した。・・・・・・認知的流動性は、それなしでは科学が成り立たないほどの強力な比喩や類推が使えるようになるという可能性を開いた。・・・・・・初期人類に比喩が使えなかったのは、認知的流動性が欠けていたからである。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P282)

 ニューロンの結合の仕方が格段に複雑になって、ネアンデルタール人のでは見られなかったような「横断的」な結合組織が、現生人類の脳にはつくられるようになっていたのです。容量の大きなネアンデルタール人の脳では、技術的な知識、社会的知識、博物学的な知識などを扱う領域が、それぞれに分離されていて、いわば大部屋に図体の大きなコンピューターを並列に配置して、それぞれが得意領域を扱うコンピュータが独立に作業をおこなっているような状態でした。
 それが現生人類のもつ新しいタイプの脳では、違う領域の知識を横につないでいく新しい通路がつくられ、そこをそれまで見たこともなかった「流動的知性」が高速度で流れ出したのです。この変化によって、私たちがいま獲得しているような知性の能力が可能になりました。流動的知性は、異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合わせたりすることを可能にしました。こうして「比喩的」であることを本質とするような、現生人類に特有な知性が出てきたのです。(カイエソバージュ4 神の発明 中沢新一 講談社選書メチエ P57)

 この流動的知性は、異なる認知領域のあいだにつくられた通路をとおって、横断的に流れていきます。それによって人類に特有の思考が発生するのですが、そのとき流動的知性そのものは、どの領域にも所属してしまうことがない、という特性をもちます。つまり、流動的知性が動いていくことで「何かについての思考」というものが発生しますが、流動的知性そのものは、何かについて思考するのではなく、思考そのものを思考するというやり方で、諸領域を横断していることになります。(カイエソバージュ4 神の発明 中沢新一 講談社選書メチエ P59)



【共存】 しかもこういうネアンデルタール人とクロマニョン人が一時期、共存していたということがわかってきました。クロマニョン人がヨーロッパに行ったら、自分たちと違うネアンデルタール人がいたという時期がある。互いにどういうリアクションしたんでしょうか。互いに同種として接するんでしょうか。別種として接するんでしょうか。

 今までは別種だから「関係なかった」と言われてきましたが、DNAの解析が進んで、3年前に「我々ホモサピエンスの遺伝子の中には、ネアンデルタール人の遺伝子が少数ながら混じっている」と発表されました。これどういうことなんでしょう。
 早い話が「交配してた」ということです。クロマニョン人の女はネアンデルタール人と交配していたんです。だからネアンデルタール人の遺伝子が我々にも残っている。ちょっとミステリアスな展開なのです。
 一時、われわれ新人はネアンデルタール人と共存した時期があります。その遺伝子も入っている。

 一説では、そのネアンデルタール人は、さっき言ったように死者に花を手向けて埋葬していたといいます。なぜこんなことが分かるのか。考古学者も土を掘り起こしているだけじゃない。何を採取したか。ネアンデルタール人の骨が見つかると、次にしたことは周りの土を採集したんです。するとその中から自然界の数百倍の何が発見されたんでしょうか。花粉の化石です。ネアンデルタール人の骨の周辺の土から、自然界の何百倍もの花粉の化石が発見された。顕微鏡で調べたんですね。
 ということは、そのネアンデルタール人はお花畑の中で死んだと考えることもできますが、普通、死ぬときには目立たないように草むらの陰で死ぬでしょうから、「生き残った人間が花をもってきて手向けた」と考えたほうがいい。そうでないと、自然界の何百倍もの花粉が出てくるようなことは起こらないのです。

 しかしこうなると、彼らは今の我々とほとんど変わらない感情を持っていたことになります。一週間前に私の親戚に不幸があって葬儀が終わると、私も死に化粧の顔の横に花を手向けました。こういうことを我々は60万前からやってきたことになります。

 この力は一体どこからやってくるのでしょうか。そのような「命の永遠」を考える力と、「宇宙の無限」を考える力は同じようです。人間の思考能力は「無限」を考えることができるのです。こんなことはオオカミは考えません。わからないけど。でもそうでしょう。オオカミにとってそんなこと考えても何の役にも立ちません。人間はなぜこんな役に立たないことを考えるのでしょうか。でもムダなことをする動物は滅びます。人間は滅んではいません。それはムダではないからです。

 ムダとは何でしょうか。
 「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生れけん」と平安時代の梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は謡っています。昔の日本人は知っていたのです。遊ぶために生まれてきたことを。この遊びというムダが大事なのです。

 念のために言っておくと、この遊びはたんなる遊びじゃないですよ。「何の役にも立ちそうもない大いなるムダ」です。それこそが「遊ぶ」ということなのです。人間の大いなる発明や発見は、いつもその後ろにこの「遊び」があります。早い話、おもしろいからしていただけなのです。でもそれが世界全体を変えていきます。

 世界史を学ぶことも、実はこの「大いなるムダ」に属します。そんなムダなことに自分の一生を費やすことは人間にとって珍しいことではありません。ある人はそういう人をバカにし、またある人は羨ましがります。人間は本当に変な生き物です。
 その新人もアフリカで出現し、他の人類が繰り返し何百万年前からやったように「出アフリカ」を行なった。しかしアフリカを出て全世界にまで広まることができたのはわれわれ新人だけです。ホモ・サピエンスだけです。

続く。


新「授業でいえない世界史」 1話の3 旧石器時代 狩猟・採集

2020-03-28 10:59:23 | 新世界史1 人類の誕生

【狩猟・採集】
 彼らは狩猟・採集の生活をしていました。
 男女の役割分担というと、今の男女平等の考え方からすると間違った考え方のようにとらえる人もいますが、日本の桃太郎の話にもあるように、「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」行っていました。

 この時代、動物の狩猟はおもに男の役割であり、植物の採集はおもに女の役割でした。このことが次の時代の農耕と牧畜の分岐点になります。
 フランスのラスコー洞窟や、スペインのアルタミラ洞窟の絵画は、この旧石器時代に属します。ラスコーの絵画は約2万年前のものです。そこには動物の絵がリアルに描かれています。それからほんの1万年で、彼らは農耕を開始します。


【ラスコー洞窟の壁画】The Dordogne, France: Lascaux's Prehistoric Cave Paintings 



 考古学的資料は、石器時代の芸術が暮らしやすい環境のーー時間に余裕があってのーー産物ではないことを教えている。むしろ、人々が厳しい制約のある条件下で暮らしていた中から生まれたものがほとんどである。ヨーロッパにおける旧石器時代の芸術の繁栄は、最後の氷河期のまさに最中の頃の、環境条件がひどく厳しい時代に生じたものだ。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P208)

【シベリアのツングース族】
 ツングースは基本的には森の民であり、遊牧的な狩猟生活に高く順応している。機敏で軽やかな体格をしており、鋭い観察力を持っている。周囲の環境にとけ込みやすく、速く静かに移動する。大股に歩いて、主な食糧となる動物や魚を捕まえるのである。サモイェードと同様に彼らは、数本のカラマツの棒と、トナカイの皮もしくはカバの樹皮のシート・カバーででき、持ち運びに便利な円錐形テントに住んでいた。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P66) 

 ツングースは、一つか二つのテントに住む二組の家族からなる小さな集団で、ほとんどの季節を過ごしたが、夏になると同じ氏族の家族が、12個ぐらいのテントからなるキャンプ地に集合した。何よりも火の煙で、トナカイの群を害虫から保護するのに便利だからであった。すべての北方アジアの社会と同様に、共同体的精神が強くて、狩猟の獲物は、それを殺した猟師のものではなく、参加した仲間全員に属した。この習慣をツングースはニマトと呼んだ。トナカイは氏族全体の財産であった。荒涼とした厳しい環境条件の下で、相互扶助の精神が発達していて、森の様々な地点に設けられた貯蔵庫に自由に出入りできた。氏族は、ある一定の領域を彼らの猟場と見なしたが、もともと大地はすべての人間と動物に属すると考えていた。従って排他的な権利を要求することはなく、もし必要であれば、他の人と領土を分け合うこともあった。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P67) 

 森林ツングースは二十を超える部族がいた。それぞれは多数の氏族からなっていて、結婚相手は、同じ部族内の別な氏族から見つけなければならなかった。・・・・・・婚前の処女性は尊重されなかったが、花嫁の家族での夫の奉仕、「花嫁代稼」や持参金を含め、婚姻が公認されるまでには、いろいろな慣習条件を満たさなければならなかった。婚姻外の性的関係は、要するに多妻制は厳格な規則で禁止されていて、婦人は、彼女の夫、もしくは母親の氏族の「年少者」に数えられる男性とだけ、付き合いが許されていた。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P67)

 ツングースの士族に、世襲もしくは恒常的首長はいなかった。しかし、時たま氏族全体の集会を開いて、凶悪犯罪に対する処罰や離婚を決めた。そのような集会では、長老やシャーマンの意見が重んじられた。戦争の遂行も氏族集会で決められ、また、主としてこの目的のために、一時的な指導者が選出された。ツングースは個人的な財産をほとんど持っていなかった(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P68)

 他のすべてのシベリア民族と同じように、ツングースは首尾一貫した宗教的宇宙観を持っていた。彼らは、世界が三つあると信じていた。それは、人々が日常暮らしている中間の世界、最高神と他の神々の集う天上界、死者の魂の宿る地下の世界の三つである。これら三つの世界は川でつながっていた。自然界全体は、森、山、川、動物、魚等々の「主」という形をした超自然的な力で、生命が吹き込まれていた。シャーマン(ツングースの言葉に由来する)のはたす役割の一つとして、結婚式、葬式、狩猟シーズンの始まり、氏族の分割等のような機会に、この目的のために特別に飼育された白色、もしくは斑色のトナカイを犠牲にして、宗教的儀式を挙行することである。シャーマンの偉大な力は、自らの魂を精神世界に飛翔させて神霊と接触し、彼らをコントロールできるほどの精神力にあった。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P68)

 ツングースは、人間の存在のためにもし必要ならば、動物や木を殺すことが許されるが、不必要な苦痛、死、破壊は悪であると考えていた。そこで彼らは、捕って来た獲物に対してある種の敬意を払い、北方ユーラシア(および北アメリカ)のすべての民族によく見られるように、特に大切にあつかった。どうしても熊を殺さなければならない時には、厳格な慰霊の儀式を行って慎重に解体し、骨を埋葬した。中央シベリアのカラマツ森林帯が、ツングースの住み慣れた場所であったが、おそらく猟場を求めて、本来居たバイカル湖東からあらゆる方向へと移動したのであろう。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P69) 

【シベリアのブリヤート】

 すべてのモンゴルと変わりなく、ブリヤートも16世紀までシャーマンの宗教を信じていた。けれども、彼らのシャーマニズムは、シベリア社会のなかでも、かなり込み入った形をとり入れていた。と言うのは、彼らは自然現象を体現する精霊を崇めただけでなく、99人の神と、多数の祖先とその子孫から構成された複雑な神々の世界を持っていった。・・・・・・シャーマンを信じるすべてのモンゴルと同じく、ブリヤートの宗教的行事の中で中心的な儀式は、天の神テングリへの血の犠牲で、馬を殺して、その皮を高い棒に吊るすのであった。チンギス汗も知っていたこのシャーマニズムは16世紀後半まで存続したが、その後チベットから伝来した仏教が、モンゴルの間に急速に広まった。けれどもブリヤートは、次の世紀になるまで、部族の宗教を捨てなかった。実際、主にバイカル湖東で暮らしていた人々がその当時仏教を採用したが、森にいた西のブリヤートは、シャーマニズムのままであった。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P103) 

 ブリヤートは、ほとんどのシベリア先住民族よりも人口が多く、17世紀には少なくとも三万人いた。彼らの社会組織も、かなり高度に発展していた。氏族の首長(汗、タイシ)は世襲の貴族制度を形成し、一般の氏族成員に相当の権力をふるっていた。家畜の群れを所有する富裕階級が、特に東ブリヤートに存在した。とは言え、牧草と草地の権利は共同体に属し、相互扶助の氏族制度が機能していた。既に17世紀に、伝統的な部族的体質を多くとどめていた西ブリヤートと、中央モンゴルと密接な関係を持ち、ある種の封建制度へと歩み出していたバイカル湖東のブリヤートとの間に、社会構造上差異が発達していた。けれども西側においてさえも、首長は権力を行使し、隣の部族を支配下に置いて、彼らから貢納を強請していた。ブリヤートの首長たちも、戦争のために武装した兵を供給するように、臣民に要求していた。(シベリア先住民の歴史 ジェームズ・フォーシス 彩流社 P104) 



【動物との共存】 彼らはなぜこんなリアルな動物の絵を描いたのでしょうか。どうも彼らは動物に人間の心を見ていたようなのです。男が女性を女神様とするように、動物を人間としたのです。動物と人間を重ね合わせたのです。それは動物と人間を比較していたからできたことです。
 比較するということは大事なことです。二つのものを比較するためには、それよりも一段上の視点がなければなりません。これがなければ、人間は自分のことさえ分かりません。ジコチュー人間にはこの視点がありません。人は自分と他人を比べることによって、初めて自分が分かるのです。

 世界の中心に自分がいるようなジコチュー人間は、自分のことが分かりません。自分のことが分かるためには、自分を中心に見るのではなく、自分を上から見るような視点が必要です。そういうことを難しくいうとメタ認知といいますが、それがこの時代の人間にはできたのです。そうやって見ると、まず自分の心が浮かび上がってきます。人は自分の心を見れるのです。自分の体とは別のものとして、自分の心を形あるものとしてつかむことができます。そうすると自分に心があるように、他人にも心があることが理解できるのです。よく「人の心は分からない」といいますが、そうではありません。人は、他人の心を自分の心と照らし合わせて、類推することができるのです。

【比べること】
(●筆者注) 「考える」ことの本質は「比べる」ことにあるようです。我々はあまり意識しませんが、比べる対象がなかったら、「違い」が分かりません。その「違い」が分からなければ「考える」ことはできません。これが思考の本質なのです。料理のプロは、味の違いが分かるからプロなのです。医者は、病気の違いが分かるからプロなのです。比べて、同じか、違うかが分かること、これが思考の本質です。
 同じように見えて違うものもあれば、違うように見えて同じものもあります。どこが同じで、どこが違うか、そこまで見分けることができるようになると、それは「分析」と呼ばれます。でもそのベースにあるのは、どちらも同じ「比較すること」です。これを我々の脳は無意識にやっています。
 そして同じもののグループができあがると、それが「概念」と呼ばれるものになります。これは現実社会では存在しないもので、頭のなかでしかとらえることのできないものです。「愛」とか「憎しみ」とかは目に見えない一つの概念です。「神」も人間がグループ化しえた一つの概念です。
 鉄が磁石にくっつくことと、リンゴが木から落ちることはまったく別のことだと思われていましたが、ニュートンはそれを同じことだととらえました。そして「引力」という概念を生みだしました。これを見た者はいませんが、今ではその存在を疑う人はいません。「星の王子様」を書いたサンテグジュペリは言いました。「だいじなものは目に見えない」と。人間は、目に見えないものを見ることができます。
 さらに人は、自分が考えていることと、他人が考えていることを「比べる」ようになります。こうやって、考えている自分を見て、その考えている自分をさえ考えることができるようになります。これが「メタ認知」です。これも自分と他人を「比べる」ことがベースにあります。
 この「比べる」という脳の働きは、もともと別のことをしていたパソコン同士がある時ふと結びつくようなもので、自分が意図してできるものではないことが多いのです。例えば、磁石のことを考えているときと、リンゴのことを考えているときとでは別のパソコンが働いていて、磁石とリンゴのあいだには何のつながりもありません。その無関係なものが、ある時ふと結びつくということは、何かの拍子で思考と思考とが重ね合わせられるということで、思考が重層的になるということです。それは右の頭で磁石のことを考え、左の頭でリンゴのことを同時に考えていないとできないことです。例えて言えば、らせん階段を上りながら、上から下を見おろすような感じです。
 われわれは人と話しながら、よく別のことを考えたりします。先生から怒られながら、「先生の顔はゴリラに似ているなあ」と関係のないことを思ったりします。人間の脳はこのようなことを3つも4つも同時に行っています。そしてそこから似たものを引っ張り出してきます。でも先生の顔がゴリラに似ているからといって、「先生はゴリラだ」とはしません。でも鉄が磁石にくっつくのと、リンゴが木から落ちるのは、「引っ張られていることは同じなんだ」と気づくことはできます。こうやって、似ていても違うものと、違うけど同じものを、仕分けしていきます。
 それは頭のなかで多くのパソコンを同時に動かしていないとできないことです。そこから「違うけど同じもの」を一つのグループとして概念化していきます。
 これはものごとを視覚でとらえることではなく、機能でとらえることです。機能をとらえることは、脳の働きそのものです。われわれは脳の働きそのものを比較しているのです。これがわれわれ新人の脳に特徴的なことです。


 動物を心があるものとしてとらえるのです。心は脳の働きで目に見えませんが、彼らは言葉を用いてそれを概念化します。代表的な言葉は「霊魂」でしょう。この霊魂は誰も見たことがありませんが、それを体と切り離して抽出し、一つの実体としてとらえられます。

 彼らは、動物が人間のような心をもっているものととらえます。それは、どうかすると人間よりも、もっと賢い心でした。彼らは畏敬の念をもって動物を崇めるようになります。ラスコー洞窟の壁画を描いた人たちにとって、動物は神のような存在でした。これがトーテミズムといわれるものです。トーテムとは、彼らが崇める特定の動物のことで、この語はアメリカ・インディアンの言葉に由来します。トーテンポールという木の柱を見たことないですか。そのトーテンポールのトーテムです。

【トーテミズム】
 トーテミズムの三つの特徴を簡単に見ておいてもいいだろう。
第1に、おおまかに定義した場合、トーテミズムは狩猟採集の生活様式で暮らしている人間の集団に一般的である。
第2に、トーテミズムは動物に対する思考と人間に対する思考の間に認知的流動性を必要とする。
第3に、考古学的な証拠をもとにすれば、トーテミズムは上部旧石器時代(約4万年前~)が始まった頃から人間の社会に広まっていた可能性がある。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P218)

 彼ら(ザイールのムブティ族)は「森は親」と考え、それは「近しい血縁がものを与えてくれるのと同じ意味で、ものを与えてくれる環境だ」と考えるのである。同様に、カナダの北極圏にいるイヌイットは、「自分たちのいる世界が意志や目的という人間的な性質をもったものと見るのがふつうだ」という。・・・・・・自然界を社会的な視点で考えるというこの傾向は、どこにでもある擬人的な思考ーー動物が人間のような心をもっているとするーーに明らかなところかもしれない。・・・・・・イヌイットの神話には、人間と白熊がお互いに相手に姿を変えられた時代があった。この考え方ーー昔の人間は、人間ではない動物と、お互いに相手に変身できたというものーーは、実は、狩猟採集民の心に広がっている一つの特徴である。それは社会人類学の礎石とも言える研究の対象になったトーテム的思考の基盤である。・・・・・・インゴルドは、「彼ら、現代の狩猟採集民にとっては、人の世界(社会)と物の世界(自然)という二つの世界があるわけではなく、対人的な力で飽和しており、人間も、それが依存している動物や植物も、両者が暮らして動いている地勢も含めた一つの世界ーー一つの環境ーーがあるだけだ」と書いている。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P65)

 獲物をたえず探しまわり、殺すことは、狩猟者と殺された動物とのあいだに、ついに独自の関係の体系を創りだした。・・・・・・ここでは、狩猟者とその獲物とのあいだの「神秘的連帯性」は殺害行為そのものによってあきらかにされ、そこで流される血は、あらゆる点で人間の血にひとしい、ということを想い起こすにとどめよう。要するに、獲物との「神秘的連帯性」は、人間社会と動物界とのあいだの親族関係を示すものである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P24)

 耕作民が殺害を、自分の生存を保証する、すぐれて平和な仕事と関連づけているのにたいして、狩猟民社会では殺害の責任を他人、「よそ者」に負わせていることは、意義深いことである。狩猟者は次のように理解される。彼は殺した動物(より正確にはその霊)の復讐を恐れるが、動物主の前で自分を正当化する。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P70)

(●筆者注) 動物を殺すことは「いけないことをしている」という恐れがあった。罰がくだることを恐れた。それを無くすためには狩猟者と動物との間に五分と五分の対称的関係がなければならなかった。人間が動物を殺すのであれば、人間も動物に殺されなければならなかった。それを儀式によって再現しようとした。

 未開人狩猟者は、動物を人間と同類だが、超自然的力を授けられている存在だと考える。彼らは、人間が動物に変わることができ、動物が人間に変わることができる、死霊が動物に入ることができ、特定の人と動物のあいだに神秘的関係が存在する(これは最近まで守護霊信仰とよばれたものである)と信じている。・・・・・・
 たとえば、動物を殺すことが儀礼を構成している。それは、狩猟者が食糧として必要なものだけを殺し、食糧を浪費しないように動物主が見守るという信仰をあらわしている。また、骨、とくに頭骨は儀礼において重要な価値をもっている(おそらく、骨は動物の「霊魂」もしくは「生命」を収蔵し、動物主は頭骨から新たな肉を生育させる、と信じられているからであろう)。頭骨や長骨を樹上や高所にさらしておくのはこのためである。ある民族では、殺された動物の霊はその「霊界」に送られる(アイヌ人や、ギリヤーク人の「熊祭り」参照)。また、殺された各動物の肉片を至高神に供えたり(ピグミー族、フィリピンのネグリト族など)、頭骨あるいは長骨を供える(サモイェード族など)習慣も存在する。・・・・・・作る人間は同時に遊ぶ人間、賢い人間、宗教的人間であった。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P28)

 インド・ヨーロッパ人やトルコ・モンゴル人の多くの部族は、肉食獣(第一に狼)の名祖(なおや)をもち、自分たちが、動物の姿をした神話的祖先の後裔だと考えていた。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P66)

 かつてサモアでは、一般にどの男も、何らかの動物の姿をした自分だけの神を持っており、その神聖な動物を食べると、神は復讐として食べた者の体内に住みつき、そこで同じ種類の動物を一匹生み、ついには彼を死に至らしめる、と考えられていた。たとえば、自分の神が棘の生えたウニであるという男は、ウニを食べると胃の中でウニが育ち、これに殺されてしまう。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P63)

 は死をもたらすことなくその身体から一時的に抜け出せる、という考え方が未開人には見られる。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P381)

 魂の外在という概念は珍しいものではない。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P390)

 複数の民話で、ある人物の生命はある植物の生命に懸かっているものとして描かれ、その人物が死ぬと即座にその植物も枯れてしまい、あるいは、植物のほうが枯れるとやがてその人物も死んでしまう。・・・・・・蛮人が自分に動物の名をつけ、兄弟を動物の名で呼び、その動物を殺すことをしない場合、この動物は彼のトーテムであると言われる。・・・・・・トーテムとは・・・・・・人間が自分の命をしまっておくための、単なる容器に過ぎない。・・・・・・体の外にも、ひとつの場所よりいっそう生命力に満ちた場所というものがあるはずだ、と蛮人は考えることだろう。自分の生命を外部に置けるのならば、その一部をひとつの動物に、別の一部を別の動物に移し替えてもよいではないか、ということになる。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P419~431)

 何にも増して蛮人は、妖術による暗殺をつねにひどく恐れながら暮らしている。・・・・・・蛮人に対して、魂の隠し場所を見知らぬ他人に打ち明け、みすみすそれを危険にさらすよう仕向けられるものなど、まずありそうにない。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P433)

 人間はなぜ自分の生命を体の外に預けておきたがるのか、と問われれば、これには次の答えしかありえない。現金を持ち歩くよりは銀行に預けることを選ぶように、人間は、おとぎ話の巨人と同じく、生命は自分で持ち歩くよりも他所に預けるほうが安全だ、と考えるのである。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P450)

続く。


新「授業でいえない世界史」 1話の4 祈る人

2020-03-28 10:58:43 | 新世界史1 人類の誕生

【心を読む力】 そうなると心を持っているのは、動物だけではありません。自分に心があれば、すべてのものに心があるはずです。山や川や、木や草も、空も海も、太陽も月も、風や雷もみんなそうです。
 では風の心とか、雷の心とは何でしょうか。それはたぶん我々の言葉でいうと神様に近いものではないでしょうか。そしてその神様の心を、自分の心と同じような動きをするものとしてとらえたのです。


▼ 風神雷神図屏風  俵屋宗達



 さっき言ったように、自分の心をとらえるためには、自分を上から見て他人と比較することが必要です。つねに我々は、人間を何か別のものと比較しているから、「女神のようにきれいな女性」とか、「ライオンのように強い男」とか、「雪のように白い肌」とか、「大根のように太い足」とか、ありとあらゆるものを比喩(ひゆ)的に表現することができます。でも女神と女性はちがうし、ライオンと男もちがいます。雪と肌とはちがうし、大根と足とはちがいます。それでいて、そういう比喩的な言い方を、イメージ的に理解できます。この能力が新人に特徴的な心なのです。

 小さな女の子は、お人形さんを大切にするでしょう。そしてお人形さんに話しかけます。それを見て「バカだな、お人形さんはしゃべれないぞ、話しかけてもムダだ」とは、誰も言わないのです。そんなことを言えば、女の子の心は育たないことを知っているからです。女の子はお人形さんを使って、無意識のうちに人の心を読む練習をしているのです。
 自分の心を読めない人は、人の心も読めません。人の心を読むためには、自分の心を読まなければなりません。人間は、人の気持ちになることができる動物です。ネアンデルタール人は、体力的には強くても、どうもこの能力に欠けていたようです。

 我々ホモ・サピエンスという人間は、「海」の気持ちにもなれるし、「空」の気持ちにもなれます。それと同じように「人」の気持ちにもなれます。そうでないと社会集団を形成できなかったでしょう。人間は自然界では弱い生き物ですから、人の心を読む能力がなければ、集団化することができずに、生き延びることができなかったでしょう。

 狩猟民にとって一番大事なのは獲物となる動物でした。人間が動物の気持ちにもなれることが、狩猟に対する圧倒的優位性を人間にもたらします。動物の気持ちになることによって、先が読めるようになります。人の気持ちが分かれば人の動きの先が読めるように、動物の気持ちになれば動物の動きの先が読めるのです。しかしそれは動物を見下していたからではなく、動物を崇めていたからできたことです。誰しも、見下してしまったものには注意を払わないでしょう。

【擬人化の思考】
 上部旧石器時代(約4万年前~)の現代人類は、動物の動きを推測することについても、その知識を狩猟の戦略に使うことについても、はるかに大きな能力をもっていたらしい。彼らはそれをどうこなしていたのだろうか。・・・・・・擬人化の思考だ。これは現代の狩猟民にあまねく見られ、そのことの重要性は、擬人化の思考が動物行動に対する予測を大きく改善できるという点にある。・・・・・・人間の人格や性質を付与して動物を擬人化することは、動物の行動に関して西洋の科学者がもっている生態学的知識をすべて理解して動物を見るのと同じぐらい有効な予測の道具になる。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P222)

 彼(狩猟民)は・・・・・・死に至らしめた行為に自分が加担したことを謝罪し、あるいはそれを隠そうとさえ務める。そして遺骸は丁重に扱うことを約束するのである。こうして犠牲者に対し、死への恐怖を取り除いてやり、犠牲者が自らの運命を受け入れてくれることを望み、またその仲間たちに対しても、やってきて同じように殺されてくれ、と誘いかけるのである。・・・・・・たとえば、(カムチャッカの人々は)熊を1頭殺してその肉を堪能した後、宴席の主催者はこの熊の頭を皆の前に差し出し、草で包み、様々な小物で飾る。そして熊の死の責任をロシア人に負わせ、怒りはロシア人にぶつけるようにと頼むのである。・・・・・・このようなことを行うのも、こうしてなだめないことには、殺された熊の彷徨える亡霊が、折あらば自分たちに襲いかかってくる、と信じているからである。(初版金枝篇 下J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P142)


【人類誕生CG】4万年前 ひ弱なホモ・サピエンスが集団で結束できた理由とは?【NHKスペシャル×1.5ch】How were vulnerable Homo sapiens united? 



【思考の全能】
 われわれの子供たち、成人の中の神経症者たち、そしてまた未開民族において、われわれは、『思考の全能』への信仰ともいうべき心理現象を見いだすのだが、これば、われわれの心的行為、ここでは知的行為と言うべきものが、外的世界を変えることができるとする、思考の持つ影響力の過大評価にほかならない。これだけでなく、われわれの技術の先駆とも言うべきすべての魔術も根本においてはこの前提の上に成り立っている。さらに言葉の持つあらゆる魔力に関する信仰も、ある名前を知りそれを口にすることに結びついている信仰も、この前提の上に成り立っている。
『思考の全能』は、知的活動の尋常でない促進をもたらした言語の発達にまつわる人類の誇りの現れである、と考えられる。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P190)

【祈り】

 マヤ人にとって・・・・・・洞窟は神聖な山の空洞・内部でもあり、山と洞窟信仰には深い関係があった。ピラミッド状基壇上の神殿の入り口は、洞窟あるいは超自然界への入り口を象徴し、神聖王が神殿内で神々と交流したのである。・・・・・・洞窟は暗く恐ろしい地下界への入り口でもあった。・・・・・・聖なる洞窟では、現在でも多くのマヤ人シャーマンが、雨乞いをはじめとする儀礼を執行している。(古代マヤ 石器の都市文明 青山和夫 京都大学学術出版界 P95)


 洞窟壁画に見られる擬人化された図像や副葬品を伴った死者の埋葬など、ここまでに見てきた新しい行動の多くは、上部旧石器時代(約4万年前~1万年前)の人たちが超自然的存在や、おそらく死後というものをも、初めて信じるようになった人たちだということを示している。我々は現に、宗教というイデオロギーの出現を目の前にしているのだ。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P230)

 蛮人は、より進化した人々ならば普通に行っている自然と超自然との間の区別を、ほとんど理解していない。蛮人にとって世界は、ほとんどが、超自然の代理人によって動かされているものである。つまり、自分と同じような衝動や動機によって行動する個人的な存在、自分と同じように哀れみや恐怖や希望に訴えることで心動かされそうな存在が、超自然の代理人とみなされたのである。このように理解された世界であれば、蛮人たちは、自然の移り変わりに対して都合の良いように影響を与える力が、自分には限りなくある、と考える。祈祷、誓約、あるいは威嚇によって、天候の恵みと豊富な穀物を神々から得ることができるだろう、と考える。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P29)

 共感呪術の原理のひとつは、どのような効果もそれを真似ることで生み出される、というものである。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P30)

 太古の社会では、自らを神と考えることなどまったくない人間にせよ、一般に、自分には超自然的な力が与えられていると信じていた。・・・・・・ならば、実際に神とみなされるほどの人間に帰せられる力が、どれほど強大なものとなるかは、容易に理解できよう。自然現象の中でも、おそらくは雨と太陽と風に対して以上に、文明人が自らの無力さを感じ取るものはないだろう。しかし蛮人たちは概して、これらのいずれに対しても、ある程度自らに制御可能であると仮定している。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P34)

 神々とは、人間の意志に従うよう威嚇され強要される存在であった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P61)

(●筆者注) このことがメソポタミアで、のち逆転する

 ポワイエは、非物質的存在に対する信仰が、諸宗教に共通するいちばんの特徴であると説明している。・・・・・・ポワイエは、宗教というイデオロギーに頻繁に現れる特徴を、この他に3つ挙げている。
第1に、多くの社会では、個人の非物質的な部分が死後も失われることがなく、信念や願望をもった存在としてとどまると考えられていること。
第2に、非常に多くの場合、社会の中の特に一定の人々が、神や精霊といった超自然的な媒介者からじかに霊感やメッセージを受け取りやすいと考えられていること。
第3に、広く、特定の儀礼を決まった方法で行うことで自然界に変化をもたらすことができるとも考えられていること。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P231)

 エスキモー族の考えでは、動物の方が人間よりも頭がよく、正直であるということになっていた。だから動物がとらえられるのは、人間をあわれんでとらえられてくれるからであると考えた。であるから狩りの獲物をおこらせないということが、宗教の重要な目的の一つであった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P95)

 (アメリカ・インディアンのズニ族は)人間は、生命を持つ世界の一部であり、神々の恩恵を受けるためには神をまつり、供え物をそなえ、祈りをささげることによって、世界全体をうまく運行させることが必要だと考えられていた。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P156)

 (アメリカ・インディアンにとって)野牛、トナカイ、サケ、クジラなどは「たのんで、許しを得て、いただく」ものであった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P217)

 言語学者は、言語はそもそも物理的対象のことをいうのに使われ、そうした概念が「比喩による拡充」によって社会的・精神的世界についての発話へと変化していったと考えている。しかし、反対にして見た方がわかりやすい。つまり、言語構造は社会的世界について話された時に生まれ、それが比喩によって拡充されたことで物理的な対象についても話されるようになったのだ。(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P247)


 霊魂と神様の違いはよく分かりませんが、よく似ています。神様の気持ちが分かるようになると、神様が人間に乗りうつる「憑依(ひょうい)」現象があらわれます。この神様もどこから乗りうつるのかよく分かりませんが、どうも上から降りてくるもののようです。空とか、天とか、天空といったものの観念と近いような気がします。ここでは人間を越える大きなものの存在が意識されています。人間はその大きなものの一部なのです。これはシャーマニズムといわれています。

【シャーマニズム】
 旧石器時代に、あるタイプの「シャーマニズム」が存在していたということは確実なことだと思われる。一方では、シャーマニズムは今日なお、狩猟・牧畜民族の宗教的観念を支配している。そして他方では、そのようなものとしてのエクスタシー体験は、原初的な現象として人間的条件を構成するものである。人間が夢も白日夢もみず、「忘我状態」(トランス)、すなわち魂の他界への旅と解釈される意識喪失を経験しなかった時代は想像することができない。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P43)

 いくつかの神話、とりわけ宇宙創造神話起源神話(人間、獲物、死などの起源に関する神話)は、旧石器時代人によく知られていたと断言してもよいと考えられる。・・・・・・天への上昇と「呪術的飛翔」(ワシ、タカの猛禽類の羽や羽毛)に関する神話・伝説・儀礼は、オーストラリアや南アメリカから極北地帯までの、すべての大陸にあまねく証拠づけられている。これらの神話は、シャーマニズム特有の夢やエクスタシーの体験と密接な関係をもっているのであって、そのアルカイックな性質は疑う余地もない。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P53)

 シャーマンエクスタシーにおける上昇、飛翔のシンボリズム、重力よりの解放としての、高さの想像上の体験は、天空の空間を、神々や精霊や文化英雄たち、すなわち超人間的諸存在の、とりわけて源泉であり住居であるとして神聖視するのに役立っている。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P54)

 言語の呪術・宗教的価値づけは、決定的役割をはたしている。ある種の身ぶりは、すでに聖なる力、もしくは宇宙的「神秘」の顕れを示すことができたであろう。・・・・・・人間の声は、情報、命令、欲求を伝達することができるだけではなく、音の破裂や音声を工夫することによって、想像的宇宙全体を在らしめることもできたのである。このことについて、エクスタシーの旅を準備するシャーマンの修業や、ある種のヨーガ瞑想のなかで繰り返し唱える呪言(マントラ)によってもたらされる、超神話的、超詩的、あるいは図像学的な想像上の創造物を考えれば充分である。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P54)

 死の神話におけるさまざまな主題は、シャーマンのエクスタシー経験の結果生まれたものであろう。・・・・・・異界でのシャーマンの冒険、エクスタシーによる地獄への下降や天界への上昇のなかで被る試練、これらは民話の主人公や叙事詩文学の英雄たちの冒険譚を思い起こさせる。(世界宗教史5 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P51)



【結婚】 余計なことをいうと、いつの頃からか人間は発情期を失います。君たちの誕生日はまんべんなく散らばっているでしょう。それは人間にとって当たり前のことですが、他の動物はそんな生まれ方はしないのです。いっせいに生まれるのですよ。動物には発情期があるからです。逆にいうと発情期以外は生殖行為ができないのです。でも人間はその発情期を失っています。でもそれでは子孫を残せない。だからいつでも生殖行為ができるようにしたのです。このメカニズムは不思議ですね。

 だから人間の生殖行為は本能的なものではないです。非常に後天的なものです。どう表現したらいいか・・・・・・。だから非常に知的なものを含んでいます。もてる男はたいがい知的なものです。別に学歴がある者が知的だとか、そんなバカなことをいっているんじゃないですよ。女性を誘うときのセンスのことをいっています。

 それと同時に人間は恥部を隠すようになります。隠すのは、それを外せばいつでも使えることの裏返しです。パンツもはかないような男はもてないでしょう。でもそのパンツを脱げばいつでも生殖行為ができる。これが人間のオスですね。女性のことはよく分からないけど、女性もほぼそれに対応しています。こうやって人間はいつでも繁殖できるようになります。でもそれは人間特有のものです。
 だからときどき男はそれに失敗して、肉体的には健康で筋肉隆々のムキムキマンが性的に「不能」になったりします。それは人間の性が非常に社会的なものであることを意味しています。

 本能ではなく、イメージで生殖行為をする動物、これが人間です。ときどき性的異常者が事件を起こしますが、あれは本能の制御が効かないからではないですよ。知的な性のイメージが倒錯しているからです。だから人間は非常に高度な知性をもった人に、性的異常者が現れたりします。興味が別のところに行ってしまうのですね。そんな悪魔的なこととも人間の「性」は関係しています。
 人間は本能だけではなく、頭の中のイメージで生殖行為をする動物です。人間は「性」のなかに、あるときは神を見、またあるときは悪魔を見てきました。

 そのことと宗教の発生は同じようなメカニズムが働いている気がします。だって女性を女神様といったりするじゃないですか。人間の恋愛には、スタンダール的にいうと「結晶作用」が伴います。「あばたもえくぼ」ですよ。そうでないと人間は性行動を起こせないのです。人間は自分のなかに性的興奮を喚起する女性像、または男性像をつくりあげ、それに向かって性行動を取っていく生き物です。

 だから人間の結婚生活は大変です。自分の頭の中で作り上げた女性像と、現実の女性は違うからです。それは女性にとっても同じです。でも結婚生活の知恵はもっと高度な話になります。それは君たちが結婚してから同じ土俵で語り合いましょう。
 結婚自体も人間特有のものです。結婚の意味も複雑です。結婚生活の知恵については語りませんが、結婚の成立については歴史的に重要だと思います。なぜこんな制度ができたのか、まだよく分かっていませんが。

 ただこれはたんなる生殖活動の場ではないですね。子供を育てる場でもあり、年老いた親の面倒を見る場でもありました。だいぶ崩れてきてますが。また社会活動の起点にもなる場です。男と女は子供を育てたあとも一生夫婦を続けることが期待されます。そして人間が幸せに死んでいく場でもあります。
 でも生殖活動の点だけからいうと、年老いた男女がいっしょに暮らす理由はありません。そこには深い意味がありそうです。それは何なのでしょうか。結婚するしないはともかく、結婚という制度をもたない社会はありません。人間に必要でない制度は存続しないのです。
 これは人間の精神的な面、肉体的な面の両方から考えないといけないようです。そしてそれは宗教的な面とも、社会的な面とも結びついています。

 性的な法悦感は、宗教的な法悦感と結びついています。「死ぬほど愛している」とか、「君のためなら死んでもいい」とか、言うじゃないですか。死んだら愛せないでしょ。でも人間の感覚としてはそうなんです。みんな無意識のうちにそれを感じとっているんです。なぜと結びつくのでしょうか。

 不思議なことに、日本人の感覚では、生と死はS音なんですよ。それにその周辺の関係する言葉もS音です。「生」「性」「聖」「祭」「死」、これらはすべてS音で始まりますね。君たちが興味のあるセックスも当然S音です。どうも日本人は生と死を分けて考えたんじゃないような気がします。勝手な想像ですけど、私の直感です。

【性行為の特徴】
 ベストセラーとなった「銃・病原菌・鉄」の著者ジャレド・ダイアモンドは犬から見た人間の性を、犬の言葉として次のように表現している。
「あの気色悪い人間たちときたら、月のどの日でもセックスをするんです。妻のバーバラは、生理の直後など妊娠の可能性がないとわかりきっているときでさえセックスを求めます。夫のジョンもいつでもセックスに乗り気で、それで子供ができるかどうかにはまるで無頓着です。もっと身の毛のよだつことだってあります。二人はバーバラの妊娠中もセックスをやめなかったんですよ。ジョンの両親が泊まりにきていたときでも同じです。それに両親のほうもセックスをしているんですよ。ジョンの母親は何年も前に例の閉経とやらを迎えていて(閉経があるのは人間だけです 筆者注)、もう妊娠することはできません。それなのにまだセックスを求めていて、夫はそれに応えてやっているんです。なんという無駄でしょう。しかしなにより奇怪なことがあるんです。バーバラとジョンは、それそれにジョンの両親もですが、寝室のドアを閉め、二人きりでセックスをするんですよ。友人たちの前ではしないんです。自尊心の強い私達犬とは大違いです。(セックスはなぜ楽しいか ジャレド・ダイヤモンド 草思社 P9)」

【異なる結婚観】
 (東北シベリアの狩猟民であるチュクチの社会では)結婚は、まだ幼少の時期に両親が将来の相手を取り決めたが、この幼い婚約が、未婚の若人の間で自由に行われる性交渉の障害になることはなかった。チュクチには「処女」にあたる言葉は無かったし、庶出児の出産も喜んで受け入れた。一夫多妻は、離婚と同じほどしごく当たり前であった。夫婦だけの排他的な性関係も無かった。同じ集団もしくはキャンプのメンバーでなく、また兄弟でもない第二、第三親等の従兄にあたる数人の男は、通常互いに相手の妻と性交渉のできる権利を持つ「妻の友人」であったという意味で、群婚が存在した。エスキモーと同じように、訪れた客人に対し、主人が妻の一人を彼と寝かせて、歓迎の意を表するという習慣もありふれていた。すべての原始社会で見られるように、これらの性的関係は習慣となっていて、平和な時あるいは戦争の時でも、相互援助の基礎と社会的団結をもたらすものであった。既存の規則に違反した人物を裁く部族の首長もいなければ、また権威の概念、集団責任もないような社会では、このような家族の紐帯がとても重要であった。認められた範囲内での性的自由は、放縦な乱交を意味していなかった。この点については、ヨーロッパの侵入者とキリスト教の偏見によってまたたくまに誤解を受け、しばしば非難の的となった。(シベリア先住民の歴史 J.フォーシス 彩流社 P91)

 (モンゴルと南シベリアの間に位置する遊牧民社会のトゥバでは)16歳といえば娘は完全に適齢期だし、14歳で子持ちの娘も少なくない。しかも未婚のままで。若者と娘たちにあてがわれる自由はたいへん大きなものである。ある古老が話してくれたところによると、昔は、富裕な父親は自分の未婚の娘たちに特別のユルタ(テント式住居)をあてがい、娘たちはその中で誰にも妨げられずに、気に入った誰とでもいっしょに過ごすことができるという習慣があった。・・・・・・とにかく未婚のまま生まれた子どもは、娘にとってぜんぜん不名誉でも何でもない。子どもがいるということは、娘が妊娠できるということの証拠になるので、かえって娘に払うべき買い値を高めることになるのである。娘が子どもの父親以外の男と結婚する場合、トゥバの習慣のせいで誰が父親であるかをはっきりさせることはむつかしいのだが、それがわかっていれば、子どもは祖父母のもとに置かれ、孫と見なされる。(トゥバ紀行 メンヒェン・ヘルフェン 岩波文庫 P138)

【成熟する女性への恐れ】
 クリーク・インディアンおよびその血縁のインディアンは、月経期の女を強制的に、村から離れた場所にある小屋に住まわせた。・・・・・・月経期の女を隔離する目的は、その女から発せられると仮定されている危険な力を、制することである。・・・・・・娘はある強い力を備えた存在とみなされており、その力は、もし制限されなければ、娘自身と娘が接触するすべての人々を、破滅に追いやる可能性がある。・・・・・・年頃の娘のいわゆる不浄と、神聖な人間の聖性とは、未開人の頭脳にとっては異なるものではない。それは現れ方が異なるだけの、同じ超自然的なエネルギーである。・・・・・・たとえば年頃の娘のように、神聖な人物が地面に触れてはならずまた太陽を見てもならないというのならば、その理由の一方は、その聖性が大地もしくは天との接触により、いずれかに致命的な打撃を与えるかもしれない、という恐怖にある。・・・・・・人々の安全が、さらには全世界の安全までもが、その超自然的な力の適度な放出にかかっている、と信じられているからである。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P302)

 トーテミズムやその種の制度が未然に防ごうとしている特別な危険は、性的に成熟するまでは起こらないもの、と考えられている。そして事実、ここで懸念されている危険は、男女の性的関係に伴うもの、と信じられている。夥しい数の事実から容易に明らかになるのは、未開人の精神において、性的関係は数多くの超自然的な危難を連想させるものである、ということである。・・・・・・蛮人の思考様式をより正確に知ることができれば・・・・・・婚姻制度の起源についても、その手掛かりを得ることができるかもしれないのである。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P450)




【太平洋地域】 今度は、南半球のオーストラリアです。そこにも人が住んでいた。約5万年前です。彼らをアボリジニーといいます。アジア系の人々です。島から島へと島づたいに渡っていった人々です。
 ただここもイギリスが植民地にして、彼らは僻地に追いやられていく。絶滅はしてないけど、いま非常に貧しい境遇です。それは追いやられてしまったからです。今は不毛な砂漠地帯に、住みにくいところに住んでいます。「なぜこんな住みにくい所にアボリジニーは、好んで住んでいるのか」と疑問に思う人がいます。彼らは、好んで住んでないです。追いやられたんです。誰が好んで住みますか。もともともっと気候のいいところに住んでいたのを、イギリス人が来て彼らを追いやったんです。

 あと太平洋にもメラネシアとかポリネシアとか、そういう小さい島々にも人々が住んでいます。こういう島々への移動は、ほんの最近で約5000年前まで続きます。島から島へと。ハワイは太平洋のまん中にあって、人がたどり着いてからまだ2000年ぐらいしか経っていません。
 こうやって人がずっと地球上に拡散して、太平洋の島まで拡散して、地球がほぼ人間に埋め尽くされるのは、約1万年前です。





 そういう時代が約700万年続きました。文化が変わるのは699万年後です。もうアッという間に699万年過ぎました。この1万年前までを旧石器時代といいます。



新「授業でいえない世界史」 1話の5 農耕の開始

2020-03-28 10:54:40 | 新世界史1 人類の誕生

【新石器時代】
【アメリカ大陸】 ちょっとだけアメリカ大陸のインディアンのことを言います。アメリカ大陸の原住民、つまりインディアンという人たちはどういう人か。なぜそこに住んでいたか。

 やはり渡って来たのです。約4万年前の氷河時代には、陸に氷があるから海面が低い。海面が低いベーリング海峡はアラスカと陸続きだった。そこを渡っていく。アジアからアメリカへです。アジアから北のほうを回って、アメリカに渡っていったのは、アジア人種のモンゴロイドです。我々日本人の仲間です。北アメリカ大陸に、こうやって約2万年前に渡っていった人たちがいた。そして約1万年前には南アメリカ大陸の南端まで到達します。これでほぼ世界全域に人類が住みつくようになったわけです。


※【王権の抑制】
※ (インディアン社会に)冬がやってきました。・・・・・・冬になるとみんないっせいに夏の小屋を放棄して、一つの場所に集まってきます。・・・・・・ここには大きな共同の祭りのための建物が建てられていて、その建物を中心にして、冬の村がつくられます。社会構造も一変してしまいます。それまでは家族中心の生活でしたが、になるといくつもの「秘密結社」がつくられ、人々はそれぞれのポジションにしたがって、どれかの結社に属することになります。・・・・・・まったく冬は「聖なる時間」だったのです。・・・・・・
 インディアンたちは自分たちがほかの生き物の命を奪っていることを、はっきり自覚しながら鮭捕りをしていました。夏は、人間が動物を殺す季節なのです。しかし、夏の狩猟期が過ぎても、この非対称的な関係を続けていくことは危険であり、悪であると、彼らは思考しました。・・・・・・だから、夏の間だけは、人間が動物を殺して食べる。しかし、冬の季節には、この関係は逆転して、今度は動物(自然)によって人間は食べられなければならない。・・・・・・冬の期間、自然権力が人間の社会を支配するのです。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P171~175)

※ 結社の成員や戦士やシャーマンたちは、すすんで自然が秘めもつ力=権力の源泉に近づいていこうとします。「文化」に「自然」が流れ込んでくるのです。これを象徴しているのが、冬の祭りにおびただしい数で出現してくる仮面でしょう。どの仮面も動物や森の精霊をあらわしています。・・・・・・それまでは「自然」の内部に隠されていた権力を、仮面をつけた結社員は、人間の社会の内部に持ち込んでしまおうとしているのです。これこそ「王」ではありませんか。・・・・・・王は、ほんらい「自然」のものであった力の源泉を、人間である自分のもとに取り込んで、そこに社会があるかぎり君臨し続ける者であることをめざすものです。・・・・・・
 ところが、同じその対称性社会が「冬の季節」になると、あと一歩で王の存在に手をかけているさまざまな「人喰い」の存在たちに、華やかな活動の場所を明け渡しているのです。この「人食い」たちが、世俗的な時間のリーダーである首長と合体したときに、首長はまぎれもないとなります。・・・・・・王が生まれれば、クニ=国家が発生します。・・・・・・が生まれれば、彼らの社会を支えている対称性の原理は、たちまちにして崩壊していくでしょう。・・・・・・シャーマンから見たら首長などは、なんと凡庸なのでしょう。ところが、人間の社会にとっては、この理性の限界内に断固としてとどまる首長の存在こそが、重要なのです。・・・・・・首長と「人食い」たちを分離しておくこと。これこそが、対称性社会の抱いた最大の知恵であり、人間が国家を持った瞬間から、とりかえしのつかないかたちで失ってしまった知恵にほかなりません。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P185)

※ 首長と「人食い」の合体がおこる。・・・・・・その「人食い」があらわす自然権力をみずからのうちに体現していると主張する王が出現する。・・・・・・
 王は社会の中に常駐している「人食い」です。・・・・・・こうして出現した王は、自分の権力の内部に、同じ社会の周縁部にうろついているシャーマン戦士の機能を組み込むことになるでしょう。・・・・・・こうして「人食い」+シャーマン+戦士が、それまでの社会の指導者であった首長の地位までも奪って、ここに「社会の内部に取り込まれた自然権力=王権」を体現するものとしての王が生まれます。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P193)

※ アメリカ北西海岸のインディアン社会にも、階層性が発達して、そこには貴族もいれば奴隷だっていました。・・・・・・そういうところだと首長は必ずや王に変貌するというのが、歴史学の常識でしょう。それなのに、そこにクニ=国家は生まれなかったのです。いったいそれはどうしてなのでしょう。・・・・・・社会が階層化されているということは、国家が発生するための必要条件ではあっても、けっして十分条件とはならないのです。・・・・・・豊かな自然環境は、そこにごく自然なかたちで階層化社会をつくりだしていきますが、クニ=国家というものの誕生の寸前にまで達していながら、対称性社会の「社会思想」を何よりも重要と考えた人々は、さまざまな方策を用いて、クニが生まれようとするその臨界点で絶妙なターンを切って、対称性社会への着地をおこなってみせるのです。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P159)

※【殺されるシャーマン】
※ (アメリカ・インディアンの)ナッチェス族の精神的な生活は、シャーマンが担当した。・・・・・・病気がなおると多額の礼をしたが、病人が死ぬと患者の親類がシャーマンを殺すことになっていた。・・・・・・晴天担当のシャーマンは、屋根の上にあがって雨を追い払う努力をした。雨が降らなかったり、よい天気にならなかったりすると、それぞれ失敗したシャーマンが殺されることになっていた。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P55)

※ (アメリカ・インディアンのクリーク族は)戦争中に形勢が悪くなって、タスタナギ(武官の最高位の者)が敵の手中に落ちそうになると、近くの味方の兵隊が彼を殺し、頭の皮をはぎとった。そして退却し、会議を開いて後任を決めた。反対に戦争が勝利に終わって無事帰ってくると、みなタスタナギの着ていたものをはぎとって、ズタズタに切りきざみ、お守りとしてみなが分けて取ったそうである。こういったタスタナギに対する処置も、インディアンの霊に対する考えから出ている。タスタナギは、その町の兵士たちの霊力の最高司令官である。だからその霊の統制力が敵の手に渡る前に、タスタナギを殺して霊的敗北を阻止しなくてはいけない。それを保証するためには霊の宿る場所の象徴である、頭の皮をはぎとる必要がある。また逆に戦争で勝利をおさめた時には、敵にうち勝ったタスタナギの霊力にあやかるため、彼の衣服を切り分けて持つ。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P72)

※ 「魏志倭人伝」に、中国へ行くヤマタイの船には、髪の毛を切らず櫛もいれない男が一人ずつ乗っていて、船に何かが起こると殺されたという記事があるが、これは航海安全の責任を負わされたシャーマンであったのではないかと思われる。担当の船に事故が起こるとヤマタイのシャーマンが、殺されたと同様に、アメリカ・インディアンのシャーマンが、頼まれた病気が治せなかったり、不漁であったりした時に、たどらなければならなかった運命も、まったく同じ死であった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P123)


 われわれ新人はアフリカを脱出して、ユーラシア大陸に渡り、そこから北東に進んでシベリアに至ります。当時は氷河期で海面が低く今よりも陸地が広がっていましたから、今のベーリング海峡はアメリカ大陸のアラスカと陸続きでした。
 その陸橋を渡って北アメリカ大陸に渡ります。そこからまた南下して中米にいたり、赤道を越えて南アメリカ大陸に渡り、アメリカ大陸の南端にまで到達します。それが今から約1万年前です。
 オーストラリアには東南アジアから人が渡りました。ここで我々は全世界に分布したことになります。世界中どこに行っても新人がいるわけです。いわば地球が新人によって満杯になったのです。

 インディアンが南アメリカの南端にまで到達したのは約1万年前です。ここで人類がほぼ全世界に分布したわけです。そのとたんに農耕が始まる。ここからを新石器時代といいます。
 
万年前に何が起こったか。氷河時代が終わって、地球が温暖化していったんです。
 ちなみに日本で農耕が始まるのはもっと後ですが、それ以前からかなり高度な文化は発生していました。


▼ 青森県三内丸山遺跡。縄文時代、約5000年前の遺跡。



※【農業の種子】
※ 農業をもたらす種子が1万年前に最初に蒔かれたかもしれない一方で、心の中に最初に蒔かれたのは、中部旧石器時代(8万年前~)から上部旧石器時代(約4万年前~)へ移行する時期のことである。(心の先史時代 スティーヴン・ミズン 青土社 P297)

※【植物と人間の社会的関係】
※ 動植物と社会関係を立てられるという能力は、実は農業が現れるかどうかを左右するものである。心理学者のニコラス・ハンフリーは、人が植物との間にもつ関係には、他の人ともつ関係と構造的によく似たところがあるという事実に目を向けた。彼の言うことを引用しよう。「・・・・・・植物は通常の社会的圧力には反応しない(人は植物に話しかけるが)が、植物が園芸家に与え、またそこから受け取るありさまには、まさに社会関係と言えるものと構造的に非常に近いものがあると筆者は言いたい。・・・・・・」(心の先史時代 スティーブン・ミズン 青土社 P295)



【農耕と牧畜】

 新人が全世界に広がると同時に新たなルールが発生します。気候の温暖化も手伝って農耕・牧畜が始まります。これが1万年前です。人間の力によって植物を育てることを農耕といいます。それと同じように人間の力で動物を育てていくことを牧畜といいます。

 この農耕と牧畜という2つはまったく違うようでいて、自然界のものを人間の作業によって作っているという点では同じです。植物を作るものを農耕といいます。動物を育てることを牧畜といいます。植物か動物かの違いだけで、どちらも人間が作っていくという点では同じです。違うのは、農耕がおもに女性の手で行われたのに対して、牧畜はおもに男性によって行われたということです。

※【農耕と女性】
※ 動物の飼育、牧畜のいとなみが、男性の狩猟生活のなかから生まれ出たように、植物の栽培、農耕は、女性の植物採集の活動の延長であり、発展であったと考えられる。(神話の話 大林太良 講談社学術文庫 P129)


※ 生産経済の開始は、世界女性史にとってもたいへん重要な意味をもっている。それは、一つには農耕の発明者自身が女性であると考えられることである。・・・・・・未開農耕民のところでは、開墾のような力仕事は男がやるのが普通であるけれども、そのほかの、種まき、イモの植えつけ、除草、収穫のような仕事はだいたいにおいて女性の手に委ねられている。(神話の話 大林太良 講談社学術文庫 P128)

※ 植物の栽培は、以前のものとは異なる傾向を持った分業を課した。というのは、それからは、生活の手段を確保することにおける主たる責任は、女性のものとなったからである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P69)

※【農耕と母系社会】
※ (アメリカ・インディアンのズニ族は)農業は男子の仕事で、親類の男たちがみんな集まり、順を追ってみなの畑を耕した。・・・・・・作るのは男性であるが、採れた物は女性の物と考えられた。・・・・・・畑も女の物であった。男は必要なら新しい畑を、いつでも焼きひらくことができるから、既成の畑は女にやっておけという考えであったらしい。・・・・・・過去においては狩猟が重要だったけれども、時がたつにつれて農業が中心になってきたものと思われる。しかし農作物がよくできない年は、狩猟が一時的に大切になった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P148)

※ (アメリカ・インディアンのズニ族では)ヒツジは男性の物で父からむすこに伝えられた。これは畑が母からむすめへ伝えられたのと、大きな対照をなしていた。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P149)

※ (アメリカ・インディアンの)ズニ族の家系は女系中心であった。娘たちが結婚すると、その主人たちが移ってきて同じ家に住んだ。・・・・・・このため女性は生まれた家で一生をすごした。一軒の家にはまずおばあさんが住み、そのむすめさんたち、まごむすめたちが住み、これら女性のおむこさんたちが全部住み、その上に未婚の男子が住んでいた。時には一軒に住んでる人の数が、30人以上になることもあった。家は、畑と同じように女性の財産であったから、結婚した男性はよそ者扱いで、自分の家は生まれた家で、今住んでいるのは自分の家ではないという考えを持っていた。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P151)

※  多神教社会にあっては多産と豊穣こそが人々の願いであり、さらに再生への希望であった。それらを生み出すものは何よりも女性であった。女性だけが自然の営みで生命を創造することができる。女性原理こそがこの世に共通する根源である。そのことを古代人は熟知していた。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P199)

※ 宗教の歴史において、樹木崇拝とはおそらく、漁師と羊飼いの宗教(その神々はおもに動物である)と、農夫の宗教(その崇拝の形式では栽培される植物が主要な位置を占める)の、中間に位置するものとみなし得る。・・・・・・殺される神が穀物であったり、穀物を象徴する人間であったなら、その風習は農耕の段階にある社会に生き残っていた。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P349)


 今までは狩猟・採集の生活でしたが、ここからは農耕・牧畜という新しいルールの生活に入ります。ここでルールが変わったのです。何もない大地から豊かな食糧が実る。この食糧はどこからやって来たのか。当時の人々にとって不思議なことだったに違いありません。そのことは女性の胎内から新たな命が誕生することと似ています。性行為は農耕儀礼に結びついていきます。

 人間にとっては「意味を与える」ということが、社会を維持するうえで大事なのです。意味があって人は納得できるのです。納得できない意味は、意味ではありません。農耕に意味を見いだしうるかどうか、人はそういう試練に立たされます。
 




【女神の死】 しかしここで問題になるのは、農地を開くためには、まず木を切り倒し、土地を掘り起こさなければならなかったことです。何が問題だろう、と思うでしょう。動物に心があるように、木には精霊が宿り、大地には神が宿っているんですよ。彼らはそれを恐れたのです。

 先日、私の知り合いの一級建築士がこんなことを言いました。「ビルを建てるために大木を切り倒してから、どうも体の調子が悪い。地鎮祭に会社のトップの代わりにオレが出たら、オレの体調が悪くなった」と。
 するとそれを横で聞いていた別の友人はこう言いました。「建築関係者からはよくそんな話を聞くよ。早くお祓いに行った方がいい」と。
 21世紀の現代でも、これは当事者にとっては切実な問題なのです。建築の現場では、今も木を切り倒すことに対して、心理的なリスクがつきまとっているのです。

 現代でもそうであるなら、古代人にとって農耕開始のハードルはもっと高いのです。現代人でもお祓いに行くように、古代人にとっても木の精霊を鎮め、大地の神を鎮める、新たな呪術が必要なのです。これはそれまでの自然に対する考え方を変えていくものです。
 多くの神話のなかでは、大地の女神を殺すことによって農耕が始まっています。このことが人間にとってどういう意味をもったのかまだよく分かっていませんが、このことは神々の許しをえて狩猟・採集の生活をしていたそれまでの人間たちと大きく違うところです。
 神を敬い、悪魔を恐れることは、人間にとって本質的なことだと思います。

※【女神の死】
※ 農業をやれ、といわれた時、インディアンたちは、アメリカ政府の代表者たちに、「大地はわれわれの母親だ、母の皮膚に傷をつけることは出来ない」という表現で、農業を拒否したことが何度もある。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P218)

※ 蛮人にとって、世界は概して、動物のように生きているものであり、樹木もその例外ではない。蛮人は、樹木もまた人間のように魂を持つものと考え、またそのようなものとして扱う。たとえば東アフリカのワニカ族は、すべての木、とりわけすべてのココヤシの木は、を備えていると考える。「ココヤシの木を殺すことは母殺しと同じと考えられている。なぜならこの木は、母親が子どもにするように、生命を与え栄養分を与えるからである」。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P97)

※ それ(農耕)は、新石器時代以前の人々の精神世界を根本的に変革する、価値の創造と転倒をひき起こしたのである。・・・・・・
  相当広範に見いだされる主題は、芋類や果樹は殺された神から生じたと説明するものである。そのもっとも有名な例は、ニューギニア沖の島のひとつ、セラム島の神話である。それによれば、ハイヌヴェレと呼ばれる半神的少女の、切断され、埋葬された死骸から、それまで未知であった植物、とくに芋類が生まれた。この原初の殺害は人間的条件を根本的に変えた。というのは、それが性と死を導入し、依然として生きている宗教・社会制度をはじめて確立したからである。ハイヌヴェレの非業の死は、「創造的」死であるのみならず、人間の生においても死においても、この女神をつねに現前させる。女神の死骸から生じた作物から養分を得ることは、実際、神性の本体から養分を得ることなのである。・・・・・・
 耕作民が殺害を、自分の生存を保証する、すぐれて平和な仕事と関連づけているのにたいして、狩猟民社会では殺害の責任を他人、「よそ者」に負わせていることは、意義深いことである。狩猟者は次のように理解される。彼は殺した動物(より正確にはその霊)の復讐を恐れるが、動物主の前で自分を正当化する。初期栽培民のほうは、原初の殺人の神話が、人身供犠や食人儀礼のような流血の儀礼を正当化しているということはたしかであるが、その最初の宗教的文脈を確定することは困難である。・・・・・・
 食用植物は、神の身体(排泄物や汗も、等しく神の実体の一部を成す)から生じたのであるから神聖である。食事をすることによって、人間は、つまり神を食べているのである。食用植物は動物のように、世界の内に「与えられている」のではない。それは原初の劇的事件の結果であり、この場合は、殺害の生み出したものである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P69~71)

※ アッサムのミリ族は、休閑地がある限り、農耕のために新たに土地を開拓することはしない。不必要に木々を伐採して森の霊たちを怒らせないようにである。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P101)

※ 大事なことは、女神が殺されることを契機として農耕が始まっていることである。(神話の話 大林太良 講談社学術文庫 P142)

※【農業の生贄】
※ かつてグアヤキル(エクアドル)のインディオたちは、畑に種を蒔く際に、人間の生き血と男たちの心臓を捧げ物とした。メキシコの収穫の祭りでは、その季節で最初の実りが太陽に捧げられる際に、ひとりの罪人が、互いに立てかけられてバランスを保っている二つの巨大な石の間に入れられ、石が一度に倒れる時に押し潰された。遺体は埋められ、その後宴と踊りが始まった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P518)

※【豊饒の祈り】
※ 未開人にとって、何かが魔法のように姿を変えるということはごく普通に信じられる事態であるから、穀物霊は穀物という住処から追い出されるのだ、手鎌で刈り倒されてゆく最後の区画から、動物に姿を変えて逃走していくのだ、という考え方はきわめて自然に導き出される。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P43)


 人は、時間の推移に耐えうる意味のなかでしか生きられないのです。もしそうでないと、獲得した重層的思考や流動的知性、または認知的流動性が壊れてしまいます。新人は、獲得した重層的思考のなかで、思考の領域同士がバランスを維持しながら生きてきました。このバランスが取れなくなったときが人間の危機なのです。なぜなら、相互の思考のバランスが取れず、どれか一つの心的エネルギーの制御が効かなくなってしまうからです。
 頭のなかの複数の領域で、多くのことを同時に考えている人間は、その考えていること同士の相互のバランスを取ることに、非常に多くのエネルギーを費やしています。それは動物の比ではありません。人間が知的探求がおもしろくてやめられなくなるのは、このバランスを取るためなのです。


 詩的思考もこのことと結びついています。詩を読んで心が落ち着くことは多くの人が経験することです。たとえば、詩人の三好達治が「乳母車」で、「母よ 私の乳母車を押せ」というとき、押そうとしている母は、母ではない。母に託した別のものです。押して欲しい乳母車は、乳母車ではない。それは乳母車に託した何か別のものです。しかしそれが何であろうと、意味を感じて納得したときに、心の浄化や安定が生まれます。その何か分からないものが、究極的な根源にまで近づこうとすると宗教的思考になります。こういう心の動きは非常に大切なことです。
 なぜなら、このバランスが崩れると、人はその苦痛に耐えられず、心を病むことになるからです。壊れた機械が暴走するように、壊れた人間も暴走します。人は意味づけに失敗すると、破壊的な行動を取ります。

 多くの犯罪者は悪いと知って犯罪を犯すものですが、人が重層的思考全体の意味づけに失敗した場合、自分勝手な意味づけを行い、人を殺すことさえ正当化できるようになります。そのことは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読めば分かることです。彼は言いました、「神がいなければ、すべてが許される」と。人間の重層的思考のすごさや恐ろしさは、そのようなことを正当化する思考を、包括的に思考全体に対して行うことができることです。
 現代社会のなかで起こっている様々な悲惨な事件は、多くの人が心を病んでいることを理解するには十分ではないでしょうか。
しかし、そういう苦悩からまた新たな宗教が生みだされていきます。

※【宗教的思考】
※ 思考について考える思考というものが、こうして流動的知性がニューロン間を活発に動き出すのと同時に、私たちの脳の内部に活動をはじめるのです。それは具体的なイメージに縛られることなく活動できる知性ですから、それ自体では形も色ももたない「抽象性」を本質としています。しかもそれは、脳内をダイナミックに運動していきますから、とてつもない力動性にあふれています。あらゆる思考がこの流動的知性から生まれてくるのですから、それは根源的なものです。心の働きの根源に、心を超越したもの、思考や感覚がとらえることのできる領域を超えたものが動いている。この直感から宗教的思考が生まれ出るのです。(カイエソバージュ4 神の発明 中沢新一 講談社選書メチエ P60)


※【神話による意味づけ】
※ いかなる民族であれ、それがある風習を守るのは、かつて神話的な存在がしかじかの行いをしたと語られているからではない。むしろその逆であって、すべての民族は、自分たちがある種の風習を守っている理由を説明するために、神話を作り出すのである。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P158)

※ 宗教の歴史は、古い風習を新しい理性と和解させるためのーー不合理な慣習に確固たる理論を見出すためのーー長年にわたる試みの歴史である。・・・・・・神話のほうが風習よりも現代に近いものである。(初版金枝篇 下 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P71)


※(●筆者注) 詩的思考と宗教的思考は似たところがあるが、それらは脳内の思考のパーツを重層的に行き来して全体像をとらえ、その全体像に意味を与えるものである。そこに矛盾があれば、その全体の意味が破壊される。各パーツは鍋とフタのように相補うものでなければならない。そこに矛盾が生じると、鍋の水を温めることができず、人格が破壊される。人間が他の動物と違うところは、衣食住を奪われることの他に、この人格を奪われることによっても死に至ることである。今のところ、思考全体に意味づけをなしうる思考は宗教的思考以外に見いだされていない。宗教的思考は思考全体を重層的にとらえることにもっとも適している。しかし、それ以外に思考の重層的把握の仕方がないのかどうかは、誰も確かめた者がいない。


 大地の女神を傷つけたというイメージを払拭するため、農耕による新たな収穫は、性行為による新たな命の誕生になぞらえられるようになります。農耕は、女神を傷つけることではなく、女神と性交することだ、という解釈に変化していきます。農耕は、性行為による女神を喜ばせる行為に変わるのです。
 植物が実をむすぶことは、われわれも小学校の時に習った雄しべと雌しべのことですから、そのことはあながち的外れではないわけです。でも古代人はそんなことは知らないでしょうから、何か直感的な類推によって両者を結びつけたのでしょう。

 そのことによって、ここで男女間の性行為が神聖なイメージをともなったものに変わったのだと思います。そしてそれが宗教儀礼によって表現されていきます。

 その儀式を誰が執り行うのか。グループのリーダーか、もしくはシャーマンがそれに選ばれたのでしょう。彼は責任重大です。みんなの命がそのことにかかっているのです。失敗すれば命を取られますが、しかし、もしそれがうまくいけば、彼は絶大なる信頼を集めます。そして植物が実ることは自然の摂理ですから、彼らの性交儀礼は多くの場合、成功することが多いのです。
 ここから絶大な王権が誕生します。つまり農耕の成功とともに、王権が発達してくるのです。そして農耕の成功の原因は、王の性交の結果もたらされたものだと考えられたのです。


※【農耕と聖婚儀礼】
※ 農耕民の宗教においても、穀物の起源は同様に神聖である、とつけ加えておこう。人間に対する穀物の恵与は、(もしくは大気)の神と地母神の聖婚(ヒエロガミー)、あるいは性的結合、死、復活を含む神話劇に往々にして関係づけられているからである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P69~71)

※ 農耕の発見の、最初の、そしておそらくもっとも重要な結果は、旧石器時代の狩猟民の価値に危機を招来したことである。・・・・・・それまでは、骨と血液が生の本質と聖性をあらわしていたとすれば、その後、それらを体現するのは精液と血液である。
 それに加えて、女性とその聖性は最上位に高められる。女性は植物栽培において決定的役割を果たしたので、耕作地の所有者となる。それが女性の社会的地位を高め、さらに、たとえば夫が妻の家に住まねばならない妻方居住制のような、特色ある制度を創ることになる。・・・・・・耕作地は女性にたとえられる。後代の鋤の発明後、農作業は性行為になぞらえられる。・・・・・・(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P72)

※ 女性と母性の聖性は、たしかに旧石器時代にも知られていなかったわけではないが、農耕の発見はその力を著しく増大した。性生活の聖性、とりわけ女性の性的特質は、創造の神秘的謎と一体となる。処女生殖、聖婚、オルギー儀礼(陶酔的儀礼)は、性の宗教性を相異なる次元で表現している。人間・宇宙的構造をもつ複雑なシンボリズムは、女性と性を月のリズム、大地(子宮に同化される)、ならびに植物の「神秘」とよぶべきものとに結びつける。それは、新生を保証するために種子の「死」を要求する神秘である。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P73)

※ (メソポタミアの)ウル第三王朝時代からイシン第一王朝時代(前2017~1794年頃)にかけて、高位の女神官が豊穣の女神イナンナに、が植物神で女神の恋人とされるドゥムジに扮して、交合を含むさまざまな儀式がおこなわれ、おおらかに性の歓喜を歌う「聖婚歌」が作られた。日本の古代にも、男女が集まり、歌いかけ、自由に交わった歌垣という祭りがあり、田植え神事などとかかわりがあったとされる。(シュメル 小林登志子 中公新書 P78)

※ 「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊饒に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官が「聖婚儀礼」をおこない、豊饒がもたらされると考えられていた。「聖婚儀礼」は元日におこなわれた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に1年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙の始まりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。(シュメル 小林登志子 中公新書 P75)


続く。


新「授業でいえない世界史」 1話の6 巨石記念物、謎の古代遺跡・・・

2020-03-28 10:53:10 | 新世界史1 人類の誕生

【巨石記念物】 約1万年前に農耕が開始されたあと、ドルメンメンヒルストーンサークルなどの巨石記念物がつくられるようになります。巨石記念物は死者の霊がこれに宿るものだといわれています。そこには、自分たちの祖先を祀ること、祖先崇拝が見られます。


パワースポット 謎の環状巨石ストーンヘンジ イギリス


フランスのカルナック列石 Les mégalithes de Carnac / Die Megalithen von Carnac (Bretagne/F) 



※【祖先崇拝】
※ 古典期マヤ都市では、共同墓地は見つかっていない。支配者と農民の死者は、一般的に代々家屋の床下などに埋葬されたのち、家屋の拡張が行われた。・・・・・・古代マヤ人は、日本人のように生と死の場所を分離せず、「祖先とともに生きた」のである。(古代マヤ 石器の都市文明 青山和夫 京都大学学術出版界 P116)


※ おそらく、(カルナックの)ほとんどの祭りは死者儀礼に関係していたであろう。イギリスにある他の同種の構造物と同様に、ストーンヘンジのクロムレックは、埋葬塚がひろがっている野原の真ん中に位置している。この有名な祭祀センターは、少なくともその本来の形態においては、先祖との関係を保証するために建てられた聖域を構成していた。構造からいえば、ストーンヘンジは、他の文化における神殿や町のような、聖所から発達した巨石複合群と比較できる。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P177)

※ 巨石記念物は、前述のインドネシア神話(ハイヌヴェレ神話)への答えとして解釈できる。人生は穀類の生命と同じなので、力と永続は死を通じて得られるのである。死者は蒔かれた種の運命にあずかる希望を抱いて、地母神の胎内に帰ってゆく。しかし、彼らはまた、墳墓の石塊に神秘的に結びつき、その結果、岩のように強く、破壊されえない存在と成る。
 実際、巨石文化の死者儀礼は、霊魂の死後の存続についての確信ばかりではなく、とりわけ祖先の力への信頼、彼らが生きている者を守りたすけるだろうという期待をも含んでいるように思われる。そのような確信は、他の古代民族(メソポタミア人、ヒッタイト人、ヘブライ人、ギリシア人など)にみられる概念とは根本的に相違する。後者にとって、死者は不幸で無力な、そして哀れな霊魂であった。

 さらに、アイルランドからマルタ島、エーゲ海諸島まで、巨石記念物を作った人々にとって、先祖との儀礼的交わりがその宗教活動の要を成すのに対して、古代近東や中央ヨーロッパの原歴史的文化においては、死者と生者の分離がきびしく定められていた。・・・・・・おそらく、これらの石は一種の「身体の代用」であり、そこに死者の霊が宿るのである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P174)

※ ヨーロッパの巨石複合群は、エーゲ海文明からの寄与に先立つと結論せざるをえない。それらは、一連の本源的土着的な創造なのである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P181)

※ 巨石は死後の存続に関するいくつかの観念と関係がある。巨石の大部分は、他界へ旅する霊魂を守るためになされる儀礼の過程で造られている。しかし、それらは在世時に巨石を立てた人にも、死後巨石を立ててもらった人にも、ひとしく死後の永遠の生を約束する。さらに、巨石は生者と死者のあいだの比類なき絆を構成する。それらは巨石を立てた人か、立ててもらった人の呪力を永続させ、人間や家畜や収穫の豊かさを保証すると信じられている。現存する巨石文化すべてにおいて、祖先崇拝は重要な役割を信じている。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P183)

※ 巨石宗教の特徴は、永遠性および生と死のあいだの連続性の思想が、石と合一または結合したものとしての祖先を崇拝することを通じて、理解されているという事実である。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P185)


※ 一部の学者が説くように、貴族の支配層が祖先崇拝を重要視し、そのためにしだいに他の社会階層にも受けいれられていったと考えるのは正しくない。祖先崇拝は、新石器時代には充分に根づいていて、一般化していたからである。・・・・・・農耕が始まったときから、祖先崇拝は(人間と宇宙との循環の概念をもとに構造化された)農耕民の宗教システムの本質的な部分を構成することとなった。(世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P21)

※ 死者は家の床下に埋葬されていた。・・・・・・頭骨祭祀はハジュラール(トルコ南西部)で充分認められる。チャタル・ヒュユック(トルコ中部)では、死骸は家の床下に副葬品とともに埋められていた。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P79)

※ (アメリカ・インディアンの)ズニ族はいろいろな宗教グループがあったが、どのグループにも共通だったことは、祖先崇拝が行われたことである。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P157) 


【イギリス史】恐ろしいイギリスが作られた原因!?イギリス侵略史 




【謎の巨石】 巨石といえば、いろいろ不思議なものがありますが、いくら考えても分からないものがあります。中東のレバノンにバールベックという神殿遺跡がありますが、その近くの石切場に驚くべきものが放置されています。2000トン近いといわれる、長方形に削られたひとかたまりの巨石です。どうやってこんなものを動かそうとしたのでしょう。この石自体は動いていないにしても、この神殿には1000トン近い「トリリトン」と呼ばれる三つの巨石が使われています。そんな石を、動かしただけではなく、どうやってそれを持ち上げて積み上げたのか、不思議なかぎりです。現代の技術でも難しいのに。

 そういえば2019年9月に、米軍が、未確認飛行物体が空を飛んでいる動画を、「合成されたものではなく本物だ」と認めたというニュースもありました。
 私はこれが何なのかは分かりませんが、このことは別の意味で大事なことです。歴史では、在るものを無いことにしたらいけないのです。在るものは在るのです。説明できないからといって、または都合が悪いからといって、在るものを無いことにしたらいけません。逆も同じで、無いものを在ることにしてもいけません。それは両方とも捏造になるからです。
 世の中には不思議なことがいっぱいあります。でもそれは、なぜなのか、考えつづけなければならないことです。そのなかには、知らない、では済まされないことがたくさんあるのです。



▼ バールベックの巨石



Megaliths & Giants of Baalbek Part 1: The Quarry - The Largest Megalith in the World 1650 Tons 




【謎の古代遺跡】 不思議なことといえば、ピラミッドの作り方とか、南米のナスカの地上絵とかいろいろありますが、もう一つ・・・・・・私がトルコに行ったときに実際この目で見てきたものですが・・・・・・カッパドキア(トルコ)の地下都市があります。本当にたどり着けないほど奥深く、どこまでも続く地下都市で、誰が何のために掘ったものか、皆目、見当がつきません。ただ自然の洞窟ではないことは、疑う余地がありませんでした。明らかに人工的なものです。
 常識で考えて分からないとき、つまり常識と事実が矛盾するときは、常識を疑うしかありません。なぜならこの目で見た事実は変えられないからです。


未だに解明されない遺跡 12000年前の古代地下都市 カッパドキアの謎について 

)画像では「1200年前」となっていますが、正しくは「12000年前」の誤りです。トルコのカッパドキアの遺跡。


まだ分からないものもあります。


世界最古の神殿、歴史を覆すかもしれない遺跡、ギョベクリ・テペがとんでもない! 

(注)トルコ南東部の遺跡。11500年前のもの。


最も謎に包まれた古代の建造物TOP5 



 これらを見ると、低いと思われている狩猟・採集時代の文明を、もう一度考え直したほうがいいような気もします。ただこんなものを作るには、恐ろしいほどのエネルギーが秘められていることは確かです。



【原産地】 ちょっと農耕から話が逸れましたが、話を農耕に戻します。
 人間が手を加えて作っていく。自然界のものを自分の都合に合わせてつくっていく。そういうことが始まると生産量が飛躍的に上がります。
 我々現代人は飽食の時代といって、本当に腹が減ってひもじい思いをしたことがない人間が大半を占めていますが、人間は昔から「食い物の怨みは恐ろしい」といいます。まずは食い物なんです。スマートフォンが壊れても死にはしません。でも食い物がなければすぐに死にます。その食い物をどうやって確保するか。

 人間のように全世界に散らばっている哺乳類は、他にはいないんです。乾燥したところでは、水は生き残るために必要不可欠で余分な水はありません。日本のように湿ったところでは、稲のようなものが地域限定で自生しているんです。地域によって違うんですね、育つものが。何が育つのかによって、その後の文明の形が違ってきます。

 代表的なのは古代文明メソポタミアです。ここから発生して東西に伝わっていくもの、その代表が小麦です。ヨーロッパ人は小麦からパンを。アラビアではナンを。パンとナンはほぼ同じです。これは小麦粉にして、こね上げて、火にかけてそれを膨らまして食う。手間暇かかります。


 新大陸はじゃがいもトウモロコシです。もし日本の鎌倉時代のドラマにじゃがいもを煮るシーンがあったらそれはウソです。その頃の日本にはないのですから。じゃがいもも、今では日本人は当たり前のように食べていますが、これはアメリカにしかない。じゃがいもの原産地はアメリカです。戦国時代まで日本人は知りません。アメリカ大陸にインディアンはすでに住んでいます。こういう食べ物が、ヨーロッパ人による新大陸発見以後、世界中に広がっていきます。



【稲】 小麦人口は多いです。しかし稲人口はそれに変わらないぐらい多い。は中国南部原産です。長江流域から日本へ、東南アジアへ、インドへ広がっていく。
 なぜこれが大事かというと、稲の穂は実ると頭を垂れます。それに対して麦の穂は実ってもまっすぐに立っています。なぜ稲穂が頭を垂れるか。それだけ重たいからです。

 何を言いたいかというと、どっちが収穫が多くて、どっちが人口収容力が大きいかです。ダントツで稲なんです。ということは稲のある東アジアが豊かなんです。
 水はけが悪くて土地がぬかるんでいる土地でないと育たないから、最初は栽培しにくいけど。それさえクリアーすれば、麦の実る西アジアよりも、稲の実る東アジアの方が人口収容力が大きくより豊かです。今でも東アジアの人口密度が西アジアよりも圧倒的に高いのです。

 水田は人工的に作ったものです。水田は人間の手がかなり高度に加わらないと、今のような水田はできません。しかも斜面では水田はできない。稲を植えるときには田植えをしますが、水田に高低差が10センチあれば水田はできません。水は水平にしか張らないから水が偏ってしまうんです。水田ができるためには、完全に水平な地ならしが必要です。だから昔の水田というのは、それほどの土木工事できなくて狭くて小さいものでした。
 今のような一辺50メートルもある水田など我々が小さい頃にはなかった。今のようになったのは平成の大圃場整備の結果です。これで大きな水田ができた。一気に一枚の水田面積が広がった。それには高い土木技術が必要です。稲は収穫量が高い。だから人口収容力が多いのです。



【言語】 主に三つの言語集団があります。言語が同じ集団を語族といいます。世界史で1番ででてくるのは、インド=ヨーロッパ語族です。ヨーロッパ人グループのことです。インド人とヨーロッパ人は一見すれば肌の色が違いますが、しかし言葉的には同じです。言葉の親戚です。英語、フランス語、ドイツ語などは、もっと近い親戚で、方言の差が大きくなったような言葉です。

 これに対し、我々日本人はアルタイ語族です。文法的には韓国語と日本語は似ています。我々が全然違う種類の英語を学ぶのは、フランス人が英語を学ぶのとかなり違います。英語は我々にはとってはかなりハードルの高い言語です。韓国の新聞は昔漢字で書かれていました。その漢字をなぞっていくと、だいたいわかりました。語順は日本語と同じです。これをアルタイ語といいます。ただしこれについては異説もあって、まだ未確定です。これに対して英語は語順が全く違いますね。

 それからメソポタミアあたり、エジプトあたりはセム語族です。 この三つ、この順番によく出てきます。こういうのを語族といいます。



【民族の衝突】 世界史をやるときに我々日本人が意外と苦手なのは、民族のことです。というのは、日本ではどこででも日本語が通じるし、どこに行ったってほとんどは日本人だから、それを当たり前と思っている。
 しかし他の国はそうじゃないです。ちょっと川を渡れば川の向こうは、顔も形も違う、言葉も違う、そういうの違う異なった民族が住んでいるんです。そしてその民族同士が時としてぶつかり合います。

 言葉が違えば、文化が違い、宗教が違い、食習慣や生活習慣が違う。彼らが一緒に暮らすのは、我々のようなどこも同じ言語や習慣を持った日本人と違って非常に困難です。だから喧嘩が起こりやすい。
 民族を分けるときに、一番のポイントは、習慣とか文化とかもありますが、一番には言語です。言語が違うと、文化も違うことが圧倒的に多いです。




【東と西】  ここで4つの文明が誕生します。インダス文明、メソポタミア文明、中国文明、エジプト文明です。
 約2000年間、約200年前にイギリスが勃興して産業革命が始まるまでは、東が豊かです。今でも人口が一番多い国は中国です。今13億人です。次はインドです。今12億人です。アジア大陸の中で人口は圧倒的に東が大きい。西は麦だから食糧が乏しいのです。
 だからモノの流れは200年前まで、一貫して豊富な東から乏しい西に流れていました。西の人間は東のモノが欲しかった。つまり中国のモノが欲しかったんです。インドのモノが欲しかった。ヨーロッパが進んでいたというのは最近のことです。200年前までヨーロッパは田舎です。それが歴史の基本です。モノの流れもそうです。



【シルクロード】 アジア大陸にはシルクロードがあります。たまにローマの絹を中国がもらうと思っている人がいますが、逆ですよ。シルクロードのシルクは絹です。絹はどこでつくられるか。中国です。それを誰が欲しがったか。ヨーロッパ人が欲しがったのです。これがシルクロードです。絹は東から西へ運ばれるのです。こういう大きな2000年の流れがあります。
 これちょっと自覚しておかないと、「ヨーロッパ人がなぜインドに行こうとしたのか」よくわからなくなるんです。マルコ・ポーロというイタリア人がなぜ中国の元朝に行ったのか、唐の都長安になぜペルシア人がいっぱい来たのか、わからなくなるんですよ。東のほうが豊かなんです。



【西暦】 例えばメソポタミア文明は、今のイラク、ペルシア湾あたりで、古くは紀元前5000年ごろから発生しました。今から7000年前です。この紀元というのは西暦です。これはキリスト紀元です。

 ヨーロッパはキリスト教だから、キリストさんが生まれた年が紀元0年と長らく信じられてきた。しかしこれ間違っていたというのが、あとで分かりました。数年ずれています。長いことそれがわからなかったんです。
 12月25日はクリスマスですが、キリストという生まれた年もわからない人間の誕生日がなぜ分かるのか。12月25日が、キリストの誕生日というのは大嘘です。生まれた年がわからないイエス・キリストの誕生日が分かるわけがありません。あれはもともと冬至(とうじ)の祭りです。冬至とは1年で太陽が一番短い日です。古代では「そこから太陽が復活する」と信じられていました。だから世界の多くの地域でそれをみんなで祝う行事がありました。それがルーツだと言われます。



【貧富の差】 西で豊富な生産物は小麦です。西アジアは砂漠が広がっていて、日本のように水が豊かではありません。そのなかで比較的水が要らない小麦、これが自生していた地域です。肉と違って小麦というのは1~2年間は貯めることができる。肉は2~3日で臭くなって腐ります。貯めることができるもの、これは「富」になるんです。

 そうすると貯めるのがうまい人と下手な人ができてくる。そして貧富の差ができる。それが人間の階級になっていく。金を持っている人が今も昔も強い。生活に困っている人、「お金を貸して」と言う人が弱い。「貸してやるぞ」という人が強い。食い物を貸してやる人が強い。それが数百年続くと、あの家は代々立派な家だとか言われて階級ができる。彼らが支配階級になっていく。

続く。


新「授業でいえない世界史」 1話の7 祭りと王権

2020-03-28 10:42:51 | 新世界史1 人類の誕生

【祭り】 それだけではなくて人が集まって住むところには・・・・・・日本もそうなんですけど・・・・・・多くの村々には神社があります。鎮守(ちんじゅ)の神様です。日本のあちこちにあります。そこで「お祭り」をするんです。みんなで祝う。春祭り、秋祭りをする。人が集まるところには決まって神を祭る場所、神殿や神社ができます。

※【酋長と戦争】
※ 祭りと戦争が、よく似た行為であることは、まえから気づかれていました。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P180)


※ (アメリカ・インディアンの)南西部のほとんどは民主的な社会構造を持っていた。酋長が世襲制の種族もまれには存在したが、多くの場合同じ一族の中から有能な者が選ばれるという形をとった。酋長の権力はあまり大きくなく、政治的なことは一種の議会で決定された。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P37)

※ (アメリカ・インディアンの)戦争の指揮には、過去に戦功のあった者があたり、村のかしらが戦争の指揮をすることはほとんどなかった。このように政治のリーダーと戦争のリーダーがはっきりと分かれているのは、アメリカ・インディアンの社会では珍しくない。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P136)

※ (アメリカ・インディアンのダコタ族では)戦争の場合も指揮に当たる者の命令は絶対であった。ただし、平和の時には、この指揮官は1人のただのメンバーにかえった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P173)

※ 馬どろぼうについで重要な戦争の目的は、アリカラ族などのように定住して農業をしている種族から、食糧を取りあげることにあった。・・・・・・戦争目的のトップ・ツーが馬と食糧を奪取することにあったということは、同時に種族と種族が正面きって対立し、大合戦におよぶといった型の戦争が少ないことを意味する。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P175)

※ (アメリカ・インディアンの)ナッチェス族は、宗教的な権力を持っている者が、最高の支配者であったから、宗教国家というか、神権政治国家である。「まつり」をすることが政治家の任務であった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P50)


※【僧侶の会議】
※ (アメリカ・インディアンの)ポモ族には、専業としての神官はいなかった。この点北隣の北西海岸地方と同じであり、中米とは違っている。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P139)

※ (アメリカ・インディアンの)ズニ族の政治の中心は、6人の僧侶からなる議会で、魔法が使われた場合どうするかとか、いつ誰が宗教儀式を行うか。といったことを決めた。・・・・・・僧侶の議会によって任命される、世俗政府とでも呼ばれる非宗教的政府があった。・・・・・・しかしこの政府の役人は、僧侶の議会がいつでもくびにすることができたから、たいした力はなかった。要するに神政政治の国家であった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P155)


 人間が移動の生活から定住の生活に移行するとき、最初に一定の土地に定住した人はさぞかし怖かったことだろうと思います。自分の周りにはその日の糧を求めて移動している集団がいっぱいいる中で、自分たちだけ定住して穀物を貯蔵していれば、いつ敵から襲われるか分からない。だから敵に襲われないように、多くの人が集まって住むようになります。



【都市国家】  そうやってできたのが都市国家です。紀元前3000年、今から約5000年前。その早い地域がメソポタミアです。
 彼らにとって定住そのものは恐いことです。だから村を守ってくれる神様を祀る。たぶん真っ先にやったことはそれでしょう。神様が守ってくれないようなところは、恐くて恐くてとても住めなかったでしょうから
 だから多くの都市国家では神殿が作られます。神殿ができると神主さんも必要になります。すると彼らを養う必要がある。それが税です。そして彼ら神官に神の声を聞いてもらうようになります。その神の声に従って村の取り決めが決められていくわけです。



▼ 古代の出雲大社復元予想図 1


▼ 古代の出雲大社復元予想図 2


▼ ウルのジッグラト




【王権の誕生】 メソポタミア地域では、ここで栽培される農産物は米か、麦のどっちか。麦ですよね。それが余ると神殿への貢納を行う。余るとまず神殿への貢納です。「神殿は政治とは関係ない」と思っている人いませんか。大ありです。
 多くの場合、神殿で一番偉い神官が「」になります。彼らは神の声を聞き、それを皆の衆に伝えます。皆の衆はその神の声に従うわけです。ということは、その神の声を伝える神官は、皆の衆に対して命令権を持っていることになります。ここから「」が発生します。「オレは神様の声を聞く力がある」、そういうことを王はアピールしていく。

 古代の政治は、神様を祭ることと切っても切り離せません。これは変な政治ではなくて、日本の江戸時代も・・・・・・今はあまり時代劇を見ないかも知れませんが・・・・・・政治のことを時代劇用語でいうと、何でしょうか。政治という言葉はありません。「政りごと」と書いて「まつりごと」と言っていた。政治とは神様を祭ることだったんです。こういう言い方はずっと日本にもあります。政治は「祭りごと」だったんです。遊んでるんじゃないですよ。

▼国家の成立



※【王権の源泉】
※ 首長の権威を支えているのは、ある種の理性です。ところが王の権力は、盛大な宗教的儀式によって演出されなければなりません。それは、王権というものが、理性とは別種の力に触れているからです。もともとは「自然」の所有するものであった権力を、社会の内部にいる王が体現するのが王権なのですから、「対立するものの一致」を堂々と演出できる宗教的祭儀によるのでなければ、王の権威を正当化することはできません。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P200)

※ 国家をつくりだしてしまおうとする、脳に潜在するその可能性は、対称性社会の絶妙なバランス戦略によって、現実化しないように慎重に抑えられていました。スピリット世界のバランスは、そういう王も国家もない対称性社会の中でなければ保たれないもので、いったんバランスが崩れ始めると、もう止めようがなくなってしまいます。
 そう考えてみれば、グレートスピリットから高神(ゴッド)への飛躍を促したものと、対称性社会を「つぶして」国家というものがかたちづくられるときに脳の中に働き出すものとは、同じ原理と考えることができるでしょう。(カイエソバージュ4 神の発明 中沢新一 P121)

※ 国家のない社会ではいっさいの「権力」の源泉は、自然の側にあると思考されていました。・・・・・・しかしここにはどこを探しても、権力の源泉というものは存在しません。それは畏るべき力を秘めたスピリットたちのいる領域、つまり心の外である自然の奥に隠されている、と考えられていたのでした。
 その源泉に接近できるのは、シャーマンや戦士のような特別な能力と技量を持った人たちだけでした。こういう人たちは危険な力に触れているとして、たいていは社会の中心部から遠ざけられていました。
 シャーマンや戦士の能力を持った人物が、社会の中心部に進出して、自分は権力の源泉に触れている「主権者=王」であるという主張を始めたとき、人類の社会には根本的な変化が起こったのです。(カイエ・ソバージュ4 神の発明 中沢新一 講談社選書メチエ P114)

※ 王の発生と神(ゴッド)の出現は、どうやら深く関係しあっているようです。・・・・・・自然と人間との間に対称性を保ち続けようとした社会のなかから、王と国家が発生するのといっしよに、スピリット世界の内部からは神(ゴッド)が出現するのです。(カイエ・ソバージュ4 神の発明 中沢新一 講談社選書メチエ P116) 


 神様を祭ることによって人が集まるから、政治ができるんです。神殿ができると神主ができる。その神主が「王」になる。神のもとに人間が集まれば、神の一番近くに仕える人間が力をもつようになりますが、そうなるためには飛び越えなければならない大きな考え方の変化があります。

※【王の呪術力】
※ (部族間の戦争のとき)面白い現象が起こります。首長とは別な人物が、戦争のリーダーに選ばれて、男たちを率いて戦争に出かけるのです。平常時のリーダーは首長でしたが、戦時のリーダーには首長の政治原則とは違う原理によって活動をおこなう別の人物が立ち、二つのタイプのリーダーは完全に分離されるというのが、こういう社会では一般的なのでした。戦時のリーダー、それを便宜上「将軍」と呼ぶことにします。・・・・・・しかし、その戦いが終わればたちまちにしてこの将軍は任務を解かれて後ろに引っ込んで、ふたたび平和時の首長がもとの場所に戻ってきます。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P139)

(●筆者注) ギリシャのペリクレスは、ペルシャ戦争という戦争が長く続いたときの将軍であり、将軍職に長く座り続けた。ローマの場合は、社会の常態が征服戦争の中にあり、将軍は常置の職として任を解かれることがなかった。そしてその将軍職に留まり続けるためには、果てしない征服戦争を続けていく必要があった。この将軍のことをインペラトールと言い、これがエンペラー(皇帝)となる。つまりローマの皇帝の存在は、戦争を続けていくことが前提になっている。逆にいえば、戦争を続けていけば将軍の解任が行われず、将軍は政治的権力を手に入れることができるそれが「王」の発生につながる。これは平常時の王ではなく、異常時(戦争)の王が、そのまま平常時(平和)の王になるということである。そのことは日常社会の中に戦争が持ち込まれるということである。そしてこのことは、一神教社会ではなくても起こりえたということであるが、同時に王権は、宗教性の欠如のため、その政治的正当性をキリスト教という一神教の存在に頼らざるをえず、それを国教の地位にまで高めていくことになる。

※ (部族社会では)首長が戦争のリーダーの職にとどまったり、軍事力や神秘的な権力(この権力を身につけているのがシャーマンです)を身につけたまま首長になったりすることを、けっして認めませんでした。つまり、対称性社会において、首長は「王」にはけっしてなれなかったのです。このことをよくあらわしているのが、アメリカ・インディアンの首長ジェロニモをめぐる悲劇的な物語です。ジェロニモは19世紀後半の、インディアンたちにとってきわめて困難な時代を生き抜いた首長の1人でした。・・・・・・彼はメキシコ軍とメキシコ人に対するさらなる報復を主張し、そのための全アパッチ族の戦士たちに対する指導権を自分に与えてほしい、と要求したのです。・・・・・・ジェロニモはこのとき、首長であることを飛び越えて、「王」になろうとしたわけです。アパッチ諸部族は、ジェロニモのこのような考えを知って、即座にこれを拒否します。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P146) 

※ 現生人類のもとに、シャーマンのような存在が生まれてくるのは必然です。流動的知性を発生させるその脳の組織が、必然的にシャーマンのような存在を、生み出してしまうのですが、それが自然界の一員として本来は地球上つつましやかな位置を与えられているはずの人間に、とてつもない能力を授けてしまいかねないことに、対称性の社会を生きていた人々は、まがまがしい危険を直感したのでしょう。・・・・・・シャーマンはどんなにすぐれた能力をもっていても、そういう社会ではいつも周縁部にいて、社会的な権力の中心に近づくことはできないようになっていました。では対称性社会の「知恵」に選ばれて、その中心部にいたのは、いったいどんなタイプの人たちだったのでしょうか。「首長(リーダー)」と呼ばれている人たちが、それにあたります。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P134) 

※ 首長という存在には、そういう(シャーマンのような)神秘性はあまりありません。・・・・・・シャーマンを支えているのは「自然の権力」ですが、首長はそういうものには支えられていません。首長はむしろ「自然」に対立する「文化」の原理を、自分のよりどころとしていますので、シャーマンや戦士のように流動性あふれる力の領域に踏み込んでいくことを避けて、「文化」をなりたたせている規則や良識にしたがって、社会を平和に保とうとしています。この首長と呼ばれる人々は「王」ではありません。王には権力があります。王は軍隊を動かして、戦争をすることができます。・・・・・・しかし、首長と戦争の指導者が、同一人物であることは、ほとんどありません。・・・・・・対称性社会の首長には、そのようなことのできる権力が全くないからです。同じ社会の指導者でありながら、首長と王とはまったく対照的なあり方を示しています。・・・・・・ 「首長は平和をもたらす者である。首長は、集団の緊張を和らげる者であり、そのことは平和の時の権力と戦時の権力がたいがいの場合は分離されていることにしめされている。(アメリカの文化人類学者ローウィ)」。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P136) 


 一方で彼ら神官や王は、彼らが聞いた神の声が予想と違ったり、失敗すると責任を取らされます。「雨乞いをしたのに、なぜ雨が降らないんだ」というふうに。
 神は間違うことはないわけですから、間違ったのは、神の声を聞きそこなった神官や王なのです。交代するだけでは済まないこともあったでしょう。決して「口からでまかせ」を言っていたのではありません。真剣そのものです。失敗すると、命を取られることもあります

 権力が大きければ大きいほど、それが失敗したときの責任も大きくなります。王であっても責任を取らされます。それは国家の最終責任のありかが、王にあることを意味しています。

※【王殺し】
※ 太古の社会では、自らを神と考えることなどまったくない人間にせよ、一般に、自分には超自然的な力が与えられていると信じていた。・・・・・・ならば、実際に神とみなされるほどの人間に帰せられる力が、どれほど強大なものとなるかは、容易に理解できよう。自然現象の中でも、おそらくは雨と太陽と風に対して以上に、文明人が自らの無力さを感じ取るものはないだろう。しかし蛮人たちは概して、これらのいずれに対しても、ある程度自らに制御可能であると仮定している。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P34)

※ ある種の人間たちは永続的に神にとりつかれている。・・・・・・このような人間神は・・・・・・卓越した政治的能力を行使することもある。・・・・・・人間神たちは神であるのみならず王でもあり、統治の形態は神権政治となる。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P68)

※ 神聖な役割が王という称号と結びつくという現象は、古典古代という枠組みを越えて頻繁に起こり、未開から文明に至るあらゆる段階の社会に共通する、同一の特質と思われる。さらに、王族的な祭司は、しばしば、名目のみならず事実上の王でもあり、祭司の権杖のみならず王の権杖をも揮ったように思われる。・・・・・・霊的な力が現世の力と結びつくというのは、数多くの場所で見られたことである。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P81)

※ 初期の王国は、人々が単に君主のためだけに存在している専制政治であった、という考え方は、われわれが現在考察している君主制にはまったくあてはまらない。むしろ逆に、初期の王国の君主は、臣民のためだけの存在である。王の命が価値あるものであるのは、王がもっぱら人々のために、自然の移り行きに秩序を与えることによって、自らの地位に与えられた義務を果たす限りにおいてである。したがって、王がその義務を果たせなくなるや否や、人々がそれまで彼に惜しみなく与えてきた保護や献身や宗教的敬意は、たちまちにして止み、憎しみと軽蔑に変わる。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P169)

※ 未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。・・・・・・自然の成り行きがこの人間神の生命にかかっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法はひとつしかない。人間神が力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。こうして人間神を、老齢や病で死なせる代わりに殺してしまう。・・・・・・殺してしまえば、まず第1に崇拝者たちは、逃げ出す魂を確実に捕らえ、適切な後継者にしかと移しかえることが可能になる。そして第2に、人間神の持つ自然力が衰える前に彼を殺すことで、崇拝者たちは、人間神の衰弱で世界が衰退するという危険を、確実に排除できるのである。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P303)

※ コンゴの人々は、彼らの大祭司チトメが自然死を迎えることになれば、世界は死滅し、もっぱら彼の力と功徳によってのみ維持されていた大地は、即座に消滅する、と信じていた。したがって彼が病に倒れたり死にそうに見えたりすれば、その後継者となる運命にある男は縄か棍棒を持って大祭司の家に入り、これを絞め殺すか殴り殺すのであった。メロエのエチオピア人の王たちは神として崇拝された。だが祭司たちは、そうすべきと判断すればいつでも、に遣いを送り、死ぬことを命じ、その命令は神々の託宣であると主張できた。王たちはこの命令につねに従順であった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P305)

※ 北ヨーロッパでは森の王に相当する樹木霊を表象する人間を、定期的に殺すという風習があった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P336)


 王は、責任をとらされて殺されたりしていきます。そういう意味では、神主や王はまだ絶対的な権力を持っていません。
 そういう中から小さな国の中心として、人が集まる都市ができる。これを都市国家といいます。日本のイメージでいうと、約30年前に九州に典型的な遺跡が出ました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。邪馬台国の女王卑弥呼も、神のお告げをきく巫女的な女王です。そういう環濠集落内の人口密度は、他の地域から比べるとダントツ多い。
 定住して土地から動かないとなれば、いつ敵から襲われるかわからない。だから村の周囲には立派な城壁を築いた。そうやって敵の侵入を防ぐんです。世界中に人間が分布するようになると、人間の敵は人間になっていきます。



吉野ヶ里遺跡(佐賀県)~国内最大の弥生遺跡~



※【例 ヘブライ人の国家形成】

 ヘブライ人(ユダヤ人)は歴史上重要な民族であるが、そのこととは別に、王権の成立過程がわかる珍しい民族である。通常の歴史は、王権が成立したあとに書かれ、王権が成立する以前のことはわからないが、ここではその成立過程がかなりわかっている。

※【部族】
※ 後にイスラエルを構成することになる諸集団(便宜上「原イスラエル」と呼ぶ)は、先住民であるカナン人や周辺民族としばしば戦いを交えなければならなかった。先住・周辺民族との戦いと簡単に言うが、いったい誰が、どのようにして戦ったのか。原イスラエルの諸集団は、この段階では明らかにまだ、戦いに専念する職業軍人も常備軍も持たず、成年男子たちがその都度主体的に編成する召集軍が主たる戦力であった。このような戦いが繰り返されるうちに、隣接し合う集団同士がより大きな集団単位としての「部族」を形成し、さらにそのような部族同士が集まってさらに大きな枠組みとしての部族連合を形成していったものと思われる。なお、いわゆる「部族」が歴史的には二次的に形成された単位であり、血縁原理というよりも地縁的原理に基づくものであったことは、後の所属名のいくつかが明らかに地名から取られていることに示されている。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P57)

※ 前12世紀後半には、すでに12部族からなる「イスラエル」という部族連合=民族の母体が成立していたことになろう。・・・・・・諸部族を一つの部族連合へと統合する能動的・積極的要素をなしたものは、共通の神の崇拝という集団間の宗教的紐帯であったと考えられる。・・・・・・神ヤハウェは、人々を抑圧から解放する救いの神、敵の戦車を打ち負かす戦いの神であり、この神への信仰は、困難な状況下にある諸集団を戦闘的な共同体に統合し、その戦力を高める上で強力なイデオロギーとしての役割を発揮したものと思われる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P61)

※【存亡の危機】
※ 前12世紀の末期になると・・・・・・山岳地帯を出て平野部に進出しようとする動きも顕著になってくる。このことは当然ながら、平野部に点在するカナン人都市国家との衝突をもたらした。・・・・・・この時代のイスラエルには、戦いに専念する戦士階級や常備軍はまだ存在しなかったが、このような事態に対処するためには、一定数の戦力を動員し、訓練を施し、指揮統率する指導者の存在が要求される。これらのことは・・・・・・社会構造の組織化、内部的多様化、階層化、および強い力をもって社会を統制する権威の出現、すなわち集権化を要請したであろう。それゆえ、より強大な権力を持ち、より制度化された支配構造を持つ「王権」の出現を要請する内的圧力は相当高まっていたと考えられる。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P70)

※ イスラエル人は、ペリシテ人の圧倒的な軍事力の前に繰り返し打ち破られ、丘陵地帯のエベン・エゼルで決定的な敗北を喫した。・・・・・・イスラエル民族は、これによって文字通り存亡の危機に瀕することになった。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P71)

※ このような組織的な軍事力を持つ侵略者と互角に戦うためには、イスラエル自身もまた、職業軍人による強力な軍隊を持たねばならない。しかしそのためには、イスラエルが、諸部族の平等で自発的な結合を基盤とするゆるやかな部族連合から、中央集権的な統治体制と強力な軍隊を持つ王制国家へと変身しなければならない。・・・・・・こうしてイスラエルの中から、王を求める声が上がってきた。・・・・・・イスラエルにおける王制が、主としてそのような軍事的必要性から要求されたことが反映している。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P72)

※【王制反対】
※ サムエル記上8章によれば、を求める民の要求は、当時の民族指導者であり、最後の士師でもあったサムエルの目には「悪と映った」のであり、イスラエルの本来の支配者たるヤハウェを退けることに他ならなかった。・・・・・・宗教的指導者であったサムエルが初代の王サウルと衝突し、神の名においてその廃位を宣言したという伝承が残されている。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P73)

※【初代サウル王】
※ 結局のところ主導権を握ったのは、王制の導入に積極的な人々であった。イスラエルの初代の王に選ばれたのは、ベニヤミン族のサウルであった。サウルとその息子ヨナタンは、ギブアを拠点に有能な軍人は集めて常備軍を編成し、主としてゲリラ戦によりペリシテ人の守備隊を撃ち、彼らを一時的にせよ海岸平野に追い返すことに成功した。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P75)

※ ペリシテ人はやがて体勢を立て直して反撃に転じた。彼らはイスラエルの戦力を南北に分断する形でイズレエル平原に進出し、イスラエルはギルボア山地での戦いで完膚なきまでに撃ち破られ、サウルおよびヨナタンを始めとするその息子たちのほとんどは、壮絶な戦死をとげた。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P77)


※【2代ダビデ王】
※ 他方でユダ部族は、サウルの死後ヘブロンに戻っていたダビデをユダ固有の王に選んだ。このようにして、支配者としてのダビデの経歴の第一歩は、まずユダ部族単独の王として踏み出されたのである。・・・・・・このことはユダ部族以外の部族から見れば明らかに分派行動であり・・・・・・内戦が起こるのは必至である。しかしこの権力闘争では、ダビデの側が明らかに優勢であった。・・・・・・後ろ盾を失ったエシュバアル(先王サウルの息子)も間もなく暗殺者の刃にかかって死ぬ
 王と実質的な指導者を失った「イスラエル」の諸部族はヘブロンに使者を派遣し、ダビデをエシュバアルを継ぐ「イスラエルの王」とした。ダビデには、サウルの娘ミカルとの結婚を通じてサウル王朝の継承者としての公的資格がなくもなかったのである。
(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P79)


※【国家守護神としてのヤハウェ】
※ その後、彼(ダビデ)は、それまでカナン系のエブス人の手に残されていたエルサレムを征服し、これを新しい王都として定めた。・・・・・・(ダビデは)、シナイ契約の際の律法を刻んだ石板を収めたとされ、ヤハウェの現臨の象徴とも見なされていた「契約の箱」を、国民注視の中で大々的にエルサレムに搬入することにより、この新しい王都に形式上ヤハウェ宗教の伝統を注入し、そこをヤハウェ崇拝の中心地としたのである。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P83)



【マヤ、アステカ、インカ文明】
 これからやる歴史のメインは、たかだか5000~4000年前からです。メソポタミア文明などの古代文明が発生するのはその頃からです。しかしその間にも、このアメリカ大陸は未開の土地ではなくてちゃんとした文明があった。これを壊したのがスペイン人です。
  中南米にはマヤ文明アステカ文明。これがスペイン人に滅ぼされて、金銀財宝を根こそぎ持って行かれた。


※ マヤの王は、政治指導者であるとともに、国家儀礼では最高位の神官であり、戦時には軍事指揮官でもあった。古典期マヤ社会では専業の神官は存在せず、王や貴族が神官の役割を果たしていた。神聖王であったマヤの王は、先祖・神々と人間の重要な仲介者であり、神々と特別な関係を持つことによって、あるいは神格化された偉大な先祖の末裔としてみずからの権威・権力を正当化した。1945年まで現人神として崇拝された日本の天皇と同様に、神格化された先祖からの系譜を強調することは、王権を正当化するうえできわめて重要だったのである。(古代マヤ 石器の都市文明 青山和夫 京都大学学術出版会 P62)


▼ テオティワカン遺跡、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロ、紀元前2世紀~6世紀


新・世界七不思議 チチェン・イツァ



 また南米のアンデスにはインカ帝国という非常に高度な文明があった。
 これらの文明は、エジプトのピラミッドに似たピラミッドなども作っている。この3つの文明ともスペイン人によって粉々に滅ぼされた。これが今から500年前、16世紀のことです。そして滅亡した。これをもって「文明はなかった」と勘違いしている人がいます。ちゃんとした文明があったのです。これらの文明は、農耕発生から王権誕生までを見るうえで、かなり大事な材料を与えてくれます。



【記録】 その吉野ヶ里遺跡がちょっと大きくなったものが都市国家だと思えば良い。そうすると、そこで税金を取るようになる。人が多いから誰から税金を取ったか分からなくなる。記憶には限界があるので、それを記録することが必要になる。それが文字です。
 だから国が発生すると必要に迫られて文字が生まれる。当初は粘土板とか、パピルスとかありましたが、ダントツ保存力が良いのが中国のです。まず文字をつくり、次にその文字を書くものをつくる。それが紙です。紙はあとで出てきます。そうやって統治力を高め強くなった国は、周囲に領土をどんどん広げていく。



【征服の4段階】 それは征服という過程を取ります。 この征服の過程に4段階あって、
1つめに、戦わずに逃げる。
2つめに、戦って負けて殺される。
3つめに、戦って殺されなかったら奴隷にされて働かされる
4つめに、税を取られる。
 税金はお金で支払うものと捉えがちですが、この段階では何がないんですか、今を基準に考えると分からないんですよ。お金がないんです。
 では税は何で払うか、体で払うんです。「ここ掘れ、ここ耕せ」と言われたら、体を使って言われたとおりにする。こういうのを人頭税という。今はない形です。これは昔、労役という形で日本にもありました。
 そこにお金が発生すると、10日働く代わりに10万円支払うようになる。それが今の税金です。



【遊牧民】 もう一つは、日本には遊牧民はいませんが、大陸の中国やヨーロッパでは、日本列島と違って100倍ぐらいの広さがある。そこには土地を耕さない遊牧民がいるんです。
 文明の発生には2つあります。
 その1つは、採集から発展して、植物を育てること。これが農耕で、おもに女性の仕事です。
 もう1つは、狩猟から発展して、動物を育てること。これが牧畜で、おもに男性の仕事です。
 我々日本人は植物を育てる文化をもつ農耕民ですが、それだけが文明ではありません。植物を育てるのも技術なら、動物を育てるのも技術です。これが遊牧民です。しかもこの二つは別々に存在しているのではなく、相互に影響を及ぼしあっていきます。

 この段階では戦争してもどっちが強いということはないですが、遊牧民が馬に乗り出すと騎馬遊牧民になる。すると彼らはダントツに強くなる。鉄砲もないこの時代には馬は驚異的な武力になります。牧畜や遊牧は狩猟から発生したものであり、戦争と狩猟の技術は、もともと似ています。
 ただここでは喧嘩ばかりしてるんではなくて、世界レベルで見れば、時に喧嘩し、時に物々交換をして相互に交流していました。



【四大文明】 戦いはじめると国が大きくなります。これはあまり書かれてないけれども、戦う必要がでてくると、人数が多くないと勝てないことに気づく。だから多くの人間が集まるようにするためには大きな国が必要になる。国というのは戦うための組織だという一面があります。それはこの後、いくつかの文明を見ることによって触れていきますが、そうやって四大文明といわれるものが生まれます。

 近いところから中国文明。黄河のほとりにできたから黄河文明ともいう。
 次に、インドにできたインダス文明。インドを流れる川はインダス川、これは「インドの川」という意味です。インドの西側を流れる川です。
 次が、ピラミッドのあるエジプト文明。そこを流れる川はナイル川です。
 最後は、最近アメリカに爆弾落とされたりして混乱が続いている地帯ですけれども、メソポタミア文明です。チグリス川、ユーフラテス川のほとりです。  
 これで終わります。ではまた。


「ネットを見ると好きな情報ばかり見て、意見が偏る」というのは本当か

2020-03-22 22:33:51 | マスコミ操作
日曜日

「ネットを見ると好きな情報ばかり見て、意見が偏る」というのは本当か。

そう言っているのはテレビなどの大手マスコミである。
では彼らの発する情報は正しいのか。
今回のコロナウィルス報道を見ても、肝心なことは何もわからない。

彼らが正しい報道をしないから、みんな本当の情報を知りたくてネットを検索するのだ。
自分たちがウソの情報を流しておいて、いざ本当の情報を探そうとすると、そのとたんに、「ネットを見ると好きな情報ばかり見て、意見が偏る」とまことしやかに言い始める。
そしてすぐにフェイクニュースだという。
ではおまえたちのやっている報道はなんなんだ。
どっちがフェイクニュースかはこちらが判断するから、心配ご無用だ。


自分たちがウソの情報を垂れ流すからこういうことになっているのに、謝るどころか、上から目線で注意喚起をしているようなことを言う。
こうやって彼らは自分たちの正当化を図っているのだ。それはウソを覆い隠すためだ。ほんとうにツラの皮の厚い連中である。

でもNHKの上品な女性アナウンサーがサラッとこんなことを言うと、納得してしまう人がいる。
それが女子アナの話術だとも知らずに。


FRBの資産は、われわれの借金

2020-03-21 09:18:45 | 国際金融

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57056520Q0A320C2MM8000/


FRB、総資産最大に 主要中銀が資金供給拡大

                    
2020/3/20 23:00 日本経済新聞 電子版
 
 
 

世界の主要な中央銀行が新型コロナウイルスの感染拡大を受け、金融市場への資金供給を急拡大させている。米連邦準備理事会(FRB)は世界で一気に高まったドルの資金需要に対応した結果、総資産が過去最大を更新した。日銀や欧州中央銀行(ECB)も潤沢な資金を出している。市場機能がマヒしつつあるなか、中銀が流動性を供給し、企業などの資金繰りを支える。

 

FRBが19日に公表した18日時点の総資産残高は約4兆6600億ドル(約508兆円)となり、1週間前に比べて約3500億ドル(8.3%)増えた。2012年に始めた量的緩和第3弾(QE3)で資産が膨らんだ際の残高も上回った。

FRBの資金供給で急増しているのはレポと呼ばれる国債を担保にした短期資金の供給だ。銀行間市場でドルの短期資金の需給が逼迫。大量の資金供給で、金利の高騰や流動性不安を抑えようとしている。1日に2000億ドル規模で供給したこともあった。

銀行や投資家は企業やほかの金融機関への短期資金の融通を大幅に抑えている。銀行間の翌日物金利は一時2%程度まで上昇するなど、FRBの政策金利(0.00~0.25%)を大きく上回る取引も増えたため大規模な資金供給に動いている。米国債も金利が乱高下しており、今週から長期国債を買うことで市場の安定化を図っている。こうした資金供給によってFRBの総資産が急増している。

日銀も16日、企業の資金繰り支援と市場の安定を狙った追加緩和策を打ち出した。金融機関から国債を買って資金を供給するオペ(公開市場操作)にも機動的に取り組み、19日には異例の2度にわたるオペで1兆3千億円強の国債を買い入れた。同日の上場投資信託(ETF)の買い入れでも、金額を前回購入時の約1200億円から2000億円強に膨らませた。

日銀の総資産は10日時点で588兆円。ここ数年は政策の軸足を金利の誘導に置き、保有資産の拡大は緩やかだったが、足元では加速度的に膨らんでいるもようだ。

ECBは12日の定例の政策理事会で年末までに1200億ユーロの資産を追加購入すると決めた。18日夜の緊急会合でさらに7500億ユーロの新たな枠の設置を決定し、20年の購入規模は1兆ユーロを上回る見通しになっている。

中国人民銀行(中央銀行)の総資産は20年1月末で37兆3495億元と過去最高を更新した。2月も金融市場に大量の流動性を供給したため、総資産も増えている公算が大きい。


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【私のコメント】

「資産が増えればいいじゃないか」 
そう思う人がいるかもしれない。
「資産」は、ふつうプラスの意味で使われる。
だから新聞は好んでこの言葉を使う。
でもこれは「貸付金」である。
中央銀行による、われわれ庶民への「貸付金」である。
われわれが自覚しなくとも、銀行や企業や団体への貸付金になる。

こういうふうに、中央銀行は我々に対してどんどん貸付金を増やし、われわれをがんじがらめにする。お金を借りてしまったら、中央銀行にたてつけるわけがない。

理論的には、中央銀行はいくらでも貸付金を増やすことができる。そして貸し付けた以上は返済を迫る権限をもつ。利息を取る権限ももつ。
危機のたびにそれを繰り返す。

「資産が最大」になってお金持ちになったような表現だが、そこが新聞報道の妙味である。
分かりやすく言うと、「貸付金が最大」になったのである。
でもそう書くと、中央銀行が何をやっているのかわかってしまうから、わざと「資産が最大」とわけの分からない言葉を使うのだ。
そして庶民をリッチな気分にさせるのだ。実際にはとんでもないことである。


ドル高、株安、金高

2020-03-21 07:39:15 | 国際金融
土曜日

いま通常の経済ルールが壊れている。
経済危機のなかでいつもなら安全資産として買われるはずの円が売られ、円安になっている。
逆にドルが買われて、ドル高になっている。102円 → 110円。
これはドルが決済通貨だからだろう。みんな決済に追われている。そして買ったドルで決済して、どうにかデフォルトを逃れている。

ドルが買われれば、金が売られるかと思いきや、逆に金も買われている。
通常は、ドルが買われると金は売られる。ドルと金は反比例するのが普通だ。

しかしドルが買われるのと同時に、金が買われだした。ドル高と同時に金が値上がりしている。
通常では考えられないことだが、これは一時的なものなのか。

今朝のニューヨークダウ株価は、また913ドルも下げた。ドルが買われ、株は売られ、金が買われてる。

ドルを買わなければならないほど、資金が逼迫しているのだろう。
そんななかで株を買う者はいない。
そして資金に余裕のある者は金を買っている。
そういう解釈でいいのだろうか。


そう考えると、ドル高の金高は、わからなくもない。
株には実体がない。
しかし金には貴金属としての実体がある。
危機の時には、実体のあるものが一番頼りになる。

コロナ騒動は収まりそうにない。
オーバーシュートするそうだ。
日本もどうなるかわからない。
そうなったとき、金が何の役に立つのだろうか。
お金が必要なときに金は役に立たない。
しかし、これは金と株とどっちが価値の実体があるかという問題だ。

お金が一番役に立つが、品不足になると物価が上がる。
物価が上がれば、お金の価値は落ちる。

モノの値段が上がれば、金の値段も上がる。
金はモノである。お金ではなく商品である。
でも株はどうか。株は商品ではない。モノではない。

安全資産とは何か。結局はモノになる。
紙幣というお金にしろ、株にしろ、実体をともなわない価値の標示物にすぎないものは、しょせんは砂上の楼閣にすぎないということか。
マネタリズム経済学がいうように「人間はこれを操作することができる」、のだろうか。

社会主義がウソだったように、マネタリズムも同じいかがわしさを秘めている。
もしかすると、それをわかった上でやっているのかもしれない。
なにか別の狙いがあるような気がしてならない。
彼らにとって金の上昇は迷惑なはずだ。
庶民はマネタリズムのうえで踊ってもらわないと、ゲームが進行しないからだ。

もし金が上昇し続ければ、ドルは必ず下落する。
そうなったときに何が起こるか。
アメリカにはまだそれを食い止める力があるのだろうか。

安全な資産とはなにか

2020-03-20 11:07:43 | 国際金融
金曜日 休日

今回のコロナ騒動で、株は一気に約30%下げた。
「有事の金」で、安全資産といわれる金は上げるかと思うと、やはり下げた。
株に比べると10%超の下げにとどまっているともいえるが、何かが起こると株も金も両方とも下げた。これは前回のリーマンショックの時もそうであった。

安全資産とされる金が下がるとすれば、いったい何が安全資産なのか。
つまるところ、相対的に上がったのは現金である。現金が一番強かったということになる。

「こんな低金利の時代に銀行預金なんてバカらしいことはやめて、何かに投資しなさい」
世の中はそういう声であふれていたが、フタを開けてみると、株を持っていても、金を持っていても下げたことには変わりはない。現金をもっていた人が一番儲かったことになる。
このことからいえば「タンス預金」が一番安全だということになる。
銀行に預けておいたって、銀行のリスクがあるのだから。

自分は動かなくても、勝手に自分の資産が減る社会。
では減った資産は、誰が得したのか。
今のところ減っただけだ。
でもプロの中には空売りで儲けた人もいるだろう。
いや、今回の株の下げすぎは、彼らが空売りに動いたせいのようにも思える。
下げを狙ったプロたちがいるとしたら、彼らはそれぐらいの資金量は動かせる。
株が動き始めたら止まらない習性があることはわかるが、「それにしても下げすぎでは」という感覚はある。二番底ならず、三番底、四番底、という感じである。


確かに今まで現金をもつ人たちは損してきた。そのぶん株が上がっていたからだ。
政府が大量にお金を刷った結果、お金の価値が落ち、株が上がっていた。
その上がった株が今回のコロナ騒動で急落した。
これはもとに戻っただけなのか。

新聞では、今年の世界の自動車生産は昨年より4割減になるという。
だとすれば物価が下がることはない。品不足で物価は上がるだろう。
そうだとすれば現金の価値もいずれ落ちることになる。

それとも給料が下がるのが先で、モノが売れなくなり、物価が下がるのだろうか。
物価が下がれば、現金の価値が上がることになるが、そんなことになっても、給料が下がれば何の足しにもならない。

つまりいいことは一つもないのだ。
これが世界中が、お金を印刷してきたことのツケである。

今回のことは経済の実体がストップしている。
影響はことのほか大きい。
これは金融危機から発生したことではないが、この予想以上の株価の暴落は、今までの量的金融緩和で、ジャブジャブとマネーを印刷してきたことによって余計に増幅されている。

この対策に各国政府は乗り出しているが、これもまた同じくお金の大量印刷に乗り出すだけである。つまり同じことが果てしなく繰り返されるだけである。

しかも今回のことで明らかになったのは、一国だけが立ち直っても、これだけ経済がグローバル化されている以上、どうにもならないということだ。原料も、部品も販路も、すべてが国境をまたいでいる。

日本は感染拡大をどうにか抑えているが、それで日本経済が復活するかといえば、外国での部品の生産がストップすれば、それで終わりである。
これはグローバル経済の強さではなく、弱さである。「死なば、もろとも」である。
国際協調の名のもとに、今回もまたグローバル経済が一団と強められていく。
目に見えないところで、ローカル経済が破壊されていく。

民間企業は、政府の力を頼るしかない。政府は中央銀行の力を頼るしかない。中央銀行は、世界的な規模で金融緩和をやるしかない。
政府が借金して財政政策をするにしても、借りる先は中央銀行からだ。結局、中央銀行頼みなのだ。この中央銀行ほど民主主義から遠いところにあるものもない。半分は政府が株主でも、あとの半分は誰が株主かもわからないのだ。

国民からも選ばれず、国会の承認もいらず、何でも独自に行動できる。このような組織が恣意的に動かない保証はどこにもない。
その中央銀行のさじ加減一つで地獄絵のようなことが起こり、ローカル経済は見向きもされなくなる。
危機のたびに、中央銀行の力が大きくなっていく。
量的緩和一辺倒で、彼らは安全資産をつくろうなどとはハナから思っていない。



言葉は、意味づけをした記号である

2020-03-16 05:55:43 | 歴史
月曜日

言葉は記号である。記号の組み合わせである。
まず、アイウエオ、などの音素があり、その組み合わせによって、ものごとを記号化する。
それは、まず記号化する対象を認識することによってはじまる。そこにはものごとを概念化する能力がなければならない。

言葉の本質は、音を発する声帯の発達よりも、ものごとを概念化する能力にある。
イヌをイヌとしてとらえる能力、ネコをネコとしてとらえる能力。そんなことは当たり前だと思ってしまってはならない。
われわれは今でも宇宙を概念としてとらえることができない。
イヌは個体により、色も形も違うのであり、すべて個体によって違う。そのなかの共通性を認識することによって、はじめて「イヌ」という記号が誕生する。これは概念化の産物である。簡単なようで簡単ではない。
それをどういう音素で表現するかは、人それぞれである。それは記号の本質ではない。

この概念体系は文化によって違う。文化という人間が造りあげたものによって、概念化がなされ、その文化に応じて概念が記号化される。
だから文化によって記号の意味するところは違ってくる。


音素自体は言葉の本質ではない。音素が10もあれば、ありとあらゆる概念の記号化は可能である。
アイウエオと、カキクケコだけでも足りるかもしれない。計算上は、5文字の単語だけでも、10×10×10×10×10とおりの言葉ができる。100,000語である。6文字の単語になると、1,000,000語である。

たとえば、なにげなく「文化」といっても、「文化とは何か」を説明することは思いのほか困難である。にもかかわらず、「文化」という共通の言葉で会話が通じる。
このことが言葉の本質である。そこには概念の記号化がある。
大事なのは「記号化」ではなく、「概念化」である。
この能力がどこからくるか、それが人間と動物の違いであり、人間の脳の秘密である。
もっといえば、人間という不思議な生き物の秘密である。

概念とは、ひとつには、見えないものをとらえる能力である。
人は見えないものを、心で見ている。
心とは「意味」のことである。
この「意味」の頂点に「神」がいる。
これが失われたときに、すべての「意味」は崩れる。
ドストエフスキーの「神がいなければ、すべてが許される」とは、このことである。
そうなれば、言葉さえ崩壊させる。人間の認識能力が消えてなくなるのである。
そのことは人間が人間でなくなることと同義である。

もしニーチェがいうように「神が死んだ」のだとしたら、神に代わる意味体系を見つけなければならない。
そうでないと人間は言葉を失ってしまう。
意味のないところに言葉は生まれないのだから。

言葉は、生きるための社会的価値体系を記号化したものである。
人は社会がなくては生きられない。

意味を教えることが、すべての教育の基礎にある。
言葉の意味が上滑りすることは、すでに教育の現場ではじまっている。
それは次の世代の社会が、もっと壊れていくことを意味しているのではないか。


新型コロナウィルスの感染源はなにか

2020-03-15 06:32:38 | 歴史

新型コロナの正体、やはり“人工的”ウイルスか 中国当局「荒唐無稽で無知だ」と否定も…米専門家激白「分子にある4つの違いは自然に起きるものではない」

 ■生物・化学兵器の世界的権威・杜祖健氏 河添恵子氏と対談
 中国発の新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるため、安倍晋三政権は9日、中国と韓国からの入国制限を強化した。イタリアや韓国で、感染者や死者が激増するなど、世界は「パンデミック(爆発的大流行)」直前といえそうだ。こうしたなか、毒性学や生物兵器・化学兵器の世界的権威である、米コロラド州立大学名誉教授の杜祖健(アンソニー・トゥー)氏(89)が緊急来日した。台湾出身で、日本滞在中には安倍政権中枢との面会も検討されている。ユーチューブ「林原チャンネル」で8日、新型コロナウイルス問題を徹底追及してきたノンフィクション作家の河添恵子氏と対談し、未知のウイルスの最新情報や、日本の対応について語った。
【写真】新型コロナウイルスを電子顕微鏡でみる
 「世界(の専門家の間)では『人工的なウイルスだろう』という意見が多い」
 杜氏は、新型コロナウイルスについて、河添氏から「天然のものか? 人工的なものか?」と聞かれ、こう語った。
 1930年に台北生まれ。台湾大学卒業後に渡米、スタンフォード大学やイエール大学で化学研究に従事し、コロラド州立大学理学部で教鞭(きょうべん)をとる。ヘビや植物の天然毒が専門で、80年代にはソ連の生物兵器開発について、毒物のデータベース作成などで米政府に協力した。
 オウム真理教による一連のサリン事件で、サリンの分析方法を警察当局に指導したことで知られ、2009年に旭日中綬章を受章した。
 杜氏は、新型コロナウイルスの特性について、「SARS(重症急性呼吸器症候群)以来、動物から人間に移る感染症が米国でも重視されている」「新型コロナウイルスは、潜伏期間にも感染するという点で、これまでとは違う」と語った。
 河添氏は、発生地である中国湖北省武漢市に、エボラ出血熱など、極めて危険な病原体を扱える中国唯一のバイオセーフティーレベル4の施設「P4研究室」が存在することを指摘した。
 これに対し、杜氏は「間接的な証拠から、武漢の研究室から漏れたというのが最も適当な説明だろう」と推測し、1979年に旧ソ連・スべルドロフスクの生物兵器研究施設から炭疽(たんそ)菌が漏れて、近隣に複数の死者が出た事例を挙げ、続けた。
 「旧ソ連のケースは、『空調のパイプがつまったために、外に意図しない形で漏れた』とされている。武漢では、焼却処分されるはずの実験動物を裏で転売して漏れたということもあり得る。また、1つの説として、『SARSのウイルスに手を加えたのではないか』という論文も出た。『(新型コロナウイルスは)SARSと近いウイルスだが、分子に4つの違いがあり、自然に起きる違いではない』と報告されており、人工的に改良された可能性がある」
 中国軍機関紙「解放軍報」は1月31日、人民解放軍が陸軍の生物兵器専門家を武漢に派遣したことを報じている。
 杜氏は「台湾側(の専門家)は『感染症を抑えるためなら医学の専門家を送るべきなのに、(中国は)生物兵器の専門家を送っているので、(P4)研究室と関係しているのではないか』と指摘している」と紹介した。
 《中国外務省の耿爽報道官は2月20日、ウイルスが生物兵器の研究所から流出した可能性を指摘した一部報道について、「荒唐無稽で無知だ」と否定し、科学的根拠が全くないと主張した。中国当局は「人工的ウイルス」説も否定している》
 対談では、中国当局の初期対応についても議題に挙がった。
 河添氏は「武漢が当初、隠蔽(いんぺい)をしていたことが絶対的で、習近平政権の問題になる」「日本企業も(中国の)トラップにかかっている」と断じた。
 杜氏も「中国の対応も遅すぎた。武漢全体を隔離するのはあまり意味がない。習政権は、武漢など他のところに責任をなすりつけている。今後の予想はつかないが、多くの都市が分化してしまうと生産や流通も困るし、中国の経済には影響するだろう」と語った。
 日本は、東京五輪開幕を5カ月後に控え、感染拡大抑制に必死だ。
 安倍首相は先月27日に全国の小中高校の一斉休校を要請した。9日には、中国と韓国からの入国制限を強化。今月末まで。発行済みの査証(ビザ)を無効とし、入国者には自宅やホテルで2週間待機を要請する。
 杜氏は「日本も、初期に感染者を局部で隔離できればよかったが…。(感染拡大の抑制に努めながら)今後の教訓に将来をどうすべきかに重点を置くべきだ」といい、「病院船の活用」や「動物から人間に移るウイルスについて、大学の獣医学部での研究拡充」などを説いたうえで、日本の危機管理について、こう総括した。
 「どんな生物兵器が、どの国で作られているかという情報を知ることが大事になる。米国も情報を重要視している。日本人は外から見ていて、国防意識が薄すぎる。『国が危ない』ことをあまり知らないのは、メディアが真実を報道しないためだ。防衛面を頼っている米国との関係は重要だが、(国民と国家を守るためには)憲法改正は必要だと思う」




「アメリカ軍が武漢にウイルスを感染させたかも」=中国外務省報道官

3/13(金) 14:14配信  
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200313-00253604-wow-kr

    

WoW!Korea

中国の責任逃れがまた出てきている。武漢発の新型コロナウイルスは、アメリカ軍が感染させた可能性があるという主張である。
中国外務省の報道官は12日、自身のツイッターを通じて「アメリカ軍が武漢に新型コロナウイルス感染症をうつした可能性がある」と主張した。
この報道官は「アメリカ軍は資料を公開してこれについて透明性をもって明らかにするように」と要求、「アメリカ軍は我々に説明する義務がある」と付け加えた。
昨年、中国建国70周年を迎えたことにより、昨年の10月18日から27日まで武漢で世界軍人体育大会が開かれ、米国など105か国の軍人たちが参加した。
この報道官は科学的根拠を示すことなく、当時 体育大会に参加したアメリカ軍がウイルスを拡散させた可能性があると主張している。
中国外務省の別の報道官である華春瑩氏もツイッターで「米国でインフルエンザの診断を受けた一部の事例は、実際は新型コロナであった」とし「この病気を“中国コロナウイルス”と呼ぶのは不適切である」と主張した。


(3月13日の株式相場) 戦争で株が上がるか

2020-03-14 10:09:14 | 歴史
土曜日

昨日3月13日(金)の株式相場。
終値17431円(前日比-1128円)
安値16690円
高値18184円

不思議な解釈がある。

13時ごろから、急に株が上がりだした。
それと同時にドル円相場でも、ドルが上がりだし、一時18100円を超えた。円安だから日本株が上がるのか。
でも理由は、アメリカがイランをまた攻撃したからだった。であれば、株は落ちるはず。なぜ上がるのか。上がるのはいいことだが、不思議だ。
そのあと付けの理由は、アメリカがイランを攻撃すれば、石油の需要が高まり、低迷していた原油価格が上がるから、株が上がるのだそうだ。
でもそんなことを言えば、「戦争が起これば株が上がる」といっているようなものだ。変な理屈だ。アメリカがもっと戦争すれば、株は上がるのだろうか。新型コロナに加えて、アメリカの戦争、これで株が上がる。変な理屈だ。
戦争が起これば株は落ちるんだ。

アメリカがイラクを攻撃し有事になれば、「有事の金」か、と思えば、金も急落した。理由は株の暴落で資金繰りに苦しむ人たちが、投資していた金を売ったからだ、というのだ。でも「有事の金」で金を買っている人もいるはず。その買う人よりも、売る人が多かったということ。
ということは、株も金もお金持ちだけが投資していて、一般庶民はこのドタバタ劇のカヤの外にいるということだ。そのことを期せずして露呈してしまったことになる。
ではそれが落ち着いたあと、彼ら投資家は株を買うのか金を買うのか。

価値の基準となるものは何なのか。お金なのか、株なのか、金なのか、はたまたビットコインなのか。3週間で30%近くも下落するものが、価値の基準となりえるのかどうか。それを吊り上げることに懸命になっていた今までの政府というのは、いったい何なのか。
「上げ幅も、下げ幅も、史上最大」が連日続く。そんな相場が続いている。
政府は量的緩和といって、またお金を刷るだろう。それで一時的にはどうにかなるかもしれない。しかしそのツケはいつかまたくる。
一言でいえば、マネタリズムは恐いということだ。



今回のことで大事なことは、報道の陰に隠れてしまっている。
この新型コロナウイルスは、中国武漢の研究所でつくられた人口ウイルスだということ。
そして、昨日のアメリカによるイラク攻撃も新型コロナの陰に隠れて、かすんでしまったこと。
「火事場泥棒」的にどさくさに紛れて、平時ではできない有事法制が一気に進んでいく危険をはらんでいる。このことは日本でも顕著である。アベシンゾーさんが大好きなことである。

マスコミは「不景気突入」をさかんにあおり立てている。そして経済対策をイケイケ、ヤレヤレである。経済対策はいいことだが、援助を受ける世論の動向はこれからますます、めったなことは言えなくなるだろう。

そんななかで、昨夜のニューヨークダウ株価は、1985ドル高と大幅に上がった。アメリカがイラクを攻撃して、なぜ株が上がるのか。原油が上がっただけで、株が2000ドル近くも上がるか。
その前日は逆に2352ドルもの大幅下落だったのに。
私には上がる理由も下がる理由も、ホントではないような気がする。


歴史上、世界を変えるときには激変でしか変わらない。ゆっくりとは変わらない。
そしていつの時代も、経済がドツボに落ちたときは、政治的激変のチャンスになっていく。
いやそのためにわざと経済を低迷させたようにも見える。

庶民の貧困は、甘い蜜。政治家にとってはかき入れ時である。

経済を混乱させることは、政治変革のためにはますます効果的である。
みんな「明日の生活さえできれば、あとはどうなったっていい」と思っているから、経済だけに関心が集まり、政治に関心を失っていく。
こういうときに、すべてのことは起こる。あとはマスコミがお膳立てのそろった料理を出すだけだ。

この新型コロナ、本当の狙いはどこにあるのか。
「火事場泥棒」はみんなが火事を見ているのをいいことに、余計なことまで好き勝手、し放題である。
理由はあとでどうとでもなる。マスコミも司法も味方だから。

下に書いたロックがつくった国家は、自分の富を守るための国家である。その国家は富裕者の富を守るための国家に変わる。このような国家は一部の人間に富を集中させることに専念する。そして自分に対立するものを許さない。お金の力で国民が自分になびくことを待っている。