ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない世界史」 30話 イギリスの産業革命

2019-08-25 09:44:13 | 新世界史12 18C後半~

【産業革命】
 
【産業革命の背景】 次はヨーロッパの産業革命です。まえに戦争に絡めて序盤戦を言いました。18世紀、1700年代のことです。ここから世界が近代化・機械化に入っていきます。それが最初に起こった国がイギリスです。

※ 1820年では中国の GDP シェアがトップで、ヨーロッパ各国を合わせても中国には及ばない状態です。・・・ヨーロッパは1800年以前に決定的に優位にあったわけではない。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P?)


 ではこの産業革命の前にイギリスは何をしていたか。フランスと植民地争いをしていた。それに勝ったのがイギリスです。イギリスはここで儲けるわけです。
 儲けた金を資本つまり元手として・・・・・・資本というのはお金です・・・・・・そのお金で工場を作った。
 儲け方はいろいろある。農業で儲けようという人たちは、1億円持っていたら土地を買い占める。弱小農民に「おまえたち出て行け」と言う。「オレが土地を買い占めるから」と。こういう土地の買占め行動も起こります。これを第2次囲い込みといいます。第1次はちょっと言っただけですが、200年前の1500年頃にもありました。ここでは第2次囲い込みといいます。
 そこで企業的大農場経営をやる。人を使って農業をする。そうすると、そこから追い払われた農民は、あてもなくどこに向かうか。都会に向かう。
 そうすると明日の仕事を求めて「時給1000円で働きたい」という。でも「そんなに払えない、300円なら雇ってやる」と言われるとそれで働くしかない。低賃金・長時間労働です。社長にとってはコストかからない。だから儲かる。こういう社会構造ができる。

 それがイギリスの産業革命に結びついていきます。
 あとお金の問題もあります。イギリスはヨーロッパで初めて、お金がなくても紙をお金にすることに成功した国です。印刷すればいい。そこに国家と結びついた銀行つまりイングランド銀行ができる。この銀行はこの名誉革命直後の1694年に成立し、産業革命が始まる約60年前にはできていた。どうも怪しいという噂があったけど、国が合法化してしまった。こういうこととも絡みます。



【生産技術】 次に何を作り出すか。イギリスが欲しかったのは綿です。ヨーロッパに綿はありません。ヨーロッパ人は毛織物しか着なかった。だから臭いんです。洗えないです。でもインド人は綿を着ている。着心地がいいし洗えるし、清潔だった。「オレたちもつくりたい」と。
 それが綿織物工業です。しかもそれを機械化して安く作ることができた。しかも低コストで。人件費も安い。時給300円でいいんだから。そして綿織物を安く、本場のインドに売り込むんです。こうやって儲けていく。綿織物を自国で作り出す。もともと綿というのはインド綿です。

 どういうふうにして機械化に成功していったか。織物はもともとは農家の奥さんの暇な時の副業だった。手でずっと、縦糸に横糸を通して、いちいち織っていかないといけなかった。
 まず1733年、飛び杼(ひ)が発明されます。機織りというのは、基本的には何百本もの縦糸に、手で横糸を通していくんです。これを手で横糸を通していくのではなくて、それをロケットみたいな、ピュッ、ピュッと走る道具を発明する。たったそれだけです。これで大きく変わる。これが飛び杼です。手でいちいち横糸を通す手間がなくなる。
 次にはその手間さえ機械がやる。どちらとも機械でやると、人間は糸が切れないように見張っておくだけでいい。労働効率は人間の手作業とは比べものにならないほど効率化されていく。

 その前に紡績という糸をつくる作業があります。まず木綿というのはワタなんです。綿花というのは、花がふわふわです。これを細くグルグル巻いて糸にしていく。この作業がある。これを紡績という。糸を紡(つむ)ぐことです。この機械技術が生まれたのが1763年。これが自動化されていく。イギリスの産業革命は1760年代です。


教材 産業革命 その1 インドからイギリス



 産業革命の起こる1760年頃は・・・・・・さっきプロシアのところで言った・・・・・・イギリスが七年戦争で勝って、アメリカ植民地を手に入れたころです。それが1760年頃です。正確には1763年のパリ条約です。七年戦争に勝ったのとほぼ同時に、産業革命がイギリスで始まっていく。
 次には1769年に、動力がないから山の水のエネルギーを使う水力紡績機ができる。最終的には蒸気で回すようになる。
 アークライトという人は一介の床屋さんで字も読めない。しかし発明に没頭して、嫁さんが逃げてしまう。字が読めなくても発明はできる。

 しかし本当に欲しかったのは、この糸そのものではなくて、縦糸・横糸を織って布にすることです。ここまで行かないと布にはならない。
 縦糸・横糸を織って布になる。これを自分の国で作ることに成功した。これでイギリスの綿布の製造力が一気に50倍になる。それでインド産綿織物を凌駕する。
 さらに技術が発展していって・・・・・・ミュール紡績機とかもありますが・・・・・・1785年のポイントは力織機の発明です。「力持ちの機織り機」みたいな言い方ですけど、そうではなくて「力」の意味は「自動」ということです。つまり機械化された。これが力織機です。人力じゃないというところがポイントです。これが1785年。

 もうそろそろフランス革命がおこるころです。ナポレオンが出てくる時代です。綿糸つまり糸を、縦糸・横糸を織って、綿布つまり織物にすることに成功していく。これが最終製品です。目標はこれです。
 そうなって生産力が10年間で50倍に高まると、逆に綿花が不足する。それをどこから手に入れるか。
 アメリカではアフリカから黒人奴隷を連れてきて綿花畑で働かせている。アメリカで黒人奴隷に綿花栽培させています。アメリカの奴隷農場から綿花を輸入する。これが綿織物の原料です。こんなふわふわした綿花を、糸にして、さらにその糸を織って布にしていく。たかが布じゃないか? しかしこれが世の中を変えていきます。

【フリーメイソン】
※ 実際にフリーメーソン運動が普及するのは、18世紀も後半になってからである。・・・・・・1717年ロンドンでグランド・ロッジが創設されてから30年ほどのあいだに、ヨーロッパ全土に同一の信条と儀礼をもつ結社の一大ネットワークが完成したのである。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P52)

【フランスのフリーメイソン】
※ (フランスでは)1756年にはド・クレルモン伯爵をグランド・マスターとして、グランド・ロッジ(グラン・ロージェ・ナショナル)が創設される。・・・・・・さらに1773年には、グランド・ロッジの廃止とグラン・トリアンの創設が決定される。グラン・トリアンの創設は、フランスのフリーメイソンのイギリスからの独立を意味するものであった。イギリスのグランド・ロッジが神の存在と魂の不滅性を大前提としていたのに対して、グラン・トリアンはその前提を否定し、さらに急進的な無神論的結社となっていく。オリアン(東)は、太陽の昇る方向として「光」を意味する。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P44)

【ドイツのフリーメイソン】
※ (ドイツで)1775年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがドイツの名門貴族ヘッセン家のヴィルヘルム9世と古銭業を通じて知り合い、その財産運用を任されます。当時はアメリカ独立戦争の最中であり、ヘッセン家は、独立戦争を鎮圧するための傭兵をドイツで鍛えてイギリス政府に貸し出すというビジネスをしており、個人としてはヨーロッパ最大の資産家でした。このヘッセン家の資産が、のちにロスチャイルドがのし上がる種銭となります。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P89)

※ ドイツのフリーメイソン史は、1770年代に極めて特異な結社を生む。インゴルシュタット大学の教会法教授アダム・ヴァイスハウプトが1776年にバイエルンで創設した啓明結社(啓蒙結社=イルミナティ)である。ヴァイスハウプトは1777年にみずからフリーメイソンに加入し、啓明結社をフリーメイソンの組織と運営を模して再編する。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P48)

※ (ドイツでは)教会法の教授で、かつてイエズス会士に教育されたアダム・ヴァイスハウプトは、インゴルシュタット大学で教えるかたわら、キリスト教思想を離れ、サタンのイデオロギーに帰依した。1770年になると(ロスチャイルド商会を設立したばかりの)金貸し業者がヴァイスハウプトを雇い、サタンのシナゴーグに世界の最終支配権を与えて社会変革を起こしてのち、サタン的独裁支配を実施してサタンのイデオロギーを自らの民族以外のすべての人々に課すことを目論んだ大昔の「プロトコール」を時代にふさわしいものに改訂させた。この仕事をヴァイスハウプトは1776年5月1日に完成させた。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P26)

※ (ドイツで)1776年、ヴァイスハウプトはイルミナティを組織して目論みを実行に移した。イルミナティという言葉はサタンに由来し、「光を掲げる者」を意味している。その目的は、知的能力を実証された人々が世界を治められるよう、世界単一政府を生みだすことであると嘘をついて、彼は、美術、文学、教育、さらにはさまざまな科学、財政、産業の分野でもっとも聡明な人々を含む2000人ほどの信望者を集めた。そしてその後、大東社ロッジを創設すると、それを秘密本部とした。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P27)




【交通革命】 さらに動力です。この綿織機の技術にプラスして、また別のところから発明が加わります。湯を沸かす茶釜の蓋が、ボコボコ、パタンパタンするのを見て、ふと思いつく。「アッ、これ人間の代わりにこの力を利用できるぞ」と。やっぱり天才的な発明です。
 私だったら茶釜がパカパカいっても、うるさいと頭にくるだけですけどね。これをエネルギーに変えられる。これが蒸気機関です。その上下運動をどうやって円運動にするか。一種の回転するモーターみたいになっていく。そういう改良をしたのがワットです。1769年です。

 この頃になるともう産業革命が始まっています。そうすると今度は蒸気機関の機械を作る必要がある。機械は何でできるか。鉄です。その鉄をつくるためには石炭と鉄鉱石が必要です。こうやって産業分野が広がっていく。これが産業革命です。
 鉄ができたら、大急ぎで蒸気機関ができる。その技術が結びついて「今度は人を乗せて走ろう。石炭を乗せて運ぼう」、いわゆる蒸気機関車ができる。これがスティーブンソンです。それを走らせるには鉄道のレールを敷かないといけない。ますますがいる。

 次の1800年代に入ると10年ちょっとで、イギリスのマンチェスター・リヴァプール間・・・・・・博多~北九州間ぐらいかな・・・・・・そこを人が引っ張らなくても、鉄が勝手に走る。驚きだったと思います。そんなもの誰も見たことがないんだから。そうやって鉄道が開通する。歩いて行くところを、人間はこれに乗って座っているだけで移動できる。これが1830年です。
 その頃になると近代社会に片足は十分踏み込んでいる。あとは応用です。船でもこの蒸気機関を使って、最初は船の両脇に車輪のようなモノをガラガラ回して漕いでいく。そういう蒸気船ができる。イギリスは海賊の国です。まずこれを戦争に取り入れる。それで海軍が強くなる。次々にこうやってイギリスに連鎖反応がおこっていく。



【資本主義社会の成立】
 
【資本主義】 資本主義社会の成立についてです。こうして産業が発展していくと、同時に問題が発生していく。「こうして金持ちになるのは社長だけ」ということです。
 逆に、機械で大量生産できるようになった分、今まで手作業でやっていた職人さんの職が奪われていく。肥え太る人間がいる一方で、没落していく人間もいる。金持ちになる人間と貧乏になっていく人間、2通りに分かれる。



【都市と労働者】 社長になる人つまりお金を持っている人、こういう人をブルジョワジーという。語源的には、ブルジョワというのはブルクつまりお城の中に住んでいるお金持ちのイメージです。この時には金持ちとは社長のことです。
 それに対して、農村を追われて当てもなく都会に出て明日の飯にも困り「頼みますから時給300円ででも雇ってください、何でもしますから」という労働者をプロレタリアートという。これが漢字でいうと「資本家」と「労働者」です。
  
 経済学的に簡単にいうと、人間にはこの2種類しかない。男と女は関係ない。大人と子供も関係ない。資本主義の論理でいうと、人間には、資本家と労働者、つまり金持ちと貧乏人、社長と使用人、この2種類です。そういう考え方をするのが資本主義です。でも人間には男と女があり、大人と子供があります。それをどうするかは謎です。

 こういった中で、金持ちが都市に住み、その都市が成長していく。まずイギリスで。一番の都市になったのは、もともと鄙(ひな)びた田舎の港町だったのですが、その港町が何を商品として扱っていたか。アフリカの奴隷なんです。その港の田舎商人たちが奴隷貿易でがっぽり儲けた。つまり奴隷商人です。これがリヴァプールです。そう言えばビートルズはここの出身でしたね。
 そうやってお金を儲けた商人たちが、その町の裏手に工場を作り出した。そこで新しい工場地帯ができた。これがマンチェスターです。マンチェスターとリヴァプールは隣同士です。
 これをつなぐ目に見えない動きは、奴隷貿易です。奴隷貿易で稼いだ富を、マンチェスターの工場ににつぎ込む。だからさっき言った世界初の鉄道もマンチェスターとリヴァプールの間を結んだんです。
 ではその繁栄するマンチェスターの一方で、高級住宅に住んでいるのは社長だけです。貧しい労働者は、トタンぶきの屋根のような、衛生状態が悪いスラムに住む。

 日本にも明治の初めにはスラムがありました。東南アジアには今でもあります。高層ビル街の1~2キロ郊外に出ると、そういった貧しい人たちがトタン葺きの屋根みたいなところに50人ぐらいザゴ寝で寝泊まりしてる。そういったスラム街がある。
 そこから労働問題が発生してきます。「何だ、いい目を見ているのは、金持ちだけじゃないか、オレたちは農村に住んでいた頃がよっぽどよかった。しかも低賃金・長時間労働。子供まで働かせる。これっておかしくないか」と。
 そこで貧しい労働者は、自分たちの組合をつくりだす。労働者のグループです。労働組合の結成に動き出す。これが社会主義運動にも結びついていきます。

 こういう非常に激しい貧富の差が、産業革命期には発生したんです。なぜか「お金はお金のあるところに集まる」、お金の習性は恐いものです。塩は水に溶かすと拡散するけど、お金はお金のあるところに集まって拡散しない。これをほっておくと大変なことになる。ではこれをどうやって拡散させるか。それは人間の力でやるしかないでしょう。お金を発明しそれを使い始めた人間は、最後までお金の面倒を見るべきだと思います。お金のいいとこ取りは社会的なマイナスです。
 このどうやって富を分散させるかという考え方が、社会主義思想に繋がるんです。このあと100年間は。ただ我々は21世紀に生きているから、結論は知っています。社会主義思想は失敗したんです。ソ連が崩壊して。
 では資本主義が正しかったかというと、ソ連が崩壊した後、世界的にまた貧富の差が拡大している。「なんだ19世紀といっしょじゃないか」ということです。ではどうするか。まだ謎ですね。残念ながら、たぶん私の世代では間に合わない。君たちの時代にどうもピークが来そうです。人間社会の矛盾は人間が考える以外にないんですよ。



【世界の工場】 世界の工場となったのは、一番乗りはやっぱりイギリスです。強い、安い、大量生産です。
 この時代は株式会社が禁止されていて、会社といっても規模はまだ小さいものです。会社はカンパニーといって、個人でやるか、共同でやるとしても仲間を集めてやるくらいで、のちの株式会社のように不特定多数の人間から資金を集めて、大規模経営を行うようなことはありませんし、大規模な独占企業が出てくることもありません。株式が広く売買されることもなく、株の暴落も起こりません。その点で19世紀後半からの資本主義とは違うのですが、それでも貧富の差の拡大は起こります。それはこの大量生産をもたらす機械工業が従来の職人技による手工業を破壊していったからです。それを代償として機械工業は発展していきます。

【株式会社禁止】
 1720年に泡沫会社禁止条例が制定され、7名以上の出資者からなる株式会社は、議会の承認、あるいは国王の勅許が必要とされることになった。事実上1825年に同条例が廃止されるまで、イギリスでは株式会社の設立が不可能になる。イギリスの産業革命は、株式会社の設立が不可能な状態の下で始まるのである。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P72)


 産業革命に成功したイギリスは、外国と貿易する時に必ず自由貿易を主張する。そして「これで世の中うまくいく」という。しかしそれは「ウソ」ですよ。

 すでにタルムード(ユダヤ教の聖典)の中で・・・・・・中世のすべてのキリスト教の法とは全くもって異質な、営業の自由や、自由貿易の考え方が、展開されているという事実そのものが、きわめて重要である。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P379)



 アメリカも第二次大戦後ずっと自由貿易を唱えてきた。でも1世紀以上前のこの時代にはアメリカはイギリスに比べて弱いから「保護貿易がいい」と言っていた。
 ところが戦後70年経って、アメリカの自由貿易がうまくいかなくなり、大統領が代わって今のトランプさんになると、また保護貿易に変わってきている。
 輸入品に関税をかけようとしている。今、関税が高くなろうとしています。撤廃するどころか。私が子供の頃から50年間も60年間も念仏のように言ってきた自由貿易が、去年あたりから変わろうとしています。関税を引き上げようとしています。
 「アメリカ製品が売れないから、輸入品の関税を引き上げよう」という。すると生産力に勝る中国が「何でだ。今まで自由主義がいいと言っていたじゃないか」と反対する。それと同じです。強いところは自由貿易が好きです。

 この頃のイギリスには「自由貿易、自由主義でいいんだ」という経済学者の走りみたいな人が出てくる。アダム=スミスという人です。1776年・・・・・・この年はアメリカの独立戦争が勃発した年と同じですが・・・・・・彼が「国富論」を書きます。「政治・経済」でもよく出てくる人です。

 一言でいうと彼は「自由競争、世の中それでいいんだ。見えざる手があって、世の中をまとめてくれる」という。しかし「見えざる手」とは何か。アダム=スミスが例として上げているのは、需要と供給の関係で価格が調整されるというものです。しかしそれだけのことで、他には何も具体的なものはない。
 キリスト教には予定調和説というのがあって、「神を信じれていれば、世の中は自然とうまくまとまる」という信仰があります。発想的にはその信仰と同じです。非常に宗教っぽい話です。

 こういうイギリスの自由貿易に対して、出遅れた国、ドイツとかフランスとかは・・・・・・日本もこれに入りますが・・・・・・「保護貿易にして、輸入品には関税かけよう」という。「そうでないと国中がイギリス製品だらけになってしまって、国内工業が育つ暇がないどころか、潰されてしまう」という。

 一言でいうと「自分の国の産業をイギリス製品から守らないと、国は豊かにならない」ということです。これははっきり結論が出ていない。どっちが正しいかというのは論争が続いています。

 ただ言えることは、強い国は必ず自由主義貿易です。これは一貫している。イギリスが強かったときもそうだったし、アメリカが強かった時もそうだった。実は現在の日本もそうです。日本は輸出国家だから、自由貿易が好きです。

 しかし日本の農業はどうか。別に「日本の農業が弱い」とは言っていません。ただ100ヘクタール持つアメリカの農家と、1ヘクタール持つ日本の農家が、同じ土俵で戦えという前提がおかしい。前提条件が違う。
 そこに自由競争を持ち込めば、日本の農業が負けるに決まっている。ただでさえ日本の食糧自給率は先進国中最低です。それをどう抑えるか。自由貿易にはいろいろ問題があります。
 保護貿易を唱えてイギリスに早く追いつこうとする国が、次のフランス、ドイツ、それに海の向こうのアメリカです。さらに20世紀、1900年代ぐらいになるとロシアが出てきて、ロシアと同じころに日本も資本主義の仲間入りをします。明治維新後の日本です。これらの国々が次々に産業革命を達成していきます。



【世界の構造化】 ただ19世紀、1800年代を見ると・・・・・・今の21世紀の世界の中心がアメリカであるとすれば・・・・・・世界の中心はイギリスです。
 それに続く国が、イギリス以外のヨーロッパです。アジアの中ではまだ日本だけです。そういった国が「原料を買いたい。大量生産で売れ残ったのを売りたい。売りさばかないとお金にならない」、そういうことを求めて植民地・・・・・・ラテンアメリカやアジアなど・・・・・・を獲得していく。
 人口が多いのはこのアジアですが、特に不幸になっていったのはアフリカで、簡単に植民地にされます。アジアもそうですけど。目的は売りつける製品市場、つまり売る場所を求めるわけです。すでに植民地から一方的原料を求めるのは当たり前になっています。こうやってどんどん収奪されていきます。

 どうやって、どこに何を売るか。

 イギリス中心に工業製品を売りつけます。
 逆に輸入したのがインドの綿花。アメリカからも綿花。北米からは綿花です。
 カリブ海地方からは紅茶に入れる砂糖です。たかが砂糖とバカにしたらいけない。
 さらに中国からはお茶です。このお茶に砂糖を入れる。
 さらにもう一つあります。何を売りつけたか。イギリスがインドで栽培した麻薬です。アヘンです。これを中国に売りつけるんです。そのためにアヘン戦争を起こします。これはあとで言います。

 次に見るフランス革命の最中に、イギリスではこんなことが進行しています。イギリスはフランス革命の英雄ナポレオンを潰して、世界の中心になっていきます。

 教科書ではそのことが非常にわかりにくく書かれていますので、フランス革命よりもイギリスの動きに要注意です。
 終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 31話の1 アメリカの独立戦争

2019-08-25 09:40:26 | 新世界史12 18C後半~
【アメリカの独立】
 
【13植民地】 この時アメリカはイギリスの植民地です。しかしアメリカのイギリス人は「オレたちはなんで植民地なんだ」と腹を立てる。
 イギリスの植民地では13の植民地が作られていた。アメリカは当初から今のような広大な土地を持っていたわけではなく、アメリカが独立した時には13植民地というのは東海岸の狭い地域だった。
 下の図のたったこれだけです。これがもともとのアメリカです。アメリカを植民地支配しているのはイギリスです。イギリスが植民地とした13の植民地ですけど、これが実は統一もなくバラバラなんです。

 この時期、アメリカにはすでに紙幣が流通していました。

【アメリカのお金】
※ 1690年、マサチューセッツ州はフランス植民地ケベックに武装攻撃を仕掛けた。前にもそんなことはあり、このたびに遠征費用に見合うほどの略奪品を手に入れてきた。ところがこのときは略奪は大失敗で、人々は手ぶらで戻ってきた。兵士たちが賃金を要求したとき、マサチューセッツの金庫は空っぽだった。不満を抱く兵士は手に負えなくなる危険がある。そこで役人たちはあわてて資金を調達しようとした。増税はきわめて不評であるのがわかっていたから、紙幣を印刷することにした。
 兵士や市民を納得させるため、政府は神妙に二つのことを約束した。(1)税収が十分な額に達したらすぐ紙幣を金貨か銀貨と交換すること、(2)これ以上の紙幣発行は絶対にしないこと、である。どちらの約束もすぐに反故にされた。・・・・・・ほかのほとんどの入植地もたちまち印刷機の魔術に目覚めた。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P199)


▼独立時のアメリカ 




 しかしイギリスの強圧的な支配から独立したアメリカはそのとたんに君子豹変です。180度方向を変えて、西に住んでいるインディアンを迫害していく。「とっとと失せろ」と。インディアンはどんどん西に追いやられて、今の広大な領域をアメリカのものにする。
 ここまで行くのに大して時間はかからない。50年もかからない。あっという間です。西へ西へとインディアンを追いつめながら、自分の土地にしていくわけです。一部ではメキシコの土地を奪いながら。けっこう自分勝手な戦争をしていきます。

 その経緯です。ヨーロッパの植民地にされたのはアジアもアメリカも同じですが、何が違うか。このアメリカの13植民地だけが白人で、その白人の植民地にだけ自治会を認めたことです。
 この自治会というのは話し合う機関です。議会です。つまり植民地議会、これを認めた。これはアジアやアフリカには絶対認めないことです。
 だから彼ら白人はアメリカで、「自分たちの街は自分たちで運営していこう」という自治組織を発展させていきます。これがアジア植民地にはないのです。

 この自治会の動きと、アメリカのフリーメーソンの動きは同じ時期です。

【アメリカのフリーメイソン】
※ アメリカ植民地にフリーメイソンが入ってくるのは、1720年代後半のことである。・・・・・・
 1760年にはアメリカの13植民地の隅々にフリーメイソンのロッジを見ることができるようになった。ロビーに集まっていたのは政治家・将校・富裕商人など地元の有力者であり、その集会の様子はヨーロッパと変わるところがなかった。フリーメイソンは、アメリカ植民地の上層・中層の社会階級に属する人々の交流の場であり、情報交換の場として機能していた。・・・・・・
 フリーメイソン史家は、アメリカ各地に組織されたフリーメイソンのロッジが、このように分裂していた植民地を共通の思想のもとに結びつけるという役割を果たすことになったと主張する。最新のヨーロッパ情報交換するあいだに、自然発生的にロッジがアメリカ独立革命の理念を醸成する温床となっていたことは十分に考えられる。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P120)


 アメリカが独立したことは、アメリカの原住民であるインディアンが独立したわけじゃないですよ。イギリスからアメリカに渡ってきた白人が独立することです。勘違いしないように。逆に原住民のインディアンはアメリカが独立したあとも、ますます迫害されていきます。これがアメリカの実態です。

 そのアメリカの植民地と本国イギリスとの関係はどうか。
 それまではフランスとイギリスが「アメリカは俺のものだ」と奪い合っていた。その1756年からの七年戦争の決着がついてフランスが負けた。イギリスの勝利です。アメリカはイギリスのものになった。それと同時にイギリスが威張り出す。しかもほぼ同時にイギリスで産業革命が始まる。1763年七年戦争が終わる。
 産業革命の始まりもちょうどそのころの1760年頃です。イギリスは戦争に勝ちはしたものの、戦争にはお金がかかった。イギリスはそのお金を使い切ってしまったんです。だから財政難です。

 だから税金を増やさなければならない。しかしイギリスは、イギリス本国から取るよりも「植民地のアメリカから取ってしまえ」という発想になる。それでイギリス植民地のアメリカにいろいろ税金を課します。
 しかしこの時、アメリカにもお金がない。アメリカは独自に紙幣をつくっていた。「イギリスも自分たちで紙のお金を作っているじゃないか、オレたちだってつくっていいはずだ」と。
 しかしイギリスはそのアメリカ独自の紙幣を禁止する。「勝手につくるな」と。これでまたアメリカは頭にきた。イギリスはなぜ禁止したか。紙でお金をつくればぼろい儲けが出る。イギリスはこれを独占したかったんです。

 アメリカ独立戦争の裏には、通貨発行権をめぐる本国イギリスと植民地アメリカの争いがあります。

【イギリスによるアメリカ紙幣の禁止】
※ (アメリカでは)長期にわたる金属貨幣の不足と代替貨幣の限界から、現地政府は、とてつもなく斬新な試みを始めた。それは、今までの貨幣に対する伝統的な考え方から脱却し、政府が紙幣を発行して統一された標準貨幣を作ることであった。この紙幣とヨーロッパで普及していた銀行券との最大の違いは、金銀という実物担保が一切なく、一種の完全な政府の信用貨幣だということだった。・・・・・・
 しかし、担保のない通貨は銀行家にとって天敵だった。政府の債券に担保が不要であれば、政府は当時不足していた金属貨幣を銀行から借りる必要がなくなり、銀行家の最大の宝刀はその威力を失ってしまう。・・・・・・
 この新しい紙幣の誕生と流通は、必然的にアメリカ植民地なイングランド銀行の管理下から離脱することを意味していた。激怒したイギリスの銀行家たちはすぐさま対策を講じた。彼らが牛耳っている英国議会は、1764年に「通貨法」を決議し、アメリカ植民地の各州が独自の紙幣を発行することを禁じ、イギリス政府への納税には、すべて金と銀を用いるよう植民地各州政府に強要していた。
 フランクリンは通貨法が植民地各州の経済にもたらした厳しい結果を、悲痛な思いで次のように描写している。
 「わずか1年の間に、植民地の状況は様変わりした。繁栄の時代は終わり、経済はひどく衰退し、町中に失業者が満ちあふれるようになった。・・・・・・自分たちで紙幣を発行できなければ、植民地は英国国王ジョージ3世と国際銀行家の支配から抜け出す方法を永遠に封じられる。これが、アメリカ独立戦争を引き起こした最大の原因なのである」(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P57)

※ 1750年代終わり、コネチカット州では物価が800%上昇していた。・・・・・・当然このようなインフレはいつかは止まるし、そのときには同じように大規模なデフレと不況が襲った。現代のエコノミストが好んで「野放図な自由市場」のせいにしたがる典型的な好不況の波だが、植民地時代にすでに需要供給の法則から逸脱した不換紙幣の増大縮小の直接的な結果として起こっていたことがよくわかる。このころまでには、硬貨は完全に姿を消していた。・・・・・・植民地としては不換紙幣を使うか物々交換をする以外、選択肢が残されていなかった。・・・・・・
 イングランド銀行は国王への影響力を行使して、植民地が独自の硬貨を鋳造することも銀行を設立することも禁止させた。・・・・・・1751年、大英帝国は植民地に通貨をすべて兌換し回収せよと圧力をかけた。・・・・・・イギリス議会の命令に植民地は強い不満を抱いた。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P201)



 アメリカ植民地は、コンチネンタル紙幣という独自の紙幣を発行することにより戦費をまかないます。

【コンチネンタル紙幣】

 独立戦争当時の植民地には本国政府の反対もあって銀行が設立されておらず、銀行が発行する銀行券による資金の調達ができなかった。そのために戦争が始まると、大陸会議はコンチネンタル紙幣の発行により戦費をまかなった。・・・しかし乱発によりコンチネンタル紙幣の価格は大暴落し、1779年にはほとんど無価値になった。「コンチネンタルほどの価値もない」という俗語が生まれるほどの派手な暴落ぶりであった。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P94)

 戦争がすでに存在する財力でまかなわれることはほとんどないし、増税で戦費が調達されることもまずない。政府が紛争のコストをすべて税として国民から徴収しようとすれば莫大な額になるから、どんなに熱心な戦争支持者でも支持しきれないはずだ。だがマネーサプライを人為的に増やせば、真のコストは見えなくなる。もちろんコストはインフレを通じて支払われるのだが、そのプロセスがわかっている人はほとんどいない。  
 アメリカ独立戦争も例外ではなかった。独立のツケを支払うために、13州連合も各州もせっせと印刷機を回した。・・・・・・ 1775年から1779年までの5年間にマネーサプライは5000パーセント増大したとみられている。・・・・・・ すぐにインフレが起こって、自己破壊的なメカニズムが働き出した。1775年、コンチネンタル紙幣は1ドル金貨と交換された。1777年には25セントに下がった。発行後4年目の1779年には1セントの価値もなかった。「1コンチネンタルほどの価値もない(少しも価値がない)」という言葉は、この惨憺たる時代の名残だ。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P204)

 不換紙幣は政府が課税なしに、ただちに購買力を手に入れる手段だ。だがその購買力はどこから来るのか? 不換紙幣そのものには交換されるモノに対応する価値はないのだから、どこかから奪ってこないかぎり、政府が不換紙幣で獲得する購買力は生じない。実はその購買力は、わたしたちの購買力の低下を通じて「集められる」。だから税と同じなのだが、隠れていて実体が見えない。・・・・・・
 不換紙幣は貴金属の裏づけがなく、法律で受け取りを受け取りを強制しなければならない紙幣である。不換紙幣を使えば、政治家は増税しなくても歳出を増やすことができる。不換紙幣はインフレの元凶であり、人々が失う購買力はインフレの過程で人々から奪われて政府に移転する購買力に等しい。従ってインフレは隠れた税である(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P206)

 市民革命の時代に脚光を浴びたのが、資金調達手段としての紙幣だった。アメリカの独立戦争はコンチネンタル紙幣、フランス革命はアシニアという紙幣により資金を獲得することで進められた。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P90)


 イギリスは、アメリカ大陸で植民地を手に入れようとフランスと七年戦争などを戦い、勝ちはしたものの体力を消耗してお金がないわけです。お金がないから、植民地のアメリカから今度は税金を搾り取ろうとする。
 七年戦争が終わって2年後の1765年に新しい税金、印紙法を出す。印紙というのは・・・・・・めったに見ないかもしれませんが・・・・・・本とか冊子とかのすべての印刷物に税金をかけいく。今でも領収書などに印紙を300円ぐらい貼ったりします。そういうものにアメリカ大陸で税金を掛けようとすると、これが火種になって、アメリカ植民地の人たちが反発していく。
 何といって反発したか。「代表なくして課税なし」と。「オレたちアメリカ人はイギリスの議会に代表を送ってない。政治に参加していない。それなのに税金だけ取られるのは、理屈が合わないじゃないか。だから税金を払う必要はない」と。そういって印紙法を撤回させたんです。

 「代表なくして課税なし」というパトリック・ヘンリーの言葉は、植民地全体のスローガンとなった(パトリック・ヘンリーもフリーメイソンであったという説がある)。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P124)


 そうするとその8年後、またイギリスが新たな法律をつくる。1773年の茶法です。イギリスが、中国からアメリカへのお茶を独占的に輸出しようとしたのです。そしてその独占販売権をイギリス東インド会社に与えて儲けさせようとした。

 これに反発したのがアメリカのお茶の密輸入業者です。彼らはこっそりお茶を仕入れて関税を逃れ、安く販売するという結構ダーティな仕事をしていました。その彼らが反発して事件を起こす。北部のボストンという街で起こったから「ボストン茶会事件」(1773年)といいます。アメリカの密輸業者たちは、アメリカに輸出しようとお茶を積んできたイギリスの船を襲って、その積み荷であったお茶を全部海に投げ捨ててしまう。

 独立後の貿易港の中心はボストンからニューヨークに移ります。

 独立当時、アメリカの中心地はボストンだった。だがその後、米経済の中心はニューヨークになり、金融資本家の拠点はすべてニューヨークだ。なぜこうなったのか。その理由はおそらく、ニューヨークがかつて、ユダヤ資本家の戦略によって世界初の自由貿易の地として繁栄していたオランダの北米拠点「ニューアムステルダム」だったからだろう。ニューアムステルダム市のユダヤ人たちは、オランダがイギリスに負けて同士が英領になってニューヨークと改名された後も同市に住み続け、アメリカ独立時にはユダヤ人の拠点となっていた。
 ボストン拠点のプロテスタントと、ニューヨーク拠点のユダヤ人は、宗教的にも聖書重視で親密性があり、アメリカは独立時から、全欧的なユダヤ・ネットワークの拡大された一部として機能していたと推測できる。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P87)


 このボストン茶会事件には、フリーメーソンが関与していたといわれます。

【アメリカフリーメイソンの動き】

 ボストンにはその頃、貴族的な雰囲気を持つ「ファースト・ロッジ」と、中層市民の集まっていた「セント・アンドルーズ・ロッジ」の二つの著名なロッジがあった。・・・・・・独立戦争の導火線となったボストン茶会事件は、この「セント・アンドルーズ・ロッジ」のフリーメイソンが深く関与している。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P125)


 1775年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがドイツの名門貴族ヘッセン家のヴィルヘルム9世と古銭業を通じて知り合い、その財産運用を任されます。

【ユダヤ人銀行家】
 ウィリアム・G・カー「闇の世界史」によればこうである。1773年マイヤー・ロスチャイルドは、弱冠30歳で、フランクフルトに12人の有力者を招き、世界征服綱領、秘密の世界革命計画25項目を決定して、その実行に着手した。・・・・・・そして、この秘密会議こそ、1789年のフランス革命を作り出した本当の奥の院である。しかし、1744年生まれの初代ロスチャイルドが30歳になるかならないかのうちに、一体どこで、どのようにして、これだけの大仕事を始める力量を養ったのであろうか。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P99円以下)(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P318)

 1775年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがドイツの名門貴族ヘッセン家のヴィルヘルム9世と古銭業を通じて知り合い、その財産運用を任されます。当時はアメリカ独立戦争の最中であり、ヘッセン家は、独立戦争を鎮圧するための傭兵をドイツで鍛えてイギリス政府に貸し出すというビジネスをしており、個人としてはヨーロッパ最大の資産家でした。このヘッセン家の資産が、のちにロスチャイルドがのし上がる種銭となります。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P89)

 近代国家の支配者のなかにユダヤ人を見出すことができないとしても、こうした支配者、それに近代の君主を、ユダヤ人を抜きにしては、とうてい考えることができない(それはちょうど、メフィストフェレス抜きで、ファウストが考えられないのと同様である)。両者は、連携しつつ、われわれが近代と呼んでいる数世紀間に躍進したのだ。わたしはまさにこの王公とユダヤ人との結合のなかに、興隆する資本主義と、それと結びついた近代国家を象徴するものが見られると思っている。
 まったく表面的ながら、多くの国家において、政治的な諸階級やツンフトなど、前資本主義的諸力に対抗し、被迫害者のユダヤ人の保護者として、王公が登場する有様が見受けられる。そして内面的には、王公、ユダヤ人両者の利益、志向が、かなり一致しかつ入りみだれている。ユダヤ人は近代資本主義を具現し、そして王公は、おのれ地位を獲得し、維持するために、ユダヤ人という力と連携していた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P85)

 わたしはとくに、成長しつつある国家に彼ら(ユダヤ人)が物質的手段を提供したこと、その助けをかりて、こうした国家が維持、発展できたこと、それに彼らが、すべての近代国家が依存している基盤ともいうべき軍隊に二つの方式で寄与してきたことを考えている。そのうち、一つは戦時における武器、装備それに食料を調達することであり、もう一つは必要な金銭を取りそろえることである。そのうち必要な金銭というのは、当然のことながら(初期資本主義の時代は圧倒的にそうであったが)、たんに軍隊のためばかりでなく、他の宮廷、国家の必要をまかなうために用いられる金銭だ。換言すれば、わたしはとりわけ16、17、18の3世紀に、ユダヤ人がもっとも影響力の大きい軍隊の御用商人であり、またもっとも能力もある王公への資金提供者であったと思っており、さらにこの状況は近代国家発達の動きにとって重大な意味があるとみなすべきだと信じている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P86)



 アメリカ人はこの時以降、お茶を飲まずにコーヒーを飲むようになったという話があります。アメリカンコーヒーといえば薄いコーヒーですが、コーヒーを薄くしてどうにかお茶の味に近づけたかったのでしょう。
 この時にそのアメリカ人たちは変装して、インディアンになりすます。インディアンのせいにしようとした。このあたり、アメリカ人のインディアンに対する本音が出てますね。でも密輸業者たちの正体はすぐにバレます。これがきっかけになって、イギリスとアメリカの戦争になっていく。
 勃発したのが1776年、これがアメリカ独立戦争のはじまりです。インディアンに変装して、イギリス船のお茶を海に投げ捨てたお茶の密売商人たちが、ここではアメリカの正義の人のようになったのです。

アメリカ独立戦争の1776年と同じ年に、ドイツでイルミナティという秘密結社がつくられ、これにはロスチャイルド家が関係していると言われます。

【イルミナティの結成】
 教会法の教授で、かつてイエズス会士に教育されたアダム・ヴァイスハウプトは、インゴルシュタット大学で教えるかたわら、キリスト教思想を離れ、サタンのイデオロギーに帰依した。1770年になると(ロスチャイルド商会を設立したばかりの)金貸し業者がヴァイスハウプトを雇い、サタンのシナゴーグに世界の最終支配権を与えて社会変革を起こしてのち、サタン的独裁支配を実施してサタンのイデオロギーを自らの民族以外のすべての人々に課すことを目論んだ大昔の「プロトコール」を時代にふさわしいものに改訂させた。この仕事をヴァイスハウプトは1776年5月1日に完成させた。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P26)

 1776年、ヴァイスハウプトはイルミナティを組織して目論みを実行に移した。イルミナティという言葉はサタンに由来し、「光を掲げる者」を意味している。その目的は、知的能力を実証された人々が世界を治められるう、世界単一政府を生みだすことであると嘘をついて、彼は、美術、文学、教育、さらにはさまざまな科学、財政、産業の分野でもっとも聡明な人々を含む2000人ほどの信望者を集めた。そしてその後、大東社ロッジを創設すると、それを秘密本部とした。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P27)


 アメリカ独立戦争の担い手はフリーメイソンだといわれます。

【フリーメイソン】

 まず確認すべき点は、アメリカ革命の担い手がメイソン軍であったように、当時のフランスの軍隊もメイソンの手中にあったということである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P121)


 アメリカ側には、ロスチャイルドの資金が流れたといわれます。

【ロスチャイルドの動き】

※ (アメリカの)独立戦争の時(また後の南北戦争の間)、アメリカの軍隊の補給を担当したユダヤ人の御用商人がいた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P89)

※ ロスチャイルドは同時に、膨大な資金を米国独立戦争勝利のために注入した。テックス・マーズは述べる。「ロスチャイルドは、代理人、ハイム・サロモンをアメリカに派遣して、何百万ドルもの資金を気前よく、アメリカ独立戦争を戦っている陣営にばらまくように命令した。この資金のかなりの部分は、アメリカ大陸会議とその作戦用に使用された。(コーデックス・マジカ P267)」(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P334)
 ハイム・サロモンはユダヤ人銀行家であり、ヨーロッパ・ロスチャイルド家のアメリカでの代表者であった。サロモンはアメリカのかなりの数の政治家たちをロスチャイルドの資金で買収していた。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P335)

 イギリスはアメリカ独立戦争に際してドイツの傭兵を雇った。1775年イギリス王ジョージ3世は、ドイツ人傭兵の代金をヘッセン選帝侯に支払った。そのことによって、ロスチャイルド財閥の基礎が築かれた。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P182)


※ ロスチャイルド家の権力の強大化は、フランス革命、アメリカ独立革命と、この二つの革命を前提としている。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P333)



新「授業でいえない世界史」 31話の2 アメリカの独立戦争

2019-08-25 09:40:00 | 新世界史12 18C後半~
【アメリカ独立戦争】 アメリカの13の植民地は、もともとまとまりはありません。基本はバラバラなんです。これを13植民地でまとまって動こうという機運を盛り上げたのが、トーマス=ペインという人が書いた「コモンセンス」という冊子です。コモンセンスとは「常識」という意味です。内容は「イギリスの植民地支配がいかに不当か、戦って独立よう」、そういう機運を高めた。

 そしてそういう機運の中で13植民地の代表たちが集まって、1776年に「オレたちは独立したぞ」という独立宣言を発表する。アメリカの独立宣言にはこうあります。
「全ての人間はによって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追求が含まれている」。自由の根底にはまだ神があります。

 ちなみにこの1776年は、イギリスの経済学者で自由放任主義を唱えたアダム=スミスが「国富論」を書いた年でもあります。そこにも「見えざる手」という神がかりな表現が見られます。

※ 1776年アメリカ合衆国のイギリスからの独立と建国も、国際政治の実験としてみると興味深い。アメリカが独立した時期は、産業革命が始まってイギリスの工業生産が増えだし、アメリカがイギリスから産業革命の波及を抑制されて、イギリス製品の市場の状態に甘んじるか、アメリカ自身が産業革命を行って工業化していくかという岐路であり、アメリカはイギリスから独立することで、製品を売りつけられることを阻止し、独自の工業国になる道を進んだ。アメリカに投資した資本家はイギリスからの独立を支援したはずである。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P86)

※ 独立宣言に署名した60名のうち、41名がフリーメイソンである。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P93)


 独立宣言を中心になって書いた人は、トーマス=ジェファーソンといいます。このあと第3代大統領になる人です。この時、「どういう国を作るか」に影響を与えたのが、イギリスのロックの思想です。この人の言説の難解さについては前に言いました。
 これでイギリスとの戦争が始まります。ただアメリカ13植民地というのは、お金もないし、軍隊もないです。これでよく勝てたなと思います。全部志願兵ですよ。「コモンセンス」に刺激されて、独立のためなら命を惜しまず、「オレは兵隊になるぞ」という人たちです。日本人は先の戦争もあって、「兵隊になって殺されるなんて、絶対イヤだ」と思いますが、彼らは独立するためには、自分の命の犠牲さえ厭わない。ここらへんの考え方は、ヨーロッパと日本でかなり違う。ヨーロッパでは、ギリシャの昔から市民とは戦う兵士のことでした。
 日本人は国があるのが当たり前すぎて、「国がなくなるとどうなるか」を本気で考えたことがない。これはたぶん一度、国を失わないと分からないんじゃないかな。

 ただそういう中で、イギリスと仲が悪かったもう一つの国・・・・・・アメリカでこのあいだまでずっとイギリスと植民地争いをしていた国・・・・・・が出てきてアメリカを応援するんです。これがフランスです。フランスがアメリカ側を応援する。これが大きかった。

【フランスの対応】
※ イギリスは依然としてフランスに敵対し、フランスの大洋および植民地での活動を抑えていた。そのような事情からフランスは、1775年から83年まで続くアメリカ独立戦争にラファイエットのフランス義勇軍を送り出した。この出兵はルイ王朝の財政を弱体化させたが、革命後のフランスの海上権を拡大させ、アメリカとの友好関係を強化した。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P126)

※ 独立軍は当初苦戦したが、君主国家であったフランスやスペインがイギリスへの対抗からアメリカ側に参戦したり、ロシアなどによる武装中立同盟の結成にも助けられて、しだいに優勢となった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P310)


 ただフランスも以前にイギリスと戦って負けて、お金がありません。それなのにまたここでアメリカを応援する。独立戦争にはアメリカが勝ちますが、フランスはますますお金を使い果たしてしまう。だからフランスも財政難になる。このことが、このあと約10年後のフランス革命につながっていきます。このフランス革命でフランス王政がつぶれます。これはあとでいいます。
 独立戦争の時、フランスに出向いて「アメリカを応援してくれ」と頼んだのがアメリカ人のフランクリンです。こうしてアメリカとフランスが手を組んだ。その一方で、産業革命が起こって世界で一番の産業国に躍り出ようとしているイギリスは孤立していきます。

  ではこの時のアメリカの総大将は誰か。ワシントンです。独立戦争に勝ったあとアメリカの初代大統領になるのはこの人です。ただ彼の職業は何か。大農場経営者です。大農場で働かされているのは奴隷です。黒人奴隷です。つまりこの人は黒人奴隷を使っているお金持ちです。こういう大農場経営者のことをプランターといいます。
 だからアメリカの独立戦争は奴隷解放の思想とはまったく別です。アメリカの総大将そのものが奴隷を使っているお金持ちだから。

【ワシントンの動き】
※ フランクリンと並ぶアメリカ建国の父ジョージ・ワシントンもまたフリーメイソンであったという事実は、フリーメイソンとアメリカ建国の思想が密接な関係にあることを示している。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P141)

※ ワシントン以後、アメリカ合衆国の大統領となったフリーメイソンは13人いる。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P155)


 しかしアメリカはイギリスと戦って勝利します。これがヨークタウンの戦い、1781年です。ただこの時にはアメリカの国軍というのが正式にはないから、貧乏なアメリカの農民たちが「オレも独立のために戦うぞ」と集まってくる。これが志願兵です。革命は、こういうことがないとなかなかできないです。
 でもちょっと不思議な気もします。軍事訓練もなにも受けてないから、その戦い方たるやメチャクチャです。正式な軍服もないから民間人の格好で、敵の後ろに回って夜の闇に切りつける。ゲリラ戦です。非常に卑怯な戦いです。今の戦争からいうと、正式な戦争ではないです。

※ 植民地側の軍隊はイギリスから見れば、烏合の衆に過ぎませんでしたが、財政に余裕のないイギリスは満足に戦うことができず、アメリカ独立を認めざるを得ませんでした。以後、イギリスはインドの植民地経営によって、財政の補填を図っていきます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P204)



The Patriot - Battle of Cowpens



 アメリカの勝利で戦争は終わった。これが1783年です。フランスが応援してるからフランスの首都のパリで条約が結ばれる。パリ条約です。そこでアメリカの独立は承認されます。




【合衆国憲法】 このあと問題になるのは、まだアメリカというまとまりはないです。国もないです。アメリカの独立とは何かというと、13の植民地がバラバラに独立していたのです。だからあんな広い国ではなくて、13の小さな国がバラバラにできたって全然おかしくなかった。
 ただ13の小さな国がバラバラに独立していたら、またイギリスが仕返しにきて負けてしまう。「まとまっておかないと怖いよね」と。力がないものはまとまろうとするのです。孤立していていいのはイギリスみたいな大国だけです。それでアメリカは1つの国にまとまろうとなった。これが連邦主義です。13の植民地がまとまって1つの国をつくろうとした。

 ただ反対意見もあって、「イヤ、地方地方はバラバラがいいんだ。それが自由がきくんだ。小回りが利いた方がいい」と言う人たちもいます。「一つの国になったら、首都で誰かお偉いさんが決めたことを、どうせ地方に押しつけるだけだろう」と。

 それでどっちにするか、悩むんですね。悩んだ結果、1つの国にしようという連邦主義が強くなった。13の植民地が全体でまとまって、13の国の共通の憲法を作ろうというのが1787年合衆国憲法です。これが世界初の成文憲法です。ここで初めて人民主権と三権分立を取り入れた国が発生します。これをまねして6年後の1793年につくられたのが、フランス革命の時のフランス憲法です。これで一応アメリカは国としてまとまった。アメリカの原型ができた。その初代大統領がワシントンです。それが今は首都の名前になっていますが、もともとは人の名前です。

 ただここで言えることは、「バラバラで独立しよう」という意見があったように、今でもこの考え方は根強く残っています。アメリカの州はステイトといって、日本語に直訳すると「国」なんです。県以上の組織です。日本と同じように州が警察を持っているどころか、軍隊までもっています。アメリカの州は日本の県とは違います。さらに別にまた州独自の憲法を持っています。日本でいうと国に近いのがアメリカの州です。

【ジェファーソンとハミルトン】
※ 1789年、憲法に基づく連邦政府が発足し、ワシントンが初代大統領に就任した。連邦派を率いるハミルトン財務長官に、反連邦派を率いるジェファーソンが外交を担当する国務長官に任命された(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P311)

※ 1789年、アメリカの初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンが任命された。ハミルトンはロスチャイルド家の援助を受けたことがうかがえる。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P60) 
 

 では負けたイギリスはというと、その後もアメリカとの関係は切れません。イギリスは何で儲けているか。綿織物です。その原料の綿花をつくっているのがアメリカ南部の奴隷農場です。ここから安い綿花を輸入している。それを加工して綿織物を作っているのがイギリスです。アメリカとイギリスとの経済的結びつきは切れません。

【イギリスの金融支配】

 アメリカが1776年にイギリスより独立して以来、イギリスのアメリカに対する政策の核心は、アメリカを実質的にイギリスの植民地化することでした。この実質的植民地化の手段が、アメリカを金融的にイギリスの支配下に置くことだったのです。この工作はアメリカ独立直後から始まっています。(国難の正体 馬渕睦夫 ビジネス社 P22)




【アメリカ第一銀行】 アメリカは国ができたばかりです。お金がいるけど、金がない。銀もない。それで憲法制定から4年後の1791年、財務長官ハミルトンの建議により「通貨を発行しよう」という銀行ができます。これをアメリカ第一銀行といいます。
 アメリカ第一銀行は、今でいう中央銀行みたいなものです。日本でいえば日本銀行です。中央銀行というのはお金を発行する銀行です。日本の1万円札は正式には日本銀行券といいます。今のお金は政府ではなくて中央銀行が発行します。その中央銀行の原型みたいなものです。
 建国したばかりのアメリカはお金が必要です。そこで独立戦争を戦ったイギリスが、アメリカのその銀行に投資します。だからアメリカの金融界はイギリスの影響が非常に強いものになります。

【銀行をめぐる対立】
※ 1790年、国の財政の窮迫を議会に報告した初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは、「政府が経済上積極的な役割を果たすべき」であるとして、旧債務を連邦政府の国債に転換することを提案しました。彼は、最初の連邦議会の議決により、1791年、イギリスのイングランド銀行をモデルにして、統一通貨ドルの発行権を持つ第一合衆国銀行中央銀行公認期間20年)をフィラデルフィアに設立し、東部沿岸の主要都市には支店を設けます。資金の2割は政府が出資し、8割はニューヨークの銀行ヨーロッパのユダヤ系金融業者が出資しました。翌年には正式に連邦通貨として、ドルが採用されます。独立後にアメリカは、かつての宗主国イギリスのポンドではなく、メキシコ・ドルを通貨として採用しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P221)

※ 1791年ハミルトンの建議によりアメリカ第一銀行が設立された。ベアリング家が大株主で、ロスチャイルド家も主要な株主であった。初代頭取はベアリング家のパートナーであるトーマス・ウィリングである。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P88)

※ ワシントン大統領は、国務長官を務めていたジェファーソン(のちの3代大統領)とマディソン(のちの4代大統領)に意見を求めた。二人は「この(中央銀行設立の)法案は憲法に抵触する。憲法は議会に貨幣発行の権利を授権しているが、議会は紙幣を発行する権利をいかなる民間銀行へも委託する権限をもっていないと明言した。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P61)

※ ハミルトンの提案に大反対したのが当時国務長官だったトマス・ジェファーソンで、これがその後長年にわたって熱く議会を沸かせた論争の始まりとなった。それどころか、この問題が中心になってアメリカ最初の政党が結成される。フェデラリスト(連邦派)はハミルトンの考え方を支持して集まった。のちにリパブリカン(共和党)となった反フェデラリスト(反連邦派)はジェファーソンの思想に共鳴した。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P397)

※ アメリカ第一銀行は、1811年には、その資本総額1000万ドルのうち、700万ドルを外国資本が占め、主要株主にはイングランド銀行ネイサン・ロスチャイルドが名を連ねていた。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P62)

※ 1791年フランクリンの死とともにハミルトンは、合衆国第1銀行として中央銀行の設立に成功します。独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンの反対にもかかわらず、ワシントン大統領が設立法案に署名してしまうのです。アメリカ憲法は通貨発行などの権限は連邦議会に属すると第1条で規定しているにもかかわらず、憲法違反の中央銀行が成立したのです。この合衆国第1銀行は株式の80%をロンドン・シティのネイサン・ロスチャイルドなどの民間銀行が所有し、アメリカ連邦政府20%を保有するだけでした。事実上、シティやニューヨークの民間銀行が所有する中央銀行だったのです。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P103)

※ 18世紀末、フランス革命によって欧州が混乱に陥ったため、ベアリング家は事業の重点を北米に移した。アメリカ政府はベアリング家に80万ドルの利率6%の国債の引き受けを依頼した。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P84)

※ トーマス・ウィリングは後にアメリカ初のプライベート銀行、アメリカ第一銀行の初代頭取になった。・・・・・・1803年には、外国投資家が保有する株式はアメリカ株式市場の時価総額の半分(約3200万アメリカドル)にまでのぼった。イギリス投資家たちはアメリカの株式市場に投資し、アメリカ側は配当金をイギリスに送金する、と言う大西洋をまたいだ金融ネットワークが形成された。言うまでもなく、ネットワークの中心にいるのはベアリング家であった。トーマス・ウィリング は1790年ころからベアリング家の忠実な朋友になり、アメリカにおけるベアリング家の金融代理人でもあった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P83)


 親英派の民主党はのち、ロスチャイルドの息のかかったオーガスト・ベルモントが党首になります。

※(●筆者注) 共和党が反連邦主義の立場であるのは、この後の政治状況によって変わるため、理解に混乱が生じやすい。アメリカの独立にはもともと連邦派と反連邦派があったが、連邦派は親英の立場、反連邦派は反英の立場に近かった。この親英か、反英かを軸として考えた方が分かりやすい。
 共和党は最初、反英色の強い政党として成立した。共和党は、真のイギリスからの独立をめざすため、各州の独立性を重視する政党だった。
 ところがのちの南北戦争では、南部がイギリスと組んで北部からの分離独立をめざしたため、共和党は反英の立場から北部の支持にまわり、ここで逆に南北を統一しようとする連邦派となった。共和党は、アメリカの南部にイギリスの傀儡国家ができることを恐れたのである。
 このとき南部を支持した民主党は、もともと西部出身初の大統領であるジャクソン大統領の支持派であり、各州の地域的独立性を主張するものであったが、ジャクソン大統領はアメリカ第二銀行を廃止するなど、もともとはイギリスによるアメリカ金融支配に強く反対する政党でもあった。しかしこれがのちにイギリスの金融資本家から派遣されたオーガスト・ベルモントに乗っ取られて、地域的独立性の強い国家をめざす反連邦派の性格を残したまま、親英の方向に舵を切った。そして民主党は、南部の独立を支持する政党になった。オーガスト・ベルモントを党首とする民主党は、この親英路線により、州権主義を楯に、その実質はニューヨークのウォール街を拠点とするイギリス金融資本家勢力と結ぶ政党になる。つまり一言でいうと、反英か、親英かの違いは、イギリス金融資本に対する姿勢の違いである。連邦派か、反連邦派かの違いは、背後に退く。
 結論的なことをいうと、アメリカは、第一次世界大戦を戦ったのも、第二次世界大戦を戦ったのも、ともにイギリスと組んだこの民主党政権である。まとめると下のようになる。
 親英・・・中央銀行賛成・・・連邦派  → 民主党 → (弱) → 南部支持 → 反連邦派
 反英・・・中央銀行反対・・・反連邦派 → 共和党 → (強) → 北部支持 → 連邦派 

 
 ちなみにこの1791年はフランス革命の最中です。イギリスはフランス革命中に、フランスとも戦います。イギリスはアメリカの銀行にも出資し、一方ではフランスとも戦います。どこからこのような資金が沸いて出てくるのでしょうか。

 ただこのようなイギリスの影響の強い銀行の設立に、多くのアメリカ人は反対します。だから20年後の1811年にはこのアメリカ第一銀行は廃止されます。この銀行は、できたり消えたり、またできたり消えたり、同じことを2回やって、非常に分かりにくい動きをします。
 イギリスのイングランド銀行のような中央銀行の成立に、アメリカ人はもろ手を挙げて賛成ではありません。なぜなら「これによって一部の人間だけががっぽり儲けて、貧富の差が大きくなる」という反対意見が多いからです。確かに中央銀行は歴史的には非常に不透明なものです。

 ただアメリカ第一銀行ができた翌年の1792年には、早くも証券取引所がニューヨークのウォール街にできる。証券取引所とは、株や証券を取引するところです。今やニューヨークのウォール街は、世界最大の証券取引所です。
 今でもよく日本の株式相場を見ていたら、「今日上がるか下がるか」、市場が始まる前から大方は分かる。9時に日本の株式相場が始まると、その2時間ぐらい前にこのニューヨークの株式相場が終わっている。ちょうど時差が9時間あるから。そこで株が上がっていたら日本も上がる。下がっていたら日本も下がる。だから日本の株式市場に主導権は今もないです。日本の株価を決めているのは今もこのウォール街です。



【独立の意義】 このアメリカ独立のもう一つの意味は、世界初の共和制だということです。アメリカには今も昔も王様がいない。王様がいない国は、この時にはアメリカだけです。日本でも天皇がいる。イギリスにも王がいる。フランスにも王がいる。ドイツにも、他の国にもいる。アメリカだけいない。
 その王がいない代わりに、政治の基本原則は文章で残して決めておく。これが成文憲法です。この形もこのあと何回も戦争をしながら世界に広まります。

 では独立したあとアメリカはどうするか。アメリカはいったん勝つと、もともとアメリカ自身が植民地だったから、他の植民地に悪さはしないかと思えば、逆に率先してほかの白人国家へ変なちょっかいを出す。そして支配していく。例えば中米のスペイン領メキシコとか、カリブ海のキューバとか、南アメリカの国々とかを。
 だから南アメリカの国々とアメリカの関係は、「近いからアメリカと仲が良い」と思っているとまったく逆です。南アメリカ諸国とアメリカ合衆国とは仲が悪い。

 それから、この後も、黒人は非支配階級である奴隷階級としてずっと支配され続けます。それが今のように白人と平等になったのはまだ50年も経ちません。このあと100年以上ずっと黒人は奴隷です。
 さらにアメリカにもともと住んでいた先住民、インディアンです。彼らもひどく迫害される。アメリカ映画の西部劇では、カッコイイ白人が西へ西へとやって来て、悪いインディアンをやっつける話になっていますが本当は逆です。もともとインディアンが住んでいたところに白人が勝手にやってきて、「おまえたちなんかどこかに行ってしまえ」と人が住まないようなところ、条件が悪いところに追い込んでいく話です。そして「ここから出るな」と言う。これが居留地です。今でもそうです。

 アメリカはまだ人口が少ない。産んで増やすのよりも、人口の増え方は移民の流入によって増えていきます。まずはヨーロッパからの移民です。どういう人が来るか。このあとドイツ人が来る。イタリア人も来る。イタリア人なんかはギャングになっていく。イタリア・マフィアというのがそれです。

 意外と目立たないけど、今はお金持ちになっている人たちがいます。ユダヤ人です。アメリカは世界最大のユダヤ人人口を抱えている国です。ユダヤ人とは、イスラエル国家をつくった人たちです。いまも爆弾が飛んでくる物騒なところです。
 ここが世界のヘソです。最大のユダヤ人人口を持っているのはアメリカのニューヨークです。彼らは今アメリカの金融界にものすごい力を持っている。つまり世界の金融業を牛耳っている。
 「ユダヤ人を見たことがない」という人がいますけど、ふつうに見ているはずです。今のトランプ大統領の娘の婿さん、クシュナーという人はユダヤ人です。見た目はアメリカ人と変わらない。
 ニューヨーク市民の20%がユダヤ人というから、100人のうち20人はユダヤ人です。だから町を歩けば、気づかないだけで多くのユダヤ人に会っているはずです。ニューヨークに行けば。映画関係者にもユダヤ人はいっぱいいます。

※ ユダヤ人の三千数百年におよぶ歴史の中で・・・・・・アメリカは、かつてのイスラーム帝国以上に、成長にとっての最適の場所でした。・・・・・・アメリカではディアスポラ共同体に対する干渉が弱く、棲み分けが可能だったのです。・・・・・・ヨーロッパと違いユダヤ教徒であるという理由で公職から排除されることはありませんでした。
1848年のウィン体制の崩壊後、ドイツ統一の失敗と自由主義的改革の挫折に失望した、勤勉なドイツ系のアシュケナージムが、新天地を求めて大挙してアメリカに移住しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P215)


 このあと、このアメリカが世界の覇権国家になっていきます。現在の日本はこの国の強い影響のもとにあります。この国との戦争に負けたからです。
続く。 

新「授業でいえない世界史」 31話の3 フランス革命

2019-08-25 09:39:47 | 新世界史12 18C後半~
【フランス革命】
旧制度】 このアメリカ独立戦争の影響を受けて、次に起こるのがフランス革命です。フランス革命といえば、昔はそれはそれは大事なものと言われていたのですが、最近「これあまり大事ではないのではないか」と思われるようになってきました。
 フランス革命が起こったあとフランスが世界のナンバーワン国家になるか。フランスのナポレオンは負ける。どこに負けるか。イギリスです。世界ナンバーワン国家になっていくのはフランスではなく、イギリスです。
 フランス革命にばかり気を取られていると、肝心のイギリスの動きがわからなくなりますから要注意です。フランスはイギリスに負けますが、勝ったイギリスの動きがフランスの影に隠れていて、分かりにくくなっています。大事なのは実はこのイギリスの動きです。

 ただフランス革命が好きな人もいて、教科書のページはけっこうフランス革命に割いてあります。 
 この頃のフランスは身分制です。一番偉い第一身分は聖職者つまりキリスト教のお坊さんです。第二身分が貴族。第三身分が平民です。平民とは農民や商工業者です。
 この平民の商工業者がお金を貯めだした。彼らお金持ちの商工業者のことをブルジョワジーといいます。ブルクというのは城塞都市です。都会の人、都会のお金持ちです。
 彼らが中心になって、「オレたちはお金を持っているのに、政治的な発言権がないのはおかしいじゃないか」と不満を持ちだす。そこにアメリカ革命の話が伝わってくる。「アメリカが勝ったぞ、あのイギリスに勝ったぞ、オレたちにもできるんじゃないか」と。



【革命勃発】 アメリカの独立戦争とフランス革命は10年の開きもない。ほぼ連続して起こります。独立戦争のときはフランスがアメリカを応援してアメリカが勝ちましたが、フランスはその戦費がかさんで財政難です。
 フランスは、アメリカ独立戦争にお金を使っていた。だからフランスは税金を取りたくて仕方がない。この時お金がなくて、新しい王様が困り果てた。王様はルイ16世です。フランスは、この王のお爺さんのルイ14世の時代から戦争ばかりです。そこでまたお金がないから増税しようとした。
 これにまず貴族が反発する。反発したのは商工業者ではなくて、まず課税された側の貴族です。

 それから、ルイ16世の嫁さんはマリー・アントワネットと言って、出身はオーストリアの王女様です。母親がマリア・テレジアといってオーストリアの女王です。前に出てきましたね。マリーアントワネットは、数年後にルイ16世といっしょに殺されます。


パリ旅行ガイド | エクスペディア



※ 1787年10月、ヴェルサイユに、後に「ブリトン人クラブ」となる一つの政治協会が作られ、ほとんどの革命家たちがそれに加わった。これはさらに迂曲、屈折を経て過激化し、強力な「ジャコバン・クラブ」となった。・・・・・・ここにはイギリス革命協会ともいうべきロンドンの「コンスティテューショナル・ソサイエティ」からの派遣員たちが混じっていた。彼らはとくにダントンとかロベスピエールといった革命指導者と関係を持ちつつ、かたわらで「断頭台が立てられるのを眺めていた」のであった。その背後からはピット(イギリス首相)が手綱を引いていた。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P128)


※ 1788年、イギリスが、オーストラリアを植民地化する。



【立憲君主制】 その増税に反発が高まって、王に対して「会議を開け」という。この会議を三部会といいます。身分制議会です。
 「王は議会を開け」と要求され、議会を開いた。そうすると、ブルジョワジーつまり商工業者が「この話しあいのやり方が気にくわない」といって別の会議をつくった。この会議が主導権を握ります。ここで議会の主導権が貴族から、ブルジョワジーに移るわけです。
 これを国民議会といいます。1789年です。名前は気にしなくていいです。平民中心の議会をつくったということです。それを「おまえは何を勝手に議会をつくっているか」と国が弾圧する。

【フランスのフリーメイソン】

※ 1789年、フランス革命が起きます。この革命の主体となったのはフリーメーソンでした。のちにフリーメーソン自身が「フランス革命は我々の革命だった」と認めています。・・・・・・ロスチャイルド家は、一族であるモーゼス・モカッタ銀行を通してフランス革命へ資金を提供しました。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P95)

※ フランス革命は、イギリスの宿敵を取り除くための、フリーメイソンの陰謀としてシュルバーン卿に率いられたイギリス諜報部によってイギリスから操作されて生じた。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P201)

※  ウィリアム・G・カーは、イルミナティのフランス革命工作の中心人物の1人として「ユダヤ人大金融、モーゼス・メンデルスゾーン」を挙げている。モーゼス・メンデルスゾーンは、フランスの有力貴族ミラボーを、借金漬けにすることによってイルミナティに参加させた。ミラボーを通して、フランスの大貴族オルレアン公をフランス革命謀略の仲間に引き入れた。
「こうしてモーゼス・メンデルスゾーン指揮下のユダヤ・イルミナティは大東社(グラントリアン、フランス・フリーメーソン)のロッジを隠れ蓑に、ヴァイスハウプトによって大陸のフリーメーソンに導入され、各ロッジの内部には秘密の革命委員会が組織されていた。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P116)」(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P326)

※ まず確認すべき点は、アメリカ革命の担い手がメイソン軍であったように、当時のフランスの軍隊もメイソンの手中にあったということである。・・・・・・ほとんどの部隊、つまり「王の軍隊」の多数の将校はメイソンであり、しかも彼らが属するロッジは、そこの棟梁であり高位メイソンである軍司令官たちに支配されていたのだ。・・・・・・古い「王の軍」は既に内部から崩壊していたのである。メイソンである多くの兵士は非メイソンの部隊長の命令には服従せず、むしろ群衆と連動し、群衆と共に、互いが「兄弟」であると叫び、新しい国民議会を準備した。群衆には金がばら撒かれ、三部会の開催を訴えるプラカードや新聞記事が、多数目につくようになった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P121)

※ 1789年7月11日、ラファイエットらが宣言書を提出した国民議会の四百名の議員のうち三百名以上はメイソンであった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P123)

※ 1789年8月4日、フランス議会に出席した655名の議員のうち、405名がフリーメーソンだった。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P205)

※ 1789年、ワシントンが、アメリカ初代大統領に就任する。


 弾圧されても「ごめんなさい」ではなくて、それをはね返します。「なぜ弾圧するのか、それなら実力行使だ」といって牢獄を襲う。この暴動は烏合の衆が起こしたものではなく、かなり組織化された行動です。これがバスチーユ牢獄襲撃です。犯罪者が入っている牢屋で、そこには政治犯も入っている。これを襲って鍵を開け、「はやく逃げろ」と彼らを解放する。


バスチーユ牢獄襲撃 Révolution Française - La Prise de la Bastille 1789



【フランス革命の扇動家】

※ 1782年、ヘッセン・カッセル伯爵の莫大な財産を巧みに手に入れたアムシェル・ロスチャイルドは、ヴァイスハウプトを呼び出した。・・・・・・アムシェルに会って話し合いを持ったあと、ヴァイスハウプトは自由に遣える金を何百万フランも所持してパリに現れ、少なくとも3万人の凶悪犯を「輸入」して、パリの貧民窟に待機させた。・・・・・・すべての準備が完了し、お膳立てが整えられると、1789年凶悪犯はパリの町に放たれた。(ロスチャイルドの陰謀 ジョン・コールマン 成甲書房  P90)

※ フランス革命を先導するために、ユダヤ人銀行家たちは、街の群衆をあおりたてる扇動家たちにカネを支払っていた。・・・・・・多くの学者は、フランス革命の背後の秘密勢力とはユダヤである、と名指しで指摘している。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P213)

※ フランス革命は・・・・・・自由、平等、博愛を掲げて市民が起こした革命ということになっています。しかし、その背後にはユダヤ勢力がいました。フリーメイソンのネットワークが関わったといわれていますが・・・・・・ユダヤ人がフリーメイソンを乗っ取ったとも言われています。フランス革命は、フリーメイソンの背後にいたユダヤ人が工作し、迫害されていたユダヤ人の解放を目指してやったものと考えられています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P96)


 そしてその流れのなかで、「今のフランス社会は間違っている。正しい社会をつくろう。それはこういう社会だ」という宣言をする。これが人権宣言です。1789年です。
 フランスの人権宣言にはこうあります。
「人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生きつづける」

 しかしここでは、「なぜなのか」というその理由が述べられていません。ここでは、アメリカの独立宣言にはまだ存在していた、「自由」・「平等」を支える根拠としての神の存在が消されています。しかしここでは神という言葉はどこにも見あたりません。フランス革命は神を否定する革命でもあるのです。
 さらに「自由」と「平等」という理念も、その根拠がまったく示されないまま、現代まで受け継がれています。あたかも自由と平等は自明のことのように語られていますが、その相互関係の対立については語られることはありません。


 人間が自由に行動すれば、十人十色でそこに個人差が発生しますから平等にはなりませんし、すべての人が平等になろうとすれば個人の自由は制限されます。にもかかわらず、自由と平等が同じもののように表現されています。人々は「自由じゃない」と反発し、同時に「平等じゃない」と憤るようになります。相互に矛盾するのですから、多くの対立が起こるようになります。そして多くの革命が発生します。自由と平等はそれを正当化する言葉になります。

 自由は「違うもの」を志向し、平等は「同じもの」を志向します。「違うもの」と「同じもの」が、同じであるはずはありません。自由の観点からは、職業選択の自由は正しいことですが、平等の観点からは、職業による所得差はいけないことです。このように自由と平等は対立するのです。自由と平等は違った概念なのです。違ったものを、同じものとして飲み込むと、やがてその社会は矛盾に満ちたものになり、消化不良を起こします。みんなが自由であるからといって、みんなが平等にはなりません。むしろ事実は逆なのです。しかしそれを平等になれるとすることで、自由が無条件に賛美されていくことになります。

※ 1789年10月5日には五千人の女たちがヴェルサイユ宮殿の前に集結したが、ラファイエットの率いる市民軍は彼女らを抑えるどころか、逆に彼女らと合流してしまった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P123)

※ 1790年、イギリスがインドで、第3次マイソール戦争を起こす。


 この革命政府はフランスの教会の土地をすべて没収し、その土地を担保に、1789年からアシニア紙幣を発行します。

※ アシニア紙幣・・・・・・フランス革命期の紙幣。没収した教会財産を担保として1789年より発行。はじめは5%の利付きの国家再建だったが、1790年から不換紙幣となった。革命戦争遂行の財政的必要から乱発され、激しいインフレを招いた。(角川世界史辞典 角川書店)


 2年後の1791年になると・・・・・・ルイ16世は気が弱かった・・・・・・王は国を捨て、変装して、嫁さんの実家のオーストリアに逃げようとする。国民がそれに気づいて追いかけていって王を捕まえる。
 これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。王の信用はガタ落ちです。国を捨てるような王様には誰も従いません。

 もう誰もルイ16世のいうことなんか信用しない。「それなら王の決定よりもっと上の憲法をつくろう。アメリカがやったように」と。これが1791年憲法です。憲法は王よりも上だから、王はこの憲法を守らなければならない。これで政治体制が変わった。一番偉いのが王様じゃなくなったんです。
  ただ王様がこの憲法を守っている限りは、王は王として認めてやるんです。「憲法を守れば」という条件をつけて王様を認めてやるんだから、これを立憲君主制といいます。
 パターンからいうと、今の日本は天皇制ですから立憲君主制です。しかしフランスはこのあと、これを維持できない。王を殺して、社会が混乱していきます。

 「自由平等、博愛」をスローガンに掲げるフランス革命は種々の社会変革行ったが、それはまた差別に苦しんでいたユダヤ人にも大きな影響を与えた。1790年、ボルドーとバヨンヌのユダヤ人が完全な権利を獲得したのをきっかけに、1791年9月の国民議会でついにフランスの全ユダヤ人4万人に完全な市民権が認められ、ユダヤ人たちはこの決定を熱狂的に歓迎した。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P143)

 1791年、アメリカ第一銀行設立・・・・・・初代頭取のトーマス・ウィリングはアメリカにおけるベアリング家(イギリス)の金融代理人(宋鴻兵2 P88)



王権停止 1791年、この憲法に従って選挙を行う。国会議員を選挙で選ぶ。
 この国会を立法議会といいます。この時には議会の中にも、いろいろな派閥やグループがあって、そのなかで穏健派が中心になる。これをジロンド派という。
 このような「王よりも憲法を優先する」という政治システムに対して、王の嫁さんマリー・アントワネットの実家のオーストリアがまず反発する。
 「何ということだ、自分の娘の嫁ぎ先が大変なことになっている、このままでは娘の命も危ない」・・・・・・実際このあと殺されていきます・・・・・・それで戦争開始です。1792年、オーストリアとフランスとの戦争が始まります。

 1792年、イギリスが自由貿易を求めて、初めてマカートニーを全権とする使節団を中国に派遣する。


 このあとの戦争の中心になるのは・・・・・・きっかけはオーストリアでも・・・・・・やっぱりイギリスです。イギリス中心にフランス包囲網が固まっていきます。
 1792年、ここに来て「フランスの王様の命令はもう聞かなくてよい、王は国民に命令できない」と国民が決める。王権停止です。もうここまで来ると、王が命を取られるまでにあとちょっとです。



ルイ16世処刑 1792年、また選挙があって新しい国会議員が選ばれます。これ国民公会という。選挙して、またグループが変わったのです。ここでは急進派が出てきます。過激な考え方です。身分的には下層市民です。これをジャコバン派という。

※ ジャコバン党は1人残らずフリーメーソンだった。(カナンの呪い ユースタス・マリンズ 成甲書房 P210)


 「なんだ、王は何の役にも立たないじゃないか。税金ばかり使いやがって、殺ってしまおう」。1793年、ルイ16世処刑です。それでひと思いにやる処刑の道具を発明した。上から首をスパーンとやるギロチンです。王が殺された。嫁さんのマリー・アントワネットまでも殺された。
 マリー・アントワネットの言葉で、「パリ市民は貧困に苦しんでパンも食えない」と聞いたとき、「パンが食べられなかったら、ケーキを食べたらいいじゃないの」と言ったという。これはたぶん捏造でしょうけど、そういう王に対する悪意が充満する雰囲気が醸し出され、王は夫婦とも殺されていきます。公開処刑です。パリ市民は大歓声を上げて喜びます。

※ 君主国を倒すことは、同時に、君主の宗教を否定することを意味します。フランス革命はブルボン王朝を倒したと同時に、ブルボン王朝の宗教のキリスト教(カソリック)を否定して無神論国家にしようとしました。理性の神を崇めるといった儀式まで行われるほどでした。またユダヤ人解放を行いました。ロシア革命でもロマノフ王朝の宗教のロシア正教を否定して、迫害からユダヤ人を解放しています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P97)


 これでフランスは王がいない国になった。こういうのを共和制という。これで王がいない国は2つになった。アメリカとフランスです。ここで王が殺された。

 ここでイギリスが出てくる。そしてイギリス首相ピットの提唱により、オーストリアやプロシアなどと組んで、フランスに対抗していく。「フランスなんか潰してしまおう。オレたちが大がかりで同盟を組めばできる」と。1793年に第1回対仏大同盟が、イギリス首相ピットの提唱で結成されます。
 このあとの戦争の中心は、イギリスフランスの戦争です。王妃マリーアントワネットの実家のオーストリアが中心ではありません。結局これは、1756年からの七年戦争でのアメリカ大陸の奪い合いと変わらない構図です。

 先のことをいうと、この戦いにもイギリスが勝つ。イギリスは、アメリカ大陸でもフランスに勝ち、ヨーロッパ大陸でもフランスに勝っていく。
 ナポレオンが有名すぎるから、何となくフランスが世界の中心のように見えますが実はそうではない。
 ポイントはイギリスです。そのイギリスの覇権に比べれば、フランス自体は大したことはない。フランス革命の裏で起こっているこういうことが大事です。イギリスはフランスと戦う一方で、同時に中国や東南アジアに乗り込んで行っています。

 フランスはイギリスとの戦争に負けます。フランスは革命と同時にイギリスと戦っていきます。革命と同時に貴族とも戦っていくし、同時に外国とも戦っていく。これがフランス革命です。
 だから世界初の徴兵制をとります。兵隊には、昔は貴族または騎士階級などの身分が上の人たちに決まっていた。日本だったら武士に決まっていた。それを農民から兵を取る。これが徴兵制です。国民であれば兵隊の義務があることになる。これはここで発案された考え方です。日本も戦前は徴兵制でした。

 君たちのじいちゃんか曾じいちゃんたちは兵隊に取られている。私の父も18歳で高校卒業して即刻入隊です。徴兵制の最後の世代、昭和20年4月に赤紙が来た。5ヶ月後に原爆が落ちて終戦です。
 あと1年戦争が長引いていたら、間違いなく父は死んでいた。私も生まれていない。南方に行く予定があったから。南方に行ったら間違いなく死んでる。その前に敗戦になったから、どうにか生き残って帰ってきた。君たちのじいちゃんや曾じいちゃんの世代にはそういう人がいっぱいいる。その徴兵制は、ここから始まる。

 話を戻すと、「戦争だ、緊急事態だ、つべこべ言うな」という雰囲気です。自由を求めたフランス革命が独裁政治になっていく。これがジャコバン派独裁です。怖いのは下級市民が思い込みで権力を握ったときです。なりふり構わずやっていくんです。その中心人物がロベスピエールです。



【恐怖政治】 しかしいろんな意見があってなかなかまとまらない。だから反対する者は次々にギロチンで殺していく。だから恐怖政治といわれる。フランス革命は恐怖政治を生みます。
 そうなると反対派は裏で政権工作をやる。政権を変える。そうするとあの独裁者ロベスピエールも、もう殺されるときには一瞬です。1794年ロベスピエールは、反対派に捕まえられて即座に処刑されていく。そして新しく95年憲法をつくる。

 こういう政権交代があるごとに憲法がコロコロ変わる。これも考えものです。逆に日本のように、70年間1文字1句変わっていない憲法も、それはそれで問題です。一度決めた憲法が絶対大事じゃなくて、「70年経てば世の中変わるから、それに合わせて憲法も変わる」というのは正しいと思う。どう変えるか、話がまとまらないまま70年間です。
 別に「戦争しろ」と言ってるつもりはありません。ただ日本の憲法は70年間変わっていないという意味では珍しいです。しかし今変わると、間違いなく戦争やるでしょうね。


 
【ナポレオンの登場】
【総裁政府】 体制が変わって、1795年総裁政府になる。グループ政治です。複数のリーダーでやる。5人の総裁でやるから総裁政府です。
 ここで疑問が出てくる。「今まで続いてきたこのフランス革命は正しかったのか、これはおかしんじゃないか」という話が出てくる。でもどうしていいかわからない。わからないと世の中が不安定になってくる。不安定になると、国民の意向は、政治家は裏切りばかりで信用できない。日本でも起こったことですが、「軍人さんだな、やっぱり」となる。「政治家よりも軍人さんの方が義理人情に厚くて信用できる」、それで国民が軍に期待していく。

 こういう時に、軍の身分は低いけど、バリバリと手柄を立てて頭角を現してきたのがナポレオンです。ナポレオン・ボナパルトという。コルシカ島出身の田舎貴族なんですけど。

【ナポレオンとロスチャイルド】

 ナポレオンは、タレーランが彼に出会ってロスチャイルド一族に紹介した当時は極貧にあえいでいた。・・・・・・1786年、ナポレオンは金のない中尉、つまり貧乏下級士官で、支払いをまかなおうと、あちこち訪ね歩いて雇い主を求めていた。・・・・・・コルシカ島出身のこの男の情熱はアムシェル・ロスチャイルドに感銘を与えた。彼は身を立てられるだけの十分な資金をナポレオンに提供した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P95)

 1796年、ナポレオンはジョセフィーヌと結婚した。これはポール・ドゥ・バラス伯(ナポレオンをイタリア遠征軍総司令官に任命した人物)を介してロスチャイルド一族によって仕組まれた結婚である。ジョセフィーヌはバラス伯の愛人だった。・・・・・・ジョセフィーヌはバラスの役に立とうと、夫ナポレオンから聞かされた秘密情報を流し、それがそのままロスチャイルド家に伝えられていた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P98)

 1795年、イギリス東インド会社が、マラッカを占領する。

 1796年、ナポレオンのイタリア遠征。

 1796年、イギリスが、オランダからスリランカを奪う。

 1796年、中国の清が、アヘンの輸入を禁止する。


 1797年、スコットランドのロビソン教授が「ヨーロッパのすべての宗教と政治に敵対する陰謀の証拠」を著しベストセラーになる。

 1797年、フランスのバリュエル神父が「ジャコバン主義の歴史に関する覚書」を著しベストセラーになる。


 彼はどんな手柄を立てていたか。敵の中心はイギリスです。イギリスはどこを一番大事にしていたか。インド支配なんです。イギリスからインドに行くときに、エジプトを通過しなければならない。
 まだスエズ運河はないですが、イギリスを通さないようにエジプトをフランスの支配下に置く。イギリスを通せんぼするためです。
 これが1798年のナポレオンのエジプト遠征です。これに成功して、ナポレオンは熱狂的な国民の喝采を受ける。

 ついでにエジプトから、ピラミッドの一部とか古代遺跡のパーツをいっぱい持ってくる。本当はエジプトのものなんだけど、どさくさの中でフランスに持ち帰る。だからエジプトの古代文明遺物などは今どこにあるか。エジプトにはない。パリのルーブル美術館にある。フランスにあるんです。
 ルーブル美術館の美術品の多くは、この時にごっそり持ち帰ってきたものです。エジプトは「そろそろ返せ」と言いはじめている。「古代エジプトの秘宝が、なぜパリのルーブル美術館にあるのか、これはオレたちのものだ」と。

 1796年、フランスが、アシニア紙幣の廃止を決定する。(不換紙幣を発行させない)

 ナポレオンは紙幣を好まず、彼の治世ではアシニア紙幣後の新紙幣は創られなかった

 1797~1821年、イギリスが、兌換紙幣を一時停止する。(不換紙幣を発行させる)(宋鴻兵)



【執政政府】 総裁政府をナポレオンはクーデタで倒します。ナポレオンは「総裁は5人もいらない、オレがそのリーダーになる。オレが一番だ」という。1799年です。これを統領政府といいますが、最近言い方が変わって執政政府という。

 1799年、アムシェル・ロスチャイルドの働きで、ナポレオンが大量の得票差で終身第一執政の座に指名された。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P97)


 1799年、イギリスがインドで、第4次マイソール戦争を起こす。

 1799~1815年の16年間にベアリング家は、イギリス国債引受主幹事を12回も担当し、ロンドン金融界の頂点に立つ。(宋鴻兵)



 5人の総裁が1人の統領に変わった。そういう意味では統領政府のほうが分かりやすいような気がするけどね。
 最近、偉い学者さんたちがよく歴史用語を変えます。日本史でも、江戸時代の徳川親戚筋を御三家といって、芸能界でもふつうに御三家といっていたのを、十数年前からある学者さんが「御をつけたらいけない」と言ったら教科書が変わってしまって、今では「三家」という。何かスカスカする名前になった。ずっと御三家だったのに今は三家という。

 ナポレオンが第一統領になる。ここからナポレオンの政治になっていく。この始まりが1799年です。フランス革命は1789年から起こって、10年後にナポレオンが国家の中心になった。

これで終わります。ではまた。



新「授業でいえない世界史」 32話の1 19C前半 ナポレオンの敗北

2019-08-25 09:39:02 | 新世界史12 18C後半~
【執政政府】 1799年です。フランス革命の続きです。フランス革命は、最終的にロベスピエールの恐怖政治となりギロチンの恐怖のなかで、うまくいかなかった。政治家は信頼を失って、代わりに国民が求めたのは軍人だった。それが田舎軍人、コルシカ島出身のナポレオン・ボナパルトです。

※ ナポレオンがメイソンであったというのは、メイソン側および反メイソン側の通説である。・・・・・・ナポレオンの父カルロ・ボナパルトがメイソンとして、またコルシカのにわか貴族として、当地の知事でメイソンのマルボエフとは親しい間柄で、ナポレオンは軍人としての良い教育を受けることができた。・・・・・・イギリス国王が王冠をかぶったメイソンであるように、ナポレオンが皇帝であったとしても、実質的にはメイソン的であることが肝心なのである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P131)


 5人で総裁政府をつくって、そのあと「5人も要らないからオレが統領になってやる」というのが、この執政政府です。別名、統領政府です。ナポレオン自ら第一統領になっていく。
 フランス革命を短くとらえれば、ここで一旦革命は終わります。

 ここで戦いは国内の戦いから、国外での戦いに変わっていきます。反対派の中心はイギリスです。このあと経済的に発展していくのもイギリスです。世界帝国になっていくのも、大英帝国になっていくのもイギリスです。フランスばかりに気を取られずに、イギリスの動きを忘れないようにしてください。
 フランス革命は実はカトリックの総本山、ローマのカトリック教会とも対立していました。キリスト教否定を唱えていたからです。それがここで和約する。1801年のコンコルダート・・・・・・宗教協約・・・・・・です。仲直りするということです。

 これからがポレオンの絶頂期ですが、1802年にそのイギリスと和約を結ぶ。ここで第2回対仏大同盟は崩壊します。これをアミアンの和約といいます。第2回対仏大同盟は「フランスと戦おう」という大同盟です。ここで本当に対外戦争が終わったのか。対仏大同盟は1回、2回、3回、4回も結成されます。次にまた間を置いて3回目が結成されますが、その時の中心もイギリスです。

  このフランスとイギリスの戦いでの両者の違いは、フランスには慢性的にお金がありません。フランスは、イギリスのように紙でお金を刷るという手品のようなことをしません。だからお金がなかったら何かを売ってお金をつくらないといけない。「何の価値もない紙に1万円と書いて印刷すればいい」というイギリス流のやり方はしないんですよ。
 イギリスはイングランド銀行という中央銀行をもっている。だからフランスは形だけはマネして1800年にフランス銀行を設立する。でも3年後、やっぱり戦っている時にお金がない。

※ ナポレオンは紙幣を好まず、彼の治世ではアシニア紙幣後の新紙幣は創られなかった。

※ ナポレオンがとくに熱心だったのは、祖国と国民を債務および銀行家の支配から解放することだった。・・・・・・
 ナポレオンの目的は、ルイ16世時代の政府を困らせたような権力を金融界から奪うことだった。政府が銀行家のマネーに依存すれば、状況を支配するのは政府の指導者ではなくなる、とナポレオンは言い切った。なぜならば「与える手は受け取る手よりも上位にある」からだ。・・・・・・
 銀行家たちに対するナポレオンの最初の一撃は、フランス銀行創設して、自分が頭取に就任したことだった。ナポレオンはこの銀行すら信用せず、政府の資金は一度も託されなかった。だが金融業者がいちばん懸念したのは、ナポレオンが借り入れを拒否したことだ。・・・・・・
 ナポレオンは200万ポンドのマネーを手にすることはできない。フランス国庫は空っぽで、金属貨幣の備蓄は底をついている。この難問を彼がどう解くかと、ロンドンは興味津々で見守っていた。
 ナポレオンは不動産を少々売却して、この難問を解決した。頭のおかしいアメリカ人がルイジアナと呼ばれる広大な沼地と引き換えに300万ポンドを払ってくれたのだ。(マネーを生みだす怪物 G・ エドワード・グリフィン 草思社 P267)

※ 19世紀前半のフランス金融界において、フランス銀行は中央銀行としての中心的な役割を果たせずに、その影響力はロスチャイルド銀行をはじめとするプライベート銀行より劣っていた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P133)

※ ナポレオンは国債の発行にも踏み切り、政権への積極投資を呼び込んで、軍備を拡張し、インフラの整備へとつなげていきます。またナポレオンは中央銀行にあたるフランス銀行を設立しました。フランス銀行は規律ある金融政策、通貨政策を厳しく管理し、インフレを抑え込みました。


 だからお金になるものを売らないといけない。本国フランスを守るためには、背に腹は代えられない。何を売るか。フランスはアメリカに植民地を持っていました。アメリカは独立したあと、西に領土的野心を持っている。買い手がつけば売ろうとフランスは思う。
 これが1803年のルイジアナ売却です。アメリカの中南部です。今でもルイジアナ州というのがありますが、この時のルイジアナはその5~6倍でかい地域です。これをアメリカに売る。資金不足だからです。この「お金がない」というのがイギリスとの違いですね。これがフランスの敗北の原因です。

※ 1803年、(ロスチャイルド家の)三男のネイサンは本格的にロンドンに移住し、翌年にはイギリス国籍を取得してロンドン・ロスチャイルド銀行を創設します。・・・・・・ネイサンはイギリス政府に毎年1100万ポンドを貸し付けたほか、イギリスが対仏大同盟の加盟国に貸し付けた約1500万ポンドの軍費を専用馬車で各地に送り届けました。ネイサンは財政面で反ナポレオン戦線を支えたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P165)

※ (イギリス財政が悪化して)経済の先行きに不安を募らせた(イギリス)国民は、手持ちの紙幣を金貨に換えようと競ってイングランド銀行に押しかけました。・・・・・・そこで首相小ピット(任 1783~1801、1804~1806)は窮余の策としてポンド紙幣と金貨の兌換の停止を宣言することで、イングランド銀行を経営危機から救います。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P173)


 それに対してイギリスは、さっき言ったように紙のお金を印刷する。そのためにまず国債という国の借用書を発行します。そしてそれを担保にしてイングランド銀行からお金を借りる。中央銀行は紙幣だったらいくらでも印刷できる。今の銀行制度はこれです。
 今の日本も同じようなことをやってます。今のアベノミクスも基本的にはこれと同じで、お金を刷っているだけです。

 またナポレオンは法律の整備もやります。1804年のナポレオン法典は後世の模範となっていく。これを制定します。

※ 1803年、イギリスが第2次マラータ戦争で、インドのデリーを占領する。



【第一帝政】  ナポレオンは第一統領には満足せずに、「オレは皇帝になるぞ」と宣言します。その成り方が今までと違う。選挙をするんです。国民投票です。「オレは皇帝になりたいんだけど、いいかな」と国民に問う。それで国民が「それでいい」というんです。それで皇帝になっていく。そこでナポレオン1世と称す。1804年です。
 「ナポレオンの戴冠式」というダビッドの有名な絵はこの時の様子です。ローマ教皇ピウス7世を招いて戴冠を受けるという伝統的な形の上に、その王冠をナポレオン自ら手に取っている様子が描かれています。
 フランスはカトリックだからこういうことができるのです。でもイギリスはイギリス国教会を別に作っているからローマ教皇を招くことはできません。

※ ナポレオンの戴冠式にローマ法王が招かれたことに、ロスチャイルドは少なからず驚かされた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P99)

※ マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドによってナポレオンに割り当てられた任務は、王政の破壊カトリックの破壊であった。これを遂行している限り、ナポレオンには幸運がついて回った。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P97)

※ ロスチャイルドには5人の娘と5人の息子がいました。この息子たちが成長し、ヨーロッパの主要な都市に支店を開いていきます。
 1804年、三男のネイサンがイギリスのロンドンに行き、のちに金融王となります。
 1817年、五男のジェームズがフランスのパリへ行きました。彼は鉄道と呼ばれ、この鉄道を足がかりにフランスの産業を支配していきます。
 1820年、次男のサロモンがオーストリアのウィーンへ。
 1821年、四男のカールがイタリアのナポリへ。
 そして長男のアムシェル・マイヤーは、フランクフルトの本店を継ぐことになります。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P96)

※ 証券市場が急速に成長したのは、なんといっても、ナポレオン戦争中から戦後にかけてであろう。・・・・・・1800年から1850年までの証券市場の拡大は、とりもなおさず、ロスチャイルド家の伸張であり、同時にそれに伴う様々な問題である。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P163)


 ただこのときナポレオンには息子がいなかったから、このあとナポレオン王朝にはならなかった。彼は息子がいないのが悩みで、嫁さんを変えたりする。
 ここで皇帝の政治になったから、この政治を第一帝政という。約10年間続きます。これが終わる1814年が、ナポレオンが敗退する年です。

 ナポレオンが皇帝になると、「これはいかん」とやはりイギリス中心にフランスを潰そうという動きになる。そこで翌年の1805年に第3回対仏大同盟を結成する。フランスとの戦争再開です。これもイギリス中心です。注目はイギリス、目の付けどころはイギリスにしていたほうがいい。

※ 1805年、第3回対仏大同盟・・・・・・ロスチャイルドによって「反ナポレオン連盟」が組織され、資金が注ぎ込まれた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P99)



【ナポレオンの進撃】 ナポレオンが快進撃するのはここからです。一時ヨーロッパの大半を支配下に置く。しかしお金が続かない。だから、さっき言ったように、紙のお金というマジックを使うイギリスに負けていく。 
 そのころのフランスの領地は、今のフランスよりちょっと大きい。ローマ教皇とも友達になったから、そこまでフランスです。ここからどれだけ拡大するか、ラインで囲んでください。

▼ナポレオン支配下のヨーロッパ



 ドイツとイタリアも、すべてナポレオンのものになる。ドイツとイタリアは、この時フランスの従属国になるということです。ドイツはこのあと、いくつかの国に分裂しますが、北の方にあるのがプロイセンです。このプロイセンもナポレオンに負けた。

 この後の主な戦場を2つ言います。
 まずトラファルガーの海戦。もう一つがアウステルリッツの戦いです。
 こういったところでナポレオンは次々に敵を破っていく。敵の中心はイギリスですけど、イギリスはドーヴァー海峡挟んで陸続きではないから攻めにくい。
 茶色と黄色の色がついているところは、ほぼナポレオンの支配下に入った地域です。

 1805年トラファルガーの海戦でナポレオンがイギリスの海軍に勝つ。地図を見てください。スペインの先端の海域です。
 ドイツとの戦いは、同じく1805年アウステルリッツの戦いです。ウィーンの近くです。
 お金がある時は、国民皆兵制で徴兵制を敷いているフランスは強い。ドイツを支配下に置きます。でも最終的にはお金が続かなくなります。

※ ナポレオンがドイツに進撃した時、ヘッセン選定侯は、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドにその金を隠すように頼んだ。ロスチャイルドは、その金を第三国に高利で貸し付け、その後ヘッセン選定侯に利子をつけて返した。ロスチャイルドはヘッセン選帝侯の宮廷銀行家として国際金融を専門にしはじめた。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P182)


 もっと東のドイツ。ドイツにはかろうじて、形だけの神聖ローマ帝国があった。ナポレオンは完全にこの息の根を止める。これが翌年の1806年です。これで神聖ローマ帝国は本当に滅亡です。代わりにナポレオンを盟主とするライン同盟をつくりますが、ドイツの実態はバラバラになります。

※ 彼(ナポレオン)は、さらにローマ教皇の影響力を弱めようとした。これこそフリーメイソンリーの目標であり、また革命の原理でもあった。こうして彼はフリーメイソンリーと協力しつつ、革命を続行するのである。だがローマ教皇に対抗するためには、ヨーロッパの教権主義に打撃を与えるばかりでなく、その後楯であるドイツ民族神聖ローマ帝国をも消滅させなければならない。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P136)


 だからまだドイツという国はないです。ドイツ帝国ができるのは、日本の明治維新より2年後の1870年です。ではその神聖ローマ帝国の皇帝を出していた家は何というか。これがオーストリア王家です。名前がハプスブルク家です。このあとはオーストリア帝国の皇帝となります。

 ただこのあとドイツをつくっていくのは、オーストリアではなく、ライバルであるドイツ北方のプロイセンです。約50年後にドイツを統一していくのは、このプロイセンです。昔の王家のハプスブルク家を押しのけて、プロイセンが今のドイツをつくってきます。

 「敵の中心がイギリスだ」ということは、ナポレオンも十分知っています。ナポレオンは、イギリスの息の根さえ止めれば・・・・・・ドイツはまだバラバラだし・・・・・・「絶対オレが上に立てる」と踏んでる。しかしイギリスは海の向こうだからなかなか攻められない。そこでナポレオンは、イギリスに対して経済制裁をやる。これが1806年の大陸封鎖令です。
 これはちょっと勘違いが起こりやすい。大陸のフランスを封鎖するように聞こえますが、そうではなくて逆です。大陸から封鎖されるのはイギリスです。「イギリスに船で物資を運んだらダメだ」ということです。イギリスを孤立させるためのものです。もし日本でこれやられたら・・・・・・食料自給率わずか30%だから・・・・・・10人中8人は死ぬでしょう。第二次大戦中にされましたけど。
 しかし貿易はお互いの利益のためだから、これを破る国が出てくる。それがあとでいうロシアです。

※ 1807年、イギリスが奴隷貿易を廃止する。

※ 1808年、イギリス船が、日本の長崎でフェートン号事件を起こす。


 1808年、イギリスが中国のマカオを攻撃する。

 1808年、ドイツのベートーベンが「運命」を発表する。

 1810年、ナポレオンがジョセフィーヌと離婚し、オーストリア王女のマリア・ルイーズと再婚するに至って、さすがのロスチャイルド一族も動揺を隠せず、腹を立てた。以後、王国を破壊し、カトリック教会を潰す機会がなくなっていくのを恐れたからだ。・・・・・・一族のかつての英雄(ナポレオン)を葬り去ることに力を貸していたのはジェームズ・ロスチャイルド(パリ家)だった。・・・・・・「反ナポレオン連盟」が組織され、資金が注ぎ込まれた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P99) 


 自らを皇帝にし、血縁者をヨーロッパ中の王にしたナポレオンにとって、フリーメイソンリーは最良の情報源であり、手先以上のものではなかった。彼は側近を全員メイソンにさせ、自分の目や手足として使った。しかしメイソンはこの反動的皇帝にこれからはっきり背を向け始めるのである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P137)
 
 1811年、アメリカ第一銀行が廃止される。

 1811年、イギリスが、ジャワを占領する。

 1811年3月、ジェームズ・ロスチャイルドがフランクフルトからパリに入る。(コールマン)


 1810年にナポレオンがスペインを占領する。ピレネー山脈を超えてお隣のスペインもフランスの従属国になる。忘れていけないのは、スペインは南アメリカに大植民地を持っていた。スペインは、300年前に南アメリカを支配する大植民地帝国だった。だからこの時も南アメリカはほぼすべてスペイン領なんです。ブラジル以外は、全部スペインの植民地なんです。メキシコも当然スペイン領です。

 そのスペインがフランスとの戦争に負けたということは、200~300年前から南北アメリカに住んでるスペイン人の子孫は「オレたちも独立しよう」と独立運動が起こっていく。これが海の向こうの南米大陸で起こることです。本国がやられたら「オレたちも独立しようぜ」ということになっていきます。こういう連鎖反応が起こっていく。

 ネーサン・ロスチャイルドが英西戦争(イギリスとスペイン戦争)中の1808年、スペイン侵攻のイギリス軍費用をロンドンから送金してくれるよう依頼されこれを断行したことは、とてつもない事業と見なされた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P164)



【モスクワ遠征】 しかしイギリスを孤立させるための大陸封鎖令を、ロシアが破ります。命令を破ったら、「なぜ俺のいうことをきかないか」と懲らしめないといけない。ナポレオンはロシアを懲らしめに行きます。1812年です。あの寒いモスクワに。ヨーロッパ人から見たら、気が遠くなるほど寒くて危険です。その危険を犯して勝負に出る。これがナポレオンのモスクワ遠征です。

 ちなみに、あとで言いますが、この1812年にはイギリスとアメリカ間で米英戦争が起こります。イギリスはナポレオンとの戦いの一方でアメリカとも戦っています。というよりイギリスが一番重要視しているのはこのアメリカなのです。この戦いに敗れたアメリカは、独立後もイギリスの圧力を強く受けます。

 モスクワ遠征の結論はフランスが負けます。ロシアも、戦さではフランスに勝てないことを知っています。ただ冬将軍がくれば別です。冬将軍とは寒波です。だからいかにも負けそうに見せてフランス軍を釘付けにする。フランス軍をモスクワ周辺にとどまらせて、冬将軍つまり寒波が来るまで釘付けにしておく。そこに冬将軍が来たら、後は黙っていてもフランス兵は死んでいく。フランスはこれにやられます。

 これをきっかけに今までナポレオンの天下だったのが、ヨーロッパ全体で「なんだあのナポレオンは」と反ナポレオンの機運が盛り上がる。ドイツ人も反ナポレオン機運で盛り上がる。ドイツとフランスは今でも仲が悪い。EU(ヨーロッパ連合)で手を組んだのは第2次大戦後のことで、それまでは基本的にずっと仲が悪い。
 ドイツ人は「ナポレオンはオレたちの国を征服して、ドイツをバラバラにした憎い奴だ」と思う。それで「ナポレオンに立ち向かうためにみんなで協力しようじゃないか」というのが1813年です。反ナポレオン戦争です。諸国民戦争またはライプツィヒの戦いといいます。それでナポレオンは負ける。これで一度ナポレオンの治世は終わる。

※ 1813年、イギリス東インド会社が、茶以外のインド貿易独占権を廃止する。


 それで皇帝の位を奪われて、あとは国外追放です。しかも戻ってこられないような島流し、そこをエルバ島という。これは地中海にあります。しかしナポレオンは島流しされたあと、こっそりとその島を抜け出します。密偵を放ちながら「オレはまた王に返り咲くぞ」というと、結構仲間が集まって、また皇帝に返り咲きます。しかしそんなに長くは続かなかったから、これをナポレオンの百日天下という。

 その百日天下が続くかどうかの天下分け目の戦いが・・・・・・日本でいえば関ヶ原の戦いが・・・・・・1815年ワーテルローの戦いです。地図を見てください。今のベルギーです。全部ワーテルローとか、アウステルリッツとか、トラファルガーとかは地名です。反ナポレオン軍の中心はイギリスです。
 そこでナポレオンは負ける。これでほんとに一巻の終わりです。だからこのことは、負けたフランス側から記述するよりも、勝ったイギリス側から記述すべきなのです。しかし、そのイギリスの記述は非常に乏しいです。

※ ナポレオンの敗退は、長期にわたるイギリスとフランスの抗争をイギリスの勝利で終結させた。(高校教科書 新詳世界史B 帝国書院 P192)

※ フランス革命自体、その少し前に起きたアメリカの独立とともに、イギリスの資本家が国際投資環境の実験的な整備のために誘発したのではないかとも思える。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P79)

※ イギリスが均衡戦略によって欧州の覇権国になれたことは、諜報と金融の国際的な「ネットワーク」を使って、イギリスが欧州大陸諸国の政治を外から操作できたことを意味する。・・・・・・
 18世紀後半~19世紀にかけての欧州では、産業革命がイギリスから全欧に広がり、農民が都市労働者に、農奴が市民に転換し、王侯貴族と教会の支配が崩れ、民主主義資本家の影響力のある国民国家が作られた。この変化が自然に起きたはずはなく、どのような国家体制が効率的か、多くの実験的な発案や実践が行われた。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P84)

※ イギリスのずば抜けた外交諜報力の源泉は、どこにあったのか。・・・・・・この問題に対する私なりの答えは「ユダヤ・ネットワーク」である。・・・・・・
 ユダヤ・ネットワークといっても、関係していたのはユダヤ人の中のごくわずかの金融貿易業者だけだ。当時のユダヤ人の9割以上は、東欧、ロシアで主に農民(農奴)をしていた「アシュケナジー」(ドイツ系)と呼ばれる人々で、彼らはネットワークと関係なかった。(9世紀のハザール汗国で改宗した人々)。商業ネットワークに入っていたのは、環地中海貿易圏の北アフリカ、南欧から西欧に広がっていた「スファラディ」(スペイン系)と呼ばれる、総数が数万人程度の少数派のユダヤ人で、彼らは西欧の多くの国々て弾圧され、各都市の閉鎖居住区(ゲットー)に住みつつも、金融や貿易、財政運営の技能をかわれ、宮廷ユダヤ人として、各国政府にこっそり重用されていた。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P82)

※ ワーテルローの戦いでのナポレオンの敗北は、スルト元帥の裏切りによる。スルトはビスマルクの母の愛人であった。スルトはその後、フランスの要職に就く。スルトはビスマルクの実の父親だと噂されている。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P102)


 ナポレオンは、今度は2度と抜け出せないような大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナ島に島流しです。そして10数年後にそこで死にます。しかしこの死に方もいろんな噂がある。死んだ骨の中を現代科学で調べてみたらヒ素が出てきた。ということは毒殺です。そういう噂もある。

 こういう噂は、最近パレスチナのPLOのアラファト議長が2004年に死んで、何年かあとに骨を掘り起こしてみたら、やっぱりヒ素が出てきたといいます。「これは病死じゃなくて、殺られたんじゃないか」という記事が新聞に出るぐらいの噂です。人体からヒ素が出てきた。こういうことは単独犯ではできないのです。大がかりな組織の存在をうかがわせます。

 この1815年のワーテルローの戦いの時に、イギリス・ロスチャイルド家のネイサン・ロスチャイルドが一芝居を打って、イギリス国債の大半を買い占めます。
 まずイギリスが負けたかのように見せかけるため、まず手持ちのイギリス国債を売り、周りがイギリスが負けたと勘違いして同調して売りが売りを呼び国債の価格が下がったところで、今度は一気にイギリス国債を買い占めます。そこでイギリス勝利のニュースが伝わるとイギリス国債は一気に跳ね上がります。そのぼろ儲けした金で彼はイングランド銀行の株を買い、大株主になります。このことによって、イギリス金融界の中心にロスチャイルドがドッカと座るようになります。

※ ネイサン(ロスチャイルド)は八百長ともいうべき取引で、一挙に資産を2500倍に膨らませたといわれています。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P167)


 約50年後、スエズ運河を買収する際に、資金源に困った首相ディズレーリが頼ったのも、このイギリスのロスチャイルド家です。


【歴史ミステリー】世界を裏で支配する名家・ロスチャイルド家!



※ 後世の研究者の多くは、五極体制が確立された1820年代に国際金融の世界でのロスチャイルド家の支配権が確立されたとみている。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P80)

※ 1815年、イギリスが、スリランカ全島を領有する。

※ 1815年、中国の清が、アヘン輸入を厳禁する。

※ 1816年、イギリス使節アマーストが、中国の清に到着する。

※ 1817年、イギリスがインドで、第3次マラーター戦争を起こす。

※ 1819年、イギリス植民地行政官のラッフルズが、シンガポールを買収する。

※ 1820年代、イギリスによる、インド産アヘンの中国への流入が拡大する(アヘン三角貿易拡大)。

※ ヨーロッパはつねに戦争の惨禍につきまとわれてきたが、戦争が恒常化したのは、中央銀行と不換紙幣を通じて軍資金が簡単に調達できるようになってからだ。次の戦争の一覧表は、ご存知のとおり戦費調達を目的に創設されたイングランド銀行の発足直後から始まっている。
1689~1697年 アウグスブルク同盟戦争(ファルツ継承戦争)
1702~1713年 スペイン継承戦争
1739~1742年 ジェンキンズの耳戦争
1744~1748年 オーストリア継承戦争
1754~1763年 フレンチ・インデアン戦争
1793~1801年 革命フランスに対する戦争
1803~1815年 ナポレオン戦争
 ヨーロッパでの紛争に加えて、アメリカで2度の戦争があった。独立戦争と1812年戦争である。英国は1689年から1815年までの126年間のうち63年間、戦争していた。2年のうち1年は戦時下にあったということだ。そして戦争と戦争のあいだには戦争の準備をしていた。
 これらの紛争にはロスチャイルド・フォーミュラの形跡がありありと見られる。金融のサイエンティストたちはしばしば、戦い合う両方に資金を提供した。勝っても負けても、結果はヨーロッパの「力の均衡」が維持あるいは回復されるだけだった。永続的な戦争の最大の結果は、関係国すべての政府債務が増大したことである。(マネーを生みだす怪物 G・ エドワード・グリフィン 草思社 P282)


 そのあとのナポレオンはこれで死んだも同然です。そのあとフランスはどうなるか、また王制に戻ります。ルイ18世が即位します。

※ イギリスが主導する四大国がナポレオンを追放した後、ブルボン王家を迎えて王政復古させたが、これは事実上、イギリス主導の傀儡政権だった。フランスはその後、現在に至るまで、基本的にイギリスに対して劣位的な、持ちつ持たれつの関係にある。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P79)


 これがうまくいかない。「これじゃあ前と何も変わらないじゃないか」と不満が起こり、このあと数十年かけて「やはり王は要らない」ということになる。そして第二、第三の革命が起こっていく。なかなか一度では終わりません。

※ ナポレオン失脚後のフランスの賠償金の貸し付けは、ロンドンのロスチャイルド銀行が担当し、アメリカの南北戦争の際には、ロスチャイルド銀行を中心とするフランクフルトの金融市場が北軍の戦費を賄い、普仏戦争に敗れたフランスの賠償金50億フランを立て替えたのはロンドン、パリ、フランクフルトのロスチャイルド銀行でした。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P169)

 以上でフランス革命を終わります。
 

新「授業でいえない世界史」 32話の2 19C前半 イギリス

2019-08-25 09:38:03 | 新世界史12 18C後半~
【ウィーン体制】  こういうふうに表面上はフランスによってヨーロッパ中が、かき回されたんです。しかしフランスのナポレオンが敗れたというのが結論です。ナポレオンは勝ったんじゃない。イギリスに敗れたんです。勝ったのはイギリスです。

 この後、「ヨーロッパをどうしようか」という会議をヨーロッパ全体で開く。どこで開かれたか。やっぱりヨーロッパの800年間の中心であった神聖ローマ帝国でしょう、ということになりますが、その帝国はナポレオン戦争中の1806年に消滅したんです。
 そのあとを継ぐのがオーストリア帝国だった。オーストリアの首都はウィーンです。そこで開かれた会議だからウィーン会議といいます。1814年です。

 目標は秩序回復です。そのウィーン会議の中心となったのが、そのオーストリア帝国です。その外務大臣のメッテルニヒという人です。しかしこの人にこのあとの世界を動かしていく力はありません。本当に力を持っているのはイギリスです。

 この会議(ウィーン会議)はオーストリアの宰相メッテルニヒの主催だったが、実際に会議を誘導したのはイギリスで、欧州大陸の諸大国どうしを拮抗した力関係の中に置くことで、島国のイギリスが漁夫の利を得られる新政治体制が組まれた。・・・・・・イタリアドイツをそれぞれ統一して建国することが予約的に了承され、両地域では統一国家建設の運動がさかんになった。独伊が建国されることで、フランスは両地域に再侵略できなくなり、欧州大陸は同じぐらいの大きさの国々が割拠する均衡状態に近づいた。独伊の建国は、英の均衡戦略によって誘導されたものだった。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P78)

 メッテルニヒはウィーンのサロモン・ロスチャイルドとの関係が深かった。サロモンは支配下のメッテルニヒをロスチャイルド家の「側仕え」に過ぎないと見なしていた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P140)

※ ウィーン会議は国際銀行家によって牛耳られた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P68)

※ ナポレオン戦争のときには、ロンドンに拠点を置くユダヤ系銀行家たちは、イギリスにもフランスにもオーストリアにも金を貸しました。・・・・・・自分たちの金融力を使ってヨーロッパ新秩序を作ろうというのが、彼らの隠された目的でした。かくしてイギリスのカスルレー、オーストリアのメッテル二ヒ、フランスのタレーランなど、歴史の教科書に出てくる人たちを動かして、新しいヨーロッパ秩序を作っていったのです。ナポレオン戦争後のウィーン会議で、ユダヤ系国際銀行家によるヨーロッパ支配が始まったと考えていいでしょう。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P52)

※ 1815年のウィーン会議以後、ユダヤ人は大挙してゲットーを出て、政府の役職に就き、教育界や銀行界に進出した。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P190)

※ 1817年、13歳のディズレーリ(のちのイギリス首相)は、イギリスのネイサン・ロスチャイルドの命令で、ユダヤ教からキリスト教に改宗する。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P75)

※ 1815年のウィーン議定書で永世中立国となる。
※ 戦争を嫌ったからスイスは永世中立国になったわけではありません。・・・・・・スイスの永世中立国化は国際金融資本家の利益のために計画されたのです。・・・・・・スイスのバーゼルには世界の中央銀行の「中央銀行」である国際決済銀行( BIS )が置かれることになります。また、スイスの永世中立国化に伴い、ジュネーブがスイス領に編入されました。それから約100年後、ジュネーブの地にユダヤ人が主導した国際連盟の本部が置かれたことを考えると、スイスの中立化は決して偶然の出来事ではなかったのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P96)


 この会議は宴会ばかり開いて結論が出なかった。1814年から1815年にかけて1年近くかかって、「議会は踊る、されど進まず」です。夜の舞踏会ばかり開いて、まったく先に進まなかった。
 目標は正統主義という。「正統にするんだ」という。では何が正統か。「フランス革命の前の状態が正統だ」とする。前に戻すことが正しいことだとする。「そうしましょう、ウィーン議定書というのに各国で印鑑を押しましょう」とこういうことになる。前に戻るのであれば神聖ローマ帝国も復活するはずですが、神聖ローマ帝国だけは復活しません。これから世界を股にかける大英帝国になろうとするイギリスにとっては、神聖ローマ帝国は邪魔なんです。

 そのあと、各国が二つの同盟を組む。この時のヨーロッパは王様がいる国と、いない国に分かれつつあります。王様がいる国は神聖同盟を組みます。ロシアのアレクサンドル1世の呼びかけで、プロイセン、オーストリアが結成しますが、これにはイギリスは加わりません。
 これに対してイギリスは別の同盟をつくります。これが四国同盟です。イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアが結成します。その中心にイギリスがあります。

 ロシアのアレクサンドル1世の提唱による神聖同盟に、ロスチャイルド一族はすぐさま反対の立場を表明した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P272)

※ ユダヤ教徒のロスチャイルドにしてみれば、キリスト教国による同盟は脅威です。神聖同盟以降、ロスチャイルドとロシアの対立は長く続きます。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P105)

※ ナポレオンをロシアから敗走せしめたロシア皇帝アレクサンドル1世は、戦後秩序の指導者を自任していました。そこで、キリスト教国による神聖同盟を提唱したのです。・・・・・・このロシアの呼びかけに応じたのはオーストリアとプロイセンでした。・・・・・・敬虔なロシア正教徒であるアレクサンドル1世は、ヨーロッパを戦乱に導いた諸悪の根元が国家の反宗教性にあるとみていたのです。・・・・・・
 当然のことながら、何よりもユダヤ教を敵視するキリスト教国の団結という「神聖同盟」の構想に嫌悪感を示したのが、ロスチャイルドを筆頭とする国際金融勢力でした。・・・・・・アレクサンドル1世はロスチャイルド家の怨念を買う羽目になってしまったのです。アレクサンドル1世は当然のことながら、ロシアに中央銀行を設立すべきだとのロスチャイルドの提案にも同意しませんでした。・・・・・・ロスチャイルドたち国際金融資本家は、イギリスを皮切りに各国に民間の中央銀行を設立していきました。世界の通貨発行権を握ろうとしたのです。・・・・・・ロスチャイルド家たちのヨーロッパ金融支配に挑戦したロシア皇帝アレクサンドル1世はやがて不審死を遂げることになります(1825年旅行中に急死)。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P89)


  フランス革命は失敗。ナポレオンは島流し。そのあとの中心はオーストリアではなく、イギリスです。イギリスが圧倒的優位を確立する。
 なぜか。この間に何が起こっていたか。イギリスでは産業革命が進行中です。さらにイギリスは、アメリカや、中国、東南アジア、そしてインドなどへ進出する足がかりを築いています。ヨーロッパが「やれフランスだ、やれナポレオンだ」と戦争ばかりしているときに、イギリスでは着々と産業革命でお金を稼ぎ、同時に植民地を獲得しています。




【各国の動き】 ウィーン会議の結論は「もとに戻ろう」ということです。フランスにもまた王様が復活した。庶民は「なーんだ」とがっかりする。「革命を前に進めよう、それを前に戻ってどうするのか」。そういうウィーン体制に対する反対です。ナポレオンに対する反対ではなくて、ウィーン体制に対する反対が起こってくる。これが自由主義です。一言でいうと、「王様反対」みたいな感じです。
 そこからナショナリズムが起こる。これは漢字に直すと二つ意味があって、一つは国民主義、もう一つは民族主義と訳されます。国民や民族が自由を求めたということです。自由を求めたフランス革命はうまくいかなかったのですが、一度開かれた扉はなかなかもとに戻りません。

 でもこの動きはバラバラに起きて統一が取れません。ドイツ・イタリア・スペイン・ロシアなど、時間も国もバラバラです。一応早い順に並べていますが、繋がりはありません。
 ドイツでは学生を中心に反対運動です。当時の学生はお金持ちの大土地所有者の息子たちです。これをブルシェンシャフト運動という。1815年です。

 ちょっとブラックなのがイタリアです。氏素性のわからない人たちが、誰にもわからないように、こっそりと人目のつかないところに集まって何かを企てる。こういうのを秘密結社という。秘密結社というと質の悪い漫画みたいですが、ちゃんとあります。教科書にも登場します。
 これがカルボナリ党です。炭焼党ともいいます。スパゲッティーの名にカルボナーラというのがある。「炭焼のパスタ」という意味です。それがカルボナーラですが、そのカリボナリ党です。炭焼き小屋で何かを企てているようなイメージです。炭焼き職人にはギルドつまり組合があって、その組織をモデルとしているようです。
 これは秘密結社だから、メインが誰なのかよくわからない。メンバーが誰なのかもよくわからない。突然でてくる。半分は謎の組織です。でもこういうのは結構歴史を動かします。バカにはできません。1820年カルボナリ党の反乱が起こります。しかしここでは鎮圧される。

 スプリングマイヤーによればこの炭焼党の奥の院は、ロスチャイルド・ミラノ分家のカール・ロスチャイルドその人だという。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P340)


 スペインでは、「何だ、フランスに負けたじゃないか」という不満が起こる。そして南アメリカのスペイン植民地では独立する国が出てきて、ここでも革命が起こる。
スペイン立憲革命1820年です。しかしこれもフランス軍に鎮圧される。

 遅れたロシアでは、1825年デカブリストの乱が起こる。これはロシア語です。いいところの貴族の坊ちゃんたちが、軍人になって将校になっている。彼ら軍人が王様に絶対的に仕えるかというと、「今度の新しい皇帝のニコライ1世はおかしいんじゃないか、王様なんかいらないんじゃないか」と疑問を持ちだす。
 ただこういう貴族に対して、ロシアの農民はまったく信用していない。ロシアは階級社会で、貴族と農民の信頼関係がない。だから農民を引き込もうとしても、農民は「イヤイヤ、あんたたちは信用できない」と言う。ずっと痛めつけておいて、急に「オレたちといっしょにやろう」といっても、それは無理な話です。



【イギリス】
 こういう動きにどこが入っていないか。イギリスです。イギリスでは、反乱とか政治的動乱は起こっていない。というよりイギリスの王は100年以上前に政治の実権を失っています。その後イギリスは、しっかり植民地を獲得してお金を貯めています。
 何も起こらないと事件にならないから目につきにくいのですが、イギリスで起こっていることは非常に大事なことです。イギリスはフランス革命中から着々と準備を進めています。このことが大事なのです。

 フランス革命は、イギリス繁栄の影に隠れたあだ花に過ぎません。ナポレオンは島流しになったにもかかわらず、なぜか200年近く英雄として祭り上げられていきます。しかしそれはイギリスがやっていくことに比べれば小さなことです。

※ ナポレオンを打ち負かして欧州最強の状態を維持した後のイギリスは、欧州大陸諸国が団結せぬよう、また一国がき抜きん出て強くならないよう、拮抗した状態を維持する均衡戦略を、外交的な策略を駆使して展開し、1815年のウィーン会議から1914年の第1次大戦までの覇権体制を実現した。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P81)


 そのイギリスの動きです。1800年代、次々に植民地を占領している。
 まずインドです。首都デリーを占領する。これが1803年です。まだナポレオンと戦ってる最中です。ナポレオンと戦いながら、一方ではしっかり植民地でも戦っている。ポイントはインドです。最後までイギリスが手放さなかったのはインドです。
 さらに5年後の1808年中国マカオ、ここを攻撃する。
 そして同じ1808年、日本の長崎に乱入します。これをフェートン号事件という。イギリス船が長崎湾に侵入し、大砲をぶっ放すという事件です。これが明治維新とどう結びつくかというのは長くなるから、日本史の時間に回します。



【アメリカ第一銀行】 それからアメリカ第一銀行の成立。1791年。これはアメリカのことですが、イギリスが絡んでいます。こういう中央銀行が良いのか悪いのか、アメリカではずっと意見が対立していました。そんな中で、イギリスの影響で強引に中央銀行をつくっていったんです。

 1791年ハミルトンの建議によりアメリカ第一銀行が設立された。ベアリング家が大株主で、ロスチャイルド家も主要な株主であった。初代頭取はベアリング家のパートナーであるトーマス・ウィリングである。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P88)

 ワシントン大統領は、国務長官を務めていたジェファーソン(のちの3代大統領)とマディソン(のちの4代大統領)に意見を求めた。二人は「この(中央銀行設立の)法案は憲法に抵触する。憲法は議会に貨幣発行の権利を授権しているが、議会は紙幣を発行する権利をいかなる民間銀行へも委託する権限をもっていない」と明言した。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P61)


 この中央銀行に対する反対派が3代大統領ジェファーソンです。「こんなものは、ないほうがいい」と。なぜなら、イギリスの金融資本が入ってくるから。「そういうところからお金を借りればイギリスに頭が上がらなくなる」と。

 じつはアメリカ第一銀行の創設に関しては、財務的にも政治的にもヨーロッパの銀行家ロスチャイルド王朝が支配的な権力をふるっていた。  
 ガスタヴァス・マイヤーズの「アメリカ大富豪の歴史」はさらに詳しい。マイヤーズはこう述べている。
「ロスチャイルド家は以前から裏舞台で、アメリカの金融関係法に大きな影響力をもっていた。法律関係の記録を見ると、彼らこそが合衆国銀行の実力者だったことが読み取れる。したがって、ロスチャイルド家はただの投資家ではなく、重要な一員ですらなかった。彼らこそ合衆国銀行の陰の力だったのだ。」
(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P400)

 アメリカ第一銀行には独占的な銀行券発行権が与えられた。・・・・・・アメリカ第一銀行も資本の80%を民間資本から集め、連邦政府は20%の資本を出すだけのはずだった。ただこれは帳簿上の手品にすぎなかった。連邦政府の出資金と同額をただちに政府に融資することが前もって決まっていたからだ。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P399)

 (アメリカ第一)銀行の目的ははじめから連邦政府に融資するマネーを創出することで、民間部門への資金提供はあくまでも二次的な事柄だった。・・・・・・連邦政府は時を移さず新しい中央銀行のメカニズムを発動させた。補足時に200万ドルを「投資」したあと、5年のうちに820万ドルを借りれたのだ。つまり、連邦政府のために620万ドルがひねり出されたことになる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P401)

 部分準備制度のもとで新しく何百万ドルものマネーが創出され、連邦政府の歳出経由で経済に注ぎ込まれて、マネーの供給と商品およびサービスの供給とのあいだに不均衡が生じた。ドルの価格下落とともに、物価が上昇した。同じ5年のうちに卸売物価は72%上昇した。ということは、人々がドルで蓄えていた資産は42%目減りし、その分だけインフレという名の隠れた税を通じていつのまにか政府に召し上げられたことになる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P401)


 ジェファーソンは1811年、このアメリカ第一銀行廃止する。イギリス金融資本の圧力から逃れるためです。

 ハミルトンの集権的金融政策に対して、南部諸州は、連邦政府北部諸州イギリスのユダヤ系金融資本が手を結んで南部諸州の経済を支配しようとしているのだと主張し、第一合衆国銀行に対する警戒を強めました。1811年に、20年間と定められていた合衆国銀行の認可期限が切れると、動向を存続させるか否かで各州が対立しますが、上院と下院はともに1票差で、第二合衆国銀行の設立を否決してしまいます。しかし翌年にイギリスとの間に米英戦争(1812~15)が始まったため、戦費を補う必要から、1816年に急遽、第二合衆国銀行が設立されました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P223)

 (合衆国第一銀行は)設立から20年後の1811年に期限切れを迎え、中央銀行法を更新するか否かをめぐり、アメリカ議会で大論争が行われた結果、上下両院ともわずか1票の差で更新が否決されます。そこで、1812年英米戦争が勃発します。中央銀行法を更新させるため、シティーがイギリス政府をけしかけたのです。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P103)

 ジェファーソンは、3代大統領(1801~09)に当選すると、アメリカ第一銀行の廃止に全力を挙げた。・・・・・・  

 アメリカ第一銀行は1811年3月3日に営業を終了した。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P62)

 (アメリカ第一銀行が廃止された翌年の)1812年シティバンクが創立される。アメリカ第一銀行が営業していたその部屋で創立される。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P193)  




【米英戦争】 するとイギリスが腹を立てて、その次の年の1812年から1815年まで米英戦争を起こす。またイギリスとアメリカが戦います。すると独立戦争では負けたイギリスがここでは勝つ。そうやってイギリスはアメリカに対する影響力を持つ。イギリスは1815年にナポレオンとのワーテルローの戦いをする一方で、他方では同時にアメリカとも戦っている。これが歴史の伏線です。でもこのことはほとんど教科書には書かれません。

 ロンドンに駐在していた(ロスチャイルド家の)ネイサンは、アメリカ第一銀行閉鎖のニュースを聞き、激怒し、脅しにかかった。・・・・・・ネイサンは「戦争で植民地時代に戻してやる」と言い放った。  数ヶ月後に、それから3年間にわたる。 米英 戦争(1812年戦争)が勃発した。ロスチャイルドのもくろみは極めて明白だった。アメリカ政府の借金を増やし、屈服させ、自分たちが牛耳っていた中央銀行を再開させることであった。結局、アメリカ政府の債務は、4500万ドルから1兆2700万ドルにドルまで膨らみ、アメリカ政府は1815年に降伏した。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P63)

 米西戦争の実際のきっかけとなったのはメイン号事件ですが、これはいまだに原因がはっきりとしていません。スペインの謀略でアメリカの軍艦メイン号が爆破されたということになっていますが、アメリカの自作自演の可能性があると言われています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P114)

 1812年(米英)戦争は歴史上最も筋の通らない戦争だった。最大の原因は、ナポレオンのフランスとの戦争の戦力として、英国が外洋船のアメリカ人海員を海軍に徴用したことだと言われる。だが英国と戦うフランスもまたまったく同じことをしていたが、その行動は無視された。しかも英国は戦争開始前にすでにアメリカ人海員の徴用を撤回していたから、戦争の原因は取り除かれ、議会さえそう望めば平和が回復したはずだった。アメリカの銀行に近い筋が儲けのチャンスである紛争を望んだと考えるしかないようだ。・・・・・・
 どっちにしても一般市民には戦争は人気がなく、議会としては増税によって戦費を調達するのは論外だった。そこで政府は州法銀行に税構造以外の場でマネーを創出してもらわなければならなくなり、自由市場の規律から銀行を守るために乗り出した。・・・・・・
 ロスバード教授が詳しく語っている。
「アメリカ政府は増加する戦時国債をさばくため、銀行数と銀行券、預金の急増を促した。中部、南部、西武諸州で増加した銀行は、国債購入のために大量の銀行券を印刷した。連邦政府はその銀行券を使って、ニューイングランドで武器や食料を買いつけた。・・・・・・1814年8月、ニューイングランド以外の銀行は正貨での払い戻しが不可能になり、債務不履行に陥ったことがはっきりした。だが1814年州と連邦の行政府は銀行を倒産させる代わりに、正貨との兌換義務を拒否した銀行に営業を続けさせることにした。言い換えれば、銀行は契約上の支払い義務の不履行を認められたのである。・・・・・・以後の金融危機の前例がここで生まれた。中央銀行があってもなくても、銀行がそろってマネーサプライを増加させ、それで問題が生じれば、政府が救済に乗り出すことが保証されたのである。」
 州法銀行がたちまち大量のマネーを創出したので、連邦政府は債務を4500万ドルから1億2700万ドルに増やすことができた。・・・・・・マネーサプライが3倍に増えても商品は増加しないから、ドルの購買力は以前の3分の1に低下した。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P407)

 1812年6月18日、アメリカは旧宗主国イギリスに対して宣戦を布告、いわゆる「米英戦争」が始まる。ナポレオン戦争でイギリスが動けない事を見越したアメリカ側が、カナダを奪い取るための侵略戦争であり、謀略戦争であった。この戦争は「第2次独立戦争」と称されるよう、戦後、アメリカはイギリスから完全なる独立を手に入れる。最大の「戦利品」は、大英帝国通貨「ポンド」からの離脱。これにより、アメリカは自国通貨「ドル」を発行する権利を勝ち得た。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P150)

 1813年イギリスが通貨ポンドを金(ゴールド)との兌換にし、金本位制に移行したのち、当時の列強各国も金本位制に移行した。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P149)



【アメリカ第二銀行】 イギリスは、戦いに勝った翌年の1816年に再度アメリカ第二銀行をつくる。この銀行の実権はイギリスのロスチャイルド家が握っています。これによってまたアメリカにイギリス金融資本が流入する。イギリスのお金持ちたち、つまりイギリスの金融資本がアメリカの産業に介入していくわけです。

 (米英戦争に敗れて)1815年12月5日、第4代大統領マディソンは二つ目の中央銀行設立を提案し、翌1816年アメリカ第二銀行が誕生した。アメリカ第二銀行は20年間の免許を獲得した。アメリカ第一銀行の時と同様、ロスチャイルド家がしっかりと銀行の実権を握っていた。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P62)


 この戦争(英米戦争)の結果、アメリカ政府の債務は約3倍に増大し、深刻な不況に見舞われます。このインフレに対処するため、1816年アメリカ議会は合衆国第二銀行の設立設立法を可決します。第一銀行と同様の民間中央銀行でした。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P103)

 ペンシルヴェニアは1817年に37の銀行を認可した。同じ年、ケンタッキーでも40行が認可された。中央銀行創設後の2年間で、銀行の数は46%増加した。・・・・・・この時期にマネーサプライは2740万ドル増えた。納税者のマネーはまたも40%以上減価した。・・・・・・
 アメリカで初めての意図的な金融締め引き締めは1818年、アメリカ第二銀行が自らの生き残りに不安を感じたときに始まった。・・・・・・恐慌や好況と不況の循環、不景気は、銀行の競争を野放しにしておくから起こるので、すこれを防ぐには政府の規制が必要だ、と広く信じられている。だが真実はまったく逆だ。このような自由市場の混乱は、政府が中央銀行に独占的な特権を与えて、競争を妨げた結果として起こる。・・・・・・
 いわゆる1819年恐慌のときに起こったのがまさにそれだった。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P414)


奴隷制の世紀:連邦準備制度の歴史 中央銀行の真実 Century of Enslavement: The History of the Federal Reserve (2014)


 この中央銀行のことは今の経済を考えるときに避けては通れません。お金によって政治が動く。小学生にはこんなこと言いませんが、やはり有りえる。お金を誰が持って、どこに使っているかは、政治を理解する時にとても大事なことです。

 さらに1813年には、イギリスは自由貿易をしたいから、今まで独占貿易に頼っていたイギリス東インド会社のインド貿易独占権を廃止する。
 イギリスはこの時は自由貿易です。強いときは自由貿易をする。そして弱くなると保護貿易に変わる。最近のアメリカのように。過去のイギリスもそうです。最初に自由貿易をやったのはイギリスです。しかしあと30年もするとアメリカが追い上げてきて、イギリスは保護貿易になる。コロコロと自分の都合で貿易体制を変えていきます。



【イギリスの金本位制】 さらにそのイギリスには中央銀行がすでにある。前にも言いましたが、これをイングランド銀行といいます。この銀行が「紙幣を発行していい」という政府のお墨付きをもらう。1815年に国のお金を発行する。つまり「発券銀行」となり、さらに「政府の銀行」となります。こうやってお墨付きをもらい、正式な中央銀行となります。
 そのイングランド銀行の大株主となるのが、ロスチャイルド家です。ここにはちょっと黒い噂は前々からあった。「銀行に紙幣を発行させていいのか、その会計が不透明じゃないか」という話があったんですが、「正しい政府の銀行だ」と政府によって認められていく。このことによって、イギリスではお金持ちの銀行家・・・・・・彼らを金融資本家といいますが・・・・・・彼らがますます力を持っていく。
さらにイギリスは海外に植民地をもっています。

 この時代のお金は、今のお金よりもある意味で進んでいるんです。
 というのは、アメリカのドルをいくら日本に持ってきても使えないでしょう。逆に日本の1万円札をいくらアメリカに持っていっても使えない。お金は国家限定の貨幣だから。しかしこの時代のお金は、本当は金(キン)なんです。金貨だったら鋳つぶしてどこの国に持っていこうと、日本に持っていこうとアメリカに持っていこうと、金(キン)に変わりはないからどこでも通用するんです。
 だから紙幣を発行する一方で、そのぶんの金(キン)を銀行の金庫に蓄えて、本当のお金は金(キン)だという形をとる。そして「いつでも本物の金(キン)と交換できますよ」という形を取ります。このことをしたのはイギリスが最初です。これを金本位制という。これを翌年の1816年にイギリスが確立する。

※ 20世紀初頭、金の世界的保有国は、アジア各国、中国インドであった。・・・・・・18世紀までの先進国はインドや中国であった。・・・・・・圧倒的な武力でアジアを植民地化したヨーロッパ列強は金(ゴールド)の強奪を開始する。その典型的な例が、アヘン戦争(1840年)であろう。・・・・・・ヨーロッパ列強は、アヘン戦争に代表される強引な戦争と、近代的な武器や機械などの輸出で、アジアから金(ゴールド)をかき集めていった。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P155)

※ (リカードはイギリスの)紙幣発行を金貨にリンクさせる必要があると論じました。それに対し、ポンドの低下で輸出が有利になっていた商人や、金との兌換を復活させたくない銀行は猛烈に反対しました。1819年、ピール委員会の提言に基づき、段階的に紙幣と金貨の兌換を復活する法案が議会で可決されます。1921年5月に、イングランド銀行で紙幣をいつでもソブリン金貨と交換できることが定められ、紙幣の兌換が復活しました。その結果、イングランド銀行には金本位制というタガがはめられることになり、ポンド紙幣が信用を復活できたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P175)


 では紙の1万円札とは何か。本物の金(キン)との引換券です。これが金本位制です。イギリスが金(キン)が本物のお金だとしたから、他の国もそれに習って金(キン)が本物だとする。
 つまり、外国との貿易取引の時、金(キン)をやりとりすれば良いんです。これは今よりも簡単なシステムです。日本人がアメリカ人に何か売りたいときに、アメリカ人からドル紙幣をもらったって迷惑でしょう。君たちが1万円のものを売りたい、スマホを売りたいといったときに、アメリカ人からドル札をもらったって日本では使えない。ではそのドル札をどうやって円に替えるか。これは考えていくと結構難しい。金(キン)ではそれが簡単にできた。

※ 1815年、イギリスがセイロン(スリランカ)を領有する。


 1816年、イギリスは自由貿易を求めて、アマーストを団長として中国に2度目の使節団を送る。

 1817年、イギリスが第3次マラータ戦争が起こし、インド全域を支配する。


 イギリスは1819年にはどこをとったか。シンガポールを買収した。ラッフルズというイギリスの行政官によって。今や東南アジア最大の貿易都市、金融都市です。小さな島ですが、がっぽりお金を持っている。日本人よりもはるかに持ってます。



【アヘン貿易】 さらに1820年代以降に中国に何を売り込むか。アヘンを売り込む。麻薬です。20年後の1840年にはアヘン戦争が起こります。

 1825年南アメリカの鉱山会社への過剰融資が破綻して、ロンドンの金融街シティ発で「世界初の世界恐慌」と呼ばれる金融危機が起こり、イングランド銀行の経営基盤が揺らぎました。その時に、ロンドン・ロスチャイルド銀行のネイサンは、ロスチャイルド一族のネットワークを利用してヨーロッパ中から「」を集めることでイングランド銀行の信用を守り通し、同様に危機に陥っていた地方銀行にも資金をテコ入れするなど、宮廷ユダヤ人としての力量を遺憾なく発揮しました。・・・・・・1825年の危機は民間銀行であるイングランド銀行の最大の試練だったため、「信用」を守りきったロスチャイルド一族のイングランド銀行内での主導力が一挙に増しました。・・・・・・1833年、イングランド銀行の紙幣が法貨として認められました。イギリス国民は、イングランド銀行券という「手形(架空の金貨)」の受け取りを拒否することができなくなったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P176)

 1825年イングランド銀行ロスチャイルドの経営するN・M ロスチャイルド&サンズに買収され、中央銀行が持つイギリス通貨(ポンド)の発行券がロスチャイルド一族の手に渡っていく。ついにロスチャイルド一族はマイヤーの求めた「通貨発行権」を得たのである。ロスチャイルドがイギリスに対して出したもう一つの条件が「シティ」の割譲だった。(マネーカースト B・フルフォード かや書房 2018.5月 P51)


 このアヘンを売りこみで財をなすのが、イギリスのジャーデン・マセソン商会です。1832年に中国の広州で設立されます。広州とは香港・マカオがあるところです。のちに、ここの社員として幕末の1859年に長崎にやってくるのがトーマス・グラバーです。あの長崎のグラバー邸の主です。
続く。


新「授業でいえない世界史」 32話の3 19C前半 アメリカ

2019-08-25 09:37:40 | 新世界史12 18C後半~

【アメリカ】
 ではアメリカです。1776年に独立したアメリカはその後どうなったのか。まず「お金をどうするか、誰がつくるか」ということで揉める。1776年に独立してから10年ちょっとで「通貨をつくる銀行」をつくろうとする。

 さっき言ったことを復習すると、1791年
アメリカ第一銀行ができます。ただ反対が多くて20年間でやめる。1811年にアメリカ第一銀行が廃止されます。
 すると廃止されたことに対してイギリスが腹を立てる。イギリスはアメリカへの輸出をストップする。翌年の1812年から米英戦争というアメリカとイギリスとの戦争が起こります。これでアメリカは非常に困る。そしてこの戦いにアメリカは負けた。負けたのが1815年です。
 すると翌年の1816年にイギリスの力で2番目のアメリカ第二銀行ができる。この銀行を通してイギリスのお金がアメリカに入ってきた。だからアメリカ人は、イギリス人のお金持ちに頭が上がらなくなった。こうやって資本的にはイギリスがアメリカを牛耳っていきます。アメリカの独立のあとも、イギリスのアメリカに対する経済支配は続きます。
 1775年からの独立戦争で軍事的にアメリカに負けたイギリスは、この1812年からの米英戦争で勝利し今度は経済的にアメリカを支配します。

 
アメリカ第二銀行がアメリカ経済を支配する中で、1823年、アメリカは・・・・・・ここからは教科書です・・・・・・アメリカ大統領モンローがモンロー宣言を出します。
 マリリン・モンローは女優です。お尻ふって歩いて有名になった。ケネディ大統領の愛人であったという噂もある。でも自殺しました。ケネディは暗殺されました。ここらへんもブラックな話があります。ここでは別人のモンロー大統領です。
 このときアメリカはイギリスの強い経済的影響のもとにあります。イギリスはアメリカを1ランク下に見ていた。しかし大統領のモンローは「ヨーロッパはアメリカ大陸のことに干渉するな」という。「ヨーロッパは南北アメリカ大陸に干渉するな。アメリカのことはアメリカが決める」と。

 ほぼ同時にイギリス外相のカニングも「南アメリカ諸国のスペインからの独立を認める」方針を出す。
 なぜそんなことを認めるのか。スペインの支配下にある南アメリカ諸国がスペインからの独立すれば、経済力で南アメリカに乗り込んでいくのに、イギリスが一番有利になるからです。アメリカのモンロー宣言は、イギリスの南アメリカ支配を後押しすることになります。こういうふうにアメリカとイギリスはつながっていくのです。
 アメリカが「ヨーロッパはアメリカ大陸に干渉するな」といってもイギリスは例外です。だからこのあと南アメリカ諸国はイギリスやアメリカの圧力に苦しめられたため、今ではイギリスやアメリカとは逆に仲が悪くなっています。

 このあと南北アメリカ大陸で一番強い国はアメリカになっていきます。つまりアメリカ合衆国が南アメリカ諸国に影響を及ぼすようになっていきます。そのためにアメリカは「ヨーロッパはアメリカ大陸に干渉するな」という宣言をします。
 この時はイギリスとアメリカは持ちつ持たれつの関係です。独立戦争で軍事的にはアメリカがイギリスに勝ちましたが、経済的にはイギリスが強い。これはイギリスのお金の力でこうなるのです。

 しかしアメリカ第二銀行も20年後の1836年にまた廃止されます。「一部の人間に富が集まりすぎる」ということで。一部の人間というのはイギリスの息のかかった人間のことです。廃止されると、前回と同じようにイギリスがこれに怒って、アメリカからわざとお金を引き上げます。それが原因でアメリカ初の恐慌が起こる。これが廃止翌年の1837年です。



【西部開拓】 建国当初のアメリカは実は今のアメリカじゃない。最初は東部地域の下の図のこれだけです。そこから西部劇で見るようにインディアンを追い払って、どんどん西へ西へと開拓地を広げていきます。こういうことをしながら西へ西へと、アメリカはインディアンの土地を奪っていった。
 「アメリカはオレたちのものだ」とアメリカ人は言いますが、ここはもともと何万年も前からインディアンが住んでいた。地元の人の土地をこうやってアメリカは奪っていきます。

 その征服活動が何十年も続いて、アメリカ人はその征服活動を「この土地は神がオレたちに与えた土地なんだ」という勝手な解釈をする。そしてこの未開の土地をフロンティアと呼び、ここを開拓していくことは「神から与えられた使命なんだ」という。
 今から考えるとおかしな話です。アメリカ人が勝手にそう思っただけで、やってることはインディアンの迫害です。でもアメリカ人は「フロンティア・スピリット」という、この考えが好きです。インディアンを迫害しても、「インディアンがオレたちに追い払われることは当然だ。それがオレたちが神から与えられた使命だ。マニフェスト・ディスティニーだ」と言って正当化していく。

 ムチャクチャですけど、これが通るんです。これがおかしいと言われ出したのは、ほんのここ20~30年のことです。私が高校生の時は「日本人はアメリカのフロンティア・スピリットを見習え」という雰囲気で「フロンティア」という英語の教科書があるほどだった。


Dança com os loubos



 そうやって領土が西へ広がっていく中で誕生した初の西部出身の大統領がジャクソン大統領です。1829年からです。アメリカ大統領は最大8年です。4年で1期、最高2期だから8年です。このジャクソン大統領の時に、アメリカの貧乏な人にまで選挙権が与えられて民主主義が進展したという面があります。このジャクソン支持派が民主党の母体になります。
 この人が「銀行なんかやめてしまえ」と、1836年アメリカ第二銀行廃止します。理由は、「一部の人間に富が集まりすぎる」からです。この銀行にはイギリスの資本が入っています。

※ 米英戦争という緊急事態によって辛くも存続できた第二合衆国銀行中央銀行)は、その後保守的な農民を支持者とし、ポピュリズムの波に乗って大衆の熱狂的支持で第7代大統領に選出されたジャクソン大統領(在任1829~37)の手であっさりと葬られてしまいました。・・・・・・ジャクソンは大統領に就任(1829年)すると直ちに拒否権を発動し、議会が承認した第二合衆国銀行の延長法案を葬り去りました。第二合衆国銀行は、ニューヨークの金融貴族ユダヤ人金融業者イギリスの銀行の金融支配の道具に他ならないというのが、彼の主張でした。・・・・・・その結果、アメリカでは中央銀行がなくなってしまい、州が認可した多数の州法銀行に紙幣(銀行券)の発行権が移りました。・・・・・・その後、州政府は「銀行」を個人間の組合とみなして簡単に設立を認可し、銀行券の発行を認めました。各地の州法銀行は大量の紙幣を発行することで、べらぼうな利益を手にします。アメリカでは、通貨の発行益が地方ボスにばらまかれたのです。・・・・・・このように南北戦争前夜のアメリカでは約1万6000の銀行が推定7000種類のドル紙幣を発行し、メチャクチャな紙幣の発行状況を利用して5000種類の偽造ドルが出回っていたと言われます。そのため対外的にアメリカ経済はポンドへの依存から抜け出すことができず、貿易決済はポンドで行われました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P224)

※ 1820年代、一般市民の意識は、ジェファーソンら共和党派の主張する自由放任と健全な通貨政策のほうへ傾いていた。だが共和党自身は当時これらの原則を捨てていたので、これを復活させるために、マーティン・ヴァン・ビューレンとアンドリュー・ジャクソンを中心とする新たな組織が結成された。この組織は民主党と呼ばれ、党綱領の一つとして合衆国銀行の廃止を掲げた。1828年に大統領に選出されたジャクソンは、すぐに議会の賛成を取り付ける作業に着手した。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P418)

 1832年にはジャクソン大統領第二銀行の更新を拒否、シティーやニューヨークの民間銀行形との間で攻防が繰り広げられました。しかし、ジャクソン大統領は最後まで妥協せず、やがてアメリカは南北戦争に突入していくことになります。(国難の正体・新装版 馬渕睦夫 ビジネス社 2014.11月 P104)

※ 1804年に財務長官のハミルトンが決闘で死んだ後、ロスチャイルド家はニコラス・ビドルを代わりに選んだ。パリのジェームズ・ロスチャイルドからアメリカ第二銀行を委託されたとき、ジャクソン大統領に反対された。ロスチャイルド家はアメリカ合衆国を破壊し、二つの弱小国家に分割しようと考えた。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P266) 


 しかし、やめるとすぐイギリスが怒って資金を引き上げ、1837年にはアメリカ初の恐慌になる。そのことはすでに言った通りです。
 このアメリカ第二銀行を通じてアメリカ経済に強い影響を及ぼしていたヨーロッパ最大の金融資本家ロスチャイルドは、アメリカ第二銀行が廃止されるとすぐ、同年の1837年に自らの代理人としてオーガスト・ベルモントをアメリカに派遣して、巻き返しのための政界工作にあたらせます。

※ ヨーロッパの金融界を支配するロスチャイルド一族は当然のことですが、同じ英語圏のアメリカへの進出を策しました。先に述べた紙幣の過剰発行によるバブルが崩壊した1837年に、アメリカの金融市場への進出が始まります。ロンドンネイサン・ロスチャイルドは、1837年に、アメリカ人のジョージ・ピーボディがロンドンの有力金融業者ベアリング家の親戚を通じてロンドンに創設したキダー・ピーボディ証券に目をつけました。キダー・ピーボディ証券をアメリカに経済進出する際の手足として利用しようと考えたのです。ピーボディには子供がいなかったために、アメリカ人のジュニアス・モルガンが後継者になりました。このジュニアス・モルガンが、ロスチャイルド家のアメリカ代理人になったのです。彼の息子が、アメリカを代表する大財閥を築きあげるジョン・ピアモント・モルガンJPモルガン)になります。JPモルガンは、ロスチャイルドの資金力を背景にしてアメリカの金融界を左右しただけではなく、後に述べるように金融、鉄道、海運、製鉄などからなるアメリカ最大の財閥を形成していきました。
他方、キダー・ピーボディ証券の創設と同じ1837年に、ドイツのフランクフルトのロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントがアメリカに派遣され、ペリー家、モルガン家などのアメリカの富豪との協力関係を築き上げました。ボストン財閥です。ベルモントが、ドイツのロスチャイルド家のアメリカ代理人になったわけです。ですから、ロスチャイルドは南北戦争前にアメリカに足場を築いていたことになります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P227)

※ (アメリカへの移民で)1820年代後半から1860年にかけてアメリカにやってきたのが、ドイツ、ボヘミア、ハンガリー等、中央ヨーロッパのドイツ系ユダヤ人である。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P120)

 1853年 ペリーの来航



 もう少し後(約20年後)のことですが、ベルモントは、こののち政界にも入り込んで、1856年にアメリカの二大政党の一つである民主党の党首になり、政界の大物にまで登りつめます。
 このベルモントの人脈をたどっていくと、変な人物とつながります。彼の結婚相手は日本を開国させたペリーの娘です。1849年にペリーの娘・・・・・・キャロラインといいますが・・・・・・と結婚し、その4年後の1853年にそのキャロラインの父の・・・・・・ベルモントにとっては義父の・・・・・・ペリーが浦賀に来航し、日本に開国を強要することになります。この時ペリーはアメリカ大統領フィルモアの国書を持っていました。このフィルモアはアメリカのホイッグ党の政治家です。でもこれはもう少しあとのことです。

※ ロスチャイルドを中核とするユダヤ国際金融資本権力が、まずペリー提督米艦隊を指揮したのである。この米海軍最古参のペリーは、筋金入りのフリーメーソンであった(加治将一 あやつられた龍馬 祥伝社)。のみならず、ペリーは米国におけるロスチャイルドの代理人とごく親しい関係で結ばれている
 グラバーが幕末フリーメーソン革命(明治維新)の裏の主役であったことはもはや明確だが、このグラバーを動かしたのは上海のサスーン財閥であり、そしてこのサスーンはロスチャイルドの「極東」代理人である。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P314)


 ジャクソン支持派民主党になりますが、ロスチャイルドに派遣されたオーガスト・ベルモントはその民主党に近づいて民主党を乗っ取ったのです。民主党とヨーロッパの金融資本家とのつながりができます。つまり「銀行嫌い」だったジャクソン一派は、ベルモントによって「銀行好き」に180度方向を変えられるのです。

 その過程で、1835年にはジャクソン大統領の暗殺未遂事件が起こっています。殺人犯の拳銃から弾が出なかったので命拾いします。
 しかし6年後の1841年・・・・・・ジャクソンは7代大統領ですが・・・・・・9代大統領ハリソン(ホイッグ党)は、カゼ?をひいて死んでしまいます。
 その9年後の1850年には、今度は12代大統領テーラー(ホイッグ党)がお腹をこわして?死んでしまいます。本当の死因はヒ素中毒、つまり毒を盛られた、という話があります。
 彼らの共通点はアメリカの中央銀行設立に反対していたことです。このテーラーの次の大統領がペリー来航時の大統領フィルモアです。

 1845年にはテキサスを併合します。
 さらに1846年からアメリカ=メキシコ戦争を起こして、1848年にカリフォルニアをメキシコから割譲させ、そこを併合します。するとその年にカリフォルニアから金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こります。これでアメリカが一気にお金持ちになります。

※ アメリカ東部とヨーロッパとの関係を、ゴールドラッシュ時代に強化したのはユダヤ人である。・・・・・・今日(1911年当時)でもなお、カリフォルニアの銀行組織の圧倒的多数とともに工業経営もユダヤ人の手中におさめられている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P74)


 アメリカ二大政党制は共和党と民主党です。どちらかと言えば共和党が出番が多いような気がしますが、しかし五分五分です。民主党に反対するのが共和党です。ちなみに今のトランプ大統領は共和党です。その前のオバマは逆に民主党です。
 そのイギリス金融資本家に乗っ取られた民主党に対抗するのが共和党です。この時にはアメリカの北部と南部で考え方が違って、民主党南部中心です。南部は綿花の貿易でイギリスと結びついています。それに対して共和党北部中心です。ここにはアメリカ独自の産業が興りつつあります。その北部と南部で国が割れていきます。
 この対立から、もう少しあとのことですが、1861年に南北戦争が起こります。アメリカが真っ二つに北と南に割れて、アメリカ人同士が血で血を洗う戦争をやっていく。このことは後でいいます。

▼アメリカの西部進出

 
 



【ラテンアメリカ諸国の独立】
 では次、スペイン植民地から独立したいラテンアメリカです。ラテンアメリカの地図を見てください。ブラジルを除いて、全部スペイン植民地です。

▼ラテンアメリカの独立
 

 スペインがナポレオン戦争で負けて以降、ここが次々に独立していく。ここはコロンブス以降、この時まで300年間、ずっとスペインの植民地だった。だからメキシコ人は何語をしゃべっているか。メキシコ語とかないんですよ。スペイン語です。コロンビア、ベネズエラ、ペルー、ここらへんは何語をしゃべってるか。スペイン語です。スペインの植民地だったからです。ブラジルだけが今でもポルトガル語をしゃべっている。  

 ナポレオンはスペインを支配した。スペイン本国はフランスのナポレオンに負けた。
 そうすると、スペインに支配されていた現地生まれの白人・・・・・・彼らをクリオーリョという・・・・・・彼ら白人が中心となって独立運動を始める。決して原住民ではありません。黒人の運動でもありません。
 彼らが1810年代から次々に独立しようとしていく。その運動の中心人物が、シモン・ボリバルという人です。彼もクリオーリョです。南米にボリビアという国がありますが、このボリバルの名に由来します。スペインから独立したいわけです。

 フランス革命以前に戻したいヨーロッパは「そんなことはさせない」と、ウィーン会議の中心メッテルニヒを中心に弾圧にかかりますが、それに反対したのが、前に言ったようにアメリカです。
 アメリカは、大統領モンローが1823年モンロー宣言を出す。アメリカはスペインに「南アメリカに干渉するのはやめなさい」と言う。アメリカまだ出来たてのホヤホヤで大して強くありませんが、これが通るんです。なぜか。イギリスがアメリカを応援したからです。イギリスは「そうだそうだ、干渉したらダメじゃないか」という。ヨーロッパ勢はこれで割れたんです。

 結局、メッテルニヒのオーストリアとイギリスの対立で、どっちの意向が通るか。イギリスの意向が通る。イギリスが強いんです。
 それはラテンアメリカの独立を応援するためではありません。イギリスは何をしたいか。南アメリカを独立させて、自分たちの有り余る製品をここに売りつけたいんですよ。だからイギリスは、南アメリカからスペインの力を排除したいのです。イギリスは市場を求めているのです。イギリスの貿易の市場とするためです。アメリカはまだできたばかりで、それほどの購買力を持っていません。だから製品を売りつける市場が他に必要なんです。

 これで「前に戻そう」というヨーロッパのウィーン体制も壊れていった。イギリスが別の体制をつくろうと壊したんです。だからウィーン体制というのは表面上のことで、実際にはイギリス主導で別のことが進行していきます。でもそれをトレースしていくのは、けっこう分かりにくいことです。なかなか表面にはでてきませんから。

 当時(ナポレオン戦争後)の中南米の最大の貿易相手国は、宗主国のスペインなどではなく、国際貿易全体のかなりの部分を握っていたイギリスであり、中南米は経済的にイギリスの影響が強かった。そもそもコロンブスらが15世紀に中南米まで探検に出かけたのは、スペインがキリスト教を強化する目的でユダヤ人に追放令を出し、ユダヤ資本家(スファラディ)は探検費用を出して新天地を探す必要があったからだ。その流れで、スペインやポルトガルから中南米に移民した人々の中にはユダヤ人が多く、彼らは貿易や経済を握り、スペイン系(クレオール)のエリートとともに植民地経営を動かしていた。
 中南米では、ユダヤ人の経済的影響力が大きく、イギリスとの経済関係が強いとなれば、イギリスな貿易独占権の強化をねらって中南米を独立させる際、均衡戦略にそって、大陸内の拮抗状態が生じるような分割的な独立を誘導することは十分に可能だ。イギリスは、中南米各地の有力者に対し、バラバラに独立支援すればいいだけだった。
 中南米の独立戦争の英雄としてグラン・コロンビアのシモン・ボリバルとアルゼンチンのホモ・デ・サン=マルティンが有名だが、ボリバルは外交官としてイギリス勤務の経験があるし、サン=マルティンは独立戦争支援のために1812年に欧州からアルゼンチンに戻る際、イギリスにあった中南米独立運動の組織と会合した後、英軍艦に乗ってアルゼンチンに上陸した。イギリスは、中南米の独立を支援していた。
 かくして1810~20年代に中南米は独立したが、ナポレオンが追放されて一段落し、復活したスペイン政府は、中南米の再植民地化を画策し、新政府となったフランスと結託して動き出した。全盛期に英との植民地争奪戦に敗れて北米から撤退したフランスは、新大陸の支配復活が夢だった。イギリスはこの動きを防ぐため、得意の均衡戦略の方式で、アメリカに呼びかけて米英が組み、スペイン・フランスに警告を発して翻意させることを目指した。
 しかし、アメリカは全く違うことを考えていた。モンロー大統領の米政府は、イギリスからの誘いを断って、単独で、スペイン・フランスに対して警告を発した。これが(1823年の)モンロー宣言である。この宣言は同時に、イギリスへの敵対的な警告にもなっていた。・・・・・・イギリスは、せっかく中南米を英国式の均衡戦略で独立させたのに、アメリカに漁夫の利を取られてしまった。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P88)


 こうやってイギリスの支配が南米地域に及んでくる。南アメリカは今でもイギリスとアメリカの影響下にあります。経済的には今もです。だから南アメリカとアメリカは、同じアメリカでも仲が悪いです。「同じアメリカ大陸だから仲が良い」と考えたらダメです。逆です。イギリス・アメリカに支配されてきた歴史があるからです。
 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 33話の1 19C前半 ヨーロッパの混乱とイギリスの進出

2019-08-25 09:37:12 | 新世界史12 18C後半~

 ナポレオン戦争が終わったのが1815年です。前回は、そのあとのイギリスとアメリカの動きを見て、そのあとスペインの植民地であったアメリカ大陸の独立の動きを見たんです。
 ここからあとは、国家中心で見ていきますが、地域ごとに30年くらい行ってまた元に戻ってと、こういうことを何回も繰り返していきます。横のつながりを合わせて、ヨーロッパ全体として何が起こってるのかということに注意してください。

  1815年にナポレオンがセント・ヘレナ島に島流しにされました。
 次の1820年代には何が起こっていたか。意外とこれが目立たないのですが、イギリスとオランダがアジアに進出してるんですよ。
 イギリスは、おもにインドからその東のインドシナ半島からマレー半島へ、さらに東の中国へ、香港へ、そしてアヘン戦争というふうに結びついていきます。
 オランダは今まで目立たなかったのですが、インドネシア全域を植民地にしていく。そういう植民地づくりを進めてるんです。



【イギリスの東南アジア進出】

 では個別に行きます。まずアジア方面でのイギリスの動きです。さっきも言ったように、1824年にイギリスはインドの東のビルマを占領していく。これがビルマ戦争です。これでビルマは英領インドとなる。英領とか、仏領とかいう言い方をします。英はイギリスです。
 そしてその2年後の1826年には海峡植民地をつくる。アジアで最も重要な海峡といえば、シンガポールの近くのマラッカ海峡です。つまりここでシンガポールはイギリスの手に落ちた。そしてイギリスの貿易拠点として栄える。これをやったのがイギリスから役人として派遣されたラッフルズです。

 それからアジアで唯一の独立を保った国はタイです。イギリスとフランスに挟まれて、最後に一つだけ残った国です。他はすべて植民地になって、最後の一つに手を出したらイギリスとフランスの喧嘩になるから取らなかっただけです。こういう事情があってタイは東南アジア唯一の独立国となる。

 他はほとんどが植民地にされた。植民地にされたらどうなるか。金持ちのヨーロッパ人が乗り込んできて、土地を買い占めて、「これをつくれ、あれをつくれ、ゴムの木をつくれ」という。「イヤそれでは食い物がなくなる」、「そんなこと知るか」で終わりです。
 こういうのをプランテーション農業という。バナナならバナナばっかりつくらせる。バナナは食い物だからまだいいとして、やはり世の中で何が一番大事か一つ選べと言われたら、私はやはり食い物だと思う。これがなければ死ぬからね。世の中で何もない時に一つだけと言われたら、やはり食い物だと思う。ゴムは食えない。しかしヨーロッパ人にとっては高く売れるんです。しかも単純に1品種だけつくらせる。こういうのをモノカルチャー経済という。

 このようにしてイギリスの金持ちたちが植民地に乗り込んできます。イギリスの金持ちたちは有り余るお金をこういうところに使ってボロ儲けようとします。
 これはイギリス国内で工場経営をする産業資本家とはちょっと違います。産業資本家は労働者にちゃんと賃金を払いますが、植民地に乗り込んできたお金持ちたちは植民地の人たちを不当に低い賃金で働かせ、自分たちは悠々自適の生活をしようとするのです。これはローマ帝国のお金持ちたちが、奴隷を働かせることによって自分たちは贅沢な生活をしていたことと似たようなものです。奴隷社会の伝統はこういうところで復活するのです。
 これは自分が額に汗して働くことではなく、お金の力によって人を働かせ、自分たちは豊かな生活をすることです。イギリスのお金持ちたちはこういうところにお金を使いました。これが植民地への資本投下です。有り余るお金の力によって植民地を支配しようとします。

 さらに銀行が彼らにお金を貸します。銀行はお金の貸出先を求めています。「いくらでもお金を貸すから、もっとやってくれ」と。こういうふうにしてイギリス金融資本の植民地支配が強まります。
 フランスやオランダも似たり寄ったりですが、その中でもイギリスが最も多くの植民地を獲得していきます。これはイギリス金融資本の力です。

 現地の農民は非常に貧しい。しかしイギリス人は儲かるからもっとやりたい。だから労働者は足らないのです。そこにインドから貧しい人がやってくる。中国からも国を逃れてやってくる。そういう人たちをクーリーといいます。いまその中国人の子孫が東南アジアの経済を握ってますが、彼らのご先祖は非常に苦労した人々です。
 南米の日系人もそうです。今ブラジルに日系人がいる。今は日系3世、4世の世代です。私が3世の世代ぐらい、君たちは4世ぐらい。曾爺ちゃんが明治時代に、家族連れて移住した。同じようなことをして、だんだんとその国でのし上がっていった人々です。

▼19世紀の東南アジア




【オランダ領東インド】 今度はオランダです。上の植民地の地図を見てください。まずイギリスの植民地、地図にはないけどインドはイギリスの中心的植民地です。イギリスが取ったところは、ミャンマー、マレーシア、シンガポールです。
 ではフランスはというと、その東です。今のベトナムがフランスの植民地です。だからタイは東西からフランスとイギリスに囲まれている。だからここは「饅頭の一つ残し」で取らないです。喧嘩になるから。

 あとインドネシア。インドネシアは全部オランダ領です。日本は太平洋戦争時に「東アジアの共栄」を掲げて、ここからヨーロッパ人を追い出し、5年間だけ成功した。
 そのオランダ本国は小さい国だから、植民地のほうが圧倒的に大きい。数十倍ある。拠点となるのはジャワ島です。ここに首都がある。ジャカルタがあるところです。ここを拠点にして、1820年代からじわじわと侵略していくんです。ジャワ島中心だったから、この侵略戦争をジャワ戦争という。1825年です。

 そして周りの島々まで占領していく。しかし現地の人も黙ってはいない。島民は抵抗します。しかし殺され鎮圧される。そしてさっき言ったように「ゴムの木だけつくれ」と強制栽培させる。これを強制栽培制度といいます。その結果、ゴムとかコーヒーばかりで、食い物がないから農民は餓死する。それでもおかまいなしです。「オレたちの知ったことか」と。



【イギリス】
【外交】
 一番メインのイギリスはどうか。これが大英帝国になっていく。世界ナンバーワンの植民地を持つようになっていく。イギリスは・・・・・・何回も言うように・・・・・・世界一番乗りで産業革命を達成したからお金持ちです。イギリスの工業力に勝つ国はない。自由に競争させれば勝つんです。
 だから貿易面では自由主義貿易です。「自由に貿易させろ」とは、強いから言えることです。弱い国は自由にされたら負けるから、そんなことは言わない。

 イギリスは自信があるんです。だから南アメリカが「スペインから独立しよう」と言ったとき、イギリス外相のカニングは「独立していいじゃないか」と言った。しかし宗主国のスペインは独立させたくない。スペインは自分の植民地として持っておきたいのですが、イギリスが南アメリカの独立を支持する。
 なぜか。独立させてイギリスが自分の商品を売りつけたいからです。イギリスの市場確保のためです。こうやってイギリスは自信満々で、自由貿易に進んでいく。これが1822年からのカニング外交です。ナポレオン戦争が終わるとすぐに、イギリスはこういう動きをしています。

 これに同調したのがアメリカで、大統領モンローが「アメリカ大陸のことにヨーロッパは干渉するな、自由にさせろ」と言って、1823年モンロー宣言を出します。アメリカはイギリスと同じ動きをします。
 ではイギリスは、ずっと自由貿易だったのか。そんなことはない。イギリスはそれまで100年以上保護貿易だったし、このあとアメリカに追いつかれるとまた保護貿易を主張するんです。



【国内】 ただイギリスは宗教面では開放します。イギリスはプロテスタントの国ですが、カトリック教徒との宗教上の不平等を廃止します。1829年のカトリック教徒解放法です。
 政治面では1832年に選挙権をまず拡大する。金持ちの資本家や社長だけに、ですけど。これが第1回選挙法改正です。1回目の選挙法改正です。まだ一般の労働者や貧しい人は、選挙権はありません。

 また1833年には奴隷制度を廃止します。イギリスにも奴隷がいたのです。でも人道的意識の高まりにより廃止します。このことは後に起こる1861年からのアメリカの南北戦争と関係します。



【イギリスの侵略】 経済面では、1600年代から1700年代初めにかけて、イギリスは経済では自信がなかったから、貿易にいろいろ条件をつけていた。つまり保護貿易をしてきた。穀物は輸入しないとか、小麦は輸入しないとか、輸入する場合は船はイギリス船に限るとか、オランダ船は入らせないとか、いろんな条件つけていた。
 しかし、産業革命後イギリス製品はどこに持って行っても売れると分かったら、急に自由貿易に変わっていきます。保護貿易から自由貿易に転換する。「自由に貿易していいじゃないか」と。でもそれは強くなったから言えることです。これが1840年代のイギリスの動きです。

 さらに強引なことには、「自由貿易をやれ」と他の国にも要求する。「政治・経済」でも言ったように、保護貿易が正しいのか自由貿易が正しいのかは、実は結論は出ていない。正しいかどうか分からないことを、ほかの国にも要求していく。自国の利益のためなら他国の利益を踏みにじる。極端な『イギリス・ファースト』です。

 そして仕舞いには何を売りつけるか。麻薬です。中国にアヘンという麻薬、これを売りつける。「自由貿易だからいいじゃないか、持ってきたから買え」という。当然中国は「イヤだ」という。そこでアヘン戦争という戦争をふっかける、ということになります。この後で。
 イギリスはこうやって、自由という体制を他国に強制していく。もし相手が「ノー」と言ったらすぐ軍事行動をとる。戦争ふっかける。そして植民地にして支配下に置く。ここらへんは教科書にはあまり書かれてないけど、やったことはメチャクチャで非常に暴力的です。

 暴力が良いと言っているわけではないですよ。逆ですよ。「歴史なんてこんなもんだ」と、タカをくくっているわけでもないです。ただこういう人間の歴史があるという事実を言っているだけです。なぜなら歴史は繰り返す可能性があります。人間には悪の一面がある。歴史を見ると「人間は神様でもなんでもない」ということがよく分かります。だから「なるようになる」ではどうにもならないのです。

 インドはすでに植民地化が始まっており、イギリスはマラータ戦争やシク戦争を仕掛けて、支配領域を広げていきます。1817年には、第三次マラータ戦争が起こり、イギリスはインド全域を支配します。ウィーン会議後、イギリスは海外侵略を一段と強化します。

 1824年
、イギリスはマラッカを獲得する。さらにそのインドシナ半島からマレーシア・・・・・・ひょろ長い半島です・・・・・・その先端にある貿易の最重要拠点、シンガポールを獲得する。早い話が奪うんです。ここもイギリス植民地になる。

 インドの東のビルマ・・・・・・今のミャンマーです・・・・・・そこにも戦争をふっかける。1824年、シンガポール獲得と同じ年です。当時はビルマと言っていたからビルマ併合です。1824年から軍隊を派遣している。

 次はアフガニスタンに行きます。アフガニスタンの場所、インドの西隣です。1838年アフガン戦争を起こして、ここを保護国化する。保護国というのは、植民地の一歩手前ですが、実質的には植民地と同じです。保護国というのは強者の言い方です。「保護されてよかった」なんて思わないでください。



【フランス】

【七月革命】 次に、ナポレオンの革命が失敗した後のフランスです。1820年代をとばして1830年代です。1830年にまた革命がフランスで起こる。7月に起こったから七月革命という。

 ナポレオンがセント・ヘレナ島に流されたあとは、フランスにまたブルボン朝の王様が復活した。ナポレオンの後はルイ18世だった。その後、さらにシャルル10世に変わっていた。そこで反動政治が続いた。1830年7月の議会選挙で自由主義者が多数当選すると、シャルル10世は新議会を解散させた。これに対して民衆が反発して蜂起する。「王はダメだ、もう追放だ」と。国王を殺しはしませんが、また追い出してしまう。王はイギリスに亡命します。
 そして「オレたちが王を選ぶんだ」と、別の王家から国民が王を選びなおします。これを七月王政といいます。

 そうやって国王になった新しい王が、ルイ=フィリップです。オルレアン家という王家の一族です。誰がこの王様を支持したか。いわゆるブルジョアジーといわれる都市部の金持ちです。具体的には銀行家です。もっとはっきり言うと、ヨーロッパ最大のお金持ちロスチャイルド家です。こういう金融資本家が絡んでいます。 

 1830年の7月革命のとき、ロスチャイルドはブルボン王朝を見捨て、オルレアン公ルイ・フィリップの支持にまわり、フランスのロスチャイルド家が空前の繁栄を謳歌する「七月王政」の幕を開けさせた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P132)

※ (ルイ・フィリップは)フィリップ・エガリテの子で、父の果たせなかったことを今ややっと果たすことができた。しかもこの革命(1830年の七月革命)もフリーメイソンリーからの贈物であった。・・・・・・ルイ・フィリップもまたフリーメイソンリーを自分の権力のため利用するのみで、彼らが望む自由主義的、共和主義的体制への道を歩もうとはしなかった。・・・・・・フリーメイソンリーを利用するだけだったナポレオン1世が彼らに見離された歴史がここでも繰り返されている。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P144)

※ (1830年の7月革命で)平和が維持されたことによってロスチャイルド家発行の各種公債は再び価格を回復し、五兄弟が一段と大掛かりな融資活動を再開したことはいうまでもない。ロンドンのネイサンの事業は、独立アメリカにまで及んで、ロスチャイルド金融王国の範囲はヨーロッパから新大陸にまで広がっていった。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P85)


 実はのちにスエズ運河をイギリスが買収するためのお金を出したのも、このロスチャイルド家です。こういうことを知っている人からは、「ルイ=フィリップが新しい王といったって、どっちみち銀行屋とか株屋の政権じゃないか」という批判が当初からある。貧乏人には厳しく、お金持ちに有利、そういう政権になっていきます。
 ナポレオンが去った後の王政は、ここで金融資本家に牛耳られる王政に変わった。

※ ウィーン会議後、ヨーロッパで頻発する革命騒ぎは、主として貧しい都市のユダヤ人が中心的役割を果たしました。既存秩序の打破を謳う左翼革命運動の高まりとロスチャイルド家などの国際金融資本家の支配の強化とは不思議に連動しているのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P95)



【イギリスの中国侵略】 そして次には中国の広州に行く。広州には香港があります。そことの貿易を民間会社にやらせるんです。これがジャーディン・マセソン商会といって1832年に設立されます。何を売る会社か。アヘンです。麻薬です。
 翌年の1833年には、それまで貿易の利を独占していたイギリス東インド会社中国貿易独占権が廃止されます。これを見込んで多くのイギリス商社が自由貿易の名のもとに、中国貿易に乗り出します。その中心がジャーディン・マセソン商会です。
 社長のウィリアム・ジャーディンは、1840年のアヘン戦争の時、盛んにイギリス政府にロビー活動を行い、外相のパーマストン・・・・・・彼はのち首相になりますが・・・・・・に対して、軍隊を派遣するよう手紙を出しています。「自分の利益のためなら戦争をも引き起こす」、そういう会社です。この会社の後ろには、イギリスの大金融資本ロスチャイルド家がついています。

 後のことですが、このジャーディン・マセソン商会は幕末の日本にも触手を伸ばします。アヘン取引で儲けて、その約20年後の1859年に社員のトーマス・グラバーが長崎にやって来て、武器を売りつけます。あのグラバー邸のグラバーです。日本に武器を売りつけます。
 ジャーディン・マセソン商会は中国には何をするか、1840年に「アヘンを買わない」といった中国にアヘン戦争をふっかけてまず香港を取る。そして中国に対してアヘンを売りつける。



【ドイツ】 こういう革命の動きが、ドイツにはどうやって現れてくるか。この地域の中心となる国はもともとのドイツの皇帝を出してきたハプスブルク家のオーストリア帝国です。今のオーストリアは小さくなっていますが、この時はまだ大きいです。しかしこの国はだんだん弱っていきます。

 それに対して、新しい勢いで北から攻めてきたドイツの一派、これが・・・・・・ここに飛び地もありますが・・・・・・これがプロイセンです。プロシアと言ったり、プロイセンと言ったりする。
 ドイツの状況は、オーストリアは古くて由緒正しい国ですが、この国はだんだんと弱くなる。それに対してこの新しい北のプロイセンが強くなる。いま強くなっている最中です。さてどちらが主導権を持つか、ということでまた揺れていくんです。

 結論をいうと、ドイツの中心になるのは北のプロイセンです。プロイセンは経済的な統合から始めます。1834年ドイツ関税同盟が成立し、政治統合よりも先に経済的統合が進みます。これによりドイツ内での関税が撤廃されます。オーストリアは当初、この関税同盟から除外されます。

※ 1833年、ビスマルクは困難に直面して財産を失い、激怒していた。ディズレーリを通じて、若き18歳のビスマルクと親交を結んだジェームズ・ロスチャイルドは彼をヨーロッパの未来の「保守系」指導者にしようと考えた。そしてビスマルクは、妹ルヴィーの結婚によって、完全にライオネル・ロスチャイルドの指揮下に入った。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P103)

続く。

新「授業でいえない世界史」 33話の2 19C前半 イギリスの金融支配とアヘン戦争

2019-08-25 09:36:50 | 新世界史12 18C後半~

【金融政策】 1836年アメリカ第二銀行廃止されます。前にも言いましたが、アメリカには、この銀行を通してイギリス資本が入ってきていました。アメリカのジャクソン大統領はそれを嫌った。だから廃止した。するとイギリスが腹を立て、アメリカに貸していた資本が一気に、アメリカから引き上げられた。アメリカからお金がなくなった。

※ (1835年)当時のイギリスは、最大規模の金貨を保有し、アメリカへの貸し付けとアメリカ中央銀行による運用を通して、アメリカの通貨供給を完全に支配していた。そしてそれは取りも直さずロスチャイルド家に握られていたイギリスの金融システムが行っていることであった。 
 (1836年)アメリカ第二銀行の免許更新申請が大統領の拒否権に合うと、アメリカ第二銀行は貸付金全額をただちに回収し、新規貸し出しを停止すると宣言。ロスチャイルドが掌握していたヨーロッパの主要銀行も同時にアメリカに対する貸し渋りをはじめ、アメリカでの通貨の流通量が「人為的」に激減し、最終的には「1837年恐慌」の発生とその後5年の長期にわたる不況につながっていった。(ロスチャイルド、通過強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P67)


 そうすると翌年の1837年、アメリカは一気に恐慌になる。これがアメリカ初の恐慌です。景気がガタッと落ちる。イギリスがアメリカの景気操作をやっているんです。恐慌はこうやって起こっていく。恐慌とは、急に景気がガクッと落ちることです。お金の動きだけでこういうことが起こる。物の動きとは別に起こせます。物をちゃんとつくって、それを買う人がいても、お金の操作だけで景気は落とせます。今の日本で起こっていることとも似ています。 

※ 1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントがアメリカに派遣された。ベルモントは暴落した証券市場で債券や株式を大量に買い集めた。また破産寸前の現地銀行の多くに巨額資金を投入し生き返らせた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P167)


 アメリカ第二銀行が廃止されたあと、ベルモントは中央銀行の役割を果たし、アメリカの銀行業を救った。彼を後ろで支えたロスチャイルドは、「遠隔操作の連邦準備銀行」であった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P167) 



【中国の動揺】
 では中国に行きます。中国侵略のメインはイギリスです。
 1800年代の中国はまだです。中国は、江戸時代の日本と同じで基本は鎖国です。唯一貿易を許可したのは広州だけです。香港はその近くにあります。
 そこには政府系の商人がいる。貿易できるのは、許可をもらった特権商人だけという体制だった。これは日本もいっしょです。多くの東南アジアはこれです。「自由貿易なんかやるものじゃない、国内経済が破壊されるだけだ」、これは保護貿易の考え方です。これには一理あるんです。

 しかしそこにイギリスが自由貿易を強制してきた。「自由に貿易させろ、貿易制限を撤廃しろ」という。それでフランス革命の最中から、イギリス人のマカートニーとか、アマーストという人を交渉に差し向けます。しかし中国は中国で「うちはこういうスタイルでやっている」とちゃんと断る。これが本来の国家というものです。一番大事なことは、自由貿易であれ、保護貿易であれ、それをどちらにするかは、それぞれの国家が決めることです。

 イギリス人が欲しがったのは、おいしいお茶です。イギリスはこれが欲しかった。ではイギリスの綿製品はというと、中国人は「要らない」という。中国人は昔から木綿をつくっている。生糸もつくっている。2000年前からつくっています。
 ということは、イギリスは売るものがないから、輸入超過で貿易赤字です。するとイギリスからお金が流出する。イギリスはお金が惜しいんです。流出させたくないんですよ。この時には銀です。アジアは銀です。

 前にも言ったように、イギリス人が買ったお茶は中国人にとっては、下級のお茶だった。それを「おいしい、おいしい」とイギリス人は飲んで「砂糖入れたらもっとおいしい」という。これが紅茶です。紅茶はイギリス人の飲み物です。これはお茶が安くてまずいお茶だったからです。
 紅茶に入れる砂糖はアメリカ大陸でつくっています。黒人奴隷によって。これでイギリスの貿易商人は儲けている。その砂糖をお茶に入れます。

 ただ対中国貿易は赤字です。イギリスから銀が流出する。この銀がもったいない。
 だから・・・・・・インドはイギリスの植民地です・・・・・・そのインドに何をつくらせるか。これがアヘンです。つまり麻薬を作らせる。麻薬取引というと、なにかヤクザの三流ドラマみたいですが、実は今も南米あたりに生産地がある。日本の新聞はちょこっとベタ記事ぐらいでしか報道しないけど、かなり危ない麻薬代金の流入は今でもある。
 イギリスは、銀の代わりに「そのインドのアヘンを中国に売ればいいじゃないか」と言う。その会社が1832年に広州にできたジャーディン・マセソン商会です。アヘンを密売するイギリスの会社です。

 この結果、中国は今まで貿易黒字だったのに、アヘン輸入が急増する。すると中国はアヘン中毒者ばかりになって、「もっとアヘンだ、もっとアヘンだ」となる。アヘンは人間の理性を奪うから、吸い出したらやめられない。するとアヘンは高価になって吊り上がり、逆に中国はアヘンの輸入で輸入超過になり、清から銀が流出するようになる。中国経済は大混乱です。
 これがアジア三角貿易の実体です。イギリスは中国からお茶を輸入する。その代わりにイギリスはインドにつくらせたアヘン、つまり麻薬を中国に輸出する。これでイギリスが貿易黒字になる。これは犯罪まがいで、まともな貿易じゃないです。

※ インドと清の間の貿易は東インド会社に独占されてきましたが、自由貿易の風潮の高まりの中で、1813年に茶を除く東アジア貿易の独占権が放棄され、1833年にはその商業活動が全面的に停止されてアヘン貿易が地方商人に委ねられることになりました。東インド会社が専売制の下で栽培したアヘンの販売権を得て莫大な富を築いた人物が、1831年にバグダードからインドのボンベい(現在のムンバイ)に移住してサッスーン商会を設立した、セファルディウム系のユダヤ人で、オスマン帝国の政商だったデビッド・サッスーンです。サッスーンは、ボンベイにサッスーン商会を設立し、ベンガル地方で東インド会社が大量に栽培したアヘンを清に輸出して巨利をあげました。サッスーン商会はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設ける大会社になります。
他方、コットランド人のジャーディン・マセソン商会、デント商会などもアヘン貿易に乗り出しました。・・・・・・元東インド会社の船医のウィリアム・ジャーディンとカルカッタの貿易商だったジェームズ・マセソンが1832年にマカオで設立したジャーディン・マセソン商会は、ベンガル地方で栽培させたアヘンの販売と中国紅茶のイギリスへの輸出で大儲けし、1860年代になると東インド会社を引き継ぐ大商社に成長しました。ジャーディン・マセソン商会の預金と送金の目的で作られた銀行が、今も資産額で世界第5位のイギリスの HSBC (香港上海銀行)です。ジャーディン・マセソン商会はアヘン戦争後の香港で土地を買いあさり、経営を多角化して醸造業、紡績、保険、海運、鉄道などにも乗り出し、一大コンツェルンとして成長しました。
また21歳で来日して幕末の長崎で活躍したスコットランド人の貿易商人トーマス・ブレイク・グラバーが率いるグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店でした。グラバーは1861年の商会設立から70年に倒産するまでの10年間に貿易商として活躍し、後になると「三菱」財閥となる土佐の岩崎一族を助けてキリンビールや長崎造船所の創設、高島炭鉱の開発などに尽力しています。坂本龍馬の海援隊もグラバー商会から南北戦争で北軍が使った中古のライフルを購入して長州の大村益次郎に売りさばき、薩長を勝利に導きました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P211)

※ イギリスの第3段階の収奪として、奴隷三角貿易の衰退とともに、19世紀にイギリスはインドのアヘンと中国のお茶を結びつける三角貿易を始めます。イギリスで喫茶の習慣が拡がり、イギリスは中国のお茶を求め、銀で支払いをしていました。そのため、イギリスは輸入超過状態となり、銀の流出が止まりませんでした。そこでイギリスは銀の代わりにインド産のアヘンを中国に輸出し、茶を中国から得ました。
  ジャーディン・マセソン商会などの貿易商がアヘンの中国への輸出を担当し、大きな利益を上げて、逆に中国側の銀が流出しはじめました。ジャーディン・マセソン商会は1832年に、マカオで設立されて、イギリス東インド会社の別働隊のような役割を担った民間商社で、アヘン貿易を取り仕切ります。
 アヘン戦争の開戦に際し、ジャーディン・マセソン商会は議員に対するロビー活動で多額のカネをばらまき、反対派議員を寝返らせます。
 ジャーディン・マセソン商会は、アヘン戦争でイギリスが占領した香港に本店を移し、さらに上海にも支店を開き、中国市場に進出します。
 ジャーディン・マセソン商会は、清朝政府に対して借款を行い、清崩壊後も鉄道の敷設権や営業権などを得て、莫大な利益を上げていきます。今日でも、ジャーディン・マセソン商会は国際的な複合企業です。
  アヘン戦争後、香港上海銀行が設立されます。香港上海銀行はジャーディン・マセソン商会をはじめ、サッスーン商会などのアヘン貿易商社の資金融通や、送金業務を請け負いました。香港上海銀行は香港で、アヘン戦争以降、今日まで続く通貨の発行もおこない、中国の金融を握ります。
  このようにイギリスの覇権は奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラッグ・ディーラーなどによって形成されたものであり、その犯罪的かつ反社会的な手法なくして、持続可能なものでなかったことは明白です。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明しています。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 182)



【アヘン戦争】 これが原因で、悪名高い戦争が起こる。1840年アヘン戦争です。中国にアヘンがはいってくる。麻薬中毒患者を減らさないといけない。政府は「おまえ、アヘンの密輸入をやめさせてこい」と言って、役人を派遣する。これが林則徐です。

 アヘン貿易は実は密貿易です。政府は認めていない。密貿易だから当然、密貿易品を没収する。ある教科書には、中国がアヘンの自由貿易を断ったからアヘン戦争が起こったように書いてありますが、密貿易を取り締まることは国家として正しいことです。ましてそれはアヘンという麻薬です。密貿易品を見つけた国が、「これは密貿易品だから」と没収する。これは当然のことです。
 しかしイギリスは「没収された、どうしてくれるんだ」と言いがかりをつけ腹を立てる。それで戦争をふっかける。戦争まで持っていったら、イギリスは「しめしめ」です。それでイギリスは勝つんです。清は負けた。するとどこまでもしゃぶられる。

 2年後に条約を結ばされる。それが1842年の南京条約です。イギリスは「中国の鎖国体制がよくない、自由貿易をしろ、一つの貿易港ではダメだ、5つの港を開け」という。これは、そのあと1853年にアメリカのペリーが日本に来たときも同じです。
 その港に選ばれたのが、まず上海です。この時まではそんなに大きい都市ではない。そこから150年経って、今人口2000万人、東京の2倍、中国最大の都市です。

※ アヘン戦争後に清が上海に租界の設立を認めると、サッスーンは直ちに拠点を上海に移して事業を拡張しました。同社は、イングランド銀行、HSBC(香港上海銀行)を親銀行とし、ロスチャイルド家とも血縁関係を結んでロスチャイルドの東アジア代理人として資金を確保し、三代で金融、不動産、建設、交通、食品、機械製造を傘下に収める大財閥を築き上げます。・・・・・・現在、上海の観光名所となっている和平飯店は、かつてはサッスーン財閥の拠点のサッスーン・ハウスでした。サッスーン財閥は、上海の租界の買弁(外国人の商取引を請け負った中国商人)から身を起こして中国最大の金融資本に成長した浙江(せっこう)財閥とも協力関係にありました。浙江財閥の中でも最大とされた宋氏一族は、キリスト教の牧師だった宋嘉樹が創始者ですが、サッスーンやロスチャイルドなどのユダヤ資本と密接な関係を築き、政治に大きな影響力を発揮しました。宗家の3人の美人姉妹はいずれも国民党の要人と結婚し、中国現代史に大きな影響をおよぼしています。宋慶齢と結婚した孫文や宋美麗と結婚した蒋介石は、1920年代以降の国民党を中心とする民族運動のリーダーとして活躍しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P211)


 それから、広州の近くにあった島、これを香港島といいますが、「これもらうよ」という。これでイギリスのものになる。やっと返還されたのはほんの20年前の1997年です。それまでずっとイギリスものでした。だから今も香港は中国の火種です。
 そのあとは不平等条約です。日本も同じことをされます。


アヘン戦争の概略を説明する



 不平等条約とはまず一番目に、関税を自由にかけられない。つまり関税自主権がない。輸入品には輸入する国が自由に関税をかけるのが当然なのにです。
 アメリカのトランプ大統領は、いま非常に批判的に報道されているけど、トランプが保護貿易を主張しているのは、そういう意味では理にかなっている。「アメリカの国内産業を守るために、受け入れるアメリカが国の権限でもって関税をかける」と言っている。これは保護貿易として正しいのです。

 今の自由貿易体制を基準にすれば、それに反するから賛否両論あるのですが、自由貿易を強調するんだったら、同じように保護貿易についても説明しないと正しく理解されない。トランプ発言が変に伝わるんじゃないか、と個人的には気がかりなんですけどね。自由貿易と保護貿易は、双方に利点と欠点があり、どちらが正しいというものではありません。そういう中でトランプは保護貿易を主張している。問題があるとすれば、その保護貿易が対等な保護貿易であるかどうかです。
 ただトランプの発言には、いろいろ悪いところもあるけど、この貿易に関しては、きちっと報道していない。日本のマスコミは相変わらず自由貿易一辺倒です。

 イギリスは自由貿易のスローガンを掲げながら、アジア諸国や南米諸国の関税自主権を奪い、3%から5%の低率関税で製品を輸出できる「経済空間」を地球規模で広げました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P213)


 二番目に、犯罪を犯したイギリス人は罪に問われない。これが領事裁判権または治外法権です。言い方が二つありますが、どちらも同じことです。これも誤解している人が多い。
 シンガポールは唾吐いただけで罰金10万円です。シンガポールに行った日本人が道に唾吐いて、タバコのポイ捨てして、罰金10万円取られる。これは取られて当然です。その国のルールだから。「オレは日本人だから取られない」とか、「シンガポール人じゃないから関係ない」とかいうのは、とんでもないです。そんなことしたら日本に来ている外国人は、犯罪しほうだいになる。何してもよくなる。

 そんなことができるのは日本にいる在日米軍ぐらいのものでしょう。沖縄で婦女暴行しても、日本の警察には渡されずに、翌日スルッとアメリカに帰っていく。そんなことを許したら国内は犯罪だらけです。現地で起こった犯罪は、現地の政府が現地のルールで対処する。そのことと犯人の国籍とは関係ない。それが国際ルールです。
 しかし領事裁判権とは、これができないことです。領事というのは日本にいるイギリス人です。「おまえ何したんだ、捕まる前に早く国に帰れ」と言って本国に返すから実質的には無罪になります。そういうことは幕末の日本もやられます。そういうことを押しつけられていく。




 【中央銀行】 イギリスは独特な金融体制を持っています。民間の中央銀行を持っています。これをイングランド銀行といいます。詳しくは「政治・経済」でしか言えないようなことです。高校の歴史の範囲を超えるかなと思いますが、1844年にイングランド銀行が発行する紙幣を正式のお金にします。正式にイギリス政府が、紙幣を国のお金だとお墨付きを与えた。つまりイングランド銀行券が正式な通貨になる。

 イングランド銀行券とは、日本でいえば1万円札です。日本の1万円札の正式な名前は「日本銀行券」です。考え方はそれといっしょです。1万円札は「日本国紙幣」ではないですよ。政府がお金を発行するのではありません。政府とは別の民間の銀行がお金を発行しているのです。これをのちの日本の明治政府は真似していきます。 
 その証拠には、日本銀行の株式は東京証券取引所に上場されています。お金さえあれば誰だって日本銀行の株が買えて、株主になれます。このことは日本銀行が政府の組織ではないということです。政府の公的組織であればいかなる権利もお金で売買することはできません。

 1844年英国ピール条例が制定され、イングランド銀行以外の銀行によるし発行業務が禁止、金本位制が確立し、イングランド銀行世界で最初の近代的中央銀行となります。このピール条例を制定するように英国議会へ働きかけたのがライオネル・ロスチャイルドでした。(金融のいくみは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P122)

 イングランド銀行の設立認許状は1844年までに8回修正されているが、後半の修正には間違いなくロスチャイルド一族が関係している。とりわけ、大幅な変化をもたらした「ピール修正案」はロスチャイルド一族の銀行に多大な便宜をはかるものでしかなかった。「ピール修正案」は1844年に採択された。その直接的結果として、それまで全ての国(大昔から銀を 通貨として使用していた国家も含まれる)で通貨として流通していた銀が廃止された。戦争債が金(キン)で返されることをロスチャイルド家が望んだためだ。これは、銀による南北戦争の戦債の返済の受け取りを彼らが拒否し、アメリカ政府に対して金(キン)による支払いを求めたときに明らかとなった事実である。ピール修正案はそうした事柄を予見し、明確に言えば、次に起きることのために打った布石だった。この修正案も英国による金(キン)の独占に貢献した。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P250)

 銀の蓄積が乏しいイギリスのアジアへの経済進出は、銀本位制金本位制に変え、金との引換証のポンド紙幣を流通させることにより実現されました。ロスチャイルドは、カリフォルニア、オーストラリアなどの一連のゴールドラッシュを巧みに利用して「黄金が無限であるという幻想」を振り捲き、金本位制への転換をなしとげ、金の「引換証」のポンドを世界の決済通貨にすることに成功します。それは、イギリス商人にとっても、ポンド紙幣の発行に携わっていたユダヤ人にとっても決定的な勝利になりました。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P184)

 イギリスの商人、金融業者は、世界の基軸通貨がアジアの通貨である銀貨からイギリスのポンド金貨に転換したことにより大きな利益を得ました。大量のポンド紙幣を使うことが可能になったからです。それこそが、イギリス経済とアジア経済の大逆転が劇的に進んだ理由になります。19世紀初頭までの世界経済では、オスマン帝国、ムガル帝国、清帝国などのアジアの大帝国が、圧倒的な優位を誇っていました。
その際に巧みに利用されたのが、新大陸やオーストラリアで一時的に大量に掘り出された金が無尽蔵であるとする巧みな「宣伝」でした。イギリスは、金融の専門家のロスチャイルド家の金融操作もあって基軸通貨を銀貨から金貨に大転換することに成功し、アジア諸帝国の経済を切り崩したのです。(商業から読み解く新世界史 宮崎正勝 原書房 P206)

 銀行設立認許状の修正を提案したのはロバート・ピール卿だが、発案者はライオネル・ロスチャイルドその人であり、仲介者は彼の「側使え」ベンジャミン・ディズレーリだった。ディズレーリはかつてナポレオン1世がライオネルの先祖に作り上げられたように、ライオネルによって英国首相として名声ある人物に作られた。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P256)



【株式会社】 また1844年には・・・・・・意外に思うかもしれませんが・・・・・・イギリスで株式会社の設立が許可されます。株式会社があるのは当たり前みたいですが、ここで初めて「株式会社をつくってよい」となる。株式会社は100年間禁止されていた。
 なぜだか覚えていますか。約100年前の1720年に南海泡沫事件というバブルが起こりました。南海会社の株が急速に10倍に上がったり、10分の1に下がったりして、「株式会社は危険だ」とみんなが思った。こういうことが100年前にあって株式会社は禁止されていたんです。しかしこの1844年から株式会社がオーケーになる。今では会社といえば株式会社ですが、もともとは非常に危険なものだったのです。

 ではなぜ株式会社が広まったのか。会社を作るためのお金を集めるのに非常に便利だからです。株を発行してその「株を買って」と頼めば、見知らぬ人からでもお金を集められる。これが株式です。株式は一種の証券です。ということは証券さえ売ることができれば、株式会社が設立できるということです。それは証券販売業者が力をもつということです。彼らが金融資本家です。その中心にユダヤ人の金融業者がいます。イギリス経済の中心がそれまでの産業資本家から金融資本家に変わっていきます。

 しかも会社が借金して倒産した場合、株主はその借金返済の義務から逃れられる。つまり借金を返さなくていい。責任が免除されます。これが「政治・経済」的にいうと「有限責任」ということです。株主にとって非常に都合がいいのです。だからもうけを狙って、無責任に株を買う人がいっぱい出てきます。そしてそのことがバブルの温床になります。

 1844 イギリスの共同出資法・・・・・・自由な株式会社設立可

 1856 イギリスの株式会社法・・・・・・株主の有限責任が一般化

 会社創設業とは、株式と社債の発行、販売を目的とし、「債券と株式を大規模に発行し、それを大衆に押しつけることにより、利益を生みだすことを公然の業務とする」商社によって運営される。(クランプ)・・・・・・会社創設事業の起源も、同様に闇に包まれている。私の見るかぎり、会社創設事業の歴史のなかで最初に目立った点として、ここでもロスチャイルド家の活動が浮かびあがる。採算のとれる会社創設事業を最初につくりだしたか、もしくは可能にした包括的な活動は、どうやら鉄道が建設されようとしていた頃、つまり1830年代以降にはじまったと思われる。・・・・・・だが、ロスチャイルド時代以来、数十年にわたって会社創設事業は文字どおりユダヤ商人の特殊分野の域を出なかった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P170)



【銀行制度】 それから1848年というのも要注意です。銀行制度についてです。銀行は人のふんどしで相撲を取っている組織です。
 どういうことか。私が銀行に預けた100万円は銀行にありはしない。銀行はそのお金を他人に貸しています。例えば私がマンガ本をa君に貸して、それをa君が私に黙ってb君に貸したら、私は腹を立てますよね。これが良いのか悪いのかというのは、ずっと論争があった。それを政府が「いいよ」と言った。借りた以上は、借りた人が勝手にしていい。
 私  →  a  →  b
 「エッ、そんなバカな」と思いませんか。これが法的に決着ついた。「それでいい」となった。だから今の銀行は全部、人から預かったお金を他人に貸している。私は今でもそれでいいのかなと思う。私がa君に貸したものを、a君が勝手にb君に貸して貸し賃を取ったら、私は腹を立てるけどな。でも今は法的にそれていいことになっています。こんな制度がイギリスから発生します。
 だからめったに人にモノを貸すもんじゃない。貸したら最後、それを「又貸し」されても文句は言えなくなっています。日本ではそういう人はめったにいないけどね。でも銀行は100年以上前からそういうことを当たり前にやっています。

 こういうのを難しくいうと、「銀行の部分準備制度」が認められた、といいます。支払いのための部分的なお金さえ用意していれば、銀行はあとのお金をどうしたってかまわないということです。
 ということは、今まで各家のタンスの中に眠っていたお金を一手に集めて、そのお金を貸す権利を手に入れたということです。お金が欲しい人はいっぱいいます。お金を貸す力を持っている人は、巨大な力を手に入れます。これが金融資本です。

※(筆者注) 1848年イギリスの裁判「フォーリー対ヒルおよび数人」では、次のような有名な判例があります。
「預金者が自分のお金を銀行に預けた瞬間からそのお金は預金者の所有でなくなる。・・・・・・銀行家は、あらゆる意味において、銀行に預けられて銀行家に管理を託されたお金を保有し、随意に処理する権利を有する」(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P315)
 ここには裁判さえ左右するほどの強力な金融資本家の圧力が働いていたとみるべきでしょう。そうでなければこんな常識はずれの判決が出るわけがありません。これは国民の財産権に対する深刻な侵害です。この財産権の侵害のもとで金融資本家が絶大な力を得ていきます。そしてそれが世界史を動かすほどの力になります。


 最初は、銀行も人のお金をちゃんと預かって保管していた。しかし、400年前の1600年代、イギリスでそれを勝手に他人に貸し始めたんです。人のお金を勝手に貸し出して、勝手に利息を取りだした。すると預けた人は当然、腹を立てた。これが良いのか悪いのか、裁判に訴えて、200年間、裁判がずっと続いたんです。なかなか決着が付かずに、1848年やっと裁判で決着が付いた。そして、これがオーケーになった。不思議なことです。

 これは逆に言うと、人から貸してと言われて貸した以上は、例えば私のクルマをちょっと貸してといわれて、いいよと貸すよ、と言えば、それがタダであろうが、料金とろうが、貸した以上は、私は貸した人に他人に貸すなと言えない。借りた以上はオレの勝手だ、というのが正しくなった。
 A  →  銀行  →  B
 この論理の上に銀行業は成り立っています。銀行がBさんに貸し付けたお金は自分の金じゃない、Aさんの金です。だから銀行は、人の金で相撲をとってる、人のふんどしで相撲を取ってる、と言われる。それは理屈としてはその通りです。人から集めた金を転貸し、又貸ししている。これでよかったら、このBさんだって、また別のCさんに貸し出していいことになる。こういう連鎖をストップできなくなる。これを認めたかぎり、延々と続いていく。

 最初に銀行に預けたのはAさんです。彼が銀行にお金を預けた。これは預金ですね。そしてそのお金を預かった銀行は、歴史的には無断でBさんに貸し出しました。400年前のイギリスの金貸し業者は、これをAさんに無断でやる。ここらへんが日本の歴史と違う。日本にも金貸しはいました。しかし日本の金貸しは、自分の金を人に貸し付けていたんです。しかしイギリスでは、彼らは自分の金ではなく、人から預かったお金を貸しつけた。ここが違う。金貸しがいたのは同じでも。それで人から預かったお金を、別の人に貸し出す。お金の流れは、AさんからBさんに流れて、それが直接流れたら、上の直接金融になるけれども、そこに銀行が介在して中間利益を取る。



【フランスの二月革命】 そんななかで革命の動きがヨーロッパに流行っていく。1848年、またフランスで革命が起こる。これを2月に起こったから二月革命という。
 イギリスに比べるとフランスの産業革命は、遅ればせながらも進んでいた。それにつれてお金持ちがますます肥え太っていった。そうすると庶民は・・・・・・まだ全員に選挙権が行き渡ってないから・・・・・・「俺たちにも選挙権をくれ」という運動を起こしていく。

 パリ市民がまた暴力に訴え決起する。パリを中心にバリケードを築いて市街戦を戦う。これを鎮圧できずに、王様は政権を投げだしてイギリスに亡命する。投げ出すのは簡単ですが、ではどうやってこの荒れたフランスを立ち直らせるか。

※ 1848年の革命の主役もまたメイソンであった。それゆえ革命臨時政府の要人には多くのメイソンが混じっていた。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P145)


 もう王はいないから臨時に第二共和制・・・・・・王がいない政治のことを共和制といいます・・・・・・これが成立するんです。またフランスに王がいなくなったんです。
 このあとのリーダーは誰か。ナポレオンは負けたとはいえ、フランス人はナポレオンが好きなんです。国民の英雄です。ただ彼には息子がいなかった。いや、二番目の妻のマリー=ルイーズが産んだ子供が一人いましたがすでに亡くなっています。でもナポレオンの弟の息子がいた。ナポレオンの甥っ子のルイ・ナポレオンです。彼に人気が集まる。 

※ ルイ・ ナポレオンは、ナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌが前夫との間にもうけた娘オルタンスが、オランダ王のナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと結婚し産んだ子供です。


 1848年に、このナポレオンの甥っ子のルイ・ナポレオン、彼が選挙で勝つんです。そして大統領になる。大統領になると、次は王様になりたい。

※ ルイ・ナポレオンはナポレオン・ボナパルトの甥で、ロスチャイルド家がかつてイギリスやオーストリア側について偉大なる叔父に不利を働いたことを知っていた。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P89)

※ ナポレオン3世はペレール家とフールド家の支援を得て大統領になった。・・・・・・一方、彼と ロスチャイルド家との関係は良好とは言えなかった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P137)

※ (フランスの2月革命を支持した)フールド家ペレール家は連携して動産信用銀行を創設したが、これはロスチャイルド家にとってかなり手ごわい競争相手になった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P131)


 そして4年後の1852年に彼は皇帝になります。そして名前をナポレオンにあやかってナポレオン3世と名乗る。また王様がいる政治に戻る。これを第二帝政といいます。非常にフランス革命というのは複雑です。あっちに行ったりこっちに行ったり、右往左往です。水に漂う浮き草のごとく揺れていく。
 だからこのあとフランスが歴史の中心になることはありません。何回も言うように中心になるのはイギリスです。

※ 彼(ナポレオン三世)はルイ・ボナパルトの息子ではないらしい。彼(シャルル・ルイ)と兄ルイは若い頃、イタリアでフリーメイソンリーに似た秘密結社カルボナリに入った。彼はそのときマッチーニ自身の手でこれに加入している。兄ルイは反教皇運動への参加を拒んでカルボナリによって殺されたらしい。こんなことがあって恐くなり、シャルル・ルイは亡命先のイタリアからロンドンへ、そしてボナパルト党の占拠地スイスへと逃亡した。彼はここでイエズス会と接触し・・・・・・メイソンになったらしい。イエズス会との接触は、彼を王位につけようとする教皇との関係を推察させる。このように教皇と教会(イエズス会)と人民を後楯にするという「現実路線」で、1848年12月10日、フランス共和国の大統領となり、1851年12月2日のクーデターを経て遂に翌年12月には皇帝となった。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P146



【ウィーン体制の崩壊】 では1848年のフランスの二月革命の後、ヨーロッパのその他の地域はどうなるか。二月革命の影響でヨーロッパ各地で反乱が起こる。

 まずオーストリアです。同じ年1848年の3月です。暴動が起こって、オーストリアのメッテルニヒは国外逃亡する。こうやってオーストリアは弱くなる。

 イタリアはどうか。マッツィーニという人が、今でいう政党・・・・・・政治結社ですけど・・・・・・青年イタリアというのを作ります。これはちょっとブラックなんです。その前にイタリアにあったのは、カルボナリ党という。これは非合法的な秘密結社だった。その影響がどうもある。だからこの人の動きはポイントのところがよくわからない。この動きの中で、ローマ共和国というものが瞬間的にできる。でもその瞬間にフランスが介入して崩壊する。これが1849年です。だからイタリアの統一はこのあと10年遅れます。


続く。


新「授業でいえない世界史」 33話の3 19C半ば イギリスの侵略

2019-08-25 09:36:15 | 新世界史12 18C後半~
【対外侵略】 実はこういうふうに世の中のルールが変わりだしたのは1840年代です。当時の一番の国家は、アメリカじゃない、イギリスです。大英帝国といって。いくつも植民地を持っているんです。

 イギリスはどこを侵略し始めたか。中国です。中国に麻薬を売りつけて、がっぽり稼いでいく。これは教科書に載ってます。
・1840年、イギリスが中国に麻薬売りつけて、戦争をふっかけた。中国は、買わないと言った。すると、なんで買わないのか、といって戦争ふっかけていった。これがアヘン戦争です。こうやって世の中が暴力的になり始めたんです。
・その4年後の1844年には、イギリスで共同出資法がつくられて、それまで禁止されていた株式会社の設立がオーケーになった。

・中国では1851年から太平天国の乱が起こります。
その最中の1853年、日本にもアメリカが大砲むけてやってきます。江戸湾の浦賀に。これがペリーです。ペリー来航です。そのとき江戸幕府は、まだしっかりしてたんですけど、そのあと急速に10年で倒れていく。
・同年の1853年にはクリミア戦争が起こり、イギリスはロシアと対立します。
・3年後の1856年にはイギリスは中国に対してアロー戦争を起こします。中国との2回目の戦争です。第2次アヘン戦争ともいいます。これによってアヘン取引は拡大します。中国は麻薬中毒者だらけになっていく。
・この1856年には、イギリスは株式会社法を制定し、株主の有限責任が一般化し、株式会社が急速に広まっていきます。
・翌年の1857年にはインド大反乱が起こります。イギリスは、これを鎮圧してインドを正式に植民地にします。
・翌1858年にはそれまで貿易を独占していた東インド会社が解散されます。これにより自由貿易の名のもとに、イギリスの民間会社がどんどんインドに乗り込んできます。
・翌1859年にはイギリス商人グラバーが長崎に拠点を構えます。

・その2年後の1861年にはアメリカで南北戦争が起こり、イギリスはアメリカ北部と対立します。
・そして1860年代にはイギリスで株式会社設立のブームが起こります。
 このようにイギリスは毎年のように戦争を起こしています。
 この頃のイギリスはパーマストン内閣(第一次1855~58、第二次1859~65)です。パーマストンはアヘン戦争を起こした時のイギリスの外務大臣です。(この内閣については教科書はほとんど触れていません)

 こういった時代に、どうもお金のルールまで変わっていくんです。イギリスは小さな国です。人口は日本の半分しかいない。しかしイギリスは中国相手に、インド相手に、いろんなところで戦争を起こす。でも戦争のお金がどこからでてきたのか、よく分からない。歴史の本には、人のことは書いてあるけど、お金のことが書いてないんです。お金がたいそう必要だったはずです。100万円が1000万円になれば戦争は戦える。ちょうど世界の金融が大きく動いた頃です。イギリスの自由貿易は、「お金 → 戦争 → 自由貿易」という流れになっているようです。

 有価証券発行に対する株式原理の適用、もしくは、私なりの言葉でいえば、発券業と会社創設事業の具体化は、その重要性をいくら強調しても、したりないくらい、その頃の資本主義発展の一時期を画していた。・・・・・・厳密な意味での主要創設時代は・・・・・・投機銀行なくしては考えられない。鉄道建設という巨大事業は、ひとえに大会社創設銀行の仲介なくしては成就されなかった。かりに1830年代、40年代に個人企業が大事業を達成したとしても、大銀行が成し遂げたものには及ぶべくもなかった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P174)

 この時期(1848年から1870年まで)に行われた、わが国(ドイツ)の超大事業は、すべて銀行の仲介によって成し遂げられた。・・・・・・一面では、大資本家が巨大株式銀行に集結することによって、新たな企業を生みだす作戦基地が、もちろん著しく拡張された。さらに、この作戦基地は、(わが国のように)創設銀行が預金銀行に上乗せされたとき、とどまるところなく拡大された。他方、たえざる会社創設への欲求が、株式会社が個人企業を上まわって精力的に活動を望むのに応じて、高まった。高い利益配当を手中にする必然性は、個人起業家のたんなる利潤追求以上にさけられなくなった。株式会社が株式会社によって生み出されるようになったとき、同時代の人々がこの重大かつ深刻な事態を、自ら体験したさい、いかにそれを重要であると感じたかは、この新しい事業が熱狂的に賛美されたことからもはっきりする。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P174)

 投機銀行において、資本主義の発展がひとまず最高潮に達した。投機銀行によって、経済生活の商業化が行きつくところまで行きついた。証券取引所の機構が完成したのである。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P179)

 際限のない果てしない利潤追求は、トマス・アクィナスの経済哲学が依然として少なくとも公式には人々の心情を支配していたように、この時代を通じて大部分の経済人には、許されざるもの、「非キリスト教的なるもの」と見なされていた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P193)

 1848年、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を行う。マルクスはドイツ系のユダヤ人です。共産党員の大半はユダヤ人が占めていた。(マリンズ)

 1849年ビスマルクロスチャイルドの支援を得て、第2プロシア議会の議員となる。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P157)


 一気に50年いきましたが、フランス革命からその後の約50年間で、こういうイギリスの動きがあるということです。教科書には、このようなイギリスの動きはほとんど書いてないか、分散して書かれており、とても分かりにくくなっています。

 産業革命以降、イギリスは工業製品を大量に輸出し、利益を得たとする俗説がありますが、イギリスの貿易収支は常に赤字です。イギリスは、海外金融業や海外投資収益などの貿易外収支で稼ぎ、貿易収支の赤字を補っていました。
 以上の点から、イギリスを覇権国家に押し上げた主要な原因は、産業革命による生産力拡大でないことは明らかです。イギリスが他国よりも優位に立つことができた根本的な原因は、他国がマネのできない独自の収益構造を形成することができたからです。その方法はかつてのスペイン、オランダにさえなかった悪辣なものでした。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P178)


 これで終わります。ではまた。