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「土佐へ」 お遍路記 16日目 札所なし

2021-09-28 12:46:52 | お遍路記 「土佐へ」

【16日目】 晴れ
 【札所】なし
 【地域】室戸市(室戸岬町) → 室戸市(吉良川町) → 羽根岬 → 
     奈半利町 → 田野町 → 安田町(唐浜)
    【宿】 金剛頂寺宿坊 → 民宿「とうの浜」

 昨夜はついに一睡もできませんでした。
 なぜ眠れないのだろう。こんなに疲れているのになぜ眠れないのか、自分でも不思議です。ずっと宿坊や民宿に一人寝をしていると侘しさもつのります。それに遍路をしていると気持ちが高ぶっているようです。まだ遍路ころがしも残っているのに、このままでは体がもちません。
 このことは想像していないことでした。足が痛かったり、風邪を引いたり、そういうことばかり心配していましたが、眠れないことは想定していませんでした。

 昨日は津照寺を打った後、金剛頂寺に直接登らずに、ちょっと遠回りをして行当岬の不動岩を見てきましたが、今朝、宿坊の女将さんにそのことを言ったところ、不動岩はこの金剛頂寺が管理しているお堂だそうです。
 「それはありがとうございます」と奥さんからお礼を言われました。
 ただ奥さんもだいぶご高齢で、助っ人の女性も早朝は来ていないようで、食事の準備は1人で大変なようでした。

 朝7時20分、26番の金剛頂寺を出発しました。
 次の札所は神峯寺(こうのみねじ)ですが、今日はそこまでたどり着きません。神峯寺のある山の麓の民宿「とうの浜」に泊まります。

 この金剛頂寺のある山の頂上は雑木林ではなく農地が開けています。そして集落があります。農作業をしている人が見えます。その集落の中に金剛頂寺があります。
 宿坊を出てすぐに、軽トラに乗った地元のおじいさんに呼び止められました。
「あっち、あっち、右、右」
 軽トラに乗ったおじいさんは、わざわざ軽トラから降りて、私に道を教えてくれました。
 どうも曲がる場所を見落としていたようです。ちょっと戻ってみると確かに小さな畦道があり、遍路道の標示もありました。
「オレもどうせオレも車で下まで降りるんやから、乗せて行こか」
「ありがとうございます。でも歩いて回ってますから」と私は丁寧に頭を下げ、お断りしました。
 村の人たちは親切です。そして教えてもらった遍路道に入りました。危うく道を間違うところでした。入った遍路道は小さくて狭い道でした。

 午前7時50分、約30分かかって金剛頂寺から下界に降りてきました。
 次の札所の神峯寺へ向かって歩きます。ここは民家の横を通る遍路道ですが、そのすぐ南の海岸沿いを走る国道に出て、海を見ながら歩きたいと思います。

●写真 7時45分  この山の上に金剛頂寺がありました



●写真 7時45分  金剛頂寺を降りた村の様子


 昨夜は一睡もできませんでした。妙に頭の芯が興奮しています。最近そういう状態が続いています。昨日は少しも眠くなりませんでした。今日は、唐浜(とうのはま)まで25キロ、私にとっては長い道のりですので、体力的にきついだろうと思います。眠れなかった疲れが来なければいいが、と多少心配です。なるべく体に負担がかからないように、3時前には宿に着けるように歩きたいと思います。今日は無駄なく歩いて早く宿に着きたいと思います。ここ数日眠るのが非常に難しく、疲れがたまっています。どうしたのでしょうか。それでも歩けるのが不思議です。


●写真 8時1分  吉良川町手前の海岸




●写真 8時4分  吉良川町手前の国道



●写真 8時22分  吉良川町手前の海岸



 室戸市の吉良川町は町並み保存の運動があって、きれいに家並みが整理されていました。ここは東の川と西の川に挟まれた小さな平野を形成していました。きれいな昔ながらの土倉もありました。


●写真 8時35分  吉良川町




●写真 8時35分  吉良川町




●写真 8時38分  吉良川町の赤いだるまのポスト




●写真 8時39分  吉良川町




●写真 8時43分  吉良川町の案内板




●写真 9時45分  羽根岬へ向かう海岸




●写真 9時47分  羽根岬に向かう国道




 このあたりは山が海岸まで迫ってきてますが、その海岸まで迫ってきている山の上は海岸段丘になっていることをあとで知りました。前にも載せましたが、グーグル写真で見ると、山の上が平地になっています。しかし歩いているときには、そのことにまったく気づきませんでした。「山が迫っているなぁ」、そう思ってただただ歩いていました。山の奥はまた次の山が続いているだろうと思っていましたが、そこは平らな平地で農地が広がっていたのです。こういう地形は私にはかなり珍しいものです。
 「登って見てみたかった」とあとで思いましたが、その時はそういう余裕はありませんでした。それに山の傾斜はかなりの急で、簡単に登れるようなものではありません。


●写真 グーグル地形図




●写真 9時58分  羽根岬に向かう国道



 午前10時過ぎ、吉良川町を過ぎたあたりで、国道沿いを後ろからきた軽自動車が私の前で突然止まりました。けっこう交通量が多いところで、前に止まったままだったので、「何かな」と思ったら車の左の窓が開いて、そこからミカンが2個出てきました。私へのお接待でした。運転していた方は70代のおばあさんで、「暑くて大変ですね」と言われて、私は両手を合わせて拝んで受け取りました。ただ納め札を渡すのを、また忘れてしまいました。お接待を受けるときには自分の名前を書いた納め札を渡して、「南無大師遍照金剛」と唱えるのが作法とされています。


●写真 10時58分  羽根岬付近の工事




●写真 10時58分  羽根岬の海岸




 吉良川町の先の羽根岬を通る時には、その手前に近道の山越の遍路道があるのですが、その遍路道を通ると小高い半島の山を110mほど登らないといけません。遠回りでも岬の平坦な国道を通って行きました。体が疲れています。足のマメが痛いのと、眠れないのとダブルパンチです。足が重いです。

 羽根岬を過ぎると、奈半利の町が向こう側に見えました。お椀状に海岸がへこんでいて、その先に見えるのが奈半利の町のようです。そのまた奥の遠くに高い山が長い半島状に見えます。「あれが足摺岬かな」と思いました。


●写真 11時4分  羽根岬の国道




●写真 11時15分  羽根岬の標識



 国道沿いはずっと続く防波堤があって、右手には山が差し迫っているのですが、さっき言った吉良川町あたりは、けっこう山と海岸線の間に幅がありました。所々に漁港があります。この羽根岬にも羽根漁港がありました。町ごと村ごとに漁港があるようです。


●写真 11時23分  羽根漁港




●写真 11時26分  羽根漁港



 そこを過ぎると奈半利町に入り、入るとすぐに御霊跡がありました。国道を下りるとすぐの海岸ベタに大師堂がありました。トタン葺きのような小ぢんまりとしたものでした。


●写真 11時34分  御霊跡




●写真 11時35分  太師堂




●写真 11時37分  海岸



 12時半、今日は異常に気温が高いです。たぶん25度ぐらいあると思います。今日も昼食にカロリーメイトを流し込みました。スマホを見ると妻から、16歳になる飼い猫の具合が悪いというメールが届いていました。

 昨日はとうとう一睡もできず、そのせいで体調が悪く、足取りも重いですが、ここまで来れば半分以上は過ぎました。あと11キロ、どうにかなりそうです。
 ここ奈半利町に入ってから先の2~3キロは日陰がなくて困りました。国道沿いの小屋の建物の裏に30センチほどの小さな日陰があり、その日陰を利用して昼食を食べました。
 しかし休息している間に太陽が動いて日陰がほとんど無くなりました。こういうときに菅笠をかぶっていると便利です。これがないと直射日光に照らされながら昼食を食うことになります。体調が悪い私に、日光を防いでくれるのはこの菅笠以外にありません。ありがたいものです。この菅笠を一度かぶると他の帽子はかぶれません。


●写真 12時8分  靴脱いで休憩




●写真 12時37分  昼食時の海岸




●写真 12時38分  休憩場所


日陰がありません。


 奈半利(なはり)は結構大きな町で、この平野は今まで見てきた平野と比べると、かなり広く大きく見えます。

 この奈半利の町から北に5~6キロさかのぼって山間部に入ると、そこが北川村になります。そこが明治維新の中岡慎太郎の出身地で、今も生家が残っているようです。室戸岬に銅像が建っていたあの中岡慎太郎です。この先、高知市まではかなりの道を歩かなければなりませんが、高知市からこんなに遠くはなれた山間部の村からも明治維新で活躍する下級武士が出ていることに驚きました。
 途中で後ろから来た若い男性に追い抜かれました。奈半利の町中のコンビニで買い物をしたときにもいっしょになりましたが、軽く会釈をした程度でした。歩き遍路で若い日本人は珍しいですが、今日は土曜日なので、土日を利用しての区切り打ちかも知れません。


●写真 13時52分  奈半利町


奈半利(なはり)という地名は変わった名前です。どんな意味があるのでしょうか。


●写真 14時12分  奈半利町




●写真 14時15分  奈半利駅




●写真 14時23分  奈半利川(河口を見る)




●写真 14時23分  奈半利川(上流を見る)


この奈半利川をさかのぼった山あいに、中岡慎太郎の生家があるようです。


●写真 14時23分  田野町


奈半利川を渡ると田野町です。


●写真 15時7分  安田町の海岸


30分歩いて安田町に入ります。今日の宿がある町です。


●写真 15時13分  神峯寺の標識




●写真 15時15分  安田川を渡る




●写真 15時15分  安田町の海岸




●写真 15時23分  安田町の海岸




●写真 15時28分 安田町の集落




●写真 15時31分  民宿「とうの浜」が見えた




 午後3時40分頃、民宿「とうの浜」に着きました。ここは高知県の奈半利を過ぎた安田町です。奈半利から田野町を通って安田町の民宿「とうの浜」に着きました。

 2日前に室戸岬を過ぎると海の様子が急に和やかになります。山も室戸岬までのように海岸までせり出していなくて、山と海岸の間にはかなり幅があります。そこに集落や町並みが続いています。所々の山すその谷を通って川が流れていて、その川に沿って小さな扇状地状の平野があります。
 この奈半利の地形は、西と東が小さな半島状に山が突き出ていて、明日はその山と山の谷筋をさかのぼって神峯寺まで登っていくことになるようです。その山と山の間に平野があって、民宿「とうの浜」はその平野の海沿いにあります。民宿の前には海に面した防風林があります。

 この宿に今日は12~13人泊まっているようですが、昨日も一緒だった神奈川県の茅ヶ崎からの男性、それから長野県の野口さんとまた一緒になりました。2人とも今日すでに神峯寺を打たれていました。野口さんは、神峯寺への上り下りに2時間半かかったと言われました。野口さんの足は速いから、私の足だったら頂上でのお寺での休憩も入れて3時間半はかかること思います。
 そのほかに、大阪から来たという主婦(学生かと最初は思ったんですが)だという若い女性がいました。彼女は区切り打ちで、ちょこちょこお遍路に来ているということです。彼女も、国道を歩いていると前に車が止まり、左の窓からミカン2つが出てきて、運転されていたおばあさんからミカンをもらったそうです。お接待には、自分の代わりにお遍路さんにお参りしてもらうという意味もあるそうです。運転されていたおばあさんは、そういう願いを込めてお接待をされているかも知れません。
 それからもう一人は、静岡県から来たという60前後の女性です。その女性は今回初めてのお遍路で、歩きとバスなどもまじえて回られているようです。夕食時、5人で同じテーブルを囲みました。女性2人の名前は知りません。

 60前後の女性がさかんに「歩きは大変でしょう、疲れるでしょう」と言われるので、私が「疲れているのに眠れません」と言うと、その女性が「気持ちがハイになっているんですよ」とサラリと言われました。きっとこの女性も同じなんだと思います。何が彼女にお遍路をさせているのか、ちょっと気になりましが、お互いそういうことには触れません。落ち着いた雰囲気の女性でしたが、何かを求めてさまよっているような雰囲気がありました。
 あと6、7人ぐらいは男のグループで、遅く宿に到着して、あとで食事をされていましたので、仕事での宿泊なのかも知れません。



「土佐へ」 お遍路記 17日目 神峯寺(27番)

2021-09-27 20:02:00 | お遍路記 「土佐へ」

【17日目】 晴れのち曇り
 【札所】神峯寺(27番)
 【地域】安田町(唐浜) → 安芸市 → 防波堤歩道
    【宿】 民宿「とうの浜」 → ホテルタマイ

 昨夜は、夜8時から夜中3時まで約7時間ほど眠ることができました。
 6時半から朝食を取りました。
 午前7時20分、荷物は宿に預けて、民宿「とうの浜」を出ました。神峯寺を打ったあと、またここに戻って荷物を受け取る予定です。
 今日は神峯寺を打って、そのあと安芸市のホテルタマイまで行きます。距離数は約20キロですが、神峯寺が標高約450mあることの登り降りを考えると、実質的にはそれ以上あると思います。足のマメの具合は少し良くなりました。


●写真 7時28分  神峯寺のある山の遠景




 宿に泊まった男性2人と若い女性は、昨日のうちに神峯寺を打ち終えているので、次の札所に向かわれました。宿を出るとすぐ、60前後の静岡からの女性が、私とは違ったひとつ東の道を歩いているのが見えました。すぐに同じ道に合流して私の前を歩かれていました。するとまた違う道に行かれようとしたので、道を間違われているのではないかと思って、後ろから「道はこっちですよ」と私が言うと、「飲み物を買ってきます」と言って近くの唐浜駅に行かれました。そのあと私の後ろから来られているようです。

 山に登る途中、4人の男性グループのお遍路さんに追い越されました。学生の時の同級生だと言われてました。
 まだ遍路ころがしになる前の舗装道路で車が通れる道を歩いています。今のところ非常になだらかないい道が続いています。


●写真 7時35分  神峯寺に登る途中の聖域

何の聖域なのかは分かりません。


●写真 8時1分  神峯寺の中腹の景色




●写真 8時52分  神峯寺の山門


さほどきつくなかったのは、荷物を宿に預けていたことと、道が整備されていたことが大きいようです。今はだいぶ楽になりました。


●写真 8時55分  神峯寺の境内




●写真 8時56分  神峯寺の階段




●写真 8時58分  神峯寺の本堂




●写真 9時9分  神峯寺の太師堂



 午前9時20分頃、神峯寺を打ち終わり、そのあと納経を済ませました。
 山からの下り道で、同宿していた静岡の60代の女性といっしょになり、話ながら下りました。静岡県の浜松の女性で、私が「太平洋を見るのは珍しい」というと、彼女は静岡ですから日常的に目にされているようです。浜松は静岡県の西部なので、東にある富士山は遠くて登ったことがないとのことでした。



●写真 9時41分  神峯寺の下り




 午前10時20分、山を下りて荷物を預けていた民宿「とうの浜」に戻りました。荷物を預けていたせいか、神峯寺の遍路ころがしはそれほどでもありませんでした。女性は、ここから先は、11時4分発の唐浜駅発の土佐くろしお鉄道で、高知まで行くそうです。8日間のお遍路の日程の3日目で、あと5日間のお遍路だということでした。
 宿で荷物を受け取ったあと、その女性は「電車の時間までここで休んでいきます」と言われました。今回のお遍路で愛媛県の43番の明石寺まで行く予定だそうです。JRやバス、それから歩きを交えてお遍路をされていました。
 別れ際に、「ご一緒させていただき、ありがとうございました」と私が言うと、「こちらこそ」と言われ、「座ったままで失礼します」と言いながら丁寧にお辞儀をされました。
 名前も知らず、お遍路に来た理由にも触れず、ただ他愛もない世間話をしただけですが、道すがら話ができたことは、とてもありがたいものでした。この先は一人で歩かねばなりません。


 荷物を受け取って、民宿「とうの浜」を出発しました。天気が曇ってきました。

 早朝7時20分に民宿を出て、今10時20分ですので、山の登り降りでちょうど3時間かかったことになります。


●写真 10時21分  民宿「とうの浜」をあとにする




●写真 11時1分  コンビニで休憩


足に巻いているのはマメ対策のテーピングです。


 11時頃、国道沿いのローソンでコーヒーを買い、その店の隅の喫煙場所でタバコを吸いながら、腰を下ろして休憩しました。
 しばらくすると北側の鉄道路線を電車が通り過ぎました。さっき民宿「とうの浜」で別れた女性はその列車に乗っているはずです。
 そこに40代の女性が喫煙所にタバコを吸いに来ました。ちょっと派手な化粧の女性でした。そのときちょうど12時の町内放送のチャイムが拡声器から流れるのが聞こえました。ここはまだ高知県の安田町です。
 その女性はタバコに火をつけると「歩きでお遍路されているんですか」と尋ねられました。「はい、歩いています。もう2週間になります」と私が答えると、女性は「私たちも車でお遍路しているんですよ」と言われました。
 横浜から、80歳過ぎの車椅子の母親を連れて車でお遍路をしているということです。2~3日前に四国に来て、さっき神峯寺にお参りしてきた、ということでした。
 横浜から車で8時間かけてやって来て、それからお遍路をはじめたそうです。車椅子の母親を連れているのでゆっくり回っているのだそうです。年老いた母親を連れてわざわざ横浜から来られているのですから、いろいろな思いがあるのでしょう。タバコを消すと「道中、お気をつけて」と挨拶されて、車に向かわれました。

 妻にメールを打ちながらふと、むかし大岡越前の母が黙って火鉢の灰をつついて、男女の交わりが死ぬまで可能なことを教えたという話を思い出しました。
 還暦を過ぎると自分の老いのことが気になります。数日前には、近所の人が60代で亡くなりました。また同年代の友人の入退院の話をよく聞くようになりました。
 私の周りにもチラホラと老いの影が近づいています。
 また国道を歩きだしました。



●写真 12時14分  安芸市に入る




●写真 12時31分  安芸市の海岸




●写真 12時47分  安芸市の国道




●写真 12時49分  安芸市の海




●写真 12時56分  安芸市の漁港1


右側の山が切れたあたりに今日の宿があります


●写真 12時57分  安芸市の漁港2




 安芸市に入って土佐くろしお鉄道の下山駅を過ぎると、国道をはずれて、海岸沿いの防波堤歩道に入り、そこを1時間ぐらい歩きました。



●写真 13時2分  防波堤歩道沿いの海岸




●写真 13時2分  防波堤歩道沿いの海岸




●写真 13時8分  防波堤歩道沿いの海岸




●写真 13時11分  防波堤歩道沿いの海岸




●写真 13時18分  防波堤歩道沿いの海岸(後ろを振り返る)




●写真 13時18分  防波堤歩道沿いの海岸




●写真 13時23分  防波堤横の花




●写真 13時24分  防波堤横の花


道脇の花が目につきます。室戸岬までは花どころではありませんでしたが、ここ数日、花を見てキレイだと思うようになりました。

行き行きて 浜ひるがおの 青さかな



●写真 13時33分  防波堤歩道沿いの海岸(前方)





●写真 13時33分  防波堤歩道沿いの海岸(後ろを振り返る)




 妻からメールがあり、私の妹が家に遊びに来て、母を連れて食事に行ったそうです。妹はまだ私が四国にいることに驚いていたようです。いつまで四国にいるつもりなのかと。
 母が若い頃、門付けのお坊さんに米一皿を渡していたのを思い出します。私に門付けができるだろうか。



●写真 14時7分  伊尾木川の橋(前方)




●写真 14時8分  伊尾木川の橋(北方)




 伊尾木川を渡るとすぐに安芸川があり、その二つの川を渡って安芸市の市街地に入りました。


●写真 14時18分  安芸川の橋(前方)




●写真 14時19分  安芸川の河口(南方)




●写真 14時19分  安芸川の上流(北方)




●写真 14時30分  ホテルタマイ


中央の看板の人物は、三菱創始者の岩崎弥太郎。ここ安芸市の出身です。


 午後2時半、安芸市のホテルタマイに着きました。ホテルタマイは安芸市役所のすぐ東隣で、国道55号線沿いにありました。安芸市役所には三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の大きな看板がありました。
 電話でチェックインの時間は午後3時からと聞いていたので、荷物だけ置かせてもらおうと思って入ったら、入室オーケーということでした。
 チェックインをしながら「岩崎弥太郎の住居跡にはどう行ったらいいですか」とフロントの男性に尋ねると、「ローカルバスがありますが、どこが停留所なのかわかりません」と言いながら、パンフレットを持ってきてくれました。ここから5キロ北に行ったところで、タクシーで行くしかないようです。そこは北にある山の麓の集落で狭い田舎道を入っていくようです。

 このホテルは素泊まりだったので、チェックインを済ませて、ホテルの横のコンビニに今日の夕食と明日の朝飯を買いに行きました。それから洗濯物を1階のコインランドリーに入れました。洗濯と脱水が同時できる洗濯機で600円でした。いつもよりちょっと高かったです。

 けっこう大きなホテルで、部屋は8階で安芸市がかなり見渡せるました。西の方だけが壁にふさがれて見渡せません。安芸市は南が太平洋で、三方を山にいる囲まれていますが、けっこう広いくて豊かな平野のようです。

 ホテルのすぐ北側には土佐くろしお鉄道の安芸駅があります。駅とホテルの間は住宅地です。所々にまだ畑が残っています。その先の駅の北側は畑と水田が広がっています。北の山の奥行きは、ここから5~6キロぐらいで、岩崎弥太郎の住居跡はその山の麓の奥まったところにあるようです。

 ここ安芸市には武家屋敷跡もあるようですが、一度ホテルの部屋に入ると疲れて外出する気になれませんでした。部屋で久しぶりにゆっくりとテレビを見ました。

 室戸岬を過ぎてからは歩く景色がやや違って見えます。室戸岬まで人の住まない海岸道を歩いたからか、町中が人一倍懐かしく感じます。人の温もりというのはあるんだと思いました。

 人がつくる町の空気は、人のいない無人の場所とは違います。室戸岬への海岸道を歩いた緊張感に比べると、どこかホッとしながら歩くことができます。足のマメが痛くて疲れるのは同じですが、安堵感が違います。マメはそれ以上悪化することはなく、かといって完治することもなく、痛みが続いていますが、歩けないほどではありません。
 今日は眠れるだろうか、そのことが気にかかります。まだ頭の芯のどこかが冷めているのが分かります。不思議と眠くなりません。眠っても、起きているような浅い眠りです。
 疲れているのに眠りに落ちるのを何かが邪魔しています。眠ってもすぐ目覚めます。眠りながら、眠れ、眠れと言っている自分が分かります。熟睡できず疲れがたまっていますが、それでも歩けてしまうのです。
 何か変です。1日20キロ歩いた経験など、今まで数えるほどしかありません。1日歩いただけでもヘトヘトでした。それを毎日続けています。眠ることができず、体調も悪く、足も重いのに、それでも何とか歩けてしまいます。別に自分の体力が強くなったわけでもないのに、どうもいつもと違うようです。



●写真 14時30分  安芸市の町




●写真 15時22分  ホテルから北




●写真 15時22分  ホテルから北東




●写真 15時23分  ホテルから東南


右側は太平洋


●写真 15時23分  ホテルから東




●写真 15時23分  ホテルから南




●写真 6時47分  ホテルから北


この奥まったところに岩崎弥太郎の生家があるようです。



「土佐へ」 お遍路記 18日目 札所なし

2021-09-26 20:48:56 | お遍路記 「土佐へ」

【18日目】 晴れ
 【札所】なし
 【地域】安芸市 → 自転車道 → 芸西村(琴ヶ浜) → 
     香南市(旧夜須町 → 旧香我美町 → 旧赤岡町 → 旧吉川村)
    【宿】 ホテルタマイ → 民宿かとり

 昨夜はやはり眠れませんでした。眠りがおかしいです。
 朝8時、安芸市のホテルタマイを出ました。近くのコンビニに寄って、タバコ一箱、カロリーメイト一箱を買いました。今日は民宿かとりまで約20キロ歩きます。その間に札所のお寺はありません。

 ホテルタマイを出て、安芸市の旧道、国道と海岸線の間にある町中の旧道を歩きました。昨日行きませんでしたが、国道の北側、約4キロ山手の方には三菱の創始者、岩崎弥太郎の生家があります。その付近に武家屋敷があったようです。
 ここは高知城の城下から約40キロはなれたところにあります。有名な坂本龍馬は高知城下の下級武士ですが、岩崎弥太郎はこの安芸市で生まれました。高知城下から見れば、さらに田舎の城下町です。岩崎弥太郎は、そこの下級武士。山の麓の今でも車の離合も難しいような所に生家があるようです。
 そのことを考えると、明治維新の功労者たちは下級武士出身と言われますが、その下級武士の「下級」の度合いが、この土佐の場合には特に大きいような気がします。


 前にも言いましたが、坂本龍馬の朋友であった中岡慎太郎(室戸岬に銅像が建っていた人)の出身地は、高知城下から見るとこの岩崎弥太郎の生まれた安芸市よりもさらに遠くにあります。2日前に通った奈半利町からさらに北の山に入った山あいです。

 そういうことを考えると、下級武士たちの革命である明治維新は、この土佐藩では群を抜いて最下級の武士が用いられているような気がします。当時の身分社会からすれば、本当にかなり底辺の下級武士たちが、まるで狙いうちされたように、国家を動かす人物としての役割を担わされています。

  そういえば長州の伊藤博文も萩城下の出身ではなく、萩から遠く離れた広島県との県境に近い村の出身です。その隣に、戦後の首相、岸信介と佐藤栄作兄弟の出身地の田布施村があります。一度訪れたことがありますが、本当に山口県の奥まったところで、そんな所から首相や大臣クラスの政治家が続々と登場しているのも、不思議な気がしました。

 岩崎弥太郎の安芸市や、さらに遠く離れた中岡慎太郎の北川村は、それと似た雰囲気を持っていると思いました。
 そのことと、このお遍路道がどう関係しているのか、または関係していないのか、分かりません。ただ道すがら、そんなことが思い浮かびました。

 午前9時、安芸市のホテルタマイを出て、安芸市の市街を歩いていると、「元気バス」という黄色い小さいバスが通っていました。昨日、ホテルのフロントの人に「ちょっと乗りたい」と言うと、「市がこじんまりと経営しているので、どこがバス停なのか分からない」という答えでしたが、歩いている途中でたまたまそのバスを見かけました。


●写真 8時11分  元気バス


黄色い車です。


 安芸市の国道から海側の旧道に入ると、おばあさんが私に声をかけてくれました。満面の笑みで「いってらっしゃい、お気をつけて」と声をかけてもらいました。2~3分歩くと、今度は70前後の男性に「おはようございます」と声をかけてもらいました。



●写真 8時32分  安芸市の漁港




●写真 8時42分  安芸市の国道


さっき、この道を自転車でお遍路をしている人が通り抜けていきました。


 安芸市には漁港がありました。その漁港を抜けると防波堤沿いに自転車道がありました。その自転車道の入り口は工事中でしたが、その工事現場の交通整理の人も、私を見て丁寧に「おはようございます」と挨拶して通してくれました。何かありがたい気分です。



●写真 8時49分  防波堤自転車道


道の左側は防波堤の壁です。


 安芸市の中心部を抜けると、防波堤沿いに10キロ以上続く自転車道に入りました。

 昨日も眠れなかったため、今日は足取りが重くてきついですが、そういう周囲の人の声で気分が明るくなります。やはり人の温かさというものはいいものです。なんとか次の宿のまでたどり着こうと思います。今日の宿は、江南市の民宿かとりになります。そこまで約20キロあります。昨日の朝一番に神峯寺を打ち、そこから明日の札所の大日寺まで約40キロです。今日はお参りする札所はありません。この3日間で参拝したお寺は昨日の神峯寺のひとつだけになります。



●写真 9時17分  防波堤自転車道沿いの祠




●写真 9時25分  安芸市の海岸




 琴ヶ浜の手前あたりで、旧友のM君から携帯に電話がありました。彼は高校時代の友人で、今は高知に住んでいます。私は室戸に着いた日に連絡をとっていました。会いたいとは思っていましたが、それまではどこまで歩けるのかまったく分からす、途中で挫折するかも知れないと思うと、彼に連絡できずにいました。しかし室戸岬に着いたとき、やっと土佐までの道が見えてきました。彼と会うのは約10年ぶりです。
 「いまどこらへんを歩いてるんだ?」という電話でした。

 明日5時と言っていたのを6時に変更しました。遍路時間は世間より約2時間早く、夕方5時にはほぼ一日を終えています。その感覚で思わず、夕方5時の約束をしていましたが、考えてみると、5時と言えば普通の人はまだ働いている時間です。私の感覚はだいぶ麻痺しているようです。そういう理由を言って、詫びを入れて、明日、夕方6時前後に会うことにしました。

 いま琴ケ浜の手前の赤野川というところを渡っています。赤野というのが地名です。集落名です。今日は自転車道を歩いてます。



●写真 9時52分  琴ヶ浜が見えた




●写真 9時52分  琴ヶ浜の遠景




●写真 9時54分  赤野の遍路接待所入り口




●写真 9時56分  琴ヶ浜の遠景




 M君が「琴ヶ浜はいい海岸だ」と言ったので、海岸に下りて琴ヶ浜の海岸を約1時間ぐらい歩きました。


●写真 10時21分  琴ヶ浜を歩く




●写真 10時22分  琴ヶ浜




●写真 10時25分  琴ヶ浜




●写真 10時46分  琴ヶ浜 後方




 琴ヶ浜の海岸は、海岸寄りに石ころがいっぱいあって、海岸から離れて砂地になってます。その砂が普通の海水浴場のようなキメの細かい砂ではなく、粒が2~3ミリぐらいあり、手に取ってみるとサラサラではなくザラザラとした大粒の砂で、そういう砂だと砂が締まらず、歩くと足がめり込んでしまいます。とくに一歩踏み出そうとして後ろ足に体重がかかったときにズルッと砂の中に足がはいってしまいます。踏ん張れず、お遍路には歩きにくいところでした。
 道が整備されない時代に、お遍路はどうやって旅を続けたのでしょうか。岩海岸も、砂海岸も、とても歩きにくいのです。


●写真 10時48分  琴ヶ浜の釣り人


砂浜海岸で竿を振って、釣りをする人を初めて見ました。「なにか釣れるんだろうか」と思いましたが、釣れても釣れなくても関係ないようにも見えました。頭にかぶった菅笠がとても似合ってました。にわか仕立てではないような気がします。


●写真 10時59分  琴ヶ浜


タイヤの跡もありました。誰かが乗り回したのでしょう。


●写真 10時59分  琴ヶ浜 後方




 海岸の中ほどに行くと少し砂がきめ細かくなって歩きやすいところもありすが、またしばらく進むと砂が大きくなって歩きにくくなります。石ころがあるところに行くと、石ころもその下の土台が砂だから、足で踏むと砂にめり込んでしまいます。
 しかしきれいな海岸でした。でもその時は歩くのが精一杯でした。
 1時間ぐらい、4キロぐらい歩いたと思います。芸西村に入りました。


●写真 11時5分  琴ヶ浜




●写真 11時5分  琴ヶ浜 後方




 まだ海岸は先まで続いていて、岬を回れば海岸はまだ歩けましたが、疲れてもうこれぐらいで道路に上がろうかというところで松林に上がってみたら、日本というのはよくした国で、ちゃんとそこに自動販売機があって、いつも飲んでいる500ミリのコーヒーも売っていました。ベンチもあって、日陰もあって、松林もあって、本当によくしたものだと思います。そう考えて、当たり前のようなこんな景色も、当たり前にあるのではないことが分かりました。

 公園は松林の中にあって、標高10mぐらいあって、10mというとけっこう高いですが、砂が盛り上がって松林になっています。松林の横を土佐くろしお鉄道が並行して走っています。
 そこで約1時間休憩しました。今日は足が疲れて、かなりマッサージをしました。
 足のマメは意外なところにもできはじめています。左足の小指は中の血が固まって赤くなっています。
 階段を上がって、展望台の横の松林、防風林がありますが、その防風林の中に展望台、その周辺が公園みたいになっていて、そこで昼食をとりました。約1時間ぐらい休息を取りました。



●写真 11時35分  琴ヶ浜の松原で休憩




●写真 11時35分  琴ヶ浜の松原




 気温が11月に入って下がりだし、今日はちょっと肌寒いので、ザックから黒のジャンパーを取り出して着ました。約1時間ほどマッサージをし、食事も終わって、横にあった公衆便所に入りました。
 その公衆便所には、よく見る便所の落書きがあって、「洋子の〇〇〇〇サイコー」と卑猥な言葉が書いてありました。そしてその下に、ここでは言えないような、「洋子さん」とおぼしき女性の、ある部分を強調した姿が図案化して描かれてあります。四国の人間も私の地元の九州と、落書きのレベルはあまり変わらないようです。それを見て、なぜかホッとしました。やっと私と同類の人間が住む下界に下りてきたと思いました。


●写真 11時36分  琴ヶ浜の松原




 午後12時15分、琴ヶ浜の展望台の近くにある松林の中の公園のベンチで昼食を終え、そこを出発しました。
 今からまた歩きます。あと宿の香南市のかとりまで9キロです。


●写真 12時22分  琴ヶ浜の自転車道と線路




●写真 12時28分  鍵の閉まった琴ヶ浜の善根宿


鍵がかかっていて中には入れませんでした。荒らす人もいるのでしょう。


 今日は月曜日ですが、振り替え休日で世間は休みです。昼過ぎまでそのことに気づきませんでした。妙に子供が世の中を動き回っているので不思議に思っていたら、あとで振替休日だということに気づきました。

 琴ヶ浜を過ぎると、香南市に入りました。それからまた自転車道に入り海岸沿いを歩きました。



●写真 12時38分 花




●写真 12時38分  花




●写真 12時39分  花




 小さきは 小さきままに 花咲きぬ 野辺の小草の 安けさを見よ(高田保馬)

 ゆっくり歩いていますが、目の前の景色は次々に変わります。車で移動するより、ゆっくり歩いているほうが、よけいに景色が飛び込んできます。とても多くのことが目に飛び込んできます。その都度、いろんなことが頭をよぎります。自分の体で歩いていると、周りの景色と同じリズムで自分が生きていることが分かります。さらにその景色を手で触れることができます。その感触は何でしょうか。なんとも不思議な感じで、うまく言えませんが、「ありがたい」という気持ちに近いものです。立ち止まりたい気持ちを抑えながら、また歩いて行きます。宿にたどり着かねばなりません。まだまだ先があります。


●写真 12時55分  老人施設の遍路休憩所




●写真 12時57分  お遍路さんのために植えた木




●写真 12時59分  香南市の標示


芸西村から香南市にはいりました。


●写真 13時10分  香南市のトンネル


周りの景色と合ったいいトンネルでした。


●写真 13時20分  別のトンネルを振り返る




●写真 13時28分  香南市のヨットハーバー




●写真 13時28分  香南市のヨットハーバー




●写真 13時28分  香南市のマリンスポーツセンター




●写真 13時39分  橋




●写真 14時3分  「おやゆれた あれこれするより まずにげろ」の標識


津波を警戒しています。ミラーの中に私もいました。


●写真 14時18分  川


山がだいぶ遠くなりました。


●写真 14時31分  橋


右に「赤岡橋」と読めます。ここは香南市(旧赤岡町)です。ここは町中の旧道ですが、一本南側に国道55号が通っています。


●写真 14時42分  国道55号と宿かとり やっと宿が見えました




 午後3時ちょっと前に宿についたころには、かなり足を引きずるような姿で歩いていました。やはり20キロ歩き終わるころには足がへたってしまいます。
 足が昨日の寝不足もあって、足のむくみがひどく、足が重くて歩くのに疲れました。
 宿には金剛杖を洗う水桶が用意されていませんでした。ここはお遍路専用の宿とは違うようです。

 洗濯機の洗剤もカラになってましたが、電話をしたらすぐに持ってきてくれました。宿に着いたとき、宿のお姉さんは忙しそうでした。ポットを六つぐらい両手に抱えて、準備の最中でした。この宿にはドライブインが併設されていて、そのレストランは交通の激しい道路の横にあります。そのレストランがメインで、そのついでに民宿をやっているという感じです。この宿はお遍路さん専用ではなく、一般の人たちも利用する民宿のようです。さらに結婚式場もそなえてあります。宴会場では、どこかの高校野球部OBの同窓会か何かの宴会があっています。

 夕食は道路沿いのレストランで食べました。5時半にレストランの一般の夕食が終わるので、夕食は6時からでしたが、宿泊客が夕食を食べている間も、顔なじみらしい人たちが、「オー、久しぶり」というという感じでレストランにはいって来て、7~8席はテーブルが埋まっていました。誰がお遍路さんなのかわからないまま、お酒を一杯飲んで、レストランを出ました。もしかしたら隣で食事をしていた60半ばぐらいの男性がお遍路さんだったかも知れません。宿にはお遍路2人と一般の方が4人泊まっているみたいです。
 明日はM君と会う予定です。



●写真 15時41分  部屋から見た国道55号線





「土佐へ」 お遍路記 19日目 大日寺(28番)

2021-09-25 14:43:28 | お遍路記 「土佐へ」

【19日目】 晴れ
 【札所】大日寺(28番)
 【地域】香南市(旧吉川村 → 旧野市町) → 香美市(旧土佐山田町) → 
     南国市
    【宿】 かとり → 南国市のホテル

 昨夜は、夜の8時から夜中の2時まで6時間ぐらい寝ました。2時に起きると何もすることがなく、かといってそれ以上眠ることもできず、夜なか中、日記のように妻にラインを打ってました。でも室戸岬を出たあとは、だいぶ気持ちが落ち着いて来たようです。

 考えてみると昨日の琴ヶ浜は、室戸岬に向かう海岸と比べてみると、同じ太平洋でも全く違います。琴ヶ浜には岩がありません。室戸岬のあのゴツゴツした岩だらけの海岸に比べると穏やかな海岸です。波がザブーンザブーンとたゆたっていて、浜の途中にはその海岸で釣り糸を垂れている人もいました。琴ヶ浜には人がいます。浜で遊んでいるカップルや家族連れもいました。やっぱり人の匂いのするところに出るとホッとします。

 山を越え、海を渡り、誰もいない室戸岬への海岸を歩いているうちに、私は憑き物につかれていたようです。琴ヶ浜の海岸は同じ太平洋でも、室戸岬に向かう海岸とはぜんぜん違います。
 人の住む世界に戻ってきて、やっと憑き物が落ちたような気がしました。琴ヶ浜が海のゴールだったような気がします。異界から人間界に戻った感じです。異界では、聖的なものと生的なものが強烈に現れました。「聖」と「生」は、意外と近いところにあるようです。
 異界は魔界です。魔界では人は人間の心を失います。それを防ぐために人間は魔界に近づくたびに「神」を祀ったのだと思います。



●写真 昨日見た防波堤自転車道沿いの祠




 海岸沿いにこのような祠が建てられていました。安芸市から琴ヶ浜に向かう途中にありました。

 人は異界を避け、魔界を封じ、人間らしさを保つ工夫をしてきたのでしょう。そうでないと人は魔界から抜け出すことができなくなります。私はここ2週間ずっと魔界におちいっていたようです。お遍路さんはみんな多くを語りませんが、そのことに気づいているようです。神峯寺をいっしょに下ったあの60代の女性も自分の気持ちがハイになっていることを自覚しているようなところがありました。そしてそのことを必死で表に出さないようにしているようでした。だからお遍路は雑談はしても、身の上話はあまりしないのです。

 お遍路は異界と接しています。山を越えて人家のない海岸線を室戸へと向かい、さらに室戸からここまで海岸づたいに歩いてくるのは、けっこう長かったです。

 昨日、琴ヶ浜でトイレの落書きを見たとき、異界からやっと脱出して、また俗界に戻ってきたような気分でした。「私はまだこの俗界が好きだな」、そう感じました。それまではずっと私の隣に死の匂いがありました。それは恐いものではありませんでしたが、その死の匂いと縁が切れた感じです。もとの俗界の感覚を「いいものだな」と感じました。

 「生」と「性」と「聖」は、みんなつながっています。そして「祭」も「死」も同じようなものです。「生」「性」「聖」、「祭」「死」と唱えてみると、みんな似たような発音です。何か通じるものがあるのでしょう。涅槃の境地にはまだ遠いですが、「生」を突き詰めていくと、やがて「涅槃」にたどり着けるかも知れません。鯖大師の住職さんも言っていました。「般若心経を唱えながら、世をはかなむのではなく、一生懸命楽しく生かれたらよろしい」と。

 空海は、「空」と「海」の向こうに「永遠の沈黙」を見たのでしょうか。それとも「カンノンサマ」を見たのでしょうか。「男女の豊かな交わりは、悟りへの道」、一見とんでもない教えのように思えますが、ちゃんと真言宗の「理趣経」に書いてあります。それも何回も何回も繰り返し書いてあります。そんなバカな、と思う反面、案外そんなもんかも知れない、と思います。

 妻にラインを打ちながらそんなことを考えていると、見あきた妻の顔もまんざらではない気がしてきました。やはりどこかおかしいようです。

 朝8時、高知県香南市の民宿かとりを出発しました。



●写真 7時53分  山




●写真 7時55分  山の上のお城


小さくて見えませんが、山の頂上に洋風のお城がありました。


 国道ではなくて、県道を西北に向かって、江南市役所の横を通り抜けます。今日はこれから、右手に見えている山の裏手にある28番札所の大日寺を打ちます。山の上になぜか西洋風のお城が建っています。これは大日寺と関係があるのか、おそらくないと思いますが、あと4キロばかりで大日寺になります。

 それから9キロ、西の南国市まで行き、南国市のホテルに泊まります。6時から旧友のM君と会う予定です。時間は十分、間にあいそうです。


●写真 8時37分  道


大日寺の表示が見えました。あと1キロです。


 8時頃出発した時には肌寒い感じがしましたが、9時10分、28番の大日寺に着きました。だいぶ暑くなってきて、汗をかきました。



●写真 9時6分  大日寺の山門




●写真 9時35分  大日寺の境内




●写真 9時39分  大日寺の祠




●写真 9時42分  大日寺の境内




●写真 9時42分  大日寺の鐘


お寺の鐘は打ち忘れることが多いのですが、ここではゴーンと鐘を打ちました。鐘を打つのは気持ちいいものです。ただし1回だけです。


●写真 9時47分  大日寺の山門遠景




 午前10時10分、28番の大日寺を打ち終わって山を降りてきました。

 途中で反対側から来るお遍路さんと会いました。「こんにちは」と声をかけました。50歳ぐらいの男性のお遍路さんです。もしかしたら逆打ちをされているのかも知れません。
 大日寺の山を降り20分ぐらい歩いて、村中を抜けて林の外に出てみると、そこは一面の平野です。ここは県道234号線で交通量はけっこうありますが、奥に山を望む景色が広がっています。かなり大きい平野です。
 西の方には、もっと近い山も見えますが、四方を山に囲まれたようなところになります。ここはきれいな平野です。室戸岬から何日かかけて、やっと人の臭いのする、畑と農村の臭いのする平野に出ました。これから南国市の国分寺に向かいます。あと9キロあります。



●写真 10時19分  物部川を渡る橋に続く道




●写真 10時22分  物部川




 午前10時40分、物部川を渡って、香美市の土佐山田町に入りました。途中には、集落総出の農作業で、たぶんショウガの収穫が行われていました。そのちょっと前には、道の横を流れる小川の水を汲み取って、畑にスプリンクラーをまく畑が5~6枚ありました。この香美市は山が近くに見えて、かえって海が遠いところです。私の地元の農村風景に似ています。こういう景色を見るとホッとします。いま通っている道は純農村の小さな道です。ちょうどコスモス畑がありました。



●写真 10時33分  香美市の農作業


村の人々が集まって作業しています。ショウガの収穫でしょうか。


●写真 10時40分  香美市の畑


気になった田んぼのなかの木。何かあるのでしょうか。


●写真 10時44分  香美市のひまわり




●写真 10時44分  香美市のひまわり




●写真 10時45分  香美市の花



●写真 10時46分  香美市の柿


道脇の柿も最近は見なくなりました。


●写真 10時46分  香美市の柿




●写真 10時47分  香美市のコスモス畑




●写真 10時48分  香美市のススキ




●写真 10時52分  香美市の農道


いい道です。


●写真 11時12分  香美市の太師堂


まん中、遠くに見えるのが太師堂です。この集落のはずれにありました。とても印象に残る景色でした。


●写真 11時14分  香美市の太師堂


香美市から南国市に入る境の村はずれに、新しくてよく手入れされた太師堂がありました。集落の人々の信仰が息づいているのが分かります。



●写真 11時21分  国分寺への標示




 11時半頃から昼食をとりました。それは農家の前にある自動販売機でジュースを買って、農家の横の小屋の日陰で、また靴を脱ぎます。そこで昼食を取りました。すぐ左手のほうに柿の木がありました。

 最初は暑くて、日差しを避けた日陰がよかったのですが、しばらく休んでいるうちに、だんだん寒くなってきて、道路に面した日向のほうに出ました。11月になると、じっと動かないでいると、体が冷えてきます。
 約40~50分ぐらいたって、12時20分、また歩き始めました。先程、10分ぐらい前に、大日寺でタクシーで乗り付けてきた女性組2人が、お遍路姿で、白衣に菅笠をかぶって、杖をついて、歩いて行きました。

 足の調子ですが、今日は8時から11時半まで、3時間半、途中休憩も入れながらですが、ゆっくり歩いてきましたが、午前中だけでも足がかなりへたれました。

 足の小指のマメはもちろんのこと、小指自体が熱を持っている感じです。それ以外にも、特に右足のかかとの側面にマメができて、かなり歩くのに抵抗があります。特に右手で杖をついているせいか、右足に負担がかかってよけいマメができます。最初これは逆だと思っていましたが、右手と同時に左足を踏み出しますから、右手で杖を持つと負担を軽減するのは左足で、右足の負担は軽減されません。



●写真 11時38分  南国市で休憩


西の景色


●写真 11時42分  南国市で休憩


北の景色。山はかなり遠くにあります。


●写真 11時59分  南国市で休憩


寒くなって日向に出てきました。


●写真 12時2分  南国市で休憩


西の景色。


●写真 12時25分  南国市のお地蔵さん

道を南に下って行きます。


●写真 12時25分  南国市のお地蔵さん


小説「土」(長塚節作 明治43年発表)の一節を思い出しました。
「お品(女の名)はその混雑した、しかも寂しい世間に交って、やるせのないような心持ちがして、とうとう罪悪を決行してしまった。お品の腹は四月(よつき)であった。その頃の腹が一番危険だといわれている如く、お品はそれが原因(もと)で斃(たお)れたのである。胎児は四月一杯、籠(こも)ったので両性が明らかに区別されていた。小さい股(また)の間には飯粒ほどの突起があった。お品はさすがに、惜しい、はかない心持ちがした。第一に事の発覚を畏れた。それで一旦は、よく世間の女のするように床の下に埋めたのを、お品はさらに田の端の牛胡頽子(うしぐみ)の側へ襤褸(ぼろ)へくるんで埋めたのである。」(新潮文庫 P47)



 昨日、一昨日と、40~50分、長ければ1時間、昼飯の休憩を取ってマッサージをしています。手のひらサイズの小さな電動マッサージが役に立ってますが、それで1時間マッサージをするとだいぶ足の調子は軽くなります。軽くはなりますが、午後は1時間も歩くとまたすぐに足がへたれてしまいます。午前中は歩き始めてだいたい2時間でへたれ、午後は最初の歩き始めはマッサージのおかげで軽快ですけれども、それは1時間も持ちません。午後はいつも疲労が早いです。国分寺を打つ予定でしたが、今日は足がへたれましたので、明日打つことにします。明日打ってもそれほど遠回りにはなりません。

 今日は今から約1時間半歩いて、あと5~6キロ先の宿に向かいます。国分寺とは逆方向です。ホテルは2時に入れるということなので、2時に着くように歩きます。



●写真 12時48分  国分寺の標示


国分寺は明日、打つことにしました。国分寺のある北には向かわず、ホテルのある南に下ります。


●写真 13時28分  チンチン電車


街中に入りました。


●写真 13時28分  チンチン電車


学生のころ住んでいた街にも、当時チンチン電車が走っていたことを思い出しました。


 午後2時に宿に着いてチェックインをしようとしたところ、フロントの女性がちょっと怪訝な顔をして少し待たされました。その前日に、「早く着くから2時ごろ入れますか」と電話で聞いたところ、「準備をしておきます」と男性の声で返事がありましたが、それがどうも行き違いがあったようで、フロントの女性は「聞いていませんので」ということで少々待たされました。

 お遍路の「十善戒」とは次のことでした。
   1.不殺生(ふせっしょう)…… 殺生をしてはいけない。
   2.不偸盗(ふちゅうとう)…… 盗みをしてはならない。
   3.不邪淫(ふじゃいん) …… 淫らなことをしてはならない。
   4.不妄語(ふもうご)  …… 嘘を言ってはならない。
   5.不綺語(ふきご)   …… 言葉に虚飾があってはならない。
   6.不悪口(ふあっく)  …… 悪口を言ってはならない。
   7.不両舌(ふりょうぜつ)…… 二枚舌を使ってはならない。
   8.不慳貪(ふけんどん) …… 強欲であってはならない。
   9.不瞋恚(ふしんに)  …… 怒ってはならない。
   10.不邪見(ふじゃけん) …… よこしまな考えを起こしてはならない。

 この時は次の二つでしょう。
   6.不悪口(ふあっく)  …… 悪口を言ってはならない。
   9.不瞋恚(ふしんに)  …… 怒ってはならない。

 前日に電話したとき、「準備しておきます」といった男性が悪いのか。
 「いやいや、今まで日差しの中を歩いていたことを考えると、建物の中で荷物を下ろすことができて、椅子に腰掛けながら日差しを避けることができる、それだけで十分じゃないか。早く風呂に入りたい、と思うのは少しだけ我慢すればいいことだ。風呂はあとでも入れる。たとえ受付の女性と喧嘩して無理に部屋に入り、そこでいくらか早く風呂に入ることができたとしても、それがどれほどの得になるのか。そんなことは少し我慢すればいいことだ」

 そんなことを考えながら10分ほど待っていると、「どうぞ、準備ができていました」とその女性から告げられました。何か拍子抜けしたみたいでした。ちょっと待たされただけで、不満が噴き出してくるのを見透かされたような気がしました。
 なにも「十善戒」など持ち出さなくても、「あっ、そう」と受け流していれば良かったのです。本当に悟りにはほど遠い気がしました。
 何事も予定どおりには行かない、約束どおりには行かない、やるべきことをちゃんとやれるとは限らない。それでも世の中回っている。それでいいではないか。
 「諦観」という言葉が浮かびました。でもそんな大それたことではないようです。
 毎日唱えている「般若心経」。「色即是空」のフレーズ。分かったようで分かりません。「空」と何なのでしょうか。

 たぶんそれは、なんでも「適当」にすること、そんなことしか思い浮かびません。ここでの「適当」は、本来の良い意味での「適当」であって、俗にいう「いい加減な」の意味の「適当」ではありません。学校の試験で「( )に適当な語句を入れよ」の「適当」です。しかし、本来は良い意味のはずの「適当」が、いつの間にか「いい加減な」の意味に使われていることが、「適当にすること」の難しさを表しています。
 コーヒーに砂糖2杯入れるのが適当な人もいれば、3杯入れるのが適当な人もいます。適当さはその時々によって変わるのです。どこにも明確な基準がありません。ひとつだけ確かなことは、この「適当さ」は自分が決めるのではないということです。人と人との関係によって絶え間なく変わっていくものです。その変化と移ろいに合わせて自分を変えていくしかありません。自分を大切にしすぎると、このことに疲れてしまいます。疲れないためにはどうしたらよいか。
 「適当」は「量」ではないような気がします。何か違った「質」があるようです。

 一匹狼を気取っているわけではないですが、一匹狼にしかなれないのは自分の性格上、仕方ないことです。バカは死ななきゃ治らないのといっしょです。でもそれは何の自慢にもなりません。

 室戸岬にたどり着く前日、民宿徳増のおばあさんが言っていたことを思い出します。
「昔はお遍路さんはみんな門付けしてましたがな」。
 それがお遍路ではないのか。私に門付けができるだろうか。昔は、門付けはお遍路にとって最後の最も厳しい修行だったようです。
 「オレはまだそこまでたどり着いていない。まだ何かを勘違いしている。目が磨りガラスのように曇っている」、それが分かります。
 肩で風を切って歩くのではなく、人様に頭を下げ、時にバカにされながらも、ひょうひょうと生きたい。そうは言っても、私にはこのことが一体どういうことなのか、まだ本当は分かっていないようです。

 


●写真 16時41分  ホテルから北

正面の山のような、変わった小山が平地の中に点在しています。


●写真 16時45分  ホテルの南周辺


奥の見える山も、変わった小山です。その向こうは太平洋です。


●写真 16時46分  ホテルの南周辺




 ここは南国市です。いつものように洗濯と風呂を済ませて、少々宿の周辺を散策したところで、M君から「職場からの帰りに宿に寄るから拾っていく」という電話がありました。20分ほどですぐ来てくれました。

 1日目に板東駅で電車を降りてから、乗り物に乗るのは初めてです。車に乗ると、私が30分かけて歩いてきた道をほんの3分で通り過ぎます。奇しくも私と同じ車でした。高級車ではないですが、車がこれほど快適なのかと驚きました。

 彼のよく行く店に入りました。彼もだいぶ髪が薄くなりました。顔のしわも増えました。高校時代から見るとお互い老けた顔になりましたが、あれから40年以上経っているという実感はわきません。お互い昨日のことのようです。40年前の記憶が2~3年前の記憶よりも確かなのも不思議です。若いころの記憶は、時間にふるい落とされもせず、いつまでも鮮明に記憶に残るようです。

 お互い結婚して、子供もいます。
 私は故郷を離れず、妻も同郷です。彼は故郷を離れ、ここ高知で土地の女性と出会って結婚しました。
 彼はしきりに「嫁さんは同郷の女がいい」といいます。
「そんなことはない」と私。
お互い隣の畑はよく見えるようです。
  すると、
「どうだ、オレだって結婚できただろう」と彼が唐突に言いました。
「昔、オレに『オマエは子供とPTAには人気があるけど、女はダメだな』と言っただろう」と続けて言いました。
 言われてみると、確かに遠い昔、そんなことを言った覚えがあります。
「オレはずっとアレが気になっていたんだ」
「そんなことただの軽口じゃないか」と私が言うと、
「イヤ、当たっているだけにきつかった。オレは結婚したとき嬉しくて、どうだオレだって結婚できたぞ、と誰かに言いたかった。でもそんなことを誰に言っているんだろうと、ふと思うと、オマエなんだよ」と彼は言いました。

「奥さんはこっちの人だったよな」
「それがとんでもないんだ。一度道のまん中で大喧嘩したよ」
「そうやって喧嘩できるうちは大丈夫だよ」
「土佐は自由民権の発祥地というけど、あれは近代思想ではないな。土佐の土着思想だな」彼はそう言いました。
「どうして」
「ウチの女房は土佐の女の代表格だな、男を立てようなんて、これっちぽっちも思っていない。この土地はできた当初から、もともと男女平等なんだよ。土佐の女は強くて、男と対等に渡りあう。決して男を立てたりしない。板垣退助が自由民権運動を始めたのは、あれは西洋思想でも何でもなく、単なる土佐の気風なんだ」と彼は言いました。
 同時に「九州の女の方がいい。九州の女は男を立ててくれるから。自分でやるべきことはやっても、表に出るとしっかり男を立ててくれる。表面には男を出してくれる。土佐はそんなことはない。男と女は対等だ」と言います。
「いや、九州の女も強いよ。最近ますます強い。それにオレが定年迎えてますます強くなった。どこも同じだ」
私はそう言って苦笑いしましたが、それでも彼は「いや絶対に九州の女がいい」と言い張ります。
 九州にずっと住んでいると、九州の女のどこがいいのか、まったく分かりませんが、「故郷は遠くにありて・・・・・・」と思うと、彼の言っていることが分からないでもありません。きっとそれは彼にとっては、そうであって欲しいことなのだろうと思います。その思いは私とても同じですが、現実はなかなか厳しいものです。
 それに加え「板垣退助の自由民権運動は、西洋からのものではなく、土佐の土着の気風から発生した」という新説(珍説)にも、私は興味をそそられました。

 高校時代は女のことばかり話していました。

 彼は高校の時に好きだった女性を、高校を卒業しても忘れられずにいました。一度その女性から来た手紙を見せてもらったことがありました。携帯のない時代で、当然今のようなメールもありません。封筒に入った便せんを取り出して読みました。女性らしいしっとりとした文面でした。あのような手紙は今のメールでは書けません。
 私は内心うらやましい、と思いました。彼の恋心が消滅するのは、その後かなりの時間がかかったようです。いや、そういう思いは今でも残っているかも知れません。それは自分の血肉となって死ぬまで残るのでしょう。だから人間は死ねるような気がします。

 時間がワープして、あれから40年経ったことがウソのようです。お遍路の途中で、時間と場所を間違えたような不思議な時間でした。

 お金はあの世に持っていけないけど、あの頃の記憶は持って行けるかな、そんな思いが浮かんで来ます。でもお金はないので、そういう心配は無用です。

 「明日また歩かないといいけないから、そろそろ帰るよ」というと、帰りにチンチン電車の駅まで送ってくれました。飲み代を出してくれました。

 


「土佐へ」 お遍路記 20日目 国分寺(29番) 善楽寺(30番)

2021-09-24 05:33:03 | お遍路記 「土佐へ」

【20日目】 晴れ
 【札所】国分寺(29番)、善楽寺(30番)
 【地域】南国市(後免町 → 国府 → 岡豊町) → 高知市
    【宿】 南国市のホテル → スーパーホテル


 昨夜は10時から5時まで眠ることができました。旧友と会って酒を飲んで、心も落ち着いたようです。
 7時半、宿を出発しました。素泊まりなので、近くのコンビニでおにぎりを二つ買って食べました。29番札所の国分寺と30番札所の善楽寺を打って、高知市内のホテルに入ろうと思います。



●写真 7時40分  南国市の小さな山




●写真 7時47分  南国市の小さな山




●写真 8時00分  南国市の水田(北を望む)




●写真 8時32分  国分寺への道(北を望む)


「国分寺」の表示


●写真 8時33分  国分川と鴨(西を望む)


川のまん中で鴨が泳いでいました。


●写真 8時39分  土佐国衙跡の標示




 国分寺の東約1キロのところに国衙(国府)跡があるようですが、遠回りが辛くて行きませんでした。その近くにそこの国司として赴任し「土佐日記」を書いた紀貫之の住居跡があるようです。

 そういえば紀貫之は土佐まで船で行ったのでした。あの室戸岬までの海岸を歩いて行ったのではありません。道もないのですから当然と言えば当然ですが、それとほぼ同じ平安時代に室戸岬で修行しようとした空海という男は一体どういう男だったのでしょうか。並の男ではありません。
 今思い返しても、道のない海岸線を室戸岬へ向かって歩いて行くなど、正気の沙汰ではありません。あそこは近代的な道路がなければ、都からは決して歩いて行けない場所なのです。エリート官僚への道を捨て、誰も行かない室戸岬で修行をした空海はきっと命がけだったのでしょう。そこにはすさまじいエネルギーがあるはずです。

 一説によると空海はそこで求聞持法(ぐもんじほう)という記憶術を手に入れたようですが、それだけではないような気がします。空海は、命がけで自分の命よりも大事なものを体得しようとしたのではないでしょうか。命よりも大事なものがあるという直感がなければ、命がけであのような室戸岬へ行けるはずがありません。

 私は、空海という名前の「空」には、般若心経にある色即是空の「空」と同じものを感じます。空海の名は室戸岬の洞窟で「空」と「海」だけを見つめていたから「空海」としたと言われています。

 室戸岬はある意味、死の場所です。空海とは、「空」が死の「海」のうえに乗っかっている。それは「悟り」が「死」のうえに乗っかっているということです。室戸岬という死の海で、命をかけた修行をしながら空と海を見続け、彼は「空」を体得したのだと思います。

 空海はあくまで生きることを選びました。そして生きたままで仏になれることを信じたのです。「即身成仏」です。これは、生きた人間を生き埋めにしてミイラにすることではありません。彼は、生きたまま仏の心を持てることを信じたのです。「一切衆生、悉有仏性」(生きとし生けるものすべてに、仏の心がそなわっている)です。空海の時代の室戸岬は普通の人が行けるところではありません。そこは命を越えるための場所だったのです。



●写真 8時40分  コスモス畑




●写真 8時40分  コスモス畑




●写真 8時41分  国分寺と花一輪


正面の林の中に国分寺があります。


 室戸岬を過ぎたあとは妙に綺麗な花が目に飛び込んでくるようになりました。この世にも浄土はある、という気になります。



●写真 8時48分  国分寺の山門


国分寺は集落の中にありました。


●写真 8時49分  国分寺の本堂




●写真 9時00分  国分寺の本堂




●写真 9時10分  国分寺の鐘


「この鐘は朝夕の定時に撞く鐘です。勝手に撞かないで下さい」の表示。周囲の民家への配慮なのでしょう。


 私の地元の国分寺は、いまは跡地が残るのみです。でも四国には国分寺が現代に残っています。いろいろな変遷があったとは思いますが、奈良時代の国分寺が1300年の時を越えて現代に残っていることは、それだけで驚くべきことだと思います。

 境内で、歩きでお遍路をしている40代の男性を見かけました。かなり険しい表情で、先に次の札所に向かわれました。


●写真 9時24分  国分寺を出る




●写真 9時26分  国分寺を出た遍路道




●写真 9時33分  国分寺を出た遍路道




●写真 9時35分  国分寺を出た遍路道


ゆるやかな遍路道が続きます。


●写真 9時52分  国分川と岡豊の山


この右手に中世の山城があるようです。


●写真 10時1分  岡豊の遍路道


「岡豊城跡(岡豊山)0.5km」とあります。


●写真 10時3分  岡豊城への登り口


左側の細い山道が、山城への登り道です。「岡豊城跡(本丸)」の表示があります。


●写真 10時5分  岡豊の景色


高知城ができる前は、このあたりが栄えていたようです。



●写真 10時45分  休憩したコンビニ




●写真 11時24分  毘沙門ノ滝へ


札所ではないですが、横道にそれて毘沙門ノ滝へ向かいました。



●写真 11時33分  毘沙門ノ滝の池




●写真 11時42分  毘沙門ノ滝の池




●写真 毘沙門ノ滝の橋



●写真 毘沙門ノ滝



 実はこの滝のすぐ横にはラブホテルがあります。本通りから外れたこの場所は、そういうことにも適した場所なのでしょう。しかし、室戸岬から離れるにしたがい、このような俗世の営みに触れるとなぜかホッとします。今までならいぶかしく思ったでしょうが、室戸岬までの人気のない海岸道路に比べると、「救い」も「悟り」も「性」もある、そのごった煮のような俗世にホッとします。



●写真 12時2分  逢坂峠上り




●写真 12時5分  逢坂峠下り


道の反対側の歩道を男性お遍路さんが歩いていました。道を挟んでしばらく並んで歩きました。高知平野の北辺を歩いているようです。



●写真 12時10分  善楽寺への遍路道の入り口




 12時半頃、30番札所の善楽寺に着きました。そこに、さきほど高知市に入る逢坂の関あたりで道を挟んで同じ速度で歩いていた男性のお遍路さんもいました。それから午前中に土佐の国分寺で会った男性もいました。彼は裸足になってベンチに寝そべって休息していました。疲れ切っている様子が伝わってきます。足の裏には白いテーピングが痛々しく巻かれていました。


●写真 12時22分  善楽寺の入り口



 私は肩の荷物をベンチに置き、まず一服しようと善楽寺の山門をまた出ました。そこでタバコを取り出すと、ちょうど目の前にタクシーが止まりました。すると中から降りてきたのは、13番札所の大日寺を打った日に同じ「かどや旅館」に泊まっていた背の高いオランダ人の男性でした。彼とは26番の金剛頂寺でもすれ違いました。
 声をかけてみると、彼は私のことを覚えていたようでした。彼は、この高知市に何泊かするつもりだと言いました。見てみたい建築があると言っていました。
 彼が境内に歩いて行くと、そこにまた別の外国人の男性がいて、外国人同士でしばらく話していたようでした。



●写真 12時51分  善楽寺の本堂




●写真 12時51分  善楽寺の太師堂




 私は本堂と大師堂にお参りして、納経を済ませました。境内にある自動販売機の横で缶ジュースを飲みながら休んでいると、そこに境内にいたもう一人の外国人がやってきて、ちょっと話しをしました。彼もオランダ人でした。さっき話した背の高い男性もオランダ人だったので「二人は知り合いなのか」と尋ねると、「初めて会った人だ」と彼は笑って答えました。
 オランダ人とはよく会います。ジュリアンたちはフランス人でした。リーさんは韓国人でした。アメリカ人とも会って良さそうな気がしますが、なぜか会いません。アメリカ人は少ないのでしょうか。

 彼は63歳で、1週間区切りで、毎年お遍路にやって来ているようでした。明後日にはオランダに帰ると言っていました。私はその時、自動販売機の横にしゃがみこんで、靴を脱ぎ、ツボ押し用の電気マッサージャーで足の裏をマッサージしていました。彼が「それは何だ」というので、「中国の漢方式のツボマッサージャーだ」と言おうとしましたが、「漢方」という言葉が分からず、また「ツボ」という言葉も分からず、説明しているうちにチンプンカンプンの会話になってしまいました。
 でも彼の方が話題を変えてくれて、今日は黒潮ホテルに泊まると言いながら「荷物が重たくて疲れる。でも温泉はいい。痛い足にも、痛い肩にも、非常にいい」と言って笑っていました。彼もまた「お四国病」なのでしょうか。「お遍路は楽しくない。でもまた行きたくなる。不思議だ」と3日目の十楽寺で会った田代さんが言ったことを、また思い出しました。
 「私も足の裏のマメが痛い」と言おうとして、ジャンヌから教えてもらった「ブリスター」と言葉を言いましたが、どうも通じていないようでした。いったい何語なのでしょう。

 10分ぐらい話をして、「ではお気をつけて」と言って別れました。「お気をつけて」という言葉が、別れ際の一番簡単で綺麗な日本語だと思います。本当はきちんと立って、頭を下げたかったのですが、マメが痛くて座ったままで言ってしまいました。
 「座ったままで失礼します」と言おうとしましたが、これも英語が分かりませんでした。「ソーリー アイアム シッティング」ぐらいで通じたのでしょうか。でもとっさには浮かびません。それでも気持ちは通じたようです。穏やかで感じのいいオランダ人でした。


●写真 一宮の鳥居


善楽寺と土佐一宮神社は隣同士にありました。神社とお寺は昔は一体だったようです。



●写真 13時19分  一宮の本殿




神社の本殿には、じっと立ったまま、いつまでも願い事をしている女性がいました。
ここから宿まであと2時間ぐらいかかります。


●写真 13時49分  善楽寺の南の水田




●写真 14時00分  国分川




●写真 14時00分  国分川と鴨




●写真 14時8分  高架道路工事


バイパス工事の高架の下をくぐり抜けるようにして歩きました。どこをどう歩いているのか自分でも分からなくなりました。



●写真 14時13分  高知市へ




●写真 14時21分  南へと流れを変えた国分川




●写真 14時22分  新国分川橋をわたり高知市中心部へ

善楽寺からの道はかなり長く、まだかまだか、という感じです。


●写真 スーパーホテル




 今日のホテルは素泊まりだったので、ホテル近くのコンビニで弁当を買いました。いっしょに買った缶ビールはコンビニを出るとすぐ、座り込んで飲んでしまいました。やっぱり足がヘトヘトでした。

 3時頃、高知駅の近くのスーパーホテルに着きました。ホテルの大浴場の温泉に入り、生き返りました。

 


「土佐へ」 お遍路記 21日目 

2021-09-23 11:25:40 | お遍路記 「土佐へ」

【21日目】 曇りのち晴れ
    【地域】高知市内観光
    【宿】 スーパーホテル(連泊)


 昨晩はまた眠れませんでした。夕方の6時から9時ぐらいまでちょっと寝ただけで、あとはベッドに寝ていても眠れませんでした。また夜中に妻に何度もメールを打ちました。私は妻と会うことに緊張しているようです。夜中にまた大浴場の温泉に入りに行きました。夜中も入れました。

 8時頃、ホテルで朝食をとりました。朝食はついていました。今日はこのホテルに連泊します。荷物は部屋に置いて、そのままぶらりと街に出ました。市内を見て回りました。今日は高知市内をの観光するつもりです。まず南へ向かい、はりまや橋を通りました。小さな赤い橋が残っていました。小さな町中の川に架かる橋でした。今はその横は使われておらず、その横の広い橋を車が通っています。



●写真 9時29分  高知市のアーケード




●写真 9時32分  はりまや橋




●写真 9時32分  今のはりまや橋




 そこをさらに南に下り、東西に流れる鏡川の畔を西に向かって歩きながら高知城に向かいます。鏡川の畔は、いい川辺でした。



●写真 9時44分  高知市の鏡川と橋




 途中で後藤象二郎の住居跡、板垣退助の住居跡を見ました。石柱は立っていましたが、住居跡はまったく残っていません。石柱を見落としてしまうほどでした。



●写真 10時1分  後藤象二郎生誕地




●写真 10時4分  板垣退助生誕地




 高知城よりも先に坂本龍馬の住居跡にも行ってみました。ちょっと離れたところにあります。でも大通りに面していたのですぐ分かりました。後藤象二郎や板垣退助とは住んでいる地域が違いました。下級武士の住む地域のようです。

 2日前に会ったM君が言っていました。土佐の人間はとにかく坂本龍馬が大好きで、何かあるとすぐ坂本龍馬の名前を出す、またかと思うほど坂本龍馬を自慢する、と。
 彼は普通は、幕府打倒を目指す「薩長連合」を結ばせた陰の立て役者だとされていますが、その一方で幕府の延命を目指す「大政奉還」の火付け役でもあるのです。彼の動きはなにか矛盾しているのです。
 彼は長崎でイギリス商人トーマス・グラバーの下請けのような仕事をしています。「海援隊」です。でもこの海援隊がグラバーの仕事を受け継いだのではありません。坂本龍馬は何者かによって暗殺されます。グラバー商会を受け継ぐのは同じく長崎に行っていた安芸市出身の岩崎弥太郎なのです。つまり今の「三菱」です。
 歴史的には圧倒的に岩崎弥太郎が重要な役割をにないます。坂本龍馬は、暗殺された幕末の獅子たちの一人に過ぎません。
 彼が脱藩して全国を飛び回ったことは、漂泊に暮らす「お遍路」の姿と何か関係があるのでしょうか。とにかく彼にはよく分からないことが多いのです。



●写真 10時47分  坂本龍馬生誕地




●写真 10時48分  坂本龍馬生誕地




●写真 10時54分  龍馬ゆかりの道




●写真 10時56分  龍馬生誕地周辺




 県庁が高知城の隣にありましたが、そこから南に下った道路に毎週木曜市が開かれていて、今日がたまたま木曜日だったのでそこに市が立って、かなり人で賑わっていました。



●写真 10時13分  正面に高知城の天守閣が見える




●写真 10時17分  木曜市




 そのあと高知城に登りました。高知城に登ってみると、天守閣そのものはそんなに大きくないものの、木造作りの本物でした。小山の上にあるので標高がかなり高くて、そこに登るとはじめて高知市内を東西南北、見渡すことができました。そうすると高知市というのは、今まで平野だと思っていたのが、どうも平野ではなくて盆地のようになっていることが分かりました。南の海との間にも低い山が連なっています。西も山でふさがっています。北は中国山地が意外と近く、そうすると東の方の後免町の方向しか開けていません。お城の守りとしては、そのほうが好都合だったんだと思います。



●写真 11時9分  高知城のお堀




●写真 11時15分  高知城の大手門




●写真 11時17分  高知城の大手門




●写真 11時25分  板垣退助像




●写真 11時47分  高知城の天守閣から北




●写真 11時48分  高知城の天守閣から西




●写真 11時48分  高知城の天守閣から南




●写真 11時48分  高知城の天守閣から東




●写真 12時13分  高知城の天守閣




 午後1時半、町中のアーケードを歩いていると、出店のある広場があって、そこで豚骨ラーメンを食べました。でもやっぱり豚骨ラーメンは九州でした。



●写真 13時2分  立志社跡

明治の自由民権運動の拠点として日本史に出てくる立志社跡がありました。今は公園の一角です。2日前、旧友のM君が「土佐の土着思想」と言っていた自由民権運動の発祥地です。



 このあと、どうしようかと思いました。チンチン電車は東西に走っています。はりまや橋から東に向かうチンチン電車に乗って、竹林寺へ向かいました。今日、竹林寺に行っても、自分の中では正式に参拝したことにはなりません。今日はホテルをブラリと出て、あてもなく高知市内を観光しているだけです。明日また竹林寺を「打つ」ことになるのかな、と思いましたが、その時はその時だと思い、気分に誘われるまま、竹林寺へ向かいました。



●写真 13時8分  はりまや橋駅




 チンチン電車では、どこで降りればいいのかわからなかったので、運転手さんに聞いたら「バスがいいですよ」といわれて困っていると、一番前に乗っていた70前後の女性が「知寄町三丁目がいい」と教えてくれました。御礼を言って、「お遍路で来たものですから、土地勘がないんですよ」というと、「私も何年か前に50日で通しの遍路をしました。高野山参り、お礼参りまでしましたよ」と言われました。

 教えてもらった知寄町三丁目の駅で降りました。「本当は橋を渡った次の駅が近いけど、料金が高くなるのでここがいい」と言うことでしたので、言われるままにそこで降りました。親切な方でした。
 すぐ東の大きな橋を渡ったところで、南の道に折れようとしたら、前に歩きのお遍路さんの姿が見えました。地図も持たずに気ままにホテルを出てきたため、たぶんその人は竹林寺に行くのだろうと思い、あとをついて行くことにしました。しかしちょっと目を離している隙に、どこに行ったのか、見失ってしまいました。

 次の十字路を南に歩き始めてしばらく歩くと五台山トンネルがあって、そこを通ろうかとしましたが、スマホのグーグルマップで見てみると、このトンネルは竹林寺の山の下を通り過ぎるトンネルのようだったので、また大通りに戻って、結局タクシーで行きました。

 タクシーの運転手さんに、五台山の展望台のところまで連れて行ってもらいました。そこは高知城の天守閣以上に見晴らしの効くところで、初めて高知の地形を目の当たりにすることができました。
 やはりこの高知市は、海に面していると言うよりも盆地に近い感じがします。東の室戸岬から歩いてきたので、南国市では一気に平野が広がった気がしましたが、それは後免町あたりのことです。この高知市は北の中国山地は間近いし、南には造山運動の低い山が東西に連なっていて(このことは2日前に会ったM君が教えてくれました)、南北を塞いでいます。西の方は低い山が連なっていて、東の方だけが途切れ途切れに開けているいう感じです。
 この高知平野は五台山の展望台から見ると、かなり河川が入り込んでいて、複雑な河川構造になってます。それは高知平野の南に低い1本の山脈が走っていて、それに遮られて太平洋に注ぐ川が南北に流れてはいないのです。そういう独特の地形があります。
 一昨日歩いていて分かったことですが、南国市の岡豊町にむかし山城があって、もともとはそこが高知の中心であったわけです。岡豊町というのは後免町や国分寺に近いわけですが、その丘陵地帯に山城があり、昔はそこが高知の拠点だったわけです。
 そこに長曾我部が入ってくると、長宗我部はその岡豊町からもっと西のこの高知市に目をつけ、そこにお城を築いたのです。それは、四方ではないけれども三方を山に囲まれ、または海で塞がれ、守りに適した場所だったからだと思います。



●写真 13時58分  五台山展望台から北




●写真 14時2分  五台山展望台から北西




●写真 14時3分  五台山展望台から西




●写真 14時3分  五台山展望台から南



●写真 14時3分  五台山展望台から南東




●写真 14時6分  五台山展望台から東




 五台山展望台からは竹林寺の五重塔が近くに見えています。展望台のすぐ北に小さい遍路道があって、「竹林寺へ」という標示がありました。それを降りるとすぐ2~3分で竹林寺の境内に入りました。本当にすぐそこでした。

 竹林寺は庭園が素晴らしいお寺で、紅葉がすでに始まっていて、紅葉真っ盛りの頃は、さぞきれいなお寺だろうと思いました。

 「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」というあの「よさこい節」のお坊さんも、どうも竹林寺のお坊さんのようです。土佐の人々は、そういうお坊さんの俗な姿を、親しみを込めてはやし立てたのではないでしょうか。そして安堵したのではないでしょうか。「聖」があれば「俗」がある。生身の人間にとってそれは仕方のないこと。それでいいのかも知れません。この竹林寺は、高知市のシンボル的なお寺です。



●写真 14時15分  竹林寺の本堂




●写真 14時15分  竹林寺の太師堂




●写真 14時24分  竹林寺の塔




●写真 14時24分  竹林寺の境内




●写真 14時25分  竹林寺の境内




●写真 14時30分  竹林寺の山門


私は展望台から下って竹林寺に入ってきましたが、本当はここが入り口の山門です。


 竹林寺を観光客として参拝したあと、山門の方に下ってみるとそこに観光バスの停留所があって、そのバス停の横に牧野植物園の西門の入り口があり、竹林寺と牧野動物園は隣接しているということがわかりました。

 バスは約1時間おきに運行されているようでした。竹林寺のあとはどうしようかな、と思っていたら、その観光バスが高知駅と桂浜を往復するバスだったので、桂浜に行くことにしました。



●写真 14時35分  植物園入り口




 竹林寺横のバス停で待つこと約30分、そこにバスが来ると、運転手さんから回遊券のようなものを買って、桂浜に行きました。3時9分のバスに乗って竹林寺を離れ、そのバスで桂浜に着いたのが3時半頃です。



●写真 15時47分  浦戸大橋


桂浜は、浦戸大橋を渡ってすぐのところ、浦戸湾の入り口にありました。


●写真 15時49分  桂浜の入り江


この先は太平洋です。


 バスを降りて、土産物屋を通り抜け、桂浜に向かいました。

 桂浜は穏やかな海でした。室戸岬に向かう海岸とは違っていました。
 阿波の鳴門から歩き、山を歩き、海を歩き、街を抜け、ミカンをもらい、柿をもらい、水をもらい、ポカリまでもらって、土佐の桂浜まで流れ着きました。
 浜には、ちらほらと観光客がいます。有名な坂本龍馬像がありました。



●写真 15時36分  桂浜




●写真 15時38分  坂本龍馬像



●写真 15時38分  桂浜

桂浜の先端です。


●写真 15時41分  桂浜




●写真 15時42分  桂浜


浜に下りてみました。


●写真 15時42分  桂浜




 この20日間、札所や名もない祠で、般若心経や御真言を何十回も唱えました。でもなかなか煩悩は消えてくれません。それどころかますます多くの煩悩が頭に浮かびます。

 「発心」の徳島から歩き始め、今は「修行」の高知です。まだまだ先はあります。しかし、今はここで十分のような気がします。体力的にというよりも、気分的にお腹いっぱいなのです。「菩提」の愛媛、「涅槃」の香川は、私にはまだずっと先にあるようです。今は手に届きそうにありません。

 今はお腹いっぱいですが、いつかまたお腹がすくかも知れません。それを消化するのに何年かかるでしょうか。その時また来ようと思います。還暦すぎた私には、そんなに多くの時間は残ってないようです。でもそれは老いも若きも、いっしょではないでしょうか。
 今まで生き長らえたことに感謝します。

 南無大師遍照金剛。

 
                                  「土佐へ」 終わり


お遍路記 衣食足りて

2019-11-21 05:58:18 | お遍路記 「土佐へ」
木曜日
 
先月から3週間、四国のお遍路を歩いてみて感じたのだが、
車というのは、どんな車に乗っているかが大事なのではなくて、車があるかどうかが最も大事なことだ。
どんな車に乗っているかは大したことではない。車に乗れるかどうかが最も大事なことだ。
毎日毎日何十キロも歩く辛さに比べれば、車の乗り心地がいいとか、見た目がいいとか、そんなことはどうでもいいことで、歩かずに済むかどうか、これが決定的に大事なことだ。
車があれば歩かずに済む。このことで車の目的の99%は達成される。後のことは些細なことだ。
3週間歩き続け、途中で久しぶりに旧友の車に乗ったとき、これほど快適なものが世の中にあるのかと驚いた。私が30分かけて歩いた道をほんの3分で通り過ぎた。決して高級車とはいえないその車の快適さに驚いた。
奇しくも私の車と同車種で、自分がこんないい車に乗っていたのかと驚いた。
これ以上、何を望むというのか。
 
しかし多くの人は、99%のものが与えられても、残り1%の不足のために、不毛な努力をしている。
 
毎日毎日カロリーメイトばかり食べていると、人の手で握ったおにぎりが恋しくなる。
室戸岬までの人家の見えない海岸沿いの国道を1人歩いていると、自分の今までの日常が無性に恋しくなる。
歩き疲れて民宿の風呂に入ると、気持ちの良さにアアーッと声が出る。極楽とはこういうことだなと思った。どんなに粗末な狭い風呂であっても、風呂に変わりはない。温かい水があって、湯船があって、それに全身浸かることができれば、それで十分である。
そんな暮らしを長いこと忘れていた。
 
衣食足りて礼節を知る、と昔の人は言ったが、衣食足りてもまだ飽くことを知らないのが現代人だな。
 
何を与えられても満足できない人間は、死んですらも不満を残すだろう。
死ぬときぐらい、何も残さないで死にたい。
色は空なり、色即是空。
札所や名もない祠で、般若心経や御真言を何十回も唱えた。
でもなかなか煩悩は消えてくれない。
それどころかますます現世が恋しくなる。
 
 
阿波の鳴門から歩き、山を歩き、海を歩き、街を抜け、ミカンをもらい、柿をもらい、水をもらい、ポカリまでもらって、土佐の桂浜まで流れ着いた。
また行けるだろうか、お遍路。