ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

お金はお金のあるところに集まる

2023-02-18 09:40:27 | お金とは何だ

お金はお金のあるところに集まる。

企業同士が競争して、勝った企業が大きくなる。
これを繰り返して、お金はお金のあるところに集まる。

しかし、これは目に見える一コマに過ぎない。



会社は、株を発行してお金を集める。

銀行は、預金をさせてお金を集める。

人のお金でも集めたお金は、自由に使える。
資本主義のルールはこの裁判に勝ったこと。
人のお金を自由に使えること、これが資本主義である。
自己資本ではない。
他人のお金である。

資本主義とは、この他人のお金を自由に使えることである。
貸し借りによって。
つまりお金を一カ所にプールすることで資本主義が発生する。

これによって一つの権力が発生する。

政治のルールは「一人一票」であるが、
経済のルールは「一株一票」である。

「一人一票」は人間のルールだが、
「一株一票」はお金のルールである。
人は、お金によっていくらでも株を買うことができるから。

銀行が、人のお金を預かって、それをまた人に貸したとたんに、お金は何倍にも膨らむ。

これによってお金を作ることができる。
お金持ちと金融資本家が狙っているのはこれである。

お金を作る人間は、そのお金で政治家を作ることができる。
その政治家は政治的力によって、マスコミを支配することができる。
マスコミは情報を操作する。


正しい情報が行き渡らなければ、民主主義のルールは破壊される。








お金とは何だ 43 飛車・角ぬきの戦い

2018-11-24 17:03:53 | お金とは何だ

土曜日

基軸通貨を持たない国は、飛車・角ぬきで将棋をしているようなものだ。
アメリカは他の国が持たない飛車・角を使って、あらゆることができる。

世界を動かしてきたのは、民主主義ではない。
お金と軍事力の力はすさまじい。

今のお金は富ではない。
お金だと認めさせる力さえあれば何でもお金になる。
しょせんお金は紙にすぎない。または単なるパソコン上のデータにすぎない。
紙であろうとデータであろうと、軍事力で認めさせればそれはお金になる。

そのお金だと認めたものが算数のルールに従ってさえいれば、それはお金である。

日本の貿易取引の大半はドル建てである。
ドル建てには絶えず為替リスクがともなう。
ところがドルの本家アメリカはドル建てである以上、為替リスクがまったく発生しない。

輸出もドル建て、輸入もドル建てである。
そしてアメリカに頼まれてお金を貸すときもドル建てである。
なぜ「円でないと貸さないよ」といえないのか。

だからアメリカは、1ドル=120円で借りて、1ドル=100円で返すのだ。
日本は120円貸して、100円返してもらっている。
それでいいのか。

日本は「軽武装・経済優先」の条件で独立した。
そのとき吉田茂は、「お金が必要ならいつでも言ってください」とでも言ったのだろう。
マッカーサーにはおべんちゃら、その夫人には贈答品。
そのくせ国内では傍若無人。
マッカーサーに気に入られただけが取り柄の政治家だった。
しかしそのマッカーサーは、奇人変人で、アメリカ国内では相手にされていない。
こんな人間が憲法を作ったのだから、それ以後日本人は考えることをやめてしまった。

ドイツは違う。
ドルに嫌気がさして、ユーロをつくった。
ちゃんと考えている。

ドルが基軸通貨でありえるなら、ユーロが基軸通貨であってもよい。
金と交換できないお金が世界の基軸通貨でありえるなら、何であっても基軸通貨になりえる。

そんな当たり前のことをドイツは実行しただけだ。
でもそれはちゃんと考えているからできたことだ。

そんな当たり前のことができる人が日本にいるか。
飛車・角がないのなら、なぜ飛車・角を持とうとしないのか。

逆に、飛車・角を持とうとした人間を、バカなやつだとさげすむ始末だ。
バカでけっこう、バカなことを言うやつがもっといてもいい。


お金とは何だ 42 お金には垣根がある

2018-11-22 12:02:23 | お金とは何だ

木曜日

お金には垣根がある。それが国境である。
日本の円は、アメリカでは使えないし、アメリカのドルは日本では使えない。
1つの通貨は1つの国内で流通する。
これがふつうの状態である。

一方で、借りた金は自由に使えるというのが、1848年にイギリスが公認した銀行のルールである。

アメリカは日本から借りたお金で日本企業を買収したい。
そのために日本人の個人資産を自由に使えるようにしたい。
つまり日本人が自由にアメリカのドル預金をできるようにしたい。
その結果、日本人が預けたその金を使って、日本の企業を買収する。
これが「金融の自由化」の実態である。

お金には垣根があるが、アメリカにとってはそんな垣根があっては困るのである。
そんなものは取り外してしまいたいのである。
これがアメリカの金融業の狙いである。

日本人は愚かである。
目先の高金利につられてドル預金や米国債買いをすることが、時代について行くことだと勘違いしている。
そしてまんまとアメリカ資本に日本の株を買い占められている。
そしてそれを「金融の自由化」だと喜んでいる。
それを「グローバル化」だと喜んでいる。

日本人は愚かである。
勉強熱心な人は日本経済新聞を読んでいるが、日本最大の経済紙といわれるこの新聞をいくら読んでも、本当のことは何も分からない。


お金とは何だ 41 円が高いと輸入品は安いからデフレになる

2018-11-13 08:19:19 | お金とは何だ

火曜日

1990年のバブル崩壊以降、ドル円相場は1ドル=110円前後で推移している。2000年代に入ってからはますますそれがはっきりした。現在は113円である。
ところが購買力平価で見ると、適正相場は1ドル=150円前後である。
つまり1ドル=110円というドル円相場は、『円高』過ぎるのである。
円高だと日本人は外国製品が安く買える。つまり物価は低下する。だからデフレになる。
実際その通り今の日本はデフレ状態が長く続いている。

では円が高くて、外国製品が安く買えるのなら、日本人がそれだけ豊かになったのかといえば、肝心の我々の給料は減っている。預金金利もつかない。ゼロ金利である。こうやって我々はだんだん貧しくなっている。
なぜ我々は貧しくなるのか。
それは日本がドル買いしているからである。ドル買いして、買ったドルをそのまま米国債にしているから、我々のお金は我々には回ってこないのである。

日本は1980年代の中曽根康弘の時代からずっとこの米国債買いを続けてきた。
そうやってドルを買い支えてきた。不自然なドル高をつくってきた。
だから我々日本人にはお金が回らない。
我々のお金はアメリカ人が使っている。アメリカの消費に当てられている。
我々は自分たちが働いて得たお金をアメリカに貸し、その貸したお金でアメリカ人に日本製品を買ってもらっている。
そしてそのために円を売ってドルを買い、ドル高・円安にしている。
日本のドル買いがなければ、ドルはもっと安いのだ。ドルの実力はもっと落ちるのだ。
日本のドル買いがなければ、ドル円相場の適正レートは、1ドル=80円前後だろう。
実際に過去2度ほど、ドルは80円を下回った。

アメリカは1980年代から貿易赤字の上に財政赤字の国である。これを長く続けた結果、世界最大の債務国である。このような国の通貨は、ふつうは下落し続けていく。それが110円前後で安定していること自体がおかしいのである。
それに対し日本は、貿易黒字の国である。そして世界最大の債権国である。このような国の通貨はふつうは上昇を続ける。しかしそれを食い止めるためにドル買い、米国債買いをしている。だから財政赤字が続いている。こうやって日本のお金がアメリカに流れている。

ドルの本当の実力は、1ドル=80円前後である。
しかし購買力平価で見ると、1ドル=150円前後が適正レートである。

この矛盾は何を意味するか。
1ドルは80円の実力しかないのに、150円の力を持っているということである。
アメリカ人は本当は1ドルで80円のものしか買えないのに、150円のものを買っているということである。
この差し引き70円はどこから来るのか。
それが日本から与えられたお金である。(米国債は返済されないから)
逆にいえば我々日本人は、80円で買えるものを、150円で買って損しているということである。
我々が今150円で買っているものは、実は80円で買えるものである。
我々が稼いだお金の70円分は、アメリカに貸し出され、アメリカ人が使っている。
だから我々はずっと貧しいのである。


お金とは何だ 40 お金とは権利である

2018-11-03 22:27:51 | お金とは何だ

土曜日

お金とは権利である。
お金は、ないよりもあった方がよい。
それは自分の可能性を拡大することができるから。

しかし大きくなりすぎた権利は、人の権利を奪うこともできる。
権利と権利はぶつかり合う。
そして大きな権利は小さな権利を飲み込んでいく。
権利の概念は協調的ではなく、対立的である。
平和的ではなく、敵対的であり、強奪的である。

そのぶつかり合う権利を具象化したものがお金である。
それが集積すれば支配の道具となることもできる。
権利がある一定のルールによって、1カ所に集積する場合、それは権力となる。

だから国家とお金は切っても切れない関係にある。

国家が誕生してもお金のない時代はあった。
しかしそのお金とは金属貨幣のことだろう。
金属貨幣以外のお金はすでにあったはずだ。
どのようなものであれ、権利が具象化したものはお金である。

権利の集積物である国家が、一枚の紙に権利を与えれば、それはお金になる。
それは権利だからだ。
しかし物に権利を与えるのは国家でなくてもよい。
食う、寝る、遊ぶ……、それら人間の活動を保証するものはすべてお金である。
国家紙幣の裏には国家の権利がある。
しかしその権利を与えるものは国家以外のものでもよい。

国家以前にお金は発生していたはずだ。
紀元前7世紀にギリシアに近いリディアで金属貨幣が発生する前に、お金はすでに発生していたはずだ。
そうでなければ、権力の発生のあとに権利が発生したという変なことになる。
人が自分の権利を使って何らかの権利を高めようとしなければ、国家は誕生しない。


お金とは何だ 39 ドル高とは

2018-10-30 10:39:31 | お金とは何だ

火曜日

ドル高とは、ドルが買われることである。
ではドルを買っているのは誰かというと、それは日本である。
日本人の貯蓄資産でドルを買っている。

アメリカは長らく貿易赤字の国である。されに加えて財政赤字の国である。
世界の大問題はこういう不健全な国の通貨が、世界の共通通貨として基軸通貨になっていることである。
ふつうならドル安にならないはずがない。
しかしそのドルが1995年以降、約20年もの間、なぜか110円前後でキープされ、そのレートが維持されているのは、1つの世界経済の謎である。

日本の円がなければ、ドルはとっくの昔にもっと下落している。
アメリカのドル高には、日本の円の買い支えが関与している。
日本はそのために1000兆円もの莫大なお金を使っている。これは国家の負債額に相当する。日本の財政赤字は、実はドルの買い支え資金のためだ、と言ってもいいほどである。

ドル円相場という暴れ馬を飼い慣らすために、日本はどれほどの資金を使ったのだろうか。
1985年のプラザ合意以前、レーガンによるドル高政策のために、ドルは高くなりすぎた。中曽根康弘は自分の政権維持のためにすすんで、日本人の資産をアメリカに貢いだ。
だから今度はドル安に誘導しようとプラザ合意を結んだところ、逆にドル安に振れすぎることになった。
しかもそんなときにアメリカは金利を引き下げた。それは国内景気浮揚のためであったが、これでますますドルは安くなった。本来なら金利を引き上げなければならないところである。
ドル安が行きすぎたら、当然ドル金利は上げなければならない。こんなイロハが通じない関係がドル円相場なのである。
しかもドル金利よりも円金利は低く設定するというルール(?)から、日本もさらに金利を引き下げた。どこまでもアメリカの言いなりになったのが首相の中曽根である。そして大蔵大臣の竹下登である。
その低すぎる金利の結果、何が起こったか。
あとはご承知の通りである。

日本の被った損害は計り知れない。
あれから30年、我々が生きた時代の原点はここにある。

敗戦後11年経って、1956年、政府は経済白書に『もはや戦後ではない』と書いたが、とんでもないことである。
1985年の経済白書には、前言を取り消して、『やはり戦後は続いている』と書くべきだったのである。
そしてそのことは今でも変わらない。

我々の生活がなぜ苦しいのか。それはすべてドルの維持のためである。他国の通貨の維持のために、我々のお金が吸い上げられている。
2011年に1ドル=75円の最安値をつけたドルは、アベノミクス以降、2015年に1ドル=125円にまで値上がりした。
このことにどれだけ日本の資金が使われていることか。
いくら働いても我々の暮らしが楽にならないのは、働いた分のお金がアメリカに流出しているからである。
日本人が働いて得たお金はどうせアメリカに流出する。日本人の労働は半ばタダ働きである。

日本にこの金が尽きたとき、ドルはまた下落する。
日本人が働けなくなったとき、世界経済は崩壊する。
不健全な世の中である。


お金とは何だ 38 レーガンのドル高政策

2018-10-30 08:22:32 | お金とは何だ

火曜日

1971年のニクソン・ショックで、金とドルの交換が停止しされて以降、
1.米国金利は、一貫して日本金利よりも高い。
2.日本は、一貫して米国債を買い続けている。
3.ドルは、1995年まで20年間以上下落し続け、それ以後は110円前後で維持されている。
4.2011年には1ドル=75円の最安値をつけ、さらなる下落をうかがっている気配がある。

アメリカで、ドル高を望んだ政権は2つ。
レーガン政権とクリントン政権である。
どちらも、「強いアメリカ」「強いドル」を標榜した。
これを支えたのが日本である。
日本の米国債保有残高は、表面上は100兆円だとされているが、その実態は不明である。一説には1000兆円の米国債を保有しているともいわれる。この額は、日本政府の国債発行残高(借金)とほぼ同じである。このことは日本は国民から借金して、その資金をアメリカに流しているということである。

この日本からアメリカへの資金の流れが、世界を変えた。
1981年から始まるレーガン政権下では、時の中曽根康弘首相が、「ロンヤス会談」を開き、「日本はアメリカの不沈空母である」とした。このことの意味は、財政赤字と貿易赤字に苦しむアメリカに、日本は全面的に資金援助をしたということである。
その資金は、「スターウォーズ計画」などのアメリカの軍備拡張に使われた。
それがソ連の崩壊につながった。

ただここで基本的なこととして考えたいのは、日本からアメリカに貢がれた日本の資金はその後、実務上どうなったかということである。

前に書いたように、ニクソンショック以後の通貨は、地域限定通貨である。金という世界共通通貨を失ったあとの世界では、各国が独自に刷った紙幣は、その国内でしか通用しない。
そうであれば、日本が米国債を買って、アメリカに資金を貢いだとしても、その貢いだ資金は日本国内にとどまっているはずである。そのとどまった資金はどうなるのかということである。

日本が米国債を買う場合、日本はまず円を売ってドルを買い、そのドルで米国債を買う。それは銀行を介して行われる。
日本がドルを買うということは、日本にある米国銀行(在日米銀)に円を預け、その見返りに、アメリカにある日本の銀行(在米邦銀)にドル預金をするということである。在米邦銀はそのドルで米国債を買う。
このような形であるから、日本が最初に売った円は、日本国内の在日米銀の中にとどまる。
そしてそれは在日米銀の活動資金となって、日本国内を流通する。こうやってアメリカの銀行の活動が、日本国内で活発になる。
つまり日本の米国債買いとは、米国企業の日本国内での活動を活発化する。
ここで注意すべきは、米国企業のアメリカ国内での活性化には影響を及ぼさないということである。
もちろん円を手にした米国企業がその円を売って、ドルを買うことはできる。しかしその場合も、売った円は日本国内にとどまる。
この繰り返しで、いくら円とドルを売り買いしても、日本国内の通貨量に変化はない。
大事なことは、日本の米国債買いによって、米国企業が日本国内で円を手にするということである。

ただこれによって、ドル円相場はドル高を保つことができる。
1995年以降、ここ20年間のドル円レート、1ドル=110円前後は、この日本による米国債買いによって維持されている。
(アベノミクスはそのもっとも顕著な形である)


お金とは何だ 37 円そのものは外国に流出しない

2018-10-21 23:39:48 | お金とは何だ

日曜日


『国際収支については、「日本からの資本流出によって日本から外国へ円が流出するので、マネーサプライが減少し、金融引き締め効果が生ずる」といわれることがある。しかし、これは誤解である。……
 例えば、日本の生保が米国の国債を購入するときには、日本のX銀行が保有しているドル預金が減少するが、円通貨が米国に流出しているわけではない。また国内では生保が持っていた円預金がいったん銀行部門から引き出されて証券会社に支払われるが、証券会社はその円預金で銀行からドルを購入するから円預金は再び銀行部門に戻ってくる。したがって、これら一連の取引の結果、円預金残高は変化せず、マネーサプライは変化しない。……
 円預金が外国の居住者に移転して、日本から資本が流出する場合でも、日本のマネーサプライは変化せず、金融引き締め効果は生じない。』
「国際金融入門 新版」(岩田規久男)岩波新書 p51

『国内の決済では、中央銀行を通して資金決済が集中的に行われるのに対して、
外貨決済の場合、国際決済の中央銀行、つまり、中央銀行の中央銀行にあたる集権的・統一的な決済の仕組みが存在しない』
「通貨を考える」(中北徹)ちくま新書 p169

『ところが金本位制の下では、金を購入して、その金を米国の輸出業者に送って輸入代金を支払うこともできた。』
「国際金融入門 新版」(岩田規久男)岩波新書 p71


これはどういうことなのか。
世界の共通通貨がなければ、ドルと円という異通貨間の交換はできないということなのか。
それは、異通貨間の最終決済はできないということなのか。

金ドル本位制が崩れたあとの変動相場制の時代では、最終決済できないことをいいことに、外国に対していくらでもお金を借りることができるということだ。
逆にいえば、日本はいくらでもアメリカにお金を貸すことができるということだ。
しかしそんなことをいつまでも日本が続けていけば、日本ではインフレが起こり、通貨価値が落ちてしまうことになる。


お金とは何だ 36 ガイジンが円を借りると

2018-10-17 11:03:56 | お金とは何だ

水曜日

お金は地域限定である。
アメリカに住むガイジンが円を借りても、アメリカでは円は使えない。
だからそのガイジン(B)またはその代理人(B’)が、日本に来て日本の銀行(A)から円を借り、その円をドルに換えてアメリカで使うしかない。
日本に円を借りに来たのがB’である場合、B’は日本の銀行(A)から、100万円を借りる。(以下は、1ドル=100円とした場合)
A銀行は資産の部に貸付金100万円と、負債の部に預金100万円を打ち込む。
この時、日本全体のお金の量は100万円増えたことになる。

B’はその100万円をドルに換えるため、A銀行に外国送金を依頼する。この時、A銀行は負債の部のB’の預金に-100万円を打ち込み、B’の預金はゼロになる。同時に資産の部の外国為替にー100万円を打ち込む。
この時、B’は借金を返済したわけではないから、A銀行は負債の部のB’の預金から100万円を引き出し、それと同時に銀行の資産の部の外国為替からも100万円を引き出す。
つまりここでお金の量は100万円減り、元に戻る。

さらにA銀行は、アメリカにあるA銀行の支店(A’)に指示を出し(実際には手形を発行する)、そこに口座を持つBの口座に1万ドル(100万円相当額)を入金させる。
これは融資ではないからA’支店は、資産の部の外国為替に1万ドルを打ち込み、負債の部のBの口座に1万ドルを打ち込む。
つまりここではお金(ドル)の総量は1万ドル増える。

実際にはこの作業は、
1.日本の中央銀行である日本銀行、
2.さらにアメリカの中央銀行であるFRB(連邦準備制度理事会)
を通じて行われる。

こうやって日本で増えた100万円が、アメリカの1万ドルとなって、アメリカで流通する。
こうやってお金を数字として考えると、日本の円がアメリカのドルに変わったように見える。



しかしお金の現物を頭に置いて考えると、私の頭の中ではこれとは違ったことが起こる。
円をドルとして送金するということは、円でドルを買うという売買であり、円とドルの交換である。
交換したものは、あくまでも交換であり、いくら交換してもなくならない。
つまりいくら交換しても、円は円としてあり、ドルはドルとして存在する。

両替商を念頭に置いて考えると、円をドルと交換するとき、両替商は、相手から円を受け取り、その代わりに相手にドルを渡す。こうやって円は両替商の手元に残り、ドルは相手の手元に渡る。
ドルを買った者はそのドルを手にしてアメリカに行き、そこでドルを使う。
では両替商の手元に残った円の現物はどうなるのか。
この円は「死に金」ではない。
これは両替商がドルを引き渡した代わりに受け取った円なのだから、紛れもないお金である。
つまり円をドルと交換しても、円はなくならない。お金として生き続ける。
しかもこの円が銀行から融資してもらったお金だった場合には、日本の円というお金の量は増えたままである。
その増えたお金を使って、両替商は別の物を買い、新たな商売をすることができる。

通常は送金すれば、お金は手元に残らないが、そのお金は同じ通貨圏内で誰かが使っている。
異なった通貨間で送金した場合もそれと同じで、送金元の通貨は消えてなくならず、所有者を変えて通貨圏内に残る。
そしてその通貨圏内のお金の量は増えたままである。

しかしはじめの例の銀行間の国際決済の場合には、円が消えて、ドルが通貨量として増えたように見える。
しかしそれは現物を念頭に置いた場合と、結果が異なる。
どちらが正しいのだろうか。


お金とは何だ 35 お金と商品の違い

2018-10-16 11:56:56 | お金とは何だ

火曜日

油は世界中どこででも燃える。
車は世界中どこででも動く。
リンゴは世界中どこででも食べられる。
しかし現代のお金はその国でしか使うことができない。

私の机の中には、少額だが、ある小さな国のお金がある。かれこれ20年間、机の中に入ったままだ。使いようがないのである。
使えないわけではないのだが、それを使えるようにするためには、それを円に換えなければならず、そのためにはそれ以上のお金がかかる。

外国通貨は日本では使えない。しかし無価値ではない。その外国に持って行けば、その通貨は価値を持つ。
つまり現代の通貨は、地域限定なのである。
いまの世の中で法的に地域限定にされているのは、核・麻薬などの危険物を除けば、お金だけである。

そういう意味で今のお金は非常に不便なのだ。
この不便さが何をもたらすか。
(ただ歴史的に見ると、この現象は紙幣の発明以降に発生したことである


お金とは何だ 34 お金がなくてもお金は貸せる

2018-10-15 10:27:21 | お金とは何だ

月曜日

さらに銀行は何もないところから、私に100億円貸すことだってできる。
銀行の資産の部に私への貸付金100億円と、銀行の負債の部に私の銀行預金100億円を同時に打ち込めばいいだけの話だから。

では私が取引先への支払いのため、銀行預金の100億円を引き出しに来た場合どうなるか。銀行はその現金100億円を準備できるのだろうか。

しかしお金とは不思議なものである。お金はその額が大きくなればなるほど現金での引き出しは不便になる。
私はその取引先への支払いを銀行振り込みにする。そうやって銀行に送金を依頼する。
このとき銀行の処理は、預金の出金100億円と、為替勘定の入金100億円をパソコンに打ち込むだけである。
この処理に現金は必要ないのである。

この処理が済めば、銀行は100億円の現金を準備する必要はなくなる。
銀行は、私が引き出そうとする100億円の現金を準備できるかどうか心配する必要はなくなる。

こうなると銀行はいくらでもお金を貸すことができるようになる。
銀行がしたことは、貸付金に100億円を打ち込み、私の口座に100億円を打ち込み、
それをまた引き出して、為替勘定に100億円を打ち込んだだけである。
つまりお金があるかどうかにかかわらず、帳簿上の処理をするだけでいい。

あとは、私がその100億円を利息をつけて返済するのを待つだけでよいのである。

この時、私には法的責任がかかる。
この時銀行は、「あなたに貸したお金は、預金者から預かった大切なお金だから、あなたが返済しないと預金者に迷惑がかかる。だからどんなことがあっても返済してもらわなければならない」という論理である。
確かに借りたお金は返さなければならない。
しかし私が銀行から借りたお金は、銀行が預金者から預かったお金ではない。銀行が勝手につくったお金が大量に含まれている。
ではなぜ、銀行が勝手につくったお金を、私が働いて返さなければならないのか。
そのことは、私が銀行のために働くこととどう違うのか。
(私は銀行借り入れはゼロです。念のため。これは論考です。)


お金とは何だ 33 ルールの矛盾はじわじわと拡大する

2018-10-15 07:58:45 | お金とは何だ

月曜日

ルールの矛盾はじわじわと拡大する。
銀行の矛盾と資本主義の矛盾は結びついている。
当初は小さな矛盾でも、時間をかけてだんだんと大きくなる。
そして気づいたときには、それは手がつけられないほど大きくなっていて、そのルールに従う以外に方法がなくなってしまう。
資本主義社会とはこのようなものである。
負債によって生じたお金を貸し付けていくというルールである。
そしてそのルールが、「富の拡大」と「富の偏在」を同時に生んでいく。

資本主義社会のその原動力は銀行である。
負債をお金に換えることができるのは銀行だけである。
これは一種の手品である。
このカラクリには一種の詐欺的手法が使われている。

繰り返すが、
私が銀行から100万円を借りるとき、その100万円はその銀行の私の口座に入金される。
このとき銀行の貸借対照表では、
銀行の資産が貸付金として100万円増え、銀行の負債が私の預金として100万円増える。
この時点で世の中のお金が増える。銀行手持ちのお金が減ったのではない。(これが「信用創造」と世に言われているものである)
これで貸借は合うのである。これがすべてである。
おわかりだろうか。

ここでは何かが根本的に違う。
例えば、私が手持ちの100万円を人に貸し付けた場合には、私の手持ちのお金は100万円減るが、銀行の場合には減らない。そして銀行のお金は減らないまま、借り手の銀行預金が100万円増える。ここで世の中のお金は100万円増えたことになる。
いくら考えてもおかしな話だが、現実のことである。

通常であれば、私がBさんに100万円を貸した場合、私の手持ちの現金が100万円減る。そしてその分を貸付金100万円として計上する。つまり私の貸借対照表上の資産の量は変わらない。
そしてBさんは自分の貸借対照表上に、負債を100万円計上するとともに、資産として現金100万円を計上する。
この段階では、お金の量は変わらない。私の資産であった現金100万円が、Bさんの資産の100万円になっただけだ。
しかしここで銀行が行った処理は、Bさんが私から借りた現金100万円を再度私に預金として預けたということである。

ややこしい話だが、銀行が貸し付けたお金は、まず預金となったのである。これが同時に行われる。
このことの意味は、銀行はお金の貸し出しによる手持ちの現金の減少を防いだということである。
しかしBさんはすぐに銀行貸し出しによって増えた預金を引き出すだろう。それは銀行にとってはよくある銀行預金の引き出しである。貸し出しによる銀行手持ちの現金の量の減少ではない。

ここでは銀行は自分のお金を貸し付けたのではない。銀行の手持ちのお金は減ってはいない。それどころか、逆に銀行の預金量は増えている。Bさんの銀行預金が増えることによって。このことは世の中のお金の量が増えたということである。それを途中の処理を省略して実行したのである。
銀行の融資とはこういうものである。
お金を貸すだけで、世の中のお金の量は増える。そしてそのお金を返済してもらう権利が銀行に発生する。
銀行は私の預金通帳に100万円と入力するだけで、100万円の債権を発生させる。それはものの1分もかからない。
しかし私がその100万円を返済するのは大変である。1分どころか1年も2年もかかる。
この銀行の債権と、私が負った債務は対等ではない。
労働量が違うのである。債権を発生させる労働量と、債務を返済する労働量が全く違う。
これが対等であるはずはない。
この取引は圧倒的に銀行に有利である。
指先で100万円と書いただけで、人を1年も2年も働かせることができるのだから。

これが債権と債務が均衡していないということである。
権利と義務が均衡していないということである。
その結果、有利な立場の者が富を得る。
「富の偏在」が起こる。
「貧富の格差」が起こる。
資本主義社会は必然的に「格差社会」になる。


お金とは何だ 32 「私的所有権」とお金の「又貸し」

2018-10-14 20:51:31 | お金とは何だ

日曜日

貸し借りは、昔からある。
しかし銀行が行っていることは、単なる貸し借りではなく、お金の「又貸し」である。

自分のお金を貸した場合、貸した本人はお金は使えなくなる。
しかし預かったお金を貸し出した場合には、二重にお金が使える。
銀行が貸し出したお金は、考え方としてはコピーされたお金である。

自分のお金を貸すことと、他人のお金を又貸しすることとは、金融論として根本的に違う。
「負債としてのお金」とは、「銀行の負債である預金を貸し出すこと」、つまり「又貸し」のことである。
これは人道的には違法である。
なぜなら、人の世のルールである権利と責任との関係が崩れるからである。権利と責任の均衡が崩れるからである。
その結果、人がお金を使うのではなく、お金が人を使うようになる。
そしてそのお金とは、銀行のお金である。
ということは、銀行が人を使うということである。
銀行は人が働いてコツコツ貯めたお金を集めただけでこういうことができるようになった。
それが「又貸し」である。
その「又貸し」が合法かどうかは、長い裁判の歴史がある。

私的所有権の絶対性が正しいとするならば、人から預かったものをリスクにさらす行為は違法である。
しかし銀行は人から預かったお金を、当初は無断でリスクにさらしていた。
銀行のもともとの成り立ちが違法行為であることは確かである。

しかし、私的所有権の絶対性を確立させたイギリスで、1848年にその私的所有権をリスクにさらす行為、つまり銀行の「又貸し」行為が合法とされた。
これほどの矛盾はない。ここには論理的な整合性がない。
この非整合性が、その後に世の中に発生する、権利と責任の均衡関係を崩していく。
富の所有者には権利ばかりが発生し、それにともなう責任が発生しないように、もともとつくられている。
資本主義社会とは最初からそういうルールで成り立っている。
その出所として最大のものが、銀行の「又貸し」ルールである。

資本主義にはもともとこういう矛盾がある。
仮にそこに矛盾がないとすれば、逆に私的所有権の絶対性という近代の経済ルールそのものが間違っていることになる。

1.私的所有権は正しく、
かつ
2.それを脅かす銀行の「又貸し」行為も正しい。
これは矛盾である。
どちらかが誤りでなければ世の中のルールは成り立たない。
ルールが間違っていれば必ず富は偏在するようになる。つまり「貧富の格差」は拡大する。
いまの世の中がそうであるように。

これを解消するためには、
1.私的所有権は正しくないか、
または、
2.それを脅かす銀行の「又貸し」行為が正しくないか、
そのどちらかでなければならないことになる。

1の『私的所有権は正しくない』とすれば、莫大な富を持つ者の富は、社会の富として社会に還元しなければならず、
2の『銀行の「又貸し」行為が正しくない』とすれば、お金の「又貸し」そのものを禁止しなければならないはずである。


お金とは何だ 31 国債を買ってもお金は増えない

2018-10-14 10:01:08 | お金とは何だ

日曜日

国が発行した100万円の国債を私が買うと、私のお金が100万円減り、国のお金が100万円増える。
ここでも世の中のお金の量は増えない。
途中に銀行が介在するが、そこでもお金の量は増えない。

なぜなら、銀行が国から買った国債の代金は、銀行の貸付金としてではなく、市中銀行が日本銀行に持つ預金口座から引き落とされるからだ。つまり市中銀行が日本銀行に持つ預金口座の残高の減少として現れるから、世の中全体のお金の量は増えない。
そしてその預金額の減少の代わりに、買った国債が市中銀行の資産になって積み上げられるだけだから、そこに信用創造は発生しない。
(しかし市中銀行が国に融資をした場合は、信用創造が発生する。そんなことが実際にあるのかどうかは知らないが。)

つまり、株の発行によっても、国債の発行によっても、世の中のお金の量に変化はない。その途中に銀行が介在しても、である。
(ただAさんが国債を買うための資金を、銀行がAさんに融資した場合は別である。そんなことが実際にあるのかどうかは知らないが、似たようなことは国際間ではある。キャリートレードとして。このことについては別に考える)